2018/06/07(木)駿河・相模の杉山氏

今川と後北条の双方に名が見える杉山氏の史料をまとめてみた。

1494(明応3)年

9月20日 駿河安部山俵峯・杉山太郎衛門

安部山内俵峯半分之事、今度山中より出忠節として所充行也、於此上尚々可抽忠功者也、仍如件、
明応三九月廿日/文頭に(朱印「印文未詳」)/杉山太郎衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編0089「今川氏親黒印状」(杉山文書)

1550(天文19)年

4月30日 駿河阿野庄井出郷・杉山惣兵衛

駿河国阿野庄井出郷之内、相拘名職内給恩之事
右、拾弐石九斗、畠銭弐貫五百文并金山領等停止諸役、所宛行之也、然今度彼給主年来申掠之段、雖訴人有之、興国寺城番以下、此五人参百貫文役可相勤之由、遂訴訟之条、只今為新給恩永領掌不可有相違、但自余地又者他国出陣之時者、可随其員数、酉年之河東一乱以来、令在府、別奉公神妙也、弥可励忠節之状如件、
天文十九四月晦日/治部大輔(花押影)/杉山惣兵衛殿

  • 戦国遺文今川氏編0942「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写附二)

1552(天文21)年

4月12日 駿河安部山俵峯・杉山某(連名:望月某)

安部之内たわら峯之事
右、勤湯山之普請之条、四分一・押立諸役等令免許之、但棟別之儀者、如前々可令沙汰者也、仍如件、
天文廿一年四月十二日/文頭に(朱印「如律令」)/杉山・望月

  • 戦国遺文今川氏編1086「今川義元朱印状」(杉山文書)

10月11日 駿河安部山俵峯・杉山小太郎

駿河国阿部内俵峯相拘名職屋敷等之事
右、相定年貢諸役、如前々可勤之、以継母計別子又者親類等仁割分之儀、恣雖出置之、遺跡不相渡以前兼不相断、於不知之者不可許容之、只今号割分田畠等、各於押取之者、進退可及退転之旨、遂訴訟之条、所出判形也、仍如件、
天文廿一年十月十一日/袖に(今川義元花押)/杉山小太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編1110「今川義元判物」(杉山文書)

1553(天文22)年

2月12日 駿河泉郷・杉山善二郎

駿河国泉郷案内者、子年令検地之上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之由、致請納之条忠節也、彼本増之外、相拘名職之内、増分拾石壱斗、并見出畠銭之増分共五貫文、永代所出置也、但惣国大風大旱魃惣虫付之年者、以奉行明鏡可改之、若於向後、代官百姓等為横合、拘置名職雖令競望、一切不許容者也、仍如件、
天文廿二年二月十二日/(今川義元花押影)/杉山善二郎

  • 戦国遺文今川氏編1128「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

天文末~弘治頃

11月24日 在所欠・杉山市蔵

芳札令披見候、如来意去十三日雪、北条家茶会之事羨鋪打過処、雪降済候之間、被相招候段、別而致大慶候、宗賀■被差加、於令同伴ハ寔可有興候、明廿五日朝卯刻以参可謝候、恐々、
十一月廿四日/治部大輔(花押)/杉山市蔵殿へ

  • 戦国遺文今川氏編1526「今川義元書状」(弘文荘待買古書目二九)

1560(永禄3)年

8月8日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷為案内者、子年令検地之上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之由、致請納之条忠節也、然者彼本増之外相拘名職之内、増分拾石壱斗并見出畠銭之増分共五貫文、永代所出置也、雖然去卯年重而有訴人増分雖申出、於彼忠節之儀者、任先判形之旨、年来被出置之上者、縦於向後代官百姓等為横合、拘置名職雖令競望、是又任先判形之旨、永不可有相違者也、仍如件、
永禄参庚申年八月八日/氏真(花押影)/杉山縫殿助殿

  • 戦国遺文今川氏編1566「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

1563(永禄6)年

月日欠 在所欠・杉山小太郎(連名:望月四郎右衛門)

棟別之事
右、今度就三州急用免許之棟別、一返悉雖取之、両人事者依勤陣参、不準地下人之間、永免除畢、向後免許棟別雖相破之、両人儀者不可有相違者也、仍如件、
永禄六癸亥/文頭に(朱印「如律令」)/杉山小太郎殿・望月四郎右衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編1908「今川氏真朱印状」(杉山文書)

1564(永禄7)年

6月5日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷為案内者、子年令検地上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之旨請納忠節也、彼本増之外、相拘名職之内増分拾石壱斗、并見出畠銭之増分共五貫文、永代所被出置、天沢寺殿判形明鏡也、然処飯尾若狭入道号新田、雖成競望、先判形等歴然之上令落着、定林院一札并百姓等証文明鏡之間、永不可有相違、重而若狭入道并百姓等聊不可令無沙汰者也、仍如件、
永禄七年六月五日/上総介(花押)/杉山縫殿助殿

  • 戦国遺文今川氏編1993「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

1567(永禄10)年

2月1日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷、去子年改之上、以弐百俵之増分、本増共為定納請納、忠節之至也、因茲十石壱斗并見出畠増分共五貫文、為忠節分所出置、任天沢寺殿御判形旨領掌訖、然者飯尾若狭入道上置七十三俵、百姓等隠置之処、訴出令蔵入之条、是又忠節之至也、縦雖企百姓其外如何様之競望、為条々忠節之上者、一切不可許容、但大風旱大虫之年者、以奉行検見之上可申付之旨、任先御判畢、以此旨、年貢以下毎年速可令沙汰者也、如件、
永禄十丁卯年二月朔日/(今川氏真花押影)/杉山縫殿助

  • 戦国遺文今川氏編2122「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

9月28日 在所欠・杉山小太郎

屋敷分之内竹木事
右、於用之時者、従奏者方可申付之条、地下次ニ見伐等一切停止候也、若押於伐取者、依言上急度可加下知、以此旨、弥可令奉公者也、仍如件、
永禄十年卯九月廿八日/文頭に(朱印「如律令」)/杉山小大郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2147「今川氏真朱印状」(杉山文書)

1568(永禄11)年

12月18日 在所欠・杉山周防守

遠候之儀大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候、検使可為布施佐渡守、此掟妄ニ付而者可為曲事候、恐々謹言、
十二月十八日/氏政(花押)/清水太郎左衛門殿・布施佐渡守殿・大藤式部丞殿・杉山周防守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1123「北条氏政書状写」(小沼氏所蔵文書)

1571(元亀2)年

7月28日 相模東郡・杉山惣次郎

着到定
一、五拾九貫文
相州東郡、吉岡此着到
一本、大小旗持、具足・皮笠
一本、四方指物持、同理
二本、鑓、二間之中柄、武具同理
一騎、自身、甲大立物・具足・面防・手蓋、馬鎧金
二人、歩者、具足・皮笠、以上七人
一、小田原於御蔵可請取衆
五貫文、歩侍、甲立物・具足・手蓋
弐貫四百文、二人扶持、
一本、鑓、武庄左衛門尉、七貫四百文、二人同理、鈴木半右衛門、七貫四百文、二人同理、杉山惣次郎、七貫四百文、二人同理、大庭弥七郎
以上
廿九貫六百文
此内、廿貫文、給九貫六百文、扶持八人分、
以上、合拾五人、
上下此内一本、小小旗、四郎左衛門一本、指物、源十郎
六本、鑓、源四郎、平四郎、與五郎、三入、衛門四郎、藤二郎
一騎、馬上四人、
歩侍、清右衛門二人、
歩者、大郎五郎
以上拾五人
一、此帳に書戴候寄手、或者闕落、或ハ令死去者、五日中令披露、一跡之様子下知次第可立之候、若号失念、五日を踏出相尋時令披露者、背掟条、寄子之跡他人ニ可申付候、其時公儀へ侘言不可付候事、
一、御出馬より一日も遅罷立、一騎合有之者、則可披露候、若令用捨、御尋之上候者、背掟間、彼寄子可付他人候、公儀不可有相違事、
一、武具仕置相背者有之者、其品ゝ何時も相註可披露事、
以上
右、改而着到如此相定候、武具等致様、委細ニ書記畢、各少も無相違可致之候、抑軍法者、国家安庄所也、背法度付而者、随罪科軽重、無用捨可被出条、兼而無誤様ニ覚悟専肝候、畢竟岡本前ニ可有之間、時ゝ刻ゝ寄子ニハ合助成、掟無異義可走廻儀、可為忠信候、仍定所如件、
元亀二年辛未七月廿八日/(虎朱印)/岡本八郎左衛門尉殿

  • 小田原市史小田原北条1026「北条家着到定書写」(岡本家古文書写)

12月24日 駿河安部山俵峯・朝比奈信置(連名:横田康景)

阿部内俵峰村
一、弓鑓、近衛四郎
一、弓同、四郎衛門
一、弓同、左近四郎
一、弓同、清太郎
一、弓同、左衛門九郎
以上五人、
辛未十二月廿四日/朝駿信置・横十康景/宛所欠

  • 静岡県史資料編8_0375「朝比奈信置・横田康景連署状写」(駿河志料巻七十六杉山文書)