2019/09/11(水)上杉輝虎と今川氏真の交渉年次を再比定してみる

1)「尾崎妙忍」という商人

永禄10年の駿河国。茜の売買を巡って一つの訴訟が結審する。

  • 戦国遺文今川氏編2155「三浦元政等連署証文写」(駿河志料巻七十八友野文書)

就茜之儀、尾崎妙忍ニ 御判形雖被下之、無前々筋目、自他国之商人御訴訟之旨言上之処、被聞食分、各に御判形被下之畢、然者為其御礼段子拾段・金襴拾巻・虎皮二枚進上、即令披露候、縦重而加様之新役雖有競望之輩、一切不可有御許容旨、所被 仰出也、仍為向後一筆如件、
永禄十年十一月五日/三左元政花押・金遊芳線・伊左元慶・由内匠頭光綱/友野次郎兵衛とのへ・松木与三左衛門とのへ・他国商人中

今川氏真が茜座の利権を尾崎妙忍という人物に渡したが、他国の商人が提訴したという。この結果として、各々に許諾状が渡される。これを告知したのは三浦・朝比奈・伊東・由比という今川家被官たちで、宛先は松木・友野という馴染みの商人のほかに、他国商人。

これによると、氏真は尾崎妙忍という商人に独占権を与えていたことが判る。この尾崎妙忍とは何者か。

2)京都の「尾崎」

戦国遺文今川氏編の索引を見ると「尾崎」はこの他に1件しか登場していない。それが、在京被官の宗是が言及した「尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候」という部分。

  • 戦国遺文今川氏編2176「宗是書状」(上杉文書)

御上洛以後不申上候、慮外之至候、仍従屋形以書状被申入候、将又、尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候、依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候、就中貴国与相甲和与之御扱之旨、風聞候、於事実者、当国を証人仁被成之様、御馳走候者、祝着可被申候、委細様躰永順ニ申含候間、令省略候、此等之趣、可預御披露候、恐惶謹言、
四月廿四日/宗是(花押)/進上今林寺方丈衣鉢禅師

ここから判るのは、上杉と今川を繋ぐルートが、京を介していたという点。

(越後:輝虎→今林寺住持)→(京都:尾崎→宗是)→(駿河:今川家中)

この、宗是に今林寺住持からの書状を取り次いだ「尾崎」が尾崎妙忍だとすると、越後との外交関係から尾崎を優遇する措置を氏真が講じた可能性が出てくる。それに反発した既存勢力によって覆されたのが永禄10年11月5日だとすれば、外交関係は茜座一件の前にある程度進展していると見るべきだ。

比定し直すと、宗是書状は永禄8年比定に繰り上がる。また、義信室の帰国顛末に触れた今川被官の書状と、年欠で氏政が義信室の受け入れ準備を急いでいる書状の方は永禄9年になる。

もう一点、この文書で注意が必要。文中の「仍従屋形以書状被申入候」の「屋形」を氏真とするか、輝虎とするかで意味がかなり異なってくる。

正規ルートとして要明寺住持が持参した「屋形より書状を申し入れられ候」という状況がまずある。一方で、今林寺住持の私信「尾崎かたへ尊書」がある。少なくとも今林寺書状は宗是宛てなので、彼が「当地において拝見仕り候」の大将には入っている。但し、屋形書状について宗是は見ていないだろう。

というのは、「あの御縁の儀、仰せ調えられるにおいては、もっともに存じ候」という意見を述べているからだ。「彼御縁」であって「此御縁」でないのは、宗是は屋形書状を実際に見ていないため。ただ今林寺書状によって、それが越駿親交提案書であると把握している。

3)比定年はどう動くか

2での検討を反映させて、従来の比定と比較してみる。■は年記載ありの確定史料

従来比定

永禄10年
  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • <諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消(年記載あり)
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」
永禄11年
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」

今回比定

永禄8年
  • 3月12日:今川方が三河を完全に失う
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」
  • <この間の家老書状は逸失?>
  • 5月1日:義信室が大般若を真読
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」
永禄9年
  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • ■4月3日:富士大宮での楽市規定で、諸税や通関を停止するよう通知
  • <越後外交成立を受け尾崎に茜座独占を許可>
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
永禄10年
  • <独占が露見し、諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消

従来比定では宗是書状が最後尾に位置するため、申し入れた「屋形」は氏真に比定されていたが、今回試みている比定では最初の接触に当たるので「屋形」は輝虎になる。上杉家当主からの正規書状と並行して、宗是と面識のある今林寺住持による縁辺の申し込み、という2段仕掛けになっている。

従来比定では最後に来た宗是書状がどこか的外れな印象だったが、今回の比定だと自然に解釈できる。

4)義信室帰国案件との相関性

新比定では、義信室の帰国と同時期に従来型商人(甲斐とも繋がる松木・友野)を抑制して、新興商人の呼び込みをする政策が始まることになる。また、武田への不信感を露骨に表明した今川被官たちの書状もこの時期。

では、義信室の帰国は比定を1年繰り上げて問題ないだろうか。

武田義信の失脚と死がいつかは確実な史料がないため、ここからの逆算はできない。鍵になるのは、義信室が大般若の真読を行ったという武田晴信の書状。

  • 静岡県史資料編8_補遺0240「武田晴信書状」(比毛関氏所蔵文書)

急度染一筆候、和田辺麦毛純■■■、頻而告来候条、来■日■井田■、四日■和田■移陣候、然者人数一向不調候、苻内可被相触候、次駿州江信虎様御越候哉否、節々彼国之模様被聞、註進待入候、随而於于旗屋之祈念之事、無疎略御勤行尤之由、不閣可有催促候、恐々謹言、
追而、新造御祈祷真読大般若之事、駿州江被聞候条、無疎意可被申付候、
五月一日/信玄(花押)/高白斎殿・市川七郎右衛門尉殿

この追伸では「新造がご祈祷で大般若を真読すること、駿河へ聞こえるだろうから粗意のないように」とある。義信室は何を祈るために大般若を真読したのか? 般若経は氏輝死去・氏康危篤で持ち出されている大掛かりな行事。なおかつ、真読となれば相当長い時間がかかる。夫の生死に関わることとしか考えられないところだが、少し深読みしてみる。

この段階で今川から帰国要望は出ていたのだろうか。三浦氏満と朝比奈泰朝連署書状を見てみる。

  • 戦国遺文今川氏編2174「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、
四月十五日/三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝/直江大和守殿・柿崎和泉守殿御宿所

これによれば、彼女の帰国は氏康父子が仲介したという。この仲介に答えて晴信が「氏真の起請文がないのは問題だ」と言い立てている。状況を考えると、その前段で義信室の帰国が拒絶されており、やむを得ず後北条に声をかけたのが想起される。但し、後北条の仲介で初めて起請文と言い出したことから、晴信は当初、別の理由で帰国回避していたのだろう。

上記を合わせて考えると、今川からの帰国要請を回避するために「大般若真読」を持ち出したと考えられる。これだと「駿河にも聞こえるだろうか」という文面とも馴染む。

上記の諸要素をまとめると、永禄8年5月の段階で既に駿甲は緊張関係に突入している。そして、その裏には義信死去を察知した輝虎の素早い工作があったようだ。

但し、この緊張関係から後北条氏は距離を置いていたようで、永禄11年8月に至っても小田原海蔵寺のために武田氏は伝馬を出している( http://www.rek.jp/0134 )。また、北条氏政が義信室を伊豆三島に引き取る際の文書解釈で専門各書に混乱があるので要注意( http://www.rek.jp/096 )。

蛇足

それにしても、義信室の様子は痛ましく思える。夫を奪われた挙げ句、実家に戻さないために長時間の祈祷を強要されているし、やっと戻ったと思ったら追い立てるように実家を焼かれてしまう。義忠室から始まって氏親室・晴信室・氏康室が繋ぎ、三国の娘たちに引き継がれる筈だった閨閥政治が、最も大きな影響力を行使した氏親室の死去を待ちかねたように崩れ去った。そんな中でも、死に至ったのは北条氏政室(晴信娘)と葛山氏元室(氏綱娘)。意外にも、義信室(義元娘)と氏真室(氏康娘)は近世まで生き延びている。

2019/04/10(水)今川方の笠寺籠城はあったのか

要検討文書

「桶狭間」を巡る仮説はあれこれ出ているが、その2年前、既に今川方が笠寺城に籠城し、織田信長から攻撃されていたという前提はいまだに続いている。ところが、この根拠となる文書には疑惑があり、戦国遺文今川氏編でも「要検討」となっている。

要検討史料については下記で一度考察してみたが、なかなか難しい。

要検討史料の例

そこで改めて、永禄元年3月3日に今川義元が笠寺城中に出したとされる文書について、どこがおかしいのかをまとめてみた。

文書A 戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(真田宝物館所蔵文書)

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中

最大の疑問点:花押形

この文書は差出人「義元」の下に太原崇孚の花押形が入っているが、崇孚はこの3年前に亡くなっている。事実だと押し切るならば、義元がこの時だけ崇孚花押を模したものを据えて、その後は花押を戻したということになる。しかし、そうした例はなく、明らかにおかしい。

では、改竄・創作したとして、なぜ作成者は崇孚没年に気づけなかったか。

そこで想起されるのが、差出人の偽造内容が全く同じものがあるという点。それは天文18年の御宿藤七郎宛ての2件。

文書B 戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿

文書C 戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿

この年は崇孚が三河に出兵しているのは確実なため、後世の改竄者が花押は崇孚のまま、箔をつけるために上の名乗りを「義元」に書き換えたという可能性がある。但し、B/C文書には文言にも不審な点があり、改竄は本文にも及んでいたか可能性の方が高い。

このB/C文書を見た者が花押形を勘違いしてA文書を作成したと考えると、死者である崇孚の花押が永禄元年に突如出現した理由が判明する。

伝来が同じであることから、BとCの文書は同じ者が関わったと見てよいと思う。では、B/Cに関わった者がAにもまた関わったのだろうか。私にはどうも、別人の確率が高いように思える。

まず、伝来が別であること。そして、B/C関与者は差出人名乗りの「崇孚」もしくは「雪斎崇孚」を「義元」に変更した自覚があったはずで、崇孚死去後のAにわざわざ用いないだろうということ。

但し、崇孚死去年を知らずに永禄元年文書を作成した可能性もあり、完全に別人とは断言できない。とはいえややこしいので、ここでは別人として推測を進める。

発給目的が判らなくなる宛所

では永禄元年の要検討文書に真正の部分が残されているだろうか。

まず、被官連名+「城衆・城衆中」という宛所が奇妙だ。在城衆宛てにするのは、情報共有・規則告示で、例外的に下田城衆に宛てた開城後の安全保障起請文がある。このように武功を顕彰する内容は例がない。

さらに、武功を顕彰する感状は本来個人宛てで出すもので、連名にするのは親子・兄弟などに限られる。たとえばこの文書だと、浅井・飯尾・三浦・葛山それぞれに出すのが通例だ。

というのは、それぞれの家で文書を保管する際に、正本が各家に必要になる。家が同じ親子・兄弟はまとめても大丈夫だが、ここにある名は別個の家で、少なくとも飯尾・三浦・葛山は大きな譜代衆だから、まとめて出されても困惑するだけだろう。また、各人の被官が手柄をあげた場合でも、主人名義であるにせよ、名を記して感状にする。

本文の検証

もし真正部分があるとすれば、個人宛て感状としての本文に複数の宛所を追記したと考えるしかない。そこで、本文の文言を他例から検証する。

「織弾」

違和感がある。「織弾」は長井秀元書状で出てくるが、これは織田信秀を指している。今川義元は天文18年に信秀を「織備」と呼んでいて、弘治2年の感状では織田信長を「織田上総介」と呼んでいる。

文書D 戦国遺文今川氏編1303「今川義元感状」(東条松平文書)

去三月、織田上総介荒河江相動之処、於野馬原遂一戦、頸一討捕之神妙也、度々粉骨感悦也、猶可励忠節者也、仍如件、弘治弐年九月四日/義元(花押)/松井左近尉殿

「夜込」

恐らく「夜襲・夜討」の意味だろう。使用例は1つあるが、かなり後の年で使用者も北条氏政。弱い違和感を感じるが「夜込」の用例が少なく、特定の状況で使用した可能性もあるので否定するには至らない。

文書E 戦国遺文後北条氏編3415「北条氏政書状写」(浅草文庫本古文書)花押形より天正17年比定

今度牛久夜込之節、岡見甚内被致高名候儀、忠信尤ニ候、乍去以来若武者之儀候得者、勝乗無理之働可有之存候間、無打死様、其方異見指引専一候、替儀於有之者、可被申遣候、恐ゝ謹言、
正月十八日/氏政(花押)/井田因幡殿

「首少々」

決定的に違和感がある。首級を挙げた場合その数は必ず記載する。「少々」のような婉曲表現が使われた例はない。

「堅固ニ可被相守」

これもおかしい。「堅固」に動詞が続く場合は「相拘」「相踏」となる。1点だけ「相守」が来るものがあるが、これがまた白根桃源美術館の御宿文書(こちらも要検討文書)。「堀内要害堅固ニ相守」とある。

文書F 戦国遺文今川氏編2129「武田信玄判物写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

兄元氏不儀之体、不及是非加退治之処ニ、其方以忠義之好不被与悪意之段令感候、仍葛山本領処々[目録別紙有之]、任置候、信貞為名跡之上者、幼少之間軍代被相勤、堀内要害堅固ニ相守、猶以忠勤之覚悟専肝候也、仍如件、
永禄十年三月七日/信玄(花押影)/御宿左衛門次郎殿

もうここまで来れば、真正部分が残されている可能性はほぼないと言ってよい。A文書は何者かによって創作された。この人物は戦国期文書の知識が浅く、白根桃源美術館の御宿文書(B/C/F)を見習ったが、対象文書が偽造もしくは改竄されたものだったため、他文書コーパスから見て違和感が強いものになってしまった。ということだろう。

以上により、永禄元年2~3月に今川方が尾張国笠寺に籠城し、織田信長が攻撃したという証左はなくなったと考えられる。

備考

Aの創作意図は不明だが、要検討によく見られるように、自身か依頼者かの先祖を顕彰したかった。そして、今川義元戦死に直接関わりたくはないものの、戦国期有名ブランドである「桶狭間」に関与はしたかったのかも知れない。

宛所がその意図を示唆するように見える。

  • 浅井小四郎は見当たらない。「小四郎」は北遠天野の当主に見られる仮名。
  • 飯尾豊前守は他史料で存在が確認できる。氏真を裏切ったことで軍記ものに登場。
  • 三浦左京亮は存在するが、三浦左馬助は見当たらない。「左馬助」は新野某・北条氏規が名乗っている。
  • 葛山播磨守は見当たらない。葛山氏元は「備中守」。

上記で見たように、創作者は同時代史料に疎い。飯尾豊前守は軍記で有名なので出したとして、浅井小四郎は「天野小四郎」の間違い、三浦左馬助は「三浦左京亮」の間違いだと考えるのが真相に近いのではないか。

  • 天野小四郎
  • 飯尾豊前守
  • 三浦左京亮

こう並ぶと、今川被官でも有力者が並んだ感がある。

となると、残りの葛山播磨守が懸案となる。備中守と播磨守を間違うかは判断がつかないが、Aが参照した御宿文書の御宿氏は、後世編著で葛山氏の一門と自称している。そこで軍記類を見てみると、同時代史料では一切名が出てこない「葛山備中守」がざくざく出てくる。何れも、御宿勘兵衛の養父として名がある。御宿勘兵衛は大坂の陣で真田信繁と共に籠城し戦死したらしいので、A文書が真田文書となった経緯もうっすら窺える。

2019/03/31(日)伊達房実生存説について

全滅した岩付籠城衆

1590(天正18)年5月21日に、武蔵岩付城は羽柴方によって攻め落とされる。城主の北条氏房は小田原に籠城していたため、城代の伊達房実が守備していた。

惣構が破られたのは5月19日。その翌日、城内にいた松浦康成が、援軍として入っていた戦闘経験豊富な山本正次に書状を出して戦況を確認している(埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」越前史料所収山本文書)。この文書が残っていることから判るように、正次は岩付から脱出している。

但し生還できたのは正次しか確認できておらず、伊達房実・松浦康成は史料から姿を消す。後に氏房が肥前で死去した際に家臣として細谷三河守の名が出てくるが、細谷は氏房に随従して小田原にいたものと思われる。

岩付の武家被官が全滅したのは、落城後に出された書状からも確認できる。

5月27日、羽柴方被官たちが岩付落城を北条氏直に伝えた書状に、

抜粋

本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後

  • 小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

とある。本丸に敵が入る前に、坊守が出てきて「戦闘可能な者は全員戦死した」と降伏している。この状況は寄手から検使が入って確認しているので確実だろう。

更にこの後、氏政妹と氏房室を保護したことが記述されるが、彼女たちの引き取り手がなく、開戦前に拘禁した石巻康敬を派遣して対応したとある。城代である伊達房実がいれば、身元確認や事後対応を彼と協議したはずなので、やはり戦死したものと思われる。

伊達房実が生き残ったという記述

一方で家臣団辞典では、伊達房実は降伏して助命されたと記載する。これは寛政譜を元にしつつ、下記文書を根拠とする。

岩付太田備中守・伊達与兵衛・野本将監妻子之事、何方ニ来共、有度方ニ居住不可有異儀候、恐ゝ謹言、
七月十四日/御名乗御判/羽柴下総守殿・黒田官兵衛殿

  • 記録御用所本古文書0780「徳川家康書状写」(伊達家文書)1590(天正18)年比定

しかしこの内容は、伊達与兵衛(房実)の妻子が生き残ったことしか示さない。太田・伊達・野本が生存していれば、彼らに宛てて妻子の保証をするはずだ。

よく似た文言の文書は織田信長も出しているが、この場合も山口孫八郎は既に存在しておらず、孫八郎妻子の居住の自由を加藤図書助に保証している。

山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者、有所事、何方にても後家可任存分候、猶両人可申候、恐々謹言、
十月廿日/信長(花押)/加藤図書助殿進之候、

  • 愛知県史資料編10_1942「織田信長書状」(加藤景美氏文書)1554(天文23)年比定

同時代史料を見る限りでは、やはり房実は戦死したと判断せざるを得ない。

生存説構築の動機

ではなぜ房実生存を、子孫と称する大和田村伊達家が主張するのか。この伊達家に、妻子の居住を保証した上掲文書が伝来するから、房実と関わりがあるのは確実である。

寛政譜によると、系図で最初に「房実」とあったものは、実は「房成」だと訂正している。ところが、同時代史料では全て「房実」であり、何らかの意図をもって伝承を改変した痕跡が窺われる。また、房実の子を「房次」とするが、仮名は「庄兵衛」となり、以後代々の仮名でも「与兵衛」よりも「庄兵衛」が強く出されていく。

伊達「与右兵衛」は今川家文書でも確認され、房実が今川被官の由来を持つことの証左ともなっているほどの象徴で、そう容易に変えるものとは考えづらい。とすると、岩付で助命された与兵衛の子は娘で、婿に入った庄兵衛がいたのかも知れない。

史料を追いきれていないところなので、ひとまずこの仮説で止めておこうと思う。

2019/03/30(土)足利政知死後の北条御所

円満院殿の実像が垣間見える史料

 下記は『拾遺京花集』に収められた円満院殿・潤童子の三回忌法語。著者は相国寺の横川景三(播磨出身の僧侶)。

足利政知後室の三回忌の法会(拾遺京花集・韮山町史中巻552ページ)

円満院殿拈香法語
延徳三年、円満院殿拈香、相公弟潤童子、相公母円満院殿、同日逢害、女中有、大丈夫出任姒興周、如昨日、君不見豆駿以東、冨士烟、挙香云、紅爐手練天雪、大日本国山城州京師位大功徳源朝臣義高、明応二年歳舎癸丑七月一日、伏値皇姒円満院殿月岩大禅定尼大祥忌之辰、就于当院設大斎会、造仏像金之木之、抽経王、書者印者、修慈懺摩法

「女中」は女性配偶者を指す。この場合は「女中=円満院殿」「大丈夫=政知」と思われる。

「興」は「輿(こし)」の誤記ではないか。とすれば意味が通る。

「奥方様がいた。夫の鎌倉公方就任でで出立する時の姒<=彼女o姉>の輿周りの様子は、昨日のようだ」

「紅爐」は燃えている炉で「紅爐一点雪」の禅語と懸けている。噴煙を挙げる富士山を紅爐に見立たもの。

「伊豆・駿河より東を見ることがなかったものの、彼女は一心不乱だった。それは富士の様子が紅爐一点雪を体現しているようなものだ」

「皇姒」は不明。「姒」を姉と読むならば「武者小路種光の姉」となろうが、「皇」の字に違和感を覚えるし、その前の方の文にある「姒輿周」の「姒」は「彼女」と読むのが適しているように見える。こう捉えるならば、円満院殿は内親王という扱いになる。政知に嫁す際に天皇猶子となったか。

「潤童子」は戒名。幼名は他にあった。「童子」を伴う幼名は他例なし。

「円満院殿」は戒名で、生前の呼び名ではない。

足利義澄は母と弟の死亡日を把握しており三回忌を行なった。

後に駿河から京に送られた娘もいた筈だが、ここでは言及がない。

推論

 史料の整理前ではあるが、ひとまず思い浮かんだことを書き留めておく。

周辺状況

  • 1482(文明14)年の都鄙一和によって政知が鎌倉殿になる可能性はなくなり、伊豆を堪忍分として確保した矮小化された存在になっている。これを受けて政知は息子の清晃を京の香厳院に送った。香厳院は政知が還俗前にいた寺院で、政知としては息子を戻してリセット、自身は伊豆に留まる判断をしている。
  • 政知の跡目を巡って異母兄弟で係争があったとする後世編著は、伊豆を起点に関東に広がった後北条の事績と、明応政変による義澄将軍任官を前提に案出されたものと見られる。
  • 都鄙一和によって行き場がなくなった挙げ句に死去した政知の跡目は、政知死去直後だとさほどの魅力を持たないのではないか。

政元室の動き

  • 残された政知室は京にいる長男の元に行こうとし、忌明けに出立する予定だった可能性がある。
  • 足利政知が1491(延徳3)年4月3日に死去したのは同時代の複数史料で確認できるため、確実。1497(明応6)年7月2日付けの富士浅間物忌令(戦今106)によると、父母の物忌みは120日とされる。
  • 母子が殺されたのは政知死去87日後、百ヶ日の13日前で初盂蘭盆会の14日前。この盂蘭盆が一つの目安かも知れない。
  • 120日の忌明けまでは盂蘭盆会から19日あるが、路次準備を考えると、帰京の本格準備にかかる辺りか。
  • 「逢害」とあることから、政知室と二男は殺害されたことが判る。とすると、二人の京行きに反対する者が、両名を殺害した。

殺害者

  • 関東勢には動機がなく、今川は当主空位で動けない。上杉政憲が怪しいかも知れない。犬懸は今更関東には戻れないし、京にコネもない。
  • 政知妻子の帰京に伴い伊豆を山内に返還となれば政憲の行き場はなくなる。これに加えて、政憲の姉妹か娘が政知の子を生んだとすれば、この子を担いで独立を図ったか。これが「茶々丸」で、実名を持たないのは幼児だったからかも知れない。
  • 後に駿府から京に送られた義澄妹は上洛後に消息を絶つ不可解な動きをするが、この妹は「茶々丸」と同じ母を持っていたとすれば、後に追放となったと考えられ筋は繋がる。

その後

  • 政憲の計画では、母子病死とし北条御所の外戚となること。暫くは問題にならなかったが、その後義澄が将軍になり、政憲追討を企図する。対立した上杉は動けなかったため、今川にいた伊勢宗瑞が伊豆に入り政憲を追い出す。宗瑞はそのまま伊豆での在国奉公衆となる。
  • 伊豆が元々山内の分国だったことから、扇谷は宗瑞の伊豆入りを容認し、対する山内は政憲を引き取る。但し、政憲は将軍生母と弟を討っているので正式には受け入れられず、更に甲斐に逃げ行き場を失った。

2019/03/29(金)野口豊前の武功覚書

戦功覚書の概要

この文書は『岩槻市史古代・中世史料編2』に所収されている「野口豊前戦功覚書写」(文書番号19号・常総遺文所収)。原文をテキスト化して、岩槻市史の注釈を元にして仮名を漢字に比定してみた。

原文

覚、野口豊前(黒印影)

  1. 一、越後てるとら様小山之地へ御取つめ被成時、せんけんつかの北にて夜かけの時、ちん所幕きハにて鑓合申候、つれ合申候物あつきわかさ・東郷ぬいのてうそんし申事
  2. 一、(異筆「永禄」)太田ミのゝ守榎本之城をもち申候時、戸はりのほりおとりこし、中つゝミへ上り、それより木戸へ懸候時■■、鑓合候て、やりておひ申候、つれ合候衆石山越後・あつきわかさそんし申候事
  3. 一、同頃自榎本北戸はりにて、へいに付申候て、はしり廻申候、つれ合候衆亀田ちから・あつきわかさそんし申候事
  4. 一、佐竹殿久下田・ひとつ木のたいと申所へ動御座候時、そないのさきへ物すきの物出合申所ニ、味方おくれニ成申候所ニ、ふミこたへやり合申候、走廻つれ合候衆長田助三郎・厚木わかさそんし申候、その外あまた死申候事
  5. 一、(異筆「天正十一」)九月八日ニうしゆくより谷田部之地へ働候て、うしゆくの衆のけ申候所ニ、我等只壱き跡そないへ乗かけ申候て、岡見五郎右衛門ニ言をかけ申候ニ、てつほう五六丁にて、われらおねらい打申候へ共、はつれ申候、そのてつほうの音おきゝ申候て、跡ニひかへ候味方共皆々乗かけ申候所ニ、てきくつれ三百八十くひおとり申候、此キ我等一人の見当にてかち申候、其日我等もくび三つ取申候、鑓手一ヶ所おひ申候、つれ合候衆飯村新左衛門・ひろせふせんそんし申候事
  6. 一、三川こほりへ結城より動候時、てき出合候、走廻くび一つ取申候、つれ合候衆貫助兵へ・秋本与三兵へそんし申候事
  7. 一、申之年、結城清水はたと申所ニ而、浜野新四郎と申物、切手おひ申候而、くひをとられ申候所お、我等すけ申候てたすけのけさせ申候、つれ合候衆あら井主水・国崎しやうけんそんし申候事
  8. 一、酉之年、同清水はたにて我等鑓はしめ仕候時、つれ合候衆川崎式部・かと井や三郎・あつきわかさそんし申候事
  9. 一、幸島大田と申在所を責申候時、てき出合申候お、やり仕てきおひ入申候、つれ合候衆あつきわかさ・くろすふせん・川崎式部・磯くらそんし申候事
  10. 一、結城かのくほと申所ニ而、小田原衆と出合申候時、我等てつほう壱丁ニ而、つゝミおもちかち申候、つれ合衆たちミの・東郷あわち・卯木しなのそんし申候事
  11. 一、結城高はし一本杉と申所ニ而、小田原衆とやり御座候ニ、秋本与三兵へやりさきお乗りわけ申候時、我等やりを合申候、つれ合候衆秋本与三兵へ・石山越後・あつきわかさそんし申候事
  12. 一、(異筆「天正五ノ七月十日」)下妻わかと申所ニ而、山川衆とつれ合鑓御座候時、古沢越前おや子のくひ山川へ取り申候、其時我等走廻申候、つれ合候衆おひ沼けんは・うすき八右衛門・大黒与右衛門そんし申候事
  13. 一、小山元のつこ橋と申所ニ而、一日の内やり二度合申候、つれ合候衆ひかの蔵人・かすや彦四郎・高徳主計・たかや右京そんし申候事
  14. 一、小山あまかいと申所之東ニ而、小山衆と鑓御座候ニ、我等馬にて乗わけ申候、つれ合候衆飯塚六兵へ・高徳主計存申候事
  15. 一、小山きりとをしと申所ニ而、ひさきと申物人衆引連打出候を、我等馬出出合乗くつし申候、つれ合候衆山内大炒亮・塚原ぬいの助そんし申候事
  16. 一、同夏と正月廿九日ニあひの田申所ニ而、やり合御座候ニ、つれ合候衆卯木しなの・長田四郎兵へ存候事
  17. 一、小山四日市と申所ニ而我等初馬ニ入、てきおおしミたし候て、てきに荒巻弥左衛門と申物のさし物・てつほうなとお取申候、その時そないお罷出候衆、晴朝前をそむき下妻へ牢人仕候、つれ合候衆秋本与三兵へ・高徳主計存候事
  18. 一、結城西面てこじきか前と申所ニ而走廻申候、つれ合候衆高徳主計・あつきわかさ・飯塚六兵へ存候事
  19. 一、小山泉崎と申所ニ而、田中源次郎と申物の手おひ申候時ニ、我等走廻申候、高徳主計・ゑひ原右京・やな二郎左衛門・石上平右衛門・加の民部つれ合ついてかへし申候て、源二郎たすけ申候事
  20. 一、榎本ほんさわの町にして我等走廻候時、河崎尾張と申物鑓手おおい申候お、我等すけのけさせ申候所ニ、てきおしつめ我等やりにて三ヶ所つかれ申候、てきにて見申候衆大戸大学そんし候事
  21. 一、結城より小山ひさきくるわと申所ヲせめ申候時、我等走廻鑓手矢手ニ三ヶ所おい申候、つれ合候衆長田四郎兵へそんし候事
  22. 一、壬生領藤井と申所へ乗こミ御座候時、くひ一つ取申候、つれ合候衆人見伝内そんし候事
  23. 一、結城よりさかいちんの時、おいこ申所へのりこミいたし候、一日ニくひ弐つ取申候、つれ合候衆青沼治部・たてのふんこと申物のそんし申候事
  24. 一、結城より下妻へてたてヲ被成候時、下妻の衆かけ合、味方おくれ申候所ヲ、跡ヲ仕しんらう申候、つれ合候衆卯木しなの・あつきわかさそんし申候事
  25. 一、小山・壬生一味之時、ミふ衆小山へわうきやうの物とめ可申ために、結城よりいつてい村と申所へ、手たて被成候所ニ、壬生衆出合やり仕候、つれ合候衆高徳主計そん候事
  26. 一、古河領さし間茂そりと申所へ、結城より乗こミ御座候ニ、てき出合やり御座候而、味方おくれ申候所ニ、ひらか彦十郎と申仁打死被申候時、我等あと仕候、つれ合候衆卯木しなの・秋本九郎兵へ・東郷淡路そんし候事
  27. 一、(異筆「天正十七」)下妻谷田部の城ニい申候内、しらはさまと申所ニ而、うしゆく衆と出合、やり御座候ニ、味方おくれの所にて、我等走廻てつほう手おい申候、つれ合候衆たかやさこん内衆ひろせふせんそんし候事
  28. 一、(異筆「天正十四」)九月廿四日あたかにて、町さし入のはしお、内よりはしいたお引おとし申所を、我等参■て、はしいたおとりあけさせ、やり下ニ而はしいた二まいかけ申候、つれ合候衆木内源兵へ、又ハたかや大夫使として、ミのへ日向参候て存候事
  29. 一、(異筆「天正八」)下妻谷田部の城を小田原衆取つめ申候時分、岡見五郎右衛門さい取にて、おしよせ申候ニ、味方おくれ候て、はしおふミおとし、皆々ほりそこへおち入申候所ニ、我等子に治部・ゆきへ同与力ニ相沢・北条なとゝ申物、六七人たちこらへ、跡おいたし候、皆々たすけのけさせ申候、つれ合候衆江戸甚内・飯村新左衛門そんし候事
  30. 一、うしゆく東輪寺と申候所ニて、景賀大くら鑓ニてつきおとされ、打たれ申候所ニ、我等わきより馬ヲ入、てきのやりヲけおとし申候て、大くらたすけ申候、我等やりけおとし申物お、小貫ぬいの助と申物、打申候事
  31. 一、(異筆「天正十六」)極月廿八日、東輪寺の城戸はりそへつめ、我等木戸へ取つき申候所ニ、てきわきより罷出候間、そこを少のけ申候ニ、やり下ニ而、飯付ふんこ、馬より落候て、のけかね申候所ヲ、大木治部我等両人馬をかへし申候故、てきおおしとめふんこたすけ申候、同日おくきの堀のきわニ而、てきをそい参候ヲ、大木治部と我等初馬にかへし申候ゆへ、くひ七つ取り申候事
  32. 一、(異筆「天正十六」)谷田部坊地と申所へ、てきふねにて川ヲ取こし申候所ニ、ふねかすなにほとおも見い申物無之ニ付而、我等一キはう地の山へ罷こし申候所へ、てきおり申候ニ、のりくつし候て、おい入候、それヲ見申候て、わきてきやくつりと申所ニ、てきい候もくつれ申候、その時くひ七つ取申候き、此始ニ我等一キにて、おうちの山へおい入申候ニ付而、てきおくれ申候、つれ合候衆そめやふせん・飯付新左衛門、又てきにハ松島ミのそんし申候事
  33. 一、(異筆「天正十五」)あたかと申所ニ而、つゝミお切申候処ニ、あれか衆と出合、やり御座候ニ、味方おくれニ成申候て、たかやしなのと申物、とミた・横島・小松・窪谷・その以上七人うたれ申候時、我等跡お仕り候て、馬おかへしてきのくひ七つ取申候、内我等一つとり申候、たかやよろこひ被申候、我等方■れい状御座候
  34. 一、こか・こうのすと申所へ動之所、てき出合申候お、おしかへし申候所ニ、てき沼へとひこミのけ申候ヲ、我等も則ぬまおおよき候て、沼の内にてくひ一つ取申候、つれ合候衆いハ上ぬいの介そんし候事
  35. 一、佐竹より結城へ働之時、ふしのこしにて、やり仕候、てきにハ斎藤はりま・小窪刑部出合申候、味方つれ合候衆野口けんは・たかや将監厚木若狭存候
  36. 一、結城よりとちきへ動之時、内より出申候所ニ、川島主税・たかや采女我等同前ニ馬をかへし走廻申候、つれ合候太木信濃存候事
  37. 一、結城より鹿沼へ動候時、内より田宿と申所へおし入、内の戸はり迄おしつけ申候、その時走廻申候たかや采女手おおひちんやにてつれ申候、つれ合候衆あつきわかさ存申候事
  38. 一、くじらと申所ヲ、下妻よりせめ申候時、我等おや子白井縫殿之助と申物つれ合走廻申候事 以上三拾八ヶ条也、 慶長八年丑六月廿日/の■ふせん(黒印影)/宛所欠

比定・解釈

  1. 一、越後輝虎様小山之地へお取り詰めなされ時、『せんけんつか』の北にて夜懸けの時、陣所幕際にて鑓合を申し候、つれ合申候は、厚木若狭・東郷縫之丞が存し申し事
  2. 一、(異筆「永禄」)太田美濃守榎本之城を持ち申し候時、戸張の堀を取り越し、中堤へ上り、それより木戸へ懸かり候時にて、鑓合候て、鑓手負ひ申候、つれ合候衆、石山越後・厚木若狭が存し申し候事
  3. 一、同頃、榎本より北戸張にて、塀に付き申し候て、走り廻り申し候、つれ合候衆、亀田主税・厚木若狭存じ申し候事
  4. 一、佐竹殿が久下田・一ツ木の台と申す所へ働き御座候時、備えの先へ物数奇の者出合申所ニ、味方遅れになり申し候所に、踏みこたへ鑓合を申し候、走り廻りのつれ合候衆、長田助三郎・厚木若狭、存じ申し候、そのほか数多死に申し候事
  5. 一、(異筆「天正十一」)九月八日に牛久より谷田部の地へ働き候て、牛久の衆退け申し候所に、我等ただ一騎、後ろ備えへ乗り懸け申し候て、岡見五郎右衛門に言を懸け申し候に、鉄炮五~六丁にて、我等を狙い撃ち申し候へども、外れ申し候、その鉄炮の音を聞き申し候て、後に控え候味方共、皆々乗り懸け申候ところに、敵崩れ三百八十の首を取り申し候、この儀、我等一人の見当にて勝ち申し候、その日我等も首三つ取り申し候、鑓手を一ヶ所負い申し候、つれ合候衆、飯村新左衛門・広瀬豊前、存じ申し候事
  6. 一、寒川郡へ結城より動候時、敵出合い候、走り廻り首一つ取り申し候、つれ合候衆、貫助兵衛・秋本与三兵衛、存じ申候事
  7. 一、申の年、結城『清水はた』と申すところにて、浜野新四郎と申す者、手を切り負い申し候て、首を取られ申し候ところを、我等助け申し候て、助け退けさせ申し候、つれ合候衆、新井主水・国崎将監、存じ申し候事
  8. 一、酉之年、同『清水はた』にて我等鑓始め仕候時、つれ合候衆、川崎式部・門井弥三郎・厚木若狭、存じ申し候事
  9. 一、猿島郡大田と申す在所を攻め申し候時、敵と出合い申し候を、鑓を仕り敵追い入れ申し候、つれ合候衆、厚木若狭・黒須豊前・川崎式部・磯蔵、存じ申し候事
  10. 一、結城鹿窪と申す所にて、小田原衆と出合い申し候時、我等鉄炮一丁にて、堤を持ち勝ち申し候、つれ合衆、館美濃・東郷淡路・卯木信濃、存じ申し候事
  11. 一、結城高橋一本杉と申す所にて、小田原衆と鑓を御座候に、秋本与三兵衛、鑓先を乗り分け申し候時、我等鑓を合わせ申し候、つれ合候衆、秋本与三兵衛・石山越後・厚木若狭、存じ申し候事
  12. 一、(異筆「天正五ノ七月十日」)下妻和歌と申す所にて、山川衆とつれ合い、鑓を御座候時、古沢越前親子の首、山川へ取り申し候、その時我等走り廻り申し候、つれ合候衆、生沼玄蕃・薄木八右衛門・大黒与右衛門、存じ申し候事
  13. 一、小山『元のつこ橋』と申す所にて、一日のうち鑓二度合わせ申し候、つれ合候衆、日向野蔵人・粕谷彦四郎・高徳主計・多賀谷右京、存じ申し候事
  14. 一、小山雨谷と申す所の東にて、小山衆と鑓を御座候に、我等馬にて乗り分け申し候、つれ合候衆、飯塚六兵衛・高徳主計、存じ申し候事
  15. 一、小山切り通しと申す所にて、『ひさき』と申す者、人衆引き連れ打ち出し候を、我等馬出に出合い乗り崩し申し候、つれ合候衆、山内大炒亮・塚原縫殿助、存じ申し候事
  16. 一、同夏と正月廿九日に『あひの田』と申す所にて、鑓合せ御座候に、つれ合候衆、卯木信濃・長田四郎兵衛、存じ候事
  17. 一、小山四日市と申す所にて我等初馬に入れ、敵を押し乱し候て、敵の荒巻弥左衛門と申す者物の指物・鉄炮などを取り申し候、その時備えを罷り出て候衆、晴朝前を背き下妻へ牢人仕り候、つれ合候衆、秋本与三兵衛・高徳主計、存じ候事
  18. 一、結城『西面てこじきか前』と申す所にて走り廻り申し候、つれ合候衆、高徳主計・厚木若狭・飯塚六兵衛、存じ候事
  19. 一、小山泉崎と申す所にて、田中源次郎と申す者の手負い申し候時に、我等走り廻り申候、高徳主計・海老原右京・簗二郎左衛門・石上平右衛門・加野民部、つれ合いついて返し申し候て、源二郎を助け申し候事
  20. 一、榎本ほんさわの町、西手、我等走り廻り候時、河崎尾張と申す者、鑓手を負い申し候を、我等助け退けさせ申し候ところに、敵を押し詰め、我等鑓にて三ヶ所突かれ申し候、敵にて見申し候衆、大戸大学、存じ候事
  21. 一、結城より小山『ひさき』曲輪と申し所を攻め申し候時、我等走り廻り、鑓手・矢手に三ヶ所負い申し候、つれ合候衆、長田四郎兵衛、存じ候事
  22. 一、壬生領藤井と申す所へ乗り込み御座候時、首一つ取り申し候、つれ合候衆、人見伝内、存じ候事
  23. 一、結城より境陣の時、『おいこ』と申す所へ乗り込みいたし候、一日に首二つ取り申し候、つれ合候衆、青沼治部・舘野豊後と申者の存じ申し候事
  24. 一、結城より下妻へ行をなされ候時、下妻の衆懸け合い、味方遅れ申し候ところを、後を仕り、辛労申し候、つれ合候衆、卯木信濃・厚木若狭、存じ申し候事
  25. 一、小山・壬生一味の時、壬生衆、小山へ往行の物留を申すべきために、結城より『いつてい』村と申す所へ、行なされ候ところに、壬生衆に出合い鑓仕り候、つれ合候衆、高徳主計存じ候事
  26. 一、古河領猿島『茂そり』と申す所へ、結城より乗り込み御座候に、敵出合い鑓を御座候て、味方遅れ申し候所に、平賀彦十郎と申す仁、討ち死に申され候時、我等が後に仕り候、つれ合候衆、卯木信濃・秋本九郎兵衛・東郷淡路、存じ候事
  27. 一、(異筆「天正十七」)下妻谷田部の城に居申し候うち、『しらはさま』と申す所にて、牛久衆と出合い、鑓を御座候に、味方遅れの所にて、我等走り廻り鉄炮手を負い申し候、つれ合候衆、多賀谷左近内衆広瀬豊前、存じ候事
  28. 一、(異筆「天正十四」)九月廿四日『あたか』にて、町にさし入る橋を、内より橋板を引き落とし申しところを、我等参りて、橋板を取り上げさせ、鑓下にて橋板二枚かけ申し候、つれ合候衆、木内源兵衛、又多賀谷大夫、使として、美濃部日向参り候て存じ候事
  29. 一、(異筆「天正八」)下妻谷田部の城を小田原衆取り詰め申し候時分、岡見五郎右衛門が采を取って押し寄せ申し候に、味方遅れ候て、橋を踏み落とし、皆々堀底へ落ち入り申し候ところに、我等の子の治部・靱負、同与力の相沢・北条等々の者が、六~七人立ちこらえ、後を致し候、皆々を助け退けさせ申し候、つれ合候衆、江戸甚内・飯村新左衛門存じ候事
  30. 一、牛久東輪寺と申し候所にて、景賀大蔵が鑓で突き落とされ、討たれ申し候ところに、我等が脇より馬を入れ、敵の鑓を蹴落とし申し候ところに、大蔵が助け申し候、我等が鑓を蹴落とし申し者を、小貫縫殿助と申す者、討ち申し候事
  31. 一、(異筆「天正十六」)極月廿八日、東輪寺の城戸張へ添え詰め、我等木戸へ取つき申し候ところに、敵脇より罷り出で候間、そこを少し退け申し候に、鑓下にて、飯付豊後、馬より落ち候て、退きかね申し候ところを、青木治部・我等の両人が馬を返し申し候ゆえ、敵を押し留め豊後を助け申し候、同日小茎の堀の際にて、敵を襲い参り候を、青木治部と我等初馬に返し申し候ゆへ、首七つ取り申し候事
  32. 一、(異筆「天正十六」)谷田部坊地と申し所へ、敵船にて川を取り越し申し候ところに、船数何程をも見ることなきについて、我等一騎、坊地の山へ罷り越し申し候ところへ、敵がおり申し候に、乗り崩し候て、追い入れ候、それを見申し候て、脇手『きやくつり』と申すところに、敵居候も崩れ申し候、その時首七つ取り申し候き、この始に我等一騎にて、『おうち』の山へ追い入れ申し候について、敵遅れ申し候、つれ合候衆、染谷豊前・飯付新左衛門、又敵には松島美濃、存じ申し候事
  33. 一、(異筆「天正十五」)あたかと申す所にて、堤を切り申し候ところに、あれか衆と出合い、鑓を御座候に、味方遅れになり申し候て、多賀谷信濃と申す者、富田・横島・小松・窪谷・園、以上七人討たれ申し候時、我等は後を仕り候て、馬を返し敵の首七つ取り申し候、うち我等一つ取り申し候、多賀谷喜び申され候、我等方へ礼状御座候
  34. 一、古河・鴻巣と申す所へ働きのところ、敵と出合い申し候を、押し返し申し候ところに、敵は沼へと引き込み申し候を、我等もすなわち沼を泳ぎ候て、沼の内にて首一つ取り申し候、つれ合候衆、岩上縫殿介、存じ候事
  35. 一、佐竹より結城へ働きの時『ふしのこし』にて、鑓を仕り候、敵には斎藤播磨・小窪刑部出合い申し候、味方のつれ合候衆、野口玄蕃・多賀谷将監・厚木若狭、存じ候
  36. 一、結城より栃木へ働きの時、内より出で申し候ところに、川島主税・多賀谷采女、我等同前に馬を返し走り廻り申し候、つれ合候、大木信濃、存じ候事
  37. 一、結城より鹿沼へ働き候時、内より田宿と申す所へ押し入り、内の戸張まで押し付け申し候、その時走り廻り申し候多賀谷采女が手を負い、陣屋に連れ申候、つれ合候衆、厚木若狭、存じ申候事
  38. 一、久地羅と申す所を、下妻より攻め申し候時、我等親子、白井縫殿助と申す者つれ合走りり廻申し候事 以上三拾八ヶ条也、
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