2019/12/14(土)「入道」の前後につく言葉

史料不足だったため、追記・修正

入道リスト

「入道」で呼称を戦国遺文(後北条氏編と今川氏編)の索引で抽出したものに、埼玉県資料叢書、信長文書の研究、神奈川県史、静岡県史、愛知県史からのデータを付加。自称・他称や文書形式で実情は異なると思われるが、そこは反映していない。

種類別のグラフ

入道 種別割合.png

リスト

種別 要素 名前 出典
A=入道のみ 入道 (新井)入道 戦北
A=入道のみ 入道 (伊勢)入道 戦北
A=入道のみ 入道 (長尾)入道 戦北
B=俗名・入道 仮名+入道 (伊勢)新九郎入道 戦今
B=俗名・入道 仮名+入道 (奥平)八郎左衛門尉入道 戦今
B=俗名・入道 仮名+入道 (紅林)次郎左衛門入道 戦今
B=俗名・入道 仮名+入道 (西郷)弾正左衛門入道 戦今
B=俗名・入道 仮名+入道 (向坂)六右衛門入道 戦今
B=俗名・入道 仮名+入道 (鳥居)源七郎入道 戦今
B=俗名・入道 仮名+入道 (波木井)六郎入道 戦今
B=俗名・入道 仮名+入道 (松下)善九入道 戦今
B=俗名・入道 仮名+入道+諱 (興津)藤兵衛入道正信 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (笠原)越前入道 戦北
B=俗名・入道 官途+入道 (北条)上総入道 戦北
B=俗名・入道 官途+入道 (山本)信濃入道 戦北
B=俗名・入道 官途+入道 (簗田)中務入道 戦北
B=俗名・入道 官途+入道 (浅原)飛騨入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (荒河)播磨入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (伊東)伊賀入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 近江入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (岡部)美濃入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (興津)美濃入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (奥平)監物入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (加賀爪)三河入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (筒井)伊予入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (永見)中務丞入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (冨士)相模入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (松井)山城入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (御厨)伯耆入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (岩瀬)和泉入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (幡鎌)靱負入道 戦今
B=俗名・入道 官途+入道 (簗田)中務入道晴助
B=俗名・入道 官途+入道+諱 (清水)上野入道康英 戦北
B=俗名・入道 道名+入道 信玄入道
B=俗名・入道 名字+仮名+入道 糟屋新左衛門入道 戦今
B=俗名・入道 名字+仮名+入道 小島三郎右衛門入道 戦今
B=俗名・入道 名字+仮名+入道 伊勢新九郎入道 戦北
B=俗名・入道 名字+仮名+入道 上杉四郎入道
B=俗名・入道 名字+仮名+入道 遠山三郎兵衛入道
B=俗名・入道 名字+仮名+入道 牧野平左衛門入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 天野佐渡入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 天野新右衛門尉入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 安藤豊前入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 笠原越前入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 加納越後入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 北条安芸入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 毛利安芸入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 喜多条安芸入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 清水上野入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 神保宮内入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 関善左衛門入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 長尾左衛門尉入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 原若狭入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 原豊前入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 北美(北条美濃)入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 山本信濃入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 間宮豊前入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 真里谷大学入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 簗田中務大輔入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 天野安芸入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 飯尾若狭入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 近藤山城入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 佐々木丹波入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 袴田対馬入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 松井山城入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 三浦安芸入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 興津美作入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 糟屋但馬入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 安保信濃入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 大森信濃入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 上杉修理太夫入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 富士兵部大輔入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 波多野伊賀入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 長尾左衛門入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 上田蔵人入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 矢野安芸入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 木村式部入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 発知山城入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 蔭山長門入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 岡部豊後入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 仁科民部入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 蒲生下野入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 布施淡路入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 種子島左近大夫入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 本庄美作入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 大井左馬允入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 戸次伯耆入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 遠山左衛門入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 太田美濃入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 山左入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 冨岡対馬入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 山角対馬入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 島津修理入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 大森式部大輔入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 石毛大和入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 神庭三河入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道 斎藤式部入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 福本掃部入道
B=俗名・入道 名字+官途+入道 高井兵庫入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 原河讃岐入道 戦今
B=俗名・入道 名字+官途+入道 板部岡越中入道 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道+諱 北条美濃守入道氏規 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道+諱 松田尾張入道憲秀 戦北
B=俗名・入道 名字+官途+入道+諱 伊東三位入道義祐 戦今
B=俗名・入道 名字+入道 赤見入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 板部岡入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 梅原入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 大戸入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 海保入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 北入(北条入道) 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 久米入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 国分入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 酒井入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 清水入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 神保入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 鈴木入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 長尾入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 伊藤入道 戦今
B=俗名・入道 名字+入道 難波田入道 戦今
B=俗名・入道 名字+入道 堀入道 戦今
B=俗名・入道 名字+入道 本郷入道 戦今
B=俗名・入道 名字+入道 今井入道
B=俗名・入道 名字+入道 大日方入道
B=俗名・入道 名字+入道 里見入道
B=俗名・入道 名字+入道 石井入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 林入道
B=俗名・入道 名字+入道 杉田入道 戦北
B=俗名・入道 名字+入道 坂田入道 戦今
B=俗名・入道 諱+入道 (向坂)長能入道 戦今
C=出家名・入道 道名+入道 (鵜殿)玄長入道 戦今
C=出家名・入道 道名+入道 (海老江)存高入道 戦今
C=出家名・入道 道名+入道 (詫摩)正碩入道 戦今
C=出家名・入道 道名+入道 (和夫)法源入道 戦今
D=混合 官途+入道+道名 (長尾)左衛門尉入道沙弥 戦今
D=混合 官途+入道+道名 (浜名)前備中入道成繁 戦今
D=混合 官途+入道+道名 (上杉)治部少輔入道建芳
D=混合 道名+官途+入道 (中山)生心民部入道 戦今
D=混合 名字+仮名+道名+入道+諱 長尾平三宗心入道景虎 戦今
D=混合 名字+仮名+入道+道名 松平三郎右衛門入道浄賢 戦今
D=混合 名字+仮名+入道+道名 斉藤五良左衛門入道智伝二女 戦今
D=混合 名字+仮名+入道+道名 伊勢新九郎入道宗瑞
D=混合 名字+仮名+入道+道名 堀平右衛門入道道清
D=混合 名字+仮名+入道+道名 高橋一左衛門入道空道
D=混合 名字+官途+入道+軒号 上原民部入道随翁軒
D=混合 名字+官途+入道+道名 北条上総入道道感 戦北
D=混合 名字+官途+入道+道名 佐々木左衛門大夫入道承禎 戦今
D=混合 名字+官途+入道+道名 長尾左衛門入道伊玄
D=混合 名字+官途+入道+道名 大友左衛門督入道宗麟
D=混合 名字+官途+入道+道名 武田大膳大夫入道晴信 戦今
D=混合 名字+官途+入道+道名 北条安芸入道芳林
D=混合 名字+官途+入道+道名 南条山城入道香玉 戦北
D=混合 名字+道名+入道 奥平道紋入道 戦今
D=混合 名字+道名+入道 武田信玄入道 戦今
D=混合 名字+道名+入道 村松道化入道 戦今
D=混合 名字+入道+道名 板部岡入道江雪 戦北
D=混合 名字+入道+道名 海保入道長玄 戦北
D=混合 名字+入道+道名 堀入道道清 戦今
D=混合 名字+入道+道名 板入江雪 戦北

2019/12/08(日)データ化した史料一覧

1.コーパス

データ化した古文書・古記録。後北条・今川が中心。

現バージョンでは7,109件を収録。データ整合のため、閏月は正月の前に位置している点にご注意を。また、月日列は文字セルにするために「★」を先頭につけている。

2.増訂織田信長文書の研究での、信長が貰った贈り物

織田信長の返礼状から、もらった物を列挙。

3.後北条氏所領役帳フルテキスト

後北条氏の被官知行が判る史料。数値は全て原文通りのため、簡単な置換ではアラビア数字には変えられないので留意(10 → 十 もしくは 拾)。

2019/09/11(水)上杉輝虎と今川氏真の交渉年次を再比定してみる

1)「尾崎妙忍」という商人

永禄10年の駿河国。茜の売買を巡って一つの訴訟が結審する。

  • 戦国遺文今川氏編2155「三浦元政等連署証文写」(駿河志料巻七十八友野文書)

就茜之儀、尾崎妙忍ニ 御判形雖被下之、無前々筋目、自他国之商人御訴訟之旨言上之処、被聞食分、各に御判形被下之畢、然者為其御礼段子拾段・金襴拾巻・虎皮二枚進上、即令披露候、縦重而加様之新役雖有競望之輩、一切不可有御許容旨、所被 仰出也、仍為向後一筆如件、
永禄十年十一月五日/三左元政花押・金遊芳線・伊左元慶・由内匠頭光綱/友野次郎兵衛とのへ・松木与三左衛門とのへ・他国商人中

今川氏真が茜座の利権を尾崎妙忍という人物に渡したが、他国の商人が提訴したという。この結果として、各々に許諾状が渡される。これを告知したのは三浦・朝比奈・伊東・由比という今川家被官たちで、宛先は松木・友野という馴染みの商人のほかに、他国商人。

これによると、氏真は尾崎妙忍という商人に独占権を与えていたことが判る。この尾崎妙忍とは何者か。

2)京都の「尾崎」

戦国遺文今川氏編の索引を見ると「尾崎」はこの他に1件しか登場していない。それが、在京被官の宗是が言及した「尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候」という部分。

  • 戦国遺文今川氏編2176「宗是書状」(上杉文書)

御上洛以後不申上候、慮外之至候、仍従屋形以書状被申入候、将又、尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候、依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候、就中貴国与相甲和与之御扱之旨、風聞候、於事実者、当国を証人仁被成之様、御馳走候者、祝着可被申候、委細様躰永順ニ申含候間、令省略候、此等之趣、可預御披露候、恐惶謹言、
四月廿四日/宗是(花押)/進上今林寺方丈衣鉢禅師

ここから判るのは、上杉と今川を繋ぐルートが、京を介していたという点。

(越後:輝虎→今林寺住持)→(京都:尾崎→宗是)→(駿河:今川家中)

この、宗是に今林寺住持からの書状を取り次いだ「尾崎」が尾崎妙忍だとすると、越後との外交関係から尾崎を優遇する措置を氏真が講じた可能性が出てくる。それに反発した既存勢力によって覆されたのが永禄10年11月5日だとすれば、外交関係は茜座一件の前にある程度進展していると見るべきだ。

比定し直すと、宗是書状は永禄8年比定に繰り上がる。また、義信室の帰国顛末に触れた今川被官の書状と、年欠で氏政が義信室の受け入れ準備を急いでいる書状の方は永禄9年になる。

もう一点、この文書で注意が必要。文中の「仍従屋形以書状被申入候」の「屋形」を氏真とするか、輝虎とするかで意味がかなり異なってくる。

正規ルートとして要明寺住持が持参した「屋形より書状を申し入れられ候」という状況がまずある。一方で、今林寺住持の私信「尾崎かたへ尊書」がある。少なくとも今林寺書状は宗是宛てなので、彼が「当地において拝見仕り候」の大将には入っている。但し、屋形書状について宗是は見ていないだろう。

というのは、「あの御縁の儀、仰せ調えられるにおいては、もっともに存じ候」という意見を述べているからだ。「彼御縁」であって「此御縁」でないのは、宗是は屋形書状を実際に見ていないため。ただ今林寺書状によって、それが越駿親交提案書であると把握している。

3)比定年はどう動くか

2での検討を反映させて、従来の比定と比較してみる。■は年記載ありの確定史料

従来比定

永禄10年
  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • <諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消(年記載あり)
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」
永禄11年
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」

今回比定

永禄8年
  • 3月12日:今川方が三河を完全に失う
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」
  • <この間の家老書状は逸失?>
  • 5月1日:義信室が大般若を真読
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」
永禄9年
  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • ■4月3日:富士大宮での楽市規定で、諸税や通関を停止するよう通知
  • <越後外交成立を受け尾崎に茜座独占を許可>
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
永禄10年
  • <独占が露見し、諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消

従来比定では宗是書状が最後尾に位置するため、申し入れた「屋形」は氏真に比定されていたが、今回試みている比定では最初の接触に当たるので「屋形」は輝虎になる。上杉家当主からの正規書状と並行して、宗是と面識のある今林寺住持による縁辺の申し込み、という2段仕掛けになっている。

従来比定では最後に来た宗是書状がどこか的外れな印象だったが、今回の比定だと自然に解釈できる。

4)義信室帰国案件との相関性

新比定では、義信室の帰国と同時期に従来型商人(甲斐とも繋がる松木・友野)を抑制して、新興商人の呼び込みをする政策が始まることになる。また、武田への不信感を露骨に表明した今川被官たちの書状もこの時期。

では、義信室の帰国は比定を1年繰り上げて問題ないだろうか。

武田義信の失脚と死がいつかは確実な史料がないため、ここからの逆算はできない。鍵になるのは、義信室が大般若の真読を行ったという武田晴信の書状。

  • 静岡県史資料編8_補遺0240「武田晴信書状」(比毛関氏所蔵文書)

急度染一筆候、和田辺麦毛純■■■、頻而告来候条、来■日■井田■、四日■和田■移陣候、然者人数一向不調候、苻内可被相触候、次駿州江信虎様御越候哉否、節々彼国之模様被聞、註進待入候、随而於于旗屋之祈念之事、無疎略御勤行尤之由、不閣可有催促候、恐々謹言、
追而、新造御祈祷真読大般若之事、駿州江被聞候条、無疎意可被申付候、
五月一日/信玄(花押)/高白斎殿・市川七郎右衛門尉殿

この追伸では「新造がご祈祷で大般若を真読すること、駿河へ聞こえるだろうから粗意のないように」とある。義信室は何を祈るために大般若を真読したのか? 般若経は氏輝死去・氏康危篤で持ち出されている大掛かりな行事。なおかつ、真読となれば相当長い時間がかかる。夫の生死に関わることとしか考えられないところだが、少し深読みしてみる。

この段階で今川から帰国要望は出ていたのだろうか。三浦氏満と朝比奈泰朝連署書状を見てみる。

  • 戦国遺文今川氏編2174「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、
四月十五日/三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝/直江大和守殿・柿崎和泉守殿御宿所

これによれば、彼女の帰国は氏康父子が仲介したという。この仲介に答えて晴信が「氏真の起請文がないのは問題だ」と言い立てている。状況を考えると、その前段で義信室の帰国が拒絶されており、やむを得ず後北条に声をかけたのが想起される。但し、後北条の仲介で初めて起請文と言い出したことから、晴信は当初、別の理由で帰国回避していたのだろう。

上記を合わせて考えると、今川からの帰国要請を回避するために「大般若真読」を持ち出したと考えられる。これだと「駿河にも聞こえるだろうか」という文面とも馴染む。

上記の諸要素をまとめると、永禄8年5月の段階で既に駿甲は緊張関係に突入している。そして、その裏には義信死去を察知した輝虎の素早い工作があったようだ。

但し、この緊張関係から後北条氏は距離を置いていたようで、永禄11年8月に至っても小田原海蔵寺のために武田氏は伝馬を出している( http://www.rek.jp/0134 )。また、北条氏政が義信室を伊豆三島に引き取る際の文書解釈で専門各書に混乱があるので要注意( http://www.rek.jp/096 )。

蛇足

それにしても、義信室の様子は痛ましく思える。夫を奪われた挙げ句、実家に戻さないために長時間の祈祷を強要されているし、やっと戻ったと思ったら追い立てるように実家を焼かれてしまう。義忠室から始まって氏親室・晴信室・氏康室が繋ぎ、三国の娘たちに引き継がれる筈だった閨閥政治が、最も大きな影響力を行使した氏親室の死去を待ちかねたように崩れ去った。そんな中でも、死に至ったのは北条氏政室(晴信娘)と葛山氏元室(氏綱娘)。意外にも、義信室(義元娘)と氏真室(氏康娘)は近世まで生き延びている。

2019/04/10(水)今川方の笠寺籠城はあったのか

要検討文書

「桶狭間」を巡る仮説はあれこれ出ているが、その2年前、既に今川方が笠寺城に籠城し、織田信長から攻撃されていたという前提はいまだに続いている。ところが、この根拠となる文書には疑惑があり、戦国遺文今川氏編でも「要検討」となっている。

要検討史料については下記で一度考察してみたが、なかなか難しい。

要検討史料の例

そこで改めて、永禄元年3月3日に今川義元が笠寺城中に出したとされる文書について、どこがおかしいのかをまとめてみた。

文書A 戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(真田宝物館所蔵文書)

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中

最大の疑問点:花押形

この文書は差出人「義元」の下に太原崇孚の花押形が入っているが、崇孚はこの3年前に亡くなっている。事実だと押し切るならば、義元がこの時だけ崇孚花押を模したものを据えて、その後は花押を戻したということになる。しかし、そうした例はなく、明らかにおかしい。

では、改竄・創作したとして、なぜ作成者は崇孚没年に気づけなかったか。

そこで想起されるのが、差出人の偽造内容が全く同じものがあるという点。それは天文18年の御宿藤七郎宛ての2件。

文書B 戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿

文書C 戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿

この年は崇孚が三河に出兵しているのは確実なため、後世の改竄者が花押は崇孚のまま、箔をつけるために上の名乗りを「義元」に書き換えたという可能性がある。但し、B/C文書には文言にも不審な点があり、改竄は本文にも及んでいたか可能性の方が高い。

このB/C文書を見た者が花押形を勘違いしてA文書を作成したと考えると、死者である崇孚の花押が永禄元年に突如出現した理由が判明する。

伝来が同じであることから、BとCの文書は同じ者が関わったと見てよいと思う。では、B/Cに関わった者がAにもまた関わったのだろうか。私にはどうも、別人の確率が高いように思える。

まず、伝来が別であること。そして、B/C関与者は差出人名乗りの「崇孚」もしくは「雪斎崇孚」を「義元」に変更した自覚があったはずで、崇孚死去後のAにわざわざ用いないだろうということ。

但し、崇孚死去年を知らずに永禄元年文書を作成した可能性もあり、完全に別人とは断言できない。とはいえややこしいので、ここでは別人として推測を進める。

発給目的が判らなくなる宛所

では永禄元年の要検討文書に真正の部分が残されているだろうか。

まず、被官連名+「城衆・城衆中」という宛所が奇妙だ。在城衆宛てにするのは、情報共有・規則告示で、例外的に下田城衆に宛てた開城後の安全保障起請文がある。このように武功を顕彰する内容は例がない。

さらに、武功を顕彰する感状は本来個人宛てで出すもので、連名にするのは親子・兄弟などに限られる。たとえばこの文書だと、浅井・飯尾・三浦・葛山それぞれに出すのが通例だ。

というのは、それぞれの家で文書を保管する際に、正本が各家に必要になる。家が同じ親子・兄弟はまとめても大丈夫だが、ここにある名は別個の家で、少なくとも飯尾・三浦・葛山は大きな譜代衆だから、まとめて出されても困惑するだけだろう。また、各人の被官が手柄をあげた場合でも、主人名義であるにせよ、名を記して感状にする。

本文の検証

もし真正部分があるとすれば、個人宛て感状としての本文に複数の宛所を追記したと考えるしかない。そこで、本文の文言を他例から検証する。

「織弾」

違和感がある。「織弾」は長井秀元書状で出てくるが、これは織田信秀を指している。今川義元は天文18年に信秀を「織備」と呼んでいて、弘治2年の感状では織田信長を「織田上総介」と呼んでいる。

文書D 戦国遺文今川氏編1303「今川義元感状」(東条松平文書)

去三月、織田上総介荒河江相動之処、於野馬原遂一戦、頸一討捕之神妙也、度々粉骨感悦也、猶可励忠節者也、仍如件、弘治弐年九月四日/義元(花押)/松井左近尉殿

「夜込」

恐らく「夜襲・夜討」の意味だろう。使用例は1つあるが、かなり後の年で使用者も北条氏政。弱い違和感を感じるが「夜込」の用例が少なく、特定の状況で使用した可能性もあるので否定するには至らない。

文書E 戦国遺文後北条氏編3415「北条氏政書状写」(浅草文庫本古文書)花押形より天正17年比定

今度牛久夜込之節、岡見甚内被致高名候儀、忠信尤ニ候、乍去以来若武者之儀候得者、勝乗無理之働可有之存候間、無打死様、其方異見指引専一候、替儀於有之者、可被申遣候、恐ゝ謹言、
正月十八日/氏政(花押)/井田因幡殿

「首少々」

決定的に違和感がある。首級を挙げた場合その数は必ず記載する。「少々」のような婉曲表現が使われた例はない。

「堅固ニ可被相守」

これもおかしい。「堅固」に動詞が続く場合は「相拘」「相踏」となる。1点だけ「相守」が来るものがあるが、これがまた白根桃源美術館の御宿文書(こちらも要検討文書)。「堀内要害堅固ニ相守」とある。

文書F 戦国遺文今川氏編2129「武田信玄判物写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

兄元氏不儀之体、不及是非加退治之処ニ、其方以忠義之好不被与悪意之段令感候、仍葛山本領処々[目録別紙有之]、任置候、信貞為名跡之上者、幼少之間軍代被相勤、堀内要害堅固ニ相守、猶以忠勤之覚悟専肝候也、仍如件、
永禄十年三月七日/信玄(花押影)/御宿左衛門次郎殿

もうここまで来れば、真正部分が残されている可能性はほぼないと言ってよい。A文書は何者かによって創作された。この人物は戦国期文書の知識が浅く、白根桃源美術館の御宿文書(B/C/F)を見習ったが、対象文書が偽造もしくは改竄されたものだったため、他文書コーパスから見て違和感が強いものになってしまった。ということだろう。

以上により、永禄元年2~3月に今川方が尾張国笠寺に籠城し、織田信長が攻撃したという証左はなくなったと考えられる。

備考

Aの創作意図は不明だが、要検討によく見られるように、自身か依頼者かの先祖を顕彰したかった。そして、今川義元戦死に直接関わりたくはないものの、戦国期有名ブランドである「桶狭間」に関与はしたかったのかも知れない。

宛所がその意図を示唆するように見える。

  • 浅井小四郎は見当たらない。「小四郎」は北遠天野の当主に見られる仮名。
  • 飯尾豊前守は他史料で存在が確認できる。氏真を裏切ったことで軍記ものに登場。
  • 三浦左京亮は存在するが、三浦左馬助は見当たらない。「左馬助」は新野某・北条氏規が名乗っている。
  • 葛山播磨守は見当たらない。葛山氏元は「備中守」。

上記で見たように、創作者は同時代史料に疎い。飯尾豊前守は軍記で有名なので出したとして、浅井小四郎は「天野小四郎」の間違い、三浦左馬助は「三浦左京亮」の間違いだと考えるのが真相に近いのではないか。

  • 天野小四郎
  • 飯尾豊前守
  • 三浦左京亮

こう並ぶと、今川被官でも有力者が並んだ感がある。

となると、残りの葛山播磨守が懸案となる。備中守と播磨守を間違うかは判断がつかないが、Aが参照した御宿文書の御宿氏は、後世編著で葛山氏の一門と自称している。そこで軍記類を見てみると、同時代史料では一切名が出てこない「葛山備中守」がざくざく出てくる。何れも、御宿勘兵衛の養父として名がある。御宿勘兵衛は大坂の陣で真田信繁と共に籠城し戦死したらしいので、A文書が真田文書となった経緯もうっすら窺える。

2019/03/31(日)伊達房実生存説について

全滅した岩付籠城衆

1590(天正18)年5月21日に、武蔵岩付城は羽柴方によって攻め落とされる。城主の北条氏房は小田原に籠城していたため、城代の伊達房実が守備していた。

惣構が破られたのは5月19日。その翌日、城内にいた松浦康成が、援軍として入っていた戦闘経験豊富な山本正次に書状を出して戦況を確認している(埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」越前史料所収山本文書)。この文書が残っていることから判るように、正次は岩付から脱出している。

但し生還できたのは正次しか確認できておらず、伊達房実・松浦康成は史料から姿を消す。後に氏房が肥前で死去した際に家臣として細谷三河守の名が出てくるが、細谷は氏房に随従して小田原にいたものと思われる。

岩付の武家被官が全滅したのは、落城後に出された書状からも確認できる。

5月27日、羽柴方被官たちが岩付落城を北条氏直に伝えた書状に、

抜粋

本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後

  • 小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

とある。本丸に敵が入る前に、坊守が出てきて「戦闘可能な者は全員戦死した」と降伏している。この状況は寄手から検使が入って確認しているので確実だろう。

更にこの後、氏政妹と氏房室を保護したことが記述されるが、彼女たちの引き取り手がなく、開戦前に拘禁した石巻康敬を派遣して対応したとある。城代である伊達房実がいれば、身元確認や事後対応を彼と協議したはずなので、やはり戦死したものと思われる。

伊達房実が生き残ったという記述

一方で家臣団辞典では、伊達房実は降伏して助命されたと記載する。これは寛政譜を元にしつつ、下記文書を根拠とする。

岩付太田備中守・伊達与兵衛・野本将監妻子之事、何方ニ来共、有度方ニ居住不可有異儀候、恐ゝ謹言、
七月十四日/御名乗御判/羽柴下総守殿・黒田官兵衛殿

  • 記録御用所本古文書0780「徳川家康書状写」(伊達家文書)1590(天正18)年比定

しかしこの内容は、伊達与兵衛(房実)の妻子が生き残ったことしか示さない。太田・伊達・野本が生存していれば、彼らに宛てて妻子の保証をするはずだ。

よく似た文言の文書は織田信長も出しているが、この場合も山口孫八郎は既に存在しておらず、孫八郎妻子の居住の自由を加藤図書助に保証している。

山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者、有所事、何方にても後家可任存分候、猶両人可申候、恐々謹言、
十月廿日/信長(花押)/加藤図書助殿進之候、

  • 愛知県史資料編10_1942「織田信長書状」(加藤景美氏文書)1554(天文23)年比定

同時代史料を見る限りでは、やはり房実は戦死したと判断せざるを得ない。

生存説構築の動機

ではなぜ房実生存を、子孫と称する大和田村伊達家が主張するのか。この伊達家に、妻子の居住を保証した上掲文書が伝来するから、房実と関わりがあるのは確実である。

寛政譜によると、系図で最初に「房実」とあったものは、実は「房成」だと訂正している。ところが、同時代史料では全て「房実」であり、何らかの意図をもって伝承を改変した痕跡が窺われる。また、房実の子を「房次」とするが、仮名は「庄兵衛」となり、以後代々の仮名でも「与兵衛」よりも「庄兵衛」が強く出されていく。

伊達「与右兵衛」は今川家文書でも確認され、房実が今川被官の由来を持つことの証左ともなっているほどの象徴で、そう容易に変えるものとは考えづらい。とすると、岩付で助命された与兵衛の子は娘で、婿に入った庄兵衛がいたのかも知れない。

史料を追いきれていないところなので、ひとまずこの仮説で止めておこうと思う。

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