2018/04/08(日)他国衆関連文書

1557(弘治3)年比定。後北条被官の伊東氏に同心としてつけられた他国衆「香坂甲斐」は、妻子を持たず派遣されたので、その地に赴くとし、他国衆だからよくよく親切にするよう指示している。

伊東同心香坂甲斐衆、妻子不持間、当陣取遣候条、其地へ越候、当陣之間預ヶ申候、他国衆候間、能ゝ可有懇候、仍如件、
巳三月十三日/伊東奉/左衛門太夫殿

  • 戦国遺文後北条氏編0542「北条家虎朱印状写」(甲斐国誌七十二)

以前から決まっていた三島大社の神事銭の納付を渋っていることが判った。代官・百姓を殺そうとしたが、稲取片瀬が他国衆「毛利丹後守」の知行であることから赦免している。

三島御神事銭之事、従早雲寺殿御代定来処、只今令難渋由、入御耳候、不及糺明、代官・百姓雖可為生害候、毛利丹後守他国衆之儀ニ有之候間、当代官若其委細之儀不存人、爰以一往御用捨候、如古来五日之内可相済、此上就及菟角者、速可行重科者也、仍状如件、
永禄十二己巳壬五月四日/(虎朱印)山角奉之/稲取片瀬代官・百姓中

  • 戦国遺文後北条氏編1236「北条家朱印状写」(伊豆三島宮文書)

1577(天正5)年比定。他国衆「小甫方備前守」の生産を妨害するなと指示。何事であっても邪魔をする者は処罰するとしている。

小甫方備前守、他国衆ニ候、彼家中仁只今手作之所、努ゝ違乱不可申、細事等成共横合就申懸者、可令遂御成敗旨、被仰出者也、仍如件、
丑卯月廿六日/(朱印「印文未詳」)大石信濃守奉之/祇園触口諸触口中

  • 戦国遺文後北条氏編1905「北条氏照朱印状」(矢島文書)1577(天正5)年比定

1582(天正10)年に比定。他国衆の「伴野兵衛殿」の母親を居住させるために、奔走するよう指示。「うせうけ」は「無精気」か。

伴野藤兵衛殿御老母、其地へ指移申候、然者、宿之事、其方所ニ置可申候聞、苦労ニ候共、やと可致之候、他国衆之事ニ候間、一入於何事も不在無沙汰、懇比申、万馳走可為肝要候、用所之義をハ、何事成共、筑後守ニ可相談候、毛頭もふせうけ間、躰無沙汰者、弥不可有曲候、猶馳走専要候、仍如件、
十月二日/政繁(花押)/次原新三郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編2423「大道寺政繁判物写」(武州文書所収入間郡新兵衛所蔵文書)

年未詳文書。何があろうと徳川方と騒ぎを起こすなという指示。他国衆はそもそも優遇していたが、喧嘩両成敗を適用したくないので、我慢しろという。

遠州衆為証人在府ニ付而申断候一、如何様之法外を致候共、他国衆之事ニ候間、当意遂堪忍、則様子可披露事
一、不論理非致于及喧嘩之者者、双方生害古今之掟ニ候、扨於此度之掟ハ他国衆ニ候間、一往可堪忍由遂下知処、至于背其法者妻子迄可行死罪事
右、定置所、如件、
八月三日/(虎朱印)/大道寺新四郎殿(上書:大道寺新四郎殿 自小田原)

  • 戦国遺文後北条氏編3810「北条家朱印状」(大道寺文書)

2018/04/07(土)興津摂津守の行動

興津摂津守の活動履歴

1562(永禄5)年

最初の登場は遠州大坂の新船に関する判物。今川氏真から貰っている。

1月11日

遠州大坂之内知行浜野浦爾繋置新船壱艘之事
右、於諸浦湊諸役并船役舟別、為新給恩永令免許畢、不準自余之条、役等一切不可有之、同立使肴買等不可申懸之、雖然海賊惣次之時者、櫓手役可勤之者也、仍如件、
永禄壬戌年正月十一日/氏真判/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編1786「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

1568(永禄11)年

年月日全てが失われている書付のような文書だが、文面から永禄11年12月の武田方侵攻を受けてのものと推測される。この時は氏康が活動を評価しているが、氏真についての言及もある。

月日未詳

其地昼夜其[共]走廻由候、誠御忠節候、弥被尽粉骨此時候、氏真御本意上者、御褒美儀、必可申立候、為其及一札候、恐ゝ謹言、
月日欠/氏康(花押影)/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2243「北条氏康書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

1569(永禄12)年

年頭になると興津摂津守の知行80貫文が武田方に接収され、その後で安東織部佑に下されている。

1月11日


一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文
今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十二己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿

  • 戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)

その後の3月に出された書状は差出人が不明で、戦国遺文では後北条の誰かだと推測している。

3月23日

城中自始馳走感悦也、弥忠節奉公不可有由断由肝要候、然者同名将監跡職、被官給共、知行分宛行所不可有相違候也、仍如件、
三月廿三日/差出人欠/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2244「北条某書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

再び氏真からの書状に戻る。朝比奈泰朝とともに活動しているのが判る。

12月18日

就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也、然者本地之儀者不及是非、急度可加扶助之旨、備中方へ以自筆雖申付之、弥不可有相違、猶於走廻者、別而可令扶助候、謹言、
巳十二月十八日/氏真判/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2434「今川氏真感状写」(諸家文書纂所収興津文書)

年未詳

恐らくは永禄12年の3月に出された氏真書状。興津氏が美濃入道・与右衛門・摂津守らが結束して活動しているのが判る。

3月吉日

就所用、諸事同名摂津守鶴見可致馳走之由内義、太不準自余、奉公役申付候段、調 祝着由可申候也、かしく、
三月吉日/(花押影)/興津美濃入道殿・同与右衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編2651「今川氏真書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂八所収興津文書)

2018/04/07(土)北条氏規と朝比奈泰寄

1568(永禄11)年の駿府陥落に際しての行動が、岡部和泉守と似ているのが朝比奈泰寄(甚内・右兵衛尉)。2人は北条氏規に同行して駿河を西進したのだろうと思われる。

親族が氏真と共に懸川城にいながら、北条氏規の奏者となっている。

  • 岡部和泉守:父の大和守が懸川籠城、兄弟の次郎兵衛尉は武田方へ。

  • 朝比奈泰寄:兄弟の泰勝が懸川籠城、兄弟の四宮泰雄は戦死しその妻子は甲府へ。

ところがその後の動向は大きく異なっている。

岡部和泉守が北条氏政・氏康に直接指示されて最前線を転戦。その後は正式な知行を得られず断絶している。

一方で朝比奈泰寄はそのまま氏規被官となる。3月26日には四宮泰雄の妻子引き取りについて今川氏真から指示を受けているが、翌月には氏規朱印を伊豆の多賀郷に発している。多賀は熱海南方なので前線ではない。

その後も引き続き氏規被官として活躍して、氏規次男辰千代の陣代も務めている。

1568(永禄11)年

12月15日

 龍雲院は沼津地域。岡部和泉守が同じく氏規奏者を務めた禁制(12月18日付)は吉原地域が対象。

制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申候、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十五日/(朱印「真実」)朝比奈甚内/多肥龍雲院

  • 戦国遺文後北条氏編1122「北条氏規制札」(龍雲院文書)

1569(永禄12)年

3月3日

四宮泰雄が戦死した後を受けて、敵地にいる子供から1人を引き取って相続させるように、今川氏真が朝比奈泰勝に指示しているが、その際に子供が幼少の間は泰勝、もしくは泰寄が名代を務めるようにと書き添えている。

四宮惣右衛門尉宛行知行分并同心給屋敷等之事
右、彼実子雖有兄弟之、未敵地仁取置之間、令馳走両人、一人引取一跡可申付、雖然幼少之間者、泰勝可相計、但於可致甚内相越名代之儀之者、可任其儀、兼又同心之儀及異儀者、如先判可加下知、被官以下者泰勝可為計者也、仍如件、
永禄十二年三月三日/氏真(花押)/朝比奈弥太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2299「今川氏真判物」(国立国会図書館所蔵武家文書所収)
3月26日

於大平之郷出置福島伊賀守代官給百貫文事。右、如伊賀守時不可有相違、惣右衛門尉今度遂討死、致忠節為跡職之間令馳走、自甲府妻子於引取者、彼郷ニ而堪忍之儀可申付、并陣夫参人於徳倉・日守郷可召遣之者也、仍如件、
三月廿六日/文頭に(今川氏真花押)/朝比奈甚内殿

  • 戦国遺文今川氏編2324「今川氏真判物」(鎌田武勇氏所蔵文書)
4月24日

多賀郷代官・百姓ニ其方借シ置候兵粮、何も難渋不済之由申上候、厳密催促可請取候、於此上も不済候ハゝ、急度可遂披露候、得上意其科可申懸候、人之物借済間敷、御国法無之候、如証文鑓責候て可請取者也、仍如件、
己巳卯月廿四日/(朱印「真実」)朝比奈兵衛尉奉之/岡本善左衛門尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編1201「北条氏規朱印状」(岡本善明氏所蔵文書)

1570(永禄13/元亀元)年

2月12日

鴨居之郷観音堂寺中竹木切取事、堅可令停止并号飛脚押立与出家役等、向後不可申付、諸条狼藉等遂申者於有之者、自今以後者注交名可申上者也、仍如件、
永禄十三年庚午二月十二日/御朱印・朝比奈甚内奉之/観音寺別当

  • 戦国遺文後北条氏編4686「北条氏規朱印状写」(諸国高札二)

1571(元亀2)年

7月15日

急度飛脚被遣候、則披露申候、仍今度之御動之儀、無比類被成様共前代未聞之義、従 殿様此段具可被仰下候へ者、御城爾于御座候間、寸之御透も無之候間、此趣我ゝ方巨細申候得由、御意ニ候、猶自今之義者海上動所ハ一円御父子へ被相任候由、堅御意ニ候、於我等満足此事ニ候、弥ゝ御走廻肝要ニ候、 御本城様其煩于今爾候旨、無之候間、何様昼夜御詰城被成候間、御障無之候、拙者も韮山之番被仰付候、有御用一昨日此方へ罷越候、明後日罷越候、重而御用候者、六郎大夫ニ可被仰渡候、何事も近内口上ニ申候間、早ゝ申候、恐ゝ謹言、
七月十五日/朝甚泰寄(花押)/山信・同新御報

  • 戦国遺文後北条氏編4059「朝比奈泰寄書状」(越前史料所収山本文書)

1574(天正2)年

11月20日

「六大夫」とあるのは「六郎大夫泰之」で、泰寄の後継者(子弟)と見られている。

奉建立鹿島御宝前
大檀那朝比奈六大夫敬白。相州三浦須賀郷之内、逸見村百姓中并代官、今■■■当大夫宮内丞
当大工山内六郎左衛門、当鍛冶小松原満五郎
于時天正甲戌年閏霜月廿日、諸願成就、皆令満足、筆者平朝臣賢清、
古記録

  • 戦国遺文後北条氏編1748「鹿島社棟札銘写」(新編相模国風土記稿三浦郡逸見村之条)

1576(天正4)年

9月11日

出家した今川氏真が朝比奈泰勝の労をねぎらった際に、泰寄にも宜しく相談するようにと指示している。

万々渡海之儀辛労ニ候、然者家康申給候筋目於相調者、一段可為忠節候歟、甚内方へ能々可申計候也、仍如件、
九月十一日/宗誾(花押)/朝比奈弥太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2584「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)

1577(天正5)年

4月6日

仰出之条ゝ
一、山本左衛門尉就進退不成、参拾貫文之所十年期ニ売度由、尤相心得候事
一、伊豆奥就手遠、三浦之在陣走廻も不成之由、知行替之侘言任存分候、別紙ニ書付被下候事
一、知行役之儀、参■■■■十年期明間者■■■■可致之事
右、如此之条ゝ雖為有間敷子細、信濃入道者自前ゝ忠信至于今走廻、子ニ候左衛門太郎者於眼前討死、忠信不浅候、只今太郎左衛門尉事者、乍若輩海上相任無二走廻之間、全人之引別ニ不成之候、依之如申上御納得被仰出候、弥抛身命可走廻段、可為申聞太郎左衛門尉者也、仍如件、
丁丑卯月六日/(朱印「真実」)朝比奈右兵衛尉奉之/山本信濃入道殿・同太郎左衛門尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編4721「北条氏規朱印状」(越前史料所収山本文書)
8月20日

北条氏規が陸奥の遠藤基信と連絡を取った際に、泰寄が間に入っている。「不思議之得便宜」とあり、もしかしたら泰寄が基信と先に知り合ったのかも知れない。

乍卒爾之儀、企一翰意趣者、貴国之儀年来承及候、去春不思議之得便宜、朝比奈右兵衛尉ニ内意申付、貴殿御事承及候間申届候処、此度態以飛脚御報候、遠国之儀寔御真実之至本望忝候、抑貴国与当国可被仰合筋目念願候、両国於御入魂者、天下之覚相互之御為不可過之候歟、有御塩味御取成肝要候、於当国者乍若輩涯分可令馳走候、委細右兵衛尉可申入間令省略候、恐ゝ謹言、
八月廿日/氏規(花押)/遠藤内匠殿参

  • 戦国遺文後北条氏編1936「北条氏規書状」(斎藤報恩博物館所蔵遠藤文書)

1587(天正15)年

3月21日

改進置知行
弐百貫文、知行辻
此出所
百六拾五貫三百十四文、小磯夏秋
卅四貫六百八十六文、蔵より可出
此上弐百貫文
右、龍千代陣代被走廻付而、如此進置候、陣番無患可被走廻者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/氏規(花押)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3067「北条氏規判物」(朝比奈文書)

入間・指田・落合・山根替進置分
百貫文、知行辻。此出所
七拾六貫五百六十六文、白子
廿三貫四百卅四文、蔵より可出
以上、百貫文
右之知行之替進置候、毎年如此可有所務者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/(朱印「真実」)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3068「北条氏規朱印状」(朝比奈文書)

1588(天正16)年

5月24日

任望下一宮百卅七貫百五十余、白子ニ取替進候、自戊子夏可有所努候、伊豆奥之不足銭此内ニて進候而も、廿貫余過上ニ候へ共、少之事候間其報進候者也、仍如件、
戊子閏五月廿四日/氏規(花押)/朝比奈右兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3327「北条氏規判物」(朝比奈文書)

1592(天正20/文禄元)年

3月15日

知行方
弐百石、丈六
三百石、南宮村
以上五百
右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、
天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)

年未詳

6月30日

北条氏規から成田氏長への使者として泰寄が動いている。また、氏規を介して徳川家康からの進物を与えられている。

遥ゝ在御音信与従濃州預御使候、殊従家康被進物数多被懸御意候、寔畏入存斗候、内ゝ従此方も節ゝ雖可申達候、韮山為御番御在城、御帰府之時分を不存知候間、御無沙汰申、本意之外候、可然様御心得任入候、仍自貴所も鯨一合給候、御志即賞翫申候、何様従是可申述候、委細者福長頼入候、恐ゝ謹言、
六月晦日/成下氏長(花押)/朝兵御宿所

  • 戦国遺文後北条氏編4190「成田氏長書状」(荻野仲三郎氏所蔵文書)
8月5日

 朝比奈泰之は、泰寄の後継者と見られる。

雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、
八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中

  • 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)

2018/04/02(月)両属的被官の推測

今川と後北条の間をつなぐ人物を調べていて、気になる存在を見つけたので備忘。

岡部出雲守の存在

酒匂川左岸の河口部にある「酒匂郷」の駒形神社にある御神体裏書に「代官岡部出雲守広定」という記載がある(天文22年7月2日・戦北4873)。

この人物が後北条方史料で出てくるのはここだけで、永禄3年の虎朱印で酒匂郷の代官は小島左衛門太郎が代官となっている(5月28日・戦北630)。小島左衛門太郎は、先の御神体裏書に檀那として登場した「小島左衛門太郎正吉」と同一人物だろう。永禄2年の所領役帳にも岡部広定は出てこないので、それ以前に後北条家を去った可能性が高い。

一方で、今川家中にも「岡部出雲守」が出てくる。三河国吉田にある神明社宝殿の棟札に今川義元奉行衆として「岡部出雲守輝綱」が出てくる(天文19年11月17日・戦今986)。更に遡ると、天文7年にも、同じ神社と思われる棟札銘に、同じく義元奉行として「輝綱」が現れる(11月8日・戦今615)。

出現時期が連続しているので、同一人物とみてよいと思う。

  • 天文7~19年     今川義元被官(奉行)岡部出雲守輝綱
  • 天文22年~永禄元年? 後北条氏被官(代官)岡部出雲守広定

今川当主からの偏諱を考えると、親綱と元網の間に輝綱が存在したとするのは自然で、3人ともに「綱」を通字とする岡部家の嫡流であるといえる。

もう一段踏み込んで推測してみる

この輝綱が今川家に戻った際、官途名を出雲守から和泉守に変えたと考えられるのではないか。

  • 天文7~19年     今川義元被官(奉行)岡部出雲守輝綱
  • 天文22年~永禄元年? 北条氏康被官(代官)岡部出雲守広定
  • 永禄2年?~永禄11年 今川氏真被官(代官)岡部和泉守某
  • 永禄11年~元亀3年  北条氏政被官(代官)岡部和泉守某

すると、実名不詳の岡部泉守の正体が浮かんでくる。

和泉守は妙な動きをしていて、永禄11年の内から北条氏規奏者となったり、それ以後も氏政から親しく指示を受けたりと、今川家に知行を持ちながらも、後北条被官としか思えない行動をとっている。これを、3年程度の短い期間だが後北条家中で事務処理を学び氏政とは知己だったとすれば、これらは自然なものに見える。

岡部元信にも似たような動き

同族の岡部五郎兵衛尉元信も、天文21~永禄3年の所在地が定かではない。

武田晴信書状「二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処」(戦今1547)や今川氏真書状「元信有子細、近年中絶之刻」(戦今1573)「彼本知行有子細、数年雖令没収」(戦今1544)から、どうも甲斐にいたようだ。

岡部元信の場合は、その父玄忠から他の兄弟への相続で揉めたことが判っている。輝綱も同時期に同じような相続で揉めて今川家を離脱し、名を「広忠」と変えて相模で代官となっていたとも考えられる(「広」の偏諱の出所が不明だが「康」を誤読した可能性もあるかも知れない)。

被官の在り様はまだまだ不明

岡部出雲守・和泉守に話を戻す。

酒匂郷は箱根権現と関係が深く、駒形神社も箱根駒ヶ岳の元宮に関連するものだという。所領役帳にも「酒匂筥祢分」が、箱根権現別当職である北条宗哲の知行として出てくる。このことから、宗哲が仲介して代官に岡部広定を任命したという仮説も成り立つ。ただし、酒匂郷は後北条直轄領の蔵があった要地で、当主氏康が自ら広定を代官に任じた方が可能性が高いように思う。そうした中で、氏康から氏政、義元から氏真という両家の家督継承を契機に今川家に出戻ったのではないか。

史料の限界から決定的な判断はできないものの、岡部出雲守の例は、被官関係の両属性というか、支配関係の曖昧さを表わす可能性を秘めているように感じる。

2018/03/30(金)羽柴方から見た韮山城攻防戦

意外と健闘していた韮山城

1590(天正18)年の韮山城攻めを羽柴方から見てみる。1日で落城した山中城と比較すると、開城を呼びかけさせるために緩やかな攻撃に留めたという説もあるが、それなりに本格的な攻城をしている。

4月8日 羽柴秀吉→加藤清正

即日落城した山中城について書く一方、小田原と韮山は干殺にすると報告している。この段階で韮山城は長期戦となる予想を立てていたようだ。

此表様子為可聞届、飛脚付置之由、尤悦被思食候、先書仰遣、去月廿七日至三枚橋被成御着座、翌日ニ山中・韮山躰被及御覧、廿九日ニ山中城中納言被仰付、即時ニ被責崩、城主松田兵衛大夫を始、千余被打捕候、依之箱根・足柄、其外所々出城数十ヶ所退散候条、付入小田原ニ押寄、五町十町取巻候、一方ハ海手警船を寄詰候、三方以多人数取廻、則堀・土手・塀・柵已下被仰付置候、北条首可刎事、不可有幾程候、猶様子者不可気遣候、次韮山儀も付城・堀・塀・柵出来候、是又可被干殺候、委細長束大蔵大夫可申候也、
四月八日/朱印/加藤主計頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3022「羽柴秀吉朱印状写」(阿部氏家蔵豊太閤朱印写)

こちら方面の状況を聞いて飛脚を付け置いたとのこと。尤もなことでお喜びになっています。先の書状で書いたように、先月27日に三枚橋にご着座なされ、翌日に山中・韮山の状況をご覧になりました。29日に山中城攻めを中納言に命じられ、即時に攻め崩し、城主松田兵衛大夫を初めとして千余人を討ち取りました。これにより箱根・足柄その他所々の出城数十ヶ所が退散しましたから、付け入って小田原に押し寄せました。5~10町の距離で取り巻いています。一方で海上には警固船が寄せ詰めています。三方を多数で包囲し、堀・土手・柵以下を配置なさいました。北条の首を刎ねるのは程なくでしょう。更に様子の気遣いをなさいませんように。次に、韮山にも付城・堀・柵ができました。こちらもまた干殺しになさるでしょう。詳しくは長束大蔵が申します。

4月29日 羽柴秀吉→駿河清見寺

駿河国清水寺から、韮山城攻囲のための梵鐘を借り出している。恐らく、韮山を囲む戦線に起伏があり、なおかつ長大になったために大きな鐘が必要になったのかも知れない。

当寺撞鐘之義、韮山取巻候者共ニ借遣候、為奉行石川兵蔵・新庄新三郎可相渡候也、
四月廿九日/(羽柴秀吉朱印)/清見寺

  • 豊臣秀吉文書集3045「羽柴秀吉朱印状」(清見寺文書)

当寺の鐘のこと。韮山を包囲している者たちに貸すため送ります。石川兵蔵・新庄新三郎を奉行とするのでお渡し下さい。

5月6日 羽柴秀吉→稲葉貞道・前野長康・生駒親正

この時、仕寄(包囲設備)を頑丈にしたなら「かねほり=坑夫」を派遣すると告げている。戦線が膠着していたようだ。

其方手前仕寄丈夫ニ申付候者、かねほりを可被遣候間、手堅申付候て、様子可言上候也、
五月六日/(羽柴秀吉朱印)/羽柴郡上侍従とのへ・前野但馬守とのへ・生駒雅楽頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3197「羽柴秀吉朱印状」(個人蔵)

そちらの手元にある仕寄を頑丈にするよう指示したなら、金掘りを派遣しますので、手堅く指示して状況を報告して下さい。

6月2日 羽柴秀吉→福島正則

ここでようやく、「下丸」を攻め崩して放火している。「下丸」がどこかは不明だが、丘陵地ではない部分、韮山高校の敷地、もしくはその外側にあった曲輪ではないかと考えている。

味方に負傷者が出ないように静かに攻めろという指示が出ているが、これは秀吉自らが力攻めを命じた岩付攻城でも使われている言葉であり、韮山攻めが特別に加減されていた訳ではない。

昨日申刻、韮山下丸乗崩、令放火之由、神妙之動候、然者かね掘可被遣候条、寄能山之方へ仕寄可相付候、手負無之様、土手丈夫仕出、静ニ可取寄候、猶福原右馬助・木下半介可申候也、
六月二日/(羽柴秀吉朱印)/福島左衛門大夫とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3259「羽柴秀吉朱印状」(永青文庫叢書・細川家文書)

昨日申刻に、韮山下丸を乗り崩して放火したとのこと。神妙な働きです。ということで金掘りを派遣するでしょうから、うまく山の方へ寄せるよう指示して下さい。怪我人が出ないように土手を丈夫に作って、静かに寄せて下さい。更に福原右馬助・木下半介が申します。

6月7日 羽柴秀吉→加藤清正

戦果を報告した末尾に「韮山ニ後端城五ツ乗取之候」とある。「後端城」は本城の南東にある天ヶ岳の山岳部分を指すかと思われる。しかし、落城は近いだろうと書いていることからして、まだ抵抗を続けている。

去月六日書状、去三日被加御披見候、依小田原之儀、弥丈夫ニ仕寄等被仰付候、依之城中続夜日及難堪、欠落候輩雖有之、於其端被加御成敗、又ハ被追返候間、上下被為干殺を相待迄候、昨夜和田家来之者百余、家康江相理、小屋ゝゝニ火を掛、走出候、雖可被成誅罰、家康江兼々心合候由候条、被助置之候、関八州之儀、城々悉相渡候、其内岩付・鉢形・八王寺・忍・持井、何も命者被相助候様ニと、北条安房守御侘言申上候へ共、不被入聞召、右之内武州岩付ハ北条十郎城ニ而候、八州ニ而用害堅固之由被召及、可然所より先可責干之旨被仰遣、則木村常陸介・浅野弾正少弼・山崎・岡本、家康内本多・鳥居・平岩以下弐万余、岩付へ押寄、即時ニ外構共被破、千余討捕之、本城一之門江相付候、然者城中可然者大略討死ニて、残者町人・百姓、其外妻子類迄ニ候、十郎者小田原ニ在之間、命之儀被為助候様ニと申上候条、城受取渡被仰出候、十郎妻子を初、悉被召籠置候、死残候者長度者同前候、八州城より小田原ニ籠城之者、妻子共何も右之分へ、其趣小田原へ相聞、弥令難儀無正躰旨、欠落之者申候、安房守儀不打置、被成御助候様ニと歎申、既鉢形江者、越後宰相中将・加賀宰相・浅野・木村を初、五万余被発向候、忍城江者、石田治部少輔ニ佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷・佐野天徳寺被相添、以二万余可取巻旨雖被仰出候、脇ニ仕候岩付城被加御成敗上者、命計相助、城可請取旨被仰遣候、奥両国面々不残参拝、其内伊達参上仕候、彼手前之儀、此頃押領之地可返上由、堅被仰出、御請申候、弥不相替可被成御対面候、将亦韮山ニ後端城五ツ乗取之候、日々夜々仕寄無由断被仰付候間、落居不可有程候、猶山中橘内可申候也、
六月七日/(羽柴秀吉朱印)/加藤主計頭殿へ

  • 豊臣秀吉文書集3265「羽柴秀吉朱印状写」(阿部氏家蔵豊太閤朱印写)

去る月の6日の書状、3日に拝見しました。小田原のことは、ますます丈夫に仕寄を指示しています。これによって城中は日を追って耐え難くなり、逃亡する者が出ました。その度に成敗しています。また、追い返してもいて、城内上下が餓死するのを待っています。昨夜は和田の家来100名以上が家康に連絡して、複数の小屋に放火して脱走しました。誅罰を加えるつもりでしたが、家康へ以前より心を合わせているとのことだったので、助命しました。関八州では城々は全て制圧しました。そのうちで岩付・鉢形・八王子・忍・津久井は、どこも助命嘆願が北条氏邦からありましたが、受け入れませんでした。右のうちで岩付は北条氏房の城です。八州では要害堅固と聞いて、そういう場所から攻め落とそうと指示しました。そして木村一・浅野長吉・山崎片家・岡本良勝、家康の家中からは本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉という2万余りが岩付へ押し寄せ、即時に外構を破り1千人以上を討ち取りました。本城の一の門に兵をつけたところ、城中の主要な者は殆ど戦死して、残りは町人・百姓とその妻子だけで氏房は小田原にいるので、命は助けてもらえないかと懇願がありました。そこで城を受け取らせました。氏房妻子をはじめとして、全員を拘束しています。生き残った者で主だった者も同然です(「長度」は「長敷」の誤記と想定)。八州の城から小田原に籠った者の妻子は右のようになると、その様子は小田原にも聞こえていて、いよいよ難儀してうろたえていると、逃亡した者が言っています。氏邦のことは打ち置かず、お助け下さいと嘆願しています。既に鉢形へは上杉景勝・前田利家・浅野長吉・木村一をはじめ、5万余りが進軍しています。忍城へは石田三成に佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷・佐野天徳寺を添えて2万余りで包囲せよと指示しました。その脇にある岩付城に成敗を加えた上は命だけは助けて城を接収せよという指示です。奥羽両国の面々は残らず参拝し、その内で伊達は参上しました。あの手前のことから、この頃占領した土地を返上せよと堅く命じ、受諾。特に変わったこともなく対面が終わりました。一方で、韮山で後ろ端にある城を5つ乗っ取りました。日夜仕寄を油断なくするように指示していますから、落城はすぐでしょう。更に山中橘内が申します。

6月7日 徳川家康→北条氏規

「後端城五ツ乗取」を羽柴秀吉が報告したのと同日、徳川家康は籠城中の北条氏規に降伏を勧告している。度々勧告を送っていたのが判る。この文書が伝来したことからすると、これが最後の勧告でこの後程なく開城したのではないかと推測できる。

態令啓候、仍最前も其元之儀及異見候之処ニ、無承引候之き、此上者、被任我等差図、菟角先有下城、氏政父子之儀、御侘言専一候、猶朝比奈弥太郎口上相含候、恐ゝ謹言、
六月七日/家康(花押)/北条美濃守殿

  • 戦国遺文後北条氏編4542「徳川家康書状」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)

折り入ってご連絡します。さて前にもあなたに意見をしたところ、承認いただけませんでした。こうなった上は、私の考えにお任せいただき、とにかく下城して氏政父子のことを嘆願するのが専一です。更に朝比奈泰勝が申します。

6月28日 羽柴秀吉→加藤清正

この日に初めて、韮山開城が確認できる。この時点で残されていたのは小田原と津久井、忍の3箇所のみ。小田原より早く開戦当初から攻撃されていた韮山は、小田原とほぼ同じ防御期間を記録したことになる。

関東御陣為見舞、使者殊筒服一・帷子百到来、遠路切々懇志思召候、仍此表之儀、弥無残所被仰付候、武州鉢形城北条安房守居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言申上ニ付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林候、同国八王子城要害堅固ニ付、敵歴々之者共余多楯籠候条、越後宰相中将・加賀宰相・越中侍従・木村常陸介・山崎志摩守ニ被仰付、去廿三日則時責崩、悉討果、大将分十人、其外弐千余討捕之、討捨追討等不知其数候、妻子・足弱迄も悉被加御成敗候、同国忍城之儀、浅野弾正少弼・石田治部少輔ニ佐竹・結城・宇都宮・多賀谷・水谷・真田・佐野以下被仰付、水責仕候、城中より様々御侘言雖申上候、不被聞召入候、付井城ハ家康内本田・鳥居・平岩ニ被為取巻候、韮山之儀者北条美濃守此中御侘言申上候、彼者事最前上洛仕、被成御覧候故、不便ニ被思召、命被成御助候、剃頭高野栖候、然者小田原一城落居不可有程候、城内下々計略申分色々雖有之、不被入聞召入候、悉可被干殺御覚悟候、弥以出羽・奥州迄平均静謐候、伊達・山方・南部以下令参陣候、当表被成御仕置、至于会津被移御座、両国御掟堅可被仰出候、随而高麗人渡海之由候、着岸次第可召具旨、小西かたへ被仰出候、其元之儀、馳走専一候、猶増田右衛門尉可申候也、
六月廿八日/(羽柴秀吉朱印)/加藤主計頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3276「羽柴秀吉朱印状」(東京国立博物館)

関東御陣への見舞のため使者をいただき、特に筒服1つ、帷子100が到来したことは、遠路にこまごまとしたご親切だと感じ入りました。さてこの方面のことですが、いよいよ残すところもなく収束させています。武蔵国の鉢形城は北条氏邦の居城です。押し詰めて、すぐに成敗しようと思っていたところ、命だけはお助け下さいと嘆願してきたので、去る14日に城を接収しました。氏邦は剃髪して謹慎しています。同国の八王子城は要害堅固で敵で武名が高い者たちが数多く籠城していましたから、上杉景勝・前田利家・前田利長・木村一・山崎片家に命じて、去る23日に即時攻め崩し全員討ち取りました。大将分は10人、そのほかは2千余を討ち取っています。討ち捨てや追い討ちなどは数え切れません。妻子・足弱なども全員成敗しました。同国忍城は、浅野長吉・石田三成に佐竹・結城・宇都宮・多賀谷・水谷・真田・佐野以下を付けて水攻めにしています。城中から様々な嘆願をしていますが、聞き入れていません。津久井城は家康家中の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉に包囲させています。韮山のことは北条氏規が嘆願してきました。あの者は以前上洛して面会していますから不憫に思い、命は助けました。剃髪して高野山に住まわせます。ということで小田原一つだけとなり、落城まで時間はかからないでしょう。城内の下々からは内応しようと色々言ってきますが聞き入れていません。全員を餓死させる覚悟です。いよいよもって、出羽・奥州まで平均・静謐となります。伊達・山形・南部以下は参陣しています。この方面を裁定するため、会津まで行って、両国の掟を堅く発令します。従って、高麗人が渡海したとのこと。着岸したら連れて来るようにと、小西方へ指示されました。そちらのことは奔走することが専一です。更に増田長盛が申します。

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