2018/05/06(日)駿河・伊豆・相模にいた朝倉氏

今川・後北条の家中に存在した朝倉氏はどこから来たか

名字からいって、斯波家守護代だった朝倉氏からの分流なのは確実だと思われる。

1549(天文18)年9月18日の朝倉氏像銘(戦北355)によると、北条氏綱の次男である為昌の室は朝倉氏の出身で「彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉」と書かれる養勝院殿。この縁で、初期の玉縄衆として朝倉氏が活躍している。

もう1つ、朝倉義景と後北条氏が直接交流した書状が残されている。これは相模海蔵寺住持が越前永平寺を訪れた際のもの(戦北4561)。しかし、氏康・氏政父子に次いで名が出たのは「松田殿・中村殿」であり、同族としての繋がりは見られない。

下山治久氏による朝倉氏出自の説明

一貫して、今川氏親の被官だった人物が、後北条家に来たという説明になっている。石巻・関・福島といった、今川被官からの転出集団に帰属すると考えているようだ。

『北条早雲と家臣団』(下山治久)p169

朝倉氏は、もと今川氏親の家臣で、早雲に仕えたのち、朝倉氏の娘が為昌の室になったために、氏綱の側近から為昌の側近家臣になった人である。

『家臣団人名辞典』p11 朝倉氏項

越前国の守護職朝倉義景から朝倉景徳を通して相模国海蔵寺に年未詳八月八日朝倉景徳書状写(相州文書・4561)が来ており、朝倉氏と北条氏が近しい関係にあることを示している。『寛政譜』巻六六六~七に朝倉氏系図を載せ、越前国守護職の朝倉敏景の次男秀景の嫡男玄景が伯父氏景と不和になり、玄景は駿河国の今川氏親の許に行き天文二年十一月に死去した。その一族が北条氏に仕えたものと思われ、朝倉播磨守某が伊勢宗瑞に仕えたと推定される。

初めて朝倉氏が登場する文書を比較

後北条側では、享禄4年という早い段階で既に、朝倉右京が祖父「古播磨」の小田原香林寺寄進に言及しており、伊勢盛時と同時に相模入りしたか、もしくはそれ以前により早く小田原にいた可能性すらある。

それに対して、今川側では天文17年とかなり後での登場。駿河長津俣の所領を、破産した浦田又三郎から買い取ったところから始まる。待遇にしても、当主次男に嫁いだ後北条側と比較すると、かなり低いところに見える。

後北条氏での初出

1531(享禄4)年12月5日

香林寺開山以来祖父古播磨代寄進申分。拾貫文、西谷畠、大窪分。壱貫弐百文、南面田、同分施餓鬼免。弐貫四百文、織殿小路、同分本尊仏供免。壱貫弐百文、城下屋敷一間、古播磨同霊供。以上拾四貫文八百文。右、前ゝ寄進分書立、進之候、仍如件、
辛卯十二月五日/朝倉右京(花押)/香林寺御納所

  • 戦国遺文後北条氏編0098「朝倉右京寄進書立写」(相州文書所収足柄下郡香林寺文書)

今川氏での初出

1548(天文17)年11月24日

駿河国中河内長津俣五ヶ村預職之事。右、去年補任于浦田又三郎之処、借物過分之条、依困窮売渡于朝倉弥三郎云々、然者、任証文之旨、彼職如先例可取沙汰之旨、所令領掌如件、
天文十七十一月廿四日/治部大輔(花押影)/朝倉弥三郎殿

  • 戦国遺文今川氏編0881「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

とりあえずの推測

武蔵遠山氏が堀越の足利政知配下から伊勢盛時に合流したと推測されているように、朝倉氏も堀越からの合流組ではないか。

足利政知は、関東へ入るために斯波氏の援軍を計画していた時期がある。この時に斯波家の守護代である甲斐・朝倉の両氏が関係しているのは確実なので、その時期に朝倉氏が一族の誰かを伊豆に置いた可能性がある。これが1460(寛正元)年頃で、この直後に斯波家は大規模な御家騒動に見舞われている。この騒動に紛れたり、時間が経ち過ぎたりで越前との関係性が途切れたのではないか。

また、文書として登場順からすれば後北条に最初に仕え、その後に駿河へ進出したように見える。

2018/05/05(土)海蔵寺の伝馬

海蔵寺はどこへ向かったのか

『戦国大名の印章』(相田二郎)で、甲斐武田氏の伝馬用朱印が紹介されていた。これは篆書だからだろうか、「傅馬」とは読めず素人目には「猫黒」と見えてしまう。印文の本当に難しいものだと思った。

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そんな海蔵寺の遠出について、読んでいくとあれこれ興味深い推測ができるのでまとめてみた。

1568(永禄11)年

7月5日

後北条氏が、海蔵寺住持が「上洛」するためとして、旅費1,000疋(10貫文)を黄金で渡す。関兵部丞から受け取るようにと、岩本太郎左衛門尉に命じている。

海蔵寺就上洛、為路銭千疋被遣候、自関兵部丞前、以黄金請取、可相渡者也、仍如件、
戊辰七月五日/(虎朱印)江雪奉/岩本大郎左衛門尉殿

  • 小田原市史小田原北条0724「北条家虎朱印状写」(相州文書・足柄下郡海蔵寺所蔵)
7月6日

後北条氏が、海蔵寺が用いる伝馬5疋を出すよう指示し、相模国では1里1銭の課税を免除する。奉者は岩本太郎左衛門尉。甲府までの宿中に宛てている。「関東」は「関本」の誤記だと戦国遺文と小田原市史は指摘。

伝馬五疋、無相違可出之、海蔵寺被遣、相州御分国中者、可除一里一銭者也、仍如件、
辰七月九日/(朱印「常調」)岩本奉/自小田原甲府迄・関東透宿中

  • 小田原市史小田原北条0726「北条家伝馬手形写」(相州文書・足柄下郡海蔵寺所蔵)
7月23日

甲斐武田氏が、海蔵寺に伝馬7疋を出すよう指示。信濃国木曽までの宿に宛てている。

伝馬七疋無異儀可出之、海蔵寺江被進之者也、仍如件、
戊辰七月廿三日/文頭に(朱印「伝馬」)/信州木曽通宿中

  • 神奈川県史資料編3下「武田家伝馬手形」(海蔵寺文書)

相田二郎氏は『戦国大名の印章』のp242で以下のように記載する。

海蔵寺の住持が、甲斐信濃を経て越前永平寺に赴いた時、武田氏から与えた伝馬の手形に、次の如きものがある。

これは、7月5日の虎朱印状で「上洛」としていることと異なる。東山道を行くことから越前行きを連想したか、もしくは下記文書から推測したのかも知れない。また、小田原出身の相田氏は学業に挫折した際に海蔵寺に駆け込んで住持の援助を得たとする証言があることから、何らかの証跡を見出していたのかも知れない。

8月8日

海蔵寺が相模国に帰るに当たり、朝倉景徳が、朝倉義景から北条氏康・氏政への書状を託す。太刀と馬は遠路ゆえに辞退されたため、絹5匹を代用。松田・中村へは2疋を進呈する。

この文書は年未詳とされている。前に紹介した文書と関連するならば永禄11年比定でよいように考えられるが、時期が迫っていたためか、永禄11年7月の旅程があくまで「上洛」と想定したために未詳とされたのだろうか。

就御下国、北条殿御父子様江、自義景以書状被申候、向後別而可申承之由候間、可然之様御取成肝用存候、仍御太刀・御馬之儀、遠路之条、如何候旨、尊意之趣申聞候処、御異見次第之旨ニ付而、御両殿江絹五匹充、松田殿・中村殿へ弐疋充被進之候、何も御心得候而、可被仰届候、御理之条、上裏ニ拙者判形仕候、恐惶謹言、
八月八日/景徳(花押)/謹上海蔵寺衣鉢侍者禅師

  • 戦国遺文後北条氏編4561「朝倉景徳書状写」(相州文書所収足柄下郡海蔵寺文書)

海蔵寺が甲斐・信濃を通過した意味

永禄10年2月21日に、武田義信室が三島に移住している(戦国遺文後北条氏編1010)。この段階で既に、武田と今川・後北条は外交上緊張状態だったと推測される。この後に、永禄11年11月には、甲斐から駿河への侵攻作戦が開始される。こうした情勢の中で、海蔵寺住持の路次手配を武田晴信が行なった点は、侵攻直前まで三国の緊張は緩和されていたと見なせるかも知れない。

2018/05/01(火)笑止・せうし・勝事・咲止の用例

戦国期の「笑止」

「笑止」「せうし」「勝事」「咲止」の使用例は8文書、9ヶ所が該当する。用例については下記に翻刻を載せたので、それぞれの解釈から類別してみる。

  • 1・5は明確に追悼の意を示す

  • 2は実家への憂慮を示しつつ、兄を非難する意も含みそう

  • 3は明確に非難を示す

  • 4は同情を含んでの憂慮を示しつつ、その状況を招いた人物への非難を含みそう

  • 7は開戦となってしまった状況を憂慮している。ここに非難の意はなさそう

  • 6・8は憂慮の意も含みそうだが、人質の供出に応じなかったり参陣しなかったりした落ち度を責めている文脈であることから非難を示すように見える

上記より、故人を悼む際に使われる例は単純に「哀悼」でよいだろう。

一方で、他の用例では複雑な語彙でもあるように見える。

というのも、単独で明瞭な意味を成すというよりは、3のように明らかに非難と言い切れる使われ方をするためには、前後で強い言葉を用いる必要がある点、その他の例では非難を仄めかすような使われ方をしているのである。

諸点から考えると、「笑止」は未来への憂慮が強い「遺憾・非難」に近い用語なのかも知れない。但し、この言葉は哀悼以外では割ととらえどころがない印象が強い。用例も少ないため、あくまで憶測となる。

用例

1569(永禄12)年

1)岡部和泉守の父が逝去したことを、北条氏政が悼む

親父可有死去分候歟、さてゝゝ曲時分、笑止千万候、其地弥苦労候、雖然無了簡意趣候、常式ニ者、可相替間、一夜帰ニ被打越有仕置、さて薩埵へ可被相移候、返ゝ簡要候時分、一夜も其方帰路落力候、返ゝ只一日之逗留にて可有帰路候、猶大藤駿州衆被相談候様ニ、可被申合候、恐ゝ謹言、
閏五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1243「北条氏政書状」(岡部文書)

1570(永禄13/元亀元)年

2)武田晴信の伊豆侵攻を、北条氏政の油断として上杉三郎景虎が残念がる(もしくは間接的に非難する)

御書拝見、奉存其旨候、信玄向豆州出張、只今時節不審存候、畢竟相州由断故、敵打不求候、如仰出御同陣之儀、去年以来之子細ニ候、急度以使御相談可被申処、左様之■無之事、由断存候、然篠窪を以被申入■仰出、無御余儀奉存候、去春御内意之透、伊右・幸田氏政父子江就申聞者、争彼者差越可被申候、両人失念仕不申届故、被指越候哉と致迷惑候、此旨可預御披露候、以上。尚以、信玄出張不審存候、当国之御勢、当府ニ被為集置儀、其隠有間敷処、豆州へ調儀、条ゝ不審存候、返ゝ御同陣之儀、最前ニ以使者可被得御意処、結句自此方、大石被指越候、惣別相州由断笑止ニ存候、後詰之儀、急速可被成置処、於拙者も過分奉存候、其上御同陣可有之由、急度明日相州へ可申越候、以上、
九日/差出人欠/宛所欠(上書:直江殿 三郎)

  • 戦国遺文後北条氏編4361「上杉景虎書状」(本間美術館所蔵文書)
3)南征しない上杉輝虎を、北条氏政が非難する

九日之註進状、今十二未刻、到来、越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候、於要害者、何も相違有間敷候、人衆無調、于今不打向、無念千万候、縦此上敵退散申候共、早ゝ輝虎有御越山、当方之備一途不預御意見者、更御入魂之意趣不可有之、外聞與云、実儀與云、於只今之御手成者、笑止千万候、能ゝ貴辺有御塩味、御馳走尤候、恐々謹言、
八月十二日/氏政(花押)/毛利丹後守殿

  • 小田原市史小田原北条0985「北条氏政書状」(尊経閣所蔵尊経閣文庫古文書纂三)
4)伊豆戦線に出動して落ち着けない遠山康光を、大石芳綱が憂慮する(もしくは、その状況にした氏政を非難する)

今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人韮山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏[払]候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ[擬]見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、滝山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無躰御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正躰為躰ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ韮山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為躰ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無躰と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中

  • 神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)

1584(天正12)年

5)遠山半左衛門尉が戦死したことを、井伊直政が悼む

返々半左衛門尉殿之儀、不及是非事とハ申なから、御せうしにて候、御書を被遣候ハんか、明日御馬を被納候間、御取紛之時分ニ候条、我々より申越候、なさま遠州より重而可申入候、其元御存分之由、先以目出度候、以上、其表之様子急度御注進、則披露申候、仍半左衛門尉殿打死之由驚入候、御勝事千万ニ候、殿様一段御をしみ被成候、其方より被仰越様、一段神妙成儀ニ候由ニて候、是以御かんし被成候事、半左衛門尉殿之儀中々不及申候、乍去定事候間、不是非候、御弟子候之上者、少も御無沙汰被成間敷之由被仰出候、返々右旨我々方より相心得可申入候之由候、恐々謹言、
十月十七日/直政(花押)/宛所欠(上書:■■■■直政遠山佐渡守殿御返報)

  • 静岡県史資料編8_1758「井伊直政書状」(上原準一氏所蔵文書)

1586(天正14)年

6)人質の供出に応じない岡見中務の件を、北条氏照が憂慮する(あるいは非難する)

内ゝ自是以使可申届候由覚悟候処、能以飛脚初鮭到来、先日者初菱食、此度初鮭、当秋者両様共ニ従其地、始而到来候、一入珍重候、一、西口一段無事候、此節御加勢之儀如何様ニも可申上候条、先日之御面約之筋目、三人之証人衆如此御内儀御進上尤候、迎者可進置候、早ゝ可有支度候、貴辺五郎右衛門尉事者相済候、中務手前一段笑止候、御疑心ハ雖無之候、仰出難渋者、外聞不可然候、五日十日之間成共、先進上被申様ニ、達而助言尤候、然而為迎明日使可進候間、早ゝ支度尤候、我ゝも三日之参府申猶可申調候、委曲明日以使者可申候、恐ゝ謹言、
八月廿六日/氏照判/岡見治部大輔殿

  • 戦国遺文後北条氏編2989「北条氏照書状写」(旧記集覧)

1589(天正17)年

高橋丹波守に消息を伝えつつ、清水泰英が開戦間際の世情を憂う

何比御帰候哉、我ゝ者、與風罷帰候、其時分迄者、御帰之沙汰不承候キ、先日者、自小田原御札、殊船之 御印判調候而、我等迄満足ニ候、態是又御札、殊ニ初物給候、則致賞味候、然者御世上強敷候而、咲止ニ候、我ゝ罷帰砌者、以之外之様ニ候つる、近日者如何候哉、静ニ候、乍去自京都津田・富田と申人、于今沼津ニ有之由申候、石巻方をハ城中ニ小者一人ニ而指置、莵ニ角ニ是非者、来春と存候、此度以御使如去年証人之義、各へ被 仰付候間、其趣一両日已前申届候、御使衆へも具ニ申分候、併御国なミ人次之所、無了簡候、扨又籠城之支度、早ゝ可有之候、万吉重而可申候、恐々謹言、
極月十八日/上野康英(花押)/高橋丹波守殿参

  • 戦国遺文後北条氏編3578「清水康英書状」(高橋文書)花押は後筆の可能性あり

年未詳

8)参陣しなかった井出因幡守に対して氏政が立腹しており、憂慮すべき状況だと遠山直景が伝える(もしくは、氏政が強く非難していると山角定勝より告げられる)

今度御陣不参之儀付而、旧冬小田原へ以御使仕御申上候間、山紀へ添状申ニ付而、急度披露被申候処、殊外御隠居様御立腹之由、山紀拙者へ、如此被申越候、一段御笑止ニ存候、中ゝ於我等迷惑此節候、乍去今日参府申候間、紀州談合申候而、追而可申入候、半途ニ候之間、早ゝ申入候、恐ゝ謹言、
正月十日/遠右直景(花押)/井因御宿所

  • 戦国遺文後北条氏編3107「遠山直景書状写」(井田氏家蔵文書)

2018/04/24(火)ハードネゴシエーターとしての遠山康光

遠山康光に関しては既にひとつ記事にしている。

遠山康光の実像

しかし彼の事績はこれだけに収まらず、交渉人としての動きもまた興味深い。

上杉との交渉

「遠山康光」というと、後北条と上杉が延々と交渉し続けた越相同盟の交渉人であり、越後に養子入りした三郎景虎の付き人という印象が強い。しかし、康光が越相同盟に登場するのは比較的遅く、北条氏政が参入した書状で取次役として出てくる永禄12年3月7日を待たねばならない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿

  • 戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

ではなぜ氏政は康光を取次に選んだのかというと、康光が上杉被官と既知の間柄だったからだろう。

沼田両所へ以御直札被仰届候、仍以前松石・上中拙者へ御書中、本望存候、其以後不申通候、幸之間、此度両所へ令啓札候、松石越山之由承届候間、重而可申入候、何茂被成御心得、被仰届頼入候、以面上可申達候条、令省略候、恐ゝ謹言、
三月十日/遠左康光/信濃守殿御宿所

  • 戦国遺文後北条氏編1176「遠山康光書状写」(歴代古案一)

沼田の両所へ直接のお手紙で仰せ届けられました。以前の、松石・上中から拙者へのご書中(紹介状カ)は本望に思います。それ以後はご連絡をしませんでしたが、時宜を得てこの度両所へご連絡しました。松石が越山なさるとのことですから、重ねて申し入れします。何れもお心得いただき、仰せ届け下さいますようにお願いします。直接お会いして申しますので、省略させていただきます。

上杉被官の松本景繁・上野家成が、敵方の康光に連絡をとる行動というと、永禄7~8年に足利義輝から上杉輝虎へ北条氏康との和睦を斡旋した件が思い浮かぶ(下記2通)。この頃に、景繁・家成から由良成繁に打診があり、康光と繋がったと思われる。

北条左京大夫氏康与和睦事、去年差下藤安申遣之処、内存被聞召訖、雖然、急度可遂其節事簡要候、為其、対氏康差下使節、申越候間、其以前於及行者、不可然候、猶晴光可申候也、
三月廿三日/(足利義輝花押)/上杉弾正少弼とのへ

  • 神奈川県史資料編3下7433「足利義輝御内書」(上杉文書)永禄8年比定

北条左京大夫氏康与御和談事、去年被差下同名兵部少輔、御内存趣、委細被 聞食候、雖然、被閣是非、急度被遂其節者、可為肝要候、為其相州へ被越差御使候条、其以前御行事、御用捨専一候、此等之通、得其意、可申由被仰出候、恐ゝ謹言、
三月廿三日/陸奥守晴光(花押)/謹上上杉弾正少弼殿

  • 神奈川県史資料編3下7435「大館晴光添状」(上杉文書)永禄8年比定

古河公方との交渉

では、数ある後北条被官からなぜ康光が選ばれたかというと、古河公方家の調整を行なっていたからではないか。下記の朱印状(永禄6年比定)では、伊豆国大見の「御乳人」を佐貫へ送ることを瑞雲院周興が依頼してその手配を、康光が奉者として愛洲某に指示している。

豆州大見御乳人、佐貫江被越付候者、瑞雲院如作意、船・ゝ方相調、二艘も三艘も可走廻候、又其内飛脚船入候者、何篇も可走廻者也、仍如件、
亥卯月廿七日/(虎朱印)遠山奉之/愛洲代

  • 戦国遺文後北条氏編0811「北条家朱印状」(渡辺文書)

古河公方との交渉は江戸衆の遠山綱景も加わっていたので、その流れで一族の康光が動いた可能性がある。ただ、それだけではない事情を示す文書もある。

今川との交渉

売渡申三島之宿屋敷之事。合四拾五貫文者。右、彼代物者、孫三郎之代、丙午年十二月廿日ニ、四日町御蔵銭ヲ被致借用候、従其明之年、我ゝ家を請取候、公方銭之事候之間、急度相済可申候へ共、貴所へ別而申承候間、無沙汰申候、殊更此代物者、巳年遠山左衛門尉駿府へ被遣候、其時四日町御蔵より、参拾貫文罷出候、是者孫三郎方預りへ升辺蔵へ被仰付候処、筆違ニて四日町与御印判候間、子細可被申分候へ共、江城ニ 御屋形様御座候間、先ゝ卅貫文被出候歟、加様之代物令算用、四拾五貫文ニ知行被渡候得共、我ゝ無力付而、無沙汰申候、算用候者、過分ニ罷成候共、別而知音申候間、三島屋敷進置候、我ゝ子ゝ孫ゝ於被官已下、永代違乱在間敷候、将又年貢等諸伝役、此屋敷ニ不可有之候、破家ニ候へ共、亭・居屋・蔵屋・厩共四ツ并而進置候、如前ゝ我ゝ罷越候時者、宿ニ可致之旨、此分違乱妨可有之候、仍如件、
天文廿年辛亥十二月廿三日/清水大郎左衛門尉康英(花押)/瑞泉庵参

  • 戦国遺文後北条氏編0405「清水康英屋敷売券写」(新井氏所蔵文書)

これは遠山左衛門尉=康光の初見文書となるが「巳年」つまり天文14年は、6月以降で今川・後北条を和睦させようとしている動きがある。この時の主体者は京の足利義晴。前年から北条氏康に書状を送って上洛を促していたが、今川との紛争を理由に断られていた。そのため、近衛稙家からの使者を小田原に送ったり、駿府に聖護院道増を派遣したりしている。最後まで今川義元が受諾せず、その同盟相手である武田晴信にも諫められている。

去年以書状申候処、依無通路使節令上洛候条、重而申候、抑与駿州御和談之儀、内々武命之事候間、以無為之儀相調候者、可為珍重候、巨細之段使節申含候条、不能詳候状、如件、
六月七日/(近衛植家花押)/北条新九郎殿

  • 戦国遺文今川氏編0775「近衛植家書状」(東海大学図書館所蔵北尾コレクション)

七月七日治部当座 聖護院門跡御座也、内々東と和与御扱之由也、然間当国へ御下向之間、彼会へ入候也、河つらと詠けるを、河つらとハ今河家ニ禁也、同嶋も禁也、殊新嶋一段不吉、七夕霞霞にもむせふはかりに七夕のあふ瀬をいそく天の河岸

  • 静岡県史資料編7_1740「為和集」(宮内庁書陵部所蔵)天文14年項目

今度為合力、越山候意趣者、去酉年義元御縁嫁之儀、信虎被申合候、然処、以後一儀駿・豆執合之由、於世間風聞、依之晴信五ヶ年之間、別而申合候、此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、雖可申合候、北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候、就中長久保之城責候者、或者経数日、或者敵味方手負死人有出来者、近々之間之執合、更無所詮候哉、縦氏康雖滅亡候、過数十ヶ年、関東衆相・豆本意候者、所領之論却、只今ニ可相戻候哉、彼此以一統、可然候条、如此走廻候、自今以後、有偏執之族者、此旨各分別候間、長久之儀肝要候、恐々謹言、
十一月九日/晴信(花押)/松井山城守殿(上書:松井山城守 晴信)

  • 戦国遺文今川氏編0783「武田晴信書状写」(土佐国蠧簡集残篇六)

この状況で単身乗り込んでいった康光は、外交特使としての任務を帯びていたのだろうと考えられる。30貫文を三島で借りていることから、準備もままならぬ状況だったのかも知れない。

駿府での交渉で康光がどのような行動をしてどう結果を出したのかは不明だが、その後も古河・越後と難交渉に駆り出されたのは、この時の功績を氏政が正しく理解していたからだと思われる。

2018/04/21(土)高白斎記に見る甲相駿三国同盟

三国同盟成立の瞬間

高白斎記に詳しく載っているので時系列で並べてみる。

天文13年

  • 1月2日:駒井政武は小山田居館を出る。恐らく相模に入り、後北条被官の桑原盛正と会う。対談し同盟条件を整える。向山又七郎が同心(同行)。その翌日に甲斐へ帰る。

天文14年

  • 4月2日:三国の和睦を促す聖護院が甲府に入る。
  • 8月5日:甲斐本栖に移動。温井丹波守が同心(同行)。
  • 8月7日:両人が帰宅。
  • 8月9日:政武のみで本栖に移動。
  • 8月10日:駿河善徳寺で、太原崇孚・高井兵庫・一宮出羽守に、晴信書状と口上を伝える。
  • 8月11日:巳刻に今川義元と対面、未刻に血判を作成、振舞を受ける。
  • 8月13日:帰府。
  • 9月9日:甲斐向山に武田晴信が出張。
  • 9月12日:晴信が甲斐本栖に移陣し、板垣信形が駿河大石寺へ移動。
  • 9月14日:北条氏康から書状が到着。
  • 9月15日:晴信が駿河大石寺に着陣。
  • 9月16日:後北条方の駿河吉原が自落。晴信が馬見墓に移動。その途中で義元と対面。
  • 9月17日:晴信が義元陣所に滞在。
  • 9月18日:晴信が辰刻に出発し、駿河今井見付に移動。
  • 9月19日:晴信が駿河千本松に移動。
  • 9月20日:晴信が駿河岡宮近隣の原に移動。義元は長窪に移動。
  • 9月21日:晴信が陣屋を構築。
  • 9月27日:黄瀬川に架橋。
  • 10月15日:巳刻に信形・又七郎・政武が連判状を持って、氏康陣所内で盛正に会う。戌刻に帰る。
  • 10月20日:長窪城を見分に行く。御宿某が死去。
  • 10月21日:上杉憲政・義元・氏康の起請文が揃う。この件で政武は3回崇孚の陣所に赴く。
  • 10月22日:停戦。
  • 10月28日:藤沢頼親が撤収。
  • 10月29日:「朝佐」陣所で談合。国境紛争は氏康に非がある・義元が停戦を破棄したので晴信が援軍に出た・この停戦が破棄されたら晴信は義元に味方するという3点を確認。「朝佐」と崇孚が花押を据えて信形・政武に渡す。
  • 11月1日:長窪に滞在。
  • 11月6日:敵が城を出る。
  • 11月8日:義元・晴信の間で、重要なことは自筆で直接やり取りすると合意。
  • 11月9日:義元・晴信が相互に自筆書状を受け取る。

高白斎記『武田史料集』(校注:清水茂夫・服部治則)

同書解題にあるように、栗原左兵衛の日記として伝来したために竄入部分がある。注記を元に竄入箇所を太字にした。

1544(天文13)年

同十三甲辰年。正月朔日庚子昨日着谷村。二日小山田宿所ヲ出。桑原九郎右衛門ニ致対談御条目ヲ申渡ス。向山又七郎同心仕ル。翌日帰ル。六日立春廿三日彼岸ニ入ル。菩提ノ観音御戸開。三月三州牛窪ノ浪人山本勘助召抱ヘラル。六日節。十三日壬子辰刻御主殿ノ柱立。廿四日丙刁御主殿棟挙風雨。四月大朔日己巳。八日節。十一日己卯信形上原ニ着城。十三日屋形様御着城。十五日上原ノ地普請終ル。七月大朔日戊戌信形諏訪ノ屋敷鍬立。六月節ノ内也。十日七月節。八月廿八日乙未信形丑刻ニ出府、諏訪郡ニ在城。十月十六日壬午屋形様御出陣。於礼拝場御馬鼻血出ル。不苦候ヤ其後何事ナシ。廿八日甲午在賀へ酉刻御着陣。廿九日御先衆荒神山ニ陣取。十一月朔日丙申為御使者荒神山へ打寄働ノ場近辺放火。於松島原敵ノ首二十六<栗原左衛門軍功。廿六日上原へ御着陣。九日甲辰御帰府。十四日己酉節。閏十一月朔日丙刁。十四日小寒。廿七日土用。十二月大朔日乙未大寒。十六日庚戌立春。廿二日丙辰御主殿へ御移リ御祝儀ノ御酒。

1545(天文14)年

同十四乙巳年。正月小朔日乙丑。二月小甲午。六日己亥高国寺客殿柱立。同日駒井ノ鳥井立。十五日戊申火焼。十八日辛亥節。四月小癸巳二日甲午。シヤウゴン院御着府。十一日癸卯向ニ高遠御出馬。雨。十四日未刻上原へ御着城。細雨。十五日丁未杖ツキ峠御陣所雖被為取候昼夜雨。十七日己酉諏訪頼継自落。十八日高遠屋敷御陣所。廿日壬子節、高遠御立。午刻ニ箕輪へ御着陣。廿九日辛酉鎌田長門守討死。五月大壬戌廿一日節。相州・羽州竜崎動。廿二日癸未駿州松川ヨリ御加勢。六月大壬辰板垣駿河守竜ヶ崎落城。敵ノ首四十六討捕於栗原左衛門手ニ首十七討捕晴信公ヨリ感状ヲ賜。六月十日辛丑藤沢次郎和ノ義落書。十一日藤沢次郎身血。其上藤沢権次郎為人質穴山陣所へ参。敵城放火。十三日甲辰辰刻箕輪ヲ御立塩尻御陣所。於高白陣所鶉ヲトラへ進上。十四日林近所迄放火。桔梗原御陣所熊野井ノ城自落。子刻十五打立小笠原ノ舘放火。六月十五日於桔梗原勝鬨、十六日御帰陣。十七日御着府。八月大辛卯五日乙未本須迄温丹為同心行。七日帰ル。又九日高白計本須へ行。十日庚子富士ノ於善徳寺御一書並御口上之旨雪斎・高井・一ノ宮方へ申渡ス。細雨。十一日辛丑巳刻義元ニ被成御対面未刻御身血ナサレ御振舞飯麺子御盃一度御刀被下。十三日帰府。十七日丁未山下源三出仕。廿三日節。九月大。九日己巳細雨未刻御出張向山迄。十二日本須御陣所。板垣・栗原ハ大石寺迄。夜大雨。十四日甲戌従氏康御状来ル。十五日大石寺ニ御着陣。十六日丙子辰刻吉原自落。馬見墓御陣所。於半途義元御対面。十七日義元御陣所ニ御留候。十八日辰刻打立。今井見付御陣所。十九日千本松御陣所。廿日岡宮近所ノ原御陣取。義元ハ長窪。廿一日陣屋ヲカケル。廿四日甲申節。廿七日キセ川ノ橋掛サセラル。十月朔日辛卯十五日従巳刻半途へ出。板垣・向山・高白三人連判。氏康陣所桑原方へ越、戌刻帰ル。廿日長窪ノ城見分ニ行。御宿生害。廿四日節。管領・義元・氏康三方輪ノ誓句参候。此義ニ付高白三度雪斎陣所へ行。廿二日互ニ矢留。廿八日箕輪次郎帰陣。廿九日於朝佐陣所談合。境目城ヲ捕立非分ニ氏康被懸取候ナリ。既ニ義元落着ノ義ヒルカエラレ候者、晴信則可入馬之事。此間之落着ヲヒルカエシ難タヒ承ナリ。氏康ヲ捨義元へ同意可申事。右此三ヶ条合点申候由、朝佐・雪斎判形ヲスヱ板垣・高白へ給リ候間罷帰。戌刻上ル。十一月大朔日庚申長窪六日乙丑敵出城。八日義元晴信互ニ大事ノ義ハ自筆ヲ以可申合ト被仰合翌九日互ニ自筆御請取渡候ナリ。

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