2017/12/04(月)「心もとない」と「お心もとない」

現代でもある敬語の曖昧さ

現代語の文法だと、相手に己の不安と伝える際には「心もとなく思います」と書くと思う。心もとないのは自分の行為だから謙譲が適用されるという理解だ。

ところが「お気持ちをお察しします」という書き方もまた妥当であり、「お気持ちを察します」は奇妙な表現に見える。これは「察する」が自身の行為であるにも関わらず、謙譲は適用されず、丁寧が発動するからだと思われる。相手に寄り添った行為の場合、丁寧か謙譲かは揺らぐような印象があり、どちらかちうと丁寧が用いられる例が多いように感じる。

この源流であるかのように、現代語では整理されている「心もとない」が、戦国期には表記が揺れていたという現象がある。「こころもと」=「心元・心許」に「御」が付いたり付かなかったりで、定まらない。彼らは使い分けていたのだろうか。

この閾値を探るためにデータ化してみた。

  • 「御」あり 31
  • 「御」なし 52

うち、同一文書に複数回出現 6

  • なし・あり・あり 1
  • あり・なし 1
  • なし・なし 4

局面別(あり/なし・割合)

  • 軍事36(9/25・36%)
  • 健康14(5/11・45%)
  • 久闊15(5/10・50%)
  • 確認18(12/6・200%)

宛所と差出人との上下関係に起因するという仮説は「人々御中」で出した文書にも御なしが存在すること、同一文書内で御あり・なしが混在する例が2つあることから、採用は難しい。

辛うじて可能性がありそうなのは、「確認状況では『御あり』が頻出」という傾向ぐらい。

確認する場合はむしろ「心もとない」のは質問者側で、謙譲寄りではある。そこに丁寧を使うということは、情報を貰いたいという立場の弱さから丁重な表現を選んだという解釈は可能かも知れない。

ただやはり、閾値としては「明確なものはなく揺れていた」というところだろうか。

ちなみに、「こころやすく」=「心易・心安」も、同様に「御」がつく場合とつかない場合が混在している。「心もとない」が発話者の動作であるのに比べ、「心やすく」は受話者の行為を要請する文脈で用いられるから、謙譲の向きとしては逆になる。しかし同じように揺れている。142件(御あり87・御なし55)なのだが、御なしでも「被」が入って敬意を表している例も複数あり、もっとややこしいことになっている。

こういった事例も合わせて、何かしらの方向性が判ると解釈はやり易くなるのだけど……。

「心もとない」用例データ

ID 種別 局面 抜粋 月日/差出人/宛所 出典 比定年
01 NS 健康 疵未思様候哉、被印判候、無心元候 七月廿四日/顕定(花押)/長尾信濃守殿 神奈川県史資料編3下6406「上杉顕定書状」(宇津江氏所蔵文書) 1496(明応5)年
02 NS 久闊 罷立以来、仙波の御様体無心元 ■月廿四日/自枚軒祖■(花押影)/■丸丹後守殿 埼玉県史料叢書12_0028「自枚軒某書状写」(温故雑帖五) 1509(永正6)年
03 GS 健康 無御心元存計候、能々御養性■■然候 八月廿六日/増上寺天誉(花押影)/北坊、仙人へ御同宿中 埼玉県史料叢書12_0029「増上寺天誉書状写」(温故雑帖五) 1509(永正6)年
04 GS 状況確認 御上洛之路次如何、無御心元候 八月三日/藤原憲房拝呈/上乗院御同宿中 駿河台大学論叢第41号11「上乗院宛書状写」(古簡雑纂七) 1510(永正7)年
05 NS 軍事 右京大夫被失利之由候、京都之様体無心元候条 八月三日/義元(花押)/宛所欠 戦国遺文今川氏編0900「今川義元書状」(天理図書館所蔵大館記所収御内書案紙背文書) 1549(天文18)年
06 NS 軍事 従井口相揺之由候、因茲其元之備無心元候 八月十八日/晴信(花押)/秋山善右衛門尉殿・室住豊後守殿 戦国遺文武田氏編0642「武田晴信書状」(東京都・吉田家文書) 1555(天文24/弘治元)年
07 GS 久闊 節躰如何、無御心元候 九月十九日/氏康(花押)/佐竹殿 戦国遺文後北条氏編0642「北条氏康書状写」(千秋文庫所蔵佐竹文書) 1560(永禄3)年
08 GS 久闊 御一族中無何事候哉、無御心元候 極月十四日/日叙(花押)/宇野源十郎殿御宿所 戦国遺文後北条氏編4889「日叙書状」(小田原市外郎文書) 1561(永禄4)年
09 NS 健康 仍而近日者口熱以之外相煩、舌内不自由故被差越由、先以無心元候 壬極月十四日/輝虎/長尾但馬守殿 埼玉県史料叢書12_0267「上杉輝虎書状写」(森山文書) 1563(永禄6)年
10 NS 軍事 新六郎敵陣へ移由候、家中儀一段無心元候 正月朔日/氏康(花押)/太田次郎左衛門尉殿・恒岡弾正忠殿 戦国遺文後北条氏編0835「北条氏康書状写」(楓軒文書纂五十三) 1564(永禄7)年
11 GS 状況確認 参着候哉如何、無御心許候 正月七日/北条源三氏照(花押)/越苻江 戦国遺文後北条氏編1136「北条氏照書状」(上杉家文書) 1569(永禄12)年
12 NS 軍事 其地如何、無心元候 壬五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿 戦国遺文後北条氏編1244「北条氏政書状」(岡部文書) 1569(永禄12)年
13 GS 状況確認 仍越国之模様、定而可無御心元間、粗申入候 六月廿八日/源三氏照(花押)/右馬助殿御宿所 戦国遺文後北条氏編1270「北条氏照書状写」(野田家文書) 1569(永禄12)年
14 NS 軍事 今度不慮之造説出来由候、余無心元間、令啓候 七月朔日/氏康(花押)/安保左衛門尉殿 戦国遺文後北条氏編1271「北条氏康書状」(埼玉県立文書館所蔵安保文書) 1569(永禄12)年
15 NS 状況確認 其以来之様子無心元存間、猿楽八右衛門年来心安召仕者候間、越進候 三月三日/氏康居判/直江太和守殿 戦国遺文後北条氏編4682「北条氏康書状写」(謙信公御書八) 1569(永禄12)年
16 GS 久闊 久不申上候之条、其地無御心元存候 卯月四日/基胤・種豊/朝備・同下・同金 戦国遺文今川氏編2331「大沢基胤・中安種豊連署状案」(大沢文書) 1569(永禄12)年
17 NS 久闊 遥々不申承候条、無御心元由候処 八月廿二日/直江大和守景綱(花押)/石川日向守殿御宿所 長岡市史資料編2_391「直江景綱書状」(布施秀治『上杉謙信伝』) 1569(永禄12)年
18 NS 軍事 筒之事ハ路次無心元候間不進之候 九月二日/明十兵光秀(花押)/和源殿 八木書房刊明智光秀013「明智光秀書状」(大津歴史博物館寄託・和田家文書) 1571(元亀2)年
19 NS 状況確認 夜前被罷着様体無心元候間、態以脚力相尋候 十二月六日/孝哲(花押影)/岩上筑前守殿 埼玉県史料叢書12_0419「小山孝哲書状写」(松羅館集古八) 1572(元亀3)年
20 NS 軍事 然者敵動候由、無心元候 九月十七日/氏規(花押)/山本信濃入道殿 戦国遺文後北条氏編4023「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書) 1572(元亀3)年
21 NS 軍事 敵之仕合、万々無心元迄候 極月三日/謙信御居判/松平左近允殿 上越市史別編1_1177「上杉謙信書状」(謙信公御書二所収) 1573(元亀4/天正元)年
22 NS 軍事 加様之処、無心元候間、内ゝ敵之是非承届上、雖可令出張 七月廿三日/氏政(花押)/蘆名殿 戦国遺文後北条氏編1660「北条氏政書状」(鈴木いよ氏所蔵文書) 1573(元亀4/天正元)年
23 NS 軍事 長篠之模様無心許之旨、節々被入芳札快然ニ候 九月八日/勝頼(花押)/真田源太左衛門尉殿 戦国遺文武田氏編2172「武田勝頼書状」(福井県・真田家文書) 1573(元亀4/天正元)年
24 GS 軍事 其表無異儀候哉、無御心元候 十二月四日/明十兵光秀(花押)/和源進之候 八木書房刊明智光秀042「明智光秀書状」(大津市歴史博物館寄託・和田家文書) 1573(元亀4/天正元)年
25 NS 久闊 抑去比者古河之地無心許之段、節々言上、御感悦候 閏霜月廿五日/義氏/新田治部大輔殿 埼玉県史料叢書12_0455「足利義氏書状写」(新田文庫文書) 1574(天正2)年
26 NS 久闊 去比者、古河之地無心元之段、節ゝ言上、御感悦候 閏霜月廿五日/義氏(花押)/由良刑部太輔殿 戦国遺文古河公方編0951「足利義氏書状」(東京大学文学部所蔵由良文書)ほぼ同文の写しが、新田治部大輔、南図書頭宛てで存在。 1574(天正2)年
27 GS 軍事 其口ゝ御弓箭達、如何無御心許存候 八月十二日/源三氏照(花押)/蘆名殿御宿所 戦国遺文後北条氏編1718「北条氏照書状」(名古屋大学文学部所蔵文書) 1574(天正2)年
28 GS 軍事 兼又敵陣へ被立置御人数、被相引之由、一段無御心元存候 閏■月十日/源三氏照(花押)/結城江御報 戦国遺文後北条氏編1746「北条氏照書状」(高橋義彦氏所蔵文書) 1574(天正2)年
29 GS 軍事 向白川御出馬之由、其聞候■無御心元旨、義重へ以使申届間、可然様御指南、可為本望候 二月十二日/氏政(花押)/佐竹中務太輔殿 小田原市史小田原北条1143「北条氏政書状写」(諸家文書) 1574~1576(天正2~4)年
30 NS 久闊 去頃氏政其口へ調義之由、無心元候処、別而無子細之段、其聞簡用至極候 極月廿六日/義重(花押影)/太田新六郎殿 埼玉県史料叢書12_0465「佐竹義重書状写」(神保家文書) 1575(天正3)年
31 GS 健康 疵如何候哉、無御心元候 八月廿一日/日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀060「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
32 G1 健康 仍疵御煩之由、従上京辺申越候、如何無御心許候 九月十六日/惟任日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀061「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
33 N1 健康 いろゝゝと機遣なと候てハ、養性之儀無心元候 九月十六日/惟任日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀061「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
34 NS 久闊 去比者、道無相違帰国候つる哉、無心元候 三月廿五日/氏照(花押)/釣月斎 戦国遺文後北条氏編1977「北条氏照書状」(木村定三氏所蔵文書) 1578(天正6)年
35 GS 軍事 扨亦御進退之儀、無御心元迄候 霜月八日/源政景判/武参 埼玉県史料叢書12_0544「梶原政景書状写」(藩中古文書十二) 1579(天正7)年
36 GS 状況確認 御在庄之模様、依無御心許、為使僧申入候 潤三月廿日/正木左近将監時長(花押)/河津人ゝ御中 戦国遺文後北条氏編4488「正木時長書状」(正木文書) 1580(天正8)年
37 N2 軍事 定貴国被及聞召、無心許可思召候間、令啓候、 七月五日/義頼(花押)/松田尾張守殿 戦国遺文後北条氏編4489「里見義頼書状」(稲子正治氏所蔵文書) 1580(天正8)年
38 N2 軍事 殊甲州筋之様子無心元候 七月五日/義頼(花押)/松田尾張守殿 戦国遺文後北条氏編4489「里見義頼書状」(稲子正治氏所蔵文書) 1580(天正8)年
39 NS 軍事 陣中手成無心元由候而、預脚力候之、祝着之至候之 四月四日/義重(花押)/梶原源太殿 埼玉県史料叢書12_0588「佐竹義重書状」(古典籍展観大入札会目録平成十四年) 1581(天正9)年
40 NS 健康 殊ニ被為御手負之候由、一段無心元候 五月十五日/清上康英(花押)/山太御宿所 戦国遺文後北条氏編4144「清水康英書状」(越前史料所収山本文書) 1581(天正9)年
41 NS 軍事 不応於甲府被相押籠居之様、無心元候之刻、此国へ乱入 三月廿五日/御名御判/水谷伊勢守殿 記録御用所本古文書2128「徳川家康書状写」(水谷家文書) 1582(天正10)年
42 GS 状況確認 然則向御当地候、万々無御心元令存候 十月廿四日/氏政(花押影)/芳春院 埼玉県史料叢書12_0646「北条氏政書状写」(秋田藩家蔵文書三十八) 1582(天正10)年
43 NS 状況確認 御公事之儀如何候、無心許候 五月廿一日/正以(花押)/宛所欠(上書:内宮■波殿まいる御宿所 神戸慈円院正以) 証言本能寺の変第2章16「慈円院正以書状」(神宮文庫所蔵) 1582(天正10)年
44 NS 軍事 将又秩父谷之注進、無心元候 二月三日/氏政(花押)/安房守殿 戦国遺文後北条氏編2301「北条氏政書状」(三上文書) 1582(天正10)年
45 NS 軍事 信州表之儀如何、無心元候 二月九日/氏政(花押)/安房守殿 戦国遺文後北条氏編2304「北条氏政書状」(三上文書) 1582(天正10)年
46 NS 軍事 如何様之御番手候哉、模様無心元候、承度存候 五月廿三日/安氏邦(花押)/大駿御返事 戦国遺文後北条氏編2342「北条氏邦書状」(小田原城天守閣所蔵安居文書) 1582(天正10)年
47 GS 状況確認 余無御心元候故、自是申達候キ 八月廿五日/氏政(花押)/寒松斎 戦国遺文後北条氏編2403「北条氏政書状写」(相州文書所収淘綾郡荘左衛門所蔵文書) 1582(天正10)年
48 GS 軍事 御陣中無御心元候間、自小田原以使可申候 霜月十二日/松田尾張入道憲秀(花押)/上野筑後守殿御陣所 戦国遺文後北条氏編2446「松田憲秀書状」(高橋義隆氏所蔵文書) 1582(天正10)年
49 GS 健康 近日御煩御平臥之御様候歟、一段無御心元存候 四月九日/各ゝ/奥州御報人ゝ御中 戦国遺文後北条氏編4510「足利家奉行人連署書状案」(喜連川家文書案二) 1583(天正11)年
50 N3 久闊 其以後者遙々絶音問候、内々無心元候刻 七月十三日/氏照(花押)/阿久沢彦次郎殿 埼玉県史料叢書12_0721「北条氏照書状」(阿久沢文書) 1584(天正12)年
51 N3 健康 御人衆手負鑓疵切疵数多負候由、一段無心元候 七月十三日/氏照(花押)/阿久沢彦次郎殿 埼玉県史料叢書12_0721「北条氏照書状」(阿久沢文書) 1584(天正12)年
52 NS 軍事 御備之様子朝暮無心元存許候 七月廿六日/北美氏規(花押)/酒左御陣所 戦国遺文後北条氏編2691「北条氏規書状」(本光寺所蔵田島文書) 1584(天正12)年
53 GS 状況確認 為如何今度者無御出陣候哉、無御心元候 十二月十日/氏直(花押)/小幡兵衛尉殿 小田原市史小田原北条1716「北条氏直書状」(千葉県千葉市立郷土博物館小幡文書) 1585(天正13)年
54 NS 軍事 万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者 九月八日/氏直(花押)/原豊前守殿 戦国遺文後北条氏編2855「北条氏直書状」(東京国立博物館所蔵文書) 1585(天正13)年
55 NS 状況確認 何も及御報候間、参着如何無心元存候 六月朔日/氏照書判/片倉小十郎殿 戦国遺文後北条氏編3332「北条氏照書状写」(片倉代々記二) 1586(天正14)年
56 NS 軍事 重而早ゝ可申越候、一段無心元候 卯月廿七日/氏政(花押)/猪俣能登守殿 戦国遺文後北条氏編3446「北条氏政書状」(東京大学史料編纂室所蔵猪俣文書) 1587~1590(天正15~18)年
57 NS 状況確認 去秋不入斎為指上候以来様子、無心元候条 極月十四日/政宗(花押)/羽柴筑前守殿 神奈川県史資料編3下9419「伊達政宗書状」(島田耕作氏所蔵文書) 1588(天正16)年
58 GS 状況確認 貴辺副状無之候、一段御心元候処 卯月十四日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参 戦国遺文後北条氏編3305「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵片倉文書) 1588(天正16)年
59 NS 久闊 其以来一切無音之間、無心元候処 卯月十六日/氏政(花押)/宛所欠 戦国遺文後北条氏編3306「北条氏政書状」(慶応義塾大学図書館所蔵反町十郎氏蒐集文書) 1588(天正16)年
60 NS 状況確認 次片倉小十郎方他行故此度不預書状候、無心元候 七月廿九日/氏照(花押)/原田左馬助殿参 戦国遺文後北条氏編3478「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵伊達文書) 1589(天正17)年
61 GS 久闊 又不蒙仰候、内ゝ無御心元候刻、態氏直所へ預御状候 十二月廿七日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参 戦国遺文後北条氏編3591「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵伊達文書) 1589(天正17)年
62 NS 軍事 小屋共作籠かや家之事候間、火之廻無心元候 五月廿一日/松佐渡守康成(花押影)/山信濃守殿参御宿所 埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」(越前史料所収山本文書) 1590(天正18)年
63 GS 久闊 実城御帰之以後者、是非御左右不承届候、無御心元存候 正月廿五日/平七助利(花押)/下野守殿御宿所 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p27「簗田助利書状写」(下総旧事三) 1590(天正18)年
64 NS 軍事 那波衆之内無心元■■■之由 ■月廿三日/氏政(花押)/■津木下総守殿 小田原市史小田原北条2068「北条氏政判物」(大坂城天守閣所蔵宇津木文書) 1590(天正18)年
65 GS 軍事 御物主者御幼少ニ候へ者、奥方御苦労中ゝ無御心元候之処 三月朔日/覚全(花押)/彦部豊前守殿御報 戦国遺文後北条氏編3665「千葉覚全書状」(肥田文書) 1590(天正18)年
66 N4 健康 其方手きすハ如何候哉、無心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
67 G4 状況確認 長尾方申越候間、奉待候処、于今御延引無御心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
68 G4 状況確認 進愚書候処、不参着候由大蔵寺被申候、無御心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
69 NS 健康 相煩之由、無心元候 七月五日/氏照「花押」/間宮若狭守殿 埼玉県史料叢書12_付138「北条氏照書状写」(勝沼斎藤家文書) 年欠
70 NS 久闊 近年相違無心元候 七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守) 埼玉県史料叢書12_付144「垪和康忠書状写」(寺院証文一)戦国遺文後北条氏編4200に別翻刻あり 年欠
71 NS 軍事 火手見候上無心元候間 三月晦日/顕定(花押)/三田弾正忠殿 駿河大学論叢40号24「三田弾正忠宛書状」(谷合島太郎氏所蔵文書) 年欠
72 NS 健康 近日胤富煩之由、一段無心元候 三月七日/義氏(花押)/千葉新介殿 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p52「足利義氏書状」(千葉市立郷土博物館寄託田丸哲也氏所蔵文書) 年欠
73 NS 軍事 其地之様躰、如何無心元候 六月廿日/氏照(花押)/横地監物殿 戦国遺文後北条氏編3906「北条氏照書状写」(佐野家蔵文書) 年欠
74 GS 軍事 爰元御動御模様、余無御心元存候間、昨日着陳申候 九月一日/黒沢上野守繁信(花押)/鑁阿寺御衆中貴報 戦国遺文後北条氏編4118「黒沢繁信書状」(鑁阿寺文書) 年欠
75 GS 健康 御帰路之刻より少御煩之由一段無御心元存候 十一月八日/大新直昌(花押)/太民御報 戦国遺文後北条氏編4158「大道寺直昌書状写」(新編会津風土記六) 年欠
76 N5 軍事 自何機嫌如何、無心元候、御出馬廿日之由聞候 廿三日/国繁(花押)/宛所欠(上書:大沢下総守殿・同彦次郎殿 従桐生) 戦国遺文後北条氏編4239「由良国繁書状」(大沢武一氏所蔵文書) 年欠
77 N5 軍事 真候哉、無心元候 廿三日/国繁(花押)/宛所欠(上書:大沢下総守殿・同彦次郎殿 従桐生) 戦国遺文後北条氏編4239「由良国繁書状」(大沢武一氏所蔵文書) 年欠
78 GS 状況確認 とかくそこもと御心もとなく候まゝ、申とゝけまいらせ候 六月廿九日さるのこく/たね富(花押)/ひら川こうしつへ 戦国遺文後北条氏編4982「千葉胤富書状写」(豊前氏古文書抄) 年欠
79 N6 久闊 如何様之模様候哉、一段無心元候 六月十三日/信玄御書印/岡部五郎兵衛尉殿 戦国遺文今川氏編1547「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書) 年欠
80 N6 軍事 二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処、無恙帰府 六月十三日/信玄御書印/岡部五郎兵衛尉殿 戦国遺文今川氏編1547「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書) 年欠
81 GS 軍事 然者薩多陣之様躰、近日之儀如何無御心元計候 二月廿九日/胤富(花押)/豊前山城守殿 戦国遺文今川氏編2735「千葉胤富書状」(松戸市立博物館所蔵間宮家文書) 年欠
82 NS 健康 煩由無心元候 六月廿九日/光秀(花押)/宛所欠(表書:三■■■殿 光秀) 八木書房刊明智光秀148「明智光秀書状」(尊経閣文庫所蔵) 年欠
83 GS 状況確認 猶無御心元候間、先以飛脚申候 十月十九日/宗瑞(花押)/謹上小笠原左衛門佐殿御宿所 戦国遺文今川氏編0186「伊勢盛時書状」(早雲寺文書) 1506(永正3)年

2017/12/02(土)逼塞の用例(毛利元就)

元就が用いた「ひつそく」

『日本国語大辞典』に用例として毛利元就の用いた「逼塞」がある。但し、同辞書の初版では「謹慎すること」、第2版では「内心推量すること」と変わっている。

これには充分な解釈論拠があるのだろうか。実は、小和田哲男氏の著作では「逼塞」を「内に秘める」と解釈している。

恐らく小和田氏は「逼塞」という語の近世的意味から「秘める」というニュアンスを籠めたのかも知れない。

『戦国武将の手紙を読む』(小和田哲男・中公新書)

翻刻

一此間も如申候元春隆景ちかひの事候
共隆元ひとへニゝ以親気毎度
かんにんあるへく候ゝ又隆元
ちかひの事候共両人之御事者御した
かい候ハて不可叶順儀候ゝ
両人之事ハ爰元ニ御入候者まことに
福原桂なとうへしたニて何と成とも
隆元下知ニ御したかひ候ハて叶間しく
 候
間唯今如此候とてもたゝゝ内心ニハ
此御ひつそくたるへく候ゝ

現代語解釈

一 この間も申しあげましたが、元春・隆景が隆元と意見が違うことがあった場合、隆元が堪忍することも大事ですが、元春・隆景も兄の意見に従うようにして下さい。両人が従えば、福原や桂といった重臣たちまで隆元の下知に従うことになるでしょう。意見が違うことがあっても、できるだけ表には出さず、内に秘めるようにして下さい。

後北条氏の例との比較

この元就の例は、私が調べた東国の用例とは別個の語義として存在するのだろうか。試みに当てはめてみようと思う。

前の投稿で挙げた「逼塞」の語義案のうち、1の「心が近く通い合っている状況」が元就のものと合致するように思う。

この元就書状の他の文言を見ても、元就が息子たちに伝えたかったのは兄弟が結束することの重要性なのは明らかである。弟2人が兄に従えば被官たちに示しもつくぞと利点を挙げている。ここに繋げる言葉として、2つを比べてみる。

  • 小和田氏案:内心対立があっても隠せ
  • 日国案:内心推量せよ
  • 高村案:内心では心を一つにせよ

ここで解釈を、なるべくニュートラルでやり直してみる。

一、この間も申したように、元春・隆景が違う意見を持っていても、隆元はひたすら親心で毎度許すように。また、隆元が違う意見が持っていても、両人がお言葉にお従いしなくては、順の儀は適いません。両人が、こちらに入っていれば、本当に福原・桂などが上下関係でどうなったとしても、隆元下知にお従いしなければ適わなくなるのですから、現在こうなっているのだとしても、ただただ、内心はこの『ご逼塞』でありますように。

「ただただ」という表現からは、やはり「心を近しく一つにする」が最も妥当だと考えられる。推量や隠蔽をわざわざ指示する意図が把握できない。

この文書の他の条項を見ても三人の「心持ち」が重要だと何度も念を押している。また、「三人之半少ニてもかけこへたても候ハゝ、たゝゝ三人御滅亡と可被思召候ゝ」→「3人の仲が少しでも懸子・隔意となったなら、ただただ3人はご滅亡すると思っておいて下さい」とも書いている。

ここから見ても、やはり逼塞は心を一つにする用法でよいのではないかと思う。

2017/12/01(金)各種辞典にない戦国期「逼塞」の語義

「逼塞」の用例

近藤綱秀が片倉景綱に送った「何分ニも如御作事、逼塞可被下候」が不明で「逼塞」の用例を確認した。

  • 埼玉県史料叢書12_0807「近藤綱秀書状」(片倉家資料)1587(天正15)年比定

    如仰其以来者、懇之御音絶候、内々無心元存知候刻、御懇札本望至極候、然者従貴国小田原・奥州へ、御状則御取成申候、委細者御報ニ被申述候、尤前々之御筋目与申、無二被仰合候者、何分ニも如御作事、逼塞可被下候、此処御取成御前ニ候、随身之御奉公申度候、是又奉頼候、委曲彼御使僧へ被申渡候条、令略候、恐々謹言、
    正月三日/近藤出羽守綱秀(花押)/片倉小十郎殿参御報

戦国期の「逼塞」(用例の抜粋は後述)

  1. 心が近く通い合っている状況 5例
  2. 追い立てられて苦しい状況 5例

1と2のどちらになるかという点は、前半の「なにぶんにも御作事のごとく」から類推可能だ。この「御作事」が何かというと、別文書にヒントがある。

  • 戦国遺文後北条氏編3305「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵片倉文書)1588(天正16)年比定

    今般従政宗、氏直へ態預御札候、先筋目候之処、貴辺副状無之候、一段御心元候処、境目ニ御在城之由候、一入苦労之至存候、向後者貴国当方無二御入魂可有之段、別而御取成尤候、当方弓矢之義者何分ニも政宗御作事馳走可申候、為其申届候、恐ゝ謹言、
    卯月十四日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参

翌年4月に北条氏照が片倉景綱に宛てた書状で「当方弓矢之義者何分ニも政宗御作事馳走可申候」と書いた内容と同じだと思われる。後北条家の軍事行動は、何においても伊達政宗の御作事への馳走とするでしょう、という申し出だから、御作事=政宗の行動・作戦を示すと見るのが妥当。そして氏照と同じ趣旨を綱秀も語っていると考えるなら、1の用例になると結論が出せる。

Web上にある佐竹氏文書でも多数の「逼塞」が確認できるが、何れも1と2のどちらかで解釈可能だ。

ところが、ここで挙げた1と2の意味は古文書用の辞書に載っていない。

各辞典による解説

戦国期に限った辞典ではないためか、近世刑罰を念頭に置いたものが多い。何れも、戦国期史料とは合致してこない。

『同時代国語大辞典』

1)世間に出るのを憚って、自宅に籠っていること。2)内内心をひきしめ、自らを律すること。

『日本国語大辞典』

1)せまりふさがること。逼迫していること。2)姿を隠してこもること。3)刑罰。

『音訓引き古文書字典』

1)ひきこもること。姿を隠すこと。2)刑罰の一つ。武士や僧に科された謹慎刑。門を閉じ、昼間を出入りを禁じられた。※逼迫 1)行き詰まって苦痛や危機がせまること。2)さしせまること。困窮すること。

『古文書難語辞典』

近世、士分・僧侶に科せられた刑。一定期間門を閉じて自宅にこもる。ただし、夜間、くぐり戸からの出入りは許された。

『古文書古記録語辞典』

逼迫に同じ。1)謹慎している。2)零落して引きこもる。

原義から考え直し

辞書になければ、用例を列挙して文脈から意味を探るしかない。ひとまず文字の成り立ちを考えると、

  • 「逼」何かと何かが近づいて迫る・寄る様子
  • 「塞」塞がっている・閉じている様子

となり、密着・切迫を(する・される)という意味合いが考えられる。

これを元に2つの群に分けてみた。これが前段の1と2の語義となる。

1)心が近く通い合っている状況

北条氏繁が『岩崎』に、北条氏政が蘆名盛氏との対話を望む心底を強調する

「対盛氏無二可申談心底逼塞被申候」埼叢12_436

足利晴氏に対して忠誠心を強調する北条氏康

「若君様御誕生以来者、尚以忠信一三昧令逼塞候処」小田原市史212

那須資親に対して忠誠心を求める足利義氏

「此上無二忠信逼塞管要候」古河市史936

会田内蔵助の忠誠心を認める簗田晴助

「年来忠信令逼塞候之上」埼叢12_195

千葉覚全が彦部豊前守に、奥方の扱いでの助力で心を一つにしたいと望む

「奥方世上乱入候者、其地へ可罷移之由御内儀候共、誠ゝ、一力得申、向後者、其逼塞迄候」戦北3665

2)追い立てられて苦しい状況

武田との戦いのため切迫した心情で越相同盟を模索する北条氏康

「其上年来之被抛是非、越府與有一味、信玄へ被散鬱憤度、以逼塞、旧冬自由倉内在城之方へ内義被申候処、従松石・河伯以使被御申立之由候」神3下7665

戦乱で耕地を荒らされた領民に渋々援助をする北条氏忠

「進退之御侘言申上間、雖御逼塞候、五貫文ニ弐人ふち被下候」戦北1514

捨てた妻が心配で連絡したいものの悶々とする正木時長

「相・房御和睦以来、内ゝ疾可令啓達旨、雖令逼塞候」戦北4488

家中で反乱があり鎮圧を迫られていた里見義頼

「其上大膳亮拘之地催備、企逆儀候之条、不及是非候、因茲可加退治逼塞ニ候」戦北4489

小田城を追い出されていた小田氏治

「仍今度小田之儀、押詰可付落居由、逼塞之処、氏治彼地出城」埼叢12_297

補記『日本国語大辞典』での記載

コメントでご指摘をいただいた点を受け、上記では軽く記載したに留めた『日本国語大辞典』での記載を追加記述してみる。私は当初見たのは初版のみであった。ここでは意味2の謹慎用例として毛利元就書状が挙げられていた。ところが、第2版では元就書状が独立して意味を立てられていた。

初版

1(ーする)せまりふさがること。逼迫していること。2(ーする)姿を隠してこもること。身をつつしむこと。謹慎すること。また、零落して引きこもること。落ちぶれて世間から隠れ住むこと。※毛利元道氏所蔵文書(弘治三年)11月25日・毛利元就自筆書状(日本の古文書)「ただただ内心には此御ひっそくたるべく候」 3江戸時代の刑罰の一つ。武士・僧侶に科せられた自由刑で、門を閉じ昼間の出入りは禁ぜられたが、夜間潜戸から目立たないように出入りすることは許された。50日、30日の二種類があり、閉門より軽く、遠慮より重い。

第2版

1(ーする)せまりふさがること。逼迫していること。2(ーする)姿を隠してこもること。身をつつしむこと。謹慎すること。また、零落して引きこもること。落ちぶれて世間から隠れ住むこと。※仮名草子・智恵鑑(1660)1・11「御勘気をかうむり、ひっそくしおるものなどを」※浮世草子・武家義理物語(1688)2・1「其の身は遠所の山里にひっそくして」※浄瑠璃・大経師昔暦(1715)中「家屋敷をも人手に預けるひっそくの身」※六如庵詩鉦-二編(1797)三・寄題波響楼「神仙中人厭偪側高居常愛海上楼」※夢酔独言(1843)「おのしは度々不埒があるから先当分はひっ足して、始終の身の思安をしろ」 3(ーする)内心推量すること。※毛利家文書-(弘治3年)(1557)11月25日・毛利元就書状(大日本古文書2・405)「唯今如此候とても、ただただ内心には、此御ひっそくたるべく候」 4江戸時代の刑罰の一つ。武士・僧侶に科せられた自由刑で、門を閉じ昼間の出入りは禁ぜられたが、夜間潜り戸から目立たないように出入りすることは許された。50日、30日の二種類があり、閉門より軽く、遠慮より重い。

この元就書状の全文を改めて調べる必要があるが、「内心推量すること」が唐突に出現したことは、他の例や文字の成り立ちから見て違和感がある。とはいえ毛利家では東国とは異なる意味体系を持っていた可能性がある。ここは検討を続けたい。

2017/11/07(火)小幡兵衛尉の処遇に関連する文書

岡田利世、小幡信定に、降伏を促す

  • 戦国遺文後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年に比定。

当城を六月七日両日相尋候へハ、はや其方へ御越候由候、不懸御目御残多存知候、彦三様より貴所様之事内ゝ心懸申候へて被仰越候条、小田原へ取寄候時分より、いかなるつてニても、セめて書状を取かわし申度候而、さまゝゝ調略共仕候へ共、此方ハ不苦候へ共、城中ニて御法度つよく候由候而、御為いかゝと存候て不申入候、六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候、一、彦三様御身上之事いかか被思食候哉、其方之御様子之通ニてハ是又家康へか内府へ御出候て尤候、一、忍之城御セめ候わんとて越後衆・羽筑前殿ニ被仰付候、昨夕此地まて御越候間今朝すくニおしへ御越候、定而彦三郎殿もおしへ可為御参陣候哉、貴所様もおしへ御出候ハん哉、御大儀なから御馬とり一人ニて此方へ御出候事ハなるましく候哉、以而上彦三様御身上又ハ貴所様御身上之事申談度候、一、信州あいき息宗太郎も家康へ罷出度と被申間、津田小平次と我ゝ両人して肝煎申候ハんと申候ても不人事、被仰候間、片時もいそぎ申談度候、一、先度木村ニ直談申候、先年信州こむろニて、井野五左衛門と申人へやくそく申候金子早ゝ御済候て尤候由申入候、五左衛門と申人、其時ハほうはいニて候今ハ上様御馬廻ニて一段御意よしニて候定而其方より御出可申候へ共、我もひきやうをかまへ候カなとゝ申候てめいわく仕候、けにゝゝ難相済候、一時も御いそき候て是非を御きわめ候て、其上不相調候者それにしたかひ御分別なされ尤候、上州之事家康へまいり候事必定と相聞申候間、家康へ御詫言候やうにと存候て、内府へも大かた申籠候、内府より被仰候者家康之御まへハ可相済候と存候、一、小田原城当年中ハ家康可有御出由候、来年江戸へ御越候へと被仰出候、一、此間ハ近年家康之御分国を一円ニ内府へ可被遣候と申候キ、三川国ニ別人を御おき候て其かわりニ上州を内府へ被遣候ハんなとゝ、たた今御本陣より被越候人被申候、あわれゝゝさ様ニも御及候へハ、彦三様御身上其まゝ相済申事候、莵角いつれの道ニても、内府を御頼候て家康へ御理候てハはつれぬ御事たるへきと存候、一、貴所様御身上なともなにとそ御分別尤候、彦三郎殿御身上如前ゝ相済候へハよく候、若不相済候とて俄ニとやかくと被仰候ても、難相調候間、我ゝ請取不申候ハゝ急度 上使を可遣候なとゝ申候而、此間ハ日ゝニ申来候而難儀仕候、急度被仰付候而尤候、一、当城之御無事之きわニ貴所様之事疎略仕候様ニ可思食八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ、不及了簡候、とかくたゝ今御身上御きわめて尤候、少御やすミ候て、何分是へ木村存知ニて候間、可有御出候哉、申談度候、恐惶謹言、
六月八日/利世(花押)/宛所欠(上書:岡田新■■利世 小幡兵衛尉殿人々御中)

 この城を6月7日から2日訪れましたので、早くもそちらへお知らせになったとのこと。お目にかかれず大変残念に思います。彦三様よりあなた様のことを内々で心がけてほしいと仰せいただいていたので、小田原を包囲した時分より、どのような伝手でもせめて書状を交換したいと考え、様々な手段を試みましたが、こちらは問題なくても、城中ではご法度が強いとのことで、そちらのためにならないと思って申し入れませんでした。6日・7日の2日間は垪和善七郎殿という方を頼んで案内する者を得てお訪ねしました。氏直様お一人で2夜お酒などをいただきましたので、昨日7日の晩に家康の陣へお立ち寄りになりました。 一、彦三様の身の上のこと、いかがお考えでしょうか。そちらのご様子の通りだと、こちらもまた家康へか内府(信雄)へ出仕なさるのがもっともです。 一、忍の城をお攻めになるということで、越後衆と前田利家殿へご命令になりました。昨夕この地にお越しだったので、今朝すぐに忍へお出かけになりました。きっと彦三郎殿も忍へご参陣なさるでしょうか。あなた様も忍へお出でになりますか。お手数ですが、お馬とり1人だけ連れてこちらへお出でになるのはかないませんか。その上で、彦三様の身の上、またはあなた様の身の上のことをご相談したく思います。 一、信濃国相木の息子宗太郎も家康へ出仕したいと申されているので、津田小平次と私の2人で肝煎りして申し上げようとしても人事とならぬと仰せになられているので、とにかく急いでご相談したく思います。 一、先に木村へ直接申しました。先年信濃国『こむろ』(小諸)で井野五左衛門というに約束した金銭を早々にご返済するのがもっともであると申し入れがありました。五左衛門という人は、その時は同僚で、今は上様のお馬廻で一段と目をかけられています。きっとそちらからお返しになるでしょうが、私も裏表があるのかと言われて困っています。本当に紛糾しているので、一時もおかずお急ぎになって事実を確認して、その上で揉めるようならそれによってご判断さなるのがもっともです。上野国のことは家康へ与えられることは間違いないと聞いていますので、家康へお詫び言するようにと考え、内府へも大体は申し含めています。内府から仰せになれば家康に仕えることは済んだも同然です。 一、小田原城は今年一杯は家康へ渡されるとのことです。来年は江戸へ移るように仰せになられました。 一、この間、近年の家康ご分国を全て内府へ渡されるだろうとのことでした。三河国に別の人を置かれて、その代わりに上野国を内府へ遣わすなどと、ただいまご本陣より来られた方が申されています。かわいそうに、そうなってしまったら、彦三様の身の上はそのままでは済まなくなることです。とにかくどのようになったとしても、内府をお頼りになって、家康へご説明なさらねば進展はないだろうと思います。 一、あなた様の身の上なども、どうかご分別なさるのがもっともです。彦三郎殿の身の上は前々のように済めばよいことです。もし済まないことになって急にとやかく申されても、調整するのは難しいでしょうから、私たちが保障できなければ、上使を派遣するだろうなどと言ってきています。このところ毎日言ってきて難儀しています。急いでご指示いただくのがもっともです。 一、当城のご無事の際に、あなた様のことを疎略に扱うような思し召しは、八幡にも富士権現・白山権現にも精を入れていることは、大概のことではありませんけれども、巡り会わせが悪く懸け違いが起きては了見を得ません。とにかくただいま身の上をお決めになるのがもっともです。少しお休みになって、なにぶんこのことは木村も存じていますから、お出でになりませんか。ご相談したく。

井伊直政、小幡信定の陸奥遠征を労い上野国で助力することを約す

  • 戦国遺文後北条氏編4549「井伊直政書状写」(加賀小幡文書)天正18年に比定。

    別て炎天時分御辛労無申計候、次黒田官兵様へ心得て可有、於小田原之万ゝ御取籠付て委細不申遂候、此返御心得所仰候、内ゝ御床敷存幸便之間一筆令申候、其已来者遠路故給音問所存外候、小田原御立之時分者御暇乞不申候、奥へ御供之由、扨ゝ御苦労察入申候、拙者者箕輪へ可罷移由御上意候間、先ゝ当地ニ移申事候、爰元御用等候者、可被仰越候、少も疎略有間敷候、何様御帰之時分、以而申入候者可承候、如在存間敷候、猶重而可申達候、恐々謹言、
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/小幡右兵衛尉■

 内々にお懐かしく思い、便があったので一筆申し上げます。あれ以来は遠路によってご連絡いただけるとは考えておりませんでした。小田原をお発ちの時にはご挨拶を申し上げませんでした。陸奥国へお供されたとのこと。さてさて、ご苦労お察しします。私は箕輪へ移るように上意がありましたので、とにかくこの地へ移りました。こちらでご用向きの際は、仰せになって下さい。少しの粗略もありません。色々とお帰りになった際にお申し入れいただければ、承りましょう。手抜かりはありません。さらに重ねてご伝達しましょう。 別途。炎天の時分のご辛労は申し上げるばかりもありません。次に、黒田官兵衛様へ心得を言い付かりました。小田原においては色々と取り込んで詳細を申し遂げられませんでした。この返信はお心得を仰ぐところです。

井伊直政、某に、所領の維持が困難であることを告げる

  • 戦国遺文後北条氏編4550「井伊直政書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年、小幡兵衛尉宛に比定。

    就貴所乃御身上之儀、自岡田新八郎殿被仰越候、其郡之儀者、未何方へも不相定候間、先其地ニ有之、御世上見合尤ニ候、何方よりも六ケ敷申候由、早ゝ御注進所仰候、御国竝之儀候間、内ゝ御他国仕度候御心懸候て尤ニ候、御荷物已下、少障り者有間敷候間、可有御心安候、少も事六ケ敷被、(後欠ヵ)
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/宛所欠

 貴所の身の振り方について、岡田新八郎殿よりご連絡がありました。あの郡のことは、まだどこへとも決まっていませんので、まずあの地にいていただき、世の流れを見極めるのがもっともです。どこよりも難しく申していること、早々にご注進と仰せのところ、御国並のことですから、内々で他国への支度をするお気持ちでいるのがもっともです。お荷物などは少しも損なうことはあり得ませんから、ご安心下さい。少しも事が難しく……(後半断か)

2017/11/06(月)実隆公記 1498(明応7)年、1507(永正4)年記述抜粋

「鎌倉姫君将軍御妹」は、足利義澄の妹でこのあとに消息を絶つ。

明応7年

1月19日

向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也

1月24日

東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云

1月19日。今川氏に養育されていた将軍(足利義澄)の妹である鎌倉姫君が近日上洛し、東隣に向かうということを聞き及び、赴いて相談する。 1月24日。将軍の親族である姫君が駿河国から上洛して、東隣に滞在したという。

永正4年

2月13日

霽、自晩雨降、入夜甚、公兄朝臣明日可下向駿州云々、為暇請予罷向、於女中有杯酌、中納言以下参会

2月14日

晴、(中略)今日三条少将公兄朝臣下駿河、外祖母彼国守護今川母也、路粮料万疋上云々、

5月24日

霽、暁雨甚、玄清来、自駿河金代納之、先以蘇息者也、

2月13日。みぞれ。晩より雨が降り、夜に入ると激しくなった。三条公兄朝臣が明日駿河国へ下向するだろうという。あらかじめ挨拶に向かい、女中の酌で宴席があり、中納言以下が参会した。 2月14日。晴れ。(中略)今日三条少将公兄朝臣が駿河国へ下る。外祖母はあの国の守護である今川氏の母。移動費用が1万疋(100貫文)という。 5月24日。みぞれ。明け方に雨が激しかった。玄清が来る。駿河国の金を代納。まずは息がつけた。

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