2017/04/21(金)後北条被官初出年齢

まずざっと調べてみた。15歳から20代半ばくらいか。この後情報が入り次第追記していく予定。

『後北条氏家臣団人名辞典』より主要奉者の初出年齢

  • 15歳・小笠原康広 1531(享禄4)年~1597(慶長2)年、1546(天文15)年初見
  • 15歳・富永政家 1569(永禄12)年初出、1607(慶長12)年没、54歳<1553(天文22)年生>
  • 19歳・間宮康俊 1536(天文5)年初出、1590(天正18)年没、73歳<1517(永正14)年生>
  • 22歳・北条氏繁 1536(天文5)年生、1558(永禄元)年初出
  • 23歳・松田康長 1537(天文6)年生、1559(永禄2)年役帳初出
  • 26歳・石巻康敬 1559(永禄2)年役帳初出、1613(慶長18)年没、80歳<1533(天文2)年生>
  • 31歳・板部岡融成 1537(天文6)年生、1568(永禄11)年初出
  • 31歳・山角定勝 1559(永禄2)年役帳初出、1603(慶長8)年没、75歳<1528(大永8)年生>

※但し山角定勝室は松田康長娘という系図があるので情報が混乱している可能性あり

○参考

  • 石巻家貞 1529(享禄2)年初出、1567(永禄10)年終見
  • 板部岡康雄 1555(天文24)年初出、1584(天正12)年終見
  • 垪和又太郎 1579(天正7)年に氏直一字書出、1582(天正10)年には出陣実績
  • 垪和氏続 1557(弘治3)年に家督継承、1559(永禄2)年に初見、1584(天正12)年終見

2017/04/20(木)岩付落城を巡るあれこれ

1590(天正18)年5月27日。岩付城が陥落したことを、長谷川秀一・池田輝政・細川忠興が北条氏直に報告し、拘置している氏政妹(長林院殿)と氏房室(小少将)の身柄と、討死した将の首級について打診をしている。但し、6月24日段階の小少将書状では「岩付三ノ丸」「はし番にて」と書かれており、1か月近く経っても岩付城内で軟禁されていたことが判る。また、落城の契機について「本丸から坊主が出てきて兵士が全滅したというので接収した」と羽柴被官が言っているのに対して、小少将は「年寄(物頭か?)の才覚で本丸と二の丸を明け渡して三の丸にいる」と書いている。後者だと三の丸の武装解除は行なわれていないような書き方になっている。

何となく、羽柴方による情報操作が窺える。一方で後北条方の反応もよく判らなくて、籠城中の金銭貸し借りは無効とする徳政令を氏房が出している。日付は小少将の降伏勧告の翌日で、反応が鈍い後北条方に業を煮やして、閉じ込めた小少将に書状を書かせた可能性がある。


羽柴氏被官(長谷川・池田・細川)が、北条氏直に岩付陥落を知らせる。

取り急ぎ申します。さて関八州の諸城のこと、攻め殺すべしとのことで、上杉景勝・前田利家・木村重茲・浅野長政・山崎方家・岡本良勝と、徳川家康配下の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉、以上で5万騎が派遣されましたところ、それぞれの城の命は助ける方針だとこれらの衆が申し上げたところ、数に入らないような城は追求すべきではないからと、助命をお認めになりましたので接収しました。ということで残る岩付・鉢形・八王子・忍・津久井の5城については、降参が遅れたことから、対応に乗り出して詳細を調べたところ、武蔵の岩付が5城の中で最も要害堅固だと案内者が申しましたので、では良い城から先に攻めるように仰せ出しになられ、そこで木村重茲・浅野長政・山崎方家・平岩親吉の面々が総勢2万余で持ち場を決めて20日から攻撃し、すぐに町まで乗り崩し悉く首を刎ねました。息をも継がず端城へ攻め入りました。数回反撃があったものの「とても適わない」とのことで本丸より坊主を出してきました。「戦える者はもう全員戦死していて、城の中に残っているのは町人・百姓・女性以外はいませんから、命はお助け下さい」と申しました。助命のために攻撃陣営から検使を出して、命を助けて城を受け取りました。百姓・町人のほかに年寄と子供が2~3人混じっていて、更に氏政妹とその娘(氏房妻)がいました。その対処について上申したところ「名のある武士の妻女なのだから恥辱を与えてはならない」との仰せ出しだったので、端城へ出して、その他の隠れていた者たちと一緒に鹿垣を結い回した中に保護しました。その後で年長者(氏政妹と娘か?)が言うには「命を助けてもらっても生き甲斐がありませんから、せめて小田原に入れていただき、氏房と一緒に腹を切りたい」と言っているのをお聞きになって、義理を弁えている人ですから哀れにお思いになり、そちらの城中へ送るように仰せになりました。ですから、数日中にその者が到着するので必ずこの口から送ります。次に、この親子のことは、不憫に思われて、女のことだからということで、お詫び言を申し上げるために呼ばれました。これについては、幸い石巻康敬が助命されていますから、岩付へ遣わし彼女らを送らせました。とりわけ岩付城で討ち取った首級が今到着しましたので、この口に掛けて置きまますのでご諒解下さい。その中で引き取りたい者がいれば、人を出して望むままにお持ち下さい。そうであれば、互いに射撃をやめて首を掛けたいと思います。ご同意いただけないのであれば、夜間に掛ければよいでしょうか。ご連絡をお待ちします。次に、残された1か所の城のこと。鉢形城は上杉景勝・前田利家の両人が担当して包囲しています。忍・八王子・津久井についても、それぞれで担当を決めて、急いで決着をつけられるかも知れません。

急度令申候、仍八州諸城事、為可被責殺、越後宰相中将、加賀宰相、木村常陸介、浅野弾正少弼、山崎志摩守、岡本下野守、家康内本多中務少輔・鳥居彦右衛門尉・平岩七之助、以上五万余騎被差遣候処ニ、城ゝ命を被助候様ニと、右衆中江申ニ付而、其旨言上仕候へハ、数ならさるものゝ儀ハ、不入事候間、可助由被仰出候付、城ゝ請取候、然者残る岩付・鉢形・八王寺・忍・付井此五ケ所之儀、降参遅ゝ故、為被加御許戮、城の可然、を被成御尋候処ニ、右五ケ所之内にてハ、武蔵国岩付城要害堅固之由、案内者共申上候、然者よき城より先可責崩由被仰出、則木村常陸・浅野弾正・山崎志摩・平岩七之助、此面ゝ都合以二万余、責口分相究、去廿日押懸、即時ニ町まて乗崩、悉刎首、息を不続、端城責入候、数度之戦雖有之、不叶ニ付て、本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後、百姓・町人以下之年寄・子共二三人打交り、并氏政妹、其息女、十郎妻女在之条、如何可仕哉之旨、従彼面得御意候処ニ、名も有者の妻子ニ候間、当座之恥辱を不與様ニ可仕旨、被仰出候ニ付、端城江出し、其外かくれ居候者ともさかし出、一所ニ鹿垣をゆひ廻、追入被作置候、就其後長敷者申様、此上にてハ、命を御助候ても、生甲斐無之候条、迚事ニ小田原へ入、十郎與一所ニ腹を切度と申候を被聞召付、義理を存知たる者ニ候条、哀ニ被思召候、其城中江遣候へと被仰出候間、定而五三日中ニ、彼者可令参着候条、必此口より可送遣候、次おやこの女房衆之儀、不便ニも被思候て、女之儀候条、為差御詫言申上可遣候、於然者、幸石巻下野守最前命を助被遣たるものゝ儀候間、迎ニ被遣候ハゝ、岩付江遣、右女房衆ニ引合、可送候、就中於岩付城討残候首共、只今持来候間、此口ニ可掛置旨、御意候、其内ニ可被取蔵も候ハゝ、人を出し、所望次第可被取入候、さ候ハゝ、互ニ鉄炮を打留候て、程を可掛候、但於無同心者、夜陰ニ可懸置候歟、御報ニ可承候、次相残一ケ所之城之儀、鉢形城ハ、羽柴越後宰相中将・羽柴加賀宰相両人ニ被仰付、被取巻候、忍・八王寺・付井之儀も、手宛ゝゝ何茂被仰付候、急度可為一着歟、恐ゝ謹言、
五月廿七日/羽柴東郷侍従秀一判・羽柴岐阜侍従輝政判・羽柴丹後少将ー―判/北条左京大夫殿御宿所
小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

小少将(北条氏房室ヵ)が某(北条氏房ヵ)に降伏勧告を行なう

一筆送ります。そちらでの日夜のお気遣い、軽くはないだろうと思います。それで、この地のことですが、夥しい数の上方勢がやってきて危うい状況だと思い、どんな辛い目に遭うだろうと考えていたところ、年寄たちの機転で本丸・二の丸も渡して、自分たちは三の丸に押し込められています。とりあえずはご安心下さい。とはいえまだまだ危ないことで(欠落)、あなたは急いで秀吉将軍へお味方なさいますように。そうでなければ、大変な攻撃をされて、その後は重い罪に問われるでしょう。事の習いとはいえ痛ましいことだと思ってしまいます。もしも、哀れにも思っていただき、義理とやらの筋さえ、違えることもなくいらっしゃるならば、良いようにお計らいいただき、こちらの父母妻子などをお助けなさいますように、宜しくお願いします。詳しくは葛原が申しますから、筆を留めます。

一筆参せ候、そこほと日夜の御きつかひ、かろからぬ御事にこそとそんし参せ候、左候得ハ、此地の御事おひたゝしき上勢むかひ来てあやうく見え、いかなるうき目にもあひなんやといふかしく存候処ニ、としより共さいかくにて本丸・二之丸も相渡、みつからなとハ三之丸におしこめられある事候、まつゝゝ御こゝろやすくおほされ候得、されともいまたやすからぬ御事■■■そもしさたいそき秀よし将くんへ御見かたなされ候得、左もあらぬほとならは、ことゝゝしきせめにあわせ候て、其後ハおもきつミにおしつめ侍らんとの事也けれは、ことのならいいたミ入存まいらせ候、もしあハれにもおほされ候て、義理と哉らんのすちさへ、たかふ事なくおハしまさは、よきにはからひ結ふてこゝもとの父母さいしなと御たすけなされよろしく候ハんや、くわしく葛原申上候ハんまゝ筆をとゝめまいらせ候、目出度かしく、
六月廿四日/岩付三ノ丸小少将はし番にて/人ゝ御中
戦国遺文後北条氏編3752「小少将書状写」(秋田藩家蔵文書三十一)

北条氏房、内田兵部に籠城に伴う徳政実施を伝える

今度の籠城について、頼母子講・借金は徳政とすることを申し上げている。もっともで異議はないとのこ仰せ出しである。

今度籠城付而、たのもし并借銭徳政之事申上候、尤無異儀被仰出者也、仍如件、
天正十八年庚寅六月廿五日/(朱印影「心簡剛」)/内田兵部殿
埼玉県史料叢書12_0935「北条氏房朱印状」(屋代典憲氏所蔵古文書写)

2017/04/20(木)関東の主導者が憲政から義氏に変わりつつあった流れ

1549(天文18)年~1557(弘治3)年までの、足利義氏・上杉憲政に関連した主要記事を抜粋。

1549(天文18)年

9月27日:下野国の宇都宮尚綱が五月女坂の合戦で那須高資に敗れて戦死する。高資方には北条氏康と芳賀高照・壬生綱雄・白川結城晴綱が加勢する。

天文19年

11月初め:北条氏康が上野国平井城山内上杉憲政を攻め、攻略できず(小林文書・高崎市史資料編4-280)。

この年:北条氏康が上野国平井城を攻略し、山内上杉憲政は逃れて同国白井城に入る。

天文20年

1月22日:那須高資が北条氏康に味方して弟資胤と争い、家臣の千本資俊に下野国千本城で殺害される。

この冬:北条氏康が冬から翌年にかけて再び利根川左岸の小幡・高山氏等の河西衆、同右岸の那波氏等と糾合して上野国平井城を攻める。憲政は白井城から再び平井城に帰還していた(身延文庫所蔵仁王経科註見聞私奥書・埼玉県史研究22)。

天文21年

2月11日:北条氏康が山内上杉憲政攻略のために武蔵国御嶽城安保全隆(泰忠)を攻め、三月初めに全隆父子は降伏する。

3月14日:北条氏康が上野国国峯城小幡憲重に、武蔵国今井村の百姓が退転したので帰村させ、耕作に励ませる。憲重は天文19年に上杉憲政を離反し氏康に従属(戦北409)。この月:北条氏康が上野国平井城を攻略して上杉憲政を同国から撤退させ、上野衆の由良・足利長尾・大胡・長野・富岡・佐野氏等が氏康に従属。

4月10日:北条氏康が上野国小泉城富岡主税助に、北条氏に従属した茂呂氏と昵懇にさせる(戦北412)。

5月初め:上杉憲政が家臣の謀叛により上野国平井城から上杉謙信を頼って上越国境に没落する。

12月12日:足利晴氏が嫡男藤氏を廃嫡し、梅千代王丸に古河公方家を相続させる。北条氏康の圧力による。その後、ほどなく梅千代王丸と晴氏は下総国葛西城に移座する(戦古671)。

天文22年

3月18日:北条氏康が高山彦九郎に、山内上杉領を掌握して上野国平井城近くの某市場の市日を定め、押買・狼藉・喧嘩口論を禁止させ、違反者は小田原に申告させる(戦北436)。

3月20日:北条氏康が結城政勝に、白川晴綱からの書状を受けた事を伝え白川や伊達・蘆名各氏への仲介も依頼する。この頃に氏康は結城政勝・大掾慶幹と結び、小田氏治・佐竹義昭と対立する(戦北462)。

3月22日:足利梅千代王丸が下野国大中寺に、足利政氏の判物に任せて同国中泉荘西水代郷の寺領を安堵し不入とする。義氏文書の初見(戦古796)。

3月23日:北条綱成が陸奥国白河城主白川晴綱に、外交交渉の開始を喜び、北条氏康に角鷹、綱成に刀を贈られた謝礼に定宗作の小刀を贈答し、今後の親交の取次を約束する(戦北463)。同日、綱成が白河晴綱の重臣和知右馬助に、晴綱から北条氏康への書状到来を感謝して白川氏への取次役を務める事を伝え、啄木の墨絵を贈呈された謝礼に島田作の鉾鎌を贈答し、今後は常陸方面の状況が晴綱から寄せられるので右馬助からも知らせて欲しいと依頼する(戦北3094)。

4月22日:北条氏康が上野国小泉城富岡主税助に、同国館林城に敵が侵攻したために急ぎ駆けつけて城下で防戦に努め、城内の赤井氏家臣を大切にした功績を褒め万事について氏康と富岡氏を仲介した茂呂因幡守と相談し、城を堅固に守ることを指示し、岩本定次の副状で述べさせる(戦北412)。

7月24日:足利梅千代王丸が簗田晴助に、知行として下野国名間井郷・武蔵国川藤郷を宛行なう(戦古798)。

9月11日:北条氏康が上野衆の富岡主税助に、同国に出陣して河鮨に着陣し、佐野領・新田領に侵攻する予定の事、富岡蔵人が茂呂弾正に援軍を差し向ける事、茂呂弾正の依頼で新田党の大谷藤太郎を派遣した事等を伝える(戦北422)。

12月12日:北条氏康が安中源左衛門尉に、陣労の忠節を認め上野国上南雲を宛行なう。上野衆の安中氏が氏康に従属(戦北423)。

天文23年

7月20日:足利晴氏・藤氏父子が北条氏康から離反し、下総葛西城から同国古河城に無断で移り、葛西城の足利梅千代王丸は北条方として残る。

7月晦日:北条氏康が白川晴綱に音信を通じ、結城政勝と相談して常陸国の佐竹義昭を攻略したいと伝える(戦北468)。

8月7日:古河公方家臣の田代昌純が常陸国水戸城の江戸忠通に、足利晴氏が先月20日に古河城に帰座し小山高朝や相馬氏等が普請している事、北条方の下総国葛西城足利義氏の許には武蔵国・上野国の国衆達が忠節を誓ってきており、簗田晴助や一色直朝も人質を送ってきた事、昌純が小田氏治と大掾慶幹の紛争を調整すると伝える。晴氏の復権運動が起きる(静嘉堂文庫所蔵谷田部家譜・千葉県の歴史4-563頁)。

9月23日:北条氏康が、従属した下総国栗橋城野田弘朝に条目を出し、北条方の葛西城足利義氏を護る事、離反した古河城足利晴氏との調儀を行なう事、上野国桐生城佐野直綱には詫言に任せ北条氏に従属させる事を依頼し、忠節として弘朝に旧領39箇所を安堵、新知行を10箇所宛行ない、晴氏・藤氏父子が降伏したならその知行も全て与えると約束する(戦北492)。

9月晦日:石巻康堅が白川晴綱の重臣和知美濃守に、晴綱・義親と北条氏康との神文の交換を仲介した事に感謝し、康堅が北条氏と白川氏の取次役を務める事を伝え使者に唐人を遣わす(北条氏文書補遺37頁)。

10月4日:北条氏康が、立ち退きを拒否する足利晴氏父子の下総国古河城を攻略し、降伏した晴氏は相模国波多野に幽閉され、藤氏は里見氏を頼る(年代記配合抄・北区史2-146頁)。

10月7日:遠山綱景が白川晴綱の重臣和知美濃守に書状の取次の謝礼を述べ、常陸口の小田・大掾両氏への軍事行動の異見を求め、使者に唐人の穆橋を遣わす(戦北528)。

弘治1年

6月12日:北条宗哲が武蔵国仁見の長吏太郎左衛門に、北条氏に敵対する山内上杉方へ内通した上野国平井城下の長吏頭源左衛門を国払いとし、太郎左衛門に跡職を任せる北条家朱印状を与える(戦北489)。同日、北条氏尭が仁見の長吏太郎左衛門に、長吏源左衛門の跡職を宛行ない違反者は奏者の氏尭に断り成敗させる。氏尭が旧山内上杉方の平井城の城領支配者となり北条宗哲が後見役を務める(戦北490)。

弘治2年

4月5日:北条氏康・太田資正・結城政勝連合軍が常陸国大島台で合戦し、小田氏治が敗れて土浦城に逃亡。同時に小田方の海老ヶ島城も結城政勝・壬生綱雄が攻略する(年代記配合抄ほか・北区史2-146頁)。

7月22日:大掾慶幹が白川晴綱に、去る夏に北条氏康と小田原城で直談し、別に足利義氏にも陸奥国の状況を説明し、氏康も結城政勝との当秋の小田氏への行動を了承している等を伝える(福島県史7-474頁)。

9月23日:小田氏治が白川晴綱に、北条氏康と和睦した事を伝えて今後の交渉を依頼し、佐竹義昭と氏康との和睦は未だ成らず常陸口では戦いが続いており、佐竹氏と当方との交渉は下野国の那須資胤にすると伝える(神奈川県史三下7019)。

11月29日:結城政勝が白川晴綱に、小田氏治が8月24日に常陸国土浦城から小田城に帰城したので城周辺に放火して氏治を追い詰めており、海老ヶ島城等は堅固に守備している事、北条氏康は7月から江戸城に在陣している事等を伝える(千葉県史4-221頁)。

この年:北条氏康が佐竹義昭に三ヶ条の覚書を出し、以前の三ヶ条は了承した事、宇都宮広綱と壬生綱雄との和睦は足利義氏の仰せだが拒否した事、義昭が広綱に合力する時には太田資正と綱雄の合力を確実に押さえておく事を申し送る。当文書はもしくは弘治3年か(北条氏文書補遺32頁)。

弘治3年

1月20日:北条氏康・氏政が那須資胤に、初めての来信と太刀・馬・銭の贈呈、北条氏に忠節を誓う起請文の申出に感謝し、詳しくは資胤の使者蘆野盛泰の口上で伝えさせる。下野国衆の那須資胤と氏康が同盟する(戦北538/539)。

12月上旬:宇都宮伊勢寿丸が、足利義氏・那須資胤・佐竹義昭に支援されて壬生綱雄を破り、綱雄は宇都宮城へ退去する。

12月11日:北条氏康が那須資胤に、壬生綱雄討伐への協力に謝礼を述べ、近日は下野国塩谷に侵攻した事にも感謝し、綱雄の降参で宇都宮と真岡の旧領を北条氏に渡すとの申出については足利義氏に任せる(戦北567)。

12月23日:壬生綱雄の宇都宮城が攻略され、宇都宮伊勢寿丸と芳賀高定が同城に入る。