2017/10/26(木)椙山陣考再録

椙山陣考-1 『杉山城問題』と『椙山之陣』

 『杉山城問題』と言われる、歴史学上の解釈の議論がある。埼玉県嵐山町杉山に遺構が存在する杉山城に関して、発掘された陶磁器の年代測定にて1450~1525年頃という見解が出されたことに端を発している。その見解が出るまでは、縄張り構成から城郭研究者が天文末年以降の後北条氏築城と唱えていた。このため、発掘調査の結果と齟齬が発生した。同時に、継続して発展・拡張されたものではなく1度使った後は放棄されたとの見解が発掘者から出てきた。こうなると、「じゃあどちらなのか?」的な議論になってくる。

 その後『戦国遺文古河公方編』が、毛呂土佐守宛・足利高基書状写の「椙山之陣」を嵐山町杉山に比定した。このために「発掘調査と文書が適合した」とする主張が出てきた。書状写内の足利高基・上杉憲房の活躍時期から、後北条氏が進出する前に杉山城が存在したというのである。

 この主張をしているのは、『千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」』(竹井英文氏)と『中世東国の領域と城館』(斎藤慎一氏)の2論文である。

 この問題の詳細については、静岡のお城というサイトの「お城の研究」>「最新の研究動向紹介」に判りやすくまとめられている。私の稚拙で駆け足な説明では心もとないので、興味を持った方は是非ご参照を。

『杉山城問題』の論点を短くすると以下のようになる。

  • 城郭研究:後北条氏がその城郭技術を用いて築造した高度な設計と定義
  • 発掘結果:後北条氏が川越を領有する1537(天文6)年以前と指摘
  • 文献研究:「椙山之陣」=嵐山杉山城と比定し、山内上杉氏関与と指摘

私は研究史に疎いのでちょっと胡乱だが、研究として先行したのは縄張りを現地に行って調べて回る城郭研究だと思っている。年代測定の技法・発掘状況を考えると考古学的研究は最近のものだろう。そして、文献研究についても自治体史を中心とする文書の編年列挙・釈文化が本格化したのは80年代以降だと思うので、実は新参としての側面がある。であれば、先行する城郭研究は後進に否定されたことになり、ここに、この懸案が純粋論理で展開できていないように見える素地が隠されているような気もする。

文書をちょっと調べてみた

 縄張り論や遺物論への知識はないが、古文書であれば私にも少し判る。その書状写を読んでみた。

足利高基、毛呂土佐守が上杉憲房を守って活躍したことを賞す
  • 戦国遺文古河公方編0606「足利高基書状写」(山田吉令筆記所収家譜覚書)

    椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、
    九月五日/足利高基ノ由花押/毛呂土佐守殿

非常に短い。一読すると「『椙山之陣』からずっと毛呂土佐守が上杉憲房を守備したと、足利高基が誉めた」という内容だ。文中で登場する上杉憲房の生没年は1467(応仁元)年~1525(大永5)年。1450~1525年という発掘調査結果と合致している。なるほどと思いつつ、少し疑問が出てきた。

この文書は正しいものか?

写しというよりは家譜内に記されただけの文書であることから、綿密な検討が必要だろう。毛呂氏の諸系図には一次史料で判っている人物が入っていない(三河守・季長・左衛門丞)。特に三田氏から毛呂幻世の養子に入ったことが確実な季長は、永正年間に元服しており、今回の文書とほぼ同時期に活躍した人物だ(武蔵三田氏 論集・戦国大名と国衆4/黒田基樹)。毛呂氏にとっても中世末期の最重要人物だが、何故か系図には存在しない(毛呂山町史料集第3集)。

その一方で、旗本として近世中期に仕官した毛呂長敬・大谷木季貞は出てくる。となるとこれらの系図は長敬・季貞の仕官用に作成された可能性が高く、戦国期以前の信頼性には問題があると思う。『毛呂山田系譜』では永和~応永年の人物と、1567(永禄10)年卒の義春で官途を『因幡守』としていることから、上野国佐貫の別系統『茂呂』氏から文書を買い取った可能性もあるだろう。

文書の解釈は正しいのか?

まず、「以来」という語の扱いが気になっている。竹井氏・斎藤氏の杉山嵐山説では、「椙山之陣」発生時と高基発給時を近い日取りで考えているようだ。しかし、他の文書を見る限り「以来」は結構遡れる表現である。また、「相守」については物理的な守備・警護を意味していないことが歴代古河公方文書で判った。1と合わせて次回検討してみる。

土地の比定は嵐山のみか?

「杉山」は、高山・松山などとともに、割合普遍的に存在している地名ではないだろうか。地名辞典を見ても他の候補は存在した。そこで、それぞれを列記して検討する。

椙山陣考-2 『相守文書』

私は今川・後北条の文書は少しばかり読んでいるが、古河公方については義氏のものを何通か解釈しただけである。それにつけても、懸案の文書は少し短過ぎて異常に感じられる。

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、
九月五日
足利高基ノ由
花押
毛呂土佐守殿

そこで、「相守」をキーワードに諸史料を当たったところ、『椙山之陣』文書は、古河公方が代々発給していた一定のテンプレートに添った文書であることが判った。

『相守文書一覧』

文書自体の意味を考えると、古河公方から陪臣(家臣の家臣)に出されている点から、宇都宮成綱・小山成長らの統制力を増すために出されたように見える。

「相守」という言葉は『相守文書』以外の文書でも使われており、物理的な守備・護衛ではなく、忠義を守るような意味合いと指摘できるだろう。

上杉顕定、長尾景春に、久下信濃守の伊勢参拝道中を保障するよう、伊勢宗瑞への仲介を依頼する

  • 神奈川県史資料編3下6478「可諄書状案写」(榊原家所蔵文書)

    久下信濃守事、累年相守当方、忠節異于他候、寔可被聞及候、仍近日可参宮分候、然者東海道於可透候間、往還無相違様、伊勢宗瑞方へ懇被申越候者、可喜入候、恐ゝ謹言、
    正月晦日/可諄判/長尾左衛門入道殿

「以来」の用法にこだわってみると……。

古河公方が陪臣に向けて直臣への忠義を認めるという文書の意味合いから考えて、「以来」はその陪臣が忠義を行なった由緒を示すものとなる。つまり、毛呂土佐守は「椙山之陣」からずっと憲房に忠義を尽くしていたのだから、その契機は遡るほど評価が高いことになる。

「以来」という語の使い方を見ても、今川氏親書状では9年遡った例がある。

今川氏親、本間宗季の軍忠状を認定する

  • 戦国遺文今川氏編0232「本間宗季軍忠状写」(本間文書)

    遠江国山名郡石野郷内小野田村之事。右、任本地致知行、御入国以来忠節仕条々。一、座生御城江信州一国罷立相攻候処、久野佐渡守及難儀半、属福嶋左衛門尉助春手彼城中ニ走入、励軍忠久野同前得勝利候。一、天方城敵相楯籠候時、久野并渋谷相共遂合戦、佐野小次郎討捕、其頸福嶋玄番允渡之畢、馬伏塚敵可乗取支度仕候時、宗季最前彼城エ懸入、依助春令知之、企謀略之族則令出奔畢、関東御進発御供仕、於武州立河原御合戦大利上軍功其一数候。一、三州江福嶋玄蕃允為助春代、罷立候時、令同心候、其後御進発之刻、御供仕、今橋城攻仁百余日尽忠功候、同於石巻之城、渋谷同前六十余日粉骨、無其隠候、以此条々下給御証判、可備後代亀鏡之旨、宜預御披露候、仍目安状如件、
    永正七庚牛年三月廿日/本間源次郎宗季/披見申候(今川氏親花押)

この文書の発給は1510(永正7)年、遠江国蔵王城を信濃国衆が攻めたのは1501(文亀元)年頃。少なくとも、後の項目で挙げられた立河原合戦が1504(永正元)年であることは確実なので6年以上遡っていることは確実である。「以来」の契機がどこまで遡れるかは特定できないので、椙山之陣発生時期は憲房初陣まで範囲に入るだろう。

また、『椙山之陣』は憲房の指揮下に入った契機であることしか示さないので、この陣に憲房が存在しなくてもよい。究極を言えば、憲房も毛呂土佐守も別の場所にいたのだが、契機としては『椙山之陣』があったという理解も成り立つ。とはいえ忠義を称える文面から、土佐守はこの陣にいたと考える方が自然だと考えている。高基に関して言えば、この陣で憲房と没交渉、もしくは敵対していたとしても問題はない。発給時点で憲房と協調関係にあればよい。

以上から、高基が発給した年と、『椙山之陣』が発生した年は別個に存在することを検討しなければならない。勿論、両者が同年であるという比定も可能だ。年比定については項を改めて検討する。

とにかく例外が多すぎる。

そして、表中で目に付くのが07号とした『椙山之陣』文書の例外ぶりである。まず利根川右岸の、しかも山内上杉氏を媒介にしているのは異様である。赤井氏・冨岡氏との関連から考慮すると、後に後北条氏方として登場し佐貫(赤井氏旧領)を拠点として冨岡氏と連携している茂呂因幡守宛と考えるのが自然に思う。原文書が武蔵毛呂氏に渡り、近世になって宛所が書き換えられたのではないか。

その改変に伴って、「無二」を伴わない文頭である「椙山之陣以来」と、文末の「謹言」が書き加えられたとするならば、07号文書の原型はようやく、一連の相守文書と親和性が確保できる。改変の可能性を示唆するのが竹井氏論文である。

  • 千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」(竹井英文)

注書き内

「なお、「家譜覚書」に[史料1]と同文で「憲 花押」とある史料があることも知った。そこには、「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」と注があり、[史料1]に「■■文亀三年ト有」と注があるのは、このことを指すと思われる。しかし、その根拠は不明確で、注の内容も事実関係として全く合わない。内容的にも足利高基書状とみて間違いないと思われる。」(101ページ)

確かに指摘通りで、1503(文亀3)年当時の山内家当主は顕定であって憲房・憲寛は該当しない。また、伊豆国に「杉山」という地名があったかは判らない。但し、1496(明応5)年に相模西郡に山内方が侵攻したという顕定書状、矢野憲信が顕定の指示で駿河国御厨に在陣したという顕定書状はあるので、伊豆国での紛争に憲房が参加した可能性はわずかにある(1503年だと憲房は36歳前後)。

それはさておき、このような写しの存在は07号文書への改変が試みられたという証左である。他の『相守文書』との文言的乖離と合わせてこの点は強く指摘したい。

椙山陣考-4 比定地候補

『椙山之陣』を嵐山町の杉山とする根拠は、竹井英文氏と斎藤慎一氏が言及している。

  • 千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」(竹井英文)

    「毛呂氏が本拠とする武蔵毛呂郷の地理的位置、高基と憲房と毛呂氏が連携して戦争を行っていること、先述したように憲房が主に武蔵と上野で戦争を行っていることを念頭に「椙山」という地名を探すと、それは佐藤氏の比定通り、杉山城が存在する埼玉県嵐山町と考えられる」(91ページ)

  • 中世東国の領域と城館(斉藤慎一)

    「冒頭の「椙山之陣」について、『戦国遺文』では埼玉県嵐山町の注を付している。上杉憲房・足利高基・毛呂氏の三者の地理的状況を考えれば、同所に比定されるのは必然的と思われる。」(251ページ)

本当にそうだろうか。武蔵国に他の候補はあるのに、どちらの論文にもそれらを検討・除外したという記述はない。改めて考えてみたい。

『角川書店地名辞典』から候補地を列挙してみる。

埼玉県本庄市杉山

利根川と烏川の合流地点にあり、平井城の憲房が鉢形城にいた顕実と家督を争った際に憲房が陣を張ったと想定できる。

ここにある日輪寺は元応年間創建と伝わっており、当時杉山という地名が存在していた可能性も高い。また、連歌師宗長は『東路のつと』で、1510(永正7)年に鉢形から長井まで道案内した者の名を「杉山」と書いている。日没前に宿所に辿り着けなかった宗長は、恐らく杉山の案内で道を引き返してようやく宿を探し当てた。この杉山某は本庄市杉山の住人だったのではないか。

具体的には、古河公方と上杉氏が最初に戦った際に上杉方陣地として用いられた五十子陣の北方にあることから考えて、1511(永正8)年から翌年にかけて、平井城の憲房が鉢形城の顕実と争った際に使用したと想定できる。顕実が新田近辺に出撃する予定があったことは政氏書状で確認できる。与同する足利長尾氏・横瀬氏の渡河地点を確保しつつ、和解に尽力する扇谷朝良の拠点川越から距離を置くとなるとこの候補地は有力だろう。

神奈川県横浜市西区

地名辞典に掲載されているのは昭和3~41年の町名だが、名前の由来である杉山神社は多摩川右岸(横浜市・川崎市・町田市)に多数存在しており、町田市三輪には「椙山之陣」と同字の「椙山神社」が現存する。1510(永正7)年に権現山で上田氏が蜂起し、山内・扇谷の上杉氏が連携してこれを攻めた際に、山内方の後方陣地として機能した可能性がある。

但し憲房自身は権現山合戦を「上田一戦」と書いている(「発知山城入道宛書状」駿河台大学論叢41号13)。何れかの杉山神社に本陣を据えていたと伝聞した高基が「椙山之陣」と記す可能性は捨てきれないものの、この点から候補地としては難しいように思う。

ちなみに、町田市三輪の椙山神社の近くには、後に北条氏照が言及した沢山城跡があり、式内論社(延喜式に載った杉山神社はどれか判らなくなっているため「論社」と呼ばれる候補がいくつかある)3つ(茅ヶ崎ノ杉山神社・中川ノ杉山神社・吉田ノ杉山神社)が集中する中心部には、茅ヶ崎城が存在する。

御殿峠(八王子市片倉町・町田市相原町)

1569(永禄12)年に北条氏照が言及した「杉山峠山」。多摩郡から相模国当麻宿に抜ける鎌倉街道があり、滝山城攻囲を切り上げた武田晴信は杉山峠を越えて小田原に向かった。殿丸という高台や屋敷跡地の伝承もあり、陣所として機能した形跡もある。「御殿峠」という名称になったのは明治以降だということで、比定地としては問題ない。

山内・扇谷の両上杉氏が争った長享の乱では、山内氏が相模に何度も侵入している。1488(長享2)年の実蒔原合戦、1496(明応5)年の西郡一変、1504(永正元)年の立河原合戦から椚田奪還、実田攻めという流れから考えると、川越を攻めつつ、三田・大石といった有力家臣の勢力がある多摩郡から相模国へ転進したのが山内氏の戦略であったのだろう。さらに、1510(永正7)年には5月以前に椚田が1日だけ自落しており、7月の権現山合戦との関連性も考えられる。相模国西部から伊勢宗瑞が来ることを考慮すると、前線部隊を権現山に送りつつ、憲房自身は杉山峠にいて伊勢氏を牽制していた可能性がある。

杉山(嵐山町)

場所から考えて、1488(長享2)年の須賀谷原合戦との関連が高いように思う。しかし、6月の須賀谷原合戦の直後の11月、扇谷方に高見原まで攻め込まれていること、1494(明応3)年にも同じく高見原まで扇谷定正が侵攻していることから、ここに陣を置く局面があったかは不明。

竹井氏・斎藤氏の論文では、長享の乱後を想定している。『勝山記』『石川忠総留書』から両上杉氏に抗争があり、その際に『椙山之陣』が置かれたという考えだ。しかしこの時期の扇谷氏は東進する北条氏綱への対策に奔走しており、勢力も弱くなっている。憲房が嵐山杉山に陣を置くほどの軍事的緊張があったとは考えがたい。

むしろ、氏綱に川越を奪われた1535(天文4)年8月以降の方が自然である。川越奪回を狙う扇谷方の拠点として両上杉氏が共同構築したのであれば、現在残っているという技巧を凝らした縄張りも首肯し得るだろう。但しそうなると『椙山之陣』文書に登場する人物がつながらない。足利高基は同年6月に死去、上杉憲房に至ってはその10年前に亡くなっている。また、毛呂土佐守は1524(大永4)年以前に氏綱方に変わっている。

※黒田基樹氏比定では1511(永正8)年となっている、「釜形陣以来」という表現のある憲房書状がある。文中に「可諄も同意候き」とあることから顕定生前のものとされているようだが、「釜形」を嵐山町鎌形と考えると1524(大永4)年の毛呂城争奪に関係していると思われる。この点は別記事で何れ検討したい。

上記をまとめると、Cの杉山峠は長享の乱を通じて可能性があり、また権現山合戦時でも想定が可能である。ここが第1候補といえる。Aの本庄杉山は憲房・顕実係争時にしか比定できないが、利根川渡河地点との関連性を考慮すると充分可能性はある。Bの杉山神社群は比定地が曖昧で絞りきれない点と憲房が「上田一戦」と表現している点が弱い。今後新情報が出た際には考慮すべきかも知れないが、現時点では明確な候補地にはなり得ない。Dの嵐山杉山については、完全に否定するところではないものの解釈が最も苦しいと言わざるを得ない。

ちなみに近世の『武蔵田園簿』に出てくる「杉山村」は、本庄市と嵐山町の2つのみである。

椙山陣考-5 近世毛呂氏年表

毛呂氏の軌跡を可能な限り追ってみたところ、3つの系統が見つかった。□は小浜藩に近代まで残った川越山田系(家譜は■で示す)、○は近世初頭に小浜藩に入り後に追放された忠衛門系、△は出羽国松山藩に入り左沢領代官を勤めた善太夫系となっている。

■1596(慶長元)年 山田吉之が生まれる(山田家譜)

 1609(慶長14)年 酒井忠利が川越に大名として赴任

■1624(寛永元)年 山田吉之が酒井忠勝に出仕(山田家譜)

■1628(寛永05)年 *毛呂長兵衛死去(山田家譜)

 1634(寛永11)年 酒井忠勝が川越から小浜へ転封

□1636(寛永13)年 *毛呂長兵衛死去(榎本弥左衛門覚書)

○1637(寛永14)年 百五拾石 毛呂忠衛門(小浜藩分限帳)

○1640(寛永17)年 *毛呂長兵衛死去(川越行伝寺過去帳)・百五拾石 毛呂仁右衛門(小浜藩分限帳)

○1641(寛永18)年 御代官一同 無呂仁左衛門・高嶋代官 百五拾石 山田弥五右衛門(小浜藩分限帳)

○1642(寛永19)年 毛呂仁右衛門追放・山田弥五右衛門出仕(酒井忠勝書状)

△1645(正保02)年 毛呂善太夫藤正が江戸に生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)

 1647(正保04)年 左沢領が出羽松山藩領となる

□1653(承応02)年 *花厳院宗浄・毛呂長兵衛殿・辰年四月。承応二年三月、過去帳表具之紙は山田久兵衛造立す(川越行伝寺過去帳)

□1658(万治元)年 米拾五表二人扶持 山田九太夫(小浜藩分限帳)

○1665(寛文05)年 毛呂仁右衛門が『新木古庭村山改帳』『山検分帳』を提出(伊東家文書)

 1669(寛文09)年 仙石政勝が毛呂本郷・大八木村などを拝領 宝永6年からは仙石領(角川地名辞典)

△1675(延宝03)年 毛呂八郎兵衛季方が江戸に生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)

□1680(延宝08)年 毛呂長敬が旗本として出仕(寛政譜)

 1696(元禄09)年 仙石政勝隠居

□1705(宝永02)年 大谷木季貞が旗本として出仕(寛政譜)

△1742(寛保02)年 毛呂八郎兵衛が生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)

○1748(寛延元)年 拾七俵三人扶持 毛呂英吉(小浜藩江戸分限帳)

■1758(宝暦08)年 *山田吉之曾孫毛呂武伝太が追放され断絶(1774(安永3)年小浜藩家臣由緒書)

大雑把な略年表ではあるが調べたことを下に書き留める。

山田家譜は余り当てにならないように思う。そもそも日蓮宗の山田氏は松山の上田氏重臣であって、毛呂よりは上田を名乗りたがるのでは、と思ってみた。では何故、川越の山田氏が「本姓は毛呂」にこだわるのか。

そう疑問を持って年表を見てみよう。面白いのは、寛永19年。川越で被官となった毛呂忠衛門の息子、仁右衛門は出世を重ねて小浜藩で代官に取り立てられる。が、この年追放されてしまう。入れ替わりに入ってきたのが、山田弥五右衛門。この山田家は後北条出身と語るが、「天正17年に相模国の八王子城に篭城」と言っている辺りはかなり怪しい。ちなみにこの系統は毛呂氏を名乗っていない。小浜藩には川越で仕官した者が多かったので、「八王子篭城」は一種のブランドだったのかも知れない。

山田吉令の先祖である山田九太夫が仕官するのはこの追放劇の16年後。毛呂氏を名乗るのはさらに100年後であるため、新入りであるが故に由来を強化するため僭称を画策したのだと思われる。

毛呂仁右衛門については、追放の23年後にひょっこりと姿を現わす。葉山から東にいった木古庭山村で山林の調査を行なっていた。この人は行政官としては無能ではなかったように思う。酒井忠勝が追放を命じたのは、代官仁右衛門が土地の都合も考えず徴税したことが原因だが、他ならぬ忠勝はその前年に「年貢が少ないからちゃんと徴税するように」と厳命を下している。察するに、江戸詰めとなって在地掌握ができない主君によってスケープゴートにされたのではないか。そして、毛呂仁右衛門は武蔵毛呂山の毛呂氏ではなかったようにも思う。確証はないのだが、この頃、後に庄内支藩松山藩の毛呂氏の祖となる善太夫が江戸に生まれている。まだ毛呂・大八木氏が旗本となる前なので、代官職を求めて放浪していた仁右衛門が江戸で求職中に善太夫を成したのではないか。そして、今度は左沢代官として陸奥の地に旅立っていったと。

旗本となった毛呂・大八木氏が何故仕官したかというと、毛呂山が天領から仙石政勝所領になったのが契機だと思われる。その後彼らは江戸に詰めて明治を迎えることから、代官志向の仁右衛門系統とは異なるように感じられる。

最大の謎は、忌日が3つある毛呂長兵衛だが、手習いを受けていた榎本弥左衛門の証言から経済的困苦にあった点、それを父母に隠していた点を勘案すると、武家として落魄した上野国の佐貫茂呂氏の系統を髣髴とさせる。また、同時期に川越にいてこちらはうまく小浜藩に入れた毛呂忠衛門・仁右衛門と同族であった可能性も高いだろう。忌日がぶれたのは小浜藩への仕官の5年前に山田久兵衛が回向を手向け、更に山田家が系図で1628(寛永5)年にまで遡らせたためだ。

山田久兵衛が毛呂長兵衛の名跡を何らかの理由で利用したと思われるが、ここから先は手がかりがない。参考までに、小浜市史に記載された毛呂・山田氏の記録を記す。

  • 安永三年小浜藩家臣由緒書

 本国備中松山 生国若狭、寛永十九年被召出。安永三年迄百三十三年
当午二拾二歳 山田甚内
一先祖者相州小田原北条之家臣毛呂土佐守義可与申候。天正十七年相州八王子ニ而討死仕、二男刀太郎与申候致浪人罷在、其子長兵衛与申、其子弥五介与申堀尾帯刀様江知行弐百石ニ而罷出、其子弥五右衛門与申堀尾家御断絶ニ付浪人仕、備中松山江引込罷在候。
初代 山田弥五右衛門盛重
一忠勝様御代、寛永十九年被召出知行百三拾石被下置、御国中江州敦賀川除普請奉行。忠直様御代、寛文二年三方郡気山村之川除普請場ニ而病死。

寛永19年の忠勝覚書9月18日に山田弥五右衛門に屋敷を与えた記述あり。

本国武蔵生国三河、寛永四年別当被仰付。安永三年迄六十八年
当午五十六歳 山田半助
一曽祖父山田藤兵衛吉之儀、忠利様御代、寛永元年於川越被召出御宛行七石弐人扶持、其後度ゝ御加増被下置候。忠勝様御代、寛永十五年新知五拾石。忠直様御代、寛文二年五拾石御加増都合百石、同十一年隠居忰九太夫部屋住ニ而被下置。名道無与改、天和二年病死。忰九太夫吉久儀藤兵衛惣領ニ而忠勝様御代、慶安二年被召出御切米拾五俵二人扶持、其後五俵宛両度御加増都合弐拾五俵弐人扶持。忠直様御代、寛文十一年家督無相違百石。忠隆様御代、貞享三年隠居忰定右衛門部屋住ニ而被下置候御切米拾五俵為隠居料被下置。忠音様御代、享保六年病死。九太夫惣領定右衛門家督相続仕候処、定右衛門孫毛呂武伝太代ニ至、忠與様御代、宝暦八年永之御暇被下置家断絶仕候。

寛永十四年分限帳
百五拾石 毛呂忠衛門

寛永十七年分限帳
百五拾石 毛呂仁右衛門

寛永十八年分限帳
御代官一同 無呂仁左衛門
高嶋代官 百五拾石 山田弥五右衛門

万治元年分限帳(この分限帳は元治2年に山田吉令が写したもの)
五拾石弐人扶持 山田藤兵衛
御扶持方衆
拾五人扶持 山田宗久
米拾五表二人扶持 山田九太夫
同拾五表右同断 山田次兵衛
弐人扶持 山田万五郎

寛延元年江戸分限帳
拾七俵三人扶持 毛呂英吉

椙山陣考-6 伝来時の改変経緯を推測

最後に個人的な推論を述べておこうと思う。『相守文書』で考察したように、毛呂土佐守宛07号文書の存在は不自然な点がある。

01)文書の分布から、武蔵国入間郡の毛呂氏よりは、上野国邑楽郡佐貫の茂呂氏が適切

02)01と同様に、山内上杉家督・関東管領である憲房よりは、富岡氏・茂呂氏の上位である赤井氏(重秀・文六・刑部大輔 など)が適切

03)「無二」を伴わないことから、「相守」の前にある「椙山之陣以来」の存在は不自然であり、後世付加の可能性が高い

04)03と同様に、「謹言」も他文書に見られず後世付加の可能性が高い

05)発給者は「高基」「政氏」「晴氏」全ての可能性があるが、誰だったかは不明。「走廻之条、神妙之至」が同文言であることから、晴氏の09号文書に仮託しておく。

改変を想定するとして、どのような段階や意図を経たものかを検討してみよう。

Version_A

相守千代増丸走廻之条、神妙之至也、

天文十六年 九月五日

(足利晴氏花押)

茂呂因幡守とのへ

これが私の考える文書の原型だ。ベースとしている09号文書(富岡主税宛・足利晴氏書状)は、1547(天文16)年の年次が記載されている。赤井氏と富岡氏が関連すること、後の1552(天文21)年には、後北条政権下で茂呂氏が富岡氏を指揮下においていることから、確度は高いものと思う。

そして、この文書が上野茂呂氏から武蔵毛呂氏に渡ったのち、自家の文書とするために擦り消しが行なわれたのではないだろうか

Version_B

相守■■■走廻之条、神妙之至也、

■■■■■ 九月五日

(足利晴氏花押)

■呂■■守とのへ

更にその後、確実に自家のものとするべく異筆による書き足しが行なわれた。これがバージョンB。

Version_C

相守■■走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

VersionBとCが同一人物かどうかは不明だが、「相守」の対象人物はこの段階では特定できていなかったものと考えている。擦り消されたままで放置されたからこそ、現存文書に見られる混乱があったと想定しているからだ。

ここで、実際に残された下記の残存形態の方に視点を移してみる。山田吉令が書き留めた記録は2種類ある。

Version_Z(現存の形態)

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

足利高基ノ由

花押

毛呂土佐守殿

註「■■文亀三年ト有」

Version_Y(Zの一つ前の形態)

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

憲 花押

毛呂土佐守殿

註「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」

現存する文書(Z)では、「相守」の対象が上杉憲房に固定され、その契機として「椙山之陣」が記載されている。「無二」を伴わないことから見て「椙山之陣以来」の後世追記は確実として、なぜ唐突に「椙山之陣」が登場するのかが判らない。

また、当初は入っていて擦り消された年次が、なぜ1503(文亀3)年になっているのか。興味を引くのが、Zが矛盾してしまっている点だ。文書の発給が文亀3年だとすると足利高基改名(1509(永正6)年)と合わないのだが……。その一方、文亀3年が「椙山之陣」(杉山役)発生年としているYでは矛盾が発生しないにも関わらず、発給者を「憲■」とぼやかしている。Y/Zともに年次の矛盾解消で混迷した気配がある。

ここでヒントとなるのは『吾妻鏡』。近世になって流布したこの書物には毛呂氏が出てくる。毛呂季光が、伊豆に流された頼朝の下人を助けたことを賞され、1193(建久4)年に所領を与えられている。そしてこの間に頼朝は「椙山之陣」を経験している。

1180(治承4)年8月24日。石橋山の合戦で破れた頼朝は「椙山」に退いて辛くも虎口を逃れる。椙山は相模西郡の湯河原の北方にあるが、伊豆国までの境界は2~3km。現代でも、湯河原・真鶴・熱海・函南を、神奈川と静岡どちらか混同している人間は多い。原文にある「椙山」という表記といい、伊豆国という記載といい、改変者が湯河原の椙山を意図した可能性は高いだろう。

挙兵前の頼朝に与しながらも、季光が石橋山に参戦した記録はない。そこで、無勢の頼朝と共に戦ったという勲功を偽装するために第2の改変者は以下のバリエーションを用いたのではないか。

Version_D(想定始祖から一つ進めた形態)

椙山之陣以来、相守■■■走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

註「仕鎌倉殿、豆州椙山役以有働癸亥賜書」

この改変者は、Version_Cまでを仕立てた人物とは別に存在すると思う。何故なら、年代の把握が出来ておらず、鎌倉初期の文書形式とは異なることに頓着していないからだ。第2の改変者は、鎌倉幕府草創期を意図して「椙山之陣以来」を追記する。また、註書きでは干支のみの「癸亥」に「賜書」したのだと残す。擦り消された人名に「武衛」を入れさせたかったのだろうが、頼朝を表わす言葉を限定しきれず摺り消しのまま残したように思う。ここの癸亥は、時期から考えて1203(建仁3)年が該当する。この年は頼家が危篤に陥ったことから比企能員の乱が誘発され頼家は9月7日に出家させられている。9月5日という日付は、頼家が最後に出した書状にしたいと目論んだのではないかと思われる(ということはこの日付自体この時点で改変されたとも考えられるが、その根拠はないため現時点ではこの点に言及しない)。

その後、第4の改変者が登場。ここで再び、年代の比定が変わる。この改変者は花押が関東公方であろうと判断できる人物で、「鎌倉殿」を関東公方と考えたのだ思う。また、この癸亥は、室町期だと1503(文亀3)年・1563(永禄6)年のどちらかだ。伊豆国で戦闘があったとしていることから、永禄6年(足利義氏・北条氏政)よりも文亀3年(足利政氏・上杉顕定)を採用したはずだ。註の「椙山」を異字として「杉山」とし、古河公方・上杉氏と伊勢宗瑞・今川氏親との抗争を想定したのではないだろうか。

Version_E

椙山之陣以来、相守顕定走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

政氏(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

註「仕古河殿、豆州杉山役以有働癸亥賜書」

ところが、実際に残された文書では、「相守」の対象は「憲房」で、花押は「高基之由」としており、どちらも1世代後になっている。さらに、癸亥は「椙山之陣」発生年ではなく、文書の発給年に切り替わっている。バージョンYをもう一度読み返してみよう。

Version_Y

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

憲 花押

毛呂土佐守殿

註「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」

更なる改変があったのかも知れない。一つ考えられるのが、文亀4/永正元年の立河原合戦への参戦経験が毛呂氏に伝わっていたため、その前年の武功としたかった意図だ。ついで、発給者を古河公方にしたメインバージョンと、関東管領発給としたサブバージョンを用意した。2つ用意した理由は判らないが、下書きだったサブが偶然残ったのかも知れない。

そしてこの後改変がないことから、その固着契機を仕官時の証拠整理と見るならば、毛呂長敬を第4改変者に充てられるだろう。原文書はその際に失われたものと思う。

但し、下記目撃者の記憶から、07号文書は「足利高基朝臣感状」という認識で書状の複写版として保存されていたことが判る。であれば、2つのVersionは写し文書の中に書き込むなどの手法で並存していたのだろうか。この点は今後調べる上での課題となりそうだ。

資料一

足利高基朝臣感状
同 晴氏朝臣感状
北條氏政臣人馬■■

同書
毛呂仙千代知行書立
毛呂参三郎同
右は当郷伝来古文書口写し
毛呂郷長栄寺之納置もの也
嘉永七年甲寅年 若狭家臣
九月日 山田九太夫吉令

資料二
  • 毛呂山田系譜 一冊
  • 伝来古文書写 一袋
  • 若狭家臣 山田九太夫納之

    (中略)筆者は長栄寺が火災にあう前まだ毛呂氏の研究があまり進んでいない三十年程前同寺住職笠松師から北條氏政文書写し二通を経眼した事があった。此の文書は忠実と言うか詳細に写され文書の虫喰い部分もそのまた写されて虫喰いと書入れてあった事を記憶している。(『あゆみ第21号』毛呂山郷土史研究会・63ページ)

残された課題

縷々書き立てた内容は、憶測の上に憶測を重ねて更に仮定していることから、多分に恣意的な観測である。とはいえ、茂呂氏宛て文書からどのような意図で改変されたかの道筋がつながりうることを示せたものと思う。この仮説が今後の議論を促進するものになれば幸甚である。

椙山陣考-7 余録

「椙山之陣」について検討してきたが、まとめると以下のようになる。

  1. 「椙山之陣」の記載のある文書は類似文書の分布から改変された可能性が高い
  2. 「椙山」の比定地は嵐山町以外にも複数存在しそれぞれ仮設が成立しうる

ということで結局「古文書から見てもよく判らない」が結論になってしまった。それも後ろ向きなので、「では嵐山杉山城は何なのか?」について、私自身の仮説も余録として書いておこう。

行ってもいない城についてあれこれ。

実はこの城は訪れていないので、よく判らない。『日本城郭大系』を見ると、「築城教本」といえるほど緻密な縄張りを持ち、屏風折りが特長だという。他のサイトの情報も参考にしてみよう。

埋もれた古城 ~杉山城~

「城攻めの訓練用施設だったのでは?」

このサイトでは城郭大系の「築城教本」から一歩踏み込んで、実際に訓練施設だったのではないかと指摘している。この仮説は充分にあり得ると思った。

長篠落武者日記 ~杉山城~

気がつけば横矢。そんな感じ。

なんか、築城者の執念を通り越した「情念」を感じさせます。この城の築城に出役した住民にしてみれば、「殿様も、ここまでやらんでもええんではないかのぅ・・・。」と、思わずつぶやきたくなるんじゃないでしょうか。

『長篠落武者日記』のうらにわ氏は2012年に訪れ、周辺の松山城、鉢形城との比較を体験に基づいて生々しく紹介している。特に、辟易するほど手間をかけておきながら伝承が残らない点に地域領主不在を推測しているのは卓見だと思う。

どちらの訪問者も凝った縄張りを記している。だが、杉山城はそれほど大きくない城だった筈だ。

近隣の城郭の面積を比較してみる。

それぞれはWeb上の情報などから取り込んだので正しいかは不明だが、大体の広さは合っているように見える。

※以下単位はヘクタール

  • 相模・小田原348(惣構概算/国指定史跡範囲は24)
  • 武蔵・八王子154(国指定史跡範囲)
  • 武蔵・滝山132(国指定史跡範囲)
  • 武蔵・川越32.6(近世最大拡張時)
  • 武蔵・鉢形24(国指定史跡範囲)
  • 伊豆・山中城20(城跡公園敷地/国指定史跡範囲は11.7)
  • 武蔵・松山16(県指定史跡範囲・主郭部)
  • 武蔵・岩槻14.5(城跡公園敷地)
  • 武蔵・菅谷13(国指定史跡範囲)
  • 武蔵・勝沼12(都指定環境保存地域)

  • 武蔵・杉山7.6(現地看板/国指定史跡範囲は13.6)

  • 武蔵・滝の城6.6(城跡公園敷地)

  • 相模・石垣山城5.8(城跡公園敷地)
  • 武蔵・片倉5.7(城跡公園敷地)
  • 武蔵・茅ヶ崎5.5(城跡公園敷地)
  • 武蔵・小机4.6(城跡公園敷地)

小田原・八王子は国内でも特殊な例、川越は近世のものとして比較対象から除外した方がいいだろう。後北条一門衆の居城である鉢形・岩槻も外すと、比較対象になりそうなのは、残存状態が良好で縄張りの複雑な滝山と山中になる。

  • 滝山132ヘクタール(13曲輪・11虎口)
  • 山中20ヘクタール(11曲輪・12虎口)
  • 杉山城7.6ヘクタール(10曲輪・10虎口)

曲輪と虎口の数は私が縄張り図を見て大まかなところを書き出した。このように比較すると、杉山城は面積の割に縄張りが複雑過ぎるといえる。近隣の菅谷城だと面積は2倍近いものの曲輪5の虎口7でしかない。

一方で、狭い範囲の凝った縄張りとして似た存在に石垣山城があり、こちらは実戦よりは威嚇を目的としている。このため、杉山城にも戦術以外の目的があったと考えた方が合理的だ。であるならば、やはり築城モデル説は可能性が高いと個人的には思う。

では、誰がいつ作った?<

非常に凝った作りのくどい縄張り。訓練用に城が作れるほどの、地域領主より大きな権力。私が見た範囲に限定されるが、古文書から見ると杉山城築造者と思われる人物が思い当たらなくもない。

北条氏政、岡本越前守に、其城普請の不備を糺す

  • 戦国遺文後北条氏編2381「北条氏政書状写」(岡本氏古文書写)

    廿二日之文、廿三[酉口]披見、普請積見届候、一所ニこそより候物なれ、高山之上ニ付芝迄可致積ハ、何事ニ候哉、近比うつけたる致様ニ候、一井ツゝなとハ、時分時刻ニこそより候へ、来年しても来ゝ年しても不苦、井ツゝなとをふしんの積ニ致候、是ほとのうつけたる事致し候ハン与ハ、ゆめゝゝ不覚悟候、はや年寄候まて物をも申付候間、しんさうきやう遠近を分別いたすへき間、先さし当り五日三日之内ニ敵を可請ふしん計こそ可致ニ、なんてもなき事計を書立候、普請所なき故に致たる事歟、一向不及分別候、来一日も有之而人足を仕払、二日ニ其地を罷出、可致帰参、畢竟所によりてふしんハ致物ニ候、其地なとハいちご井ツゝなとなくても不苦候、尺木や竹ニ而ゆいまハしおく物ニ候、此ようにふしんの積致候ハゝ、いつかたも出来すましく候、無用の所をやめ、さしかゝり敵へ向而可入事計致候、くゝり木戸なとの積もへたにて候、小田原にてさへ一二ケ所より外無之候、か様ニ分別之たらさる者ニ候哉、以上、追而内藤連判故歟近比不得聞候、
    七月廿四日/氏政判/岡本越前守殿

この文書、実は私が初めて解釈を試みた思い出深いものだが、それはさておき。岡本越前守政秀は何故高度な築城計画を氏政に提示できたのかという点に着目したい。政秀はもともと門松奉行だった。それが、1581(天正9)年前後に築城関連の氏政側近となっている。にわか作りの技術官僚といったところか。この書状で氏政は、過剰な工事をした政秀を激しく叱っている。緊急時の築城では必要なものだけを作れ、ということらしい。では、政秀はどこで「高山之上ニ付芝」や「井ツゝなとをふしん」を学んだのだろうか。「くゝり木戸なと」は「小田原にてさへ一二ケ所より外無之」という代物だ。後北条の本拠である小田原城を上回る、非常に精巧なモデルを元に設計したと考えられないだろうか。そのモデルは、高低差のある斜面に芝を植え、立派な井戸を持ち、くぐり木戸も多数持っていた。しかも、小田原より小規模だった(政秀が怒られた城は、「明後日には引き払って戻って来い」と言われる程度の小規模なもので、だからこそ氏政が「小田原にてさへ」と引き合いに出したものと思われる)。

政秀が手本にしたのは杉山城だとすれば、諸々納得がいく(杉山城は多数の虎口を持ち、井戸曲輪もある)。

隠居となった1580(天正8)年以降、氏政は政治の表舞台から遠ざかる。その頃に杉山城を築造し、現物の築城教科書にしたのではないか。訓練設備なら、曲輪内は簡易な宿泊施設があっただけだろうし、什器が古いのも納得がいく。また、燃やされて廃棄されるのも容易だろう。

地域的には、北条氏康・氏照・氏邦が候補者でも構わない筈だが、城郭への拘りが最も高いのは氏政だ。氏政書状のこだわり部分を抜粋してみよう。

  • 北条氏政、松田尾張守に土塁の構築方法を指示する(戦国遺文後北条氏編1976「北条氏政書状」)

    殊小わり共ニ候間、一間之内にて人ゝ之手前各別候者、必合目より可崩候

土塁を複数人で構築する場合に、担当エリアの接合部は脆くなるという点を指摘している。細かい。ここまで大名が関与するものかという気がする。

  • 北条氏政、猪俣邦憲に上野国権現山の普請難航の事情を問う(戦国遺文後北条氏編3446「北条氏政書状」)

如何様之品ニ候哉、委細ニ成絵図、重而早ゝ可申越候、一段無心元候

「何で普請が遅れているんだ」と問い詰めつつ、状況を図面で提出せよと言っている。政秀を叱責した際の「積=計画書」のようなものだろうか。

  • 北条氏政、猪俣能登守に上野国沼田城の重要性を説き備えを厳にさせる(小田原市史小田原北条2011「北条氏政書状」)

普請者、猪俣自身鍬を取者、其地ニ普請せぬ者ハ有間敷候

同じく猪俣邦憲宛てで、普請のコツを伝授している。「城主が鍬を持てば全員が作業せざるを得なくなる」というのは、自分の経験を語っているような感じがする。

「適当な山を自由に使って、自分の好きな縄張りで城を作る」というのは、城郭に興味のある者なら現代でも夢想することだと思う。それを実地で行なう素地が氏政にはあったように見える。

以上から、今後の史料や発掘データ次第では、氏政による築城教本説も考慮していきたい。

杉山城問題について思うこと

ちょっと偉そうなことを書いてみる。

論文を書いた訳でも著作を世に問うた訳でもない、それどころか史学を学んだこともない身では無謀だと思うが、ネットの片隅ででも指摘しておきたい。

結論ありきの仮説を思いついて、「これなら色々と説明がつきそうだ」と立論してみるのは問題がない。「『椙山之陣』=『杉山城』だとしたら、杉山城問題へのアプローチが変わるかも」という仮説はOKだと思う。

しかし、その仮説を更に客観的に見て磨くことがないと恣意が過ぎる、つまり「都合のよい論点だけ強調し、都合の悪い論点は語らない」という悪論になる。

『戦国前期東国の戦争と城郭~「杉山城問題」に寄せて~』で竹井氏が「文献史学からのアプローチがほとんどないという点が何より問題」「丹念に文献を読み込んで明らかにする作業こそが基本であり必要」としながら、自らが引用した『戦国遺文 古河公方編』に掲載されていた6点の「相守」類似文書への言及がない。これは奇妙に感じる。「文献史学」を標榜するなら、古文書に目を通すのは当然なのに。

また、このことに縄張り論・考古学の諸氏からの指摘も管見の限り見られない。『戦国遺文』は書店でも購入できるし大きめの図書館なら置いてある。しかも古河公方編は1冊なので、1時間もあればざっと目を通すことは可能だろう。余りに横着ではないか。

何故に古文書を等閑にするのか?

「椙山之陣」と書かれた書状が出てきただけで、それを「杉山城問題」に直結してしまう短絡さはどこから来るのだろう。文書が他とどう連携しているのか、「椙山」「杉山」という地名はどういう文書で出てくるのか……それらをクリアしなければ、椙山之陣=杉山城問題とはならない。

それこそ、竹井氏が指摘する「丹念に読み込む」作業が欠如している。できるだけ文書の解釈を遠ざけたいという秘かな意図すら感じられる。

この辺の事情は、戦国時代の史料を体系的に分析した解釈用例集がないという点に起因すると思っている。全体の流れを掴むには、逆説的ではあるが、1点ずつ古文書を解釈していくしかない。その蓄積がないために、類例探しや比較が疎かになっているように感じられる。

そもそも用例集がないというのは、学問の入り口にいる者は大変困る(研究家として既に名を成している方は多数の文書を読んで覚えているのだろうけれど)。『時代別国語辞典』があるにはあるが、語彙も文脈によって変わるものだから、やはり用例が豊富にないと修得は難しい。初心者から言えば、根拠とする文書1つ1つを、その研究家がどう読んだか書いておいてほしい。しかし、それを試みているのは『戦国のコミュニケーション』(山田邦明氏)、『武田信玄と勝頼』(鴨川達夫氏)、『戦国時代年表 後北条氏編』(下山治久氏)ぐらいでしかない。

ではどうすれば?

きちんと逐語訳のような形で残していかないと、後進も同じ時間を費やして解釈に取り組まなければならず、長い目で見ると無駄が増えてしまう。伝統工芸の秘伝技みたいな状況を何とか変えた方がよいのではないか。せめて何らかの公的DBのようなものを用意して、「自分の著作で使った文書は、ここに解釈文を載せること」という決まり事を作るとか。

現在話題になっているSTAP細胞論文を調べた際に、生物学では実験の生データを登録する公式DB(NCBI Databeses)があると知った。これが史料研究でもほしいと切実に感じた。

1文書の比定(場所・年・人物)がずれると、必然的に他の文書にも一斉に影響が出るわけで、それが武田とか後北条とかの権力ごとに分かれた現状の研究体系では拾い切れない……というかデジタル技術が使えるのだから拾えるようにしてほしい。

統一DBでは解釈を巡っては論争が絶えないだろうけど、用例が増えていけば止揚して細かい点まで解釈を掘っていけると思う。

椙山陣考-8 再びの余録

最近になって知ったが、非常に趣旨の近しい論文が発表されていた。

「椙山之陣以来」にある「椙山之陣」は何を指すのか?
―竹井英文氏「その後の「杉山城問題」 」における批判に応える―
中西義昌・著

史学論叢第 44 号(別府大学史学研究会)

湯河原の「椙山」に着眼した点が私と同じであったが、竹井・斎藤の両氏が年次比定の考古学的根拠としていた『藤澤「編年案」』自体に信憑性がない点を指摘しており、大変興味深かった。

また、『山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』(黒田基樹・戎光祥出版)が2014年5月に刊行されたが、その中に今回多く言及した竹井英文氏の論文「 戦国前期東国の戦争と城郭 「杉山城問題」に寄せて」が所収されている。従来は広く閲覧することが難しい研究機関誌でしか読めなかったものが、一般に公開されたことは喜ばしいことだと思う。

2017/10/11(水)史料解釈の混乱~武田義信室の伊豆逗留~

なぜか注目されていない史料

三国同盟崩壊の前奏曲

武田義信室は夫の死後に駿河国に戻るが、その途中、後北条氏が伊豆国三島に引き取ったという文書がある。余り言及されることはないものだが、翻刻に問題があったので史料がどう紹介されたかを時系列で書き出してみる。

  • 戦国遺文後北条氏編1010「北条氏政書状」(小出文書)花押型により永禄10年に比定。

    於三島御新造宿之儀、護摩堂ニ落着候、相当之普請罷越見届、可被申付候、先日湯道具時可申遣を失念候、西降をは護摩堂ニ新可被申付候、恐ゝ謹言、 二月廿一日/氏政/清水太郎左衛門尉殿

三島における御新造の宿のこと。護摩堂に落着しました。相応の普請となるように直接見届け、指示して下さい。先日の湯道具の時にお伝えするのを忘れていました。『西降』を護摩堂に新設するようご指示下さい。

1990年刊行の戦国遺文後北条氏編によると『西降』という謎の言葉が出てくる。また、北条氏政の花押型から永禄10年と比定しているのだが、氏政の花押はちょうどこの頃に形態を変えている。

北条氏政花押

小田原北条氏花押考(田辺久子・百瀬今朝雄)1983年
  • 一類二型 永禄5年4月19日~永禄10年8月25日
  • 一類三型 永禄10年9月10日~永禄13年4月20日

文書は2月21日だから、永禄10年比定なら一類二型、永禄11年比定なら一類三型となる。この見分け方は判り易い。左下にある横棒が、縦棒とぶつかって突き抜ければ二型、手前で留まれば三型以降となる。

ところがこの翌年に刊行された小田原市史で状況が変わる。

  • 小田原市史小田原北条710「北条氏政書状」(小出文書)花押型により永禄11年に比定。

    於三島御新造宿之儀、護摩堂ニ落着候、相当之普請罷越見届、可被申付候、先日湯道具時可申遣を失念候、西浄をは護摩堂ニ新可被申付候、恐ゝ謹言、 二月廿一日/氏政/清水太郎左衛門尉殿

まず翻刻だが「西降」となっていたものが「西浄」になっており、注釈がつけられている。

  • 西浄「禅院で西序(首座・書記等)の用いる厠」

つまり、氏政がうっかり伝え忘れたのは厠の新設指示だったとなる。とすればその手前にある「湯道具」も茶の湯や炊事というより、入浴用の備品か設備を指すように見えてくる。つまり、義信室と娘はある程度の期間滞在することが見込まれていたのだろう。

小田原市史では他の史料から、この護摩堂は三島大社別当の愛染院と比定し、永禄6年11月9日に後北条氏が「拾貫文之田地、百姓共ニ」を復活させていると指摘している(市史578/579)。この知行を愛染院が失ったのは天文12年と史料に書かれているから、20年ぶりに回復させたことになる。

愛染院は、今では溶岩塚しか残されていないが、近世までは結構規模の大きい真言寺院だった。

2月21日に氏政が工事を急がせていることから、3月には義信室が後北条分国に引き取られることになったのかも知れない。そこで氏政は寄り道としては最短になる三島を用意した。この位置は永禄12年以降戦場になるから、比定として永禄11年にしたのは無理がない。

義信室はいつまでここに滞在したか

下の文書は、今川被官の三浦氏満・朝比奈泰朝が、上杉被官に状況の説明をしたものだが、「以前に何でも情報共有するとの取り決めだったので報告します」という説明を足しつつ、北条氏康父子が仲介した義信室の駿河帰国に当たって、武田晴信が誓詞(起請文)を求めたことを書いている。

  • 戦国遺文今川氏編2174「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

    態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、 四月十五日/三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝/直江大和守殿・柿崎和泉守殿御宿所

恐らく、この4月15日以前に誓詞取り交わしが終了していて、それを上杉被官に知らせたのだと思う。とすると、4~5月のどこかで駿府に移ったと考えてよさそうだ。

問題となるのは、花押型が異なる永禄11年に新たに比定されたこと。小田原市史資料編小田原北条は、当主発給文書に採集を絞ってより厳密に比定をしている点から、花押型は一類三型であるという判断があったのだろうと思う。

『後北条氏家臣団人名辞典』(2006年)も『戦国時代年表後北条氏編』(2010年)も永禄11年比定となっている。

と、ここで収束するはずなのだが、この後がどうも混乱している。

ここからが問題点

戦国遺文今川氏編2165でこの文書が採集され、永禄11年比定となっているところまではよいのだが、翻刻が『西降』のままになっている。この史料集は2012年刊行で、明らかに小田原市史を参照せず、家臣団辞典か年表だけを見て比定年を修正しつつ、戦国遺文後北条氏編の翻刻をそのまま記載したのではないか。

更に翌2013年に『北条氏年表』が刊行されるが、ここではこの文書については触れられず、近世編著から全く史料と合わない記述をしている。

  • 永禄10年11月19日

    氏康・氏政の仲介によって、武田信玄の嫡子義信の妻であった今川氏真妹の駿河帰国が実現している[武徳編年集成]」

考証が進んでいるだろうという仮説に基づいて、刊行年が後の書籍を重視していたのだが、この考え方は改めないといけないようだ。先行研究を重視し、拙速よりは巧遅を尊ぶのが専門家の流儀かと考えていたのだが……。

2017/10/09(月)「五人扶持」はどんな価値?

秀吉の「扶持」

羽柴秀吉の新出文書で「五人扶持」を支給せよという指示があり、報道記事では「五人扶持は現在の100万円ほどの価値」とあった。ちょっと疑問に思ったので検証。

『豊臣秀吉文書集』をざっと見たところ、簡易な記述で宛行いをしているものが複数あったが、何れも「石」を単位としている。「扶持」による記載は福島正則へ渡す米についてのもの。

  • 豊臣秀吉文書集0193「羽柴秀吉切手」(青木氏蒐集文書・東大史影写)

    ふちかた八木出来事。四人、五十日分、馬之大豆三斗、福島市松 此ほかにまめ壱石とらせ可申候、 天正七年五月十四日/秀吉(花押)/藤右衛門

 ここでは4人分・50日分と明記している。これだけで藤右衛門が諒解して支給できるというのは、ある程度時価によらない「人扶持」基準があったのだろう。と思っていたら、次の文書を見つけた。

  • 豊臣秀吉文書集0583「御次衆扶持方判物」(大阪城天守閣)

    御次様衆扶持方十日分かし候 三百拾人、田中小十郎 三百人、谷兵介 三百人、藤懸三蔵 百八拾人、石川小七郎 六拾人、渡部勘兵衛 百人、高田小五郎 以上、千弐百五拾人 此米、六拾弐石五斗 天正十一年二月六日/秀吉(花押)/宛所欠

御次様衆に対して10日文の貸しとして米を渡すように指示している。1250人で米が62石5斗。

6250升÷10日=625升/日

625÷1250人=0.5升=5合/人

つまり、1日・1人当たりに換算すると5合の米が「扶持」として与えられたことになる。これを福島正則に当てはめると100升=1石となる。

新出文書では「五人扶持」としか書かれていないが、特に明記がなければ1年分となるのが後北条や今川で見られる形なので、とりあえずそう考えてみる。

0.5升×5人×354日=885升=8.85石(1人は1.77石)

そもそも、経済と生産の状況が全く異なる戦国期の「扶持」を現代の価値に置き換えること自体に無理がある(というか破綻している)と思うのだが、強引に計算を続けてみよう。

米の価格は玄米60kgが平成28年度の全国平均で1万4千円程度。これを1俵=4斗と考えると40升だから、1升は350円。885升では309,750円。むしろ100万円にもならない。

貫高での「扶持」

石高を使っていない、今川・後北条での「扶持」を見てみる。一人当たりに換算したもの。

  • 5貫文「其時五拾貫拾人扶持分」戦今634・天文8年
  • 6貫文「乗組四十人、此扶持給弐百四拾貫文」戦北1742・天正3年
  • 5.9貫文「拾人、鉄炮衆(中略)五拾八貫六百七十文」戦北2734・天正12年
  • 5貫文「百貫文、鉄炮衆弐十人之扶持給、但、一人四貫文之給、壱貫之扶持也」戦北3312・天正16

このように、時代を問わず5~6貫文が1人扶持となる。

但し、後北条氏では一騎合は「壱人拾貫文積」(戦北1233)としているから馬上の扶持は10貫文としている。その一方で「歩鉄炮廿人」は100貫文積であって5貫文の原則は守っている。このことは、明智光秀の「馬上は2人分にカウントする」とも合致し、全国的に相場が合っていたという点で興味深い。

ではこの1人扶持は実際にどの程度の財産だったのか。金山在城を指示した後北条氏の朱印状に明細が載っている。このときの1人当たりの扶持は2.4貫文で、臨時に4~6ヶ月分の扶持を支給したものと思われる。

  • 2.4貫文「弐拾四貫文、同心上下廿人扶持銭、於館林麦百六十四俵二斗、大藤長門守・森三河両人前より、可請取之」戦北2882・天正13年

同心上下20人の扶持銭として24貫文が支給されているが、具体的には館林に行って、大藤長門守・森三河守から麦164俵2斗を受け取れとしている。

後北条氏は1俵が3斗5升(戦北3055)となる。俵から升へ換算してみると、

  • 164俵×35升=5,740升

ここに2斗を追加

  • 5,740升+20升=5,760升

1文当たりの麦容量を計算

-5,760升÷2,400文=2.4升

在城期間は具体的に書かれていないが、この文書は3人の被官に全く同一金額が明示されているから、何らかの基準に沿って導き出されたと考えてよいだろう。

年間扶持給での麦容量に換算してみる。

-2.4升×5,000文=12,000升=約343俵 -2.4升×6,000文=14,400升=約411俵

5~6貫文の年間扶持は、麦に換算すると大体343~411俵。これを升に直して1日当たりの分量に変えてみる。

  • 34,300升÷354日=約97升/日
  • 41,100升÷354日=約116升/日

秀吉の例で見た、米5合/日が、関東での麦だと970~1,160合と、200倍にもなってしまう。麦と比較することに無理があるのか……。

兵粮から見た米の価格

気を取り直して、兵粮として米を扱っている場合の価格を探ってみる。

「陣中兵粮ニ詰、野老をほり候てくらい候よし申候、兵粮一升ひた銭にて百文つゝ、是もはや無売買由申候」(戦北3691)は、天正18年に関東に押し寄せた羽柴方が兵粮に窮していると松田康長が評したもの。「米1升が鐚銭100文もしたのが、いよいよそれも売られなくなった」と書いている。誇張表現だろうが、1升100文が法外な価格であるという認識は採用できる。

以下の文書では、22人・2ヶ月分の兵粮が20俵12升=712升となる。

  • 戦国遺文後北条氏編0459「北条家朱印状」(鳥海文書)

    峯上尾崎曲輪下小屋衆廿二人之内、二ヶ月分兵粮廿俵十二升、此内拾俵六升、只今出之候、残而十俵六升、来三月中旬ニ可出之候、当意致堪忍、可走廻候、猶致忠節ニ付而者、始末共ニ給恩重而可相定者也、仍如件、 二月廿七日/(虎朱印)/尾崎曲輪根小屋廿二人衆・吉原玄蕃助

1人・1日に換算する。

  • 712升÷22人÷60日=約5.4合

これは秀吉の場合の扶持と近似する。となると関東の米価が大きく異なった訳ではなく、麦の価格が米の1/200だった可能性が考えられる。

まとめ

間に兵粮という概念が入っているので確証はないが、今川・後北条が5~6貫文とした扶持が、秀吉の1.77石と合致すると想定してみて、米1升の価格を計算してみる。

  • 5,000文÷177升=約28文/升
  • 6,000文÷177升=約34文/升

松田康長は「鐚銭で100文」と書いており、鐚が1/4程度の価値だとすればむしろ安価ではないかと考えられる。ここは難題。ただ、東西で鐚銭・精銭の考え方が異なったという永原慶二氏の指摘もあり、遠征した羽柴方が使ったのが西国で主流の宋銭で、それが康長には鐚と認識された可能性もある。

2017/10/04(水)北条氏康の次男―藤菊丸、賀永、氏規―

北条藤菊丸は誰か

1555(弘治元)年11月23日、古河公方足利義氏の元服式が行なわれた『鎌倉公方御社参記次第』(北区史資料編古代中世2-77)。そこには勿論北条氏康の姿があったが、脇に控えた少年も記録されている。

「北条藤菊丸氏康二男、御腰物御手移ニ被下候」

この場所に他の兄弟は(既に元服・妻帯している後継者の氏政すら)いない。北条氏康の次男として、他の兄弟とは別格で登場する「北条藤菊丸」が誰なのかを検討してみよう。

藤菊丸 = 氏照の検証

藤菊丸について、通説では北条氏照だとされてきたが、以下の矛盾点があり不自然だと思われる。

  1. もう1点の文書で藤菊丸は「北条」を名乗っているが、氏照は「大石源三」として登場し、後に北条に改めている。一貫して北条を名乗る氏規の方が適しているのではないか。
  2. 関東で藤菊丸の活動がなくなると同時に駿府で氏康次男として「伊豆之若子」賀永が活動を始める。
  3. 御相伴衆として名が載っているのは、氏政と氏規のみ。
  4. 天正11年に酒井政辰は氏照を「奥州様」氏規を「美濃守殿様」と繰り返し呼んでおり、家中でも氏規の方が格が上である。

 氏照を藤菊丸に比定する根拠としては、藤菊丸の名がある棟札が座間郷にあり、ここは役帳で大石氏の知行されている点、藤菊丸の初出が足利義氏元服式だったことと、後年氏照が義氏被官を指南した点、主にこの2点からだと思う。しかし、この論拠は充分な比定要件にはならないかも知れない。

岩付太田氏を巡って、源五郎と氏房が同一人物と思われていた理由が、岩付に入ったこと・氏政の息子だったことというお大雑把な共通点からの憶測でしかなく、史料の考察が進んだ昨今では、「氏房は当初より十郎を名乗り、一貫していること」「氏直(国王丸)・源五郎(国増丸)の他に菊王丸がおり、これが氏房に比定できること」から、源五郎と氏房は別人であるという比定に切り替わった。

以上から、座間郷・義氏の関係を氏照が濃厚に持ったとして、それは藤菊丸の後継位置に入っただけということであり、後世の系譜諸記録に幻惑されている可能性がある。

菊王丸 = 賀永の検証

改めて史料を読んでみる。

後北条氏は、「菊寿丸=宗哲」「菊王丸=氏房」というように、幼名に「菊」を冠することがある。但し「藤菊丸」は「菊」の前に「藤」を戴いている点で特異である。藤原を称している氏族で関東において最も巨大な存在は上杉氏だ。氏康は、藤菊丸を関東管領の後継者にしようと考えていたのではないか。であるなら、義氏元服式に後北条の跡取りを入れず、藤菊丸だけを出席させたのは、公方の梅千代王丸に管領の藤菊丸を配するという構想があったからではないか。

藤菊丸が上杉を継承した場合に、それを「大石」として補助する予定で、源三氏照・左馬助憲秀が控えていたのかも知れない。でなければこの2人が「大石」を称した理由が判らなくなる。

ところが、藤菊丸はそのまま姿を消す。

そしてその年の10月、駿府を訪れた山科言継は北条氏康次男「賀永」という少年と出会う。氏康次男という出自や年齢からこの2人が同一人物であるのはほぼ確実だと思う。

それにしても、氏康はなぜ急に方針転換したのだろうか。

1556(弘治2)年1~4月、氏康は東への外征が顕著で、同じく今川義元も西に進んでいた。義元の息子である氏真は既に氏康の娘婿ではあったが、氏康が織田信秀に書いたように「近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候」という状況もあり、氏康はそちらの関係強化を狙ったのではないか。

その背景には、氏康の身内である晴氏室(芳春院)すら動向が定かではない古河公方周辺に対して「しばらくほとぼりを冷まそう」という狙いもあったかも知れない。ただ何れにせよ「急遽今川に渡す」という背景は史料から直接読み取れないから、ここはもっと論拠がほしいところ。

藤菊丸が消えた後、永禄4年に「大石左馬助」として名が出た憲秀はやがて松田に復するが、氏照は大石名乗りを続け、藤菊丸が治める予定だった座間領も統治する。もしかすると、氏照固有の「如意成就」の朱印も当初は藤菊丸に用意されていたのかも知れない。

賀永 = 氏規の検証

言継卿記で登場する賀永は「ガイエイ」とも呼ばれ、音読みであることが確定している。彼は北条氏康次男と書かれているから、氏規・氏照・氏邦のうちの誰かだろうと判る(氏政は既に元服しているため)。この3人の弘治2~3年の動向は不明だが、年未詳の今川義元書状で「手習いをしないと、小田原の兄弟衆に負けてしまうぞ」という文面が「助五郎」宛てに出されている点、助五郎は氏規の仮名である点から、賀永と助五郎、氏規は同一人物であると断定可能だと思う。

音読み「賀永」という名が何を意味していたかは不明。和歌を詠む際の号か何かを、寿桂が殊更呼んでいたのかも知れない。

藤菊丸 = 賀永 = 氏規と仮定しての年齢確認

氏規が系譜にある1545(天文14)年生まれだと一旦仮定して、藤菊丸、賀永の記録と突き合わせてみる。

  • 11歳 弘治元年11月23日 北条藤菊丸氏康二男(鎌倉公方御社参記次第)
  • 12歳 弘治2年5月2日 大旦那北条藤菊丸(座間鈴鹿明神棟札)
  • 12歳 弘治2年10月2日 大方の孫相州北条次男也(言継卿記)
  • 12歳 弘治2年12月18日 伊豆之若子祝言(言継卿記)
  • 19歳 永禄6年5月 北条助五郎氏規、氏康次男(永禄六年諸役人附)

上記から、同一人物であっても時系列上問題はない。

本来であれば、初出の文書がいつかによって更に裏付けを得たいところだが、氏規の初出発給文書は意外と遅く、1565(永禄8)年1月28日に21歳で朱印状、1577(天正5)年4月17日に33歳で「左馬助氏規」を出していて元服時期の参考にならない。これは駿河にいた時期に後北条分国から切り離されていた可能性を窺わせる。因縁のある松田憲秀も初出はかなり遅いので、当主以外の政権中枢は発給時期が極めて遅い可能性がある。

氏規の息子である氏盛も1589(天正17)年12月に氏直から「氏」を貰って元服したとみられ、家譜の生年1577(天正5)年が正しいとするなら、13歳の年末に元服している。

4兄弟の生年を検討

12~13歳の年末に元服という前提で他の兄弟の生年を検討してみる。

氏政

系譜では天文7年生まれとされるが、同時代史料の『顕如上人貝塚御座所日記』見返しにある年齢から逆算すると天文10年生まれという仮説が妥当だろう。

氏政は天文23年6月以前には元服して「新九郎氏政」となっている(同年12月に婚姻)。

元服が天文22年12月と考えれば、天文10年説では13歳で不自然なところはない。一方で、系譜類の天文7年説では17歳となってしまい、結構遅い印象がある。

氏邦

天文13年という仮説が浅倉直美氏によって出されている。但し氏邦の場合、越後勢乱入の最中に対応を強いられたという経緯があり、ここからの検討も必要だと思う。

永禄4年9月8日~5年10月10日まで「乙千代」名で花押を据える。幼名で花押を据えている珍しい例。元服して仮名を持ちながらも手習いをしていた喜平次・助五郎との比較も必要かも知れない。

1544(天文13)年生まれであれば、1561(永禄4)年では18歳となり元服していないのは奇妙だ。

その後の1564(永禄7)年正月に「氏邦」を名乗り、この年の6月18日には朱印状を発給しているから、1563(永禄6)年12月に元服したと考えると自然だ。氏規・氏盛の例に当てはめると1551~1552(天文20~21)年となる。

もう少し遡るならば、1560(永禄3)年12月に13歳で元服予定だったとすると、1548(天文17)年生まれとなる。

氏照

生年は3説ある。

天文9年(寛政譜)・天文10年(小田原編年録)・天文11年(宗閑寺記録)

ただ、前の2説では氏政より年長になってしまうし、何れも後年の編著でしかない。『北条氏康の子供たち』で黒田基樹氏が、氏政・氏直の生年を記載した同時代史料『顕如上人貝塚御座所日記』を紹介しながら、他の一族の生年と合わなくなると、一旦戻したのもこの点が要因になっている。

とりあえず、専門家ではないので野蛮に切り進んでいくこととする。

初出発給文書から、氏邦と同様の手法で追ってみる。

  • 永禄2年11月10日付けで朱印状「如意成就」奏者:布施・横地
  • 永禄4年3月3日付けで判物「大石源三氏照」

文書の残存状況が不明だから、念のため1558(永禄元)年12月に13歳で元服、その後手習いをしつつ1561(永禄4)年には16歳で自著・花押を据えたと想定してみる。

他の史料とも整合されるし、氏邦の生年比定とも揃えられる。この場合、氏照の生年は1546(天文15)年となる。

まとめ

生年を整理してみよう。氏規も13歳元服だったと統一して考えてみる。

  • 氏政 1541(天文10)年
  • 氏規 1544(天文13)年
  • 氏照 1546(天文15)年
  • 氏邦 1548(天文17)年

この年齢差を見てから、今川義元が助五郎の宛てた有名な書状を読んでみると、「兄弟衆様躰長敷御入」が異なって感じられて面白い。

  • 戦国遺文今川氏編1532「今川義元書状」(喜連川文書)

猶ゝ文御うれしく候、あかり候、いよゝゝ手習あるへく候、二三日のうち爰を立候へく候間、廿日此は参候へく候、かミへも此由御ことつて申候、何事も見参にて可申候、かしく、文給候、珍敷見まいらせ候、此間小田原にてみなゝゝいつれも見参申候、けなりけに御入候、可御安心候、それのうはさ申候、春ハ御出候ハん由候間、万御たしなミ候へく候、いつれも兄弟衆様躰長敷御入候、見かきられてハさんゝゝの事にてあるへく候、
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:助五郎殿 御返事 義元)

お手紙いただきました。珍しくて見せて回りました。今回は小田原のみなさん全員とお会いしました。お元気そうですから、ご安心下さい。あなたの噂をしました。春にはお出でになるそうですから、何でも頑張っておかないといけません。どの兄弟衆も大人っぽく見えました。見限られてしまっては、散々な目に会うでしょう。
さらにさらに、お手紙嬉しいです。上手になりました。どんどん手習いなさいますように。二三日のうちにここを立ちますから、20日ころにいらっしゃい。『かみ』にも、このことを伝えて下さい。いろいろと会ってお話しましょう。かしこ。

2017/08/19(土)要検討史料の例

「要検討」とは何か?

史料集などで文書の備考に「要検討」「なお検討を要す」とあるものは、シンプルに言うと「これは偽文書の疑いが濃厚」ということ。ただ、その度合いは結構バラバラで、明らかに偽物だけど慎重に言っているものもあれば、記述者によって判断が分かれるぐらい微妙な疑いだったりする。要素としては、私が見たところでは以下のようなものだと思う。

  • 文言が類似の文書と甚だしく異なる(顕彰過多・近世的表現)
  • 発給者の花押が異なる
  • その時に存在しない人物が登場する
  • 同じ伝来で要検討が多数存在

今川義元を装った要検討史料

御宿藤七郎宛の今川義元感状写が2通、山梨県・白根桃源美術館所蔵の御宿文書にある。この文書写には花押が残っているのだが、これが太原崇孚のものに酷似しており、要検討とされる。ただ文言も装飾が激しくて花押形の話がなくても充分要検討となると思う。

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」

これと同じ年月日の弓気多七郎宛の感状写が別の伝来で残されている。こちらも文言の装飾度合いが強く、花押形が残されていないにも関わらず、同系統の要検討文書であることは確実だ。

今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕、城中真先乗入、於本城門際、別而敵苦之条、神妙也、弥可抽忠功之状如件、
十二月廿三日/義元判/弓気多七郎殿
戦国遺文今川氏編0926「今川義元感状写」(三川古文書)

また更に、花押が太原崇孚に酷似している文書が長野県の真田宝物館に所蔵されている。こちらの文言は盛大に装飾した前記3文書とは違って「微妙な違和感」ぐらいな逸脱に過ぎないが、1555(天文24)年に亡くなっている崇孚の花押を1558(永禄元)年付けで用いていることから、要検討と言える。

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中
戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(長野県・真田宝物館所蔵文書)

偽文書作成者の意図

御宿藤七郎・多気弓七郎の文書は、下記の天野安芸守宛の感状と符合する。

去月廿三日上野端城乗取刻、任雪斎異見、井伊次郎同前ニ為後詰之手当相残于安城云々、誠神妙ノ至也、殊忠功肝要候、仍如件、
十二月七日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0922「今川義元感状」(滋賀県長浜市・布施美術館所蔵文書)

このため、偽作者がとりえた手法は2通り考えられる。

  1. 天野文書を元にして一から創作した
  2. 天野文書に類似する原本があり、それを改変した

前者は、花押が異なることから考えづらい。922号の花押を模写しなかったのは、そもそも偽作者が義元の花押を知らなかったことを強く示唆している。

太原崇孚が発給した暫定感状しか存在せず、義元のものがなかったが故に改変したのだろう。前述の922号に「任雪斎異見」とあることから、崇孚が前線で指揮をとっていたことは確定できる。

太原崇孚が前線で感状を暫定発給したのは、天野文書に残されている。

去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候、追感状可有御申候、急候間早々申候、恐々謹言、尚々松井殿其方取分御粉骨之由、自諸手被申候、雖毎度之儀候、御高名之至候、
九月十日/雪斎崇孚(花押)/天野安芸守殿御報
戦国遺文今川氏編0841「太原崇孚書状」(天野文書)

これに対応して出されたのは下記の文書となる

去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓、各粉骨無比類候旨、誠以神妙之至也、殊被官木下藤三・溝口主計助・気多清左衛門突鑓走廻云々、弥可抽軍忠之状如件、
九月廿日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0847「今川義元感状」(天野文書)

では、何故義元の感状がなかったのか。後年になるが、今川家中で合戦時に報告の手違いがあって、訴訟に発展している。

壬戌年七月廿六日崇山中山落城之砌、其方為高名西郷新左衛門子令生捕、則良知披官中谷清左衛門ニ被相渡候処ニ、依取逃之、彼清左衛門于今ニ令山臨候処ニ、其方曲事之由大原肥前守被申候間、今度其子細申分之上被聞分候間、度々忠節奉公申候之 御判形、我等為奏者被下候所明鏡也、為向後候条、我等一筆進候、仍如件、
永禄六癸亥三月一日/関越氏経(花押)/田嶋新左衛門尉殿
戦国遺文今川氏編1897「関口氏経書下」(本光寺常盤歴史資料館所蔵田嶋文書)

田嶋新左衛門尉が合戦で西郷新左衛門の息子を生け捕った際、良知被官の中谷清左衛門に渡したところ逃がされてしまった。中谷は田嶋の過失だと現場指揮官の大原肥前守に報告して問題化したという。

これと同じようなことが御宿・弓気に起きたのではないか。戦後に情報を整理した結果、この2人の戦果は誤認だったと判り、義元の最終認定が得られなかった。何とか崇孚の臨時感状だけを残したところ、何者かが改変した。

そしてその段階で義元と崇孚の花押誤認が発生し、真田宝物館所蔵文書の偽作時に継承されたと。

偽造部分は見抜けるか

御宿・弓気の例では、この時代の感状をいくつか見たことのある人間であれば容易に違和感を受けるだろう。そう考えると、偽作者は商売として偽造はしつつ後世の識者が見れば一発で見抜けるように作成したのではと思うこともある。わざと変な表記にしたり、決定的に矛盾したりするような情報を故意に織り交ぜたような印象がある。

しかし一方で、疑わしき情報は悉く削り取り、精巧に文言を構成した写しの場合に、後世の人間が見抜くことは殆ど不可能だろう。それが存在しているかすら判らずに踊らされているものも実は多いのかも知れない。後世の我々は確証は絶対持てないためだ。

ただ、要検討を更に吟味して精度を高める試みは有効だと思っていた。他の例を増やしていくことで、偽造箇所が浮き彫りになるのではないかと。だがそれも昔日の夢想になりつつある。

結局はデッドエンド

前回検討した北条氏政書状(戦北2347)は、写しではないという認識が通例で、専門家もその正当性に疑問は持っていない。文言がおかしくても、伝来として不明な点が多くても、花押が奇妙でも、文書自体は要検討にはならず、それを元に比定や解釈をいじろうとしている。

それは逆ではないか?

何とも奇妙な光景だ。史料批判で諸要素の徹底的な検討を経なくてよいのだろうか。

勿論、真正の文書でも奇妙な表現が見られる例もあるだろうし、現状で把握している用例が追い付かずに奇妙に見えてしまっているようなパターンも存在するだろう。ただ、この氏政書状のようにおかしな部分が多数存在しているものは、一つ一つをきちんと検証したうえで用いるべきなのではないか。

OK キャンセル 確認 その他