2017/08/08(火)同時代史料における「風間」

1572(元亀3)年 実記:駐屯に当たって乱暴狼藉を警戒される

風間来七月迄、六ヶ村被為置候間、宿以下之事、無相違可申付候、万一対知行分、聊も狼藉致ニ付而者、風間ニ一端相断、不致承引者、即書付者、小田原へ可捧候、明鏡ニ可被仰付候、馬之草・薪取儀をは、無相違可為致之者也、仍如件、
壬申五月七日/小田原北条家虎之印・笠原藤左衛門尉奉/岩井弥右衛門尉殿・中村宮内丞殿・足立又三郎殿・浜野将監殿・立川藤左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編1595「北条家朱印状写」(新編武蔵国風土記稿多磨郡二十三)

1573(元亀4)年 実記:すな原で暴れて出入り禁止になる

風間在所被仰付間、すな原ニ者有之間敷被思召処、于今致在宿候哉、百姓迷惑之段、申処無余儀候間、向後風間置事無用候旨、被仰出者也、仍如件、
元亀四年癸酉十二月十日/(虎朱印)評定衆勘解由左衛門尉康保(花押)/すな原百姓中
戦国遺文後北条氏編1677「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡三太夫所蔵文書)

1577(天正5)年 実記:風間の同心が着到不正で訴状を出していた

内田孫四郎二騎之知行与拘置一騎之致走廻由、風間同心渡辺新三、雖捧訴状、糺明之上御前帳之矢数、孫四郎物置処無相違候、新三申処無之候、仍仰状如件、
天正五年丁丑二月十一日/(虎朱印)評定衆下総守康信(花押)/内田孫四郎殿
戦国遺文後北条氏編1892「北条家裁許朱印状写」(屋代典憲氏所蔵古文書之写)

1582(天正10)年 比定:氏政に信濃・遠江の国境絵図と戦勝報告を送る

注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能ゝ首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、
九月十三日/氏政(花押)/風間出羽守殿
戦国遺文後北条氏編2412「北条氏政書状」(佐藤行信氏所蔵文書)

年未詳:伊豆の三戸衆に風間がいた

三戸衆。富塚善四郎、拾五人、此内一人鉄炮。土屋佐渡守、六人、此内一人弓。石上左近、参人、此内一人弓。岡部清七郎、弐人弓。篠ヶ瀬、弐人鉄炮。薄木、弐人鉄炮。同六衛門、弐人鉄炮。鴨岡、弐人鉄炮。荻弥一郎、弐人鉄炮。風間、弐人鑓。井源、弐人鑓。長島、弐人鑓。已上。右、於三戸ニ喧嘩口論をし」狼藉かりそめにもすへからす、然者大酒かりにものむへからす、又長浜へもかりにも行へからす、然者三戸ニ可有之、夜中ハ弥すをすへし、是ニも非にも両人如申各可致之、此掟少もそむく者をハ則可披露候、若以依所無披露自横合於申届者、後日両人可為十科者也、仍如件、
六月廿六日/氏規(花押)/富塚善四郎殿・土屋■■■■(佐渡守殿)
戦国遺文後北条氏編4020「北条氏規判物」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)

年未詳:氏房への警備助言として風間への加勢を命じたものがある

今日之構肝悪之処候、然者夜中之仕置極候、兼而不申付儀者俄ニ成かたく候、日中さへ厳敷候事者あわたゝしく候、いわんや夜中之儀者、兼而之仕置専一候条、風間処江堅加勢専一候、第一かきを一理計可被申付候、又かゝりニ極候、夜中くらく候まゝ堅可被申付候、返々夜分の用心専一ニ候、大かたニ覚悟ニ而ハ口惜候、又煩ハ如何、くわしくきゝ度候、
月日欠/差出人欠/十郎殿へ
戦国遺文後北条氏編3887「北条氏政ヵ書状写」(家伝史料六)