2018/06/14(木)北条氏邦の憂鬱

上野国白井でのごたごた

北条氏邦が管轄していた白井で揉め事があった。年未詳の文書でその詳細が判るのだけど、なかなかに興味深い。そして、この文書を足掛かりに、氏邦が他に出した謎の書状の状況も判ってきた。

白井長尾家中の混乱

氏邦がうんざりしながらも忍耐強く書き記したのは、いかにも彼らしい現場に則した意見書・指示書。長文だが書き出してみる。

原文

先日白井へ吉里子・矢野弟侘言以吉田申候処、召出間敷候之内、従白井殿承候、左候ハゝ両人共、何方江茂可任存分歟、白井之矢野・吉里事者、不肖ニ候へ共、関東ニ無其隠弟子共ニ候間、一騎合連ゝ子共之様無躰ニハ被致間敷候、従其方所神庭三河入道所迄、以此一札早ゝ一往尋可申候、従我ゝ所長左江直ニ申度候へ共、はや無詮候、先日長文認以其方左衛門殿江及御助言つる、無其意趣候間、我ゝ者閉口候、只今一騎合之者共致出頭、矢野・吉里・高山以下あるも有ゝ候無之模様見聞候、彼等何共成候者、白井殿御手前も如何存候、其家可崩ニハ、家中老名絶物ニ候、先度之御意見、神庭・矢野・吉里・高山ニ茂不被頼候、一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ、左衛門殿御為を存申候、明日ニも御弓矢起候共、又御屋形様へ御出仕候共、従前ゝ御大途御存之者共、閉口申合候之者共、於白井出仕申候共、誰も召上間敷候、左衛門殿御為を存、卒爾ニ候御連共、当春其方を左衛門殿へ越候つる
一、三日以前其方申分者、先日之座頭一廻返候へ者、左衛門殿仰之由披露、近比其方無届并子細ニ候、彼座頭白井殿下ニ者、一同左衛門殿ため悪かれと計匠、座頭之不似合義致之候間、石こつミニもすへき之由存候へ共閣候、結句、白井殿呼度候由承候、是も尤候、御為を存申候へハ悪様ニ御分別候
一、面ゝ連も可聞及候、惣別当方御法度ニ而、座頭なと境目之衆致懇切置事、御きらひに候、其意趣ハ、座頭廻文を廻し、駿州・房州ニ而も、種ゝ之儀致之候、越後之座頭出頭更不及分別候、彼座頭そこもとニ而猿寿ニ預ヶ候、白井殿へ尋申越候、得にて仰候ハゝ、早ゝ可越候、人之御為を存申候へハ、無御聞届候、為労無功義候、尚以、吉里子・矢野弟何方江茂可任足歟、此儀一往左衛門殿可取伺義候、謹言、
九月四日/氏邦/矢部大膳亮殿

  • 戦国遺文後北条氏編3982「北条氏邦朱印状写」(北条氏文書写)
解釈

先日白井へ、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて侘言を言って、召し出しに応じない状況だと、白井殿より聞きました。それでは両人をどこへ預ければよいのでしょうか。白井の矢野・吉里といえば、詳しくはありませんが、関東でその隠れなき存在で、その子弟ですから、一騎合の連中の子供みたいに無茶な扱いはできません。あなたの所から神庭三河入道の所まで、この書状を見せて早々に一度問い合わせてみて下さい。私の所から「長左」へ直接聞きたいのですが、もう埒が明かないでしょう。先日、長文をしたためてあなたを経て左衛門殿へご助言しました。その反応もありませんから、私は閉口しています。
今は一騎合の者たちが出頭して、そこに矢野・吉里・高山以下がいるはずなのに、確認がとれていない状況なのは聞いています。彼らがどうにもならないのを、白井殿とその周辺はどうお考えなのでしょうか。その家が崩れる時には、家中の老名(おとな)が絶えるものです。
先度のご意見。神庭・矢野・吉里・高山を頼みになさっていません。一井斎の御代より活躍していた面々ですから、みな左衛門殿のおためと思って申しています。明日合戦が起きても、又は御屋形様へご出仕しても、御大途がご存じの者たちに閉口された者たちが白井で出仕したとしても、誰も召し上げません。左衛門殿のおためを思い、卒爾なつながりではあってもと、この春あなたを左衛門殿の元へ送ったのです。
一、三日以前にあなたが報告した件。先日の座頭が一巡りして返ろうとしたら、左衛門殿が仰せを披露。近ごろは届けがないし不審な事情があるとのこと。あの座頭は、白井殿の下にいる一同が「左衛門殿を貶めよう」と企んだという。座頭には不似合いな所業だとして「石こつミ」にもしよう」とのことでしたが、この意見は差し置かれ、結局「白井殿が呼びたいから」となってしまったとのこと。これもご尤もです。おためを思うなら、これは悪いご分別だと思います。
一、面々たちも聞き及んでいるでしょう。全体に、当方のご法度にて、座頭などを境目の衆が懇切に扱って手元に置く事は、嫌っています。その意図は、座頭が廻文を廻し、駿河・安房へもあれこれ伝えてしまうからです。越後の座頭を呼ぶのは更に分別がないことです。あの座頭はそちらで猿寿に預けるよう、白井殿へ確認の連絡をします。諒承が得られれば、早々に処置して下さい。
人のおためを思って申しても、聞き届けられません。労をなしても功義はありませんね。
ところで、吉里の子・矢野の弟はどこなら任せられるのでしょうか。この件、一度左衛門殿にお尋ねになってみて下さい。

箇条書きによるまとめ

当事者同士による説明の省略は余りない。これは、宛所の矢部大膳亮に対して神庭三河入道へこの書状を送って助言を乞うように指示しているからだろう。ただそれにしても白井長尾家中に詳しくないと理解が難しい。

そこで、箇条書きで情報を整理してみる。

  1. 白井殿が氏邦に伝える。「白井に、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて陳情し出勤拒否をしている」とのこと。

  2. 白井の矢野・吉里といえば著名な一族で変な扱いはできない。

  3. 宛所の矢部大膳亮に、神庭三河入道にこの書状を見せて相談することを、氏邦が依頼。

  4. 氏邦から「長左」へ直接言うのは、矢部大膳亮を通じて送った長文の諫言も無視されたのでできない。

  5. 現在、一騎合が氏邦の元に出頭しているのに、矢野・吉里・高山以下の所在が不明瞭。「これは白井殿の手前どうなのか。家が崩れるのは家老からだ」と氏邦が悲観する。

  6. 氏邦の意見に反して、左衛門殿は神庭・矢野・吉里・高山を頼っていない。一井斎(憲景)の代から活躍していた面々。「左衛門殿のために言っているのに」と氏邦は嘆じる。

  7. 氏邦の主張。「様々な状況での雇用であっても、人材を取り上げることはない。左衛門殿のために、この春に矢部大膳亮を派遣した」という。

  8. 大膳亮の報告について。座頭たちが一巡りして帰る際に、左衛門殿が「この座頭は無届けだし支障がある」と意見。「白井殿の下の者が左衛門殿は悪だくみをしているのだ」と言ってこの件を差し置いた。結局、白井殿は座頭を呼びたいということに。「こうなったのはもっともなことで、ためを思うならば、これは悪い分別だ」と氏邦は解釈。

  9. 氏邦は掟を説明。国境に座頭を置くのは禁止。座頭は廻文で駿河・安房に情報を流してしまうからだという。「それなのに越後の座頭を呼ぶのはありえない」と加えて指摘し、座頭を猿寿に預けるよう白井殿へ通達する。諒承あり次第の処置を命ず。

  10. 氏邦が嘆く。「人のために諫言しても聞き入れられず、苦労ばかりなことだ」と。

  11. 吉里の子・矢野の弟の預け先を最後に再び質問。大膳亮から左衛門殿に相談してほしいと依頼。

白井殿と左衛門殿 人物別まとめ

  1. 白井殿(御屋形様)……矢野・吉里の子弟に出勤拒否される。重臣たちの管理が不徹底。左衛門殿の反対を押し切って越後の座頭を呼ぶ。国境の座頭滞在は禁止だと氏邦から通達される。

  2. 左衛門殿(長左)……氏邦の長文意見を無視、家老を頼らない方針。氏邦から大膳亮をつけられる。矢野・吉里案件の相談先として氏邦が相談先に選ぶ。座頭問題では「無許可・支障」を理由に座頭招致を反対。

  3. 一井斎……神庭・矢野・吉里・高山たちを指して「一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ」と表現。「御代」は物故した先代の時代を指すから、白井殿か左衛門殿、あるいは双方の父であった可能性が高い。

左衛門殿は、氏邦が最初の方でうっかり「長左」と書いてしまっている。恐らく、より広い範囲の後北条家中ではそのように呼んでいたのだろう。その部下にした大膳亮に配慮してこの後は敬称にしている。

矢部大膳亮は、かつて氏邦の部下でこの年の春から左衛門殿につけられた。氏邦と左衛門殿は直接書状を送り合う間柄だが、この文書では大膳亮が仲介するように命じられている。同様の存在として冒頭に出てくる「吉田」がいて、この人物は矢野・吉里の子弟からの陳情を白井(左衛門殿)に取り次いでいる。

白井殿が御屋形様とも呼ばれていたと仮定したのは、「御屋形様」と「御大途」が併記されているため。文中で「左衛門殿の被官を召し上げることはない」とした条件の中に「御屋形様に仕えた者」と「御大途周囲の者が嫌った者」がある。左衛門殿の被官の条件だから、御屋形様は左衛門殿自身ではないし、併記されている御大途にも当たらない。ここから、白井殿=御屋形様という仮説に至った。

もう一つの書状

氏邦は同じ日付で神庭三河入道に書状を送っている。大膳亮に宛てたものに添えたものだろう。

矢野・吉里子之儀ニ付而、矢部其方所迄申候、更無所詮事ニ候へ共、先日申候成間敷なら者、早ゝ進退為近可申候、又ゝ仰出候而も、無其意趣茂、左衛門殿気も不和、是は房州御意見候間、無処召出候なとゝ存分立候者、未募間敷候之条、此侭何方へ茂、越可申候、恐ゝ謹言、
九月四日/氏邦/神庭三河入道殿

  • 戦国遺文後北条氏編3993「北条氏邦書状写」(赤見文書)

矢野・吉里の子について、矢部があなたの所まで申します。更に検討するようなことではありませんが、先日言ったようにならないならば、早々に進退を近くするように申しましょう。また、仰せ出しになっても、その意趣もなく、左衛門殿の気持ちも知らず、これは私がご意見していますから、無理にでも召し出そうなどとの考えを立てて未だ募ってはならないので、このままどこかへ送ってしまおうと思います。

「左衛門殿気も不和」は「不知」の誤翻刻かと思う。左衛門殿の意見が来ないので、氏邦が独自に判断していることを伝えているからだ。

先の書状で氏邦が気に病んでいた矢野・吉里子のことが相談されている。その中で「これは左衛門殿ではなく私の意見だから、無理に白井へ勤務させることはない」というようなことを書いている。そして「無理にでもと言い出さない内にどこかへ送ってしまおう」と続けているから、白井の家中においては氏邦より左衛門殿の意見の方が強かったのが判る。

ここに白井殿は出てこない。

専門家による人物比定

改めて、氏邦が関わった左衛門殿・白井殿は誰かを検討してみる。一井斎は白井長尾の憲景で間違いない。

憲景には、輝景と鳥房丸という二人の息子がいた。人名辞典で当該部分を抜粋すると……。

後北条氏家臣団人名辞典

長尾憲景

吉里の子と矢野弟の兄弟の扱いについて指示し長尾一井斎も存じの者とある。

長尾輝景

白井へ吉里子・矢野弟が侘言を言ってきたとある。当文書では北条氏邦が指南役として白井長尾氏の家老衆と輝景の和解を図った。

  • この辞典には輝景の弟として政景の項目があるが、家老衆との諍いに関する記載はない。

戦国人名辞典

長尾鳥房丸

天正十三年兄輝景の重臣牧和泉守親子が拠する田留城(赤城村)を所望するが果たせず、兄の意に背いて重臣牧親子と争い、城内の内通者と謀り、これを謀殺したと伝える。兄との確執や当主交替を伝える伝承があるのも、白井城周辺での内紛を反映しているのか。兄輝景が重臣と対立していたのもこの頃である。

誰が誰なのか

どちらの辞典も白井殿と左衛門殿を同一人物として扱い、輝景を比定している。しかし、同一文書で何度も両方の名が出てくること、座頭の扱いを巡って両者が対立していることから見ても、別人物と考えるのが妥当だ。

とすると、憲景(一井斎)は父であり故人、跡を継いだ輝景は白井殿・御屋形様と呼ばれていたと考えるのが最も自然である。兄弟が勤務を拒んだ「白井」は政景であり、一騎合を監督すべき家老たちの所在が曖昧であることを嘆いた氏邦が「白井殿の手前、こんな状況はいかがなものか」と案じたのも政景の指導力欠如を憂いたためだ。こう考えると全てがすっきりつながる。

憲景・輝景と続けて名乗ってた官途である「左衛門」を、輝景生存時に弟の政景が名乗ったのは違和感がある。しかし、輝景に実子がいたという痕跡がないので、父の死後に小田原から戻った政景が兄の養子になり官途を受け継いだとすれば問題はない。政景の後見役として氏邦が入り、矢野・吉田といった部下を配属させた。後北条の支援を受けた政景に押されて、実質的に輝景は若くして隠居状態となり、兄弟の関係も険悪になったのかも知れない。その状況は座頭事件での微妙な描写に窺われる。また、戦国人名辞典での内紛も何らかの形で当時の緊張が伝承として残されたと考えられる。

矢野の弟はどのような扱いを受けていたのか

1589(天正17)年に比定されている、不気味な氏邦書状がある。この文書単独では判らなかった事情が、上述の経緯を踏まえると一歩踏み込んだ形で理解ができる。

其方事此度無相違以子細、出仕候由、肝要ニ候、然ハ、其方陣所へ来り候成共、をとすもの有之ハ、爰元江不及披露、致書付以酒井、新太郎所へ可被申候、惣別小田原衆ニ付逢事、無用ニ候、無理来者有之ハ、此一札を見せ、可被断候、其方新太郎所へ可被申候、大途之可立御用候、誰歟兎角申候共、少成共、大途御相違有間敷候間、心安可被存候、をとすものを大途江可有披露候、恐ゝ謹言、
二月廿五日/氏邦/矢野孫右衛門殿

  • 戦国遺文後北条氏編3429「北条氏邦書状写」(赤見昌徳氏所蔵文書)

あなたのことは、この度相違のない事情で出仕されたとのこと。重要なことです。ですから、あなたが陣所へ来た時などに、脅す者がいたら、こちらへは報告せずに、書付をしたためて、酒井を使って新太郎の所へ申告して下さい。総じて小田原衆と付き合うのは無用なことです。無理に来る者がいたら、この書状を見せて注意して下さい。あなたが新太郎の所へ来たのは大途のお役に立つためですから、誰かがとやかく言うことではありません。少しのことでも、大途は相違がありませんから、ご安心下さい。脅す者を大途へ報告するでしょう。

鳥房丸=輝景の弟=政景とすると、矢野孫右衛門を脅していた「小田原衆」は、白井家中において小田原に人質として長く生活していた政景とその側近を指すのかも知れない。本来の小田原衆は当主である大途と直結していた筈なので不思議に考えていたが、白井の中での話だとすると判り易い。白井勤務から逃げた矢野弟=孫右衛門が、氏邦の元でその後継者と思われる「新太郎」に仕えることになり、それを面白く思わない白井の小田原衆が妨害する恐れがあったということか。

政景と矢野の因縁

1583(天正11)年比定の虎朱印状では、氏邦に宛てて、長尾鳥坊丸の帰郷を認めている。代わりの人質として「矢野」が小田原に行ったようだ。

長尾鳥坊老母煩ニ付、鳥坊丸ニ矢野証人替相達有間敷者也、仍如件、
未十月九日/(虎朱印)垪和伯耆守奉之/安房守殿

  • 戦国遺文後北条氏編2580「北条家朱印状写」(上杉文書十一)

こうした状況から、家中が安定していれば固い絆で結ばれたであろう主従も、状況によっては仇敵になってしまうことがあったのだと考えられる。

2017/10/13(金)六郎と氏忠が同一人物かどうか

1575(天正3)年に比定されている虎印判状で、宛所の「六郎」と文中の「氏忠」が別人物と解釈できることから「北条六郎」という、氏忠ではない人物がいると黒田基樹氏が指摘したが、その後『』で両者は同一人物であると再比定されている(p79)。

ただ、ネット上ではいまだに「六郎と氏忠は別人」という古い指摘が流布している。改めて、史料から比定を検討して、黒田氏再比定が妥当であることを検証してみようと思う。

そもそも、六郎と氏忠が別人物だとすると「本しやうつほね書状」(埼玉県史料叢書12_0408・岩本院文書)で、氏政・氏照・氏真・氏規・氏邦・氏光と並んでいる「六郎殿」が誰だか判らなくなってしまう。

うちまささま、うちてるさま、うちさねさま、五郎殿・六郎殿・大郎殿・四郎殿

黒田氏が別人説を当所見出した懸案の文書は以下のとおり。

  • 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)

    (前欠)小曲輪 十人、内村屋敷へ出門 十人、板部岡曲輪 十人、関役所二階門 六人、同所蔵之番 十人、鈴木役所之門 以上 一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事 一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事 一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事 一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事 一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事 一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事 一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事 以上 右、定所如件、 乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

注意書きの部分を解釈してみる。

一、各門の開け閉めは、朝は六つ太鼓を打ったあと、日の出を見て開くように。晩は入会の鐘が終わってから閉めるように。この開け閉めの規則を破った者は、この曲輪の責任者が重く罰すること。但し、やむを得ない用事がある場合は、責任者で協議して一筆書き出し、日誌につけておき、帰陣した時に提出するように。隠れて脇から出し入れしたことが判明したら、処罰の対象とする。 一、当曲輪の毎日の掃除は厳密にするように。竹木は何があっても切ってはならない。 一、たとえ代理の者が出てきたとしても、病気になったりして欠勤する際、または所定の人員に不足があった際は、氏忠へ申請し、氏忠の考えに添うように。 一、夜間は、どの設備も6時まで寝ずの番をして土塁警邏をするように。但し、土塁や堀の裏へ上がったら芝を踏み崩してしまうので、芝生の外を歩くこと。 一、鑓・弓・鉄炮をはじめ、各自の道具を集め、今日23日に全ての設備に配置、具足・甲などまで迄、しっかりと置くこと。 一、番衆の中で不埒な者がいれば、たとえ主人だったとしても容赦なく、糊付けにして氏忠に報告すれば、褒美を出すだろう。もし御褒美がなければ、帰還後に目安として大途へ申し上げるように。望みの通り御褒美を加えられるだろう。 一、日中は朝の五つ太鼓から八つ太鼓までの三刻、その曲輪より3分の1ずつ休息するように。七つ太鼓以前には、全員が着到通りに曲輪へ集り、夜中はしっかり詰めておくこと。

ここで「氏忠」が出てくるのは、欠勤や兵員報告の向き先、かつその対処を一任されている存在として、また、密告者の情報の向き先である。

恐らく「六郎」が「氏忠」であった場合、「密告しても氏忠が褒美をくれなかったら、後で氏政に直訴せよ」と規定している点からだろうと思う。氏忠本人にこれを言うだろうかと疑問に思うのも無理はない。だが、それは近代的な文書様式による偏見に過ぎない。

この時代は、その文書によって利益を受ける人間がそれを保持する。利益を侵害されそうになった際に、文書を見せて権利を守るためだ。この場合、軍律を守ることが六郎の利益であり、それを支えるために発給されたのであれば、六郎=氏忠で特に問題はない。

六郎=氏忠が、指示に従わない者にこれを提示したシーンを思い浮かべてみよう。


あれこれ規則を読み上げるが、皆はうんざりして「まあ守れるようなら頑張ろうかな」ぐらいの温度だったとする。ところが、密告推奨の条文の辺りで舌打ちをしただろう。しかも「氏忠が応じなくても氏政が応じる」という念押しまである。現場の見逃しで氏忠をごまかせても、やたら細かい氏政は徹底的な調査を命じるだろう。

押し黙る部下を前にして、氏忠は「私自身にも密告はどうにもならぬ。せめて厳密に守備をしよう」と、物主たちの肩を叩いて励ます。

そして、宛所では仮名や官途で呼ばれながら、文中ではその本人を実名で呼ぶこともまた多い。

解釈を浅めに捉えて、六郎と氏忠が別人と考える論も全く無理ではないのだが、それに伴って「六郎と氏忠が別人だと、その他の解釈がより自然になる」という展開は特に見当たらない。むしろ「じゃあ六郎って誰?」になってしまい、それは比定の方向として宜しくない。

2017/09/24(日)織田信長は家臣の築城場所を決めていた?

織田信長から長岡藤孝への書状

奥野高広氏が『増訂織田信長文書の研究』で「信長の許可がなければ、その家臣は築城できない」ということを指摘している。

  • 増訂織田信長文書の研究下巻p526

    居城は新しく宮津に築きたいとの希望と、普請を急ぎたいとの上申を諒承した。そして「惟任光秀(光秀は丹波亀山城にあった)の方にも朱印状を発給したから相談をし、堅固に築城することが肝心である。」と指令し、次に十五日に大坂に行き、畿内地方の城郭の大略を破却した旨を附加している。宮津城は宮津市の東方宮津湾の湾首に位置している。信長の指示によって惟任光秀の方から人夫を多く送った(『丹州三家物語』等)。大名が居城を築くに当たっても信長の許可を要したことが看見される。そして畿内地方で城破りが実行されている。

ところが、その根拠となる文書を見てみると、そうは言っていないようにも受け取れる。

  • 増訂織田信長文書の研究0889「織田信長黒印状」(肥後・細川家文書二)

折紙披見候、仍其面之儀、無異儀之由、尤以珍重候、然者、居城之事、宮津与申地可相拵之旨、得心候、定可然所候哉、就其普請之儀、急度由候、則惟任かたへも朱印遣之候間、令相談丈夫ニ可申付け儀肝要候、次去十五日至大坂相越、幾内ニ有之諸城大略令破却候、漸可上洛候之条、猶期後音候也、謹言、
八月廿一日/信長(黒印)/長岡兵部太輔殿

お手紙を拝見しました。さてそちら方面のこと、異常はないとの由、ごもっともで素晴らしいことです。ということで居城のこと、宮津という地にお作りになるとの旨、心得ました。きっと適した所なのでしょうね。その普請についてお急ぎとの由、すぐに惟任方にも朱印状を送りましたから、相談していただき、頑丈に指示することが重要です。次に、去る15日に大阪へ行き、畿内にある諸城を大体破壊しました。何れ上洛するでしょうから、更に後の連絡を期します。

藤孝が信長に「宮津に城を築きます。急いで作りたいので物資徴発の許可を下さい」という連絡をしたのだろう。だから信長は応じて光秀にも助力の指示を出した。宮津に築城することを決めたのは藤孝であって、それを信長と情報共有はしているが、追認すら得ようとはしていない。

ここを詳しく見て、奥野氏が何故読み違えたのかを検討してみたい。

宮津与申地可相拵之旨、得心候

「与」は仮名の「と」と同じ。ここの「可」は命令という場合と、未来予測という場合、両方で解釈が可能だが、この後の「得心候」がここで変わってくる。

宮津という地にお作りになるべきとの旨、心得ました。

  1. 宮津という地にお作りになるようにとの旨、決裁しました。
  2. 宮津という地にお作りになるだろうとの旨、承知しました。

どちらかはまだ決められないのだが、しかし次の文で信長は重要なことを書いている。

定可然所候哉

「定」は「定而」の略で「明らかに・必ずや・きっと」。「可然所=しるべき所」はより適した場所を指す。これに「哉」で疑問形にしている。自問しているような形で「~なのだろうね」という言い回しでも使う。

つまり、独り言のように「きっといい場所を選んだんだろうなあ」と書いている。宮津築城が信長の指示によるものだとしたら、この書き方はおかしい。たとえば藤孝が宮津築城を申請して信長が決裁するのだとしても、無責任な言い方になってしまう。

そもそも信長が行なった具体的支援は普請へのリソース確保だけで、強力な統制をかけたとはとても言えない。近世に行なわれた「一国一城令」や、徳川家の大名統制を念頭に置いて読んだために、奥野氏の解釈は偏ってしまったのではないか。

北条氏政の場合

最後に、北条氏政が猪俣邦憲に出した書状を見てみる。ここで氏政は「状況が判らなくて不審だ」「兵数が足りていないだろうから、普請を安心してやらせるために、真田は置くな」「絵図に描いて再度報告しろ」と書いている。

  • 戦国遺文後北条氏編3446「北条氏政書状」(東京大学史料編纂室所蔵猪俣文書)

書状具披見候、なくるミへ矢たけ之権現山取立儀、難成子細候、度ゝ模様不審ニ候、留守中ニ而、自元人衆も可為不足候、普請心易させて、真田者置間敷候、如何様之品ニ候哉、委細ニ成絵図、重而早ゝ可申越候、一段無心元候、謹言、
卯月廿七日/氏政(花押)/猪俣能登守殿

これに比べれば、先の信長の書状は放任に近いようなものだろう。

2017/08/21(月)今川氏真の楽市導入 滅亡へのトリガー

「諸役免除」というと、宛所が非課税になったという理解だけになりがちだが、商業では二面性を持っていたと思われる。「役」という縛りは商人にとって、在地勢力への納税期務であると同時に、独占的既得権益でもあった。下の例だと、各役についての友野次郎右衛門尉への権限が今川氏真によって定められている。木綿役は友野が独占、酒役は「諸役免除の判形も出して、年来納税もないから今後も不要」とし、胡麻油の利益は以前通り収納せよとしている。役の徴収に当たっては「免除されている」と主張する者がいたら一度届け出をして、その上でも難渋するなら妥当な物品を押収せよとしている。


従前々取来木綿役之事
右、任先判形之旨領掌了、縦諸役免除之判形其外、彼役別而競望之輩有之上、雖出置判形、於駿河国中者不可立之、然者為馬衣木綿弐拾五端宛、如年来三田村かたへ可相渡之、次酒役之事、諸役免除之判形依有之、年来不沙汰之上者、於向後不可及其役、兼又胡麻油商買役之事、如前々可請取之、但号免許、自余之輩其役於無沙汰者、成一返之届、其上就難渋者、見合可押取之、及異儀者、堅可加下知者也、仍如件、
永禄四辛酉年八月二日/(今川氏真花押影)/友野次郎右衛門尉
戦国遺文今川氏編1730「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川一)

下の今川被官らの証文は、茜の売買についてのもの。尾崎妙忍に判形が俄かに下され、前例がないと他国の商人らから訴状が上げられた。そこで今川家ではおのおのに判形を出して礼物を受け取っている。ここで締め切って、この後は判形を出さないとしている。この判形は茜売買の免許状としての「役」だろう。

就茜之儀、尾崎妙忍ニ
御判形雖被下之、無前々筋目、自他国之商人御訴訟之旨言上之処、被聞食分、各に御判形被下之畢、然者為其御礼段子拾段・金襴拾巻・虎皮二枚進上、即令披露候、縦重而加様之新役雖有競望之輩、一切不可有御許容旨、所被 仰出也、仍為向後一筆如件、
永禄十年十一月五日/三左元政花押・金遊芳線・伊左元慶・由内匠頭光綱/友野次郎兵衛とのへ・松木与三左衛門とのへ・他国商人中
戦国遺文今川氏編2155「三浦元政等連署証文写」(駿河志料巻七十八友野文書)

これを受けて下記を改めて考えてみる。

冨士大宮毎月六度市之事、押買狼藉非分等有之旨申条、自今已後之儀者、一円停止諸役、為楽市可申付之、并神田橋関之事、為新役之間、是又可令停止其役、若於違背之輩者、急度注進之上可加下知者也、仍如件、
永禄九年丙寅四月三日/(文頭に朱印「如律令」)/冨士兵部少輔殿
戦国遺文今川氏編2081「今川氏真朱印状」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)

富士大宮毎月六度市のこと。押し買い・狼藉・非分などがあるとのことを
言ってきたので、今から後は諸役を全て停止し、楽市として申し付けるように。
合わせて神田橋の関は新役となるので、これもまたその役を停止させるように。
もし違背の輩がいたら、急いで報告し下知を加えるように。

市場で紛争があるために、今川氏真は富士氏に対してこの市場での「役」を停止して楽市とすることを指示している。受益者に文書が行く原則から考えると、楽市を望んだのは富士氏で、「役」を行使した商人を排除することが目的だだろう。

通常、在地で閉じた市場開放を行なうと、広域商人が介入して在地の独立性が損なわれる。この点から、同時期に近隣にいた葛山氏は保護政策を行なっている。

古沢之市へ立諸商人、除茱萸沢・二岡前・萩原お於令通用者、見合馬荷物相押可取之状如件、
永禄十丁卯八月三日/(朱印「万歳3型」)/芹沢玄蕃殿
戦国遺文今川氏編2137「葛山氏元朱印状」(御殿場市萩原・芹沢文書)

同様の傾向は後北条被官の上田氏にも見られる。

茂呂御陣より罷越兵粮并馬のかいれう、其外かい取度由、いか様之手引頼候共、一駄ハ不及申、一俵なり共、不可出、若出候ハゝ、荷馬を取へし、此儀、松山根小屋之足かる衆心ニ入、見まハり、かたく可申付、但、陣衆へ者、一さい少之義なり共、いろうましき者也、以上、
寅八月十六日/(朱印「長則」)/松山根小屋足かる衆本郷宿中
戦国遺文後北条氏編2013「上田長則朱印状写」(武州文書所収比企郡要助所蔵文書)

法度
一、山之根其外松山領ニおゐて、他所のあき人所用之物をかい取、其郷村より直ニよそへとをる由、聞届候、本郷之市へハたゝすして、かくれしのふ故ニ致之義、うり手くせ子細、第一ニ候事
一、かい手之義ハ、他所之者ニ候間、無是非候、さて又、松山領之者をハ、一類共ニせいはいをくハへ、妻をハひき野へ可出置事、うり手之義、おんミつニ可申上候
一、如此かい取、よそへとをり候荷物を、本郷の町人とも致談合、在ゝ所ゝニおゐて、かたくとめへき事
右、三ヶ条、仍如件、
辛巳九月晦日/(朱印「長則」)/岡部越中守・本郷町人中
戦国遺文後北条氏編2273「上田長則法度写」(武州文書所収比企郡要助所蔵文書)

上記の例では、押買が後北条氏サイドから仕掛けられ、上田氏が懸命に防いでいる様子が判る。

葛山・上田などの例でも、両氏が楽市を命じられた文書は残されていない(というより、受益者保持の原則から考えれば発給自体がなかった可能性が高い)。なおかつ、どちらも広域商人の侵入に反発している。

ではなぜ富士氏の場合は楽市を望んだのか。当時の駿河国は、下記のように他国の商人が一斉に浸潤してきている状況にあった。

今宿法度之事
一、毎年各江売渡絹布以下、為其価請取米穀、并当国諸損亡之年従勢州関東江買越米穀受用之時者、年来友野座方令商買云々、然而当年相改従米座方可計渡旨、新儀申懸之由曲事也、如前々可申付之、但商人等於令米商買者、米之座方江可申付事
一、京都運送之荷物路銭之事、壱駄参貫文宛爾相定畢、併友野相改之令一札、朝比奈下野守加裏判可通過事
一、他国之商人等除今宿他宿之事、前々無之処、近年濫之由太以曲事也、然者如往古今宿江可令致寄宿、若又於令居住商人者、友野其外年寄商人可令納得事
右条々、永領掌不可有相違者也、仍如件、永禄九丙寅年十月廿六日/(今川氏真花押影)/今宿商人等戦国遺文今川氏編2110「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川一)

一、毎年おのおのへ売り渡す絹布以下、その価としての米穀受け取り、
当国凶作の年に伊勢より関東への買い取り米穀の受け取り、これは、
年来友野座が商売をしたという。であれば、当年より米座(が自ら)の計り渡しに
改めようと、新しく言い出したのは曲事である。以前通り申し付けるように。
但し、商人らが米を売買するのであれば、米の座へ申し付けること。

一、京都との運送荷物での運賃のこと。1駄が1貫文に決められている。
友野が改めて書面を出し、朝比奈下野守が裏に判を加えて通関すること。

一、他国の商人らを今宿を避けて他宿すること。以前はなかったことで、
近年は乱れているとのこと、大いに曲事である。往古のように今宿へ寄宿させる
ように。もしまた居住する商人がいれば、友野ほかの年寄商人が納得の上で
行なうべきこと。

本来は今宿という友野氏直轄の商業地のみに他国からの商人がいたはずが、逸脱して方々に居住し、友野氏も把握し切れていない状況が判る。この混乱を招いたのが何だったかは不明だが、大きな行政改革を行なっている氏真が関与していることは間違いがないだろう。

この流れに独力で対峙しようとしたのが葛山氏で、自力では抗しえず今川氏真の支援を乞うたのが富士氏だと考えられるかも知れない。氏真とすれば、これ幸いと楽市化したのだろう。

  1. 市場で他国の商人が紛争を起こす
  2. これらの商人は氏真からもらった「役」を盾にとっている
  3. 富士氏から氏真に対応を依頼
  4. 氏真は市場に付与した「役」を全面撤廃する
  5. 以前から存在していた在地の役も同時に撤廃される
  6. 広域で資本が大きな商人が、地域市場に入り込む

こうした手法で商圏を拡大し、その利潤を得ようとしたのが氏真の政策だったが、その代償は大きく被官たちからの反発が広まっていく。

2017/08/18(金)要検討でも写しでもない北条氏政書状への疑問

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滝川一益宛北条氏政書状写の検討

花押がおかしな北条氏政書状

隠居して大きく花押を変えたはずの氏政が、隠居前のものを用いているとされている文書がある。この文書については30年以上前から指摘があった。

『後北条氏の研究』(佐脇栄智編・吉川弘文館・1983)p124

『発給文書の基礎的研究と背景』「小田原北条氏花押考」(田辺久子・百瀬今朝雄)

原本は戦災により焼失したとのことで、実見することは出来なかったが、東京大学史料編纂所の影写本によってみる限り、書風は当時のものとして疑わしいところは見当たらない。けれども花押は、当時はすでに使用していない一類の最後の型に属するものである。既述の如く遅くとも天正九年十一月には二類の花押が使用されているのに、翌十年六月に至り、再び一類の花押を使ったということになるのである。氏政の花押の変遷は、全体として相当規則正しく行われているので、この時期だけ乱雑であったとは考えられない。

この疑問は継承され、下記でも取り上げられている。

本文書の氏政の花押は、天正四、五年頃のものであり、同十年のものとは全く異なる。但し本文書は、文言・書式などに特に疑点はない。

  • 小田原市史小田原北条2 p392

なおこの書状で注目されるのは、氏政が旧型の花押を据えていることである。氏政は天正九年五月(「寿命院文書」戦二二三五)から八月(「服部玄三氏所蔵文書」戦二三九一)の間に花押形を改判しているので、本来であればこの書状にも新型の花押が据えられるはずである。ここでわざわざ旧型の花押が据えられている理由については明確ではないが、花押形の改判以降、一益との間で連絡を取り合うことがなかったか、新型の花押は一益などの対外関係にはいまだ用いられていなかったか、いずれかであろう。

  • 『戦国北条氏五代』p159

伝来も微妙

この不可思議な文書を改めて考えてみる。原本は写しではないらしいのだが、一度東京大学史料編纂所に持ち込まれ影写された後に戦災で焼失したとのこと。高橋一雄という人物が所持していたのだが、その伝来は残されていない。

内容分析

今十一未刻、自深谷之台一庵書状を指越候、抑京都之様子、自是も申届候キ、実儀候哉、自遠州も注進連続候、一、以早飛脚申届意趣者、此際堅固ニ其地被相拘専一候、当方へ毛頭御疑心有間敷候、千万一妄之模様ニ有之而者、此度之対逆心人、貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、一、右之書状到来、則時ニ申達候、不可過勘弁候、軈以使可申候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/滝川左近将監殿進之候
戦国遺文後北条氏編2347「北条氏政書状」(高橋一雄氏所蔵文書)

まずは差出人と宛所を一旦抽象化して、単純に文面だけに注目。

第1項

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、私たちからもお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

第2項

一、早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

第3項

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

これらを項目ごとに考察。

第1項考察

冒頭は、これを書く契機になった狩野一庵書状が、11日未刻(13~15時前後)に到着したとある。受け取った<差出人>が<宛所>に向けて送ったのは文書日付が6月11日でその日のうちとなっていることから、急いでいたことが判る。一庵書状は、深谷の「台」から来たという。一庵は狩野一庵、深谷は埼玉県深谷市・神奈川県横浜市戸塚区深谷・千葉県いすみ市深谷の3か所に比定候補があるが、埼玉県深谷市は近隣に「上野台」という地名を持っていること、深谷衆は滝川一益に出仕していて関連することから、深谷市の比定で問題はないと思う。一庵は深谷城には入らず、「台」にいたことを強調しているように見える。

続けて「そもそも京都の様子」とある点は、少し唐突。ただ「こちらからも申し届けていました」と、既に<差出人>から情報提供をしたとあるので、共通の話題として成り立っていたことが判る。その上で<差出人>はこの様子を「本当か?」と疑っていること、徳川氏(遠州)から報告が連続して来たことを書いている。この時点で、<差出人>は結論を出していないため、ここで書状が終わっていたら、<宛所>に真偽を尋ねる内容だといえる。

第2項考察

これは前後とつながらない不思議なパラグラフ。<差出人>は、拠点防御に専念することを勧告し、自らを疑わないように指示している。そして次文に行くと一転して疑問形になり「万一疑うなら、逆心した者への鬱憤は晴らせなくなるのでは?」と尻すぼみになっている。「氏政父子」とあるのは、北条氏政・氏直のことで問題ない。「相談されたら、最後まで親身になるから、大・小の事柄を協議しましょう」という提案で締めくくっている。

第3項考察

最後の部分は、「右の書状が来たからすぐ報告した」とある。第1項の直後なら「右之書状」は一庵書状を指すと考えて問題ないのだが、第2項が長々と入っているために意図不明で、第2項自体が一庵書状だったのか、それを要約したものなのか、または無関係な文面なのかが判断しがたい。

そもそも第2項は氏政父子の行動を言明したもので、一庵が緊急時にそこまで明言できるかは疑わしい。<差出人>が「一庵書状の写し・現物を添えた」とも書いておらず、第2項と第3項の連携はほぼないといえる。

第2項は追而書?

第2項は追而書として書き込まれていたもので、これを改変して本文内に収納した可能性もある。その場合の解釈文を作ってみた。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。
追記:早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

但し、これだと一庵書状が何だったのか判らないままだし、追而書が孤立し過ぎているように見える。また、第2項の中には以下の例外的語用が存在する。

  • 逆心人:見かけない言葉。とにかく逆心した人間の具体的な名を書くのが通例。
  • 乍出角:語感からして「差し出がましいことですが」程度の意味になりそうだが、同時代で用例がない。「乍聊爾」「乍卒爾」が近いかも知れないが、そもそも「差し出がましいこと」をわざわざ言う文化がないのかも知れない。

いっそのこと第2項を丸々抜いて考えると、第1項が真偽を確認するための情報共有という趣旨である点、第3項の取りまとめ的表現が非常にうまく呼応する。第2項自体、表現の怪しさ、後からの知見が込められたような饒舌さを考えると、第2項自体が創作され、挿入されたものだという可能性が高いと思う。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

更に厳密に言うなら、第3項も「不可過勘弁」という妙な言い回しを使っている。他例を見ると「不可過御塩味」か「不可有御勘弁」とすべき部分で、違和感がある。

  • 不可過之 8
  • 不可過御塩味事 6
  • 不可過[工夫|狭量|推察|御計量|分別]候 7
  • 不可過両条・不可過十人・不可過勘弁 各1

この点から第3項も一旦排除すべきであり、そうなると、使用語句と語用から考えて第1項のみの身内同士の簡易な覚書だったのではないかと考えられる。具体例として、氏政から氏邦に送られたと思われる覚書、氏直から氏邦に送られた書状がある。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、以上
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:房 截)
小田原市史資料編後北条氏編2240「北条氏政書状」(神奈川県横浜市・県立文化資料館所蔵小幡文書)

糊付之御状披見、得心申候、同者此度討つふし候ニ極候、恐々謹言、
九月八日/氏直(花押)/安房守殿
小田原市史資料編後北条氏編1915「北条氏直書状写」(武蔵古文書一)

身内の覚書だった場合、一庵が氏照配下である点から、氏照が発信者だったと見るのが妥当だろう。宛所は複数の可能性がある。

  • 氏直:当主であり甲信侵攻で氏照・氏邦と素早く動いている
  • 氏政:氏規と共に徳川・織田との折衝を担当している
  • 氏邦:滝川一益にも出仕していて、一益の近況は把握している

ここで論点となるのが、何故一庵が深谷の台にいたのかという点。一益は一貫して義氏・氏直らを無視しているから、一益が指示したとは思えない。そもそも「一庵」と言われて一益が把握できたかすら疑問。

となると、情報収集のため氏照が一庵を動かしたと見るしかない。

そして、氏直・氏政は小田原で情報を把握していた訳だから候補から外れ、氏邦に宛てたと考えるのが最も適切だと思われる。

つまり、上方・遠州からの情報を掴んだ氏照が一庵を移動させ、既に一益に出仕していた深谷で情報を探らせた。それを一益の元にいた氏邦に伝えて、情報共有を計ろうとした。

まとめ

原本が失われた点からして、既に要検討だと思うのだが、この文書は写しではないという認識から長らく要検討指定から外されてきた。語用や文脈の分析から見たように、第1項だけが現存していた断片的な書付がベースになったのだろうと思う。

もう少し突っ込んで考えるなら、作者はまず第2項を足したのだろうと思う。

一体、近世後筆による創作というのは後世から見て判り易いのが前提だと思う。先の第2項は、軍記で描かれる川越夜戦を想定している。家忠日記では「明智」と明記されている謀叛人を「逆心人」とぼやかしているのも特徴的で、同時代での呼称に自信がないため回避したのではないか。一益の下で果敢に戦ったと主張している上野国系の軍記が影響している感もある。

その後に、このままでは書状にならない点から第3項と氏政花押を付け足したのだろう。

参考データ

北条氏政が「氏政父子」と書くだろうか、という疑問

実は、その書状を見て私がまず疑問に思ったのが、隠居した北条氏政が「氏政父子」という表現をするだろうか、という点だった。

天正11年に家康宛てで送った書状でも「氏直大慶、於拙者も忝候」として一歩自分は引いている。

以鈴木申達候処、朝弥太郎被指添、始中終御懇答、殊七月可被入御輿儀、猶以御儀定之旨被顕御状候間、愚拙歓喜何事と可遂之候哉、心腹難尽筆紙候、就中五ケ条蒙仰候、一ゝゝ御返答申述候、然ニ沼田・吾妻急速可渡給由、弥御真実之模様、氏直大慶、於拙者も忝候、委曲使を指添申入候間、具御返答待入候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/徳川殿
戦国遺文後北条氏編2547「北条氏政書状写」(古案敷写)

その他の例を見ても、北条氏政は1580(天正8)年の家督譲渡後は一貫して隠居の立場を前提に動いていて、重大な外交決定では決裁を全て氏直に一任している。これは彼の死に至るまで一貫している。

だから、氏政が滝川一益への書状で「氏政父子」と自ら書いているのには強い違和感を感じてしまう。そもそも、氏政が隠居して花押を改める契機となったのが織田方との新たな交渉のためであったことを考えてみても、こういう書き方はしなかっただろう、としか思えない。

家督継承前

1579(天正7)年比定2月24日付・清水入道宛・氏政名義

  • 「氏直をハ不同心候、当城ニ為立馬申候、為心得申遣候」戦北2055
家督継承

1580(天正8)年8月19日付・截流斎名義

  • 「天正八年庚辰八月十九日、氏直江直ニ相渡者也、仍如件」戦北2187
家督継承後

従金山之一札到来、先段者給候ニ内儀候間、愚意委細申越候キ、何時も河辺之人衆、被引立候者、自元大途事ニ候間、直ニ氏直江被相達可然候、其勘弁肝要候、猶ゝ給候者、内談候得者、其筋目申候、扨又、見当而可被致筋目候者、尤旁ゝ可有御出陣上ハ心易候、恐ゝ謹言、
二月十五日/氏政(花押)/安房守殿
戦国遺文後北条氏編2305「北条氏政書状」(根岸浩太郎氏所蔵文書)1582(天正10)年比定

願書右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、
天正十年三月廿八日/氏政(花押)/三嶋神主殿
戦国遺文後北条氏編2329「北条氏政願文」(三嶋大社所蔵)

所存江雪所へ被申越候、尤ヶ様之儀、意見神妙候、任申遣願書候、国主之儀候間、氏直可遣子細候へ共、輿之一ヶ条肝要ニ候条、氏直者難書子細、依之愚老如此遣之候、又なて物之事ハ、本人之を置物候間、陣中へ早ゝ可被申上候、恐々謹言、
三月廿八日/氏政(花押)/清水上野入道殿
戦国遺文後北条氏編2330「北条氏政書状」(東京都練馬区清水宏之所蔵)1582(天正10)年比定

今度之模様無是非候、然者長新就在府、初中後共様子有様ニ相談、自彼方使被指越候、委細可為演説候、向後之儀者氏政可為証人由候、隠遁之上雖思慮候、相任其儀上者聊別儀有間敷候、勘弁之上早々落着専肝候、恐々謹言、
十二月七日/氏政(花押)/岡部左衛門尉殿
埼玉県史料叢書12_0731「北条氏政書状」(岡部忠勝家文書)1584(天正12)年比定

北条氏政の念押し文書

氏政については、1569(永禄12)年に越相同盟交渉中の上杉家被官に、武田方との戦闘状況を伝えているものがある。見て判るように平明な書き方であって、例の文書に見られる混乱した表記はない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿
戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

里見義頼の情報

天正10年6月に、例の文書とほぼ同時に里見義頼が出した書状では、情報の出どころとして徳川氏が挙げられ、同時に、氏直から出陣催促があったと告げている。一方で、上方・信濃・越後・駿河の状況について何か情報がないかと太田資正・梶原景政に質問している。そして、この情報は佐竹義重もほしがっていると書いており、徳川・後北条以外からの情報が途絶したようにも見える(上野国の滝川一益は話題に上っていないので不明)。

徳川家康注進之由、随而自相府如被申越者、於京都信長御父子生涯之由候、依之氏直早速出陣候間、当方も加勢所望候、一、上口之様子并信・駿之儀如何被聞召候哉、一、越国之模様是又承度候、一、義重以切紙申通候、自其御届頼入候、如兼約此度以使雖可申述候、其筋之様子難測候条、遅退非疎折候、恐々謹言、
六月五日/義頼(花押)/梶・三
埼玉県史料叢書12_0627「里見義頼書状写」(温故知新集)6月15日の可能性を示唆。

徳川家康が報告したとのこと、それに従って小田原からの使者が話していたのは、京都において信長御父子が死んだということです。これによって氏直から、すぐ出陣するから加勢するようにと指示が来ました。一、上方方面の様子と、信濃国・駿河国のことはどのようにお聞きになっていますか? 越後国の状況も伺いたく思います。一、佐竹義重が切紙で申し通してきました。そちらよりのお届けを頼み入ります。兼ねてからの約束通り、この度は使者によって説明するでしょうが、その筋の様子は予測しがたく、遅滞をしても粗略に思ってのことではありません。

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