今川義元討死直後の文書

2017/04/26鳴海原

三者三様の対応だが、元康書状写は年比定に注意が必要。

去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第候、然者左衛門佐殿、無比類御動、被思食御感候、就其被成御書候、此上之儀、御城之段、御油断有間敷候。尚以左衛門佐御事、日下者不聞得候、今度之儀者、真是非無申事候。爰元之儀、涯分無油断被仰付候、可被心安候、境内之儀人質など事被仰付候者、御内儀可有之申候、恐々謹言、
五月廿二日/三浦内匠助正俊(花押影)/松井山城守殿参御宿所
戦国遺文今川氏編1537「三浦正俊書状写」(土佐国蠧簡集残編六)

今度依忠節、約束之旨可令扶助、在所之儀者、従年寄共可申届者也、仍如件、
五月廿二日/元康(御判形)/浅井六之助とのへ
戦国遺文今川氏編1538「松平元康判物写」(諸牒余録後編巻二九)

今度不慮之儀出来、無是非候、然者当城之儀、堅固申付之由喜悦候、軈而可出馬候、猶三浦内匠助可申候、謹言、
五月廿五日/氏真(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編1539「今川氏真書状」(天野文書)

『王代記』永禄年間のみ抜粋

2017/04/26古記録鳴海原

『王代記』山梨県窪八幡宮の別当上之坊普賢寺の旧蔵。『武田史料集』より永禄年間の記述だけを抜粋。

戊午 永禄元 善光寺如来九月廿五日甲府付玉フ。板垣十月三日地引始。
己未 二 新善光寺板垣立。入仏二月十六日。
庚申 三 八幡牟クウ神會皮葺。二月十八日本願宝林坊。駿河之義元尾張成実ニテウチ死。六月十九日。
辛酉 四
壬戌 五 ■八幡御門會皮葺。七月廿九日本願宝林坊、「永禄五壬戌十月三日高野山大塔ノ大日ノ■指血垂ル。同年十月十八日当社大杉ノ北ノ杉ヨリスゝ色ノ水流ル。次年正月一日上坊土蔵ヨリ火出焼亡。」
癸亥 六 東寺塔焼、四月二日、雷火。善光寺横棟杵立四月四日、本願寺五味庄運。武田之晴信武州松山落居。善光寺棟上三月廿二日。
甲子 七
乙丑 八 善光寺入仏三月廿七日。万部十一日始ル。八幡ノ鐘籠同鳥居檜皮葺、宝林。
十月三日ニ大霜降。
丙寅 九 寅年天下渇水。人民死ス。
丁卯 十 奈良東大寺十月十日ヨリ十三日マデ焼亡。大仏殿ノ内ニ三吉ノ人数籠、松長弾正押寄、彼大仏ニ火ヲ付ノ間悉焼畢。
戊辰 十一 武田信玄様十一月三日駿州江御馬出ル。同十三日府中迄押寄、悉ク放火被成、氏真ハ遠州懸河へ落去。御馬巳年四月廿八日ニ皈申也。