2017/08/19(土)要検討史料の例

「要検討」とは何か?

史料集などで文書の備考に「要検討」「なお検討を要す」とあるものは、シンプルに言うと「これは偽文書の疑いが濃厚」ということ。ただ、その度合いは結構バラバラで、明らかに偽物だけど慎重に言っているものもあれば、記述者によって判断が分かれるぐらい微妙な疑いだったりする。要素としては、私が見たところでは以下のようなものだと思う。

  • 文言が類似の文書と甚だしく異なる(顕彰過多・近世的表現)
  • 発給者の花押が異なる
  • その時に存在しない人物が登場する
  • 同じ伝来で要検討が多数存在

今川義元を装った要検討史料

御宿藤七郎宛の今川義元感状写が2通、山梨県・白根桃源美術館所蔵の御宿文書にある。この文書写には花押が残っているのだが、これが太原崇孚のものに酷似しており、要検討とされる。ただ文言も装飾が激しくて花押形の話がなくても充分要検討となると思う。

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」

これと同じ年月日の弓気多七郎宛の感状写が別の伝来で残されている。こちらも文言の装飾度合いが強く、花押形が残されていないにも関わらず、同系統の要検討文書であることは確実だ。

今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕、城中真先乗入、於本城門際、別而敵苦之条、神妙也、弥可抽忠功之状如件、
十二月廿三日/義元判/弓気多七郎殿
戦国遺文今川氏編0926「今川義元感状写」(三川古文書)

また更に、花押が太原崇孚に酷似している文書が長野県の真田宝物館に所蔵されている。こちらの文言は盛大に装飾した前記3文書とは違って「微妙な違和感」ぐらいな逸脱に過ぎないが、1555(天文24)年に亡くなっている崇孚の花押を1558(永禄元)年付けで用いていることから、要検討と言える。

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中
戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(長野県・真田宝物館所蔵文書)

偽文書作成者の意図

御宿藤七郎・多気弓七郎の文書は、下記の天野安芸守宛の感状と符合する。

去月廿三日上野端城乗取刻、任雪斎異見、井伊次郎同前ニ為後詰之手当相残于安城云々、誠神妙ノ至也、殊忠功肝要候、仍如件、
十二月七日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0922「今川義元感状」(滋賀県長浜市・布施美術館所蔵文書)

このため、偽作者がとりえた手法は2通り考えられる。

  1. 天野文書を元にして一から創作した
  2. 天野文書に類似する原本があり、それを改変した

前者は、花押が異なることから考えづらい。922号の花押を模写しなかったのは、そもそも偽作者が義元の花押を知らなかったことを強く示唆している。

太原崇孚が発給した暫定感状しか存在せず、義元のものがなかったが故に改変したのだろう。前述の922号に「任雪斎異見」とあることから、崇孚が前線で指揮をとっていたことは確定できる。

太原崇孚が前線で感状を暫定発給したのは、天野文書に残されている。

去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候、追感状可有御申候、急候間早々申候、恐々謹言、尚々松井殿其方取分御粉骨之由、自諸手被申候、雖毎度之儀候、御高名之至候、
九月十日/雪斎崇孚(花押)/天野安芸守殿御報
戦国遺文今川氏編0841「太原崇孚書状」(天野文書)

これに対応して出されたのは下記の文書となる

去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓、各粉骨無比類候旨、誠以神妙之至也、殊被官木下藤三・溝口主計助・気多清左衛門突鑓走廻云々、弥可抽軍忠之状如件、
九月廿日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0847「今川義元感状」(天野文書)

では、何故義元の感状がなかったのか。後年になるが、今川家中で合戦時に報告の手違いがあって、訴訟に発展している。

壬戌年七月廿六日崇山中山落城之砌、其方為高名西郷新左衛門子令生捕、則良知披官中谷清左衛門ニ被相渡候処ニ、依取逃之、彼清左衛門于今ニ令山臨候処ニ、其方曲事之由大原肥前守被申候間、今度其子細申分之上被聞分候間、度々忠節奉公申候之 御判形、我等為奏者被下候所明鏡也、為向後候条、我等一筆進候、仍如件、
永禄六癸亥三月一日/関越氏経(花押)/田嶋新左衛門尉殿
戦国遺文今川氏編1897「関口氏経書下」(本光寺常盤歴史資料館所蔵田嶋文書)

田嶋新左衛門尉が合戦で西郷新左衛門の息子を生け捕った際、良知被官の中谷清左衛門に渡したところ逃がされてしまった。中谷は田嶋の過失だと現場指揮官の大原肥前守に報告して問題化したという。

これと同じようなことが御宿・弓気に起きたのではないか。戦後に情報を整理した結果、この2人の戦果は誤認だったと判り、義元の最終認定が得られなかった。何とか崇孚の臨時感状だけを残したところ、何者かが改変した。

そしてその段階で義元と崇孚の花押誤認が発生し、真田宝物館所蔵文書の偽作時に継承されたと。

偽造部分は見抜けるか

御宿・弓気の例では、この時代の感状をいくつか見たことのある人間であれば容易に違和感を受けるだろう。そう考えると、偽作者は商売として偽造はしつつ後世の識者が見れば一発で見抜けるように作成したのではと思うこともある。わざと変な表記にしたり、決定的に矛盾したりするような情報を故意に織り交ぜたような印象がある。

しかし一方で、疑わしき情報は悉く削り取り、精巧に文言を構成した写しの場合に、後世の人間が見抜くことは殆ど不可能だろう。それが存在しているかすら判らずに踊らされているものも実は多いのかも知れない。後世の我々は確証は絶対持てないためだ。

ただ、要検討を更に吟味して精度を高める試みは有効だと思っていた。他の例を増やしていくことで、偽造箇所が浮き彫りになるのではないかと。だがそれも昔日の夢想になりつつある。

結局はデッドエンド

前回検討した北条氏政書状(戦北2347)は、写しではないという認識が通例で、専門家もその正当性に疑問は持っていない。文言がおかしくても、伝来として不明な点が多くても、花押が奇妙でも、文書自体は要検討にはならず、それを元に比定や解釈をいじろうとしている。

それは逆ではないか?

何とも奇妙な光景だ。史料批判で諸要素の徹底的な検討を経なくてよいのだろうか。

勿論、真正の文書でも奇妙な表現が見られる例もあるだろうし、現状で把握している用例が追い付かずに奇妙に見えてしまっているようなパターンも存在するだろう。ただ、この氏政書状のようにおかしな部分が多数存在しているものは、一つ一つをきちんと検証したうえで用いるべきなのではないか。