2018/04/24(火)ハードネゴシエーターとしての遠山康光

遠山康光に関しては既にひとつ記事にしている。

遠山康光の実像

しかし彼の事績はこれだけに収まらず、交渉人としての動きもまた興味深い。

上杉との交渉

「遠山康光」というと、後北条と上杉が延々と交渉し続けた越相同盟の交渉人であり、越後に養子入りした三郎景虎の付き人という印象が強い。しかし、康光が越相同盟に登場するのは比較的遅く、北条氏政が参入した書状で取次役として出てくる永禄12年3月7日を待たねばならない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿

  • 戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

ではなぜ氏政は康光を取次に選んだのかというと、康光が上杉被官と既知の間柄だったからだろう。

沼田両所へ以御直札被仰届候、仍以前松石・上中拙者へ御書中、本望存候、其以後不申通候、幸之間、此度両所へ令啓札候、松石越山之由承届候間、重而可申入候、何茂被成御心得、被仰届頼入候、以面上可申達候条、令省略候、恐ゝ謹言、
三月十日/遠左康光/信濃守殿御宿所

  • 戦国遺文後北条氏編1176「遠山康光書状写」(歴代古案一)

沼田の両所へ直接のお手紙で仰せ届けられました。以前の、松石・上中から拙者へのご書中(紹介状カ)は本望に思います。それ以後はご連絡をしませんでしたが、時宜を得てこの度両所へご連絡しました。松石が越山なさるとのことですから、重ねて申し入れします。何れもお心得いただき、仰せ届け下さいますようにお願いします。直接お会いして申しますので、省略させていただきます。

上杉被官の松本景繁・上野家成が、敵方の康光に連絡をとる行動というと、永禄7~8年に足利義輝から上杉輝虎へ北条氏康との和睦を斡旋した件が思い浮かぶ(下記2通)。この頃に、景繁・家成から由良成繁に打診があり、康光と繋がったと思われる。

北条左京大夫氏康与和睦事、去年差下藤安申遣之処、内存被聞召訖、雖然、急度可遂其節事簡要候、為其、対氏康差下使節、申越候間、其以前於及行者、不可然候、猶晴光可申候也、
三月廿三日/(足利義輝花押)/上杉弾正少弼とのへ

  • 神奈川県史資料編3下7433「足利義輝御内書」(上杉文書)永禄8年比定

北条左京大夫氏康与御和談事、去年被差下同名兵部少輔、御内存趣、委細被 聞食候、雖然、被閣是非、急度被遂其節者、可為肝要候、為其相州へ被越差御使候条、其以前御行事、御用捨専一候、此等之通、得其意、可申由被仰出候、恐ゝ謹言、
三月廿三日/陸奥守晴光(花押)/謹上上杉弾正少弼殿

  • 神奈川県史資料編3下7435「大館晴光添状」(上杉文書)永禄8年比定

古河公方との交渉

では、数ある後北条被官からなぜ康光が選ばれたかというと、古河公方家の調整を行なっていたからではないか。下記の朱印状(永禄6年比定)では、伊豆国大見の「御乳人」を佐貫へ送ることを瑞雲院周興が依頼してその手配を、康光が奉者として愛洲某に指示している。

豆州大見御乳人、佐貫江被越付候者、瑞雲院如作意、船・ゝ方相調、二艘も三艘も可走廻候、又其内飛脚船入候者、何篇も可走廻者也、仍如件、
亥卯月廿七日/(虎朱印)遠山奉之/愛洲代

  • 戦国遺文後北条氏編0811「北条家朱印状」(渡辺文書)

古河公方との交渉は江戸衆の遠山綱景も加わっていたので、その流れで一族の康光が動いた可能性がある。ただ、それだけではない事情を示す文書もある。

今川との交渉

売渡申三島之宿屋敷之事。合四拾五貫文者。右、彼代物者、孫三郎之代、丙午年十二月廿日ニ、四日町御蔵銭ヲ被致借用候、従其明之年、我ゝ家を請取候、公方銭之事候之間、急度相済可申候へ共、貴所へ別而申承候間、無沙汰申候、殊更此代物者、巳年遠山左衛門尉駿府へ被遣候、其時四日町御蔵より、参拾貫文罷出候、是者孫三郎方預りへ升辺蔵へ被仰付候処、筆違ニて四日町与御印判候間、子細可被申分候へ共、江城ニ 御屋形様御座候間、先ゝ卅貫文被出候歟、加様之代物令算用、四拾五貫文ニ知行被渡候得共、我ゝ無力付而、無沙汰申候、算用候者、過分ニ罷成候共、別而知音申候間、三島屋敷進置候、我ゝ子ゝ孫ゝ於被官已下、永代違乱在間敷候、将又年貢等諸伝役、此屋敷ニ不可有之候、破家ニ候へ共、亭・居屋・蔵屋・厩共四ツ并而進置候、如前ゝ我ゝ罷越候時者、宿ニ可致之旨、此分違乱妨可有之候、仍如件、
天文廿年辛亥十二月廿三日/清水大郎左衛門尉康英(花押)/瑞泉庵参

  • 戦国遺文後北条氏編0405「清水康英屋敷売券写」(新井氏所蔵文書)

これは遠山左衛門尉=康光の初見文書となるが「巳年」つまり天文14年は、6月以降で今川・後北条を和睦させようとしている動きがある。この時の主体者は京の足利義晴。前年から北条氏康に書状を送って上洛を促していたが、今川との紛争を理由に断られていた。そのため、近衛稙家からの使者を小田原に送ったり、駿府に聖護院道増を派遣したりしている。最後まで今川義元が受諾せず、その同盟相手である武田晴信にも諫められている。

去年以書状申候処、依無通路使節令上洛候条、重而申候、抑与駿州御和談之儀、内々武命之事候間、以無為之儀相調候者、可為珍重候、巨細之段使節申含候条、不能詳候状、如件、
六月七日/(近衛植家花押)/北条新九郎殿

  • 戦国遺文今川氏編0775「近衛植家書状」(東海大学図書館所蔵北尾コレクション)

七月七日治部当座 聖護院門跡御座也、内々東と和与御扱之由也、然間当国へ御下向之間、彼会へ入候也、河つらと詠けるを、河つらとハ今河家ニ禁也、同嶋も禁也、殊新嶋一段不吉、七夕霞霞にもむせふはかりに七夕のあふ瀬をいそく天の河岸

  • 静岡県史資料編7_1740「為和集」(宮内庁書陵部所蔵)天文14年項目

今度為合力、越山候意趣者、去酉年義元御縁嫁之儀、信虎被申合候、然処、以後一儀駿・豆執合之由、於世間風聞、依之晴信五ヶ年之間、別而申合候、此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、雖可申合候、北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候、就中長久保之城責候者、或者経数日、或者敵味方手負死人有出来者、近々之間之執合、更無所詮候哉、縦氏康雖滅亡候、過数十ヶ年、関東衆相・豆本意候者、所領之論却、只今ニ可相戻候哉、彼此以一統、可然候条、如此走廻候、自今以後、有偏執之族者、此旨各分別候間、長久之儀肝要候、恐々謹言、
十一月九日/晴信(花押)/松井山城守殿(上書:松井山城守 晴信)

  • 戦国遺文今川氏編0783「武田晴信書状写」(土佐国蠧簡集残篇六)

この状況で単身乗り込んでいった康光は、外交特使としての任務を帯びていたのだろうと考えられる。30貫文を三島で借りていることから、準備もままならぬ状況だったのかも知れない。

駿府での交渉で康光がどのような行動をしてどう結果を出したのかは不明だが、その後も古河・越後と難交渉に駆り出されたのは、この時の功績を氏政が正しく理解していたからだと思われる。

2018/04/21(土)高白斎記に見る甲相駿三国同盟

三国同盟成立の瞬間

高白斎記に詳しく載っているので時系列で並べてみる。

天文13年

  • 1月2日:駒井政武は小山田居館を出る。恐らく相模に入り、後北条被官の桑原盛正と会う。対談し同盟条件を整える。向山又七郎が同心(同行)。その翌日に甲斐へ帰る。

天文14年

  • 4月2日:三国の和睦を促す聖護院が甲府に入る。
  • 8月5日:甲斐本栖に移動。温井丹波守が同心(同行)。
  • 8月7日:両人が帰宅。
  • 8月9日:政武のみで本栖に移動。
  • 8月10日:駿河善徳寺で、太原崇孚・高井兵庫・一宮出羽守に、晴信書状と口上を伝える。
  • 8月11日:巳刻に今川義元と対面、未刻に血判を作成、振舞を受ける。
  • 8月13日:帰府。
  • 9月9日:甲斐向山に武田晴信が出張。
  • 9月12日:晴信が甲斐本栖に移陣し、板垣信形が駿河大石寺へ移動。
  • 9月14日:北条氏康から書状が到着。
  • 9月15日:晴信が駿河大石寺に着陣。
  • 9月16日:後北条方の駿河吉原が自落。晴信が馬見墓に移動。その途中で義元と対面。
  • 9月17日:晴信が義元陣所に滞在。
  • 9月18日:晴信が辰刻に出発し、駿河今井見付に移動。
  • 9月19日:晴信が駿河千本松に移動。
  • 9月20日:晴信が駿河岡宮近隣の原に移動。義元は長窪に移動。
  • 9月21日:晴信が陣屋を構築。
  • 9月27日:黄瀬川に架橋。
  • 10月15日:巳刻に信形・又七郎・政武が連判状を持って、氏康陣所内で盛正に会う。戌刻に帰る。
  • 10月20日:長窪城を見分に行く。御宿某が死去。
  • 10月21日:上杉憲政・義元・氏康の起請文が揃う。この件で政武は3回崇孚の陣所に赴く。
  • 10月22日:停戦。
  • 10月28日:藤沢頼親が撤収。
  • 10月29日:「朝佐」陣所で談合。国境紛争は氏康に非がある・義元が停戦を破棄したので晴信が援軍に出た・この停戦が破棄されたら晴信は義元に味方するという3点を確認。「朝佐」と崇孚が花押を据えて信形・政武に渡す。
  • 11月1日:長窪に滞在。
  • 11月6日:敵が城を出る。
  • 11月8日:義元・晴信の間で、重要なことは自筆で直接やり取りすると合意。
  • 11月9日:義元・晴信が相互に自筆書状を受け取る。

高白斎記『武田史料集』(校注:清水茂夫・服部治則)

同書解題にあるように、栗原左兵衛の日記として伝来したために竄入部分がある。注記を元に竄入箇所を太字にした。

1544(天文13)年

同十三甲辰年。正月朔日庚子昨日着谷村。二日小山田宿所ヲ出。桑原九郎右衛門ニ致対談御条目ヲ申渡ス。向山又七郎同心仕ル。翌日帰ル。六日立春廿三日彼岸ニ入ル。菩提ノ観音御戸開。三月三州牛窪ノ浪人山本勘助召抱ヘラル。六日節。十三日壬子辰刻御主殿ノ柱立。廿四日丙刁御主殿棟挙風雨。四月大朔日己巳。八日節。十一日己卯信形上原ニ着城。十三日屋形様御着城。十五日上原ノ地普請終ル。七月大朔日戊戌信形諏訪ノ屋敷鍬立。六月節ノ内也。十日七月節。八月廿八日乙未信形丑刻ニ出府、諏訪郡ニ在城。十月十六日壬午屋形様御出陣。於礼拝場御馬鼻血出ル。不苦候ヤ其後何事ナシ。廿八日甲午在賀へ酉刻御着陣。廿九日御先衆荒神山ニ陣取。十一月朔日丙申為御使者荒神山へ打寄働ノ場近辺放火。於松島原敵ノ首二十六<栗原左衛門軍功。廿六日上原へ御着陣。九日甲辰御帰府。十四日己酉節。閏十一月朔日丙刁。十四日小寒。廿七日土用。十二月大朔日乙未大寒。十六日庚戌立春。廿二日丙辰御主殿へ御移リ御祝儀ノ御酒。

1545(天文14)年

同十四乙巳年。正月小朔日乙丑。二月小甲午。六日己亥高国寺客殿柱立。同日駒井ノ鳥井立。十五日戊申火焼。十八日辛亥節。四月小癸巳二日甲午。シヤウゴン院御着府。十一日癸卯向ニ高遠御出馬。雨。十四日未刻上原へ御着城。細雨。十五日丁未杖ツキ峠御陣所雖被為取候昼夜雨。十七日己酉諏訪頼継自落。十八日高遠屋敷御陣所。廿日壬子節、高遠御立。午刻ニ箕輪へ御着陣。廿九日辛酉鎌田長門守討死。五月大壬戌廿一日節。相州・羽州竜崎動。廿二日癸未駿州松川ヨリ御加勢。六月大壬辰板垣駿河守竜ヶ崎落城。敵ノ首四十六討捕於栗原左衛門手ニ首十七討捕晴信公ヨリ感状ヲ賜。六月十日辛丑藤沢次郎和ノ義落書。十一日藤沢次郎身血。其上藤沢権次郎為人質穴山陣所へ参。敵城放火。十三日甲辰辰刻箕輪ヲ御立塩尻御陣所。於高白陣所鶉ヲトラへ進上。十四日林近所迄放火。桔梗原御陣所熊野井ノ城自落。子刻十五打立小笠原ノ舘放火。六月十五日於桔梗原勝鬨、十六日御帰陣。十七日御着府。八月大辛卯五日乙未本須迄温丹為同心行。七日帰ル。又九日高白計本須へ行。十日庚子富士ノ於善徳寺御一書並御口上之旨雪斎・高井・一ノ宮方へ申渡ス。細雨。十一日辛丑巳刻義元ニ被成御対面未刻御身血ナサレ御振舞飯麺子御盃一度御刀被下。十三日帰府。十七日丁未山下源三出仕。廿三日節。九月大。九日己巳細雨未刻御出張向山迄。十二日本須御陣所。板垣・栗原ハ大石寺迄。夜大雨。十四日甲戌従氏康御状来ル。十五日大石寺ニ御着陣。十六日丙子辰刻吉原自落。馬見墓御陣所。於半途義元御対面。十七日義元御陣所ニ御留候。十八日辰刻打立。今井見付御陣所。十九日千本松御陣所。廿日岡宮近所ノ原御陣取。義元ハ長窪。廿一日陣屋ヲカケル。廿四日甲申節。廿七日キセ川ノ橋掛サセラル。十月朔日辛卯十五日従巳刻半途へ出。板垣・向山・高白三人連判。氏康陣所桑原方へ越、戌刻帰ル。廿日長窪ノ城見分ニ行。御宿生害。廿四日節。管領・義元・氏康三方輪ノ誓句参候。此義ニ付高白三度雪斎陣所へ行。廿二日互ニ矢留。廿八日箕輪次郎帰陣。廿九日於朝佐陣所談合。境目城ヲ捕立非分ニ氏康被懸取候ナリ。既ニ義元落着ノ義ヒルカエラレ候者、晴信則可入馬之事。此間之落着ヲヒルカエシ難タヒ承ナリ。氏康ヲ捨義元へ同意可申事。右此三ヶ条合点申候由、朝佐・雪斎判形ヲスヱ板垣・高白へ給リ候間罷帰。戌刻上ル。十一月大朔日庚申長窪六日乙丑敵出城。八日義元晴信互ニ大事ノ義ハ自筆ヲ以可申合ト被仰合翌九日互ニ自筆御請取渡候ナリ。

2018/04/08(日)他国衆関連文書

1557(弘治3)年比定。後北条被官の伊東氏に同心としてつけられた他国衆「香坂甲斐」は、妻子を持たず派遣されたので、その地に赴くとし、他国衆だからよくよく親切にするよう指示している。

伊東同心香坂甲斐衆、妻子不持間、当陣取遣候条、其地へ越候、当陣之間預ヶ申候、他国衆候間、能ゝ可有懇候、仍如件、
巳三月十三日/伊東奉/左衛門太夫殿

  • 戦国遺文後北条氏編0542「北条家虎朱印状写」(甲斐国誌七十二)

以前から決まっていた三島大社の神事銭の納付を渋っていることが判った。代官・百姓を殺そうとしたが、稲取片瀬が他国衆「毛利丹後守」の知行であることから赦免している。

三島御神事銭之事、従早雲寺殿御代定来処、只今令難渋由、入御耳候、不及糺明、代官・百姓雖可為生害候、毛利丹後守他国衆之儀ニ有之候間、当代官若其委細之儀不存人、爰以一往御用捨候、如古来五日之内可相済、此上就及菟角者、速可行重科者也、仍状如件、
永禄十二己巳壬五月四日/(虎朱印)山角奉之/稲取片瀬代官・百姓中

  • 戦国遺文後北条氏編1236「北条家朱印状写」(伊豆三島宮文書)

1577(天正5)年比定。他国衆「小甫方備前守」の生産を妨害するなと指示。何事であっても邪魔をする者は処罰するとしている。

小甫方備前守、他国衆ニ候、彼家中仁只今手作之所、努ゝ違乱不可申、細事等成共横合就申懸者、可令遂御成敗旨、被仰出者也、仍如件、
丑卯月廿六日/(朱印「印文未詳」)大石信濃守奉之/祇園触口諸触口中

  • 戦国遺文後北条氏編1905「北条氏照朱印状」(矢島文書)1577(天正5)年比定

1582(天正10)年に比定。他国衆の「伴野兵衛殿」の母親を居住させるために、奔走するよう指示。「うせうけ」は「無精気」か。

伴野藤兵衛殿御老母、其地へ指移申候、然者、宿之事、其方所ニ置可申候聞、苦労ニ候共、やと可致之候、他国衆之事ニ候間、一入於何事も不在無沙汰、懇比申、万馳走可為肝要候、用所之義をハ、何事成共、筑後守ニ可相談候、毛頭もふせうけ間、躰無沙汰者、弥不可有曲候、猶馳走専要候、仍如件、
十月二日/政繁(花押)/次原新三郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編2423「大道寺政繁判物写」(武州文書所収入間郡新兵衛所蔵文書)

年未詳文書。何があろうと徳川方と騒ぎを起こすなという指示。他国衆はそもそも優遇していたが、喧嘩両成敗を適用したくないので、我慢しろという。

遠州衆為証人在府ニ付而申断候一、如何様之法外を致候共、他国衆之事ニ候間、当意遂堪忍、則様子可披露事
一、不論理非致于及喧嘩之者者、双方生害古今之掟ニ候、扨於此度之掟ハ他国衆ニ候間、一往可堪忍由遂下知処、至于背其法者妻子迄可行死罪事
右、定置所、如件、
八月三日/(虎朱印)/大道寺新四郎殿(上書:大道寺新四郎殿 自小田原)

  • 戦国遺文後北条氏編3810「北条家朱印状」(大道寺文書)

2018/04/07(土)興津摂津守の行動

興津摂津守の活動履歴

1562(永禄5)年

最初の登場は遠州大坂の新船に関する判物。今川氏真から貰っている。

1月11日

遠州大坂之内知行浜野浦爾繋置新船壱艘之事
右、於諸浦湊諸役并船役舟別、為新給恩永令免許畢、不準自余之条、役等一切不可有之、同立使肴買等不可申懸之、雖然海賊惣次之時者、櫓手役可勤之者也、仍如件、
永禄壬戌年正月十一日/氏真判/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編1786「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

1568(永禄11)年

年月日全てが失われている書付のような文書だが、文面から永禄11年12月の武田方侵攻を受けてのものと推測される。この時は氏康が活動を評価しているが、氏真についての言及もある。

月日未詳

其地昼夜其[共]走廻由候、誠御忠節候、弥被尽粉骨此時候、氏真御本意上者、御褒美儀、必可申立候、為其及一札候、恐ゝ謹言、
月日欠/氏康(花押影)/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2243「北条氏康書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

1569(永禄12)年

年頭になると興津摂津守の知行80貫文が武田方に接収され、その後で安東織部佑に下されている。

1月11日


一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文
今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十二己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿

  • 戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)

その後の3月に出された書状は差出人が不明で、戦国遺文では後北条の誰かだと推測している。

3月23日

城中自始馳走感悦也、弥忠節奉公不可有由断由肝要候、然者同名将監跡職、被官給共、知行分宛行所不可有相違候也、仍如件、
三月廿三日/差出人欠/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2244「北条某書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

再び氏真からの書状に戻る。朝比奈泰朝とともに活動しているのが判る。

12月18日

就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也、然者本地之儀者不及是非、急度可加扶助之旨、備中方へ以自筆雖申付之、弥不可有相違、猶於走廻者、別而可令扶助候、謹言、
巳十二月十八日/氏真判/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2434「今川氏真感状写」(諸家文書纂所収興津文書)

年未詳

恐らくは永禄12年の3月に出された氏真書状。興津氏が美濃入道・与右衛門・摂津守らが結束して活動しているのが判る。

3月吉日

就所用、諸事同名摂津守鶴見可致馳走之由内義、太不準自余、奉公役申付候段、調 祝着由可申候也、かしく、
三月吉日/(花押影)/興津美濃入道殿・同与右衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編2651「今川氏真書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂八所収興津文書)

2018/04/07(土)北条氏規と朝比奈泰寄

1568(永禄11)年の駿府陥落に際しての行動が、岡部和泉守と似ているのが朝比奈泰寄(甚内・右兵衛尉)。2人は北条氏規に同行して駿河を西進したのだろうと思われる。

親族が氏真と共に懸川城にいながら、北条氏規の奉者となっている。

  • 岡部和泉守:父の大和守が懸川籠城、兄弟の次郎兵衛尉は武田方へ。

  • 朝比奈泰寄:兄弟の泰勝が懸川籠城、兄弟の四宮泰雄は戦死しその妻子は甲府へ。

ところがその後の動向は大きく異なっている。

岡部和泉守が北条氏政・氏康に直接指示されて最前線を転戦。その後は正式な知行を得られず断絶している。

一方で朝比奈泰寄はそのまま氏規被官となる。3月26日には四宮泰雄の妻子引き取りについて今川氏真から指示を受けているが、翌月には氏規朱印を伊豆の多賀郷に発している。多賀は熱海南方なので前線ではない。

その後も引き続き氏規被官として活躍して、氏規次男辰千代の陣代も務めている。

1568(永禄11)年

12月15日

 龍雲院は沼津地域。岡部和泉守が同じく氏規奉者を務めた禁制(12月18日付)は吉原地域が対象。

制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申候、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十五日/(朱印「真実」)朝比奈甚内/多肥龍雲院

  • 戦国遺文後北条氏編1122「北条氏規制札」(龍雲院文書)

1569(永禄12)年

3月3日

四宮泰雄が戦死した後を受けて、敵地にいる子供から1人を引き取って相続させるように、今川氏真が朝比奈泰勝に指示しているが、その際に子供が幼少の間は泰勝、もしくは泰寄が名代を務めるようにと書き添えている。

四宮惣右衛門尉宛行知行分并同心給屋敷等之事
右、彼実子雖有兄弟之、未敵地仁取置之間、令馳走両人、一人引取一跡可申付、雖然幼少之間者、泰勝可相計、但於可致甚内相越名代之儀之者、可任其儀、兼又同心之儀及異儀者、如先判可加下知、被官以下者泰勝可為計者也、仍如件、
永禄十二年三月三日/氏真(花押)/朝比奈弥太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2299「今川氏真判物」(国立国会図書館所蔵武家文書所収)
3月26日

於大平之郷出置福島伊賀守代官給百貫文事。右、如伊賀守時不可有相違、惣右衛門尉今度遂討死、致忠節為跡職之間令馳走、自甲府妻子於引取者、彼郷ニ而堪忍之儀可申付、并陣夫参人於徳倉・日守郷可召遣之者也、仍如件、
三月廿六日/文頭に(今川氏真花押)/朝比奈甚内殿

  • 戦国遺文今川氏編2324「今川氏真判物」(鎌田武勇氏所蔵文書)
4月24日

多賀郷代官・百姓ニ其方借シ置候兵粮、何も難渋不済之由申上候、厳密催促可請取候、於此上も不済候ハゝ、急度可遂披露候、得上意其科可申懸候、人之物借済間敷、御国法無之候、如証文鑓責候て可請取者也、仍如件、
己巳卯月廿四日/(朱印「真実」)朝比奈兵衛尉奉之/岡本善左衛門尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編1201「北条氏規朱印状」(岡本善明氏所蔵文書)

1570(永禄13/元亀元)年

2月12日

鴨居之郷観音堂寺中竹木切取事、堅可令停止并号飛脚押立与出家役等、向後不可申付、諸条狼藉等遂申者於有之者、自今以後者注交名可申上者也、仍如件、
永禄十三年庚午二月十二日/御朱印・朝比奈甚内奉之/観音寺別当

  • 戦国遺文後北条氏編4686「北条氏規朱印状写」(諸国高札二)

1571(元亀2)年

7月15日

急度飛脚被遣候、則披露申候、仍今度之御動之儀、無比類被成様共前代未聞之義、従 殿様此段具可被仰下候へ者、御城爾于御座候間、寸之御透も無之候間、此趣我ゝ方巨細申候得由、御意ニ候、猶自今之義者海上動所ハ一円御父子へ被相任候由、堅御意ニ候、於我等満足此事ニ候、弥ゝ御走廻肝要ニ候、 御本城様其煩于今爾候旨、無之候間、何様昼夜御詰城被成候間、御障無之候、拙者も韮山之番被仰付候、有御用一昨日此方へ罷越候、明後日罷越候、重而御用候者、六郎大夫ニ可被仰渡候、何事も近内口上ニ申候間、早ゝ申候、恐ゝ謹言、
七月十五日/朝甚泰寄(花押)/山信・同新御報

  • 戦国遺文後北条氏編4059「朝比奈泰寄書状」(越前史料所収山本文書)

1574(天正2)年

11月20日

「六大夫」とあるのは「六郎大夫泰之」で、泰寄の後継者(子弟)と見られている。

奉建立鹿島御宝前
大檀那朝比奈六大夫敬白。相州三浦須賀郷之内、逸見村百姓中并代官、今■■■当大夫宮内丞
当大工山内六郎左衛門、当鍛冶小松原満五郎
于時天正甲戌年閏霜月廿日、諸願成就、皆令満足、筆者平朝臣賢清、
古記録

  • 戦国遺文後北条氏編1748「鹿島社棟札銘写」(新編相模国風土記稿三浦郡逸見村之条)

1576(天正4)年

9月11日

出家した今川氏真が朝比奈泰勝の労をねぎらった際に、泰寄にも宜しく相談するようにと指示している。

万々渡海之儀辛労ニ候、然者家康申給候筋目於相調者、一段可為忠節候歟、甚内方へ能々可申計候也、仍如件、
九月十一日/宗誾(花押)/朝比奈弥太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2584「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)

1577(天正5)年

4月6日

仰出之条ゝ
一、山本左衛門尉就進退不成、参拾貫文之所十年期ニ売度由、尤相心得候事
一、伊豆奥就手遠、三浦之在陣走廻も不成之由、知行替之侘言任存分候、別紙ニ書付被下候事
一、知行役之儀、参■■■■十年期明間者■■■■可致之事
右、如此之条ゝ雖為有間敷子細、信濃入道者自前ゝ忠信至于今走廻、子ニ候左衛門太郎者於眼前討死、忠信不浅候、只今太郎左衛門尉事者、乍若輩海上相任無二走廻之間、全人之引別ニ不成之候、依之如申上御納得被仰出候、弥抛身命可走廻段、可為申聞太郎左衛門尉者也、仍如件、
丁丑卯月六日/(朱印「真実」)朝比奈右兵衛尉奉之/山本信濃入道殿・同太郎左衛門尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編4721「北条氏規朱印状」(越前史料所収山本文書)
8月20日

北条氏規が陸奥の遠藤基信と連絡を取った際に、泰寄が間に入っている。「不思議之得便宜」とあり、もしかしたら泰寄が基信と先に知り合ったのかも知れない。

乍卒爾之儀、企一翰意趣者、貴国之儀年来承及候、去春不思議之得便宜、朝比奈右兵衛尉ニ内意申付、貴殿御事承及候間申届候処、此度態以飛脚御報候、遠国之儀寔御真実之至本望忝候、抑貴国与当国可被仰合筋目念願候、両国於御入魂者、天下之覚相互之御為不可過之候歟、有御塩味御取成肝要候、於当国者乍若輩涯分可令馳走候、委細右兵衛尉可申入間令省略候、恐ゝ謹言、
八月廿日/氏規(花押)/遠藤内匠殿参

  • 戦国遺文後北条氏編1936「北条氏規書状」(斎藤報恩博物館所蔵遠藤文書)

1587(天正15)年

3月21日

改進置知行
弐百貫文、知行辻
此出所
百六拾五貫三百十四文、小磯夏秋
卅四貫六百八十六文、蔵より可出
此上弐百貫文
右、龍千代陣代被走廻付而、如此進置候、陣番無患可被走廻者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/氏規(花押)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3067「北条氏規判物」(朝比奈文書)

入間・指田・落合・山根替進置分
百貫文、知行辻。此出所
七拾六貫五百六十六文、白子
廿三貫四百卅四文、蔵より可出
以上、百貫文
右之知行之替進置候、毎年如此可有所務者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/(朱印「真実」)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3068「北条氏規朱印状」(朝比奈文書)

1588(天正16)年

5月24日

任望下一宮百卅七貫百五十余、白子ニ取替進候、自戊子夏可有所努候、伊豆奥之不足銭此内ニて進候而も、廿貫余過上ニ候へ共、少之事候間其報進候者也、仍如件、
戊子閏五月廿四日/氏規(花押)/朝比奈右兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3327「北条氏規判物」(朝比奈文書)

1592(天正20/文禄元)年

3月15日

知行方
弐百石、丈六
三百石、南宮村
以上五百
右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、
天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)

年未詳

6月30日

北条氏規から成田氏長への使者として泰寄が動いている。また、氏規を介して徳川家康からの進物を与えられている。

遥ゝ在御音信与従濃州預御使候、殊従家康被進物数多被懸御意候、寔畏入存斗候、内ゝ従此方も節ゝ雖可申達候、韮山為御番御在城、御帰府之時分を不存知候間、御無沙汰申、本意之外候、可然様御心得任入候、仍自貴所も鯨一合給候、御志即賞翫申候、何様従是可申述候、委細者福長頼入候、恐ゝ謹言、
六月晦日/成下氏長(花押)/朝兵御宿所

  • 戦国遺文後北条氏編4190「成田氏長書状」(荻野仲三郎氏所蔵文書)
8月5日

 朝比奈泰之は、泰寄の後継者と見られる。

雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、
八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中

  • 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)
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