2023/04/07(金)駿府にいた賀永の正体

賀永と氏規は別人か?

『言継卿記』に出てくる「賀永」は北条氏規と考えていたが、専門家から別人との仮説が出された。言われてみると「賀永=氏規」という記載はないから、検討が必要だろう。改めて記載を追ってみよう。

賀永関連記述の時系列

◎は寿桂(今川氏親の妻)と同伴している記載。※は参考用記載

  • ◎「大方之孫」10月2日

    湯山(伝聞):寿桂とその娘(中御門宣綱の妻)と共に湯治。「大方之孫、相州北条次男也」と説明している。

  • ◎「孫がいえい若子」10月28日

    寿桂宅:寿桂の他に賀永と上臈(冷泉)・奥殿(元上臈)・中臈頭(小宰相)が在宅している。

  • 「伊豆之若子」12月19日

    伝聞:賀永の祝言があったと言継が聞く。

  • ◎「伊豆之若子」12月23日

    寿桂宅:寿桂へ小鬼子を贈り、同時に賀永へも「矢、車字」を贈る。寿桂から「はつり一包、雉之羽十一具」を、賀永から「羽三具」を贈られる。

  • 「若子」12月24日 単独で言継を訪問

    言継宿所:昨日の大方・若子へ贈った小鬼子を取り寄せ、「木れん子」を「すけ薄」を置く。若子が来て「晩飡」を共にする。

  • 「伊豆之若子賀永」1月2日 単独で破魔矢を贈与

    賀永に依頼していた破魔矢が到着する。

  • ◎「若子賀永」1月3日

    寿桂宅:寿桂へ「薫物十貝」を、賀永へ「五貝」を贈る。三献があり賀永、奥殿・御黒木(言継の養母)が相伴する。

  • ◎「賀永」2月9日

    御黒木宅:十炷香を張行。参加者は御黒木・寿桂・言継・賀永・御まん・奥殿・山宰相・中将・小少将・賀永乳母・あこう・客人・あち・こち・城桶検校。

  • ※「中御門息之喝食」2月22日 再延期された浅間宮廿日会の桟敷で同席

    冷泉弟の子・各和式部少輔・牟礼備前守・朝比奈泰朝・蒲原元賢、由比光綱・光綱弟の十郎兵衛・神尾対馬入道・観世大夫が既に桟敷にいた面々。

  • ◎「賀永」2月29日

    言継宿所:甘利佐渡守が使者として来訪。寿桂から「黄金二両、島つむき三端、紙一束」、賀永から「段子一端、紙一束」、冷泉局から「紙二束」、奥殿から「紙一束、引物二、師子皮こ一対」、小宰相から「香箸、紙一束」が贈られる(その後言継は寿桂宅を訪れるが賀永の名は出てこない)。

従来の通説では「孫」とある繋がりから氏規=賀永とされていた。これに対して「孫は何人もいたはず」としたのが別人説で、更に踏み込んで中御門宣綱の息子を賀永とする説もある。それぞれ、検討してみる。

賀永は中御門信綱の息子か?

まず、中御門宣綱の息子が賀永というのは否定できる。上の一覧で判るように、賀永が中御門息だとすると、名前の呼び方が不自然になってしまう。親交を重ねた言継は2月9日に「賀永」と名のみ記すようになったのに、2月22日にいきなり「中御門息之喝食」と他人行儀になり、2月29日に再び「賀永」呼びになる。これはさすがに不自然だ。

一方、12月19日の賀永祝言に続けて宣綱の行動が記述され「賀永と宣綱は近しい存在」という指摘もある。しかし、記述内容をきちんと読むとおかしい点に気づく。賀永祝言に続けて、宣綱は「無興=不満」だったと書かれている。息子の祝言に不満を持つというのもまた不自然だろう。

元服前の氏規が喝食っぽい名を持っているのを不審に思っての比定かもしれない。しかし、上記のように言継卿記を素直に読む限りでは別人だろう。

賀永と氏規は別人か?

どちらも寿桂の孫と記述されている氏規と賀永は別人だろうか。別人説では、賀永は寿桂孫の一人ではあるものの、相模ではなく「伊豆之若子」と呼ばれたことから後北条との関係者ではないと推測している。

寿桂の孫となると、言継卿記には実に6人も登場する。北条氏康に嫁した娘が産んだと思われる氏規・氏真妻、中御門宣綱に嫁した娘が産んだと思われる娘と息子、義元の息子である氏真、瀬名貞綱に嫁した娘が産んだと思われる虎王。これに対して「孫」として説明されているのは氏規と賀永しかいない。

これは、氏規・賀永が寿桂と同居して孫として扱われていたからだろう。氏規は寿桂の湯治に同行しているし、賀永は8回登場するうちで5回は寿桂同伴である。他の孫達は寿桂と別の生活圏に居住していたため、その関係から説明されたものと思われる。

更に「若子」という尊称がつくのは賀永のみであり、周囲に敬されていたと考えられる。こうした敬称は宣綱の娘に付されていて「姫御料人」と呼ばれているものの、貞綱息子の虎王には付いていない。権大納言である宣綱と、一門とはいえ義元被官である貞綱とで待遇を分けているのだとすれば、賀永は太守氏康の次男だから尊称を付けられたと考えられる。

※興味深いのが宣綱の息子である喝食に尊称がない点。寺に入った者として距離を置いているように見える。であれば喝食風な名を持つ賀永は実態としては寿桂宅にいたため俗人として扱われ「若子」と呼ばれたのだろう。

まとめると、以下の項目から氏規と賀永は同一人物と考えられる。

  • 寿桂と極めて親しい関係にある氏規が、言継卿記では1回の伝聞にしか登場しないのは不可解
  • 寿桂孫として敬され言継卿記で多数登場する賀永が、同時代史料で一切見えないのは不可解
  • 寿桂と常に同行した孫で「若子」の尊称という条件を満たすのは氏規
  • 氏規と全く同条件の人物の存在を比定するよりも、氏規=賀永とした方が自然

相模ではなく伊豆の若子と記されるから後北条とは無縁という推測も、よくよく考えると筋が通っていない(伊豆国は後北条分国)。後北条と無関係でありながら、伊豆と関わりを持った寿桂孫の存在を想定するほうが無理があるのではないか。

伊豆や喝食との関連性

では、氏規はなぜ「伊豆之若子」と呼ばれたり、喝食のような名前「賀永(がえい)」を名乗ったりしたのか。

「伊豆」と「祝言」

私は、「伊豆」が使われるようになった鍵は12月19日の「祝言」にあると考えている。言継はこの祝言を記した後に「中御門無興」と付け加えている(どちらも伝聞)。「無興」は「気に食わない」とか「不満」を指すが、言継卿記では直近の12月5日に登場している。

次中御門へ罷向暫雑談、今日隠居之事、使四人有之云々、無興至極痛入者也

とあり、「隠居」について使者4人が来て宣綱が憤懣やる方ない状況になったと書かれている。14日にも宣綱は「隠居之儀事破云々、種々雖加意見無同心之間罷帰了」とあり、その憤激を言継が宥めようとして諦めた記載もある。その5日後の祝言で宣綱が「無興」というのであれば、賀永の祝言が宣綱隠居と密接に関わっていると考えていいだろう。

宣綱が登場する12月分記載を全て列挙してみた(※11月末に濃密な接触もあったので参考記載)。

  • ※11月28日:中御門宅にて酒宴。
  • ※11月30日:中御門宅にて風呂に入る。
  • 12月01日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月03日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月05日:中御門宅に行き「隠居の件で使者4人が来訪し、強い不満を抱いた」と宣綱から聞く。
  • 12月07日:宣綱から筆が返却される。
  • 12月11日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月13日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月14日:早朝に宣綱から呼び出しがあり、隠居の件が破綻したと激怒される。説得を試みるが効果なし。
  • 12月19日:言継が、伊豆の若子の祝言と、宣綱の不満を伝え聞く。
  • 12月26日:言継が、宣綱から借りていた鏡を返却し、同時に姫御料人へ物を贈る(姫御料人の記載終見)。

宣綱が「無興」になったのは、氏規を姫御料人の婿に迎えて中御門家を継がせたかったのではないか。駿河の今川、遠江の朝比奈に娘を送り込んだ中御門家だから、その計策を練ったとしても突飛な話ではない。何より、政略結婚の画策だと考えると、宣綱の行動のあれこれが腑に落ちる。彼を憤激させた使者4人は後北条氏から来て中御門家との婚姻を謝絶したものだと思われる。

※宣綱には子がいなかったと思われる一方で、異母兄弟とされる宣治には男子(宣教)と女子(宣胤の妻)がいた。宣治は1555(弘治元)年に死去しており、言継が駿府に滞在した弘治2~3年の前に遺児達を引き取って養子にしていた可能性がある。但し、この女子が宣胤の妻となるかは年代的に疑問が残る。宣胤は1569(永禄12)年生まれだから、宣胤の妻はこの女子の娘である可能性の方が高いように思う。

そして、この祝言から「伊豆」が賀永に付されるようになる。これは、北条綱成の娘との婚姻が成立して伊豆に知行を得たからではないか。この時点で氏規知行が伊豆にあったという史料はないが、1565(永禄8)年に伊豆奥郡の手石郷へ朱印状を発給している(戦北891)。また、更に後年になるが氏規の妻は伊豆仁科郷の地頭として名を残している(戦北4969)。結婚を機に伊豆の知行を与えられる可能性は高い。

ちなみに、元服前の婚姻は他に井出千熊・馬淵金千代の婚姻契約があるので問題はない(戦今1667)。むしろ、祝言が元服だとするなら、その後も若子・賀永と呼び続けた理由が判らなくなるから、婚姻と考えるべきだろう。

氏規は喝食だったか?

ここから先は推測・憶測の上に仮説を進める形になるため、一つの仮構として捉えていただきたい。

氏規が喝食のような「賀永」を名乗ったことについて。彼は実際に喝食だったのだろうと考えている。というのも、氏規は後北条一門の中で唯一浄土宗の戒名を持っている。とすれば、臨済宗大徳寺派で占められる後北条一門から離れた場所で浄土宗に帰依する出来事があったと推測される。

今川一門もまた義元以降は臨済宗(妙心寺派)なのだが、義元には氏規を浄土宗に帰依させる動機がある。それが対三河政策で、当時の三河には日蓮宗や浄土真宗、曹洞宗もあったのだが、義元が橋頭堡にしようとした松平一族は浄土宗を信仰していた。恐らくだが、義元は氏規を養子にして三河進出の中心に据えようとしていたのではないか。その足がかりとなる松平氏と同じ宗派にするため、氏規を浄土宗寺院に喝食として入れた。

氏規は終生浄土宗に帰依しており、当時駿府にいなかったと思われる徳川家康となぜか親しかったのは、同じ宗派を信仰しているためだろう(家康の駿府不在は徳川家康登場初期の考察、家康との関係性については北条氏規への偏見についてを参照)。

しかしながら言継卿記の賀永は寿桂宅に起居しているし、当時の駿府で最も有力だった浄土宗寺院(新光明寺)に寄宿していた言継の記述でも寺院関係者としては出てこない。

これは、義元の意図を危ぶんだ寿桂が氏規を引き取って身柄を担保していたのだろう。そしてそれを横からかっさらおうとしたのが宣綱で、亡くなった弟の娘を充てがって中御門家を継がせようと画策していた。

この駿府での騒動に慌てた氏康は綱成の娘との婚姻を強行し、元服前とはいえ伊豆で知行を与えた。このために「伊豆之若子」と呼ばれるようになったのだろう。

しかし、1556(弘治2)年5月2日に座間鈴鹿明神社の棟札銘に「北条藤菊丸」と名を残した氏規が、僅か5ヶ月後の同年10月2日に言継卿記で「賀永」という名乗りになっていたことから考えると、氏規の争奪戦はこの年に相当な速度で進んだようだ。

氏康と同盟した後の義元は西へ一気に勢力を広げており、天文19~22年頃には尾張東部(知多・岩崎)にまで達している。この勢いに乗った義元は、氏康の息子を得たのだろう。義元の後継者は氏真しかおらず、その妻に氏康娘を迎えたとしても縁戚関係は不安定だった。

1545(天文14)年11月9日に実績がある(戦国遺文今川氏編783)ことから、この時も寿桂が氏康と義元を仲介して、氏康次男の藤菊丸を氏真予備として養子にする決定がなされた。その後、1556(弘治2)年から三河国で反乱がが相次ぎ、三河の政情が悪化。この対応に苦慮した義元が、一刻も早くという要請を出し、今川家の将来を憂慮した寿桂が口添えしたのかもしれない。

2023/03/30(木)北条氏康の長男は「氏親」か?

氏康長男の実名

北条氏康長男「天用院殿」の実名が「氏親」であるとの仮説を黒田基樹氏が構築しているが、これは『駿河大宅高橋家過去帳一切』のみに依拠している。ところがこの史料は非公開のものらしく、原本の確認がとれていない(新八王子市史通史編2でも出典が黒田氏『伊勢宗瑞』とあり原本確認ができていない)。黒田氏はこの仮説の補強材料として『足利義氏等和歌短冊』に「氏親」の名があるとしているが、これも成立経緯がよく判らない(この史料は栃木県史中世二に収録されている可能性あり)。

更に、この「天用院殿の実名は氏親説」と、その弟に「氏照」がいることを合わせて同氏は、氏康室の瑞渓院殿が、今川義元の正当性を否定し自らの実子が今川家正統であることを訴えるために、息子たちに氏親・氏照の名をつけたと推測している(今川氏親の長男が氏輝)。

「そもそもこの時代に母親が名付け親になっていたのか?」という疑問をとりえずおくとしても、この仮説には時期的な齟齬があるように思う。

先掲過去帳によると天用院殿死亡時年齢は16歳となっているので生年は天文6年。最も若く12歳で元服したとして天文17年。ところが、義元と氏康は天文14年12月には和睦、その後は両者ともに他方面に進軍を開始しており緊張関係は見られない。同じ史料を使ったとしても既にここで大きな疑問が生じる。

そもそも、この政局で氏康は長男に「氏親」と名付けるだろうか? 義元に対して、今川家当主としての正統性に疑義を叩きつけることもあるし、今川家中にいる氏親偏諱の被官を奪うような行動にもなってしまう。氏親の偏諱を受けた被官は多い(文書で確認できるだけでも朝比奈親徳/親孝、岡部親綱、長池親能がいる)。

北条氏照は今川氏輝に関連している?

氏康室が息子に「氏照」と名付けたのが今川氏輝にあやかったというのは更に不可解だ。今川氏輝を「氏照」と書いた高白斎記があるように、「輝=照」なのは当時の当て字風習から理解はできる。ただ、氏照名乗りの初見である1560(永禄3)年10月20日には後北条・今川の同盟は引き続き順調に稼働しており、偏諱の横取りを画策する状況にない(文書で確認できる氏輝偏諱者は、朝比奈輝綱、輝勝、岡部輝忠、四宮輝明、正木輝綱、由比輝満がいる)。ただ、状況としては義元死後ではあり、駿府とほぼ関わりがないだろう氏照の名乗りに対して、それほどの遠慮はしていなかった可能性はある。それよりは、永禄になって他大名への上洛を促したり名馬を所望したりと干渉し始めた足利義輝の方が意識にあったのだろう。義輝が関東国衆へ「輝」を偏諱したとしても、氏照が吸収できる。「照」と字を変えたのはさすがに遠慮があったか。

他の兄弟

他の兄弟を見ても、氏規は義元の元で元服しているが、「氏規=うじのり=氏範」と音が通じているのが象徴的ではある。今川家通字である「範」の当て字を使っている上に仮名も今川当主の「五郎」に繋がる「助五郎」となっている。もしかしたら今川家での元服直後には「助五郎氏範」を名乗っていたのかもしれない(「氏規」表記が出てくるのは永禄6年の『光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚書』で、関東衆ではなく三河衆として「北条助五郎氏規、氏康次男」として「松平蔵人元康、三河」の直前に書かれている)。京都から見た氏規は家康と絡んだ存在だったのかも。

氏邦は藤田泰邦に養子入りした関係で「邦」を継いだと思われる。

どちらも、元服時にいた家の事情によって命名されている。

氏康長男の実名の推測

私の仮説では、天用院殿は仮名「新九郎」とともに実名「氏政」を名乗っていて、それを次男が継承したとなる。「氏政」は上杉憲政の偏諱簒奪が目的の政治的な命名なのは、憲政がそれを避けるために「憲当」に改名していることから判る(読み方は同じで字だけ変えている)。

しかし、憲政改名は天文14年5月27日~15年4月22日の間で、氏政の登場とは時期が合わない。これをどう考えるべきか考えていたが、憲政を改名させたのは「氏政の前の氏政」がいたからと考えればすっきりする(親子・兄弟で実名を同じにする例は存在する)。

紛らわしいので、ここより以降は最初の氏政(天用院殿)を氏政1、よく知られている次の氏政を氏政2と記述する。

通説だと氏康婚姻は天文4年とされるが、この年だと氏康が20歳で少々遅い。天文2年頃には娶っていたのではないかと思う。この翌々年に長男が生まれたとすると天文15年に12歳となり、元服は可能。前年12月に成立した三国同盟を受けて元服し「氏政」を名乗った。それを知った憲政が偏諱乗っ取りを嫌って「憲当」に改名した(ただ、憲政を名乗ったりもして不規則に変化する、また長尾当長とされる人物も文書だと「政長」を名乗っていて不明瞭な部分は残る)。

憲当は天文21年5月には本拠地失陥が確実になっているが、その直前の3月に氏政1が18歳で早逝してしまう。そこで次男が元服し氏政2となった(氏政2の生年は諸説あるが最も遅い天文10年だったとしても当時12歳で元服は可能)。

憲政改名に「氏政」の偏諱奪取があったとする仮説を組み立てていたが、上杉が上野国を失った後に氏政が登場してきており、ここは疑問だった。しかし、氏政1の存在を考慮するとすっきりと話が繋がる。

ひとまず、ここまでの仮説を年表風にまとめてみる。

  • 天文14年12月:三国同盟成立
  • 天文15年1月:氏政(天用院殿)元服※12歳だとして天文4年生まれで恐らく婚姻翌年の誕生※氏政誕生は天文7~10年、氏規誕生は天文14年

  • 天文15年:4月26日までは「憲政」、7月5日には「憲当」

  • 天文21年3月:天用院殿死去(天文4年生なら享年18歳、氏政は12~15歳、黄梅院は10歳)
  • 天文23年に氏政婚姻(氏政は14~17歳、黄梅院は12歳)

  • 天文3以前:氏康(大聖寺殿)が氏親娘(瑞渓院殿)を娶る

  • 天文4:氏政1(天用院殿)誕生
  • 天文6:氏繁室(新光院殿)誕生
  • 天文9:氏政2(慈雲院殿)誕生
  • 天文14:氏規(一睡院殿)誕生
  • 天文17:氏真室(蔵春院殿)誕生(1554(天文23)年に6歳で嫁入りし1570(元亀元)年に22歳で長男出産)

※氏照・氏邦・三郎景虎、足利義氏室・太田氏資室・武田勝頼室は母が別か養子の可能性を考慮してひとまず除外

2023/03/26(日)辞書との付き合い

独学での辞書利用

私が文書の解釈を独学で始めた際に使ったのが『古文書古記録語辞典』(阿部猛)だった。その後で『音訓引き古文書字典』(林英夫)を入手して、併用している。かなり幅広い言葉が収録されているため、随分と勉強になったのだが、この辞典は私が調べている戦国期に限定したものではない。だから頻出する語でも掲載されていないことが多かった。専門書を読んでも、古文書の細かい部分までは解説されておらず、通説がどのような根拠で形作られているかが把握できなかった。

ここから発想を変えて、コーパスを自力で作るしかないという結論に至った。他の文書を多数データ化して用例を一から調べて確定していく方法だ。参考になったのは三省堂の『例解古語辞典』。この冒頭に掲げられた「古典へのいざない ―豊かな鑑賞は正確な解釈から―」に大いに啓発された。この文章は具体的な解釈事例を挙げた長文なのだが、ごく一部を抜粋してみる。

辞書というものは全国的に信用されいますが、実のところ、それは専門家に対する買いかぶりなのです。国語辞典の場合でも、適切ではない説明や、ときには、明らかな誤りがありますが、古語辞典となると、説明の基礎となる、古文の解釈が十分にできていないために、残念ながらそれがかなり極端なのです。

古典を読んでいて、その文章の中に、見馴れないことばやわからないことばが出てきたとき、この辞書を引くことになります。しかし、その場合、最初の部分に並べられているいくつかの語義の中から、いちばんよくあてはまりそうなものを選んで、それでわかったことにしてしまったのでは、いけません。たしかに、そういうやり方でもひととおりの口語訳ぐらいは、なんとかできるでしょうが、文章の内容まではとうてい理解できません。

その語源がどこにあるかではなくて、実際の場面で、どのように使われているかを調べるのがほんとうだということなのです。その考え方の原則は、いつの時期のことばについても変わるはずがありません。《例解》方式は、演繹によらず、あくまでも帰納に徹して解釈を施し、推定された語源からその語の意味を考えたりすることをしりぞけています。

これを読んでなるほどと納得した。語源と語義の乖離は現代語を見ても明らかで、その時代、その土地の人がその言葉をどういう意味で使っているかはデータの蓄積でしか明らかにできない筈だ。これ故に、辞書で書かれた語義を参照にしつつも鵜呑みにせず、あくまでも他例を優先して解釈していく方針が決まった。

以上のことから導き出された参考例は戦国期の古文書を解釈する基本的なことにまとめた。

専門家解釈への疑問を越えて

とはいえここに至るまでは紆余曲折があり、自らの不見識によって誤読しているのではないか、という疑問を感じている期間は長く、2016年にはかなり煮詰まっていたことがある。

今考えれば「真手=両手の指=十指」という語義があるのだから「真手者=真田の手の者」という解釈が突飛なものだと断言できるのだが、当時はどうにも自信がなかった。しかし、他でも専門書・辞書でおかしな解釈は多々あって、間違っているものは間違っているという境地に至った。

「併」は順接か逆説か

たとえば「併」。私は最終的に「あわせて」と読み、意味も現代語と同じく「同時に・加えて」で全く問題なく解釈しているのだが、解釈を始めた頃は辞書に振り回され、順接・逆説どちらにもなると考えて混乱していた。

実際に辞書を引いてみると、この辺の言葉の説明は入り乱れている。

『音訓引き古文書字典』

  • 併:しかし。然とも書く。そうではあるが。けれども。
  • 雖然:しかりといえども。そうではあるが。そうはいっても。しかし。

『古文書古記録語辞典』

  • 併:しかしながら。併乍、然乍とも書く。ことごとく、全部、さながら、結局、要するに。「だが、しかし」という意味ではない。
  • 然而:しかれども。されど、しかしながら。

そもそも現代語の「しかし」が逆説になっているのが奇妙で、「然り」「然して」は順接で「然れ共・然し乍ら」と書いたら逆説になるのが本来の姿。この語義を無視して「しかしながら」の後半を省略してしまったのが現代語「しかし」だろう。

また、当時の「而」の用法を見ると「~して」「~て」とする表音文字としての例が殆どとなる。「重而=かさねて」「付而=つきて・ついて」「船ニ而=ふねにて」「切而=きりて」「残而=のこりて」「随而=したがいて」「定而=さだめて」など枚挙にいとまがない。

以上から考えると「然而」は「しかりて」と読むのが正しいだろう。

「手前」は第一人称になるか

また、近世以降では第一人称としても使われる「手前」を援用して北条氏直の弁明状を誤解釈している例がある。

名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間、御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候

名胡桃のことは一切知りません。城主とされる中山の書付を提出します。すでに真田の手元へ渡しているものですから、取り合うものではありませんが、越後衆が途中まで出撃し、信濃国川中島と知行替とのことだったので、ご糺明の上で沼田よりそれ以後で加勢したとの報告を受けています。

  • 小田原市史資料編小田原北条1982「北条氏直条書写」(武家事紀三十三)

これを「すでに真田が手前(氏直)へ渡しているものですから」と解釈した著作を見かけたことがある。これを解釈に組み込むと、真田氏自らが名胡桃城を氏直に渡した主張になる。

ところが、当時の「手前」は「(対象人物の)手元」という意味でしかない。つまり、真田氏へ譲渡したことは認めつつも、名胡桃城主からの要請で沼田城から軍事支援して制圧したことを堂々と書いていることになる。

このように、他例を蓄積する例解方式でその時代・地域の語彙を集積して解釈することは重要だろうと思う。この方式で語義を探ったのが以下の記事。

補足『戦国古文書用語辞典』

この書籍はかなり精度が低い。同時代史料からの語彙と、後世の軍記物が混交しているほか、どこからその意味が出てきたのか疑問に思うような語義が見受けられる。読んで得られるものがないので精読はしていないが、目につく事例を紹介してみる。

塩味

えんみ【塩味】1潮時。機会を見失ってはいけない。「不可過御塩味候」 2相談のこと。斟酌する。 3手加減。斟酌する。
しおみ【塩味】潮時。「不可過御塩味」は、機会を見失ってはならないという意。

2つの項目が連携していない上、潮時・斟酌に拘泥して意味が引きづられている。私のコーパスからの推測では「熟慮」の意味。

長々

おさおさし【長々し】それから受ける感じが、侮りがたく、無視できないさまである。

「長々」は非常に例が多いが「ながながと」という意味で問題ない。「おさおさし=長々敷」とすると、1581(天正9)年1月25日の織田信長朱印状しかないが、これも「信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候」とあり、「長々しく交戦していることは、見栄えが悪く悔しい」という意味合い。「長々敷」は現代語の「長々と」と同じで構わないように思う。

戸張・外張

とばり【戸張】戸の張り物。とばり【外張】軍隊の周囲から遠いところ。

外張11例は全て城郭の防御線を指す。戸張は25例あり、名字が8例あるものの、他は全て城郭防御線。

若子

わこ【若子】身分の高い人の男の子ども。

意味自体は問題ないだろうと思うが、引用している例がおかしい。

「若子共を他人之被官ニ出候に付而者、地頭・代官へ申断、徹所を取而可罷越候」(北条家朱印状)

ここで例に出された虎朱印状は1551(天文20)年に西浦百姓中に出されたものだが「若子共を他人之被官ニ出候に付而者」は、前後の文脈から「もし子供を他人の被官に出し候につきては」と読むのが正しいと思う。

若子は高貴な男児であるとするなら、西浦百姓らの子はそもそも該当しない。念のため原文全てを記す。

  • 小田原市史資料編小田原北条0273「北条家虎朱印状」(伊豆木負大川文書)

    西浦五ヶ村あんと拘候百姓等子共、并自前ゝ舟方共、地頭・代官ニ為不断、他所之被官ニ成候事、令停止候、若子共を他人之被官ニ出候に付而者、地頭・代官へ申断、徹所を取而可罷越候、致我侭候者共召返、如前ゝ五ヶ村へ可返付者也、仍如件、
    辛亥六月十日/日付に(虎朱印)/西浦百姓中・代官