2017/12/04(月)「心もとない」と「お心もとない」

現代でもある敬語の曖昧さ

現代語の文法だと、相手に己の不安と伝える際には「心もとなく思います」と書くと思う。心もとないのは自分の行為だから謙譲が適用されるという理解だ。

ところが「お気持ちをお察しします」という書き方もまた妥当であり、「お気持ちを察します」は奇妙な表現に見える。これは「察する」が自身の行為であるにも関わらず、謙譲は適用されず、丁寧が発動するからだと思われる。相手に寄り添った行為の場合、丁寧か謙譲かは揺らぐような印象があり、どちらかちうと丁寧が用いられる例が多いように感じる。

この源流であるかのように、現代語では整理されている「心もとない」が、戦国期には表記が揺れていたという現象がある。「こころもと」=「心元・心許」に「御」が付いたり付かなかったりで、定まらない。彼らは使い分けていたのだろうか。

この閾値を探るためにデータ化してみた。

  • 「御」あり 31
  • 「御」なし 52

うち、同一文書に複数回出現 6

  • なし・あり・あり 1
  • あり・なし 1
  • なし・なし 4

局面別(あり/なし・割合)

  • 軍事36(9/25・36%)
  • 健康14(5/11・45%)
  • 久闊15(5/10・50%)
  • 確認18(12/6・200%)

宛所と差出人との上下関係に起因するという仮説は「人々御中」で出した文書にも御なしが存在すること、同一文書内で御あり・なしが混在する例が2つあることから、採用は難しい。

辛うじて可能性がありそうなのは、「確認状況では『御あり』が頻出」という傾向ぐらい。

確認する場合はむしろ「心もとない」のは質問者側で、謙譲寄りではある。そこに丁寧を使うということは、情報を貰いたいという立場の弱さから丁重な表現を選んだという解釈は可能かも知れない。

ただやはり、閾値としては「明確なものはなく揺れていた」というところだろうか。

ちなみに、「こころやすく」=「心易・心安」も、同様に「御」がつく場合とつかない場合が混在している。「心もとない」が発話者の動作であるのに比べ、「心やすく」は受話者の行為を要請する文脈で用いられるから、謙譲の向きとしては逆になる。しかし同じように揺れている。142件(御あり87・御なし55)なのだが、御なしでも「被」が入って敬意を表している例も複数あり、もっとややこしいことになっている。

こういった事例も合わせて、何かしらの方向性が判ると解釈はやり易くなるのだけど……。

「心もとない」用例データ

ID 種別 局面 抜粋 月日/差出人/宛所 出典 比定年
01 NS 健康 疵未思様候哉、被印判候、無心元候 七月廿四日/顕定(花押)/長尾信濃守殿 神奈川県史資料編3下6406「上杉顕定書状」(宇津江氏所蔵文書) 1496(明応5)年
02 NS 久闊 罷立以来、仙波の御様体無心元 ■月廿四日/自枚軒祖■(花押影)/■丸丹後守殿 埼玉県史料叢書12_0028「自枚軒某書状写」(温故雑帖五) 1509(永正6)年
03 GS 健康 無御心元存計候、能々御養性■■然候 八月廿六日/増上寺天誉(花押影)/北坊、仙人へ御同宿中 埼玉県史料叢書12_0029「増上寺天誉書状写」(温故雑帖五) 1509(永正6)年
04 GS 状況確認 御上洛之路次如何、無御心元候 八月三日/藤原憲房拝呈/上乗院御同宿中 駿河台大学論叢第41号11「上乗院宛書状写」(古簡雑纂七) 1510(永正7)年
05 NS 軍事 右京大夫被失利之由候、京都之様体無心元候条 八月三日/義元(花押)/宛所欠 戦国遺文今川氏編0900「今川義元書状」(天理図書館所蔵大館記所収御内書案紙背文書) 1549(天文18)年
06 NS 軍事 従井口相揺之由候、因茲其元之備無心元候 八月十八日/晴信(花押)/秋山善右衛門尉殿・室住豊後守殿 戦国遺文武田氏編0642「武田晴信書状」(東京都・吉田家文書) 1555(天文24/弘治元)年
07 GS 久闊 節躰如何、無御心元候 九月十九日/氏康(花押)/佐竹殿 戦国遺文後北条氏編0642「北条氏康書状写」(千秋文庫所蔵佐竹文書) 1560(永禄3)年
08 GS 久闊 御一族中無何事候哉、無御心元候 極月十四日/日叙(花押)/宇野源十郎殿御宿所 戦国遺文後北条氏編4889「日叙書状」(小田原市外郎文書) 1561(永禄4)年
09 NS 健康 仍而近日者口熱以之外相煩、舌内不自由故被差越由、先以無心元候 壬極月十四日/輝虎/長尾但馬守殿 埼玉県史料叢書12_0267「上杉輝虎書状写」(森山文書) 1563(永禄6)年
10 NS 軍事 新六郎敵陣へ移由候、家中儀一段無心元候 正月朔日/氏康(花押)/太田次郎左衛門尉殿・恒岡弾正忠殿 戦国遺文後北条氏編0835「北条氏康書状写」(楓軒文書纂五十三) 1564(永禄7)年
11 GS 状況確認 参着候哉如何、無御心許候 正月七日/北条源三氏照(花押)/越苻江 戦国遺文後北条氏編1136「北条氏照書状」(上杉家文書) 1569(永禄12)年
12 NS 軍事 其地如何、無心元候 壬五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿 戦国遺文後北条氏編1244「北条氏政書状」(岡部文書) 1569(永禄12)年
13 GS 状況確認 仍越国之模様、定而可無御心元間、粗申入候 六月廿八日/源三氏照(花押)/右馬助殿御宿所 戦国遺文後北条氏編1270「北条氏照書状写」(野田家文書) 1569(永禄12)年
14 NS 軍事 今度不慮之造説出来由候、余無心元間、令啓候 七月朔日/氏康(花押)/安保左衛門尉殿 戦国遺文後北条氏編1271「北条氏康書状」(埼玉県立文書館所蔵安保文書) 1569(永禄12)年
15 NS 状況確認 其以来之様子無心元存間、猿楽八右衛門年来心安召仕者候間、越進候 三月三日/氏康居判/直江太和守殿 戦国遺文後北条氏編4682「北条氏康書状写」(謙信公御書八) 1569(永禄12)年
16 GS 久闊 久不申上候之条、其地無御心元存候 卯月四日/基胤・種豊/朝備・同下・同金 戦国遺文今川氏編2331「大沢基胤・中安種豊連署状案」(大沢文書) 1569(永禄12)年
17 NS 久闊 遥々不申承候条、無御心元由候処 八月廿二日/直江大和守景綱(花押)/石川日向守殿御宿所 長岡市史資料編2_391「直江景綱書状」(布施秀治『上杉謙信伝』) 1569(永禄12)年
18 NS 軍事 筒之事ハ路次無心元候間不進之候 九月二日/明十兵光秀(花押)/和源殿 八木書房刊明智光秀013「明智光秀書状」(大津歴史博物館寄託・和田家文書) 1571(元亀2)年
19 NS 状況確認 夜前被罷着様体無心元候間、態以脚力相尋候 十二月六日/孝哲(花押影)/岩上筑前守殿 埼玉県史料叢書12_0419「小山孝哲書状写」(松羅館集古八) 1572(元亀3)年
20 NS 軍事 然者敵動候由、無心元候 九月十七日/氏規(花押)/山本信濃入道殿 戦国遺文後北条氏編4023「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書) 1572(元亀3)年
21 NS 軍事 敵之仕合、万々無心元迄候 極月三日/謙信御居判/松平左近允殿 上越市史別編1_1177「上杉謙信書状」(謙信公御書二所収) 1573(元亀4/天正元)年
22 NS 軍事 加様之処、無心元候間、内ゝ敵之是非承届上、雖可令出張 七月廿三日/氏政(花押)/蘆名殿 戦国遺文後北条氏編1660「北条氏政書状」(鈴木いよ氏所蔵文書) 1573(元亀4/天正元)年
23 NS 軍事 長篠之模様無心許之旨、節々被入芳札快然ニ候 九月八日/勝頼(花押)/真田源太左衛門尉殿 戦国遺文武田氏編2172「武田勝頼書状」(福井県・真田家文書) 1573(元亀4/天正元)年
24 GS 軍事 其表無異儀候哉、無御心元候 十二月四日/明十兵光秀(花押)/和源進之候 八木書房刊明智光秀042「明智光秀書状」(大津市歴史博物館寄託・和田家文書) 1573(元亀4/天正元)年
25 NS 久闊 抑去比者古河之地無心許之段、節々言上、御感悦候 閏霜月廿五日/義氏/新田治部大輔殿 埼玉県史料叢書12_0455「足利義氏書状写」(新田文庫文書) 1574(天正2)年
26 NS 久闊 去比者、古河之地無心元之段、節ゝ言上、御感悦候 閏霜月廿五日/義氏(花押)/由良刑部太輔殿 戦国遺文古河公方編0951「足利義氏書状」(東京大学文学部所蔵由良文書)ほぼ同文の写しが、新田治部大輔、南図書頭宛てで存在。 1574(天正2)年
27 GS 軍事 其口ゝ御弓箭達、如何無御心許存候 八月十二日/源三氏照(花押)/蘆名殿御宿所 戦国遺文後北条氏編1718「北条氏照書状」(名古屋大学文学部所蔵文書) 1574(天正2)年
28 GS 軍事 兼又敵陣へ被立置御人数、被相引之由、一段無御心元存候 閏■月十日/源三氏照(花押)/結城江御報 戦国遺文後北条氏編1746「北条氏照書状」(高橋義彦氏所蔵文書) 1574(天正2)年
29 GS 軍事 向白川御出馬之由、其聞候■無御心元旨、義重へ以使申届間、可然様御指南、可為本望候 二月十二日/氏政(花押)/佐竹中務太輔殿 小田原市史小田原北条1143「北条氏政書状写」(諸家文書) 1574~1576(天正2~4)年
30 NS 久闊 去頃氏政其口へ調義之由、無心元候処、別而無子細之段、其聞簡用至極候 極月廿六日/義重(花押影)/太田新六郎殿 埼玉県史料叢書12_0465「佐竹義重書状写」(神保家文書) 1575(天正3)年
31 GS 健康 疵如何候哉、無御心元候 八月廿一日/日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀060「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
32 G1 健康 仍疵御煩之由、従上京辺申越候、如何無御心許候 九月十六日/惟任日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀061「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
33 N1 健康 いろゝゝと機遣なと候てハ、養性之儀無心元候 九月十六日/惟任日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀061「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
34 NS 久闊 去比者、道無相違帰国候つる哉、無心元候 三月廿五日/氏照(花押)/釣月斎 戦国遺文後北条氏編1977「北条氏照書状」(木村定三氏所蔵文書) 1578(天正6)年
35 GS 軍事 扨亦御進退之儀、無御心元迄候 霜月八日/源政景判/武参 埼玉県史料叢書12_0544「梶原政景書状写」(藩中古文書十二) 1579(天正7)年
36 GS 状況確認 御在庄之模様、依無御心許、為使僧申入候 潤三月廿日/正木左近将監時長(花押)/河津人ゝ御中 戦国遺文後北条氏編4488「正木時長書状」(正木文書) 1580(天正8)年
37 N2 軍事 定貴国被及聞召、無心許可思召候間、令啓候、 七月五日/義頼(花押)/松田尾張守殿 戦国遺文後北条氏編4489「里見義頼書状」(稲子正治氏所蔵文書) 1580(天正8)年
38 N2 軍事 殊甲州筋之様子無心元候 七月五日/義頼(花押)/松田尾張守殿 戦国遺文後北条氏編4489「里見義頼書状」(稲子正治氏所蔵文書) 1580(天正8)年
39 NS 軍事 陣中手成無心元由候而、預脚力候之、祝着之至候之 四月四日/義重(花押)/梶原源太殿 埼玉県史料叢書12_0588「佐竹義重書状」(古典籍展観大入札会目録平成十四年) 1581(天正9)年
40 NS 健康 殊ニ被為御手負之候由、一段無心元候 五月十五日/清上康英(花押)/山太御宿所 戦国遺文後北条氏編4144「清水康英書状」(越前史料所収山本文書) 1581(天正9)年
41 NS 軍事 不応於甲府被相押籠居之様、無心元候之刻、此国へ乱入 三月廿五日/御名御判/水谷伊勢守殿 記録御用所本古文書2128「徳川家康書状写」(水谷家文書) 1582(天正10)年
42 GS 状況確認 然則向御当地候、万々無御心元令存候 十月廿四日/氏政(花押影)/芳春院 埼玉県史料叢書12_0646「北条氏政書状写」(秋田藩家蔵文書三十八) 1582(天正10)年
43 NS 状況確認 御公事之儀如何候、無心許候 五月廿一日/正以(花押)/宛所欠(上書:内宮■波殿まいる御宿所 神戸慈円院正以) 証言本能寺の変第2章16「慈円院正以書状」(神宮文庫所蔵) 1582(天正10)年
44 NS 軍事 将又秩父谷之注進、無心元候 二月三日/氏政(花押)/安房守殿 戦国遺文後北条氏編2301「北条氏政書状」(三上文書) 1582(天正10)年
45 NS 軍事 信州表之儀如何、無心元候 二月九日/氏政(花押)/安房守殿 戦国遺文後北条氏編2304「北条氏政書状」(三上文書) 1582(天正10)年
46 NS 軍事 如何様之御番手候哉、模様無心元候、承度存候 五月廿三日/安氏邦(花押)/大駿御返事 戦国遺文後北条氏編2342「北条氏邦書状」(小田原城天守閣所蔵安居文書) 1582(天正10)年
47 GS 状況確認 余無御心元候故、自是申達候キ 八月廿五日/氏政(花押)/寒松斎 戦国遺文後北条氏編2403「北条氏政書状写」(相州文書所収淘綾郡荘左衛門所蔵文書) 1582(天正10)年
48 GS 軍事 御陣中無御心元候間、自小田原以使可申候 霜月十二日/松田尾張入道憲秀(花押)/上野筑後守殿御陣所 戦国遺文後北条氏編2446「松田憲秀書状」(高橋義隆氏所蔵文書) 1582(天正10)年
49 GS 健康 近日御煩御平臥之御様候歟、一段無御心元存候 四月九日/各ゝ/奥州御報人ゝ御中 戦国遺文後北条氏編4510「足利家奉行人連署書状案」(喜連川家文書案二) 1583(天正11)年
50 N3 久闊 其以後者遙々絶音問候、内々無心元候刻 七月十三日/氏照(花押)/阿久沢彦次郎殿 埼玉県史料叢書12_0721「北条氏照書状」(阿久沢文書) 1584(天正12)年
51 N3 健康 御人衆手負鑓疵切疵数多負候由、一段無心元候 七月十三日/氏照(花押)/阿久沢彦次郎殿 埼玉県史料叢書12_0721「北条氏照書状」(阿久沢文書) 1584(天正12)年
52 NS 軍事 御備之様子朝暮無心元存許候 七月廿六日/北美氏規(花押)/酒左御陣所 戦国遺文後北条氏編2691「北条氏規書状」(本光寺所蔵田島文書) 1584(天正12)年
53 GS 状況確認 為如何今度者無御出陣候哉、無御心元候 十二月十日/氏直(花押)/小幡兵衛尉殿 小田原市史小田原北条1716「北条氏直書状」(千葉県千葉市立郷土博物館小幡文書) 1585(天正13)年
54 NS 軍事 万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者 九月八日/氏直(花押)/原豊前守殿 戦国遺文後北条氏編2855「北条氏直書状」(東京国立博物館所蔵文書) 1585(天正13)年
55 NS 状況確認 何も及御報候間、参着如何無心元存候 六月朔日/氏照書判/片倉小十郎殿 戦国遺文後北条氏編3332「北条氏照書状写」(片倉代々記二) 1586(天正14)年
56 NS 軍事 重而早ゝ可申越候、一段無心元候 卯月廿七日/氏政(花押)/猪俣能登守殿 戦国遺文後北条氏編3446「北条氏政書状」(東京大学史料編纂室所蔵猪俣文書) 1587~1590(天正15~18)年
57 NS 状況確認 去秋不入斎為指上候以来様子、無心元候条 極月十四日/政宗(花押)/羽柴筑前守殿 神奈川県史資料編3下9419「伊達政宗書状」(島田耕作氏所蔵文書) 1588(天正16)年
58 GS 状況確認 貴辺副状無之候、一段御心元候処 卯月十四日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参 戦国遺文後北条氏編3305「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵片倉文書) 1588(天正16)年
59 NS 久闊 其以来一切無音之間、無心元候処 卯月十六日/氏政(花押)/宛所欠 戦国遺文後北条氏編3306「北条氏政書状」(慶応義塾大学図書館所蔵反町十郎氏蒐集文書) 1588(天正16)年
60 NS 状況確認 次片倉小十郎方他行故此度不預書状候、無心元候 七月廿九日/氏照(花押)/原田左馬助殿参 戦国遺文後北条氏編3478「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵伊達文書) 1589(天正17)年
61 GS 久闊 又不蒙仰候、内ゝ無御心元候刻、態氏直所へ預御状候 十二月廿七日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参 戦国遺文後北条氏編3591「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵伊達文書) 1589(天正17)年
62 NS 軍事 小屋共作籠かや家之事候間、火之廻無心元候 五月廿一日/松佐渡守康成(花押影)/山信濃守殿参御宿所 埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」(越前史料所収山本文書) 1590(天正18)年
63 GS 久闊 実城御帰之以後者、是非御左右不承届候、無御心元存候 正月廿五日/平七助利(花押)/下野守殿御宿所 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p27「簗田助利書状写」(下総旧事三) 1590(天正18)年
64 NS 軍事 那波衆之内無心元■■■之由 ■月廿三日/氏政(花押)/■津木下総守殿 小田原市史小田原北条2068「北条氏政判物」(大坂城天守閣所蔵宇津木文書) 1590(天正18)年
65 GS 軍事 御物主者御幼少ニ候へ者、奥方御苦労中ゝ無御心元候之処 三月朔日/覚全(花押)/彦部豊前守殿御報 戦国遺文後北条氏編3665「千葉覚全書状」(肥田文書) 1590(天正18)年
66 N4 健康 其方手きすハ如何候哉、無心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
67 G4 状況確認 長尾方申越候間、奉待候処、于今御延引無御心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
68 G4 状況確認 進愚書候処、不参着候由大蔵寺被申候、無御心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
69 NS 健康 相煩之由、無心元候 七月五日/氏照「花押」/間宮若狭守殿 埼玉県史料叢書12_付138「北条氏照書状写」(勝沼斎藤家文書) 年欠
70 NS 久闊 近年相違無心元候 七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守) 埼玉県史料叢書12_付144「垪和康忠書状写」(寺院証文一)戦国遺文後北条氏編4200に別翻刻あり 年欠
71 NS 軍事 火手見候上無心元候間 三月晦日/顕定(花押)/三田弾正忠殿 駿河大学論叢40号24「三田弾正忠宛書状」(谷合島太郎氏所蔵文書) 年欠
72 NS 健康 近日胤富煩之由、一段無心元候 三月七日/義氏(花押)/千葉新介殿 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p52「足利義氏書状」(千葉市立郷土博物館寄託田丸哲也氏所蔵文書) 年欠
73 NS 軍事 其地之様躰、如何無心元候 六月廿日/氏照(花押)/横地監物殿 戦国遺文後北条氏編3906「北条氏照書状写」(佐野家蔵文書) 年欠
74 GS 軍事 爰元御動御模様、余無御心元存候間、昨日着陳申候 九月一日/黒沢上野守繁信(花押)/鑁阿寺御衆中貴報 戦国遺文後北条氏編4118「黒沢繁信書状」(鑁阿寺文書) 年欠
75 GS 健康 御帰路之刻より少御煩之由一段無御心元存候 十一月八日/大新直昌(花押)/太民御報 戦国遺文後北条氏編4158「大道寺直昌書状写」(新編会津風土記六) 年欠
76 N5 軍事 自何機嫌如何、無心元候、御出馬廿日之由聞候 廿三日/国繁(花押)/宛所欠(上書:大沢下総守殿・同彦次郎殿 従桐生) 戦国遺文後北条氏編4239「由良国繁書状」(大沢武一氏所蔵文書) 年欠
77 N5 軍事 真候哉、無心元候 廿三日/国繁(花押)/宛所欠(上書:大沢下総守殿・同彦次郎殿 従桐生) 戦国遺文後北条氏編4239「由良国繁書状」(大沢武一氏所蔵文書) 年欠
78 GS 状況確認 とかくそこもと御心もとなく候まゝ、申とゝけまいらせ候 六月廿九日さるのこく/たね富(花押)/ひら川こうしつへ 戦国遺文後北条氏編4982「千葉胤富書状写」(豊前氏古文書抄) 年欠
79 N6 久闊 如何様之模様候哉、一段無心元候 六月十三日/信玄御書印/岡部五郎兵衛尉殿 戦国遺文今川氏編1547「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書) 年欠
80 N6 軍事 二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処、無恙帰府 六月十三日/信玄御書印/岡部五郎兵衛尉殿 戦国遺文今川氏編1547「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書) 年欠
81 GS 軍事 然者薩多陣之様躰、近日之儀如何無御心元計候 二月廿九日/胤富(花押)/豊前山城守殿 戦国遺文今川氏編2735「千葉胤富書状」(松戸市立博物館所蔵間宮家文書) 年欠
82 NS 健康 煩由無心元候 六月廿九日/光秀(花押)/宛所欠(表書:三■■■殿 光秀) 八木書房刊明智光秀148「明智光秀書状」(尊経閣文庫所蔵) 年欠
83 GS 状況確認 猶無御心元候間、先以飛脚申候 十月十九日/宗瑞(花押)/謹上小笠原左衛門佐殿御宿所 戦国遺文今川氏編0186「伊勢盛時書状」(早雲寺文書) 1506(永正3)年