2018/06/12(火)後北条氏はどの段階で当主を「大途」と言ったのか

後北条家の当主はいつから「大途」と呼ばれたのか

『戦国大名と公儀』(久保健一郎)にある表を元にして、後北条家が文書で「大途」をどのように使ったのかを改めて調べてみた。

久保健一郎氏はこの書籍で、後北条当主が「大途」を呼ばれることになった最初の例を、1550(天文19)年の相承院文書(戦北380)に据えている。このことから、古河公方との関係性において「大途」が出てきたと推測されている。

しかし、下記で史料を検討したように相承院文書を読んでみると、この「大途」は当主人格には当たらない。

以下、初期の「大途」を細かく読んでみると、古河公方というよりは、上杉輝虎との関係性において立ち上がってくるのが当主人格の「大途」だと。

後北条氏が完全に「大途=当主人格」と言い切れる用例を使ったのは、1562(永禄5)年が初めてとなる。

その後、上杉輝虎と同盟交渉で「大途」は当主以外の用例で出てくるのが例外で出てきて、更に1571(元亀2)年に曖昧な使い方をしているのを最後にして大途=当主の用例に傾いていく。

つまり、永禄3~4年の大攻勢を経て、越相同盟交渉での相互の相対化を経由して「当主=大途」が後北条家の中で確立されていくようだ。

史料

1550(天文19)年

6月18日

中納言へ之判形をは大道寺可渡遣候
相承院一跡之事、前ゝ中納言ニ被申合候事、様躰無紛聞候、大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候、仍三浦郡大多和郷、前ゝ相承院拘之地之由候、然ニ、近年龍源院被致代官候、龍源死去候之間、大多和郷相承院江渡置候、彼郷年貢之事、本務五拾余貫文、増分六拾七貫文ニ候、此内、為廻御影供之方、増分六拾七貫文、院家中配当ニ相定候、残而五拾貫文、相承院可為所務候、彼郷重而附置候上者、可然僧をも被御覧立、只今之中納言ニ被相副、相承院無退転様ニ可有御助言候、恐ゝ敬白、
六月十八日/氏康(花押)/宛所欠(上書:金剛王院御同宿中 北条氏康)

  • 戦国遺文後北条氏編0380「北条氏康書状」(相承院文書) 1550(天文19)年

そもそも、当主自身の氏康が裁決しているのに、「大途=当主」の公事には及ばないという書き方はしないだろう。「大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候」というのは、この案件は「公事に及ばず=議論し裁決するほどのことではない」という主張が主であり、その形容詞としての「大途」が「名分としては・大きくいえば→表立って・仰々しく」という形容詞になっていき、「大げさに裁判するほどのことではないから、大道寺と桑原が指示を出す」と解釈すべきだろう。こちらの方が意味は通る。

1560(永禄3)年

9月3日

芳札披閲候、抑 関宿様江言上御申之由、目出珍重候、御満足之段、以御次可及披露候、就中、佐竹御間之儀、一両度雖及意見候、無納得候、遠境与云、我等助言不可届候、并那須御間之事、承候、当那須方与入魂之儀無之候、大都迄候、雖然蒙仰儀候間、連ゝ可及諷諌候、畢竟、如承瑞雲院頼被申肝要存候、委曲御使芳賀大蔵着与口上候条、不能具候、恐ゝ謹言
有明卅丁給候、祝着候、
九月三日/氏康(花押)/白川殿

  • 戦国遺文後北条氏編0641「北条氏康書状」(東京大学文学部所蔵白川文書)

北条氏康が白川結城氏に対して、那須氏とはそんなに付き合いがないと書いている。「大都まで」というのは「大まかな形だけ」という表現を指すだろう。

10月15日

態啓候、其地普請堅固ニ出来之由、稼之段、肝要候、但、大敵可請返地形、爰元無腹蔵可有談合候、仍分端之動事如何、那波地難儀間、大途調迄者、遅ゝ候条、先一動可有之由茂因へも申越候、其方相稼、早ゝ先一動可有之候、委細河尻申候、恐ゝ謹言、
十月十五日/氏康(花押)/宛所欠

  • 戦国遺文後北条氏編0650「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

北条氏康が、迫り来る上杉氏の来攻を前に「那波の地は難しいので『大途調』までは遅々としているので」と書いている。大途調はどうも「殆どの情報を調べ上げるまでは」と解釈すると意が通るように思う。

1562(永禄5)年

8月12日

知行方之事
五貫文、円岡
壱貫文、田村ニあり、松村弥三郎分
弐貫文、すへのニあり、小林寺分
以上、八貫文
右去年以来、於日尾御走廻ニ付而、申請進之候、御大途御判形者、各ゝ一通ニ罷出申候間、拙者判進之候、仍如件、
八月十二日/南図書助(花押)/出浦小四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編0775「南図書助判物」(出浦文書)

この「大途」は当主人格を指す可能性が高い。丁寧語として「御」を付けているし、その「御判形」となれば、虎朱印を指すと思われるからだ。

1563(永禄6)年

4月12日

書出
一ヶ所、堤郷
一ヶ所、篠塚・中島
以上
右、当所進之候、可有知行候、猶本領之替、大途へ申立、可進之者也、仍如件、
永禄六年卯月十二日/氏照(花押)/安中丹後守殿

  • 戦国遺文後北条氏編0808「北条氏照判物」(市ヶ谷八幡神社文書)

本領替えを申し立てる対象が「大途」なので、これは当主人格だろう。

7月28日

三沢之郷之事、各無足ニ候へ共、被走廻ニ付而、自大途被成御落着候、全相抱弥以可被励忠節候、於此上ニも、猶可被加御扶持状如件、
亥七月廿八日/横地(花押)/十騎衆

  • 埼玉県史料叢書12_0260「横地吉信判物」(土方文書)

持ち出しで活躍した十騎衆に対して、大途より状況が落ち着いたら三沢郷を与えようと約束した判物。三沢郷を与える権限を持つということで、大途は当主氏政を指すだろう。

1570(永禄13/元亀元)年

2月27日

今度御分国中人改有之而何時も一廉之弓矢之刻者、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当之望之義被仰付可被下候、并罷出者兵粮可被下候、於自今以後ニ虎御印判を以御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者去とてハ、其国ニ有之者ハ罷出、不走廻而不叶意趣ニ候処ニ、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)二見右馬助・松井織部助・玉井孫三郎/宛所欠 -戦国遺文後北条氏編1384「北条家朱印状」(高岸文書)

国の危機に際して全国民を徴発する権利を主張するもの。背く者を処罰することについて「これは大途のご非分ではない」と言い切っている。大途を大義名分に言い換えても意味が通じる気もするが、「御非分」と丁寧語にしている点からみると当主である可能性がとても高いと思う。

2月27日

今度御■国中人改有之而、何時も一廉之弓箭之■■、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当望之義被仰付可被■■、并罷出者、兵粮可被下候、於自今以後、虎御印判を以、御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者、去とてハ其国ニ有之者ハ、罷出不走廻而不叶意趣ニ候処、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)横地助四郎・久保惣左衛門尉・大藤代横溝太郎右衛門尉/鑓、今井郷名主小林惣右衛門

  • 戦国遺文後北条氏編1385「北条家朱印状」(清水淳三郎氏文書)

前号文書と同文。

3月26日

一、此度被翻宝印、望申如案文、遠左被召出、預御血判候、誠忝令満足事
一、三郎、来五日、無風雨之嫌、当地可致発足事
付、彼日取流布候間、其砌信玄出張無心元存候、畢竟利根川端迄、此方送随分堅固ニ可申付候、利根川向端はたより可渡申間、倉内衆・厩橋衆堅ゝ被仰付専一候事
一、相房一和、先段如申届、不可背御作意候、猶様子顕書中候、此時御彼国へ被指越、引詰而御落着専要存事
一、初秋之御行、何分にも可有御談合由、誠本望至極候、但、只今御労兵之砌と云、窺御帰国信玄擬之処、大切存候、爰元進藤方・垪和両口ニ、委細申付候間、御備之様子、具御返答待入事
一、愚老父子条書之内、武上之面ゝ、後日無異儀様、弥可定とハ如何不被聞召届由候、爰元専ニ遠左ニ申含候、不達上聞処、左衛門尉越度、無是非候、併御奏者挨拶ニ、此儀二三之申事之由、被押旨致陳法候、武上之二字所を指而者、忍・松山大途雖無御別儀候、一度越苻可蒙御退治趣、深存詰候、越相御骨肉ニ被仰合上者、並而相州可得退治候、然時者、信玄へ申寄外無之由、指出申候、はや通用三度及五度者、信玄可乗計策事必然候、信玄ニ内通可令停止者、越苻為先御誓詞、忍・松山証人可取間、極御誓句段申入候、垪和ニも此口味同前候、猶此度申入候、委細口上ニ可有之事
一、新太郎所へ如被披露御条書者、愚老父子表裏を当憶意哉之由、蒙仰候、既此度前ゝ之誓句を改、只一ヶ条、無二無三ニ可申合段、翻宝印、以血判申上者、表裏之儀、争可有之候哉、惣而前ゝ誓句之内、一点毛頭心中ニ存曲節儀無之候キ、御不審之儀者、何ヶ度も可預御糺明候、就中実子両人渡進儀、誠山よりも高、大海よりも深存置処、猶愚ニ思召候事、無曲存候、此上も、或者佞人之申成、或者不逢御意模様可有之候、当座ニ御尋千言万句肝要候、さて御入魂之上者、相互道理之外不可有之間、於道理者、不及用捨可申展候、不届儀者、何ヶ度も御糺明、此度互ニ御血判之可為意趣事
一、此度三郎参候路次以下之儀、由信致馳走様ニ被仰付、肝要存候事
以上、
三月廿六日/氏政(花押)・氏康(花押)/山内殿

  • 小田原市史小田原北条0950「北条氏政・同氏康連署条目」(米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

後北条氏が当主を「大途」と呼ぶのは家中に限られるので、上杉輝虎との交信で使われたこの例は該当しない。ただ、参考までに呼んでみると「忍・松山大途雖無御別儀候」=「忍・松山は『大途=ほとんど』別儀はないとはいえ」と読める。

1571(元亀2)年

8月20日

改而定御扶持給請取様之事
一、弐貫七百文、扶持上下三人九ヶ月分
此内
九百文、八・九・十、三ヶ月分、八月廿五日より同晦日を切而可請取
九百文、十一・十二・申正月、三ヶ月分、十月晦日ニ可請取
九百文、申二・三・四、三ヶ月分、正月晦日ニ可請取
以上弐貫七百文、九ヶ月分皆済
此外九百文、申五・六・七、三ヶ月分、申六月可出
一、七貫七百五十文、給、自分
三貫文、同、番子
以上拾貫七百五十文
此内
三貫弐百文、九月廿日を切而可請取
三貫弐百文、十月廿日を切而可請取
四貫三百五十文、霜月廿日を切而可請取
以上拾三貫四百五十文
合拾三貫四百五十文、給扶持辻
此出所
弐貫七百文、扶持、西郡懸銭米、安藤豊前守・松井織部前より、於小田原御蔵、可請取之
七貫七百五十文、給、同所懸銭米、両人前より、於御蔵、可請取
三貫文、番子給、同理、同理
以上拾三貫四百五十文
右、定置日限無相違可請取之、若日限相延者、五割之利分を加、厳渡手ニ致催促、可請取之、猶不承引者、可捧目安、如此定置上、年内ニ給扶持不相済、至于申歳令侘言候共、大途不可有御許容者也、仍如件
追而、此配符来年七月迄可指置、若出所至于申歳令相違者、別紙ニ御配符可被下、無相違者、如去年与云一筆之御印判可出者也、
辛未八月廿日/(虎朱印)/畳弥左衛門・同番子

  • 戦国遺文後北条氏編1507「北条家朱印状写」(相州文書所収足柄下郡仁左衛門所蔵文書)

この大途は、両方にとれる。「侘言をしても許容しない」のが眼目なので大途=当主と見た方が読みやすいが、「御」が見当たらず「大義名分的に許可は出ない」という表現なのだとしても通りはする。もしくは、どちらでも読めることを見越して使っている可能性もある。

1574(天正2)年

2月21日

以御飛脚・御直札遂披露御返書進之候、委細御紙面ニ候条、不能重説候、大坪之地正左再興申候歟、無是非存候、大途をも可抱地ニ候哉、如蒙仰甲州御扱之内如此之儀、不及是非候、彼使衆ニ御理在之様可遂披露候、然者輝虎厩橋近所へ越山之由注進候、因茲被摧諸勢火急ニ御出馬候、彼表之様子追而可申候、時分柄如何ニ候間、為指儀不可有之候歟、随而甲州・房へ之使近日当地迄帰路候、義堯御父子御返答一途無之、毎度之分と、先甲陣へ御通候帰路之砌、勝頼御同意ニ可有御返答分ニ候、其上其表之儀落着可申候、只今者越衆之行被合御覧之儀迄ニ候、麦秋以前ニ北口之儀者可相澄候歟、追而可遂御内談候、珍儀可申入候、又可蒙仰候、恐ゝ謹言、
二月廿一日/松左憲秀(花押)/原式参御報

  • 戦国遺文後北条氏編3937「松田憲秀書状」(西山本門寺文書)

文意がとりづらいのだが、大坪という土地について、正木氏が再興しようということなのかと質問し、是非もないとしながら更に「大途をも抱えるべき地なのか」と訊いている。正木を通して大坪の地権を後北条当主が保証すべきなのか、という点を確認したかったと思われる。形容詞として「名分的にも抱えるのか」と質問したようにも解釈可能だが、そうなると質問を重ねた意図が判らなくなる。

9月3日

従品河之郷所々江欠落之者之事、人返者御国法ニ候、為先此一札領主へ申断、不移時日可召返候、若違乱之輩有之者、背国法子細ニ候、大途江申立、可及其断者也、仍如件、
天正二年甲戌九月三日/氏照(花押)/品河町人・百姓中

  • 戦国遺文後北条氏編1726「北条氏照判物写」(武州文書所収荏原郡清左衛門所蔵文書)

この文書より先は、「大途=当主」と見てほぼ例外はない。

9月10日

下足立里村之内保正寺寺領之事、大途無御存而、先年自検地之砌、御領所ニ相紛候歟、彼寺領壱貫弐百文、如前ゝ無相違御寄進候、仍状如件、
天正二年甲戌九月十日/(虎朱印)評定衆四郎左衛門尉康定(花押)/保正寺

  • 戦国遺文後北条氏編1728「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡法性寺文書)

1575(天正3)年

3月22日

●(前欠)小曲輪十人、内村屋敷へ出門十人、板部岡曲輪十人、関役所二階門六人、同所蔵之番十人、鈴木役所之門以上一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事以上右、定所如件、
乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

  • 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)

2018/06/07(木)駿河・相模の杉山氏

今川と後北条の双方に名が見える杉山氏の史料をまとめてみた。

1494(明応3)年

9月20日 駿河安部山俵峯・杉山太郎衛門

安部山内俵峯半分之事、今度山中より出忠節として所充行也、於此上尚々可抽忠功者也、仍如件、
明応三九月廿日/文頭に(朱印「印文未詳」)/杉山太郎衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編0089「今川氏親黒印状」(杉山文書)
1550(天文19)年

4月30日 駿河阿野庄井出郷・杉山惣兵衛

駿河国阿野庄井出郷之内、相拘名職内給恩之事
右、拾弐石九斗、畠銭弐貫五百文并金山領等停止諸役、所宛行之也、然今度彼給主年来申掠之段、雖訴人有之、興国寺城番以下、此五人参百貫文役可相勤之由、遂訴訟之条、只今為新給恩永領掌不可有相違、但自余地又者他国出陣之時者、可随其員数、酉年之河東一乱以来、令在府、別奉公神妙也、弥可励忠節之状如件、
天文十九四月晦日/治部大輔(花押影)/杉山惣兵衛殿

  • 戦国遺文今川氏編0942「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写附二)
1552(天文21)年

4月12日 駿河安部山俵峯・杉山某(連名:望月某)

安部之内たわら峯之事
右、勤湯山之普請之条、四分一・押立諸役等令免許之、但棟別之儀者、如前々可令沙汰者也、仍如件、
天文廿一年四月十二日/文頭に(朱印「如律令」)/杉山・望月

  • 戦国遺文今川氏編1086「今川義元朱印状」(杉山文書)

10月11日 駿河安部山俵峯・杉山小太郎

駿河国阿部内俵峯相拘名職屋敷等之事
右、相定年貢諸役、如前々可勤之、以継母計別子又者親類等仁割分之儀、恣雖出置之、遺跡不相渡以前兼不相断、於不知之者不可許容之、只今号割分田畠等、各於押取之者、進退可及退転之旨、遂訴訟之条、所出判形也、仍如件、
天文廿一年十月十一日/袖に(今川義元花押)/杉山小太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編1110「今川義元判物」(杉山文書)
1553(天文22)年

2月12日 駿河泉郷・杉山善二郎

駿河国泉郷案内者、子年令検地之上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之由、致請納之条忠節也、彼本増之外、相拘名職之内、増分拾石壱斗、并見出畠銭之増分共五貫文、永代所出置也、但惣国大風大旱魃惣虫付之年者、以奉行明鏡可改之、若於向後、代官百姓等為横合、拘置名職雖令競望、一切不許容者也、仍如件、
天文廿二年二月十二日/(今川義元花押影)/杉山善二郎

  • 戦国遺文今川氏編1128「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)
天文末~弘治頃

11月24日 在所欠・杉山市蔵

芳札令披見候、如来意去十三日雪、北条家茶会之事羨鋪打過処、雪降済候之間、被相招候段、別而致大慶候、宗賀■被差加、於令同伴ハ寔可有興候、明廿五日朝卯刻以参可謝候、恐々、
十一月廿四日/治部大輔(花押)/杉山市蔵殿へ

  • 戦国遺文今川氏編1526「今川義元書状」(弘文荘待買古書目二九)
1560(永禄3)年

8月8日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷為案内者、子年令検地之上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之由、致請納之条忠節也、然者彼本増之外相拘名職之内、増分拾石壱斗并見出畠銭之増分共五貫文、永代所出置也、雖然去卯年重而有訴人増分雖申出、於彼忠節之儀者、任先判形之旨、年来被出置之上者、縦於向後代官百姓等為横合、拘置名職雖令競望、是又任先判形之旨、永不可有相違者也、仍如件、
永禄参庚申年八月八日/氏真(花押影)/杉山縫殿助殿

  • 戦国遺文今川氏編1566「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)
1563(永禄6)年

月日欠 在所欠・杉山小太郎(連名:望月四郎右衛門)

棟別之事
右、今度就三州急用免許之棟別、一返悉雖取之、両人事者依勤陣参、不準地下人之間、永免除畢、向後免許棟別雖相破之、両人儀者不可有相違者也、仍如件、
永禄六癸亥/文頭に(朱印「如律令」)/杉山小太郎殿・望月四郎右衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編1908「今川氏真朱印状」(杉山文書)
1564(永禄7)年

6月5日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷為案内者、子年令検地上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之旨請納忠節也、彼本増之外、相拘名職之内増分拾石壱斗、并見出畠銭之増分共五貫文、永代所被出置、天沢寺殿判形明鏡也、然処飯尾若狭入道号新田、雖成競望、先判形等歴然之上令落着、定林院一札并百姓等証文明鏡之間、永不可有相違、重而若狭入道并百姓等聊不可令無沙汰者也、仍如件、
永禄七年六月五日/上総介(花押)/杉山縫殿助殿

  • 戦国遺文今川氏編1993「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)
1567(永禄10)年

2月1日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷、去子年改之上、以弐百俵之増分、本増共為定納請納、忠節之至也、因茲十石壱斗并見出畠増分共五貫文、為忠節分所出置、任天沢寺殿御判形旨領掌訖、然者飯尾若狭入道上置七十三俵、百姓等隠置之処、訴出令蔵入之条、是又忠節之至也、縦雖企百姓其外如何様之競望、為条々忠節之上者、一切不可許容、但大風旱大虫之年者、以奉行検見之上可申付之旨、任先御判畢、以此旨、年貢以下毎年速可令沙汰者也、如件、
永禄十丁卯年二月朔日/(今川氏真花押影)/杉山縫殿助

  • 戦国遺文今川氏編2122「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

9月28日 在所欠・杉山小太郎

屋敷分之内竹木事
右、於用之時者、従奏者方可申付之条、地下次ニ見伐等一切停止候也、若押於伐取者、依言上急度可加下知、以此旨、弥可令奉公者也、仍如件、
永禄十年卯九月廿八日/文頭に(朱印「如律令」)/杉山小大郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2147「今川氏真朱印状」(杉山文書)
1568(永禄11)年

12月18日 在所欠・杉山周防守

遠候之儀大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候、検使可為布施佐渡守、此掟妄ニ付而者可為曲事候、恐々謹言、
十二月十八日/氏政(花押)/清水太郎左衛門殿・布施佐渡守殿・大藤式部丞殿・杉山周防守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1123「北条氏政書状写」(小沼氏所蔵文書)
1571(元亀2)年

7月28日 相模東郡・杉山惣次郎

着到定
一、五拾九貫文
相州東郡、吉岡此着到
一本、大小旗持、具足・皮笠
一本、四方指物持、同理
二本、鑓、二間之中柄、武具同理
一騎、自身、甲大立物・具足・面防・手蓋、馬鎧金
二人、歩者、具足・皮笠、以上七人
一、小田原於御蔵可請取衆
五貫文、歩侍、甲立物・具足・手蓋
弐貫四百文、二人扶持、
一本、鑓、武庄左衛門尉、七貫四百文、二人同理、鈴木半右衛門、七貫四百文、二人同理、杉山惣次郎、七貫四百文、二人同理、大庭弥七郎
以上
廿九貫六百文
此内、廿貫文、給九貫六百文、扶持八人分、
以上、合拾五人、
上下此内一本、小小旗、四郎左衛門一本、指物、源十郎
六本、鑓、源四郎、平四郎、與五郎、三入、衛門四郎、藤二郎
一騎、馬上四人、
歩侍、清右衛門二人、
歩者、大郎五郎
以上拾五人
一、此帳に書戴候寄手、或者闕落、或ハ令死去者、五日中令披露、一跡之様子下知次第可立之候、若号失念、五日を踏出相尋時令披露者、背掟条、寄子之跡他人ニ可申付候、其時公儀へ侘言不可付候事、
一、御出馬より一日も遅罷立、一騎合有之者、則可披露候、若令用捨、御尋之上候者、背掟間、彼寄子可付他人候、公儀不可有相違事、
一、武具仕置相背者有之者、其品ゝ何時も相註可披露事、
以上
右、改而着到如此相定候、武具等致様、委細ニ書記畢、各少も無相違可致之候、抑軍法者、国家安庄所也、背法度付而者、随罪科軽重、無用捨可被出条、兼而無誤様ニ覚悟専肝候、畢竟岡本前ニ可有之間、時ゝ刻ゝ寄子ニハ合助成、掟無異義可走廻儀、可為忠信候、仍定所如件、
元亀二年辛未七月廿八日/(虎朱印)/岡本八郎左衛門尉殿

  • 小田原市史小田原北条1026「北条家着到定書写」(岡本家古文書写)

12月24日 駿河安部山俵峯・朝比奈信置(連名:横田康景)

阿部内俵峰村
一、弓鑓、近衛四郎
一、弓同、四郎衛門
一、弓同、左近四郎
一、弓同、清太郎
一、弓同、左衛門九郎
以上五人、
辛未十二月廿四日/朝駿信置・横十康景/宛所欠

  • 静岡県史資料編8_0375「朝比奈信置・横田康景連署状写」(駿河志料巻七十六杉山文書)

2018/06/02(土)鉄砲衆は諸被官から集められていたらしい

1572(元亀3)年

小山孝哲 → 岩上筑前守

夜前被罷着様体無心元候間、態以脚力相尋候、何も路次中辛労之由申遣度候、一、栗橋之手成定而其地へ可聞候、濃ニ注進尤候、一、自当真昨日付之一書今朝巳刻披見、存分候間、不被致用捨、彼一札写并返書之案文八郎殿へ可被為見申候、一、義重以川井甲斐守昨暮当城へ被届旨候、于今在滞、佐・宮半途之備遅々、口惜由遂侘言迄候、一、鉄炮衆番替明晩可指越候、つゝ引かへ候も六ヶ敷候間、其侭十丁をハ玉薬ニ厳密ニ可差置由、必々十人之者共之方へ被申調可然候、相残三ちやうハ、彦五郎方家風粟宮・小曽戸かせ者ニ候間、筒をも持可帰迄候、此番替ハ小薬之鉄鋒衆三人三丁申付候、玉薬其外厳密ニ彦左衛門・五郎右衛門ニ相渡可罷帰由、是又無失念可被申付候、一、昨於備場其方同道、両人尤之由加詞候キ、荒豊一人計可然候、其外をハしかと陣屋ニ日数之間、不致随意有之様、堅可被申候、第一大酒・火事・無政道、彼是を始、書付之透仕置専一候、謹言、
十二月六日/孝哲(花押影)/岩上筑前守殿

  • 埼玉県史料叢書12_0419「小山孝哲書状写」(松羅館集古八)

1575(天正3)年

織田信長 → 長岡藤孝

此表之様子、先書ニ申候、今日自早天取賦、数刻及一戦、■残敵討捕候、先■■下数多候間、仮名改首注文自是可進候、自兼如申候、始末無相違候、弥天下安全之基候、仍鉄炮放被申付候、■祝着候、爰許隙明候条、差上候、旁以面可申展候、謹言尚以、爰元之事、九■左衛門可申候、
■月廿一日/信長(朱印)/長岡兵部太輔殿

  • 増訂織田信長文書の研究0511「織田信長朱印状」(肥後・細川家記二細川家文書二)

1577(天正5)年

後北条氏 → 北条氏繁

新田へ鉄砲衆合力候、五挺可然放者可被申付候、明後可遣候、島津左衛門自馬廻遣候間、従者可同心旨可被申付候、掟従是委以書出可申付候、万端遣念可被申付候、仍如件、
五月十九日/(虎朱印)/常陸守殿戦国遺文後北条氏編1911「北条家朱印状写」(小田原編年録附録四)

1585(天正13)年

後北条氏 → 神宮武兵衛

鉄炮衆一、六挺、両後閑衆
一、三挺、木部宮内衆
一、弐挺、和田左衛門衆
一、壱挺、同兵部衆
一、壱挺、高山彦四郎衆
一、七挺、倉ヶ野淡路衆
一、拾挺、神宮衆
以上卅挺
右之鉄炮衆大戸へ為加勢指越候間、此飛脚来十四日可参着候間、翌日一日支度而、何れも召連、一同相移、房州如作意可走廻、仍如件、
九月十日/(虎朱印)/神宮武兵衛殿

  • 戦国遺文後北条氏編2856「北条家朱印状写」(後閑文書)

1586(天正14)年

北条氏直 → 簗田晴助

壬生へ万一敵至于相動者、加勢之儀壬生所望候、然者奥州注進次第何時も其人衆払而小山へ被相移、自彼地弓・鉄炮足軽を壬生へ加勢候様可有下知、委細奥州可為演説候、恐々謹言、
卯月十一日/氏直(花押影)/簗田中務太輔殿

  • 埼玉県史料叢書12_0779「北条氏直書状写」(温故知新集)
後北条氏 → 北条氏照

壬生へ加勢衆廿挺、鉄炮卅人、弓鑓、合五十人水海衆
右、佐竹向壬生・鹿沼、動火急ニ相催由、注進候、依之手先之衆先加勢遣候条、記右人数、能物主指添、自小山大石信濃寺注進次第、不移時日、小山へ被相移、小山衆同断ニ壬生へ移、走廻候様、可被申付旨、水海衆へ可被御届候、猶依注進、自分可令出馬間、無油断可有支度旨、能ゝ可有演説候、仍如件、
七月十八日/(虎朱印)/陸奥守殿

  • 戦国遺文後北条氏編2972「北条家朱印状写」(楓軒文書纂六十)

年未詳

北条氏照 → 大石四郎右衛門尉・大石左近丞

加勢衆鉄炮
一丁、石原主膳
二丁、島村
二丁、由木
一丁、車丹波衆
一丁、大石四郎右衛門衆
一丁、同左近衆
二丁、大藤手組之内
以上十丁
一、右衛門佐殿御手前、敵之取寄近来候、今夜為加勢遣候、申端可被仰所、加治左衛門ニ指添可遣事
一、玉薬二百放可指添候、■■可渡事、加治■■一、加治左衛門為物主指越候、彼者如申可走候、少も油断不可致、虎口可走事
右之条ゝ、猶仰所、直ニ可被申付候、以上、
廿日/氏照(花押)/大石四郎右衛門尉殿・大石左近丞殿

  • 戦国遺文後北条氏編3921「北条氏照書状」(秋山断氏所蔵文書)

2018/05/28(月)今川家の戦時禁制

今川家における戦時禁制の発行形態

非条書から条書という流れであるのは、氏親が1通のみ条書であるのに対して、孫の氏真が全て条書であることから推測できる。但し、間にいる義元の条書・非条書は切り替えタイミングが見えない。

今川家の戦時禁制は織田信長・羽柴秀吉と比較すると僅かしか残されていない。このため、確度はかなり低い。

今川氏親

発給年 文書番号 種別 宛所 禁止条目
1504(永正元)年 0157 非条書 鶴岡八幡
1506(永正3)年 0179 非条書 本興寺
1506(永正3)年 0186 非条書 明眼寺
1509(永正6)年 0226 非条書 宛所欠
1511(永正8)年 0241 条書 大洞院 資源奪取・侵入
1517(永正14)年 0297 非条書 鴨江寺

今川義元

発給年 文書番号 種別 宛所 禁止条目
1536(天文5)年 0547 条書 慶寿寺 乱暴狼藉・寺領押領・資源奪取
1543(天文12)年 0727 条書 東観音寺 乱暴狼藉・資源奪取・侵入
1545(天文14)年 0776 条書 多聞坊 乱暴狼藉・刈田・無断野菜奪取
1545(天文14)年 0779 非条書 妙覚寺・大善坊
1546(天文15)年 0801 非条書 長興寺・龍門院・伝法寺
1549(天文18)年 0893 条書 長興寺宛て 資源奪取・寄宿・侵入
1550(天文19)年 0944 非条書 篠原永源寺
1550(天文19)年 0961 条書 大沢山龍渓院 乱暴狼藉・資源奪取・侵入
1550(天文19)年 0963 非条書 白坂雲高寺
1550(天文19)年 0972 条書 大樹寺 陣取・資源奪取・殺生・不法課役・私徳政
1555(弘治元)年 1237 非条書 無量寿寺
1555(弘治元)年 1238 非条書 宛所欠
1557(弘治3)年 1335 条書 永源寺 乱暴狼藉・資源奪取・不条理命令・年貢催促・俗縁持込

今川氏真

発給年 文書番号 種別 宛所 禁止条目
1562(永禄5)年 1794 条書 菟足神社 乱暴狼藉・陣取・資源奪取
1562(永禄5)年 1867 条書 八幡神主 陣取と要害構築・乱暴狼藉・資源奪取
1564(永禄7)年 1963 条書 野辺郷山王神主 侵入と狼藉・資源奪取・耕作妨害
1564(永禄7)年 1964 条書 二俣領八幡神主 侵入と狼藉・資源奪取・耕作妨害
1565(永禄8)年 2051 条書 総真寺 乱暴狼藉・資源奪取・不法課役

2018/05/28(月)羽柴秀吉の戦時禁制

概要

『豊臣秀吉文書集』から、天正17年12月から翌年8月までの期間に、羽柴秀吉が発給した禁制を抜き出した。

その際に、種別を3つに分類してみた。

A型

発給数・範囲・期間が最も大きな標準型といえる。12月から8月まで、204件が残されている。下記が典型例で、「禁制」の下の所付と、太字になっている部分だけが異なるのみで他は全く同じ文言・表記となる。「対地下人百姓」が圧倒的に多いが、寺社向けには主に「寺家門前之輩」などが用いられる。また「土民」という表記もわずかにみられる。

文書例

禁制 『所付欠』一、軍勢甲乙人等乱妨狼藉事
一、放火事
一、対地下人百姓非分之儀申懸事
右条々若於違反之輩者、忽可被処罪科者也、
天正十七年十二月日/(羽柴秀吉朱印影)

  • 豊臣秀吉文書集2893「羽柴秀吉禁制写」(相州文書・東大史影写)早川村海蔵寺文書
一覧
発行月 文書番号 宛所 宛所種別 異同文言 備考
12月 2878 駿河国厚原 郷村
12月 2879 伊豆国大宮 郷村
12月 2880 信濃国 国名
12月 2881 信濃国 国名
12月 2882 駿河国御厨 郷村
12月 2883 遠江国 国名
12月 2884 遠江国 国名
12月 2885 遠江国 国名
12月 2886 遠江国 国名
12月 2887 遠江国 国名
12月 2888 遠江国 国名
12月 2889 三河国 国名
12月 2890 所付欠(海長寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
12月 2891 所付欠(駿河草薙神社旧蔵) 寺社 寺社だが郷村向け
12月 2892 所付欠(駿河志料) 未詳
12月 2893 所付欠(相州文書海蔵寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
12月 2894 所付欠(愛知県史平松眞氏所蔵文書) 未詳
12月 2895 所付欠(村松文書) 未詳
12月 2896 所付欠(森文書) 未詳
01月 2920 尾張国岩倉 郷村
01月 2921 尾張国西御堂三郷 郷村
01月 2922 駿河国御厨屋内茱萸沢 郷村
01月 2923 駿河国建穂寺 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2924 三河国山中法蔵寺 寺社 寺僧
01月 2925 遠江国 国名
01月 2926 遠江国二諦坊 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2927 所付欠(県文書) 未詳
01月 2928 所付欠(医王寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2929 所付欠(井口文書) 未詳
01月 2930 所付欠(蒲神社文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2931 所付欠(河合文書) 未詳
01月 2932 所付欠(鷺森別院文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2933 所付欠(三光寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2934 所付欠(静岡浅間神社文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2935 所付欠(駿河志太郡高根神社宛比定) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2936 所付欠(頭陀寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2937 所付欠(大円寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2938 所付欠(大善寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2939 所付欠(大悲願寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2940 所付欠(静岡県史料桃源院文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2941 所付欠(愛知県史鳥居家文書) 未詳
01月 2942 所付欠(成岡文書) 未詳
01月 2943 所付欠(蜂前神社文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2944 所付欠(浜松市博物館) 未詳
01月 2945 所付欠(原川文書) 未詳
01月 2946 所付欠(判物証文写) 未詳
01月 2947 所付欠(彦根藩井伊家文書) 未詳
01月 2948 所付欠(ひらつかの家康伝説) 未詳
01月 2949 所付欠(聞名寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
01月 2950 所付欠(龍潭寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3048 伊豆国西勝院 寺社 寺家門前之輩
04月 3049 伊豆国城府院 寺社 寺家門前之輩
04月 3050 伊豆国新島 郷村
04月 3051 上野国大胡領 郷村
04月 3052 相模国円覚寺 寺社 寺家門前
04月 3053 相模国建長寺 寺社 寺家門前
04月 3054 相模国光明寺 寺社 寺僧門前之輩
04月 3055 相模国鶴岡八幡宮 寺社 社家坊中
04月 3056 相模国二階堂郷中覚園寺他 寺社 寺家門前之輩
04月 3057 相模国宝戒寺 寺社 寺家門前之輩
04月 3058 相模国長谷寺 寺社 寺家門前
04月 3059 相模国東慶寺 寺社 寺家門前
04月 3060 上野国長楽寺他 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3061 相模国愛甲郡熊坂村 郷村
04月 3063 相模国不入斗郷西来寺 寺社 寺家門前之輩
04月 3064 相模国江ノ島 寺社 寺家門前之輩
04月 3065 相模国大中郡厚木 郷村
04月 3066 相模国大中郡荻野村 郷村
04月 3067 相模国大中郡恩名・及河 郷村
04月 3068 相模国大中郡讃多村 郷村
04月 3069 相模国大中郡田村之郷 郷村
04月 3070 相模国大中郡豊田三郷 郷村
04月 3071 相模国大中郡煤ヶ谷小屋入之郷 郷村 土民百姓等
04月 3072 相模国大中郡森の庄 郷村
04月 3073 相模国大平台 郷村
04月 3074 相模国狩野庄最乗寺 寺社 寺家門前族
04月 3075 相模国鎌倉感応院 寺社 寺僧門前之輩
04月 3076 相模国鎌倉長勝寺 寺社 寺家門前
04月 3077 相模国鎌倉補陀洛寺 寺社 寺家門前之族
04月 3078 相模国鎌倉内明月院 寺社 寺家門前輩
04月 3079 相模国鎌倉中 郷村 地下人町人
04月 3080 相模国小机庄 郷村
04月 3081 相模国小中郡今泉之郷他 郷村
04月 3082 相模国底倉 郷村
04月 3083 相模国玉縄内村岡郷 郷村
04月 3084 相模国茅ヶ崎郷・両浜 郷村
04月 3085 相模国堤村 郷村
04月 3086 相模国土肥郷法善院 寺社 寺僧門前之輩
04月 3087 相模国西郡金子郷 郷村
04月 3088 相模国西郡栢山村善栄寺 寺社 寺僧門前之輩
04月 3089 相模国西郡国府津 郷村
04月 3090 相模国西郡曽我他 郷村
04月 3091 相模国東郡今田・亀井野 郷村 寺家門前之輩 郷村だが寺社向け
04月 3092 相模国東郡梅沢 郷村
04月 3093 相模国東郡恩馬郷 郷村
04月 3094 相模国東郡小薗郷 郷村
04月 3095 相模国東郡青蓮寺 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3096 相模国東郡大長寺 寺社 寺僧門前
04月 3097 相模国東郡国分村国分尼寺 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3098 相模国東郡八幡 郷村
04月 3099 相模国東郡比企谷妙本寺 寺社 寺家門前
04月 3100 相模国東郡本覚寺 寺社 寺家門前
04月 3101 相模国東郡本蓮寺 寺社 寺家門前
04月 3102 相模国三浦郡芦名郷浄楽寺 寺社 寺家門前
04月 3103 相模国三浦郡内浦之郷龍真寺 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3105 相模国三浦大妙寺 寺社 寺家門前
04月 3107 相模国高座郡渋谷庄他 郷村
04月 3108 下野国大中寺 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3109 下総国庄内十六郷 郷村
04月 3110 武蔵国大滝 郷村
04月 3111 武蔵国椚田郷高乗寺 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3112 武蔵国城立寺 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3113 武蔵国東国寺 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3114 武蔵国鉢形 郷村
04月 3115 武蔵国山口他 郷村 寺家門前之輩 郷村だが寺社向け
04月 3116 武蔵国稲毛郡作延郷 郷村
04月 3117 武蔵国稲毛郷河崎六ヶ村 郷村
04月 3118 武蔵国江戸報恩寺 寺社 寺家門前之輩
04月 3119 武蔵国荏原郡世田谷郷 郷村
04月 3120 武蔵国荏原郡江戸の内牛込 郷村
04月 3121 武蔵国遠藤郷法泉寺 寺社 寺僧門前之輩 相模国の誤記
04月 3122 武蔵国荏原郡忍の内龍淵寺・熊谷 郷村
04月 3123 武蔵国金沢称名寺 寺社 寺家門前之輩
04月 3124 武蔵国久良岐郡十二郷 郷村
04月 3125 武蔵国久良岐郡日野村 郷村
04月 3126 武蔵国久良岐郡宝生寺 寺社 寺家門前
04月 3127 武蔵国久良岐郡内長田郷 郷村 土民百姓等
04月 3128 武蔵国久良岐郡内本牧 郷村 土民百姓等
04月 3129 武蔵国小机之内千ヶ崎郷総泰院観音堂 寺社 寺僧門前之族
04月 3130 武蔵国昌龍寺 寺社 寺社だが郷村向け
04月 3131 武蔵国白金郷阿佐布善福寺 寺社 寺僧門前之輩
04月 3132 武蔵国関戸郷 郷村
04月 3133 武蔵国橘樹郡小田村 郷村
04月 3134 武蔵国多東郡中野郷 郷村
04月 3135 武蔵国多東郡補陀郷 郷村
04月 3136 武蔵国都築郡小机之内庄内 郷村
04月 3137 武蔵国都筑郡内麻生郷王禅寺村 郷村
04月 3138 武蔵国豊島郡江戸吉祥寺 寺社 寺家門前之輩
04月 3139 武蔵国豊島郡江戸増上寺 寺社 寺家門前之輩
04月 3140 武蔵国豊島郡浅草十二坊 寺社 寺僧門前之輩 写し文書で、東照宮御朱印とあり
04月 3141 武蔵国二俣川郷 郷村
04月 3142 武蔵国師岡保内十二ヶ郷 郷村
04月 3143 所付欠(韮山真珠院文書) 寺社 門前百姓
04月 3144 所付欠(新編武州古文書法華寺所蔵) 寺社 寺僧門前之輩
04月 3145 所付欠(静岡県史原文書) 未詳 写し文書で、石田治部承之とあり
04月 3146 所付欠(武州文書) 未詳 土民百姓等
04月 3147 所付欠(武州文書) 未詳 土民百姓等
05月 3235 上総国市原庄八幡郷他 郷村
05月 3236 相模国大中郡落合郷長徳寺 寺社 寺家門前之族
05月 3237 相模国西郡内国府津郷真楽寺 寺社 寺家門前
05月 3238 相模国東郡当麻郷 郷村
05月 3239 相模国三浦郡野比郷最宝寺 寺社 寺家門前之族
05月 3240 下野国常陸国田野他 郷村
05月 3241 常陸国鹿島宮 寺社 社内門前之輩
05月 3242 常陸国知足院 寺社 寺家門前族
05月 3243 武蔵国河越蓮馨寺他 寺社 寺社だが郷村向け
05月 3244 武蔵国大田之庄久喜郷甘棠院 寺社 寺社だが郷村向け
05月 3245 武蔵国忍之内清水正伝院 寺社 寺家門前之輩
05月 3246 武蔵国多西郡高幡村・河辺村 郷村
05月 3247 武蔵国多西郡内落川村 郷村
05月 3248 武蔵国多西郡内三沢村 郷村
05月 3249 武蔵国多西郡内由木之郷 郷村
05月 3250 武蔵国奈良集福寺 寺社 寺家門前之輩
05月 3251 武蔵国山田庄河越卅三郷内豊田郷他 郷村
05月 3252 所付欠(結城市史越前山川文書) 未詳
05月 3253 所付欠(内閣文庫諸国文書) 未詳
06月 3281 上総国一宮観明寺 寺社 当寺中并門前之百姓等
06月 3282 上総国長南三途台長福寺 寺社 当寺中并門前之百姓等
07月 3334 武蔵国足立郡内浦和宿 郷村
07月 3335 安房国清澄寺 寺社 当寺中并門前之百姓等
07月 3336 常陸国石塚 郷村
07月 3337 陸奥国佐竹知行滑津他 郷村
07月 3338 陸奥国矢田安房守領内 郷村
07月 3339 上総国光福寺 寺社 当寺中并門前之百姓等
07月 3340 上総国神野寺 寺社 当寺中并門前之百姓等
07月 3341 上総国高谷円明寺 寺社 当寺中并門前之百姓等
07月 3342 下野国高田専修寺 寺社 寺社だが郷村向け
07月 3343 武蔵国多東郡足立庄内鳩井村 郷村
07月 3344 出羽国荘内田川郡 郷村
07月 3345 常陸国金砂西山 郷村
07月 3346 常陸国千妙寺 寺社 当寺中并門前之百姓等
07月 3347 三河国大山山龍渓院 寺社 寺僧門前輩
07月 3348 陸奥国岩城知行分某 郷村
07月 3349 所付欠(秋田藩家蔵文書) 未詳
07月 3350 所付欠(大阪城天守閣) 未詳
07月 3351 所付欠(兵庫県史大芋文書) 未詳
07月 3352 所付欠(常総遺文) 未詳
07月 3353 所付欠(千光寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
07月 3354 所付欠(相馬文書) 未詳
07月 3355 所付欠(南部家文書) 未詳
07月 3356 所付欠(福田文書) 未詳
07月 3357 所付欠(万福寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
07月 3358 所付欠(来迎寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
07月 3359 所付欠(来迎寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
07月 3360 所付欠(来迎寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
07月 3361 所付欠(来迎寺文書) 寺社 寺社だが郷村向け
08月 3416 尾張国津島天王境内 寺社 神主五ヶ村之族
08月 3417 出羽国仙北九郎知行分 郷村
08月 3418 所付欠(安土城考古博物館) 未詳
08月 3419 所付欠(尾崎文書) 未詳
08月 3420 所付欠(栃木県立文書館坂入浩一家文書) 未詳
08月 3421 所付欠(思文閣古文書資料目録) 未詳
08月 3422 所付欠(編年文書) 未詳
08月 3423 所付欠(安井家文書) 未詳

B型

厳密にいうと禁制ではなく定書。12月・1月・8月で合計19件。文言の異動は細かい表記で見られるが、文意や名詞が大きく異なることはない。

文書例

定 駿河内ふから一、軍勢味方の地にをいて乱妨狼藉の輩、一銭きりたるへき事
一、陣取にをいて火を出す族あらは、からめとり出すへし、自然逐電せしめハ、其主人罪科たるへき事
一、ぬか・わら・薪・さうし以下亭主に相ことハり可取之事
右条々若令違犯者、忽可被処厳科旨被仰出候也、
天正十七年十二月日/(羽柴秀吉朱印影)

  • 豊臣秀吉文書集2897「羽柴秀吉定書」(判物証文写・東大史影写)
一覧
発行月 文書番号 宛所 宛所種別
12月 2897 駿河国深良 郷村
12月 2898 駿河国御厨屋内竹下 郷村
12月 2899 遠江国 国名
12月 2900 所付欠(池田村共有文書・静岡県史料) 未詳
12月 2901 所付欠(因幡志) 個人名ヵ
12月 2902 所付欠(中村文書) 個人名ヵ
12月 2903 所付欠(溝口文書) 個人名ヵ
12月 2904 所付欠(歴代古案) 個人名ヵ
01月 2951 所付欠(吉川家什書) 個人名ヵ
01月 2952 所付欠(思文閣古書資料目録) 個人名ヵ
01月 2953 所付欠(反町文書) 個人名ヵ
01月 2954 所付欠(尊経閣古文書) 個人名ヵ
01月 2955 所付欠(多賀文書) 個人名ヵ
01月 2956 所付欠(中川家文書・神戸大学文学部) 個人名ヵ
01月 2957 所付欠(播州小野藩一柳家史料) 未詳
07月 3362 浅野弾正少弼 個人名
08月 3424 石田治部少輔 個人名
08月 3425 羽柴越後宰相 個人名
08月 3426 所付欠(宇都宮家蔵文書) 個人名ヵ

C型

4月から登場し、47件残存している。百姓に還住を命じ、耕作を再開させようとしている。5月に3件、6月・7月にそれぞれ1件ずつがあるほかは、4月に集中している。文言はかなりの異動があり、状況に応じて書き分けているように見える。

文書例

禁制 相模国飯泉山坊中
一、衆徒地下人等急渡令還住事
一、軍勢甲乙人立帰之寺院・百姓家不可陣取事
一、対衆地下人非分之義申懸族有之者、可申出、并竹木麦毛不可可刈取事
右若違犯之輩者、速ニ可被処厳科者也、
天正十八年四月日/御在判

  • 豊臣秀吉文書集3062「羽柴秀吉禁制写」(勝福寺文書)
一覧
発行月 文書番号 宛所 宛所種別
04月 3062 相模国飯泉山坊 寺社
04月 3148 伊豆国岩科郷 郷村
04月 3149 伊豆国宇佐美 郷村
04月 3150 伊豆国大竹村他 郷村
04月 3151 伊豆国小坂郷 郷村
04月 3152 伊豆国重須郷 郷村
04月 3153 伊豆国狩野内田代郷 郷村
04月 3154 伊豆国川奈郷他 郷村
04月 3155 伊豆国久料 郷村
04月 3156 伊豆国古宇 郷村
04月 3157 伊豆国白田村 郷村
04月 3158 伊豆国田中郷内大仁村 郷村
04月 3159 伊豆国田中郷内狩野牧村 郷村
04月 3160 伊豆国田中郷内修禅寺 寺社
04月 3161 伊豆国田中郷内長岡村 郷村
04月 3162 伊豆国田中郷内三福村 郷村
04月 3163 伊豆国田中郷倭文村 郷村
04月 3164 伊豆国長浜村 郷村
04月 3165 伊豆国西浦庄内三津郷他 郷村
04月 3166 伊豆国箱根寺家門前 寺社
04月 3167 伊豆国肥田郷他 郷村
04月 3168 伊豆国牧之郷 郷村
04月 3169 伊豆国松笠郷 郷村
04月 3170 伊豆国三島護摩堂 寺社
04月 3171 伊豆国三島大明神 寺社
04月 3172 伊豆国某 郷村
04月 3173 相模国神山村他 郷村
04月 3174 相模国大山坊中 寺社
04月 3175 相模国金子村 郷村
04月 3176 相模国河村郷 郷村
04月 3177 相模国国府の郷 郷村
04月 3178 相模国星谷寺・座間七ヶ村 郷村
04月 3179 相模国西郡赤田他 郷村
04月 3180 相模国西郡栢山郷 郷村
04月 3181 相模国西郡酒匂郷 郷村
04月 3182 相模国西郡飯田郷 郷村
04月 3183 相模国狩野庄 郷村
04月 3184 相模国西郡延沢金井島 郷村
04月 3185 相模国西郡松田郷 郷村
04月 3186 相模国東郡懐島三ヶ村 郷村
04月 3187 相模国日向小屋・七沢小屋・煤ヶ谷小屋 郷村
04月 3188 所付欠(武家事紀) 未詳
05月 3254 下総国万満寺 寺社
05月 3255 武蔵国足立慈眼寺 寺社
05月 3256 所付欠(集古文書) 未詳
06月 3283 下総国東昌寺 寺社
07月 3363 上総国真里谷真如寺 寺社

その他

例外的に1文書だけ、条書ではない定書が存在する。

文書

定 駿河一花堂
軍勢甲乙人等陣取事、堅被停止之訖、若違犯之輩於有之者、可被処罪科者也、
天正十八年二月十五日/(羽柴秀吉朱印影)

  • 豊臣秀吉文書集2964「羽柴秀吉定写」(長善寺文書)
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