2018/03/05(月)戦国期の古文書を解釈する基本的なこと

独学の解釈ではあるが、戦国期の史料を見た上での読み方をまとめてみた。

他の場所で公開していたものに若干の加筆をしている。

1)接続部分

  • 候条 (そうろうじょう) 「前文から後文が導かれる」と、因果を示す。「条」だけの場合もあり
  • 候間 (そうろうあいだ) 「前文であるから後文となる」と、前文が前提であることを示す。「間」だけの場合もあり
  • 并 (ならびに) 並列
  • 併 (しかし) 「あわせて」「そして」
  • 然者 (しかれば) 順接「ということで」
  • 然処 (しかるところ) 順接「そうしたところ」
  • 乍去 (さりながら) 逆接

2)語尾 <時制・区切り(順逆の接続)を主に担う>

  • 候 (そうろう) 文の区切り。但し、これがなくても体言止めで切る場合もある
  • 哉 (や) 疑問詞、時々反語
  • 歟 (か) 疑問詞、時々反語
  • 畢・訖・了 (おわんぬ) 過去表現
  • 也 (なり) 断定
  • 共 (とも) 逆接「雖」を語尾に持ってきたもの。但し「人称+共」で「~ども」となったり、「共に」の意だったり「供」の当て字だったりすることもあるので注意

3)返読文字=戻って読むもの。ここが難関。

頻出するもので、連続して戻っていくこともある。

  • 可 (べく) 未来に向かって開いた状態(仮定・要請・願望・推測)
  • 被 (られ) 敬語「なさる」、まれに受動
  • 令 (しむ) 敬語「させていただく」、他者動作、まれに使役
  • 為 (ため・なす) 「~のため」「~となす」
  • 不 (ず) 否定
  • 如 (ごとく) 「~のように」
  • 于 (に) 「~に」で「于今=いまに」が多い

多く見られるもので、基本的には動詞が当たる。状況によっては返らないこともあるので参考程度に。殆どが現代語と同じ意味。

  • 出 (だす)
  • 以 (もって) 「~をもって」となって前提を示す。「猶以」(なおもって)「甚以」(はなはだもって)は例外的な読み方
  • 有 (あり)
  • 自・従 (より)
  • 成 (なる)
  • 依 (より)
  • 致 (いたす)
  • 得 (える)
  • 於 (おいて)
  • 遂 (とげ)
  • 無 (なし)
  • 守 (まもる)
  • 奉 (たてまつる)
  • 励 (はげむ)
  • 就 (ついて)
  • 期 (きす)
  • 預 (あずかる)
  • 異 (ことなる)
  • 任 (まかせる)
  • 及 (およぶ)
  • 属 (ぞくす)
  • 尽 (つくす)
  • 備 (そなえる)
  • 失 (うしなう)
  • 与 (あたえる・あずける)
  • 取 (とる)
  • 非 (あらず)
  • 達 (たっす)
  • 対 (たいして)
  • 乍 (ながら
  • 号 (ごうす) 称する
  • 能 (あたう) 同字で「よく」とする形容詞とは別
  • 難 (がたく) 難しい・できそうにない
  • 為始 (はじめとして)

本来動詞で返読だが、名詞化されることが多く返読しないことがほとんど。

  • 稼 (かせぐ) 功績を挙げる
  • 動・働 (はたらく) 行軍・戦闘をする

3)漢文的なことば。「雖」は頻出。

  • 況 (いわんや)
  • 雖 (いえども)これは返読
  • 未 (いまだ) 「まだ」な状態、まれに未年を示す
  • 剰 (あまつさえ)
  • 就中 (なかんずく)
  • 因茲 (これにより)

4)現代語に通じるが読みや字が異なるもの

  • 拾 (じゅう)
  • 廿 (にじゅう)
  • 卅 (さんじゅう)
  • 縦・仮令 (たとえ)
  • 耳・而已 (のみ)
  • 已上 (いじょう)
  • 急度 (きっと) 取り急ぎ
  • 態 (わざと) 折り入って、わざわざ
  • 聊 (いささか) 少しの
  • 聊爾 (りょうじ) 軽率な、いい加減な
  • 闕 (けつ・かけ) 「欠」
  • 敷・舗 (しく・しき) 「~しい」の当て字
  • 間敷 (まじく) あってはならない
  • 若 (もし)
  • 而 「~て」の当て字
  • 重而・重 (かさねて)
  • 定而・定 (さだめて)
  • 達而・達 (たっての)
  • 付而・付 (ついて)
  • 抽而・抽 (ぬきんじて)
  • 然而・然 (しかして)
  • 弥 (いよいよ)
  • 忝 (かたじけなく)
  • 不図・与風 (ふと)
  • 由 (よし) 伝聞、一連の出来事を抽象的に一括りにする
  • 云 (という) 伝聞
  • 刻 (きざみ) 「~の際に」
  • 砌 (みぎり) 「~の時に」
  • 遣 (つかわす) 人や書状、軍勢、物品を送る

5)現代語と意味が違うもの、または現代での死語

  • 軈 (やがて) すぐに
  • 床敷 (ゆかしい) 慕わしい・懐かしい
  • 給 (たまう) もらうこと、まれに敬語
  • 向後 (きょうこう・こうご) 今後
  • 仍 (よって) 本題に入る際の語
  • 別而 (べっして) 格別に
  • 断 (ことわり) 報告
  • 仁 (に・じん) 「~に」の場合と「仁=人」の場合がある
  • 漸 (ようやく) 段々、少し、もう
  • 努々 (ゆめゆめ) 万が一にも

6)特殊なもの

  • 者 「~は」、人間を指す「者」、順接を指す「てへれば」がある。「者者=者は」というような用法もあるので注意。
  • 曲 曲事は「くせごと」で違反状態を指し、「無曲」は「つまらない」を意味する。意味の幅が広いので要注意
  • 次 「つぎに」「ついで」と追加を指す場合と、「なみ」と読んで「並」と同義になり、一律指定を意味する場合もある。「惣次=そうなみ」は例外なくという意味
  • 差・指 (さし) 何となくつけられている場合もあってそんなに気にしなくて良い。指向性を示しているようなニュアンス
  • 越 (こす) 行く・来るなどの移動を示す。「移」とは違って、当事者のもとに行くか、当事者が行く場合が多い。「進」と同じく進呈・贈与を指す場合もある
  • 当 (とう) 「当城」「当地」とある場合、記述者のいる場所とは限らず、話題になっている場所を指す。どちらかというと「フォーカスの当たっている」という意味。「当年」「当月」も同じように注意が必要
  • 我等・われわれ 「我等」は一人称単独で「私」を意味する。「われわれ」は「私たち」で複数だと思われるが、文脈によって異なるような印象があり要注意。
  • 沙汰 (さた) 処理すること、行動すること、決裁すること、取り上げること。「無沙汰」は怠慢で義務を怠ること、「沙汰之限」はもうどうしようもないことを指す
  • 行 (てだて) 軍事的な行動を指す。「行」を含む熟語に紛れることがある
  • 調 (ととのえる) 調整して準備する。「調儀」は軍事行動や政治工作を指す
  • 據 「無據」は「よんどころなく」、「証據」は「証文」と併記される何かで、多分「証状」
  • 外実 (がいじつ) 元々は「外聞与云実儀与云」(がいぶんといい、じつぎといい)であり、内実共にという意味。「外聞実儀」に略され、更に略された形

2018/01/23(火)羽柴秀吉の占領地政策

原文

一、請取々候城普請申付由、如何存候、被持城共さへ渡し候之間、普請ハ不入事候条、はかの行候様ニ城請取次第ニ留主居ニ相渡、其末々江可相動候、城悪候ともせめ候もの者有間敷候事
一、破却之城之儀ハ塀をおろし、城中家さへ無之候へハ相済事候間、破におよハす候、手間を入間敷候事
一、可相渡と申城共案内を待候事、無分別候、手前之はかをやり、其城々押懸候ハゝ、早速ニ可相渡候間、跡ニ念を不入、末々相済候様ニ急へき事
一、佐竹手前も城共可相渡由候、早々入相、城共急度可請取候、奥州迄道筋明候様ニ急可仕候事
一、城々兵粮在之迄念を入、穿鑿仕由、不入儀ニ候、城中ニ無之候ハゝ、其分ニ仕候て可置事
一、在々夏麦事ハ其城々留守ニ相残候者ニ申付、何方江も不可納所旨、百姓共ニ申触押置、重而以一書可得御意候、皆共奉行大勢在々江入こミ候て穿鑿候ハゝ、非分も可有之候、百姓も可迷惑間、在々江人を遣、兵粮之仕明ハ可為無用候事
一、越後宰相・加賀宰相かたへも早々手を合、安房守相抱候鉢形・松山・をし此城々取巻候事可急候、松山にても、をしにても、一城ハ此方より相動人数として可取巻候、鉢形ハ北国口よりの人数取巻候へと被仰出候、弥其通可申聞候、其外一城ハ佐竹を初而八州より罷出国侍可取巻事
一、松井田在陣衆者、小田原表行来にて候、いそき道の往還候様ニ可仕事
一、此方より相動人数、家康ものにも、城々にて兵粮相渡由尤候、弥其分ニ仕、何分もはかの行候様ニ可仕候事
一、御判被下候在々家々、不焼所ハ、為御判銭、兵粮可致進上旨可申付候、其所より一廉在此之所ハ、其ニ随ひ可申付候事
一、右之通相済候て、皆共も隙明候ハゝ、急々可申越候、何も不可有油断候也
一昨日十日書状今十二巳刻到来候、下総国之内とけ・東金両城請取旨、得其心候事、
五月十二日/(朱印)/浅野弾正少弼とのへ・木村常陸介とのへ

  • 埼玉県史料叢書12_0918「羽柴秀吉朱印状写」(難波創業録)

解釈

  1. 一、受け取る城ごとに普請を指示しているとのことだが、どういうつもりか。保持する城だけ渡せば、普請は不要だから、捗るように、城を受け取り次第留守役に渡して、末々の城まで処理するように。城が悪い状態だろうが、攻める者はいない。
  2. 一、破却する城は、塀を下ろし、城中の家だけなくせば済むことだから、破壊するには及ばない。手間をかけてはならない。
  3. 一、開城を申し出た城からの案内を待っていることは、考えが浅い。こちらが捗るように、それぞれの城へ押しかければ、早く渡してくれるだろう。念を入れずに、末々まで済むように急ぐように。
  4. 一、佐竹からも諸城を渡したいとのこと。早々に赴いて城々を急ぎ受け取るように。奥州までの道筋が開通するように急ぎ片づけるべきこと。
  5. 一、城々の兵粮在庫は念を入れて精査するとのこと、要らざることだ。城中になければそのままにしておけばよい。
  6. 一、各在所の夏麦は、その城々で留守に残る者に指示して、どこにも納めないでいるよう、百姓たちに指示せよ。改めて書面で通達するだろう。全奉行が大勢で各在所へ入り込んで精査を始めれば、非分もあるだろうし、百姓も困るだろう。各在所へ人を派遣して兵粮の仕分けをするのは無用である。
  7. 一、上杉景勝・前田利家の部隊とも早々に合流し、北条氏邦が保有する鉢形・松山・忍の城々を取り囲むことを急ぐように。松山でも忍でも、どれか一つの城はこちらより部隊を出して取り囲むように。鉢形は北国口からの部隊が取り囲むようにとの仰せである。いよいよその通りになるよう、聞かせるように。そのほかの一城は佐竹をはじめとする関東の侍が取り囲むように。
  8. 一、松井田に在陣していた衆は、小田原に来た。急いで道の拡張工事をさせるだろう。
  9. 一、こちらから動いた部隊が、徳川家康の配下に城々で兵粮を渡すとのことは、もっともだ。ますますそのような感じで進めて、何事も捗るようにするべきだ。
  10. 一、ご印判を渡して焼き討ちにしなかった家々に「兵粮を進上するように」と指示せよ。そこよりも更にある場所では、それに応じて指示せよ。
  11. 一、皆の手が空いたろうから、右の通りに済むように急いで連絡した。何れにせよ油断があってはならない。

追記:一昨日10日の書状が今日12日巳刻に到来した。下総国のうち、土気・東金の両城を受け取った旨、諒解した。

2018/01/17(水)第2次国府台合戦報告書

永禄7年の国府台合戦に関して、北条氏康・氏政が連署して、小田原にいたと思われる留守衆(北条宗哲・松田盛秀・石巻家貞)に戦況報告をした書状写が残されている。

  1. 油断して渡河して崩れた江戸衆を支えたのは氏政旗本であること
  2. 氏康旗本は地形上緒戦の状況を把握できていなかったこと
  3. 氏照・綱成・氏繁・憲秀(または氏規)・氏邦(または氏信)が活躍したこと
  4. 江戸衆の敗兵を再編成して追撃、18時前後に決戦をしたこと
  5. 太田資正は重傷を負って退却したこと
  6. 里見義弘を討ち取ったという報告があるが首級は確認できていないこと

永禄7年の1月8日はグレゴリオ暦で3月1日であり、17時35分に日没。薄明が終わるのが18時過ぎ。月の入りは20時22分で月齢2.5。月明かりは期待できない。こうした暗夜にまでもつれた合戦を指して「夜戦」と誤解されたのかも知れない。軍記ものでは緒戦の勝利に浮かれた里見方が油断した隙を狙って夜戦を仕掛けたとあるが、先勢敗退後に反撃した氏政によって里見方は後退している。更に、後北条方の接近を知って里見方も備を寄せたとあるので、奇襲ではない。

  • 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p17「北条氏政・氏康連署書状写」(大阪狭山市教育委員会所蔵江馬文書)

    八日一戦勝利注進之間、即従仕場遣之、今度■前代未聞之儀候、最前敵退由申来を勝利存、先衆車次々之瀬を取越候、敵者大将里見義広為始安房・上総・岩付勢、鴻台拾五町之内備相手候、此有無不知遠山以下聊爾ニ鴻台上候処ニ、敵一銘押掛候間、於坂半分崩、丹波守父子・富永其外雑兵五十被討候、能時分ニ氏政旗本備寄候間、即押返、敵共討捕候、切所候故、氏康旗本者不知彼是非候、既先勢如此仕様、相続行兼術無了簡候処、跡者召集鍛直、無二一戦例落着、従鴻台三里下へ打廻候、敵も添而備寄候間、及酉刻遂一戦、即伐勝候、正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・荒野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人を為始弐千余人討捕候、太田美濃も深手負下総筋へ逃延候、此衆太田下総・常岡・半屋を為始悉討捕候、雖義広討死候由候、其頸未見来候、椎津・村上両城自落之由申来候、源蔵・左太父子・左馬介乍常兼粉骨候、新太郎事、能時分従川越走着走廻候、此度之軍始中終両旗本を以切留候、此上者向小田喜・左貫可相動之条、先今度者可治馬覚悟候、謹言、
    正月八日/氏政・氏康/幻庵・松田尾張守殿・石堂下野守殿

8日の一戦の勝利を戦場から報告する。

今度は前代未聞のこと。

直前に敵を退けて勝ったと思ったようで、先衆が次々と瀬を越えた。

敵は大将が里見義弘の安房・上総・岩付勢。

国府台15町(約1.6km)の内に相手が備えを置いていた。

この存在を知らずに、遠山以下の者が迂闊に国府台に登った。

敵が一斉に押し寄せたので坂の半ばで崩れた。

遠山丹波守父子(綱景・隼人佑)・富永(康景)その他の雑兵50が討たれた。

良い時機に氏政の旗本備が攻め寄せたので、すぐに押し返し敵を討ち取った。

切所だったので氏康の旗本はこれを知らなかった。

先勢は既にこのようになり、続いての手立ても思いつかずにいたので、追撃のため編成し直した。

無二に一戦して決着をつけるため、国府台より3里(約2km)下へ出撃した。

敵も近づいて備えを寄せたので、酉刻(18時頃)になって一戦を遂げてすぐに切り勝った。

正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・薦野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人をはじめとして、2,000余人を討ち取った。

太田美濃は重傷で下総方面へ逃げ延びた。

この衆は太田下総・恒岡・半屋をはじめとして全て討ち取った。

義弘は討ち死にしたとのことだが、その首級をまだ見ていない。

椎津・村上の両城は自落したとのこと。

源蔵(氏照)・左太父子(綱成・氏繁)・左馬介(憲秀or氏規)がいつもながら粉骨した。

新太郎(氏邦or氏信)はよい時機に川越より走り着いて活躍した。

今度の軍は最初から最後まで両旗本によって切り留めた。

この上は小田喜・佐貫に向かって作戦するだろうから、まず今回は帰陣するつもり。

2017/12/21(木)「大方」の3つ目の語義

「大方」の語義

戦国期の「大方」は、年配女性への敬称のほかに、「大体・おおよそ」の意味がある。更にはこの「おおよそ」から派生して「大雑把に・いい加減に」という意味も派生しているようだ。

採集文書から見た語義の用例数

「大方」の登場回数は29。このうち女性への敬称は6例、「大体・おおよそ」は15例、「いい加減」は8例。どれも稀な例というわけではなく、「大方」があった際は3つの語義をそれぞれ当てはめて検討した方がいいと判る。

「大方=いい加減」の用例

 1570(元亀元)年に比定される北条氏康の禁制がある。これは、駿河を追われた今川方が小田原周辺の寺に滞在する際の禁止事項。後北条分国であるためか今川氏真の名は出てこない。

  • 戦国遺文後北条氏編1414「北条氏康禁制写」(相州文書所収足柄下郡海蔵寺文書)

    禁制
    一、寺内之儀者不及申、近辺之菜園一本にてもこき取間敷事
    一、寺之山林枝木にても手指事、并竹子一本にてもぬき取事
    一、非儀非分有間敷事
    以上
    右三ヶ条、少も相違有之者、富士常陸可被申断、彼者大方申付ニ付而者、当意御本城へ納所を指越、可被申上候、不申上而、宿取衆狼藉、自脇至于入耳者、住寺可為曲事者也、仍状如件、
    卯月廿六日/(朱印「武栄」)南条四郎左衛門尉・幸田与三奉之/海蔵寺

  • 戦国遺文後北条氏編1415「北条氏康禁制写」(相州文書所収足柄下郡久翁寺文書)

    禁制
    一、寺内之儀不及申、近辺之菜園一本ニてもこき取事
    一、寺山林枝木ニても手指事、并竹子一本ニてもぬき取事
    一、非義非分有間敷事
    以上
    右三ヶ条、少も相違有之者、甘利佐渡・久保新左衛門尉可令申断、彼両人大方ニ申付候者、当意御本城江納所を指越、可申上候、為不申上、宿取衆狼藉、自脇至于入耳者、住寺可為曲事者也、仍状如件、
    午卯月廿六日/(朱印「武栄」)南条四郎左衛門尉・幸田与三奉之/久翁寺

これは寺に向けての禁制であることから、対象が寺内に滞在した「宿取衆」=今川被官なのは間違いない。宿取衆の規律は、富士常陸・甘利佐渡・久保新左衛門尉が責任者となっていて、すでに後北条氏から通達はしている。但しそれだけではなく、今川の責任者が「大方」=いい加減に管理していたのであれば、寺の納所(事務官)を通じて「本城」=北条氏康へ報告せよという指示を加えている。この報告は義務で、今川の責任者・寺の納所からの報告がないままに、他の経路で混乱が氏康の耳に入ったら、住持の過失と見なすとしている。

報告しなければ処罰という規定は一見、寺にとって過酷な仕打ちのようにも見える。しかし、黙認を求める宿取衆に対して「報告しないで処罰されるのは寺なのだ」と突っぱねる目的も兼ねていたと見れば一概にそうともいえない。

他の「いい加減」用例

「大方」=いい加減という用例は以下の通り。上から2例では罰則を伴っていて、氏康禁制写と似ている。

  • 戦国遺文今川氏編0863「今川義元判物写」(摩訶耶寺文書)

    右、大切之人足、大方に致無稼軍役一理に普請申付候はゝ、奉行中一同可為重科候、

右は大切な人足である。いい加減な稼ぎのない軍役だとして普請を指揮したら、奉行一同を重罪とする。

  • 増訂織田信長文書の研究0968「織田信長朱印状」(京都・建勲神社文書)

    万一楚忽之動候て、聊も越度候者、縦自身身命いき候共、二度我々前へハ不可出候条、大方ニ不可覚悟候、

万が一粗忽な働きをして、少しでも間違いがあったら、たとえ自身の命があったとしても、二度と我々の前へは出られないようにするから、いい加減な覚悟をしないように。

  • 戦国遺文後北条氏編3807「北条家朱印状」(小林荘吉氏所蔵文書)

    軍法之儀、大方ニ致覚悟間敷候

軍法のこと、いい加減な覚悟をしてはならない。

  • 戦国遺文後北条氏編2395「北条氏政書状」(佐野正司氏所蔵文書)

    若此時如例式大方ニ於御取成者無申候、過去未来可被遂勘弁事専一候

もしこの時に、いつものようにいい加減な気持ちで取りなしてもらおうとするなら、もう言うことはない。過去・未来を見通して熟慮するのが大切だ。

  • 戦国遺文今川氏編2331「大沢基胤・中安種豊連署状案」(大沢文書)

    将又堀河随分申調手を合候之処、普随[請]大方ニ付て、則時被乗取候

また、堀河は随分と準備して手合わせをしたところ、普請がいい加減だったのですぐに乗っ取られました。

  • 戦国遺文後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)

    八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ

八幡、富士・白山にも精を入れていること、いい加減ではありませんが、巡り合わせが悪く掛け違ってしまったなら

2017/11/07(火)小幡兵衛尉の処遇に関連する文書

岡田利世、小幡信定に、降伏を促す

  • 戦国遺文後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年に比定。

当城を六月七日両日相尋候へハ、はや其方へ御越候由候、不懸御目御残多存知候、彦三様より貴所様之事内ゝ心懸申候へて被仰越候条、小田原へ取寄候時分より、いかなるつてニても、セめて書状を取かわし申度候而、さまゝゝ調略共仕候へ共、此方ハ不苦候へ共、城中ニて御法度つよく候由候而、御為いかゝと存候て不申入候、六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候、一、彦三様御身上之事いかか被思食候哉、其方之御様子之通ニてハ是又家康へか内府へ御出候て尤候、一、忍之城御セめ候わんとて越後衆・羽筑前殿ニ被仰付候、昨夕此地まて御越候間今朝すくニおしへ御越候、定而彦三郎殿もおしへ可為御参陣候哉、貴所様もおしへ御出候ハん哉、御大儀なから御馬とり一人ニて此方へ御出候事ハなるましく候哉、以而上彦三様御身上又ハ貴所様御身上之事申談度候、一、信州あいき息宗太郎も家康へ罷出度と被申間、津田小平次と我ゝ両人して肝煎申候ハんと申候ても不人事、被仰候間、片時もいそぎ申談度候、一、先度木村ニ直談申候、先年信州こむろニて、井野五左衛門と申人へやくそく申候金子早ゝ御済候て尤候由申入候、五左衛門と申人、其時ハほうはいニて候今ハ上様御馬廻ニて一段御意よしニて候定而其方より御出可申候へ共、我もひきやうをかまへ候カなとゝ申候てめいわく仕候、けにゝゝ難相済候、一時も御いそき候て是非を御きわめ候て、其上不相調候者それにしたかひ御分別なされ尤候、上州之事家康へまいり候事必定と相聞申候間、家康へ御詫言候やうにと存候て、内府へも大かた申籠候、内府より被仰候者家康之御まへハ可相済候と存候、一、小田原城当年中ハ家康可有御出由候、来年江戸へ御越候へと被仰出候、一、此間ハ近年家康之御分国を一円ニ内府へ可被遣候と申候キ、三川国ニ別人を御おき候て其かわりニ上州を内府へ被遣候ハんなとゝ、たた今御本陣より被越候人被申候、あわれゝゝさ様ニも御及候へハ、彦三様御身上其まゝ相済申事候、莵角いつれの道ニても、内府を御頼候て家康へ御理候てハはつれぬ御事たるへきと存候、一、貴所様御身上なともなにとそ御分別尤候、彦三郎殿御身上如前ゝ相済候へハよく候、若不相済候とて俄ニとやかくと被仰候ても、難相調候間、我ゝ請取不申候ハゝ急度 上使を可遣候なとゝ申候而、此間ハ日ゝニ申来候而難儀仕候、急度被仰付候而尤候、一、当城之御無事之きわニ貴所様之事疎略仕候様ニ可思食八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ、不及了簡候、とかくたゝ今御身上御きわめて尤候、少御やすミ候て、何分是へ木村存知ニて候間、可有御出候哉、申談度候、恐惶謹言、
六月八日/利世(花押)/宛所欠(上書:岡田新■■利世 小幡兵衛尉殿人々御中)

 この城を6月7日から2日訪れましたので、早くもそちらへお知らせになったとのこと。お目にかかれず大変残念に思います。彦三様よりあなた様のことを内々で心がけてほしいと仰せいただいていたので、小田原を包囲した時分より、どのような伝手でもせめて書状を交換したいと考え、様々な手段を試みましたが、こちらは問題なくても、城中ではご法度が強いとのことで、そちらのためにならないと思って申し入れませんでした。6日・7日の2日間は垪和善七郎殿という方を頼んで案内する者を得てお訪ねしました。氏直様お一人で2夜お酒などをいただきましたので、昨日7日の晩に家康の陣へお立ち寄りになりました。 一、彦三様の身の上のこと、いかがお考えでしょうか。そちらのご様子の通りだと、こちらもまた家康へか内府(信雄)へ出仕なさるのがもっともです。 一、忍の城をお攻めになるということで、越後衆と前田利家殿へご命令になりました。昨夕この地にお越しだったので、今朝すぐに忍へお出かけになりました。きっと彦三郎殿も忍へご参陣なさるでしょうか。あなた様も忍へお出でになりますか。お手数ですが、お馬とり1人だけ連れてこちらへお出でになるのはかないませんか。その上で、彦三様の身の上、またはあなた様の身の上のことをご相談したく思います。 一、信濃国相木の息子宗太郎も家康へ出仕したいと申されているので、津田小平次と私の2人で肝煎りして申し上げようとしても人事とならぬと仰せになられているので、とにかく急いでご相談したく思います。 一、先に木村へ直接申しました。先年信濃国『こむろ』(小諸)で井野五左衛門というに約束した金銭を早々にご返済するのがもっともであると申し入れがありました。五左衛門という人は、その時は同僚で、今は上様のお馬廻で一段と目をかけられています。きっとそちらからお返しになるでしょうが、私も裏表があるのかと言われて困っています。本当に紛糾しているので、一時もおかずお急ぎになって事実を確認して、その上で揉めるようならそれによってご判断さなるのがもっともです。上野国のことは家康へ与えられることは間違いないと聞いていますので、家康へお詫び言するようにと考え、内府へも大体は申し含めています。内府から仰せになれば家康に仕えることは済んだも同然です。 一、小田原城は今年一杯は家康へ渡されるとのことです。来年は江戸へ移るように仰せになられました。 一、この間、近年の家康ご分国を全て内府へ渡されるだろうとのことでした。三河国に別の人を置かれて、その代わりに上野国を内府へ遣わすなどと、ただいまご本陣より来られた方が申されています。かわいそうに、そうなってしまったら、彦三様の身の上はそのままでは済まなくなることです。とにかくどのようになったとしても、内府をお頼りになって、家康へご説明なさらねば進展はないだろうと思います。 一、あなた様の身の上なども、どうかご分別なさるのがもっともです。彦三郎殿の身の上は前々のように済めばよいことです。もし済まないことになって急にとやかく申されても、調整するのは難しいでしょうから、私たちが保障できなければ、上使を派遣するだろうなどと言ってきています。このところ毎日言ってきて難儀しています。急いでご指示いただくのがもっともです。 一、当城のご無事の際に、あなた様のことを疎略に扱うような思し召しは、八幡にも富士権現・白山権現にも精を入れていることは、大概のことではありませんけれども、巡り会わせが悪く懸け違いが起きては了見を得ません。とにかくただいま身の上をお決めになるのがもっともです。少しお休みになって、なにぶんこのことは木村も存じていますから、お出でになりませんか。ご相談したく。

井伊直政、小幡信定の陸奥遠征を労い上野国で助力することを約す

  • 戦国遺文後北条氏編4549「井伊直政書状写」(加賀小幡文書)天正18年に比定。

    別て炎天時分御辛労無申計候、次黒田官兵様へ心得て可有、於小田原之万ゝ御取籠付て委細不申遂候、此返御心得所仰候、内ゝ御床敷存幸便之間一筆令申候、其已来者遠路故給音問所存外候、小田原御立之時分者御暇乞不申候、奥へ御供之由、扨ゝ御苦労察入申候、拙者者箕輪へ可罷移由御上意候間、先ゝ当地ニ移申事候、爰元御用等候者、可被仰越候、少も疎略有間敷候、何様御帰之時分、以而申入候者可承候、如在存間敷候、猶重而可申達候、恐々謹言、
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/小幡右兵衛尉■

 内々にお懐かしく思い、便があったので一筆申し上げます。あれ以来は遠路によってご連絡いただけるとは考えておりませんでした。小田原をお発ちの時にはご挨拶を申し上げませんでした。陸奥国へお供されたとのこと。さてさて、ご苦労お察しします。私は箕輪へ移るように上意がありましたので、とにかくこの地へ移りました。こちらでご用向きの際は、仰せになって下さい。少しの粗略もありません。色々とお帰りになった際にお申し入れいただければ、承りましょう。手抜かりはありません。さらに重ねてご伝達しましょう。 別途。炎天の時分のご辛労は申し上げるばかりもありません。次に、黒田官兵衛様へ心得を言い付かりました。小田原においては色々と取り込んで詳細を申し遂げられませんでした。この返信はお心得を仰ぐところです。

井伊直政、某に、所領の維持が困難であることを告げる

  • 戦国遺文後北条氏編4550「井伊直政書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年、小幡兵衛尉宛に比定。

    就貴所乃御身上之儀、自岡田新八郎殿被仰越候、其郡之儀者、未何方へも不相定候間、先其地ニ有之、御世上見合尤ニ候、何方よりも六ケ敷申候由、早ゝ御注進所仰候、御国竝之儀候間、内ゝ御他国仕度候御心懸候て尤ニ候、御荷物已下、少障り者有間敷候間、可有御心安候、少も事六ケ敷被、(後欠ヵ)
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/宛所欠

 貴所の身の振り方について、岡田新八郎殿よりご連絡がありました。あの郡のことは、まだどこへとも決まっていませんので、まずあの地にいていただき、世の流れを見極めるのがもっともです。どこよりも難しく申していること、早々にご注進と仰せのところ、御国並のことですから、内々で他国への支度をするお気持ちでいるのがもっともです。お荷物などは少しも損なうことはあり得ませんから、ご安心下さい。少しも事が難しく……(後半断か)

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