2023/01/05(木)氏政妻付きの被官は存在したか

後北条氏の例を見ていると、男子が養子入りした際には決裁権を持った付き家老とでもいうべき被官がつけられて入部することが判っている。

では女子が後北条氏に嫁入りした際にこのような被官が付けられるのかを検討してみたい。

吉良氏朝妻の例

実例を見るとすれば、北条宗哲の娘が、当主氏康の養女として武蔵吉良の氏朝に嫁ぐ時に、実父の宗哲が与えた覚書(戦北3535)が参考になるだろう。

ここでは、儀式次第については大草康盛、台所の作法については久保某に彼女自身が質問することを前提した条項がある。これらは後北条家で事前確認する部分なので、お付きの被官とは関係がない。

  • 原文

    一、しうけんのときのもやう、あなたのしたてしたる人の申やうにせられ候へく候、大くさなにと申なとゝたつね申候とも、おほえ候ハぬと、返たう候へく候

  • 解釈

    一、さためてつねの三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、ほんほんのしき三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、くほによくたつねられ候て、したいちかハぬやうに候へく候、つねの三こんにて候ハゝ、へちきなく候ほとに、やうかましく申されましく候

  • 原文

    祝言のときの状況は、あちらの世話人のいう通りにするように。大草などに質問したとしても、覚えががないと返答されるだろう。

  • 解釈

    きっと常の三献だろう。であれば、本式の三献ということだろう。ならば、久保によく質問して作法を間違えないようにしなさい。常の三献であれば、別儀はないだろうから、うるさく言わないことだ。

その一方で、水主杢助・比木図書は細かい案件を任せられるとし、その下の扱いになっている大屋・中田の両名についても折に触れて用事を頼むのがよいと告げている。

  • 原文

    一、水主むくのすけ、比木つしよ、すへゝゝまてもまいりかよふへく候か、御ねんころ候へく候、大屋、なかたなとも、ひくわん一ふんのものにて候、御めかけ候て、御ようをもおほせつけ候へく候一、清水、笠原御れいにまいり候ハゝ、おとな衆御あひしらいのことくにて候へく候一、御むかゐにまいりたるおとなしゆへハ、つきの日ミつしむくのすけつかゐとして、よへハ、御しんちうと、上らふより仰とゝけ、よく候へく候、たつしいかゝ候ハん哉らん、かうさへもんに御たんかう候へく候、御れい申され候て後にも、つかゐ御やり候ハんか、かうさへもんいけんに御まかせ候へく候

  • 解釈

    一、水主杢助・比木図書は、細かいことでも連絡すべきだろう。親しくするように。大屋・中田とも、被官なのだから、目をかけて用事を命じるように。一、清水・笠原がお礼に来たら、大人衆のように扱うように。一、お迎えに来た大人衆へは、次の日に杢助を使いとして呼び、気持ちを上臈から連絡してよいだろう。ただ、どうなのだろうか。高橋郷左衛門に相談するように。お礼をした後で使いを送るのだろうか。郷左衛門の意見に任せるように。

このことだけでなく、吉良家中で後北条氏に最も親しい高橋郷左衛門尉の意見を全面的に仰ぐように別条で伝えている。彼女の身近にいて諮問を受けられるのは郷左衛門尉という認識なのだろう。

ここで名が出た水主杢助・大屋・中田は後北条当主の虎朱印状の奉者として名が挙げられていて、それは宗哲娘が嫁した後も同じである。このことから、彼らは吉良家にはいなかったと見てよいだろう(小田原市史435・719・2114/戦北855・1076・1274・1621・1846・2225)。此木図書については史料になかったので不明だが、水主杢助と同じ立ち位置だろうと思われる。

気安く用事を言いつけるように言われた水主杢助や大屋・中田が、氏朝妻の近辺に常駐していた訳ではなく、小田原で当主に仕えている身であるものの、氏朝妻から連絡があれば対処する存在であったといえる。

以上をまとめると、氏朝妻に付けられた者に有力な被官はおらず、吉良家中の高橋郷左衛門尉に直接相談するか、実家の諸被官(水主杢助・此木図書・大屋某・中田某)に連絡するという状況にあったことになる。

氏政妻を巡る状況

では武田家から後北条家に嫁いだ氏政妻の場合はどうだったか。彼女に関しての史料はほとんど残されていないが、永禄2年の「武田家朱印状」(戦武655)で「就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也、仍如件。奏者、跡部次郎右衛門尉。天文廿四年三月二日、向山源五左衛門尉」とある。

ここをどう解釈すべきだろうか。「小田原南殿」は北条氏政に嫁いだ武田晴信娘で間違いないだろう。その奉公のため、向山源五左衛門尉は伝馬課税を免除されている。ここで判るのは、源五左衛門尉が月2頭までの伝馬課税を免除されていることと、その理由が氏政妻への奉仕によるもの、ということである。

先の北条宗哲覚書とを併せて考えると、源五左衛門尉は小田原で南殿に近習したのではなく、一族の向山又七郎と同じく小山田氏同心として氏政妻と甲府との連絡担当者として甲斐国内にいたと見るのが妥当だろう。

一方で、所領役帳に「向山」という人物がいたことから、向山又七郎か源五左衛門尉が氏政妻付きの被官として後北条家中に取り込まれたとする仮説を見かけたことがある。

しかし、役帳の「向山」は他国衆に属しており、小山田弥三郎・小山田弥五郎・飯富左京亮に続いて記載されている。役帳の他国衆というのは、後北条氏がその知行を把握できていない者達で、そのうちで後北条分国内での彼らの知行を書き記している特例の存在。小山田弥三郎は武蔵小山田庄を中心にした知行を持っているため、甲斐郡内に移る前の小山田氏本知行を維持していたものと思われる。しかし、小山田弥五郎は伊豆、飯富左京亮は小田原千津島、向山は小机に知行を持っている。これを合わせて考えてみると、弥五郎の本地を承認する一方で、彼の同心達には後北条直轄領を与えたと思われる。彼らが直轄領を手にできたのは、津久井衆の知行地に「敵半所務」が多数見られることと関係しているように思われる。散財する小山田氏との半所務を整理する中で、本来の知行を手放して区画整理に応じた見返りとして、後北条当主が知行地を与えたものではないだろうか。

それに加えて、氏政妻付きの被官が他国衆として知行を与えられているとすれば、今川家から嫁した氏康妻付きの被官がこの他国衆に見られないのは違和感がある(他国衆には今川系の人物が見当たらない)。

該当するとすれば御家中衆にいる「興津殿」だが、興津氏は花蔵の乱で今川義元と決別した一族がいたようで、この中の一人を縁戚に取り込んだものだろう。

  • 戦国遺文今川氏編0561「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

    其方扶助同者親類等、聊就有疎儀者、堅可加下知、万一於属他之手輩者、手分之事者御房可為計者也、仍如件、
    天文五丙申年十月十七日/義元(花押)/興津彦九郎殿

あなたが扶助する者と親類で少しでも疎意があるならば、堅く下知を加えるだろう。万一にでも他家に属す輩がいるなら、分離内容については御房(出家した先代の興津藤兵衛正信?)の計画通りにするように。

※宛所の彦九郎はこの文書を最後に今川家から姿を消し、正信から衣鉢を継いだ弥四郎が今川分国に留まる。その後、弥七郎は今川滅亡後の1571(元亀2)年に北条氏繁の被官として登場する。

まとめ

北条宗哲覚書には、後北条氏が現役の関東管領であり武蔵吉良は将軍御一家衆であると明言されている。このことから、後北条家と武蔵吉良氏との婚姻は太守間での婚姻に相当するものといえる。細かく見ると、娘(吉良氏朝妻)への忠告にも氏綱妻(養珠院殿)と氏康妻(瑞渓院殿)の行動が言及されており、氏朝妻が太守妻に比せられており、この見解を裏付けられる。そして氏朝妻には有力被官は付けられておらず、吉良家中に単身置かれていた(身分の低い小者はいただろうけれど)。

このことと、従来言われていた向山氏が氏政妻付きだったという仮説に確証がなく成り立たない可能性が高いことを考えると、少なくとも氏政妻に付けられた有力被官はいなかったと思われる。