2018/06/12(火)後北条氏はどの段階で当主を「大途」と言ったのか

後北条家の当主はいつから「大途」と呼ばれたのか

『戦国大名と公儀』(久保健一郎)にある表を元にして、後北条家が文書で「大途」をどのように使ったのかを改めて調べてみた。

久保健一郎氏はこの書籍で、後北条当主が「大途」を呼ばれることになった最初の例を、1550(天文19)年の相承院文書(戦北380)に据えている。このことから、古河公方との関係性において「大途」が出てきたと推測されている。

しかし、下記で史料を検討したように相承院文書を読んでみると、この「大途」は当主人格には当たらない。

以下、初期の「大途」を細かく読んでみると、古河公方というよりは、上杉輝虎との関係性において立ち上がってくるのが当主人格の「大途」だと。

後北条氏が完全に「大途=当主人格」と言い切れる用例を使ったのは、1562(永禄5)年が初めてとなる。

その後、上杉輝虎と同盟交渉で「大途」は当主以外の用例で出てくるのが例外で出てきて、更に1571(元亀2)年に曖昧な使い方をしているのを最後にして大途=当主の用例に傾いていく。

つまり、永禄3~4年の大攻勢を経て、越相同盟交渉での相互の相対化を経由して「当主=大途」が後北条家の中で確立されていくようだ。

史料

1550(天文19)年

6月18日

中納言へ之判形をは大道寺可渡遣候
相承院一跡之事、前ゝ中納言ニ被申合候事、様躰無紛聞候、大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候、仍三浦郡大多和郷、前ゝ相承院拘之地之由候、然ニ、近年龍源院被致代官候、龍源死去候之間、大多和郷相承院江渡置候、彼郷年貢之事、本務五拾余貫文、増分六拾七貫文ニ候、此内、為廻御影供之方、増分六拾七貫文、院家中配当ニ相定候、残而五拾貫文、相承院可為所務候、彼郷重而附置候上者、可然僧をも被御覧立、只今之中納言ニ被相副、相承院無退転様ニ可有御助言候、恐ゝ敬白、
六月十八日/氏康(花押)/宛所欠(上書:金剛王院御同宿中 北条氏康)

  • 戦国遺文後北条氏編0380「北条氏康書状」(相承院文書) 1550(天文19)年

そもそも、当主自身の氏康が裁決しているのに、「大途=当主」の公事には及ばないという書き方はしないだろう。「大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候」というのは、この案件は「公事に及ばず=議論し裁決するほどのことではない」という主張が主であり、その形容詞としての「大途」が「名分としては・大きくいえば→表立って・仰々しく」という形容詞になっていき、「大げさに裁判するほどのことではないから、大道寺と桑原が指示を出す」と解釈すべきだろう。こちらの方が意味は通る。

1560(永禄3)年

9月3日

芳札披閲候、抑 関宿様江言上御申之由、目出珍重候、御満足之段、以御次可及披露候、就中、佐竹御間之儀、一両度雖及意見候、無納得候、遠境与云、我等助言不可届候、并那須御間之事、承候、当那須方与入魂之儀無之候、大都迄候、雖然蒙仰儀候間、連ゝ可及諷諌候、畢竟、如承瑞雲院頼被申肝要存候、委曲御使芳賀大蔵着与口上候条、不能具候、恐ゝ謹言
有明卅丁給候、祝着候、
九月三日/氏康(花押)/白川殿

  • 戦国遺文後北条氏編0641「北条氏康書状」(東京大学文学部所蔵白川文書)

北条氏康が白川結城氏に対して、那須氏とはそんなに付き合いがないと書いている。「大都まで」というのは「大まかな形だけ」という表現を指すだろう。

10月15日

態啓候、其地普請堅固ニ出来之由、稼之段、肝要候、但、大敵可請返地形、爰元無腹蔵可有談合候、仍分端之動事如何、那波地難儀間、大途調迄者、遅ゝ候条、先一動可有之由茂因へも申越候、其方相稼、早ゝ先一動可有之候、委細河尻申候、恐ゝ謹言、
十月十五日/氏康(花押)/宛所欠

  • 戦国遺文後北条氏編0650「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

北条氏康が、迫り来る上杉氏の来攻を前に「那波の地は難しいので『大途調』までは遅々としているので」と書いている。大途調はどうも「殆どの情報を調べ上げるまでは」と解釈すると意が通るように思う。

1562(永禄5)年

8月12日

知行方之事
五貫文、円岡
壱貫文、田村ニあり、松村弥三郎分
弐貫文、すへのニあり、小林寺分
以上、八貫文
右去年以来、於日尾御走廻ニ付而、申請進之候、御大途御判形者、各ゝ一通ニ罷出申候間、拙者判進之候、仍如件、
八月十二日/南図書助(花押)/出浦小四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編0775「南図書助判物」(出浦文書)

この「大途」は当主人格を指す可能性が高い。丁寧語として「御」を付けているし、その「御判形」となれば、虎朱印を指すと思われるからだ。

1563(永禄6)年

4月12日

書出
一ヶ所、堤郷
一ヶ所、篠塚・中島
以上
右、当所進之候、可有知行候、猶本領之替、大途へ申立、可進之者也、仍如件、
永禄六年卯月十二日/氏照(花押)/安中丹後守殿

  • 戦国遺文後北条氏編0808「北条氏照判物」(市ヶ谷八幡神社文書)

本領替えを申し立てる対象が「大途」なので、これは当主人格だろう。

7月28日

三沢之郷之事、各無足ニ候へ共、被走廻ニ付而、自大途被成御落着候、全相抱弥以可被励忠節候、於此上ニも、猶可被加御扶持状如件、
亥七月廿八日/横地(花押)/十騎衆

  • 埼玉県史料叢書12_0260「横地吉信判物」(土方文書)

持ち出しで活躍した十騎衆に対して、大途より状況が落ち着いたら三沢郷を与えようと約束した判物。三沢郷を与える権限を持つということで、大途は当主氏政を指すだろう。

1570(永禄13/元亀元)年

2月27日

今度御分国中人改有之而何時も一廉之弓矢之刻者、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当之望之義被仰付可被下候、并罷出者兵粮可被下候、於自今以後ニ虎御印判を以御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者去とてハ、其国ニ有之者ハ罷出、不走廻而不叶意趣ニ候処ニ、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)二見右馬助・松井織部助・玉井孫三郎/宛所欠 -戦国遺文後北条氏編1384「北条家朱印状」(高岸文書)

国の危機に際して全国民を徴発する権利を主張するもの。背く者を処罰することについて「これは大途のご非分ではない」と言い切っている。大途を大義名分に言い換えても意味が通じる気もするが、「御非分」と丁寧語にしている点からみると当主である可能性がとても高いと思う。

2月27日

今度御■国中人改有之而、何時も一廉之弓箭之■■、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当望之義被仰付可被■■、并罷出者、兵粮可被下候、於自今以後、虎御印判を以、御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者、去とてハ其国ニ有之者ハ、罷出不走廻而不叶意趣ニ候処、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)横地助四郎・久保惣左衛門尉・大藤代横溝太郎右衛門尉/鑓、今井郷名主小林惣右衛門

  • 戦国遺文後北条氏編1385「北条家朱印状」(清水淳三郎氏文書)

前号文書と同文。

3月26日

一、此度被翻宝印、望申如案文、遠左被召出、預御血判候、誠忝令満足事
一、三郎、来五日、無風雨之嫌、当地可致発足事
付、彼日取流布候間、其砌信玄出張無心元存候、畢竟利根川端迄、此方送随分堅固ニ可申付候、利根川向端はたより可渡申間、倉内衆・厩橋衆堅ゝ被仰付専一候事
一、相房一和、先段如申届、不可背御作意候、猶様子顕書中候、此時御彼国へ被指越、引詰而御落着専要存事
一、初秋之御行、何分にも可有御談合由、誠本望至極候、但、只今御労兵之砌と云、窺御帰国信玄擬之処、大切存候、爰元進藤方・垪和両口ニ、委細申付候間、御備之様子、具御返答待入事
一、愚老父子条書之内、武上之面ゝ、後日無異儀様、弥可定とハ如何不被聞召届由候、爰元専ニ遠左ニ申含候、不達上聞処、左衛門尉越度、無是非候、併御奏者挨拶ニ、此儀二三之申事之由、被押旨致陳法候、武上之二字所を指而者、忍・松山大途雖無御別儀候、一度越苻可蒙御退治趣、深存詰候、越相御骨肉ニ被仰合上者、並而相州可得退治候、然時者、信玄へ申寄外無之由、指出申候、はや通用三度及五度者、信玄可乗計策事必然候、信玄ニ内通可令停止者、越苻為先御誓詞、忍・松山証人可取間、極御誓句段申入候、垪和ニも此口味同前候、猶此度申入候、委細口上ニ可有之事
一、新太郎所へ如被披露御条書者、愚老父子表裏を当憶意哉之由、蒙仰候、既此度前ゝ之誓句を改、只一ヶ条、無二無三ニ可申合段、翻宝印、以血判申上者、表裏之儀、争可有之候哉、惣而前ゝ誓句之内、一点毛頭心中ニ存曲節儀無之候キ、御不審之儀者、何ヶ度も可預御糺明候、就中実子両人渡進儀、誠山よりも高、大海よりも深存置処、猶愚ニ思召候事、無曲存候、此上も、或者佞人之申成、或者不逢御意模様可有之候、当座ニ御尋千言万句肝要候、さて御入魂之上者、相互道理之外不可有之間、於道理者、不及用捨可申展候、不届儀者、何ヶ度も御糺明、此度互ニ御血判之可為意趣事
一、此度三郎参候路次以下之儀、由信致馳走様ニ被仰付、肝要存候事
以上、
三月廿六日/氏政(花押)・氏康(花押)/山内殿

  • 小田原市史小田原北条0950「北条氏政・同氏康連署条目」(米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

後北条氏が当主を「大途」と呼ぶのは家中に限られるので、上杉輝虎との交信で使われたこの例は該当しない。ただ、参考までに呼んでみると「忍・松山大途雖無御別儀候」=「忍・松山は『大途=ほとんど』別儀はないとはいえ」と読める。

1571(元亀2)年

8月20日

改而定御扶持給請取様之事
一、弐貫七百文、扶持上下三人九ヶ月分
此内
九百文、八・九・十、三ヶ月分、八月廿五日より同晦日を切而可請取
九百文、十一・十二・申正月、三ヶ月分、十月晦日ニ可請取
九百文、申二・三・四、三ヶ月分、正月晦日ニ可請取
以上弐貫七百文、九ヶ月分皆済
此外九百文、申五・六・七、三ヶ月分、申六月可出
一、七貫七百五十文、給、自分
三貫文、同、番子
以上拾貫七百五十文
此内
三貫弐百文、九月廿日を切而可請取
三貫弐百文、十月廿日を切而可請取
四貫三百五十文、霜月廿日を切而可請取
以上拾三貫四百五十文
合拾三貫四百五十文、給扶持辻
此出所
弐貫七百文、扶持、西郡懸銭米、安藤豊前守・松井織部前より、於小田原御蔵、可請取之
七貫七百五十文、給、同所懸銭米、両人前より、於御蔵、可請取
三貫文、番子給、同理、同理
以上拾三貫四百五十文
右、定置日限無相違可請取之、若日限相延者、五割之利分を加、厳渡手ニ致催促、可請取之、猶不承引者、可捧目安、如此定置上、年内ニ給扶持不相済、至于申歳令侘言候共、大途不可有御許容者也、仍如件
追而、此配符来年七月迄可指置、若出所至于申歳令相違者、別紙ニ御配符可被下、無相違者、如去年与云一筆之御印判可出者也、
辛未八月廿日/(虎朱印)/畳弥左衛門・同番子

  • 戦国遺文後北条氏編1507「北条家朱印状写」(相州文書所収足柄下郡仁左衛門所蔵文書)

この大途は、両方にとれる。「侘言をしても許容しない」のが眼目なので大途=当主と見た方が読みやすいが、「御」が見当たらず「大義名分的に許可は出ない」という表現なのだとしても通りはする。もしくは、どちらでも読めることを見越して使っている可能性もある。

1574(天正2)年

2月21日

以御飛脚・御直札遂披露御返書進之候、委細御紙面ニ候条、不能重説候、大坪之地正左再興申候歟、無是非存候、大途をも可抱地ニ候哉、如蒙仰甲州御扱之内如此之儀、不及是非候、彼使衆ニ御理在之様可遂披露候、然者輝虎厩橋近所へ越山之由注進候、因茲被摧諸勢火急ニ御出馬候、彼表之様子追而可申候、時分柄如何ニ候間、為指儀不可有之候歟、随而甲州・房へ之使近日当地迄帰路候、義堯御父子御返答一途無之、毎度之分と、先甲陣へ御通候帰路之砌、勝頼御同意ニ可有御返答分ニ候、其上其表之儀落着可申候、只今者越衆之行被合御覧之儀迄ニ候、麦秋以前ニ北口之儀者可相澄候歟、追而可遂御内談候、珍儀可申入候、又可蒙仰候、恐ゝ謹言、
二月廿一日/松左憲秀(花押)/原式参御報

  • 戦国遺文後北条氏編3937「松田憲秀書状」(西山本門寺文書)

文意がとりづらいのだが、大坪という土地について、正木氏が再興しようということなのかと質問し、是非もないとしながら更に「大途をも抱えるべき地なのか」と訊いている。正木を通して大坪の地権を後北条当主が保証すべきなのか、という点を確認したかったと思われる。形容詞として「名分的にも抱えるのか」と質問したようにも解釈可能だが、そうなると質問を重ねた意図が判らなくなる。

9月3日

従品河之郷所々江欠落之者之事、人返者御国法ニ候、為先此一札領主へ申断、不移時日可召返候、若違乱之輩有之者、背国法子細ニ候、大途江申立、可及其断者也、仍如件、
天正二年甲戌九月三日/氏照(花押)/品河町人・百姓中

  • 戦国遺文後北条氏編1726「北条氏照判物写」(武州文書所収荏原郡清左衛門所蔵文書)

この文書より先は、「大途=当主」と見てほぼ例外はない。

9月10日

下足立里村之内保正寺寺領之事、大途無御存而、先年自検地之砌、御領所ニ相紛候歟、彼寺領壱貫弐百文、如前ゝ無相違御寄進候、仍状如件、
天正二年甲戌九月十日/(虎朱印)評定衆四郎左衛門尉康定(花押)/保正寺

  • 戦国遺文後北条氏編1728「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡法性寺文書)

1575(天正3)年

3月22日

●(前欠)小曲輪十人、内村屋敷へ出門十人、板部岡曲輪十人、関役所二階門六人、同所蔵之番十人、鈴木役所之門以上一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事以上右、定所如件、
乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

  • 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)

2018/06/11(月)朝比奈文書にある謎文書

朝比奈文書にある謎の書付

戦北に北条氏規書状として掲載されている書付がある。これは朝比奈泰寄の家に伝来したもので、異筆で「御返事 にら山ニて給候御文」とあるだけで、月日・差出人・宛所の何れも欠いている。親しい間柄で短く返信してきたのだろう。韮山で受け取ったとある。この内容が難しい。

志かとそのくつハ仕置可被成候、五日のうちたるやう候、いくたひ何分申候へ共、御聞わけなく候、あさましき御存分にて候と存候て、くちおしく候、彼またにハあしかる共百余人さし置候、その物主一人二人ハかくしてかなわす候、そもゝゝ其方なとあるへき所に候や、見まいも更ニ不入候、日のうち一度ハかりさへ見まわり候へハすミ候、此度に分別不参候と存候て、あさましく口惜候、二人の子共ニ二度あり不申候、ほう偽にハ不申候、謹言、
月日欠/差出人欠/宛所欠[後筆:御返事 にら山ニて給候御文]

  • 戦国遺文後北条氏編4030「北条氏規書状」(朝比奈文書)

伝来や書き方から考えると、宛所は朝比奈泰寄・差出人は北条氏規で良いだろうけど、確信はない。とはいえややこしいので以下【泰寄】【氏規】と書く。

文全体から掴みとってみる

全体の文意を見ると、3つの軸がある。

  1. 轡の仕置きを5日の内に行なうよう、差出人が厳重に言ったのに従わなかった。
  2. 足軽共100余人の物主(責任者)は命じられない。
  3. 2人の子供に2度目はない。

鍵になるのは「二人の子共ニ二度あり不申候」で、【泰寄】・【氏規】のどちらかが、この息子2人の父親なのだろうと推測できる。そう考えると、以下の点が具体的に解釈できる。

  • 「その物主一人二人ハ」と、2人とも物主にするか、少なくとも1人はするかを匂わせている点。「その物主ハ」でも文意が通らなくもないのに、「一人二人」を挿入しているということは、息子2人とも物主に命じたい意向が【氏規】にあったからだと解釈できる。

  • 「そもゝゝ其方なとあるへき所に候や」と、そもそも何故お前がいるのだと、問うている点。この書付が返書であることから、まず轡仕置きの遅滞を咎める【氏規】の書面が兄弟(息子2人)の元に届き、兄弟に代わって返信したのが【泰寄】という経緯があり、それに【氏規】が返信したのがこの書付と考えられる。兄弟に宛てたのに【泰寄】から返信があったからこその「なぜお前が」という苛立った問いかけになっている。


※ちなみに。戦北では「その物主一人二人ハかくしてかなわす候」の「かくして」を「隠して」と注記しているが、「斯くして=このようにして」の方が「かなわす=適わず」に繋がり易いと思う。「斯」は「如斯」という言い回しが多いが、このような書付ではより砕けた言い回しになり「如」は用いずに強い口調になっていると思われる。

難読部分の解釈

文書全体の方向性が見えたところで、通常の読み方では把握できない部分を細かく見ていく。

「志かとそのくつハ仕置可被成候」

この「仕置」は「調達」だろうと考えている。後段で1日1回見回ればよいだけなのに、それもできないのかという指摘があるため、「くつハ」という在所の管理という解釈も可能ではある。ただ「五日のうちたるやう候」という条件が加えられていることから、これが納期だと考えると、馬具の轡を調達しようとしていた可能性が非常に高い。この「五日のうち」が、当該月の5日が締め切りということを示すか、5日間以内ということを示すかは、この史料からは判らない。

「彼またにハあしかる共百余人さし置候」

足軽100余人を配置した「彼また」は地名か地形を指すのかと考えたが、「また」が「表」の誤翻刻だとすれば意味が通り易い。原文を見ていないため推測になるが、「彼表」としておきたい。

「ほう偽にハ不申候」

「ほう」が判らない。この文は「2人の子供にもう2度と機会は与えない」という脅しの後に入っていて、この後は「謹言」で終えている。かなり強い言い切りに続けて「これは嘘ではない」と補強しているから、「ほう」が「万々」の誤翻刻だと見て「万々偽には申さず=少しも偽りではない」とすると意が通る。こちらも原文を見ていないので推測だが、仮定しておく。

読み下してみる

仮置きした部分は『』で括ってある。

しかとその『くつは=轡』仕置きなられ候、
五日の内たるやう候、
幾たび何分申し候へども、
お聞き分けなく候、
浅ましきご存分にて候と存じ候て、
口惜しく候、
彼『また=表』には足軽共百余人差し置き候、
その物主一人二人は『かくして=斯くして』適わず候、
そもそもその方などあるべきところに候や、
見舞いも更に入らず候、
日の内一度ばかりさえ見回り候へ済み候、
この度に分別参らず候と存じ候て、
浅ましく口惜しく候、
二人の子供に二度あり申さず候、
『ほう=万々』偽りには申さず候、

現代語に解釈してみる

轡を調達するように、5日の内にと、しっかり何度も指示したのに、お聞き分けがありません。

浅ましいお考えと思い、悔しいです。

あの方面には足軽100余人を配置しました。

その物主<として>1人か2人を<と考えていましたが>これでは<任命も>適いません。

そもそも、あなたなどがいるべきところでしょうか。

さらには見舞いもしていません。

1日1回だけ見回れば済むことです。

今回分別できないことを思うと、浅ましく悔しいです。

2人の子供に2度<と機会>はありません。少しも偽りには申しません。

謹言

子供2人の正体

この息子の父親はどちらだろう。

氏規が父親?

氏規には氏盛・辰千代がいるが、もしこの兄弟だとすると、齢から見て天正17~18年だろう。天正15年3月21日に泰寄が辰千代の陣代に命じられていて状況から見ると違和感はない(戦北3067)。

ただ文面が適さないように見える。絶望的な戦いを前に氏規は兄に逆らっていたりもするが、この文書にはそうした切迫感が薄い。せいぜい「2度目はないぞ」が決死の意味を帯びてくると思うのだが、ではなぜ、轡の調達がそんなに重要なのか、そしてそれを弱年の息子たちに任せた理由も判らない。

泰寄が父親?

泰寄の場合、家臣団辞典によると泰之(六郎大夫)が嫡男と目されている。泰之は1571(元亀2)年に初出。1574(天正2)年には高野山高室院に書状を出しているので、氏盛・辰千代より年長だった可能性が高い。

雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、
八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中

  • 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)※戦国遺文では年未詳としていて家臣団辞典でなぜ天正2年比定をしたかは不明。恐らく「南条因幡守在陣」と絡めての比定で、妥当性があると考えるのでこれに従う。

この泰之と兄弟(某)が対象だったとすれば、この書付が出されたのは天正9年に伊豆が主戦場になった対武田戦が見込まれると思う。この時は笠原正晴が武田に寝返ってしまい、後北条方は劣勢に陥っている。

寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処、北条美濃守出人数間遂一戦刻、頸壱討捕条、神妙候、仍大刀一腰遣之候、自今以後弥可励武功者也、仍如件、
十二月八日/勝頼(花押)/小野沢五郎兵衛殿

  • 戦国遺文武田氏編3632「武田勝頼感状」(愛知県南知多町・加古貞吉氏所蔵文書)

武田勝頼に追い込まれていて、物主として強引にでも若手を起用したかったのではないか。ただその切迫度は、「戦う前から負ける」と判っていた天正18年よりはかなり低い。これは、若者の未熟に愚痴ったり叱責して育てようとしたりという文脈とも合致する。

そう考えると、泰寄の息子2人(泰之・某)に直接指導していた氏規が、割り込んできた泰寄もろともに兄弟を叱った書付という仮説が成り立つだろう。ただ、泰之は泰寄との血縁関係を直接明示した史料が残されておらず、この解明が必要になる。

また、同書によると別系と比定されるものの、「朝比奈右衛門尉」がいる。この官途を名乗った綱堯が1521(永正18)年~1542(天文11)年に活動した史料が残されている。1585(天正13)年と1588(天正16)年に氏規奉者として「朝比奈右衛門尉」が登場するので、この右衛門尉は、綱堯の後継者である可能性が高い。但し家臣団辞典では1590(天正18)年7月の北条氏規朱印状に登場する「朝比奈兵衛尉」をもこの綱堯後継者に比定しているが、泰寄は1592(天正20)年の北条氏盛判物(戦北4322)に登場することから、そのまま泰寄に比定すべきだと思う。

知行方
弐百石、丈六
三百石、南宮村
以上五百
右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、
天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)

2018/06/07(木)駿河・相模の杉山氏

今川と後北条の双方に名が見える杉山氏の史料をまとめてみた。

1494(明応3)年

9月20日 駿河安部山俵峯・杉山太郎衛門

安部山内俵峯半分之事、今度山中より出忠節として所充行也、於此上尚々可抽忠功者也、仍如件、
明応三九月廿日/文頭に(朱印「印文未詳」)/杉山太郎衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編0089「今川氏親黒印状」(杉山文書)
1550(天文19)年

4月30日 駿河阿野庄井出郷・杉山惣兵衛

駿河国阿野庄井出郷之内、相拘名職内給恩之事
右、拾弐石九斗、畠銭弐貫五百文并金山領等停止諸役、所宛行之也、然今度彼給主年来申掠之段、雖訴人有之、興国寺城番以下、此五人参百貫文役可相勤之由、遂訴訟之条、只今為新給恩永領掌不可有相違、但自余地又者他国出陣之時者、可随其員数、酉年之河東一乱以来、令在府、別奉公神妙也、弥可励忠節之状如件、
天文十九四月晦日/治部大輔(花押影)/杉山惣兵衛殿

  • 戦国遺文今川氏編0942「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写附二)
1552(天文21)年

4月12日 駿河安部山俵峯・杉山某(連名:望月某)

安部之内たわら峯之事
右、勤湯山之普請之条、四分一・押立諸役等令免許之、但棟別之儀者、如前々可令沙汰者也、仍如件、
天文廿一年四月十二日/文頭に(朱印「如律令」)/杉山・望月

  • 戦国遺文今川氏編1086「今川義元朱印状」(杉山文書)

10月11日 駿河安部山俵峯・杉山小太郎

駿河国阿部内俵峯相拘名職屋敷等之事
右、相定年貢諸役、如前々可勤之、以継母計別子又者親類等仁割分之儀、恣雖出置之、遺跡不相渡以前兼不相断、於不知之者不可許容之、只今号割分田畠等、各於押取之者、進退可及退転之旨、遂訴訟之条、所出判形也、仍如件、
天文廿一年十月十一日/袖に(今川義元花押)/杉山小太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編1110「今川義元判物」(杉山文書)
1553(天文22)年

2月12日 駿河泉郷・杉山善二郎

駿河国泉郷案内者、子年令検地之上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之由、致請納之条忠節也、彼本増之外、相拘名職之内、増分拾石壱斗、并見出畠銭之増分共五貫文、永代所出置也、但惣国大風大旱魃惣虫付之年者、以奉行明鏡可改之、若於向後、代官百姓等為横合、拘置名職雖令競望、一切不許容者也、仍如件、
天文廿二年二月十二日/(今川義元花押影)/杉山善二郎

  • 戦国遺文今川氏編1128「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)
天文末~弘治頃

11月24日 在所欠・杉山市蔵

芳札令披見候、如来意去十三日雪、北条家茶会之事羨鋪打過処、雪降済候之間、被相招候段、別而致大慶候、宗賀■被差加、於令同伴ハ寔可有興候、明廿五日朝卯刻以参可謝候、恐々、
十一月廿四日/治部大輔(花押)/杉山市蔵殿へ

  • 戦国遺文今川氏編1526「今川義元書状」(弘文荘待買古書目二九)
1560(永禄3)年

8月8日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷為案内者、子年令検地之上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之由、致請納之条忠節也、然者彼本増之外相拘名職之内、増分拾石壱斗并見出畠銭之増分共五貫文、永代所出置也、雖然去卯年重而有訴人増分雖申出、於彼忠節之儀者、任先判形之旨、年来被出置之上者、縦於向後代官百姓等為横合、拘置名職雖令競望、是又任先判形之旨、永不可有相違者也、仍如件、
永禄参庚申年八月八日/氏真(花押影)/杉山縫殿助殿

  • 戦国遺文今川氏編1566「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)
1563(永禄6)年

月日欠 在所欠・杉山小太郎(連名:望月四郎右衛門)

棟別之事
右、今度就三州急用免許之棟別、一返悉雖取之、両人事者依勤陣参、不準地下人之間、永免除畢、向後免許棟別雖相破之、両人儀者不可有相違者也、仍如件、
永禄六癸亥/文頭に(朱印「如律令」)/杉山小太郎殿・望月四郎右衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編1908「今川氏真朱印状」(杉山文書)
1564(永禄7)年

6月5日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷為案内者、子年令検地上、弐百俵之増分出来、其上本増共可為定納之旨請納忠節也、彼本増之外、相拘名職之内増分拾石壱斗、并見出畠銭之増分共五貫文、永代所被出置、天沢寺殿判形明鏡也、然処飯尾若狭入道号新田、雖成競望、先判形等歴然之上令落着、定林院一札并百姓等証文明鏡之間、永不可有相違、重而若狭入道并百姓等聊不可令無沙汰者也、仍如件、
永禄七年六月五日/上総介(花押)/杉山縫殿助殿

  • 戦国遺文今川氏編1993「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)
1567(永禄10)年

2月1日 駿河泉郷・杉山縫殿助

駿河国泉郷、去子年改之上、以弐百俵之増分、本増共為定納請納、忠節之至也、因茲十石壱斗并見出畠増分共五貫文、為忠節分所出置、任天沢寺殿御判形旨領掌訖、然者飯尾若狭入道上置七十三俵、百姓等隠置之処、訴出令蔵入之条、是又忠節之至也、縦雖企百姓其外如何様之競望、為条々忠節之上者、一切不可許容、但大風旱大虫之年者、以奉行検見之上可申付之旨、任先御判畢、以此旨、年貢以下毎年速可令沙汰者也、如件、
永禄十丁卯年二月朔日/(今川氏真花押影)/杉山縫殿助

  • 戦国遺文今川氏編2122「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

9月28日 在所欠・杉山小太郎

屋敷分之内竹木事
右、於用之時者、従奏者方可申付之条、地下次ニ見伐等一切停止候也、若押於伐取者、依言上急度可加下知、以此旨、弥可令奉公者也、仍如件、
永禄十年卯九月廿八日/文頭に(朱印「如律令」)/杉山小大郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2147「今川氏真朱印状」(杉山文書)
1568(永禄11)年

12月18日 在所欠・杉山周防守

遠候之儀大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候、検使可為布施佐渡守、此掟妄ニ付而者可為曲事候、恐々謹言、
十二月十八日/氏政(花押)/清水太郎左衛門殿・布施佐渡守殿・大藤式部丞殿・杉山周防守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1123「北条氏政書状写」(小沼氏所蔵文書)
1571(元亀2)年

7月28日 相模東郡・杉山惣次郎

着到定
一、五拾九貫文
相州東郡、吉岡此着到
一本、大小旗持、具足・皮笠
一本、四方指物持、同理
二本、鑓、二間之中柄、武具同理
一騎、自身、甲大立物・具足・面防・手蓋、馬鎧金
二人、歩者、具足・皮笠、以上七人
一、小田原於御蔵可請取衆
五貫文、歩侍、甲立物・具足・手蓋
弐貫四百文、二人扶持、
一本、鑓、武庄左衛門尉、七貫四百文、二人同理、鈴木半右衛門、七貫四百文、二人同理、杉山惣次郎、七貫四百文、二人同理、大庭弥七郎
以上
廿九貫六百文
此内、廿貫文、給九貫六百文、扶持八人分、
以上、合拾五人、
上下此内一本、小小旗、四郎左衛門一本、指物、源十郎
六本、鑓、源四郎、平四郎、與五郎、三入、衛門四郎、藤二郎
一騎、馬上四人、
歩侍、清右衛門二人、
歩者、大郎五郎
以上拾五人
一、此帳に書戴候寄手、或者闕落、或ハ令死去者、五日中令披露、一跡之様子下知次第可立之候、若号失念、五日を踏出相尋時令披露者、背掟条、寄子之跡他人ニ可申付候、其時公儀へ侘言不可付候事、
一、御出馬より一日も遅罷立、一騎合有之者、則可披露候、若令用捨、御尋之上候者、背掟間、彼寄子可付他人候、公儀不可有相違事、
一、武具仕置相背者有之者、其品ゝ何時も相註可披露事、
以上
右、改而着到如此相定候、武具等致様、委細ニ書記畢、各少も無相違可致之候、抑軍法者、国家安庄所也、背法度付而者、随罪科軽重、無用捨可被出条、兼而無誤様ニ覚悟専肝候、畢竟岡本前ニ可有之間、時ゝ刻ゝ寄子ニハ合助成、掟無異義可走廻儀、可為忠信候、仍定所如件、
元亀二年辛未七月廿八日/(虎朱印)/岡本八郎左衛門尉殿

  • 小田原市史小田原北条1026「北条家着到定書写」(岡本家古文書写)

12月24日 駿河安部山俵峯・朝比奈信置(連名:横田康景)

阿部内俵峰村
一、弓鑓、近衛四郎
一、弓同、四郎衛門
一、弓同、左近四郎
一、弓同、清太郎
一、弓同、左衛門九郎
以上五人、
辛未十二月廿四日/朝駿信置・横十康景/宛所欠

  • 静岡県史資料編8_0375「朝比奈信置・横田康景連署状写」(駿河志料巻七十六杉山文書)

2018/06/06(水)会津へ急ぐ秀吉

1590(天正18)年、7月に至って北条氏直が脱走し勝敗が決したとき、羽柴秀吉は会津への進軍を本格化させる。その前から道路工事などは行なっていたが、やはり冬の到来前に決着をつけたかったのだろう。

態令啓上候、其表如何之被仰付候哉、方々御苦労令推量候、切々以書状共、御見廻可申上処、御普請彼是不得隙故、令迷惑候、随而にら山相渡申付而、昨日にら山の御人数悉此表へ被相越候、然者八王寺之御人数も、此表へ可被参之旨、被仰遣候、筑前殿、越前衆、 中納言様御陣所被遣候、 中納言様ハ御本陣へ可被成御移之旨候、景勝、にら山衆半分、家康御陣所へ被遣、家康ハ江戸へ御越之由候、 上様も十五六日比ニ其元へ 被成御座、其より会津へ可被成御動座之旨、被仰出候、次ニ小田原種々御侘言申上、命御たすけ被成候様ニと上野殿御手前へ申候付而、三松様右之通被仰上候へハ、以外 被成御腹立、三松様を御自国御はらひ被成候、けんにうをも同前ニ被仰出候、其外相替儀無御座候、猶以貴面相催儀、可得尊意候、恐惶謹言。猶切々以書状も不申入、迷惑仕候、其表之儀、無御由断可被仰事、専一候ゝゝ、又大夫さま先度之御手柄之様子、毎度被仰出候、拙子式迄満足此事候、
七月四日/可遊(花押)/宛所欠(上書:浅弾正様参人々御中 一柳右近可遊)

  • 埼玉県史料叢書12_0939「一柳可遊書状」(浅野家文書)

折り入って申し上げます。

その方面はどのようにご指示なさっているのでしょうか。色々な苦労があるかと思います。詳しく書状でお伝えするよりもそちらに回って申したいのですが、ご普請であれこれ暇がありませんので、困っています。

そして韮山が開城して、昨日韮山の部隊が全てこちらに来ました。更に八王子の部隊もここへ来させるようにとおの仰せを出しました。筑前殿、越前衆、中納言様のご陣所へ使いを出して、中納言様はご本陣へお移りになるようにとの仰せです。

景勝と韮山衆の半分は、家康のご陣所へ送られました。家康は江戸へ移動するように、とのことで、上様も15~16日頃にそこへ移ります。そこから会津へご動座なさるとのこと、仰せ出しになりました。

次に、小田原について色々と侘言を申し上げてきて、命をお助けなさいますようにと、上野殿の御前で申したことについて、三松様が右の通りに申し出ましたら、とてもお腹立ちになられ、三松様をご自国からご追放なさいました。『けんにうをも』同前に仰せ出しになられました。

そのほかは特に変わったことはありません。更には直接お会いしてお考えを得たいと思います。

さらに、詳しい書状もいただけておらず、困っています。そちら方面のこと、ご油断なさらぬようにご指示されるのが大切です。又大夫さまは先の合戦でお手柄之様子。いつもご活躍で、私にとっても、満足とはこのことです。

2018/06/02(土)鉄砲衆は諸被官から集められていたらしい

1572(元亀3)年

小山孝哲 → 岩上筑前守

夜前被罷着様体無心元候間、態以脚力相尋候、何も路次中辛労之由申遣度候、一、栗橋之手成定而其地へ可聞候、濃ニ注進尤候、一、自当真昨日付之一書今朝巳刻披見、存分候間、不被致用捨、彼一札写并返書之案文八郎殿へ可被為見申候、一、義重以川井甲斐守昨暮当城へ被届旨候、于今在滞、佐・宮半途之備遅々、口惜由遂侘言迄候、一、鉄炮衆番替明晩可指越候、つゝ引かへ候も六ヶ敷候間、其侭十丁をハ玉薬ニ厳密ニ可差置由、必々十人之者共之方へ被申調可然候、相残三ちやうハ、彦五郎方家風粟宮・小曽戸かせ者ニ候間、筒をも持可帰迄候、此番替ハ小薬之鉄鋒衆三人三丁申付候、玉薬其外厳密ニ彦左衛門・五郎右衛門ニ相渡可罷帰由、是又無失念可被申付候、一、昨於備場其方同道、両人尤之由加詞候キ、荒豊一人計可然候、其外をハしかと陣屋ニ日数之間、不致随意有之様、堅可被申候、第一大酒・火事・無政道、彼是を始、書付之透仕置専一候、謹言、
十二月六日/孝哲(花押影)/岩上筑前守殿

  • 埼玉県史料叢書12_0419「小山孝哲書状写」(松羅館集古八)

1575(天正3)年

織田信長 → 長岡藤孝

此表之様子、先書ニ申候、今日自早天取賦、数刻及一戦、■残敵討捕候、先■■下数多候間、仮名改首注文自是可進候、自兼如申候、始末無相違候、弥天下安全之基候、仍鉄炮放被申付候、■祝着候、爰許隙明候条、差上候、旁以面可申展候、謹言尚以、爰元之事、九■左衛門可申候、
■月廿一日/信長(朱印)/長岡兵部太輔殿

  • 増訂織田信長文書の研究0511「織田信長朱印状」(肥後・細川家記二細川家文書二)

1577(天正5)年

後北条氏 → 北条氏繁

新田へ鉄砲衆合力候、五挺可然放者可被申付候、明後可遣候、島津左衛門自馬廻遣候間、従者可同心旨可被申付候、掟従是委以書出可申付候、万端遣念可被申付候、仍如件、
五月十九日/(虎朱印)/常陸守殿戦国遺文後北条氏編1911「北条家朱印状写」(小田原編年録附録四)

1585(天正13)年

後北条氏 → 神宮武兵衛

鉄炮衆一、六挺、両後閑衆
一、三挺、木部宮内衆
一、弐挺、和田左衛門衆
一、壱挺、同兵部衆
一、壱挺、高山彦四郎衆
一、七挺、倉ヶ野淡路衆
一、拾挺、神宮衆
以上卅挺
右之鉄炮衆大戸へ為加勢指越候間、此飛脚来十四日可参着候間、翌日一日支度而、何れも召連、一同相移、房州如作意可走廻、仍如件、
九月十日/(虎朱印)/神宮武兵衛殿

  • 戦国遺文後北条氏編2856「北条家朱印状写」(後閑文書)

1586(天正14)年

北条氏直 → 簗田晴助

壬生へ万一敵至于相動者、加勢之儀壬生所望候、然者奥州注進次第何時も其人衆払而小山へ被相移、自彼地弓・鉄炮足軽を壬生へ加勢候様可有下知、委細奥州可為演説候、恐々謹言、
卯月十一日/氏直(花押影)/簗田中務太輔殿

  • 埼玉県史料叢書12_0779「北条氏直書状写」(温故知新集)
後北条氏 → 北条氏照

壬生へ加勢衆廿挺、鉄炮卅人、弓鑓、合五十人水海衆
右、佐竹向壬生・鹿沼、動火急ニ相催由、注進候、依之手先之衆先加勢遣候条、記右人数、能物主指添、自小山大石信濃寺注進次第、不移時日、小山へ被相移、小山衆同断ニ壬生へ移、走廻候様、可被申付旨、水海衆へ可被御届候、猶依注進、自分可令出馬間、無油断可有支度旨、能ゝ可有演説候、仍如件、
七月十八日/(虎朱印)/陸奥守殿

  • 戦国遺文後北条氏編2972「北条家朱印状写」(楓軒文書纂六十)

年未詳

北条氏照 → 大石四郎右衛門尉・大石左近丞

加勢衆鉄炮
一丁、石原主膳
二丁、島村
二丁、由木
一丁、車丹波衆
一丁、大石四郎右衛門衆
一丁、同左近衆
二丁、大藤手組之内
以上十丁
一、右衛門佐殿御手前、敵之取寄近来候、今夜為加勢遣候、申端可被仰所、加治左衛門ニ指添可遣事
一、玉薬二百放可指添候、■■可渡事、加治■■一、加治左衛門為物主指越候、彼者如申可走候、少も油断不可致、虎口可走事
右之条ゝ、猶仰所、直ニ可被申付候、以上、
廿日/氏照(花押)/大石四郎右衛門尉殿・大石左近丞殿

  • 戦国遺文後北条氏編3921「北条氏照書状」(秋山断氏所蔵文書)
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