2023/01/18(水)永禄初期の鉄炮配備数

永禄4年の小田原城に鉄炮はいくつあったか?

永禄4年3月24日、北条宗哲が小田原籠城の戦況として「鉄炮五百丁籠候間、堀端へも不可寄付候」(戦北687)と書いている。上杉方を撃退しながら小田原へ接近している大藤政信への連絡なので誇張はしていないように見えるものの、実際の手配ではない。本当に500もの鉄炮が小田原城にあったのだろうか。

永禄4年の牛久保城

その少しあとの永禄4年7月20日、今川氏真は岩瀬雅楽介へ戦功を賞す朱印状を発し、その中で雅楽介が塩硝・鉛100斤を牛久保城に搬入したことを記している(戦今1726)。

岩瀬雅楽介以外に鉄炮・弾薬を搬入した者がいた可能性は皆無ではないが、城米置き換え作業と合わせた報告を朝比奈摂津守が氏真にまとめて報告していることを考えると、これが牛久保城全量と見てよいと思う。

この記載によると塩硝と鉛が合計100斤だろう。他例を見ても玉薬と鉛は同数で送っているから、それぞれ50斤ずつになる。ここから鉄炮配備数を割り出せるかを試してみる。

天正11年の吉村又吉郎への支援

天正11年4月18日、織田信雄は吉村又吉郎へ鉄炮の薬20斤と弾丸1000を送っている(愛知県史12_110)。玉薬と鉛は基本的に同数だから、玉薬20斤は1000回の射撃分と見てよいだろう。

とすると、玉薬と鉛はそれぞれ1斤で50回射撃分となる。

つまり、牛久保城へ搬入された50斤の塩硝と鉛は2500回分の弾薬となる。

天正16年の権現山城

ここから鉄炮の数を割り出すため、後北条氏の権現山城配備数を参照する(戦北3380)。城内の小鉄炮は50で玉薬が1200、弾丸が2250(これ以外にも鉛・塩硝を未生成で保持)。

  • 鉄炮1に対して玉薬24、弾丸45。

このほかに、増援で到着したらしい新左衛門尉が持ち込んだ鉄炮が25、玉薬1500(+塩硝1箱)に弾丸3200。

  • 鉄炮1に対して玉薬60、弾丸128。

玉薬が時間で劣化するから作り置きを避けた可能性が高そうなこと、最前線の権現山が既に戦闘を行なって兵器・弾薬を消費していた可能性があることを考えると、援軍として持ち込まれた新左衛門尉の鉄炮1:弾薬128が標準的な割合として妥当だろう。

とすれば牛久保城へ配備想定された鉄炮は、2500÷128で約20の鉄炮だと仮定できる。

権現山城で増援に入った新左衛門尉が一人で鉄炮25を持ち込んだことを考えると、かなりの乖離がある。

岩付城の例

もう一つ城の鉄炮配備数を見てみよう。

天正5年に定められた「諸奉行定書」(戦北1923)によると、岩付に配備された兵員1580のうち、鉄炮数は50で約3%。

  • 小旗:120
  • 鑓:600
  • 鉄炮:50
  • 弓:40
  • 歩者:250
  • 馬上:500
  • 歩走:20

まとめ

情報を取りまとめてみると以下になる。

  • 1561(永禄4)年:牛久保城:20
  • 1577(天正5)年:岩付城:50
  • 1588(天正16)年:権現山城:75

ごく限られたデータだが、時代を追うごとに鉄炮配備数は上がっている。ここから考えると永禄4年当時の小田原城で500配備されていたのは信憑性がなく、せいぜいが50程度だろうと思われる。

2017/04/21(金)北条氏政の息子たち

戦国遺文を元に、可能な限り厳密に考えてみた。

1)まずは南殿(黄梅院殿)に関連した動き。

  • 1554(天文23)年 南殿入嫁(勝山記・高白斎日記)
  • 1555(弘治元)年11月8日 男子出産(勝山記)
  • 1557(弘治3)年11月19日 晴信安産祈願
  • 1562(永禄5)年 氏直生(系図?)
  • 1565(永禄8)年 氏房(系図?)
  • 1566(永禄9)年5月・6月 晴信が安産祈願

2)編年別で追ってみる。

●永禄12年

  • 国王丸 氏真養子となり駿河を譲られる
  • 国増丸 輝虎養子候補となるが幼少で外される10月段階に「5~6歳」なので永禄7~8年生

●天正3年

国増丸の岩槻入りが確認される

●天正5年

9月8日に氏直の名乗り初見。

●天正8年

菊王丸が大井宮に料足寄進(御屋形様・源五郎・御隠居様と連名)源五郎が岩槻で文書発給

菊王は諸書で氏房に比定されている。宗哲は菊寿、氏隆は菊千代なので、名乗り的に久野北条氏と関係があるかも。永禄9年5~6月に晴信が安産祈願している対象が菊王とすると、永禄10年生まれとなり天正8年は14歳で元服前の可能性が大きくなる。系図で氏房を永禄8年とする点は留意が必要。

●天正9年

9月20日十郎殿が初見(相模東郡)

●天正10年

  • 3月6日源五郎が富士川周辺で戦闘
  • 7月8日源五郎死去

●天正11年

7月28日岩槻で氏房が発給文書開始

●天正17年

  • 2月25日氏邦が不法は新太郎へ訴えろと指示
  • 4月27日関宿か江戸近辺での密漁が七郎配下の仕業と判明
  • 8月1日千葉直重が文書発給開始

3)まとめ

某:弘治元年生まれの男子は登場しないため恐らく夭折

新九郎氏直:系図で永禄5年とされるのは、天正5年初見からして妥当。仮名は義氏書状から確定。

後北条氏家臣団人名辞典が「ただし、氏直文書の署名に「北条」と名乗ったものが一通も確認されず不思議である」とする謎も、今川家を継承した前提からとすると国王丸である可能性も高い。

源五郎:岩槻との同時代関連性から国増丸の可能性が高い。実名不詳。

十郎氏房:菊王丸の名が久野北条氏と近しい点、十郎殿が同氏と関係のある相模東郡と関わっている点から、菊王丸=十郎であり、源五郎死後の岩槻に入った氏房が「十郎氏房」を自称していることから、それぞれの比定は妥当。但し生年は永禄10年である可能性が高いと思われる。

七郎直重:七郎と直重の登場時期と地域が近しいため、同一人物の可能性が高い。

新太郎直定:氏邦書状の新太郎と、「新太郎直定」と自称した年欠高室院文書から同一人物との比定は妥当。

※直重・直定は通字「氏」がない点、登場時期から氏政前室黄梅院殿ではなく、後室の鳳翔院殿が母である可能性が高い。

※「顕如上人貝塚御座所日記」の表紙見返しに「相模国北条氏政[四十六歳、天正十四年]、氏直[廿三歳]当家督也」とある。これが正しいとすると、氏政は天文10年、氏直は永禄7年の生まれとなり、それぞれが通説より2歳若い。であるなら、氏直は国増丸だということになる。