2017/11/07(火)小幡兵衛尉の処遇に関連する文書

岡田利世、小幡信定に、降伏を促す

  • 戦国遺文後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年に比定。

当城を六月七日両日相尋候へハ、はや其方へ御越候由候、不懸御目御残多存知候、彦三様より貴所様之事内ゝ心懸申候へて被仰越候条、小田原へ取寄候時分より、いかなるつてニても、セめて書状を取かわし申度候而、さまゝゝ調略共仕候へ共、此方ハ不苦候へ共、城中ニて御法度つよく候由候而、御為いかゝと存候て不申入候、六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候、一、彦三様御身上之事いかか被思食候哉、其方之御様子之通ニてハ是又家康へか内府へ御出候て尤候、一、忍之城御セめ候わんとて越後衆・羽筑前殿ニ被仰付候、昨夕此地まて御越候間今朝すくニおしへ御越候、定而彦三郎殿もおしへ可為御参陣候哉、貴所様もおしへ御出候ハん哉、御大儀なから御馬とり一人ニて此方へ御出候事ハなるましく候哉、以而上彦三様御身上又ハ貴所様御身上之事申談度候、一、信州あいき息宗太郎も家康へ罷出度と被申間、津田小平次と我ゝ両人して肝煎申候ハんと申候ても不人事、被仰候間、片時もいそぎ申談度候、一、先度木村ニ直談申候、先年信州こむろニて、井野五左衛門と申人へやくそく申候金子早ゝ御済候て尤候由申入候、五左衛門と申人、其時ハほうはいニて候今ハ上様御馬廻ニて一段御意よしニて候定而其方より御出可申候へ共、我もひきやうをかまへ候カなとゝ申候てめいわく仕候、けにゝゝ難相済候、一時も御いそき候て是非を御きわめ候て、其上不相調候者それにしたかひ御分別なされ尤候、上州之事家康へまいり候事必定と相聞申候間、家康へ御詫言候やうにと存候て、内府へも大かた申籠候、内府より被仰候者家康之御まへハ可相済候と存候、一、小田原城当年中ハ家康可有御出由候、来年江戸へ御越候へと被仰出候、一、此間ハ近年家康之御分国を一円ニ内府へ可被遣候と申候キ、三川国ニ別人を御おき候て其かわりニ上州を内府へ被遣候ハんなとゝ、たた今御本陣より被越候人被申候、あわれゝゝさ様ニも御及候へハ、彦三様御身上其まゝ相済申事候、莵角いつれの道ニても、内府を御頼候て家康へ御理候てハはつれぬ御事たるへきと存候、一、貴所様御身上なともなにとそ御分別尤候、彦三郎殿御身上如前ゝ相済候へハよく候、若不相済候とて俄ニとやかくと被仰候ても、難相調候間、我ゝ請取不申候ハゝ急度 上使を可遣候なとゝ申候而、此間ハ日ゝニ申来候而難儀仕候、急度被仰付候而尤候、一、当城之御無事之きわニ貴所様之事疎略仕候様ニ可思食八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ、不及了簡候、とかくたゝ今御身上御きわめて尤候、少御やすミ候て、何分是へ木村存知ニて候間、可有御出候哉、申談度候、恐惶謹言、
六月八日/利世(花押)/宛所欠(上書:岡田新■■利世 小幡兵衛尉殿人々御中)

 この城を6月7日から2日訪れましたので、早くもそちらへお知らせになったとのこと。お目にかかれず大変残念に思います。彦三様よりあなた様のことを内々で心がけてほしいと仰せいただいていたので、小田原を包囲した時分より、どのような伝手でもせめて書状を交換したいと考え、様々な手段を試みましたが、こちらは問題なくても、城中ではご法度が強いとのことで、そちらのためにならないと思って申し入れませんでした。6日・7日の2日間は垪和善七郎殿という方を頼んで案内する者を得てお訪ねしました。氏直様お一人で2夜お酒などをいただきましたので、昨日7日の晩に家康の陣へお立ち寄りになりました。 一、彦三様の身の上のこと、いかがお考えでしょうか。そちらのご様子の通りだと、こちらもまた家康へか内府(信雄)へ出仕なさるのがもっともです。 一、忍の城をお攻めになるということで、越後衆と前田利家殿へご命令になりました。昨夕この地にお越しだったので、今朝すぐに忍へお出かけになりました。きっと彦三郎殿も忍へご参陣なさるでしょうか。あなた様も忍へお出でになりますか。お手数ですが、お馬とり1人だけ連れてこちらへお出でになるのはかないませんか。その上で、彦三様の身の上、またはあなた様の身の上のことをご相談したく思います。 一、信濃国相木の息子宗太郎も家康へ出仕したいと申されているので、津田小平次と私の2人で肝煎りして申し上げようとしても人事とならぬと仰せになられているので、とにかく急いでご相談したく思います。 一、先に木村へ直接申しました。先年信濃国『こむろ』(小諸)で井野五左衛門というに約束した金銭を早々にご返済するのがもっともであると申し入れがありました。五左衛門という人は、その時は同僚で、今は上様のお馬廻で一段と目をかけられています。きっとそちらからお返しになるでしょうが、私も裏表があるのかと言われて困っています。本当に紛糾しているので、一時もおかずお急ぎになって事実を確認して、その上で揉めるようならそれによってご判断さなるのがもっともです。上野国のことは家康へ与えられることは間違いないと聞いていますので、家康へお詫び言するようにと考え、内府へも大体は申し含めています。内府から仰せになれば家康に仕えることは済んだも同然です。 一、小田原城は今年一杯は家康へ渡されるとのことです。来年は江戸へ移るように仰せになられました。 一、この間、近年の家康ご分国を全て内府へ渡されるだろうとのことでした。三河国に別の人を置かれて、その代わりに上野国を内府へ遣わすなどと、ただいまご本陣より来られた方が申されています。かわいそうに、そうなってしまったら、彦三様の身の上はそのままでは済まなくなることです。とにかくどのようになったとしても、内府をお頼りになって、家康へご説明なさらねば進展はないだろうと思います。 一、あなた様の身の上なども、どうかご分別なさるのがもっともです。彦三郎殿の身の上は前々のように済めばよいことです。もし済まないことになって急にとやかく申されても、調整するのは難しいでしょうから、私たちが保障できなければ、上使を派遣するだろうなどと言ってきています。このところ毎日言ってきて難儀しています。急いでご指示いただくのがもっともです。 一、当城のご無事の際に、あなた様のことを疎略に扱うような思し召しは、八幡にも富士権現・白山権現にも精を入れていることは、大概のことではありませんけれども、巡り会わせが悪く懸け違いが起きては了見を得ません。とにかくただいま身の上をお決めになるのがもっともです。少しお休みになって、なにぶんこのことは木村も存じていますから、お出でになりませんか。ご相談したく。

井伊直政、小幡信定の陸奥遠征を労い上野国で助力することを約す

  • 戦国遺文後北条氏編4549「井伊直政書状写」(加賀小幡文書)天正18年に比定。

    別て炎天時分御辛労無申計候、次黒田官兵様へ心得て可有、於小田原之万ゝ御取籠付て委細不申遂候、此返御心得所仰候、内ゝ御床敷存幸便之間一筆令申候、其已来者遠路故給音問所存外候、小田原御立之時分者御暇乞不申候、奥へ御供之由、扨ゝ御苦労察入申候、拙者者箕輪へ可罷移由御上意候間、先ゝ当地ニ移申事候、爰元御用等候者、可被仰越候、少も疎略有間敷候、何様御帰之時分、以而申入候者可承候、如在存間敷候、猶重而可申達候、恐々謹言、
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/小幡右兵衛尉■

 内々にお懐かしく思い、便があったので一筆申し上げます。あれ以来は遠路によってご連絡いただけるとは考えておりませんでした。小田原をお発ちの時にはご挨拶を申し上げませんでした。陸奥国へお供されたとのこと。さてさて、ご苦労お察しします。私は箕輪へ移るように上意がありましたので、とにかくこの地へ移りました。こちらでご用向きの際は、仰せになって下さい。少しの粗略もありません。色々とお帰りになった際にお申し入れいただければ、承りましょう。手抜かりはありません。さらに重ねてご伝達しましょう。 別途。炎天の時分のご辛労は申し上げるばかりもありません。次に、黒田官兵衛様へ心得を言い付かりました。小田原においては色々と取り込んで詳細を申し遂げられませんでした。この返信はお心得を仰ぐところです。

井伊直政、某に、所領の維持が困難であることを告げる

  • 戦国遺文後北条氏編4550「井伊直政書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年、小幡兵衛尉宛に比定。

    就貴所乃御身上之儀、自岡田新八郎殿被仰越候、其郡之儀者、未何方へも不相定候間、先其地ニ有之、御世上見合尤ニ候、何方よりも六ケ敷申候由、早ゝ御注進所仰候、御国竝之儀候間、内ゝ御他国仕度候御心懸候て尤ニ候、御荷物已下、少障り者有間敷候間、可有御心安候、少も事六ケ敷被、(後欠ヵ)
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/宛所欠

 貴所の身の振り方について、岡田新八郎殿よりご連絡がありました。あの郡のことは、まだどこへとも決まっていませんので、まずあの地にいていただき、世の流れを見極めるのがもっともです。どこよりも難しく申していること、早々にご注進と仰せのところ、御国並のことですから、内々で他国への支度をするお気持ちでいるのがもっともです。お荷物などは少しも損なうことはあり得ませんから、ご安心下さい。少しも事が難しく……(後半断か)

2017/10/26(木)今川氏の対三河軍事年表

1543(天文12)年

8月20日
  • 今川義元、大館左衛門佐に御内書発行の礼を伝える

「就 禁裏様御修理之儀、日野町殿御下向、 御内書頂戴忝畏入奉存候」

10月15日
  • 今川義元、三河国今橋の東観音寺に禁制を発す

「於背此旨輩者、速可加成敗者也」

1544(天文13)年

9月22日 古記録
  • 定光寺年代記に織田信秀敗退が記される

「甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也」

9月23日 年は比定
  • 斎藤利政は安心軒・瓦礫軒に水野十郎左衛門への連絡を依頼

「仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候懸意令申候、此砌松次三被仰談御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者談近年織弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候」

9月25日 年は比定
  • 長井久兵衛、水野十郎左衛門に戦果を報告して織田信秀の排斥を勧める

「近年之躰、御国ニ又人もなき様ニ相働候条、決戦負候、年来之本懐此節候、随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候、尚礫軒演説候」

閏11月11日 年は比定
  • 織田信秀、水野十郎左衛門尉に陣中の様子を伝えて油断のないように求める

「此方就在陣之儀、早々預御折帋、畏存候、爰許之儀差儀無之候、可被御安心候、先以其表無異儀候由」

12月某日
  • 入海神社檀那衆筆頭に水野十郎左衛門信近の名が出る

「入海神社奉造立御神殿壱宇 檀那衆伍貫文 水野十郎左衛門信近」

1545(天文14)年

11月9日 年は比定
  • 武田晴信が松井山城守に後北条氏との和平案を示す

「此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、雖可申合候、北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候」

1546(天文15)年

3月28日 年は比定
  • 鵜殿長持は、織田信秀密書を飯尾致実に渡そうとしたとして、安心軒を譴責

「仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候」

6月15日
  • 今川義元、吉田近辺の3寺に禁制を下す

「当手軍勢甲乙人乱暴狼藉之事、堅令停止之訖」

9月28日
  • 牧野保成は今橋・田原・長沢を与えられるよう今川氏に申し出る

「一今橋・田原御敵ふせらるゝにおゐてハ、今橋跡職、名字之知にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候間、今はし・田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候」「先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候」

10月16日
  • 牧野保成は所領の不入を今川氏に求める

「拙者知行之内并家中之者共、御国之衆へ致被官之義、無御許容之事」

10月30日 年は比定
  • 岡部慶度が駿河衆の今橋攻撃に言及し、城からの迎撃もないので味方は無事であるとする

「阿大より可被申上とも、取乱候間無其儀候、駿河衆至今橋とりかけ候、今日迄させる行なとも候ハす候、味方中堅固被申付候、可被御心易候ゝゝ」

11月25日
  • 今川義元、今橋城攻撃での天野景泰の戦功を賞す

「今月十■日辰剋、同城外構乗崩之刻、不暁ニ宿城江乗入、自身■粉骨、殊同名親類被官以下蒙疵、頸七討捕之条」

12月14日
  • 太原崇孚、野々山甚九郎の忠節により兵員を増派する

「当城扶助員数、代官等為替地、細屋郷可被捕任也」

1547(天文16)年

2月3日
  • 今川義元、野々山甚九郎が今橋城で内通した功を称す

「■年於参河国今橋城、令内通存忠節、任契約之旨、細谷代官并給分■拾貫文令補任之」

7月8日 年は比定
  • 今川義元、天野景泰の医王山砦構築を称え、三河国本意のため近日出馬すると伝える

「去比医王山取立候、普請早出来、各馳走之段注進、誠以悦然候、近年者東西陣労打続候、勲功之至候、仍三州此刻可達本意候、近日可出馬候間、其心得肝要候」

閏7月23日 年は比定
  • 松平家広が本意を遂げて牢人から復帰する

「今度牢人仕候て其方へ憑入参候処、種々御懇候得共、殊過分之御取かへなされ、進退をつゝけ本意仕候」

8月25日
  • 今川義元は奥平定能と貞友に医王山砦での功を賞し、東西で紛争があっても所領は変わらないと保障する

「医王山取出割、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀」

8月26日 年は比定
  • 太原崇孚は牧野保成に陣備えを指示して今川義元出馬を予告

「世谷口重御普請太儀察存候、御取手之御太儀候共、其口ニ御人数百宛被置、長沢ニ五十計、両所百五十之分四番ニ被定候て、可為六百之御人数候、是も田原一途間、可被仰付候、近日可被出馬候」

8月29日 年は比定
  • 太原崇孚、牧野保成に援軍と兵糧について指示

「仍御人数之儀、飯豊・井次其外境目之衆悉被仰付、西郷谷へ可有着陣候、其地御用次第可被招置候、兵粮之儀肝要候、今橋へ弾橘入城候者、於彼地商買之儀、可為不弁之条、此方より尾奈・比々沢迄可届申候、其間之儀、御調法候てめしよセられへく候、兵粮方之儀者、涯分つゝけ申へく候、御本意之上、可有御返弁候、此由西郡へも申度候」

9月2日
  • 今川義元、山中七郷に昨年一乱以前の返済を免除する

「去年一乱以前借物之事、就敵筋者、縦雖有只今免許不及返弁」

9月5日 年は比定
  • 天野景泰が負傷者一覧を今川家奉行に提出

「手負人数 天野小七郎 鑓手二ヶ所 松井二郎三郎  矢手三ヶ所 奥山小三郎  矢手壱ヶ所」

9月10日 年は比定
  • 太原崇孚、天野景泰の戦功を今川義元に報告したと伝える

「去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候」

9月15日
  • 今川義元、松井惣左衛門に、田原大原構での戦功を賞す

「去五日、於三州田原大原構、最前合鑓無比類働」

9月20日 年は比定
  • 今川義元は天野景泰が田原攻略で活躍したことを賞す

「去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓」

9月22日 年は比定
  • 日覚、越後本成寺に三河国を織田信秀が制圧したと報告

「三州ハ駿河衆敗軍の様ニ候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様ニ其沙汰共候」

10月20日
  • 松平広忠は筧重忠が松平忠倫を殺害したことを賞す

「今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫々忘間敷候」

11月23日 年は比定
  • 飯尾元時は天野景泰の軍功を報告した旨を本人に連絡する

「仍去年両度三州今橋・田原にての御走廻之段、懇披露申候」

1548(天文17)年

1月26日
  • 今川義元、奥平定勝が久兵衛謀反を通報して実子を人質に出したことを賞す

「依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細申分、則実子千々代為人質出置」

3月11日
  • 北条氏康、織田信秀の軍功を讃えつつ、自らは今川氏と同盟したことを伝える

「仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候」

3月28日
  • 今川義元、西郷弾正左衛門尉が小豆坂で活躍した功を賞し知行を与える

「今月十九日、小豆坂横鑓無比類之軍忠被励候」

4月15日
  • 今川義元、松井惣左衛門・宗信が小豆坂で活躍したことを賞す

「去ル三月十九日、於西三河小豆坂尾州馳合、最前入馬尽粉骨、宗信同前為殿之条」

7月1日
  • 今川義元、朝比奈藤三郎が小豆坂で活躍したことを賞す

「去三月十九日、於三州小豆坂、織田弾正忠出合、敵味方備処、加下知遂一戦、自身真先入馬」

12月20日
  • 今川義元、大村弥三郎が天文15年より今橋・了念寺・田原で活躍したことを賞す

「去々年参河今橋外構乗取之刻、於城際頸一討捕伊藤、蒙鑓疵鑓三本突折」

1549(天文18)年

8月1日
  • 武田氏、援軍今川方の荷物用伝馬手形を発行する

「従駿河合力衆荷物之事、任今川殿印判、当陣中伝馬可出」

8月3日
  • 今川義元、足利義輝に三河・尾張国境紛争の調停を依頼する

「三川・尾張之境、依令鉾楯緩怠候、宜預御執合候」

10月15日
  • 今川義元、幡鎌平四郎が吉良攻撃中に安城・桜井へ出撃した功を賞す

「去九月十八日、吉良荒河山在陣之刻、為打廻安城桜井江相動之折節、敵出合相支之処」

10月27日
  • 阿部大蔵・石河右近将監、天野孫七郎に佐久間切りの褒賞を与える

「今度佐久間切候事、無比類候、然者兼約之事ニ候得者、藤井隼人名田之内を以為五拾貫文出置候」

12月7日 年は比定
  • 今川義元、天野安芸守が安城守備に残ったことを評価

「去月廿三日上野端城乗取刻、任雪斎異見、井伊次郎同前ニ為後詰之手当相残于安城云々」

12月23日 年は比定
  • 今川義元、弓気多七郎が安城・上野で攻城に活躍したことを賞す

「今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕」

12月23日
  • 今川義元、御宿藤七郎の安城・上野端城攻撃での功績を賞す

「於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城」「去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦」

1550(天文19)年

5月10日
  • 津坂秀長、笠寺東光坊に山口平八遺領を保証する

「山口平八死迹之下地之儀、不及巨細候へ共、如前々、無御相違可被引得候」

8月20日
  • 葛山氏元、植松藤太郎に尾張出兵資金を拠出する

「今度尾州へ出陣ニ、具足・馬以下嗜之間、自当年千疋充可遣之」

9月17日
  • 今川義元、白坂雲高寺に禁制を発す

「軍勢甲乙人等、濫妨狼藉堅停止之訖、若於違犯之輩搦捕、急度依注進可処厳過者也」

9月19日 年は比定
  • 飯尾乗連・太原崇孚、牧野保成に長沢城接収を確認

「仍長沢之事、国一途之間者、駿遠御人数在城可被仰付由、是又別而御入魂御申、御祝着候」

9月27日
  • 今川義元、伊勢御師亀田太夫に重原を寄進する

「就今度進発、為立願於重原料之内百貫文」

10月10日
  • 今川義元、大樹寺に禁制を発す

「於背此旨輩者、速可処罪科者也」

10月12日
  • 今川義元、筧重忠に松平広忠からの給恩地を保証する

「広忠出置候給恩之事、右任彼定員数、無相違可令所務」

11月13日
  • 今川義元、天野孫七郎が佐久間九郎左衛門を切ったことを賞す

「於去年高橋衆任兼約之旨、佐久間九郎左衛門切候、依其忠節、竹千代大浜之内藤井隼人名田之内五千疋、扶助之云々」

11月19日
  • 今川義元、長田喜八郎に竹千代知行大浜上宮神田を与える

「先年尾州岡崎取合之刻、対広忠令無沙汰之条、彼神田召放、依為忠節、自去年出置之云々、然者勤相当之神役」

12月1日
  • 丹羽隼人佐が沓掛などの知行を安堵される。福外在城の功による

「去六月福外在城以来、別令馳走之間」

12月2日 年は比定
  • 今川義元、奥平定勝が高橋筋で奔走していることを労う

「就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候」

12月15日 年は比定
  • 太原崇孚、牧野保成が長沢領を召し上げられた抗議を受け善処を約す。同書状内で岡崎筋で奔走していることを労う

「就高橋雑説、自最前岡崎筋御馳走」

12月23日
  • 織田信長、笠寺の権益を保証する

「笠寺別当職備後守任判形之旨、御知行分参銭・開帳、寺山、寺中御計之上者、雖誰々申掠候、不可有相違者也」

1551(天文20)年

2月13日 年は比定
  • 近衛稙家、朝比奈某に、足利義晴時代の尾張国権益返還合意の履行を打診

「雖未申通候、馳走候、抑今度尾州之儀属本意由候、天下之名誉不可如之候」

5月某日
  • 水野清近(信近)、尾張国祐福寺に禁制を発す

「於末代不可有相違、若当年面々於令違犯者、可処厳科者也、」

6月28日 年は比定
  • 足利義輝、織田信秀との和睦継続を今川家中に求めるよう近衛稙家を起用

「於参州織田備後守間之事、重不及鉾楯弥属無事、都鄙儀令馳走者可喜入之段、対今川治部大輔遺内書候」

7月4日
  • 今川義元、匂坂長能に長沢駐屯を命ず

「三州吉田以来田原本意之上迄、異于他励粉骨之条、忠功之至也、然上長沢在城所申付也」

7月5日 年は比定
  • 近衛稙家、今川義元・太原崇孚・朝比奈泰能・飯尾乗連に尾張国との和睦継続を依頼する

「仍就土岐美濃守入国之儀、尾州織田備後守令相談■由候、然者彼国境目等不及再■、弥無事之段」

8月2日
  • 今川義元、松平三蔵の所領を安堵

「去己酉年(天文18年)山口内蔵令同意、依可抽忠節造意現形、於尾州数ヶ所知行捨置馳来、其以来無足奉公、甚以忠節之至也、既安城陣之刻、以阿部大蔵」

11月5日 年は比定
  • 織田寛近、織田信秀の代わりに土岐小次郎に進退保障を行なう

「美濃守殿御儀、不慮之仕合、無是非儀ニ候、御身上之儀、相違有間敷候由、道三申候、委細可被任稲葉伊予守差図者也、備後守病中故、我等方より如此ニ候」

12月2日
  • 今川家家臣、松平甚太郎に、逆心した甚二郎の跡地を与える

「御屋形様并竹千代丸江忠節之事候間、甚二郎殿あとしき、無相違渡可申候」

12月2日
  • 今川義元、大村弥三郎が天文18年の吉良攻めで功績を挙げたことを賞す

「去酉年九月廿日、三河内吉良江取懸遂一戦敵追入、於端城随分之者討捕之旨」

1552(天文21)年

3月9日 年は比定
  • 織田信秀が没し、今川義元が八事に出兵する

「壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣」

6月3日
  • 今川義元、松平甚太郎配下の大給城での活躍を賞す

「去月廿六日、於大給城北沢水手、被官石原藤二郎・蜂谷又一郎・加納甚三・松平彦一・小者藤若、敵三人討捕之云々」

8月25日
  • 今川義元、岡部元信が小豆坂で活躍したことを賞す

「先年参州小豆坂合戦之刻、味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利」

11月22日
  • 今川義元、鱸越前守の新たな給地と従来の給地を書き出し保障する

「今度松平左衛門督逆心之刻、兄弟八人相談、九久平仁中条与三郎・松平田三左衛門尉楯籠之処、間廻計策城主市兵衛尉共立出、抽忠節之条」

1553(天文22)年

3月21日
  • 今川義元は奥平定勝の諸権益を安堵する

「知行分本知之事者、不入之儀領掌訖、新知分者可為如前々事」

3月22日
  • 備前国住人大村家盛、尾張国岩崎城主が駿河から来た福島氏であることを記述

「岩崎の城主福島、するかより被越て被持候」

4月26日
  • 備前国住人大村家盛、紛争勃発のため三河国岡崎より藤島に移動できず

「山中よりおかさきへこし、まヘハふし島へとおり候へ共、三河・岡崎取相にて、おかさきよりあふらさきへ行き」

9月4日
  • 菅沼伊賀、同三郎兵衛尉らの逆心を訴え賞される

「為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也」

1554(天文23)年

9月2日 年は比定
  • 長坂虎房は天野安芸守に伊那郡制圧を伝え、遠山氏への仲介を依頼

「内々以此次遠山江可乱入之趣被申付候処、従貴所蒙仰候筋目則令披露候」

10月20日 年は比定
  • 織田信長、加藤図書助に山口孫二郎妻子の還住許可を通達

「山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者」

11月2日
  • 今川義元、匂坂長能に岡崎城勤務内容を指示

「就今度岡崎在城、長能・宗光両人江弐百五十貫文■令扶助之也」

12月某日
  • (斯波義達偏諱か?)織田達成、熱田の加藤順盛の権益を保証する

「於向後、為何闕所方、年記・徳政・国役・要脚・質物以下懸申候事雖有之、一切諸事令免許」

1555(天文24/弘治元)年

2月5日
  • 織田信長、今川方となった鳴海城主に同心した星崎根上の者の所領没収を命ず

「星崎根上之内今度鳴海江同心之もの共跡職、悉為欠所上者、堅可遂糺明者也」

10月23日 年は比定
  • 今川義元、荒川某に、西尾の吉良義昭(または義安)離反後の政治情勢を伝える

「西尾之御事、大方御心得候哉、義■御造意不及■■■、即時ニ御舎弟長三郎殿為人質緒川へ御越候而、緒川・苅屋之■■西尾城へ被入候、何御不足候哉」

閏10月4日
  • 今川義元、西条吉良氏が逆心したので鎮圧したと北条宗哲に報告

「其以後就被成吉良殿逆心、近日西条へ動之儀申付、彼庄内悉放火、二百余討捕候」

閏10月29日 年は比定
  • 今川義元、三条実澄に何事かの合力を了承する

「御合力之儀無相違申付候、可御心安候」

1556(弘治2)年

2月某日

  • 織田秀俊、白坂雲高寺に禁制を発す、

「依為無縁所、諸役等之儀、令免許訖」

2月3日
  • 今川義元、戸田伝十郎が上野城所用を果たした功を賞して知行を与える

「今度上野城所用、黄金百両・代物百貫、合参百参拾貫之分、令取越之条」

2月27日
  • 今川義元、松平亀千代の相続を保障し父の忠節を賞す

「去廿日、父忠茂於保久・大林討死、忠節之至也」

2月29日
  • 今川義元、大給山中方面での天野藤秀の戦功を賞す

「去年九月十四日大給山中筋諸手相勤、平五屋敷押破之刻」

3月22日 年は比定
  • 小渡・明智で遠山・鱸・広瀬の3氏と今川方が交戦

「鱸兵庫助小渡依致取出、為普請合力岩村衆并広瀬右衛門大夫令出陣、右衛門大夫去八日令帰陣処、阿摺衆馳合遂一戦、手負数多仕出、安藤藤三・深見与三郎両人者、安藤新八郎・同名宗左衛門討捕之段感悦也、此外七日・八日両日ニ於明智、近所通用之者六人討捕」

6月21日
  • 今川義元、三河国大仙寺の寺領を安堵する

「一 東者限沢渡、西者限小縄手田端、南者限往復道谷合末迄、北者限田端、令寄附之事」

6月24日
  • 松平元信、三河国大仙寺の寺領を安堵する

「東ハさわたりをきり、みなミハ海道をきり、同谷あひすゑまて、西ハこなわて田ふちをきり、北も田ふちをきり、末代ニおいて令寄進畢」

6月24日
  • しんさう、松平元信の三河国大仙寺寺領安堵を補足する

「返々大せんしの事、道かんにも、いまの三郎にも、われゝゝつかひ申てまいらせ候」

8月13日
  • 今川義元、能勢甚三の三河国千両口での戦功を賞す

「今月四日、於三州千両口大代官所、合鑓敵追入」

8月16日
  • 今川義元、小笠原美作守が作手方面での苅田作戦で活躍したことを賞す

「去四日、作手筋諸口苅田動之儀申付之処、名化筋同名美作守等相動、依為切所各味方及難儀之刻」

9月4日
  • 今川義元、野馬原での松井左近尉活躍を賞す

「去三月、織田上総介荒河江相動之処、於野馬原遂一戦」

1557(弘治3)年

1月2日
  • 武田晴信、下条兵部少輔が武節谷で活躍したことを賞す

「旧冬三州武節谷へ遣士卒砌」

1月13日
  • 今川家正月恒例の歌会始が氏真屋敷にて初めて行なわれる

「十三日、戊辰、天晴、正月中、自大方小袖、織物、袷、浅黄、一重、○賜之、今日之会始ニ可着之由有之、今日之懐紙調之、如此」

1月23日
  • 今川義元・氏真、井上但馬守が買収した金原屋敷の明細を連署して保障する

「「義元」袖判 「氏真」袖判」

1月29日
  • 今川義元屋敷で急遽歌会始が行なわれる

「廿九日、甲申、晴、三条亜相ニ申香之筒十五人分書事出来到、并今日太守之和歌会始可来之由俄被申云々」

2月10日 年は比定
  • この日までに武田方が明智・串原を制圧/本隊が木曽経由で東濃に侵攻

「仍明智・櫛原之属御存分由目出度奉存候、右意趣以使者申上処、安点良表江国中衆出勢与相見候」

5月8日
  • 今川義元、三河国永源寺(豊田市篠原町)に禁制を下す

「山林見伐所令停止之也、弥修造勤行不可有怠慢者也」

6月22日
  • 今川義元、武田方への援軍として出征した井出甚左衛門尉が病死したことを認定

「去々年信州江富士下方之人数為甲州之合力差遣之処」

6月26日
  • 今川義元、奥平定勝が彦九郎を成敗したことを賞し、知行を与える

「同名彦九郎自去年春逆心事、沙汰之限也、雖然定勝事、無二存忠節、彦九郎遂成敗段神妙也」

7月22日 年は比定
  • 朝比奈親徳・由比光綱、良知善左衛門に松平和泉守の状況を伝える

「只今大給用心大切之旨、従其方田嶋方被仰付、松平久助方へ有談合、人数十四五人も御越可然候歟、和泉方も軈而可被罷上候」

8月9日 年は比定
  • 松平和泉守、田嶋新左衛門尉に大給城内の統括を委託

「仍従御奉行其方へ依御理候、細川衆めしつれられ、早々御移」

9月5日
  • 今川義元、菅沼定俊の布里撤退の手際を賞す

「去年菅沼十郎兵衛尉・同八右衛門尉帰参之刻、林左京進・菅沼三右衛門布里江打入之処、以敵猛勢相勤之旨、夜中令告知人数無相違引取之段」

10月9日
  • 今川義元、三浦左京亮に西尾城番を指示

「就西尾在城参百貫文之分、所宛行之也、昼夜用心普請已下、無油断先二三ヶ年可遂在城」

10月27日
  • 今川義元、牧野右馬允に某城の在城法度を指示する

「在城五ヶ年之内」

11月11日
  • 松平元信の臣石川忠成ら、三河国浄明寺の不入を認める

「広忠・元信末代諸不入ニ御寄進之うへハ」

12月3日
  • 今川義元、鳴海神社・八幡の所領を安堵し、在城衆にも通達したと告げる

「近年押領之禰宜雖令難渋、不可許容、在城衆存此旨堅可申付者也」

1558(弘治4/永禄元)年

2月26日
  • 寺部城を攻撃中の匂坂長能に、今川義元が作戦指示

「向寺部可取出之旨領掌訖、然者寺部城領半分令扶助間」

3月3日
  • 今川義元、葛山・三浦氏らが笠寺への夜襲を撃退したことを賞す

「去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由」

3月18日 年は比定
  • 織田弾正忠、尾張国龍泉寺城を築き始める

「戊午 永禄元 三月十八日龍泉寺織田弾正忠城之鍬始在之」

4月12日
  • 今川義元、松平次郎右衛門に、寺部での戦功を賞し知行を与える

「今度鱸日向守逆心之刻、走廻リ日向守楯出寺部城請取処、其上親類・被官就相替、日向守重而令入城処、相戦蒙疵、殊息半弥助・同被官名倉、遂討死罷退候」

4月13日
  • 今川義元、奥平定勝に、三河国大野田を返還する

「菅沼新八郎爾雖令扶助、今度忠節之上、遂其理、為本地之条、如前々還附訖」

4月26日
  • 今川義元、足立右馬助・甚尉がこの年4月24日・弘治2年に活躍したことを賞す

「去廿四日寺部へ相動之刻、廣瀬人数為寺部合力馳合之処、岡崎并上野人数及一戦砌、弟甚尉最前ニ入鑓、粉骨無比類之処、当鉄炮令討死、因茲各重合鑓、遂粉骨之間、即敵令敗北之条、甚以忠節之至也、彼者事者、去辰年上野属味方刻、勝正同前ニ従岡崎上野城へ相退砌も、既尽粉骨之上、彼城赦免之儀相調之間、彼此以忠功令感悦者也」

6月2日
  • 今川義元、奥平松千代が岩小屋城後詰の遠山氏を名倉舟渡橋で撃退したことを賞す

「去月十七日、三州名倉於舟渡橋、岩村人数出張候処」

閏6月8日
  • 今川家家臣、奥平監物が岩小屋城後詰の遠山氏を名倉舟渡橋で撃退したことを賞す

「先度於舟渡橋、岩小屋江後詰之人数多之討捕」

閏6月20日
  • 朝比奈泰朝、岡崎雑説に触れ、大樹寺に来秋参陣することを告げる

「今度岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間、可為御大慶候、何様来秋必可令参陣候条」

7月4日
  • 今川義元、伊東貞守が1月に河合源三郎、3月に菅沼大膳亮を撃退したことを賞す

「去正月、河合源三郎令逆心敵引入処、一類等奥山能登守かたへ相渡、無二令味方段、神妙也、又至于三月菅沼大膳亮お源三郎相催、屋敷構江攻入之刻、尽粉骨」

8月16日
  • 今川義元は御油宿で伝馬の法を定める

「当宿伝馬之儀、天文廿三年仁以判形五箇条議定之処」

8月20日
  • 今川義元は天野小四郎に、天野安芸守の岩小屋在城に扶助を与える

「就同名安芸守岩小屋在城令扶助」

11月23日 年は比定
  • 陣中で連絡を受けた織田信長、秋山虎繁に大鷹の進呈を申し出る

「先度者陣中江御使本望候、仍雖不思召寄申事候、大鷹所望候、誰々就所持者、御調法候而、可被懸御意候」

12月某日
  • 織田信長、白坂雲高寺に禁制を発す

「右当寺依為無縁所、諸役等令免許畢、若有違犯之輩者」

1559(永禄2)年

2月2日
  • 織田信長、上洛する

「自尾州織田上総介上洛云々、五百計云々、異形者多云々」

2月7日
  • 織田信長、京を発つ

「尾州之織田上総介晝立歸國云々」「有雑説俄罷下云々」

2月22日
  • 今川氏真は松井左衛門佐が父の遺言状の通り領地を継承することを保障する

「父貞宗譲与之旨、永領掌不可有相違」

3月20日
  • 今川義元、戦陣での規則を定める

「一兵糧并馬飼料着陳之日ヨリ守為下行事」

4月15日
  • 甲斐都留郡では巨大な雹が降る

「四月十五日大氷降。」

5月16日
  • 徳川家康、訴訟や人事について定める

「一元康在符之間、於岡崎、各批判落着之上罷下、重而雖令訴訟、一切不可許容事」

8月8日
  • 今川氏は皮職人大井掃部丞に来年分の皮も一括して納入するよう指示

「来年可買分、如相定員数、只今為急用之条」

8月15日 年は比定
  • 今川義元は伊勢外宮に、三河国の遷宮費徴収は関口刑部少輔が連絡するだろうと伝える

「将又参州萱米之事、委曲関口刑部少輔可申候」

8月21日
  • 今川義元は朝比奈筑前守に大高城番を命ずる

「今度召出大高在城之儀申付之条」

9月9日 年は比定
  • 時宗体光上人は今川義元が尾張に出陣することを祝う

「向尾州御進発」

9月27日 年は比定
  • 武田晴信が木曽義昌に濃尾連合から高森(苗木城)を守るよう依頼。今川氏を引き合いに出す

「就高森之儀、■■■預御飛脚候、祝着存候、諸口御味方相調、城中堅固之由肝要候、晴信駿州へ入魂之事者、可有御存知候歟、若高森之城尾州・井口へ有御渡者無曲候」

10月23日 年は比定
  • 今川義元は奥平監物・菅沼久助が大高補給作戦時に奮戦したことを褒める

「去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻」「去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻」

11月19日 年は比定
  • 今川義元は『水上』に、自身が戦闘に参加し長陣を耐えていることを労う

「今度依大夫殿自身御合力、■■■祝着候、殊長陣労功無是非候」

11月26日 年は比定
  • 今川義元は伊勢内宮に、志摩国人退治の願文を奉納

「近有仮義元力欲追伐彼悪徒之輩、即差遣人数事」

12月7日
  • 甲斐都留郡では大雨と土石流が発生

「十二月七日ニ大雨降。俄ニ雪シロ水出テ。法ケ堂悉皆流レ申候。又在家ノ事ハ中村マルク流シ候無限」

1560(永禄3)年

2月20日
  • 甲斐都留郡では大雪が降る。この時期飢饉が継続し、永禄1~3年で疫病が蔓延する

「二月廿日大雪降。<ツツカイ(筒粥)ニハ何モ不入候得共>」

3月12日
  • 今川義元、中間藤次郎に、駿河国清水湊に繋留する新船一艘の諸役を免除する

「清水湊・沼津・内浦・吉原・小河・石津湊・懸塚、此他分国中所々」

3月20日 年は比定
  • 関口氏純は伊勢外宮に三河国からの遷宮費徴収を確約、さらに今川義元が近日中出陣することを告げる

「近日義元向尾州境目進発候」

4月12日 年は比定
  • 今川義元は水野十郎左衛門尉に出陣を告げる

「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候」

4月24日
  • 今川氏真、丸子宿に伝馬の規則確認を行なう

「但し、地下宥免の上、公方儀無沙汰せしめ、その上在所衰微せしむに於いては、此の定め相違有るべきの旨、先の印判に任す所」

5月某日 年は比定
  • 伊勢外宮は今川氏に三河国だけでなく遠江国の遷宮費徴収も催促

「因茲去年夏自作所令注進之処、三州之儀雖為御合点、遠州之儀者、就浅間御造営無同心之由」

5月6日
  • 今川氏真、神原三郎左衛門の与力を補充する

「高林源兵衛狼藉之砌、屋鋪に相移、其上被官人討死手負数多出来、捨身命存忠節候」

5月8日
  • 今川義元は三河守、氏真は治部大輔に任官

「朝廷口宣」

5月22日 年は比定
  • 三浦内匠助は松井山城守に19日の戦闘で松井左衛門佐が活躍したことを褒める

「去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第候」

5月25日 年は比定
  • 今川氏真は天野安芸守の守備を褒め、不慮の合戦があったことを告げる

「今度不慮之儀出来、無是非候、然者当城之儀、堅固申付之由喜悦候、軈而可出馬候」

6月3日
  • 徳川家康、三河国碧海郡崇福寺に禁制を発す

「右之条々、於違犯之族者、可処厳科者也」

6月8日
  • 今川氏真は鳴海城を死守し、刈谷城の水野藤九郎を討ち取った岡部五郎兵衛尉を褒める

「今度尾州一戦之砌、大高沓掛両城雖相拘、鳴海堅固ニ持詰候……(中略)……剰刈谷城以籌策城主水野藤九郎其外随分不(己+大)他也」

6月10日
  • 佐久間信盛は伊勢内宮に今川義元を討ち取ったと報告

「今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際限無之候」

6月12日 年は比定
  • 今川氏真は鵜殿十郎三郎の大高付近での戦功を賞する

「去年十一月十九日、去五月十九日於尾州大高口、両度合戦之時」

6月13日
  • 武田晴信は鳴海城を死守した岡部五郎兵衛尉を褒める

「抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間」

  • 甲斐都留郡では6~10月まで長期降雨

「此年六月前ハ日ヨリ同六月十三日ヨリ雨降始。来ル十月迄降続候間。耕作以下何モ無之」

6月16日
  • 今川氏真は2度の戦闘で奥平久兵衛尉・鱸九平次を討ち取り、城を守った簗瀬九郎左衛門尉を褒め領地を保障する

「今度当城堅固爾相踏、殊於両度遂一戦」

6月23日 年は比定
  • 武田晴信は幡竜斎の駿府滞在を労う

「長々其府滞留御辛労察入候」

6月27日 年は比定
  • 今川氏真は熊野大社への返書で不慮の合戦が起きたことを告げる

「於尾州不慮之儀出来」

7月28日
  • 今川氏真、鱸内三の遺領相続を認める

「如父六郎左衛門尉時、於当城走廻之上者、如前々不可有相違」

7月29日
  • 今川氏真は平野鍋松の父が5月19日の合戦で討ち死にしたことを認め、鍋松の相続を承認する

「五月十九日於尾州天沢寺殿御討死之刻、父輝以無比類令討死段甚以忠節之至也」

8月3日
  • 今川氏真、本間兵衛五郎が福島氏反乱を鎮圧した功を褒める

「今度福島彦次郎構逆心、各親類・同心以下令同意処」

8月16日 年は比定
  • 朝比奈丹波守親徳は安房国妙本寺に、自分が三河国に在陣していること、今川義元が討ち死にした際は鉄砲による負傷で居合わせなかったことを告げる

「仍不慮之仕合義元討死無是非次第、不可過候推察候、拙者儀者最前鉄鉋ニ当不相其仕場候、雖然至于只今存命失面目候、就中当屋形可有御音信之旨候、拙夫于今三州在陣之儀候条」

9月1日
  • 今川氏真、岡部元信の鳴海城守備を讃え父の遺産相続を認める

「剰今度一戦之上、大高・沓掛雖令自落、鳴海一城相踏于堅固、其上以下知相退之条」

10月7日
  • 今川氏真、同年5月19日に菅沼久助が武節に籠城していたことに言及

「然者去五月十九日於尾州一戦之刻、武節筋堅固走廻之段、太神妙也」

10月8日
  • 今川氏真、岩瀬雅楽助が牧野氏逆心時に忠義を尽くしたことを賞し知行を与える

「父雅楽助先年牧野民部丞雖企逆心令内談に、八太夫不同意罷退之段、為忠節之条」

10月10日
  • 今川氏真、岩瀬雅楽助の父和泉入道を赦免する

「父和泉入道身上之事、先度子細雖相尋、猶以無疎略之旨、以罰文申上走朧段、明鏡之略申趣聞届候条令赦免畢」

10月16日 年は比定
  • 千草有吉、近江国四本衆によって三河商人の木綿が押収されたことを伝える

「今度三河商人、此方山中木綿通申候処、四本衆被押留候、自先規きわたなと被留候事、一切無之儀候」

10月18日 年は比定
  • 布施公雄ら、三河商人の木綿について調停し、六角氏への礼物を催促する

「三河商人木綿之事■■■■■被申扱、速水勘解由左衛■■■■為礼物三百疋三種二荷持参■■■商人中合点にて相■候由」

11月15日
  • 今川氏真、原田三郎右衛門が11月1日に八桑を攻撃したことを賞す

「今月朔日、簗瀬九郎左衛門令八桑江其行、城廻小屋五六十放火、敵四五十人討捕之旨」

12月某日
  • 織田信長、尾張国知多郡常滑東竜寺に禁制を発す

「右当寺依為無縁所、諸役等令免許(己+十)、若於違犯之輩者、速可処厳科者也」

12月2日
  • 今川氏真は松井八郎に、父親である左衛門尉宗信の奮戦を褒める

「去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死」

12月11日
  • 今川氏真、挙母衆である大村弥右兵衛の所領を補償する

「今度衣衆等彼地依出置之、為其替地同国和田郷・同吉田郷都合百三拾三貫文分也」

1561(永禄4)年

2月28日
  • 今川氏真、尾上彦太郎の弟に、兄彦太郎が昨年5月19日の合戦で討ち死にしたことを賞し知行を安堵する

「去年五月十九日、兄彦太郎尾州一戦之刻致天沢寺殿供無比類遂討死」

3月某日
  • 織田広良が尾張国剣光寺に禁制を発す

「禁制 剣光寺」

閏3月4日
  • 今川氏真、小倉内蔵介に酒匂の越後衆が撤退したことを告げる

「坂匂陣取之敵退散候間、様躰追而可申越候」

閏3月10日
  • 今川氏真は沓掛城で土地の証文を失った大村弥右兵衛に証文を再交付

「去年五月十五日合戦之砌、於沓掛令失却之旨申候条」

4月22日
  • 今川氏真、畑彦十郎が後北条氏援軍として活躍したことを賞す

「河越籠城中尽粉骨走廻之旨、氏政感状所令披見也」

4月25日
  • 今川氏真、小倉内蔵助が後北条氏援軍として活躍したことを賞す

「今度越国人数、向小田原相働之刻、為加勢申付候処、以一身之覚悟、武州河越令籠城、数度竭粉骨」

5月某日
  • 織田信長が尾張国北野村真福寺に禁制を発す

「禁制 北野村真福寺」

5月1日 年は比定
  • 北条氏康は水野下野守・酒井左衛門尉に今川氏と松平氏の仲介を依頼

「抑近年對駿州被企逆意ノ由、誠以歎敷次第候、就之自駿府當方へ出陣ノ儀承候間、氏康自身出馬據歟」

5月13日
  • 梅龍寺に、斎藤義龍死去に伴う尾張衆乱入が記される

「永禄四年辛酉五月十一日義龍死去、尾軍乱入、同十三日従尾州乱入、別傳漸ク遁殺害奔出、不知落処、龍谷同前」

6月某日
  • 織田信長が美濃国平野・神戸市場に禁制を発す

「平野之内 神戸市場」

7月12日
  • 今川氏真、田嶋新左衛門が嵩山市場口長沢で戦功を挙げたことを賞す

「去六日、於嵩山市場口長沢、最前入鑓走廻之由神妙也」

7月20日
  • 今川氏真は、前年吉田城で情報撹乱があった際に岩瀬雅楽介が守備に徹して吉田城を守ったことを褒める

「然而去年吉田雑説之時分、天慮方へ依令内通、彼城于今堅固之儀」

8月26日
  • 今川氏真、去年9月10日に梅坪を攻撃した際の鱸信正の戦功を賞す

「去年九月十日向梅坪相動之刻、於鑓下弓仕敵数多手負仕出」

8月26日
  • 今川氏真、伊勢神宮に三河国から寄進を行なう旨確約し、但し混乱があるためまず駿河・遠江から毎年200俵を奉納すると申し出る

「就三州本意者、於彼地一所永可奉寄附之、但錯乱之間者、先於駿・遠之中毎年弐百俵、為日御供奉納之処」

9月21日
  • 今川氏真、野々山四郎右衛門尉が岡崎逆心に同意しなかったことを賞す

「殊今度岡崎逆心之刻、出人質捨在所無二為忠節之条」

11月14日
  • 今川氏真は刈谷出陣時の負担によって百姓が逃げ出したため、陣夫の義務を免除する

「当郷年来陳夫之を相勤むと雖も、刈屋陳の刻、百性等困窮に就いて逐電に及ぶの上」

12月9日
  • 今川氏真、岩瀬小四郎が菅沼新八郎逆心に同意しなかったことを賞す

「今度菅沼新八郎令逆心之処、不致同意、従野田牛久保江相退無二忠節馳走之段」

1562(永禄5)年

1月20日 年は比定
  • 足利義輝は今川氏と松平氏の戦闘を仲裁

「一就氏真与三州岡崎鉾楯之儀、関東之通路不合期之条、不可然候」

3月某日 年は比定
  • 今川氏真、渡部平内次が天文19年の白鳥山、その後の武節籠城で活躍したことを賞す

「去戌三冬、三州津具於白鳥山令忠節候、先判有之候、其後武節之城相籠之刻走廻」

7月21~29日?
  • 葛山氏元は刈谷・笠寺出陣時に定めた伝馬制度を維持するよう指示。1560(永禄3)年以降、伝馬制度の維持が難しくなっていることが判る

「自苅屋・笠寺陣之時相定之処、去々年以来依令難渋」

1563(永禄6)年

2月24日
  • 今川氏真、沓掛城で土地の証文を失った田嶋新左衛門に証文を再交付

「庚申年於沓掛令失却之由之条」

1567(永禄10)年

8月5日
  • 今川氏真、鈴木・近藤氏に替地を給付する際、徳川家康が逆心した日時に言及

「去酉年四月十二日岡崎逆心之刻」

2017/10/26(木)『相守文書』一覧

概要

古河公方の歴代当主は、「相守」を用いる特殊な書状を発給することが判った。

番号 差出 宛先 敬称 発行日 想定対象者 状態
01 成氏 島津隼人佐 とのへ 3月29日 小山梅犬丸 現存
02 政氏 栃木大炊助 とのへ 11月23日 小山成長 写し
03 政氏 小野崎越前守 殿 8月9日 佐竹義舜 現存
04 政氏 正木図書助 とのへ 10月17日 簗田政助 現存
05 政氏 富岡玄蕃允 殿 1512(永正9)年10月30日 赤井重秀 現存
06 政氏 長江左京亮 殿へ 12月3日 皆川成勝 写し
07 高基 毛呂土佐守 殿へ 9月5日 上杉憲房 写し
08 高基 栃木雅楽助 とのへ 2月5日 小山政長 写し
09 晴氏 富岡主税 とのへ 1547(天文16)年12月28日 赤井文六 現存
10 義氏 江木豊後守 とのへ 1560(永禄3)年12月29日 真壁久幹 現存
11 高基 宛所欠 未詳 閏11月21日 因幡守 写し
番号 文頭 対象者 文末
01 無二 相守 梅犬丸
02 相守 成長 存忠信之条、神妙候也
03 無二仁 相守 右京大夫
04 相守 右京亮 致堪忍之条、神妙候也
05 相守 刑部太輔 無二忠信之由聞召之条、神妙也、弥可存其旨之状如件
06 相守 成勝 走廻之条、神妙之至也
07 椙山之陣以来 相守 憲房
08 政長復先忠之上、無二 相守 走廻候者、可為神妙候也
09 相守 千代増丸 走廻之条、神妙之至也
10 相守 久幹 今度走廻之条、神妙之至、感思召状如件
11 相守 因幡守 無二励忠信候、■節■之者共江加意見候者、可為簡要候、巨細安西右京亮可申遣候、謹言

便宜上これらの文書を『相守文書』として検討をしてみる。定義は以下の通りとなる。

  • 文書の宛名は古河公方直臣の被官
  • 「相守」の語の後に直臣の名を記し、それを褒賞する文言が続いて終わる
  • 文末は「也」が7例で大半を占める。「如件」が2、「謹言」「恐々謹言」が1例ずつ
  • 「相守」の前には「無二」が置かれることがある
  • 「無二」の前に更に文言が置かれることがある

11通のうち3通が小山氏宛であり、さらに成氏による初見文書も小山梅犬丸である点、その他の赤井・皆川・真壁の何れも利根川左岸である点から、古河公方に直属する国衆が対象といえる(07号毛呂土佐守宛を除く)。

残存文書で最も新しいのは義氏のものだが、これは上杉輝虎が大規模な遠征を行ない、庶兄藤氏を古河公方に擬した1560(永禄3)年12月に出されている。また、その父である晴氏は1547(天文16)年12月に出しているが、この前月に彼は後北条氏に身柄を拘束されている。政氏と高基父子の文書が多いのも合わせて考えると、相守系文書は、古河公方の地位が深刻なものになった際に出されると仮定される。

つまり、自派についた国衆の被官(公方から見て陪臣)を認めるような内容であって、被官ごと包摂することでその国衆の離脱を阻止したい目的ではないだろうか。小山氏被官に向かって政氏・高基がそれぞれ発していることがそれを示しているように思う。

文書の一覧

  • 戦国遺文古河公方編0224「足利成氏書状」(早稲田大学図書館所蔵下野島津文書)

    無二相守梅犬丸、致専公儀之忠節候者、可為神妙候也、
    三月廿九日/(成氏花押)/島津隼人佐とのへ

  • 戦国遺文古河公方編0484「足利政氏感状写」(新編会津風土記六)

    相守成長、存忠信之条、神妙候也、
    十一月廿三日/(政氏花押)/栃木大炊助とのへ

  • 足利政氏文書集95「足利政氏書状」(秋田採集文書)

    無二仁相守右京大夫、可存忠儀候也、
    八月九日/(花押)/小野崎越前守殿

  • 戦国遺文古河公方編0471「足利政氏書状」(早稲田大学図書館所蔵知新集三所収文書)

    相守右京亮、致堪忍之条、神妙候也、
    十月十七日/(足利政氏花押)/正木図書助とのへ

  • 戦国遺文古河公方編0371「足利政氏感状」(群馬県立博物館所蔵富岡家古文書)

    相守刑部太輔、無二忠信之由聞召之条、神妙也、弥可存其旨之状如件、
    永正九年十月晦日/(政氏花押)/冨岡玄蕃亮殿

  • 戦国遺文古河公方編0485「足利政氏感状写」(栃木県庁採集文書六)

    相守成勝、走廻候条、神妙之至也、
    十二月三日/(足利政氏花押)/長江左京亮殿へ

  • 戦国遺文古河公方編0606「足利高基書状写」(山田吉令筆記所収家譜覚書)

    椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、
    九月五日/足利高基ノ由花押/毛呂土佐守殿竹井英文氏『千葉史学51号』の釈文により改変。遺文では「走廻」を「進退」、「神妙之至候、」を「神妙候、恐々」と読む。

  • 戦国遺文古河公方編0558「足利高基書状写」(新編会津風土記四)

    政長復先忠之上、無二相守走廻候者、可為神妙候也、
    二月五日/(高基花押)/栃木雅楽助とのへ

  • 戦国遺文古河公方編0654「足利晴氏感状」(群馬県立歴史博物館所蔵富岡家古文書)

    相守千代増丸走廻之条、神妙之至也、
    天文十六年十二月廿八日/(足利晴氏花押)/富岡主税とのへ

  • 戦国遺文古河公方編0858「足利義氏感状」(榎戸克弥氏所蔵文書)

    相守久幹、今度走廻之条、神妙之至、感思召状如件、
    永禄三年十二月廿九日/(義氏花押)/江木戸豊後守とのへ(上書:江木戸豊後守とのへ)

徳誕蔵主死去、無是非候、然者、相守因幡守、無二励忠信候、■節■之者共江加意見候者、可為簡要候、巨細安西右京亮可申遣候、謹言、
閏十一月廿一日/(足利高基花押)/宛所欠

  • 戦国遺文古河公方編0544「足利高基書状写」(常総文書一)1525(大永5)年比定

文書の内容

文書では「相守」の後ろに対象者(守る対象)が来る。08号のみ小山政長が前文に先行して登場するため変則となっているため異質。また、「相守」の前に文が来るのは9例中4例。初例の01号で成氏が「無二」とつけているのを墨守し、03号・08号では「無二」を使っている。07号のみが「無二」については異質である。また、文末に「謹言」が用いられているのも3号のみ。

また、「相守」が含まれる官途状に「義昌」という人物が福田民部少輔に宛てた1584(天正12)年のものがある。

  • 古河市史資料中世編1472「小野崎義昌官途状」(福田昇造氏所蔵文書)

    相守譜代之筋、神妙仁走廻之条、官途被下置也、
    天正十二年七月廿八日/義昌(花押)/福田民部少輔殿

但しこの文書は、以下の根拠から古河市史では検討を要すとしている。

本文書は、義昌なる人物が福田氏に民部少輔の官途を与えた官途状である。義昌と福田氏は主従関係にあったことになるが、一体義昌とはだれであろうか。それは、この周辺では常陸の佐竹氏一族小野崎義昌の他には考えられないのである。ただ本文書の天正一二年当時の佐竹氏は、各地で後北条氏と戦っている最中であって、義氏亡き後の公方家臣も事実上後北条氏勢力に包摂されていた以上、敵対する両者間で主従関係を結ぶことは不可能であったのではなかろうか。また文書内容でも、すでに天正四か五年頃に福田氏は民部丞から民部少輔に昇進しており、新たな昇進の意味が解せないのである。後継者とも考えられるが、年代が近接しすぎよう。字体等もさることながら、本文書にはなお研究の余地があろう。

この見解は、その他「相守文書」を俯瞰した際も同意できる。03号で足利政氏から小野崎越前守に宛てられていたことから考えても、古河公方当主しか発給しない性質の文書であり、何らかの事情で03号文書を元に偽作された可能性が高いと判断できる。

上記より、義昌の官途状は『相守文書』を元にした偽文書ではないかという公算が強いといえる。また、突出して異例な形式を持つ07号文書についても、何らかの改変を疑うべきだろう。

2017/10/22(日)今川義元は大規模な軍事動員をしたのか?

朱印「調」は本当に今川義元の印判か?

有光友学氏・小和田哲男氏の著述を見る限りでは、今川氏が用いた印文「調」の朱印は義元のものとされている。僅か6例しか残されていないこの朱印状だが、以下の理由から義元が大規模な軍勢催促を予定していた証として援用されている

  1. 永禄2年8月に大井掃部丞に宛てた滑革・薫皮を急いで徴発したこと
  2. 永禄3年4月に伝馬手形を発行していること

しかし、これは「今川義元が永禄3年5月に尾張口で戦死したこと」を前提にしてしまっているのではないか。他例をきちんと読むと、これは息子の氏真が発行した確率が圧倒的に高いことが判る。

逐一追ってみる。

1559(永禄2)年

8月8日
  • 戦国遺文今川氏編1470「今川家朱印状」(静岡市葵区駒形通・七条文書)

    於当国滑革弐拾五枚・薫皮弐拾五枚之事右、来年可買分、如相定員数、只今為急用之条、無非分様可申付者也、仍如件、
    永禄弐年八月八日/文頭に(朱印「調」)/大井掃部丞殿

これが最初の文書となる。義元が戦備に要したという考え方も可能だが、後に出てくる駿府浅間社での対応を見ると氏真が代替わりに当たって儀礼を整えるために徴発したという可能性もある。

8月28日
  • 戦国遺文今川氏編1475「今川家朱印状」(山形県鶴岡市・致道博物館所蔵文書)

    為持仏堂立置賢仰院之事。右、陣取諸役可除之、并於有狼藉輩者、注交名可令注進、其上可加下知者也、仍如件、
    永禄弐年八月廿八日/文頭に(朱印「調」)/酒井左衛門尉殿

宛所が酒井左衛門尉忠次である点から、三河での文書が多く残り、この時期三河にいた可能性がある義元発給と見るのが妥当ではある。但し、禁制は寺社が受給して伝来することが多いのに対し、この文書は酒井忠次が宛所だし、彼の家が保持していた。どことなく違和感がある文書ではある。

9月26日
  • 戦国遺文今川氏編1477「今川家朱印状」(静岡県葵区大岩町・臨済寺文書)

    駿河国上原新在家之事。右、任天文廿年之判形、永不可有相違、但甘利藤一郎分依為料所、百姓桜井申様雖有之、既自新在家興行之刻、道下之分者彼在家中切発之上者、至于只今、給主方又者号料所之内、雖及異儀、永可為林際寺支配、雖然道上之儀者、重以公方人可定傍爾者也、仍如件、
    永禄弐年己未九月廿六日/文頭に(朱印「調」)/林際寺(端裏書:林際寺 氏真)

ここでは決定的な文言があり、端裏書で差出人として「氏真」が記載されている。前の2文書と異なって、駿府に位置する今川氏最大の菩提寺臨済寺宛である点から、富士浅間社も駿府浅間社も氏真に切り替わっていたこの段階では氏真が発給したと見るのが妥当だろう。

1560(永禄3)年

3月3日
  • 戦国遺文今川氏編1499「今川家朱印状」(静岡市葵区宮ヶ崎町・静岡浅間神社文書)

    浅間宮三月会装束目録。一、面、四人分。一、宝冠、紺段子後ニ付、四人分。一、光、銅滅黄、四人分。一、七条袈裟、此内三条金裯、切交、一条段子、切交、何モ緒紅、四人分。一、袍、地朽葉、四人分。一、牟志、面段子、裏朽葉、房浅黄、四人分。一、袴、面段子浅黄裏、絹、四人分。一、襪子、四人分。以上。右、前々道具令破損之条、今度改之、所被成新寄附、仍如件、
    永禄参庚申年三月三日/文頭に(朱印「調」)蒲原右衛門尉元賢(花押)/宛所欠

ここでは前々の道具が破損したことを理由に装束を新調し寄附することが伝えられている。1558(弘治4/永禄元)年8月13日には氏真がこの駿府浅間社に対して「駿河国浅間宮御流鏑馬千蔵方郷役之事」を定めている(戦今1416)。この時には朱印の印文は「氏真」となっている。祭礼の復興を代替わりを契機に行なおうとしていた流れで考えると、これも氏真の発給と見てよいだろう。

3月18日
  • 戦国遺文今川氏編1503「今川家朱印状」(某氏書状文書)

    参州当知行古部郷内蓬生分事。右、今度粟生将監依令検地、同蓬生村共可検地云々、蓬生分之事者為各別、自前々為屋敷分之間、所出置判形明鏡也、然間古部郷将監知行分計可改之、雖然蓬生分共雖相改之、為給恩増分之条、可令所務之、但将監於有申子細者、互遂糺明可加下知者也、仍如件、
    永禄参年三月十八日/文頭に(朱印「調」)/小島源一郎殿

三河国内での裁定となり、義元の可能性がある。但し、検地増分に関わる訴訟への言及は、義元の場合永禄2年6月8日のものが終見(戦今1463)であり、この後は氏真が専ら対応している点を考えると何とも判断しがたい。

4月8日
  • 戦国遺文今川氏編1505「今川家伝馬手形」(慶応義塾大学図書館所蔵反町十郎文書)

    伝馬弐疋、無相違可出之者也、仍如件。足代玄蕃ニ被下之、
    永禄参年四月八日/朝比奈丹波守奉之、文頭に(朱印「調」)/駿遠参宿々中

義元は永禄3年3月12日に中間藤次郎宛に判物を出している(戦今1501)。なので水運に関しては管理を手放してはいないが、同年4月24日に氏真が丸子宿に伝馬の定書を出している(戦今1508)。この時の朱印状は角型の「如律令」でそこに疑問は残るが、伝馬関連は氏真が担当したと見るのが妥当だろうと考えられる。

この翌月の5月19日に朝比奈丹波守親徳は尾張口で義元敗死の現場に居合わせるため、どうしても義元発給の印象が強くなったのだろうか。とはいえ1ヶ月以上のタイムラグはあるし、伊勢大湊から祭礼用の何かを取り寄せようとした可能性も高い。

また、足代氏は戦国遺文今川氏編でここしか登場していない。但し、氏真が伊勢に預けた道具の扱いをやり取りした文書伝来で名が出てくる。何れも1573(元亀4/天正元)年比定で時代は隔たっているものの、伊勢大湊に関係した足代氏と氏真の繋がりを窺わせる。

足代文書

  • 戦国遺文今川氏編2542「塙直政書状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    尚以道具之事、氏実被預候ハゝ、随其代物可被召ニ候、内々候之節目候事候、若非分なる儀にて其方ニ候ハゝ、又随其何之道ニも無理ニ可被召置にてハ無之候、有様可被申候、此外不申候。急度申候、仍氏実茶道具当所在之事、必定旨申ニ付て津掃被遣候、有様ニ被申、不被進付てハ、可為曲事由御意ニ候、具掃部可被申候、恐々謹言、
    十月廿五日/塙九郎左衛門尉直政(花押影)/大湊中

  • 戦国遺文今川氏編2543「房兼・教兼連署状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    就関東船上下之儀、従濃州条々被仰越候間、則自是被出使者候、然者氏実当郷廉屋七郎次郎許へ預物之儀被相改候、追可致合意由可被申付候、万一至及異儀者、濃州被仰合、即時ニ可被加御成敗候、委曲尚口上被仰出候由所候也、恐々謹言、
    十月廿九日/房兼(花押影)・教兼(花押影)/大湊中

  • 戦国遺文今川氏編2544「大湊老分衆書状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    角屋七郎次郎許へ御尋物之儀申付候処、彼御預ヶ物之儀、去秋中 氏実様江送申、其上七郎次郎儀も○[此一儀付、]十日以前ニ浜松へ罷下候由、親之七郎左衛門尉申事候、并浜松より御道具下候へ由之書状為御披見懸御目候、塙九郎左衛門尉殿へも御報可申上候へ共、此之趣可預御心得候、以上、
    天正元十一月五日/老分/津田掃部助殿・鳥屋尾石見守殿

まとめ

「調」の内容は氏真を示唆

○永禄2年

  • 8月8日 革納品を命じたもの どちらも可能性あり
  • 8月28日 酒井忠次に賢仰院への禁制を出したもの 義元の可能性が高い
  • 9月26日 臨済寺に裁定での勝利を伝えたもの 氏真の可能性が非常に高い

○永禄3年

  • 3月3日 駿府浅間社の装束寄附 氏真の可能性が非常に高い
  • 3月18日 小島源一郎に検地増分安堵 氏真の可能性が僅かに高い
  • 4月8日 足代玄蕃に伝馬発行 氏真の可能性が高い

2番目にある酒井忠次宛のものだけがどうも奇妙な印象だが、3番目以降は全て氏真を指しており、そこから1番目も氏真発給である可能性が高いといえるだろう。

酒井忠次が禁制をもらった賢仰院が大樹寺内にあったことを重視するなら、もう一つの可能性が浮かんでくる。

朝比奈泰朝である可能性

義元でも氏真でもない?

永禄元年閏6月20日(大樹寺宛・戦今1403)~永禄3年5月2日(佐竹丹波入道宛・戦今1510)の間、発給文書が存在しない朝比奈泰朝が、この間は氏真側近として「調」朱印状を発給していた可能性も若干残されているかも知れない。

泰朝の父である泰能は大樹寺宛の文書も残していることから、忠次宛文書の謎も解明されるほか、同時期に氏真が「如律令」朱印を併用していた事象も説明が可能になる。臨済寺に「氏真から」と書いたのは、この印が泰朝を示すものではないという念押しだったともとれる。

泰朝は後年の永禄11年9月21日に「懸河」という八角形の朱印を発行していた(奥山左近宛・戦今2190)。

  • 戦国遺文2190「朝比奈泰朝ヵ朱印状」(奥山文書)

    犬居可相通兵粮之事。右、毎月五駄充、奥山左近方為湯分差越之間、森口・二俣口雖為何之地、無相違可令勘過者也、仍如件、
    永禄十一年辰九月廿一日/文頭に(朱印「懸河」)/津留奉行中(上書:奥山左近方へ)

ただ、泰朝が老獪だった訳ではなく、永禄元年4月22日に初見史料(戦今1392)が見られるから氏真よりむしろ後発であった点はネックになる。若い氏真と共に試行錯誤していたか。

「調」と「帰」

そもそも今川家当主の印文は名前であることが前提で、属人的意味合いが非常に強い。義元と氏真は「如律令」ではあるものの、印の形がそれぞれ異なる。

  • 今川氏親:未詳○・未詳□・氏親□・紹僖□
  • 今川義元:承芳□・義元(1型□・2型▯縦長)・如律令○
  • 今川氏真:氏真○・如律令□

○は丸印、□は角印。但し義元2型のみは縦長の矩形。

例外となるのは氏親室の寿桂が用いた「帰」の角印で、これは「当主ではない」という意味で一文字の抽象的文字を用いたのだろうと考えられるかも知れない。但し権限は強かったようで、当主氏輝の名が入っていながら無花押の文書に「帰」を押して効力をつけた例がある。

であれば、家督移行期に極めて短時間に登場した「調」も、誰かが代行した可能性があるだろう。矩形の角を切り取った特殊な八角形である点も、並行して押された義元2型印が縦長矩形の特殊形であったこととあいまって、正規の矩形印である氏真の「如律令」を侵害しない意向を示すのかと推測できる。

以下にこの時期の義元・氏真と「調」の発行時系列を挙げる。末尾は戦今の文書番号。

1558(永禄元)年
  • 閏06月02日・朝比奈泰朝判物 ※参考
  • 08月13日・氏真○1416
  • 09月02日・義元2▯1425
  • 12月12日・氏真○1437
  • 12月17日・氏真○1438
  • 12月17日・氏真○1439
  • 12月某日・義元2▯1441
  • 某月19日・義元2▯1442
1559(永禄2)年
  • 03月18日・義元2▯1451
  • 05月20日・如律令□1456
  • 05月23日・義元2▯1458
  • 06月10日・如律令□1464
  • 08月08日・調◇1470
  • 08月28日・調◇1475
  • 09月26日・調◇1477
  • 11月28日・如律令□1482
1560(永禄3)年
  • 02月22日・如律令□1497
  • 03月03日・調◇1499
  • 03月18日・調◇1503
  • 04月08日・調◇1505
  • 04月24日・如律令□1508
  • 05月10日・朝比奈泰朝判物 ※参考
  • 05月13日・如律令□1513

2017/10/15(日)織田信長への皆川広照初信

織田信長の対応

下記は全て1581(天正9)年に比定されている、皆川広照関連文書。

  • 増訂織田信長文書の研究0959「織田信長朱印状」(下野・皆川文書二)

馬一疋到来候、誠遼遠之懇志、悦喜無他候、殊更葦毛別而相叶心候、馬形・乗以下無比類、彼是秘蔵不斜候、仍褶百瑞・虎革五枚・紅緒五十結相送之候、祝儀計候、謹言、 十月廿九日/信長(朱印)/長沼山城守殿

  • 増訂織田信長文書の研究0960「織田信長朱印状」(下野・皆川文書二)

此使者至常州蜷川差越候、相模へ相送、自其彼方へ参着様、馳走専一候、此旨相州へも能々可申越候、猶西尾可申候也、 十月廿九日/信長(花押)/滝川左近殿

皆川広照は、その初信において「長沼」という本姓を名乗った。葦毛の逸物だったようで、形や乗り心地にまで珍しく言及している。そして信長は滝川一益に、この使者を相模まで送り、相州=北条氏直にも保護を通達するように指示している。

そして、「皆川」を「蜷川」と呼び間違えている。聞き違ったのと、それほど関心がなかったように見える。

取次の堀秀政の対応

  • 増訂織田信長文書の研究下巻参考p650「堀秀政副状」(下野・皆川文書二)

珍札令披見候、仍上様江為御礼、御馬三疋御進上候、即令披露候之処、被成御祝着候、殊葦毛別而御自愛候、委細以御書被成仰出候、次私へも同一疋栗毛、被懸御意候、寄思召御懇信珍重候、向後於此地相応御用被仰越、不可有疎意候、猶智積院前坊令申候間、不能審候、恐々謹言、 十月廿九日/秀政(花押)/皆川山城守殿御返報

秀政は信長と同日付で「馬3疋を進上したところ、葦毛を特別に気に入ったようだ。私にも栗毛馬をいただき光栄です。更に智積院が申します」と書いている。さすがに秀政は正しく「皆川」と呼んでいる。

  • 増訂織田信長文書の研究下巻参考p651「堀久太郎覚書案」(下野・皆川文書二)

覚。下つけの国みな川と申もの、いまた御礼不申上候、冥加の為ニ御座候条、御馬三進上申度候由候てひき上申候、その内くろあしけの御馬、関東においてすくれたるはや道之由申候、残二疋之儀ハよくも御座なく候へ共、はしめて進上仕候ニ、一疋ハあまり物すくなニ御座候とて、右分ニ御座候此御使ハみな川おぢ坊主智しやく院と申候、廿ヶ年はかり以前よりねころへかくもんに罷越在之を、去年わさとよひくたし、只今又さし上申候、然ハこゝもと一円無案内ニ御座候ニ付而、前坊を以申上候、以上、

これは秀政が使者に渡した覚書のようだ。ここでは種明かしがされていて、本当は葦毛の1疋を贈ろうとしたが、数が少ないのも如何なものかと3疋贈ったと書かれている。また、使者の智積院は広照の「おぢ=伯父・叔父」で20年前から根来にいたという、彼を去年下野に呼んで、今年また上方に上らせたとある。

徳川家康の対応

  • 増訂織田信長文書の研究下巻p652参考「徳川家康書状」(下野・皆川文書二)

今度安土江御音信、馬御進上候、遠路之儀、御造作令推察候、併信長馬共一段自愛被申、御使者等迄、各馳走可申候由被仰付、東海道公儀之上、無異儀帰路候、か様被入御念御懇之儀、於爰元始而之御儀候、於上方之御仕合共様子、彼使者淵底存知之事候、我々迄大慶ニ候、然者此方之儀、幸上辺路次中之儀候条、相応之儀ハ、不仰共不可有疎心候、次為書音之、乍さ少無上三斤、進覧候、委曲関口石見守令言上与口上候、恐々謹言、 十一月十二日/家康(花押)/蜷川山城守殿

相模までの路次保証を命じられた一益から要請を受けたのか、家康が広照に挨拶している。ところが、信長が始めた聞き違いが一益経由で家康にも及んでいて、やはり「蜷川」と呼んでしまっている。

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