2018/11/22(木)戦国期の「取出」の使われ方

「取出=とりで」

戦闘用の拠点で城よりも軽微なものを「とりで=砦」と呼称するのが一般的だと思うが、戦国期の史料を見ていくと「砦」の字は使われていない。「取り出す」という動詞と同じ字を書く「取出」が専ら用いられている。

この用法を、手元にある史料から分類してみた。

その用例

「取出」は46例がある。このうち、動詞「取り出す」と考えられるのは多く見積もって6例。厳密に考えると3例しかない。

名詞としての形態を細別すると、他の名詞と結合して使われるのが最も多い。結合する名詞は、固有名詞がやや多い。「取出を~する」という、「取出」単体に動詞が接続したものは、構築と守備が一体となったような文脈で用いられ、城を攻める簡易拠点という色合いが強い。

名詞と連なって1語を成す 23

固有名詞に連結 13
  • 医王山取出割
  • 田原取出城
  • 在于大野取出昼夜相働条
  • 於嶋田取出城
  • 今度大野取出之儀、就申付
  • 市野取出江乗入端城押破時
  • 井口近所取出城所々申付候
  • 至信州堺目、御取出可被仰付旨候
  • 大野之御取出ニおゐて走廻候
  • 然而多賀谷取出之義、以絵図承候
  • 大河取出江相働
  • 今度金屋取出之刻、敵相動
  • 上州沼田之城取出、窪田之城責候時
一般名詞に連結 10
  • 取出普請出来之上
  • 当社中陣取并取出事
  • 殊敵取出江節々被懸被及一戦之段
  • 取出之儀申上候
  • 甲州之是非与覚悟候間、只今取出なと之儀者、一切不覚悟候
  • 去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火
  • 其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候
  • 但只今取出城等、如此中可相拘
  • たゝ居城之取出を丈夫に構
  • 至其表出馬、取出等今二三ヶ所丈夫可申付候

名詞として、動詞に接続する 17

「致」に接続 4
  • 然者向房総取出被致之、春以来彼口被押詰候条、両国本意不可有程候
  • 鱸兵庫助小渡依致取出、為普請合力岩村衆并広瀬右衛門大夫令出陣
  • 今度東條津平仁致取出
  • 今度戸田主水助別心、松平蔵人相動、所々致取出之処、被官人稲垣平右衛門尉馳走之由、喜悦候
「築」に接続 4
  • 向懸川取出之地二ケ所被築
  • 此節懸川近辺ニ弥被築取出之地利
  • 因茲向于懸川数ヶ所築取出之地候故
  • 就之自厩橋向于河西、築取出之由候、然則無二出馬、遂一戦
「仕」に接続 2
  • 当城取懸、城中不成候者取出重而仕、麦を可苅取之由候
  • 今度其方在所役引入、一身以覚悟取出罷仕候間
「出来」に接続 1
  • 向深谷・羽生之取出出来之由肝要候
「成」に接続 6
  • 今度於小牧取出被成候儀、祝着候
  • 向寺部可<成>取出之旨領掌訖(<成>を脱落と見なす。理由は後述)
  • 既以自面兵粮其外過分失墜成取出之条
  • 今度<成>取出為粉骨之条(<成>を脱落と見なす。理由は後述)
  • 今度成取出走廻之間
  • 殊今度之<成>取出(<成>を脱落と見なす。理由は後述)

動詞として扱われた例 6

動詞確定 3
  • 然而為後巻、越前・浅井衆都合三万ニ可及候歟、去月廿八日巳時取出候、当手人数同刻備合、遂一戦両口共切崩、得大利候
  • 仍其面敵取出候処ニ、即時覃一戦
  • 人馬之糞水、毎日城外へ取出
動詞の可能性が高い 3
  • 曲輪も又被為取出
  • 毎日雖動懸儀大切所、更不取出候条、輝虎改陣所
  • 其後宇都名へ取出

今川義元判物写に見る「とりで=取出」の用法

今川義元は、実に5箇所も「取出」が出てくる文書を残している。この例は一見難解なので、解釈手順を書き出してみようと思う。

原文

(A)一、向寺部可取出之旨領掌訖、然者寺部城領半分令扶助間、山林野河共半分内者可令支配之、縦敵味方内雖有買得之地、不可及其沙汰事
一、来年末三月中迄彼城無落居相支、其上以惣人数雖攻落之、(B)既以自面兵粮其外過分失墜成取出之条、寺部分限員数内参ヶ壱可令扶助之、但三月以後茂長能以計策彼城就令落居者、右ニ如相定半分儀不可有相違事
一、広瀬領償之儀一円可申付、但年来伊保梅坪表江令扶助分者可除之、雖然今度寺部逆心之刻、改申付償之事者、一円長能可相計之事
一、鱸日向守并親類被官不可及赦免、伯彼者以忠節知行就令還附者、(C)今度取出為粉骨之条、其褒美之儀者一廉可申付
一、於野田郷令扶助弐百五十貫文之分、雖有参州惣次之引、(D)今度成取出走廻之間、不準間余不可有其引事
右、吉田并田原以来前々走廻、(E)殊今度之取出、以一身覚悟、矢楯兵粮以下迄自面之失墜令奉公之条、甚為忠節之間、相定条々不可有相違、本知新知共自然可有増分之旨有訴人就申出者、為先訴人相改可所務、然者寺部知行案堵之上、相止番手如年来之以自力可在城于岡崎之旨、神妙之至也、此旨永不可在相違之状如件、
弘治四戊午二月廿六日/治部大輔判/匂坂六右衛門尉殿

  • 戦国遺文今川氏編1383「今川義元判物写」(大阪府立中之島図書館所蔵今川一族向坂家譜)

「成」の脱落を推測

原文のままで読むとAは明らかに動詞、CとDも動詞に近いように見える。しかし、この文章での「取出」が、匂坂長能による寺部城攻めの拠点構築で一貫していることから、BとDで使われている「成」が脱落した、もしくは省略されたものと考えた方が文の通りがよい。このことから、下記5例は「成+取出」と解釈した。

  • A:向寺部可<成>取出之旨領掌訖
  • B:既以自面兵粮其外過分失墜成取出之条
  • C:今度<成>取出為粉骨之条
  • D:今度成取出走廻之間
  • E:殊今度之<成>取出

読み下し

太字となっている「取出」記述部分は「成」の脱落を想定せずに強引に読んでいる。どうしても不自然な文面になることが判る。

  1. 一、寺部に向かい取り出すべくの旨領掌しおわんぬ、しかれば寺部城領の半分扶助せしめあいだ、山林・野・河とも半分の内はこれを支配せしむべし、たとえ敵・味方の内に買得の地があるといえども、その沙汰事に及ぶべからず。

  2. 一、来年末、三月中までにかの城落居なくあい支え、その上で惣人数をもってこれを攻め落とすといえども、すでに自面の兵粮・そのほか過分の失墜をもって取出を成すの条、寺部分限の員数のうち参ヶ壱、これを扶助せしむべし、ただし三月以後も長能が計策をもってかの城を落居せしむについては、右にあい定めしごとく半分儀は相違あるべからざること。

  3. 一、広瀬領償いの儀、一円申しつくべし、ただし、年来、伊保・梅坪おもてへ扶助せしむる分はこれを除くべし、しかりといえども、今度、寺部が逆心のきざみ、改めて申しつけし償のことは、一円、長能あい計るべきのこと。

  4. 一、鱸日向守ならびに親類・被官は赦免におよぶべからず、ただしかの者が忠節をもって知行を還附せしむるについては、今度取出、粉骨を為すの条、その褒美の儀は一廉に申しつくべし。

  5. 一、野田郷において扶助せしむる弐百五十貫文の分、参州惣次の引きがあるといえども、今度、取出を成し走り廻りのあいだ、自余に準ぜず、その引きあるべからざること。

  6. 右、吉田ならびに田原以来、前々の走り廻り、ことに今度の取出、一身の覚悟をもって、矢・楯・兵粮以下まで自面の失墜、奉公せしむるの条、はなはだしき忠節をなすのあいだ、あい定めし条々、相違あるべからず、本知・新知とも、自然、増分の旨あるべく、訴人ありての申し出しについては、まず訴人をなしあい改めて所務すべし、しかれば寺部の知行案堵の上、番手をあい止め、年来のごとく自力をもって岡崎に在城すべきの旨、神妙の至りなり、この旨、永く相違あるべからずの状、件のごとし、

2018/06/11(月)朝比奈文書にある謎文書

朝比奈文書にある謎の書付

戦北に北条氏規書状として掲載されている書付がある。これは朝比奈泰寄の家に伝来したもので、異筆で「御返事 にら山ニて給候御文」とあるだけで、月日・差出人・宛所の何れも欠いている。親しい間柄で短く返信してきたのだろう。韮山で受け取ったとある。この内容が難しい。

志かとそのくつハ仕置可被成候、五日のうちたるやう候、いくたひ何分申候へ共、御聞わけなく候、あさましき御存分にて候と存候て、くちおしく候、彼またにハあしかる共百余人さし置候、その物主一人二人ハかくしてかなわす候、そもゝゝ其方なとあるへき所に候や、見まいも更ニ不入候、日のうち一度ハかりさへ見まわり候へハすミ候、此度に分別不参候と存候て、あさましく口惜候、二人の子共ニ二度あり不申候、ほう偽にハ不申候、謹言、
月日欠/差出人欠/宛所欠[後筆:御返事 にら山ニて給候御文]

  • 戦国遺文後北条氏編4030「北条氏規書状」(朝比奈文書)

伝来や書き方から考えると、宛所は朝比奈泰寄・差出人は北条氏規で良いだろうけど、確信はない。とはいえややこしいので以下【泰寄】【氏規】と書く。

文全体から掴みとってみる

全体の文意を見ると、3つの軸がある。

  1. 轡の仕置きを5日の内に行なうよう、差出人が厳重に言ったのに従わなかった。
  2. 足軽共100余人の物主(責任者)は命じられない。
  3. 2人の子供に2度目はない。

鍵になるのは「二人の子共ニ二度あり不申候」で、【泰寄】・【氏規】のどちらかが、この息子2人の父親なのだろうと推測できる。そう考えると、以下の点が具体的に解釈できる。

  • 「その物主一人二人ハ」と、2人とも物主にするか、少なくとも1人はするかを匂わせている点。「その物主ハ」でも文意が通らなくもないのに、「一人二人」を挿入しているということは、息子2人とも物主に命じたい意向が【氏規】にあったからだと解釈できる。

  • 「そもゝゝ其方なとあるへき所に候や」と、そもそも何故お前がいるのだと、問うている点。この書付が返書であることから、まず轡仕置きの遅滞を咎める【氏規】の書面が兄弟(息子2人)の元に届き、兄弟に代わって返信したのが【泰寄】という経緯があり、それに【氏規】が返信したのがこの書付と考えられる。兄弟に宛てたのに【泰寄】から返信があったからこその「なぜお前が」という苛立った問いかけになっている。


※ちなみに。戦北では「その物主一人二人ハかくしてかなわす候」の「かくして」を「隠して」と注記しているが、「斯くして=このようにして」の方が「かなわす=適わず」に繋がり易いと思う。「斯」は「如斯」という言い回しが多いが、このような書付ではより砕けた言い回しになり「如」は用いずに強い口調になっていると思われる。

難読部分の解釈

文書全体の方向性が見えたところで、通常の読み方では把握できない部分を細かく見ていく。

「志かとそのくつハ仕置可被成候」

この「仕置」は「調達」だろうと考えている。後段で1日1回見回ればよいだけなのに、それもできないのかという指摘があるため、「くつハ」という在所の管理という解釈も可能ではある。ただ「五日のうちたるやう候」という条件が加えられていることから、これが納期だと考えると、馬具の轡を調達しようとしていた可能性が非常に高い。この「五日のうち」が、当該月の5日が締め切りということを示すか、5日間以内ということを示すかは、この史料からは判らない。

「彼またにハあしかる共百余人さし置候」

足軽100余人を配置した「彼また」は地名か地形を指すのかと考えたが、「また」が「表」の誤翻刻だとすれば意味が通り易い。原文を見ていないため推測になるが、「彼表」としておきたい。

「ほう偽にハ不申候」

「ほう」が判らない。この文は「2人の子供にもう2度と機会は与えない」という脅しの後に入っていて、この後は「謹言」で終えている。かなり強い言い切りに続けて「これは嘘ではない」と補強しているから、「ほう」が「万々」の誤翻刻だと見て「万々偽には申さず=少しも偽りではない」とすると意が通る。こちらも原文を見ていないので推測だが、仮定しておく。

読み下してみる

仮置きした部分は『』で括ってある。

しかとその『くつは=轡』仕置きなられ候、
五日の内たるやう候、
幾たび何分申し候へども、
お聞き分けなく候、
浅ましきご存分にて候と存じ候て、
口惜しく候、
彼『また=表』には足軽共百余人差し置き候、
その物主一人二人は『かくして=斯くして』適わず候、
そもそもその方などあるべきところに候や、
見舞いも更に入らず候、
日の内一度ばかりさえ見回り候へ済み候、
この度に分別参らず候と存じ候て、
浅ましく口惜しく候、
二人の子供に二度あり申さず候、
『ほう=万々』偽りには申さず候、

現代語に解釈してみる

轡を調達するように、5日の内にと、しっかり何度も指示したのに、お聞き分けがありません。

浅ましいお考えと思い、悔しいです。

あの方面には足軽100余人を配置しました。

その物主<として>1人か2人を<と考えていましたが>これでは<任命も>適いません。

そもそも、あなたなどがいるべきところでしょうか。

さらには見舞いもしていません。

1日1回だけ見回れば済むことです。

今回分別できないことを思うと、浅ましく悔しいです。

2人の子供に2度<と機会>はありません。少しも偽りには申しません。

謹言

子供2人の正体

この息子の父親はどちらだろう。

氏規が父親?

氏規には氏盛・辰千代がいるが、もしこの兄弟だとすると、齢から見て天正17~18年だろう。天正15年3月21日に泰寄が辰千代の陣代に命じられていて状況から見ると違和感はない(戦北3067)。

ただ文面が適さないように見える。絶望的な戦いを前に氏規は兄に逆らっていたりもするが、この文書にはそうした切迫感が薄い。せいぜい「2度目はないぞ」が決死の意味を帯びてくると思うのだが、ではなぜ、轡の調達がそんなに重要なのか、そしてそれを弱年の息子たちに任せた理由も判らない。

泰寄が父親?

泰寄の場合、家臣団辞典によると泰之(六郎大夫)が嫡男と目されている。泰之は1571(元亀2)年に初出。1574(天正2)年には高野山高室院に書状を出しているので、氏盛・辰千代より年長だった可能性が高い。

雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、
八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中

  • 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)※戦国遺文では年未詳としていて家臣団辞典でなぜ天正2年比定をしたかは不明。恐らく「南条因幡守在陣」と絡めての比定で、妥当性があると考えるのでこれに従う。

この泰之と兄弟(某)が対象だったとすれば、この書付が出されたのは天正9年に伊豆が主戦場になった対武田戦が見込まれると思う。この時は笠原正晴が武田に寝返ってしまい、後北条方は劣勢に陥っている。

寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処、北条美濃守出人数間遂一戦刻、頸壱討捕条、神妙候、仍大刀一腰遣之候、自今以後弥可励武功者也、仍如件、
十二月八日/勝頼(花押)/小野沢五郎兵衛殿

  • 戦国遺文武田氏編3632「武田勝頼感状」(愛知県南知多町・加古貞吉氏所蔵文書)

武田勝頼に追い込まれていて、物主として強引にでも若手を起用したかったのではないか。ただその切迫度は、「戦う前から負ける」と判っていた天正18年よりはかなり低い。これは、若者の未熟に愚痴ったり叱責して育てようとしたりという文脈とも合致する。

そう考えると、泰寄の息子2人(泰之・某)に直接指導していた氏規が、割り込んできた泰寄もろともに兄弟を叱った書付という仮説が成り立つだろう。ただ、泰之は泰寄との血縁関係を直接明示した史料が残されておらず、この解明が必要になる。

また、同書によると別系と比定されるものの、「朝比奈右衛門尉」がいる。この官途を名乗った綱堯が1521(永正18)年~1542(天文11)年に活動した史料が残されている。1585(天正13)年と1588(天正16)年に氏規奉者として「朝比奈右衛門尉」が登場するので、この右衛門尉は、綱堯の後継者である可能性が高い。但し家臣団辞典では1590(天正18)年7月の北条氏規朱印状に登場する「朝比奈兵衛尉」をもこの綱堯後継者に比定しているが、泰寄は1592(天正20)年の北条氏盛判物(戦北4322)に登場することから、そのまま泰寄に比定すべきだと思う。

知行方
弐百石、丈六
三百石、南宮村
以上五百
右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、
天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)

2018/05/28(月)「野菜は申し出てから奪え」という指示

秀吉の制札

本来寺や郷村を保護する指示書でなぜ?

羽柴秀吉が出した定書に「糠・藁・薪・野菜は住人に通告してから取るように」という条文がある。ということは「通告さえすれば奪ってよい」ということになる。


駿河内ふから
一、軍勢味方の地にをいて乱妨狼藉の輩、一銭きりたるへき事
一、陣取にをいて火を出す族あらは、からめとり出すへし、自然逐電せしめハ、其主人罪科たるへき事
一、ぬか・わら・薪・さうし以下亭主に相ことハり可取之事
右条々若令違犯者、忽可被処厳科旨被仰出候也、
天正十七年十二月日/(羽柴秀吉朱印影)

  • 豊臣秀吉文書集2897「羽柴秀吉定書」(判物証文写・東大史影写)

この定書は駿河・遠江に3件。所付を欠いたものが16件配布されていて、信憑性は高い。

この手の禁止事項は地権者、上記で言えば駿河国深良郷が受け取り、略奪にやってきた羽柴方を追い返すのに用いられる。他の制札を見ると、境内には絶対入るなとか、狼藉は禁止するという強い制止が書かれており、侵入されたり略奪されたりという事態に陥った地権者が提示する作りになっている。

となるとこの定書は不思議で、深良郷にとっての利点は「糠・藁・薪・雑事(=野菜)を奪われるのは防げないが、略奪通告はしてもらえる」ということでしかない。狼藉禁止・防火対策を命じた前2条との抱き合わせで郷村に条件をのませたのだろうか。

類似文書を探してみる

似た文書がないかを探してみたところ、遡ること55年前、今川義元・太原崇孚が出した禁制に「竹木・芋・大豆・菜・雑事を、所望せずに抜き取ること」が書かれ禁止されていた。

制札
すとなかさとかゝへ
一、軍勢甲乙人等、濫妨狼藉之事
一、苅田之事
一、竹木・芋・大豆・菜・雑事、不所望抜取事
右、堅停止之上、於違犯之輩者、可処厳科者也、仍如件、
七月廿六日/文頭に(朱印「義元1型」)崇孚(花押)

  • 戦国遺文今川氏編0776「今川義元禁制」(富士市中里・多聞坊文書)1545(天文14)年比定

もう1つ。後北条氏も年未詳ながら「陣具・芋・大豆のたぐいはどこの土地のものでも取ってよい」と書いている。

制札
右、大河原谷西之入筋、案独斎於知行、諸軍人馬取事、并屋敷之内ニて、鑿取令停止候、但陣具・芋・大豆之類者、何方之地候共、可為取之者也、仍状如件、
九月九日/(虎朱印)

  • 戦国遺文後北条氏編3815「北条家制札」(浄蓮寺文書)

こう並べてみると、米穀を除く食糧・道具は略奪禁止から外されており、中でも後北条氏は通告についても明示せず「どこの地でも奪ってよい」と保証している。この点から特に略奪への制約が少ない、といえるだろう。

 一見すると、同時代史料から見てこの考えで問題はなさそうに見える。

 

しかし、この仮説は誤っている。

もう少し掘ってみる

念のため、戦国遺文をざっと見渡してみると、無条件略奪を許可していた後北条氏が、一転して「草1本でも抜くな」と厳命している文書があった。

禁制
一、寺内之儀者不及申、近辺之菜園一本にてもこき取間敷
一、寺之山林枝木にても手指事、并竹子一本にてもぬき取
一、非儀非分有間敷事
以上
右三ヶ条、少も相違有之者、富士常陸可被申断、彼者大方申付ニ付而者、当意御本城へ納所を指越、可被申上候、不申上而、宿取衆狼藉、自脇至于入耳者、住寺可為曲事者也、仍状如件、
卯月廿六日/(朱印「武栄」)南条四郎左衛門尉・幸田与三奉之/海蔵寺

  • 戦国遺文後北条氏編1414「北条氏康禁制写」(相州文書所収足柄下郡海蔵寺文書)1570(永禄13/元亀元)年比定

禁制
一、寺内之儀不及申、近辺之菜園一本ニてもこき取
一、寺山林枝木ニても手指事、并竹子一本ニてもぬき取
一、非義非分有間敷事
以上
右三ヶ条、少も相違有之者、甘利佐渡・久保新左衛門尉可令申断、彼両人大方ニ申付候者、当意御本城江納所を指越、可申上候、為不申上、宿取衆狼藉、自脇至于入耳者、住寺可為曲事者也、仍状如件、
午卯月廿六日/(朱印「武栄」)南条四郎左衛門尉・幸田与三奉之/久翁寺

  • 戦国遺文後北条氏編1415「北条氏康禁制写」(相州文書所収足柄下郡久翁寺文書)1570(永禄13/元亀元)年に比定

これは、当時隠居だった北条氏康が海蔵寺・久翁寺に出したもの。富士・甘利・久保は今川氏の被官で、武田・徳川に分国を奪われた今川家は当時小田原近辺に居候していた。隠居していた氏康が朱印状を出したのは、当主の氏政が虎朱印を持って出陣していたため。

状況を推測すると、いわば友軍として保護していた今川家中が寺院に対して横暴を働き、たまりかねた寺が氏康に頼み込んで禁制を発行してもらったのだろう。

となると、略奪容認だったはずの後北条氏が今度は厳格な対応をしたことになる。上の2件では「菜園の1本」「竹の子」でも一切触るなと命令しているからだ。

今川氏の方でも、これは被官の大原資良が出したものだが、野菜を掘り取ってはならないとしている。

制札 本興寺
一、当寺中戸はめ并門前小家等、不可破取
一、竹木不可伐、又野菜不可堀取
一、沙弥雑人不可剥、次鍬鎌不可取
普請付而竹木以外所用之事有之者、以折紙直住持へ可所望候、無左右猥不可濫妨者也、
永禄十二巳二月廿七日/資良(花押)

  • 戦国遺文今川氏編2289「大原資良禁制」(湖西市鷲津・本興寺文書)

ますます判らなくなり、手持ちの各書を当たってみた。類似の文書が更に出てくれば実態が判るかもしれない。

  • 戦国遺文後北条氏編・今川氏編
  • 小田原市史資料編小田原北条
  • 増訂織田信長文書の研究
  • 愛知県史資料編10
  • 明智光秀(八木書房)

そして「野菜だったら抜いてよい」という文言は1つも見つけられなかった。

つまり、秀吉定書に類似した今川・後北条の文書が1つずつ出てきたものの、実際はかなり特殊で例外的な条項だったということだ。

秀吉定書自体は何通も現存していて疑いようがなく、後北条・今川の2文書も伝来・文言に不自然なところはない。秀吉の定書きでの他の条文の表現すると、郷村向け禁制というよりは、軍令に近いような印象もある。

これは恐らく、情報が足りていないということだ。各種禁制をもっと追わねばならない。

2018/05/06(日)駿河・伊豆・相模にいた朝倉氏

今川・後北条の家中に存在した朝倉氏はどこから来たか

名字からいって、斯波家守護代だった朝倉氏からの分流なのは確実だと思われる。

1549(天文18)年9月18日の朝倉氏像銘(戦北355)によると、北条氏綱の次男である為昌の室は朝倉氏の出身で「彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉」と書かれる養勝院殿。この縁で、初期の玉縄衆として朝倉氏が活躍している。

もう1つ、朝倉義景と後北条氏が直接交流した書状が残されている。これは相模海蔵寺住持が越前永平寺を訪れた際のもの(戦北4561)。しかし、氏康・氏政父子に次いで名が出たのは「松田殿・中村殿」であり、同族としての繋がりは見られない。

下山治久氏による朝倉氏出自の説明

一貫して、今川氏親の被官だった人物が、後北条家に来たという説明になっている。石巻・関・福島といった、今川被官からの転出集団に帰属すると考えているようだ。

『北条早雲と家臣団』(下山治久)p169

朝倉氏は、もと今川氏親の家臣で、早雲に仕えたのち、朝倉氏の娘が為昌の室になったために、氏綱の側近から為昌の側近家臣になった人である。

『家臣団人名辞典』p11 朝倉氏項

越前国の守護職朝倉義景から朝倉景徳を通して相模国海蔵寺に年未詳八月八日朝倉景徳書状写(相州文書・4561)が来ており、朝倉氏と北条氏が近しい関係にあることを示している。『寛政譜』巻六六六~七に朝倉氏系図を載せ、越前国守護職の朝倉敏景の次男秀景の嫡男玄景が伯父氏景と不和になり、玄景は駿河国の今川氏親の許に行き天文二年十一月に死去した。その一族が北条氏に仕えたものと思われ、朝倉播磨守某が伊勢宗瑞に仕えたと推定される。

初めて朝倉氏が登場する文書を比較

後北条側では、享禄4年という早い段階で既に、朝倉右京が祖父「古播磨」の小田原香林寺寄進に言及しており、伊勢盛時と同時に相模入りしたか、もしくはそれ以前により早く小田原にいた可能性すらある。

それに対して、今川側では天文17年とかなり後での登場。駿河長津俣の所領を、破産した浦田又三郎から買い取ったところから始まる。待遇にしても、当主次男に嫁いだ後北条側と比較すると、かなり低いところに見える。

後北条氏での初出

1531(享禄4)年12月5日

香林寺開山以来祖父古播磨代寄進申分。拾貫文、西谷畠、大窪分。壱貫弐百文、南面田、同分施餓鬼免。弐貫四百文、織殿小路、同分本尊仏供免。壱貫弐百文、城下屋敷一間、古播磨同霊供。以上拾四貫文八百文。右、前ゝ寄進分書立、進之候、仍如件、
辛卯十二月五日/朝倉右京(花押)/香林寺御納所

  • 戦国遺文後北条氏編0098「朝倉右京寄進書立写」(相州文書所収足柄下郡香林寺文書)

今川氏での初出

1548(天文17)年11月24日

駿河国中河内長津俣五ヶ村預職之事。右、去年補任于浦田又三郎之処、借物過分之条、依困窮売渡于朝倉弥三郎云々、然者、任証文之旨、彼職如先例可取沙汰之旨、所令領掌如件、
天文十七十一月廿四日/治部大輔(花押影)/朝倉弥三郎殿

  • 戦国遺文今川氏編0881「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

とりあえずの推測

武蔵遠山氏が堀越の足利政知配下から伊勢盛時に合流したと推測されているように、朝倉氏も堀越からの合流組ではないか。

足利政知は、関東へ入るために斯波氏の援軍を計画していた時期がある。この時に斯波家の守護代である甲斐・朝倉の両氏が関係しているのは確実なので、その時期に朝倉氏が一族の誰かを伊豆に置いた可能性がある。これが1460(寛正元)年頃で、この直後に斯波家は大規模な御家騒動に見舞われている。この騒動に紛れたり、時間が経ち過ぎたりで越前との関係性が途切れたのではないか。

また、文書として登場順からすれば後北条に最初に仕え、その後に駿河へ進出したように見える。

2018/05/05(土)海蔵寺の伝馬

海蔵寺はどこへ向かったのか

『戦国大名の印章』(相田二郎)で、甲斐武田氏の伝馬用朱印が紹介されていた。これは篆書だからだろうか、「傅馬」とは読めず素人目には「猫黒」と見えてしまう。印文の本当に難しいものだと思った。

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そんな海蔵寺の遠出について、読んでいくとあれこれ興味深い推測ができるのでまとめてみた。

1568(永禄11)年

7月5日

後北条氏が、海蔵寺住持が「上洛」するためとして、旅費1,000疋(10貫文)を黄金で渡す。関兵部丞から受け取るようにと、岩本太郎左衛門尉に命じている。

海蔵寺就上洛、為路銭千疋被遣候、自関兵部丞前、以黄金請取、可相渡者也、仍如件、
戊辰七月五日/(虎朱印)江雪奉/岩本大郎左衛門尉殿

  • 小田原市史小田原北条0724「北条家虎朱印状写」(相州文書・足柄下郡海蔵寺所蔵)
7月6日

後北条氏が、海蔵寺が用いる伝馬5疋を出すよう指示し、相模国では1里1銭の課税を免除する。奉者は岩本太郎左衛門尉。甲府までの宿中に宛てている。「関東」は「関本」の誤記だと戦国遺文と小田原市史は指摘。

伝馬五疋、無相違可出之、海蔵寺被遣、相州御分国中者、可除一里一銭者也、仍如件、
辰七月九日/(朱印「常調」)岩本奉/自小田原甲府迄・関東透宿中

  • 小田原市史小田原北条0726「北条家伝馬手形写」(相州文書・足柄下郡海蔵寺所蔵)
7月23日

甲斐武田氏が、海蔵寺に伝馬7疋を出すよう指示。信濃国木曽までの宿に宛てている。

伝馬七疋無異儀可出之、海蔵寺江被進之者也、仍如件、
戊辰七月廿三日/文頭に(朱印「伝馬」)/信州木曽通宿中

  • 神奈川県史資料編3下「武田家伝馬手形」(海蔵寺文書)

相田二郎氏は『戦国大名の印章』のp242で以下のように記載する。

海蔵寺の住持が、甲斐信濃を経て越前永平寺に赴いた時、武田氏から与えた伝馬の手形に、次の如きものがある。

これは、7月5日の虎朱印状で「上洛」としていることと異なる。東山道を行くことから越前行きを連想したか、もしくは下記文書から推測したのかも知れない。また、小田原出身の相田氏は学業に挫折した際に海蔵寺に駆け込んで住持の援助を得たとする証言があることから、何らかの証跡を見出していたのかも知れない。

8月8日

海蔵寺が相模国に帰るに当たり、朝倉景徳が、朝倉義景から北条氏康・氏政への書状を託す。太刀と馬は遠路ゆえに辞退されたため、絹5匹を代用。松田・中村へは2疋を進呈する。

この文書は年未詳とされている。前に紹介した文書と関連するならば永禄11年比定でよいように考えられるが、時期が迫っていたためか、永禄11年7月の旅程があくまで「上洛」と想定したために未詳とされたのだろうか。

就御下国、北条殿御父子様江、自義景以書状被申候、向後別而可申承之由候間、可然之様御取成肝用存候、仍御太刀・御馬之儀、遠路之条、如何候旨、尊意之趣申聞候処、御異見次第之旨ニ付而、御両殿江絹五匹充、松田殿・中村殿へ弐疋充被進之候、何も御心得候而、可被仰届候、御理之条、上裏ニ拙者判形仕候、恐惶謹言、
八月八日/景徳(花押)/謹上海蔵寺衣鉢侍者禅師

  • 戦国遺文後北条氏編4561「朝倉景徳書状写」(相州文書所収足柄下郡海蔵寺文書)

海蔵寺が甲斐・信濃を通過した意味

永禄10年2月21日に、武田義信室が三島に移住している(戦国遺文後北条氏編1010)。この段階で既に、武田と今川・後北条は外交上緊張状態だったと推測される。この後に、永禄11年11月には、甲斐から駿河への侵攻作戦が開始される。こうした情勢の中で、海蔵寺住持の路次手配を武田晴信が行なった点は、侵攻直前まで三国の緊張は緩和されていたと見なせるかも知れない。

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