2017/08/18(金)要検討でも写しでもない北条氏政書状への疑問

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滝川一益宛北条氏政書状写の検討

花押がおかしな北条氏政書状

隠居して大きく花押を変えたはずの氏政が、隠居前のものを用いているとされている文書がある。この文書については30年以上前から指摘があった。

『後北条氏の研究』(佐脇栄智編・吉川弘文館・1983)p124

『発給文書の基礎的研究と背景』「小田原北条氏花押考」(田辺久子・百瀬今朝雄)

原本は戦災により焼失したとのことで、実見することは出来なかったが、東京大学史料編纂所の影写本によってみる限り、書風は当時のものとして疑わしいところは見当たらない。けれども花押は、当時はすでに使用していない一類の最後の型に属するものである。既述の如く遅くとも天正九年十一月には二類の花押が使用されているのに、翌十年六月に至り、再び一類の花押を使ったということになるのである。氏政の花押の変遷は、全体として相当規則正しく行われているので、この時期だけ乱雑であったとは考えられない。

この疑問は継承され、下記でも取り上げられている。

本文書の氏政の花押は、天正四、五年頃のものであり、同十年のものとは全く異なる。但し本文書は、文言・書式などに特に疑点はない。

  • 小田原市史小田原北条2 p392

なおこの書状で注目されるのは、氏政が旧型の花押を据えていることである。氏政は天正九年五月(「寿命院文書」戦二二三五)から八月(「服部玄三氏所蔵文書」戦二三九一)の間に花押形を改判しているので、本来であればこの書状にも新型の花押が据えられるはずである。ここでわざわざ旧型の花押が据えられている理由については明確ではないが、花押形の改判以降、一益との間で連絡を取り合うことがなかったか、新型の花押は一益などの対外関係にはいまだ用いられていなかったか、いずれかであろう。

  • 『戦国北条氏五代』p159

伝来も微妙

この不可思議な文書を改めて考えてみる。原本は写しではないらしいのだが、一度東京大学史料編纂所に持ち込まれ影写された後に戦災で焼失したとのこと。高橋一雄という人物が所持していたのだが、その伝来は残されていない。

内容分析

今十一未刻、自深谷之台一庵書状を指越候、抑京都之様子、自是も申届候キ、実儀候哉、自遠州も注進連続候、一、以早飛脚申届意趣者、此際堅固ニ其地被相拘専一候、当方へ毛頭御疑心有間敷候、千万一妄之模様ニ有之而者、此度之対逆心人、貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、一、右之書状到来、則時ニ申達候、不可過勘弁候、軈以使可申候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/滝川左近将監殿進之候
戦国遺文後北条氏編2347「北条氏政書状」(高橋一雄氏所蔵文書)

まずは差出人と宛所を一旦抽象化して、単純に文面だけに注目。

第1項

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、私たちからもお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

第2項

一、早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

第3項

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

これらを項目ごとに考察。

第1項考察

冒頭は、これを書く契機になった狩野一庵書状が、11日未刻(13~15時前後)に到着したとある。受け取った<差出人>が<宛所>に向けて送ったのは文書日付が6月11日でその日のうちとなっていることから、急いでいたことが判る。一庵書状は、深谷の「台」から来たという。一庵は狩野一庵、深谷は埼玉県深谷市・神奈川県横浜市戸塚区深谷・千葉県いすみ市深谷の3か所に比定候補があるが、埼玉県深谷市は近隣に「上野台」という地名を持っていること、深谷衆は滝川一益に出仕していて関連することから、深谷市の比定で問題はないと思う。一庵は深谷城には入らず、「台」にいたことを強調しているように見える。

続けて「そもそも京都の様子」とある点は、少し唐突。ただ「こちらからも申し届けていました」と、既に<差出人>から情報提供をしたとあるので、共通の話題として成り立っていたことが判る。その上で<差出人>はこの様子を「本当か?」と疑っていること、徳川氏(遠州)から報告が連続して来たことを書いている。この時点で、<差出人>は結論を出していないため、ここで書状が終わっていたら、<宛所>に真偽を尋ねる内容だといえる。

第2項考察

これは前後とつながらない不思議なパラグラフ。<差出人>は、拠点防御に専念することを勧告し、自らを疑わないように指示している。そして次文に行くと一転して疑問形になり「万一疑うなら、逆心した者への鬱憤は晴らせなくなるのでは?」と尻すぼみになっている。「氏政父子」とあるのは、北条氏政・氏直のことで問題ない。「相談されたら、最後まで親身になるから、大・小の事柄を協議しましょう」という提案で締めくくっている。

第3項考察

最後の部分は、「右の書状が来たからすぐ報告した」とある。第1項の直後なら「右之書状」は一庵書状を指すと考えて問題ないのだが、第2項が長々と入っているために意図不明で、第2項自体が一庵書状だったのか、それを要約したものなのか、または無関係な文面なのかが判断しがたい。

そもそも第2項は氏政父子の行動を言明したもので、一庵が緊急時にそこまで明言できるかは疑わしい。<差出人>が「一庵書状の写し・現物を添えた」とも書いておらず、第2項と第3項の連携はほぼないといえる。

第2項は追而書?

第2項は追而書として書き込まれていたもので、これを改変して本文内に収納した可能性もある。その場合の解釈文を作ってみた。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。
追記:早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

但し、これだと一庵書状が何だったのか判らないままだし、追而書が孤立し過ぎているように見える。また、第2項の中には以下の例外的語用が存在する。

  • 逆心人:見かけない言葉。とにかく逆心した人間の具体的な名を書くのが通例。
  • 乍出角:語感からして「差し出がましいことですが」程度の意味になりそうだが、同時代で用例がない。「乍聊爾」「乍卒爾」が近いかも知れないが、そもそも「差し出がましいこと」をわざわざ言う文化がないのかも知れない。

いっそのこと第2項を丸々抜いて考えると、第1項が真偽を確認するための情報共有という趣旨である点、第3項の取りまとめ的表現が非常にうまく呼応する。第2項自体、表現の怪しさ、後からの知見が込められたような饒舌さを考えると、第2項自体が創作され、挿入されたものだという可能性が高いと思う。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

更に厳密に言うなら、第3項も「不可過勘弁」という妙な言い回しを使っている。他例を見ると「不可過御塩味」か「不可有御勘弁」とすべき部分で、違和感がある。

  • 不可過之 8
  • 不可過御塩味事 6
  • 不可過[工夫|狭量|推察|御計量|分別]候 7
  • 不可過両条・不可過十人・不可過勘弁 各1

この点から第3項も一旦排除すべきであり、そうなると、使用語句と語用から考えて第1項のみの身内同士の簡易な覚書だったのではないかと考えられる。具体例として、氏政から氏邦に送られたと思われる覚書、氏直から氏邦に送られた書状がある。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、以上
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:房 截)
小田原市史資料編後北条氏編2240「北条氏政書状」(神奈川県横浜市・県立文化資料館所蔵小幡文書)

糊付之御状披見、得心申候、同者此度討つふし候ニ極候、恐々謹言、
九月八日/氏直(花押)/安房守殿
小田原市史資料編後北条氏編1915「北条氏直書状写」(武蔵古文書一)

身内の覚書だった場合、一庵が氏照配下である点から、氏照が発信者だったと見るのが妥当だろう。宛所は複数の可能性がある。

  • 氏直:当主であり甲信侵攻で氏照・氏邦と素早く動いている
  • 氏政:氏規と共に徳川・織田との折衝を担当している
  • 氏邦:滝川一益にも出仕していて、一益の近況は把握している

ここで論点となるのが、何故一庵が深谷の台にいたのかという点。一益は一貫して義氏・氏直らを無視しているから、一益が指示したとは思えない。そもそも「一庵」と言われて一益が把握できたかすら疑問。

となると、情報収集のため氏照が一庵を動かしたと見るしかない。

そして、氏直・氏政は小田原で情報を把握していた訳だから候補から外れ、氏邦に宛てたと考えるのが最も適切だと思われる。

つまり、上方・遠州からの情報を掴んだ氏照が一庵を移動させ、既に一益に出仕していた深谷で情報を探らせた。それを一益の元にいた氏邦に伝えて、情報共有を計ろうとした。

まとめ

原本が失われた点からして、既に要検討だと思うのだが、この文書は写しではないという認識から長らく要検討指定から外されてきた。語用や文脈の分析から見たように、第1項だけが現存していた断片的な書付がベースになったのだろうと思う。

もう少し突っ込んで考えるなら、作者はまず第2項を足したのだろうと思う。

一体、近世後筆による創作というのは後世から見て判り易いのが前提だと思う。先の第2項は、軍記で描かれる川越夜戦を想定している。家忠日記では「明智」と明記されている謀叛人を「逆心人」とぼやかしているのも特徴的で、同時代での呼称に自信がないため回避したのではないか。一益の下で果敢に戦ったと主張している上野国系の軍記が影響している感もある。

その後に、このままでは書状にならない点から第3項と氏政花押を付け足したのだろう。

参考データ

北条氏政が「氏政父子」と書くだろうか、という疑問

実は、その書状を見て私がまず疑問に思ったのが、隠居した北条氏政が「氏政父子」という表現をするだろうか、という点だった。

天正11年に家康宛てで送った書状でも「氏直大慶、於拙者も忝候」として一歩自分は引いている。

以鈴木申達候処、朝弥太郎被指添、始中終御懇答、殊七月可被入御輿儀、猶以御儀定之旨被顕御状候間、愚拙歓喜何事と可遂之候哉、心腹難尽筆紙候、就中五ケ条蒙仰候、一ゝゝ御返答申述候、然ニ沼田・吾妻急速可渡給由、弥御真実之模様、氏直大慶、於拙者も忝候、委曲使を指添申入候間、具御返答待入候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/徳川殿
戦国遺文後北条氏編2547「北条氏政書状写」(古案敷写)

その他の例を見ても、北条氏政は1580(天正8)年の家督譲渡後は一貫して隠居の立場を前提に動いていて、重大な外交決定では決裁を全て氏直に一任している。これは彼の死に至るまで一貫している。

だから、氏政が滝川一益への書状で「氏政父子」と自ら書いているのには強い違和感を感じてしまう。そもそも、氏政が隠居して花押を改める契機となったのが織田方との新たな交渉のためであったことを考えてみても、こういう書き方はしなかっただろう、としか思えない。

家督継承前

1579(天正7)年比定2月24日付・清水入道宛・氏政名義

  • 「氏直をハ不同心候、当城ニ為立馬申候、為心得申遣候」戦北2055

家督継承

1580(天正8)年8月19日付・截流斎名義

  • 「天正八年庚辰八月十九日、氏直江直ニ相渡者也、仍如件」戦北2187

家督継承後

従金山之一札到来、先段者給候ニ内儀候間、愚意委細申越候キ、何時も河辺之人衆、被引立候者、自元大途事ニ候間、直ニ氏直江被相達可然候、其勘弁肝要候、猶ゝ給候者、内談候得者、其筋目申候、扨又、見当而可被致筋目候者、尤旁ゝ可有御出陣上ハ心易候、恐ゝ謹言、
二月十五日/氏政(花押)/安房守殿
戦国遺文後北条氏編2305「北条氏政書状」(根岸浩太郎氏所蔵文書)1582(天正10)年比定

願書右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、
天正十年三月廿八日/氏政(花押)/三嶋神主殿
戦国遺文後北条氏編2329「北条氏政願文」(三嶋大社所蔵)

所存江雪所へ被申越候、尤ヶ様之儀、意見神妙候、任申遣願書候、国主之儀候間、氏直可遣子細候へ共、輿之一ヶ条肝要ニ候条、氏直者難書子細、依之愚老如此遣之候、又なて物之事ハ、本人之を置物候間、陣中へ早ゝ可被申上候、恐々謹言、
三月廿八日/氏政(花押)/清水上野入道殿
戦国遺文後北条氏編2330「北条氏政書状」(東京都練馬区清水宏之所蔵)1582(天正10)年比定

今度之模様無是非候、然者長新就在府、初中後共様子有様ニ相談、自彼方使被指越候、委細可為演説候、向後之儀者氏政可為証人由候、隠遁之上雖思慮候、相任其儀上者聊別儀有間敷候、勘弁之上早々落着専肝候、恐々謹言、
十二月七日/氏政(花押)/岡部左衛門尉殿
埼玉県史料叢書12_0731「北条氏政書状」(岡部忠勝家文書)1584(天正12)年比定

北条氏政の念押し文書

氏政については、1569(永禄12)年に越相同盟交渉中の上杉家被官に、武田方との戦闘状況を伝えているものがある。見て判るように平明な書き方であって、例の文書に見られる混乱した表記はない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿
戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

里見義頼の情報

天正10年6月に、例の文書とほぼ同時に里見義頼が出した書状では、情報の出どころとして徳川氏が挙げられ、同時に、氏直から出陣催促があったと告げている。一方で、上方・信濃・越後・駿河の状況について何か情報がないかと太田資正・梶原景政に質問している。そして、この情報は佐竹義重もほしがっていると書いており、徳川・後北条以外からの情報が途絶したようにも見える(上野国の滝川一益は話題に上っていないので不明)。

徳川家康注進之由、随而自相府如被申越者、於京都信長御父子生涯之由候、依之氏直早速出陣候間、当方も加勢所望候、一、上口之様子并信・駿之儀如何被聞召候哉、一、越国之模様是又承度候、一、義重以切紙申通候、自其御届頼入候、如兼約此度以使雖可申述候、其筋之様子難測候条、遅退非疎折候、恐々謹言、
六月五日/義頼(花押)/梶・三
埼玉県史料叢書12_0627「里見義頼書状写」(温故知新集)6月15日の可能性を示唆。

徳川家康が報告したとのこと、それに従って小田原からの使者が話していたのは、京都において信長御父子が死んだということです。これによって氏直から、すぐ出陣するから加勢するようにと指示が来ました。一、上方方面の様子と、信濃国・駿河国のことはどのようにお聞きになっていますか? 越後国の状況も伺いたく思います。一、佐竹義重が切紙で申し通してきました。そちらよりのお届けを頼み入ります。兼ねてからの約束通り、この度は使者によって説明するでしょうが、その筋の様子は予測しがたく、遅滞をしても粗略に思ってのことではありません。

2017/07/11(火)「三州手始令落之候」とは何か

今川義元が終わりに向かった理由

今川義元が1560(永禄3)年5月19日に尾張と三河の国境で不慮の戦死を遂げている。

このことについて、三河を始めとして尾張など複数の国を攻略しようとした挙句の失敗だとする通説がある。その典拠として、関口氏純の有名な書状が挙げられるが、書状の言い回しには韜晦しているような疑いがある。解釈は慎重に行なうべきだと思うので、ちょっと解析してみた。

珍札披見本望候、仍去年有太神宮御萱米料之儀被仰越間、雖斟酌申候、春木方達而被致候故、及披露、返事之旨申入候、遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候、将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候、就中私江御祓并砂糖二桶送給、目出存候、随而菱食令進入候、寔御音信迄候、猶重可申述候、恐々謹言、
三月廿日/氏純(花押)/作所三神主殿御返報
戦国遺文今川氏編1504「関口氏純書状」(京都大学所蔵古文書集八)

「遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候」という部分。三河からの徴収を受諾しつつ、但し書きをつけている。ここの「落」は通説では「攻め落とす」という解釈になっているが、国単位での攻略であれば「平均」「本意」を用いる筈で微かに疑問を覚える。更に、その後に書かれた義元出兵との接続部分が「将亦」と、前の文を受けていない辺りに、こちらはより明確な違和感を覚える。この解釈ならば、「然者」「因茲」などが入ると思う。

では「三州手始令落之候」は何を指すのだろうか。

「落」という字は意外と意味するところが広く、落城・落居・自落・没落といった「陥落」の意味と、落着・落置といった「決定」を表わすもの、欠落・力落といった「喪失」に繋がる語義がある。但し、「落」単体で用いる例は少なく、私が見た中では、懸案の文書の他には3例しかない。

大和田江相動、惣兵衛構相落、当地悉令放火、敵一両人討捕、注進状令披見候、快然候、手負少々雖有之、不苦之由尤候、近日出馬候之条、期其時候、恐々謹言、
十二月廿日/氏真判/奥平監物殿
戦国遺文今川氏編2661「今川氏真感状写」(松平奥平家古文書写)

これは単体の「落」に「相」がつき、拠点を陥落させることを意味している。これならば通説解釈と合うけど、「将亦」への違和感は解消しない。

他の2例は、喪失に近い、抜け落ちることを指している。

1つは、後北条の着到定で記載漏れがあったときのもの。「馬鎧落候」=「馬鎧のことを書き落とした」という内容。

以前之書出ニ馬鎧落候、為其重而遣之候。馬鎧金紋をハ如何様ニ可出も随意ニ候。已上、
辛巳七月十七日/(朱印「印文未詳」)/道祖土図書助殿
戦国遺文後北条氏編2257「太田源五郎ヵ朱印状」(道祖土文書)

もう1つは今川義元判物で、支配権の散逸を禁じたもの。

年来同名三郎左衛門尉、同織部丞・同新左衛門尉令同意逆心之儀、先年奥平八郎兵衛尉為訴人申出之上、今度林左京進令相談、為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也、因茲同名隅松一跡之儀、所々令改易也、然者前々知行分際田菅沼之内市場名、并善部平居内井道同代木、養父半分、武節友安名之内中藤、同田地八段、杉山之内田四段、畠、宇利之内田地五段・屋敷一所、如前々収務永領掌了、勅養寺・松山観音堂同寺領・霊峰庵如前々可支配、但三ヶ所、人給ニ不可落也、平居内田地五貫六百文地、庭野郷内米五石并於庭野郷三人扶持、如年来永領掌ゝ并、新七給分也、為今度忠賞、本知田内拾六貫五百文、近来増分弐貫文、鵜河九貫五百文、近年増分三貫文、此内代官免壱貫三百文、糸綿分壱貫七百文、以上三拾壱貫文為本知行上還附之、布理并一色拾八貫文、龍泉寺之持副三貫文、但此弐貫文者可進納、以上五拾貫文分永所宛行之也、但此貫数五拾貫文之分、至于後年百姓指出之上令過上者、為上納所可進納、弥可抽忠節者也、
天文廿二年癸丑九月四日/治部太輔/菅沼伊賀殿
戦国遺文今川氏編1154「今川義元判物写」(浅羽本系図三十三)

これは3つの寺への支配継続を認めたものだが、「但三ヶ所、人給ニ不可落也」ということで、但し書きでこの三か所は他者への給として「落として」はならないとする。

「落」=「抜け落ちること」であるならば、「三河のことは諒解しました。但し三河を手始めに(徴収の)欠落があれば、残りの国々のことも同じようになるだろうとの仰せです」となり、関口氏純は義元がこのような懸念を持っていることを伝えている。つまり、三河での徴収がうまくいかないなら他の国々(遠江・駿河)も駄目じゃないかなという警告である。

この後に「将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候」と、義元の軍事行動に話を移して「ところで、義元が近日尾張との国境に進軍します。よい時分にまたご相談するのが大切でしょう」としている。話題を変えたかのような書き方だが、このつなぎ方は、要はこの作戦が成功したなら三河での徴収もうまく行き、遠江・駿河も徴収できるだろうという意向にもとれる。ただ保証はしたくないから、婉曲に伝えているような感じだと思う。

伊勢神宮に関わる戦国遺文今川氏編の文書

乍恐啓上候、 抑就 神宮御造営萱米之儀、従作所殿以各代御申候、然者御国之儀、御馳走候者、御神忠可目出候、我等茂急度可罷下候間、致程候、御礼可申上候、可得御意候、恐惶謹言、
六月吉日/末■(花押)/謹上朝比奈左京亮殿参人々御中
戦国遺文今川氏編1466「某末繁カ書状(切紙)」(伊勢松木文書)

就太神宮造替書状、殊御祓太麻并二種珎重候、随太刀一腰進之候、将又参州萱米之事、委曲関口刑部少輔可申候、恐々謹言、
八月十五日/義元御判/外宮三神主殿
戦国遺文今川氏編1473「今川義元書状写」(京都大学所蔵古文書集八)

珍札披見本望候、仍去年有太神宮御萱米料之儀被仰越間、雖斟酌申候、春木方達而被致候故、及披露、返事之旨申入候、遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候、将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候、就中私江御祓并砂糖二桶送給、目出存候、随而菱食令進入候、寔御音信迄候、猶重可申述候、恐々謹言、
三月廿日/氏純(花押)/作所三神主殿御返報
戦国遺文今川氏編1504「関口氏純書状」(京都大学所蔵古文書集八)

太神宮御祓之箱頂戴、目出度候、仍葛西庄御神領之由承候、至于可為如上代者、其類可多候、宜諸国之次候、伏所冀者、以 神慮、房総可令本意候、此願令成就者、新御神領可令寄進候、委細者、石巻父子可申上也、仍状如件、
二月廿七日/平氏康(花押)/太神宮禰宜中
戦国遺文後北条氏編1523「北条氏康書状写」(鏑矢伊勢宮方記)

太神宮立願之事
右、就三州本意者、於彼地一所永可奉寄附之、但錯乱之間者、先於駿・遠之中毎年弐百俵、為日御供奉納之処、不可有相違者、以此旨弥於御神前、可為専武運長久・国家安全之丹誠之状如件、
永禄四辛酉年八月廿六日/氏真(花押影)/亀田大夫殿
戦国遺文今川氏編1737「今川氏真判物写」(勢州御師亀田文書)

就 太神宮正遷宮、遠州萱米之事承之間、十付進之候、仍一万度御祓太麻并三種到来珍重候、弥於 御神前、可被抽武運長久之懇丹肝要候、猶三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
四月十一日/氏真御判/二神主殿
戦国遺文今川氏編2652「今川氏真書状写」(神宮関係古文書写集)

2017/06/12(月)北条氏康の「次男」は誰か?

1552(天文21)年3月21日に長男が亡くなると、氏康の次男氏政が繰り上がりで長男となる。

この後、1555(弘治元)年11月~翌年10月の間に、北条氏康の次男が頻出する。「藤菊丸」は古河公方・座間との関係性から見て北条氏照であり、伊豆若子は助五郎の仮名を持つ北条氏規である可能性が高いとされる。

  • 弘治元年11月23日の足利義氏元服式に登場する「北条藤菊丸氏康二男」
  • 弘治2年5月2日座間鈴鹿明神社棟札にある大檀那「北条藤菊丸」
  • 弘治2年10月2日『言継卿記』で駿府にいた伊豆若子「大方の孫相州北条次男也」

これは、古河公方を初めとする関東には氏照が次男、今川義元を初めとする上方には氏規が次男という二枚舌を氏康が用いたことになるのだが、そのようなダブルスタンダードを安易に用いるのだろうか。ここに疑問がある。

氏規が言継に次男と認識された背景には、既に氏照が大石家の養子になっていて繰り上がったのではとも指摘されるが、藤菊丸は一貫して「北条」であり「大石」ではない。藤菊丸はあくまで氏規で、弘治2年5月以降に駿府へ移り、その後を幼名不詳の氏照が継承した可能性は存在する。

氏照は「委細息源三」(氏康)「氏政舎弟北条源三」(輝虎)「委細弟候源三可申候」(氏政)と書かれていて、次男であるという記載はない。これは助五郎氏規も同様である。ただ、氏照が「奥州様」と呼称される一方で氏規は「美濃守殿様」と呼ばれることもあり、格差はありそう(埼玉県史料叢書12_0697「酒井政辰書状写」)。

この点から、氏規は一貫して次男待遇であり、藤菊丸だった可能性もまた同様に高いのではないかと思われる。氏照は氏規より年下だった可能性も検討すべきではないかと思う。