2021/05/29(土)天正元年の韮山城攻防戦

北条氏規と韮山合戦

北条氏規の書状を新たに見つけたので解釈・考察を試みる。

天正元年8月、駿河侵攻中の武田晴信に韮山城が攻撃されていた時のもので、岩田弥三という人物に韮山籠城の状況を伝えつつ、銃器の増援を要請している。

原文

急度注進申上候、今日者敵未明ニ当城へ取懸申候、かつ田も不致候、町場・和田島両口へ取寄申候キ、町場を致払候、我々自身懸合申江川はし前より押返申候、■■■山角物主ニ御座候、大藤涯分走廻候、然者和田島ハ伊奈四郎・小山田・武田左馬助此衆物主、両度対和田島致可払由候キ、涯分及坊戦押返、今日者為焼不申候、定而明日者惣手を以、可致候由存候、見合指引可申付候、乍去御心安可被思召候、随者今、午尾、遠山新四郎かせ者、敵へ走入申候、其後信玄はたもとしゆ十八町へ鑓を取候而、段々ニ被帰候間、十八町へてつほうを重堅固申付候、只今申被引退候、惣手之人数入申候、先日も申上候てつほう不足ニ御座候、はなしてハ御座候間、筒ハかり借可被下候、若十八町之■やく何共迷惑奉存候、有様ニ申上候旨、可預御披露候、恐惶謹言、
八月十日/助五郎氏規/岩田弥三殿
鉢形領内に遺された戦国史料集第三集p104「北条氏規書状写」(岩田家系録文書)

解釈

取り急ぎ報告します。今日は敵が未明に当城へ攻撃してきました。苅田もせず、町場・和田島の両口へ攻め寄せました。町場からの『払い』をするため、我々自身が応戦し、江川橋の前から押し返しました。山角が物主で、大藤がとても活躍しました。

そして和田島へは伊奈勝頼・小山田信茂・武田信豊が物主となり、二度にわたって和田島に対して『払い』を試みていたようですが、目一杯防戦して押し返し、今日は焼かせませんでした。

きっと明日は総攻撃をかけてくるだろうと思います。とはいえ、状況に応じた駆け引きを指示しますから、ご安心下さい。そしてこの午の下刻、遠山康英のかせ者が敵方へ逃げ込みました。その後、武田晴信旗本衆が鑓を取り、十八町へ徐々に帰っていきましたから、十八町へ鉄炮を追加配備するよう指示しました。

現状では敵が退いていますが、全ての兵力を入れてくれば、先日も申しましたように鉄炮が不足します。射撃手はいますので、銃身だけをお貸し下さい。十八町への供出といわれてもお困りでしょうが、ありのままを申し上げます。宜しくご披露下さい。

考察

各地名

伊豆の国市が公開している『韮山城「百年の計」』内の「第2章韮山城跡の調査・研究1韮山城跡の研究史(p21~)、2韮山城跡の発掘調査概要(p31~p50)」の6ページ目に詳しい。

稀出語

「致払」が固有語のように使われている。他例がないが、一定領域に対して敵軍を排除する意味合いだと思われる。

「走入」の解釈

引用元の戦国史料集では「突撃」と解釈しているが、他例の「走入」は戦場だと「敵に投降する」ことを指す。後北条は兵数が劣っていたため、「かせ者」(武家の付き人)が逃げ込んだのだろう。武田方がそれを受けて兵を引いたのは、かせ者から情報を得るためだと考えられる。

誰に伝えたものか

結句の「恐惶謹言」が厚礼であること、鉄炮供出を岩田弥三が「披露=具申」するように求めていることから、氏規は弥三を介して上位者に呼びかけたものと思われる。8月13日付の「大石芳綱書状」から、氏康・氏政は小田原、氏邦は鉢形にいることが確実なので、氏照かも知れない。8月21日に泉郷へ禁制を出している宗哲が最も可能性が高そう。同じ韮山城に入っている氏忠にこのような戦況を報告するとも思えないので、宗哲が三島に入っていたか。山角康定書状から、韮山城の軍勢が寄せ集めであることが判る。そう考えると、宗哲の下につけられた岩田弥三は氏邦から貸し出された人材だったかも知れない。

関連文書

1)北条氏政から北条高広に宛てた書状

原文

九日之註進状、今十二未刻、到来、越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候、於要害者、何も相違有間敷候、人衆無調、于今不打向、無念千万候、縦此上敵退散申候共、早ゝ輝虎有御越山、当方之備一途不預御意見者、更御入魂之意趣不可有之、外聞与云、実儀与云、於只今之御手成者、笑止千万候、能ゝ貴辺有御塩味、御馳走尤候、恐々謹言、
八月十二日/氏政(花押)/毛利丹後守殿
小田原市史資料編小田原北条0985「北条氏政書状」(尊経閣所蔵尊経閣文庫古文書纂三)

解釈

9日の報告書が今日12日未刻に到来しました。上杉輝虎への依頼で度々飛脚を出されているそうで、喜ばしいことです。

さて敵は、去年黄瀬川に陣取って、毎日韮山・興国寺へ動いています。韮山は今も外宿を堅固に維持し、要害はどこも相違ありません。兵数が準備できずに今は出撃できず無念千万です。

この上で敵がたとえ退散したとしても、輝虎が早々にご越山し、当方の備えを一途にご意見を預けないなら、さらに昵懇の意趣があってはなりません。外聞といい実儀といい、今のご所作は悔やまれてなりません。よくよくあなたもお考えになり、奔走するのがよいでしょう。

2)上記氏政書状への山角定勝添え状

原文

去九日之御状、十二参着、七日之御状、同前ニ為申聞候、御精ニ被入、切ゝ預御飛脚ニ候、祝着之由被申候、然者信玄至于今日、豆州にら山口日ゝ相動候、此時者、可被打置儀ニ無之候間、為可被遂一戦、人数悉被相集候、物主衆ハ何も懸被付候へ共、人数無調ニ候間、一両日相延、来十八九之間、必乗向可被致一戦候、勝利無疑候、敵ハ八千計ニ候、此方ニも、城ゝニ被籠置候へ共、自当地打立人数七八千可有之候、殊ニ地形可然所ニ候間、信玄可打取儀眼前ニ存候、にら山籠衆氏政舎弟助五郎并ニ六郎、其外清水・大藤・山中・蔵地・大屋三手ニ及楯籠候間、城内之儀者、可御心易候、去九日、町庭口と申所、にら山之城より、一里計外宿ニ候所ニ、山形三郎兵衛・小山田・伊奈四郎為物主、五六手寄来候所ニ、自城内人数を出相戦、敵十余人城内へ討捕候、彼地形一段切所ニ候間、敵手負無際限由申候、委氏照可申達候間、無其儀候、然ニ越御出馬御遅ゝ、不及是非候、急候間、早ゝ及御報候、恐ゝ謹言、
八月十二日/山四康定(花押)/毛丹御報
戦国遺文後北条氏編1435「山角康定書状」(尊経閣文庫所蔵文書)

解釈

去る9日の書状が12日に到着し、7日の書状も同じく伺いました。熱心にも、事あるごとに飛脚を送っていただき、祝着であるとのことです。

そして武田晴信は、今日になって伊豆国韮山に向かって毎日作戦しています。こうなると放置できないので、一戦を遂げるために軍勢を集められています。物主衆が全て駆けつけていますが、兵数が揃わずに一両日延期となり、18か19日に必ず乗り向かって一戦するでしょう。勝利は疑いありません。

敵は8千人ばかり。こちらでも城々に籠城させ、当地より出撃した兵数は7~8千になるでしょう。殊に地形が有利なので、晴信を討ち取るのは眼前だと思います。韮山に籠城しているのは、氏政舎弟の氏規と氏忠、そのほか清水・大藤・山中・倉地・大屋が三手に分かれて立て籠もっていますから、城内についてはご安心下さい。

9日に、町庭口という韮山城より1里ばかりの外宿に、山県昌景・小山田信茂・伊奈勝頼を物主として、5~6手が攻め寄せたところ、城内から兵を出して戦い、敵を十余人城内へ誘い込んで討ち取りました。その地形は一段と切所だったので、敵の負傷者は際限がなかったそうです。

詳しくは氏照がご報告しますので、省略します。しかるに、越後衆の御出馬が遅れられているのは、どうにもなりません。急いでいますから、早々にお知らせ下さい。

3)大石芳綱書状写

原文

今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人韮山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏、払、候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ、擬、見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、滝山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無体御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正体為体ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ韮山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為体ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無体と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中
神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)

解釈

今月10日、小田原へ到着した際に御書状などをお出ししたので、途中から申し上げます。

遠山康光は親子4人で韮山に在城しています。氏邦殿は鉢形におられ、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われたので、氏邦殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角康定・岩本定次の3人が御書状を受け取り翌日お返事なさいました。

互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか、または、氏邦殿に松田などの1人か2人を添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しました。

しかし、伊豆国に信玄が陣を張っていて手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。

そしてまた、御越山により厩橋にご出馬する前提で、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。もし長く証人となるなら、知行を与えようとのお考えもあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿へ見せようと山吉豊守が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得ありませんでした。

余りに理解がなかったので、ならば北条綱成の子を、どちらか1人倉内へ送ればどうか、または松田の子でもいいと申しましたが、これも納得ありませんでした。

ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人でも3人でも御陣下に置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人でも2人でも滝山か鉢形に置けばよいと、建前論で仰せられました。

ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。特に遠山左衛門尉は定まりません。気の毒なことです。

私はここに滞留しても一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われていますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。

信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。

私に帰るようにとご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々にお寄越し下されますように。

また、篠窪治部のことは、氏邦殿へ直接申していますが、一向に応答がありません。遠山康光から振り出された手形2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。

追伸:追加の御用は、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留して用事もありませんので、帰還するようご指示を。最終的には御前のお考えに従います。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。

4)北条宗哲禁制(泉郷=現在の清水町)

原文

禁制、泉郷右、当郷江罷越、作毛刈取事、堅令停止了、若押而於刈取者、即搦捕可申上者也、仍如件、
午八月廿一日/日付に(朱印「静意」)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1440「北条宗哲禁制」(泉郷文書)

解釈

禁制、泉郷右の郷にやってきて、農作物を刈り取ることは堅く停止させる。もし強引に刈り取る者がいれば、すぐに捕縛して申し出るように。

2021/05/26(水)後北条氏の総動員と聚楽行幸

小牧・長久手の後日譚

天正12~13年、徳川家康は娘婿の北条氏直と同盟して、羽柴秀吉に当たる戦略を組んでいた。その状況が一変し、織田信雄の仲介で家康は秀吉に従属することを決断する。そのため、氏直の諒解を得てから上洛している。

天正14年11月15日、京から帰った家康は大急ぎで氏直に書状を送り、秀吉との調整がうまく落着したと伝え、関東に対する秀吉の要求を送った。内容は不明だが、恐らく氏直の上洛・出仕の要件が盛り込まれていたのは確実だろう。この時点で秀吉は関東案件を家康に委託し、今後は家康が提唱する「関東惣無事」に則ることを片倉・多賀谷・白土らに申し送っている。そして、九州に遠征する直前の翌年2月24日、家康に改めて依頼していた。

しかし、なぜか氏直も家康もその準備をした様子が全くないまま、秀吉が九州にかかりきりになっているのを横目に、1年もの間羽根を伸ばしていた。

そのまま時は流れる。天正16年12月12日に氏政は下総森山の仕置を行っていて、来春の再攻撃を予告し準備をしていた(12月5日に氏照が「来春者早々其表へ御出馬有之様ニ可令馳走候」と書いているので、この時点での家中共通認識と言っていいだろう)。

後北条氏の挙国防衛体制発動が突然発動

ところが12月24日になると「京勢催動之由」を真に受けた後北条家中は最高度の軍事緊張の中で右往左往しており、この状況は翌年1月14日まで続く。氏直・氏政だけではなく、氏照・氏忠・氏房も慌ただしく動いているから、かなり本気の対応。

その一方でこの時、家康はのんびりと鷹狩を楽しんでいたし、秀吉は肥後・豊前の一揆討伐を指示しつつ聚楽行幸の準備に忙殺されていた。この落差は何か。

後北条氏の「京勢」言及表現

天正15年
  • 12月24日:京勢至于初春可発向由告来間~万一京勢発向実儀ニ付而者(虎朱印)
  • 12月28日:京勢陣用意之由告来儀(氏政)
  • 12月28日:京勢催動儀、必然之様ニ告来間(氏政)
天正16年
  • 1月7日:京勢催動之由註進間(虎朱印)
  • 1月14日:京勢催動之由注進間(虎朱印2通)

史料を見ると、12月24と28日の記述では、羽柴方の出陣は1月とされている。そして1月7と14日のものは「京勢催動」が報告されている。

武田滅亡時に、情報がないとしてなかなか動けなかった後北条氏は、情報を得た甲信遠征では機敏に対応している。このことから考えると、確実な情報があったから動いたと見ていいだろう。

ではこの報告をしていたのは誰か。

京勢出陣の報告者

交戦中の佐竹・宇都宮や、その背後にいる上杉から流され、氏直は家康に確認。家康は否定したものの氏直は猜疑心から臨戦態勢に入ったとも考えられる。しかし、12月と1月で報告内容が「出陣準備」から「出陣」に切り替わっている。家康すら信用しなくなった氏直は、この情勢変化を誰から聞いたのかという疑問が残る。

あとは、家康が情報源だった可能性が考えられる。この時の家康の行動を家忠日記で見てみると、西三河での鷹狩を終えて12月20日前後に駿府へ帰っている。そのまま駿府で城の普請などを行ない、年が明けて1月29日に「中泉」(磐田)へ鷹狩へ。2月5日に帰還すると、17日に「聚楽行幸参加の上洛は28日」と布告(但しこれは雨天で順延し出発は3月1日)。

箱根を隔てた小田原で後北条分国が最大の臨戦態勢に入ったとは思えない行動だ。秀吉の出仕命令に服さない氏直に対して「羽柴方が出陣した」とブラフをかけたにしては、何とも緊張感に欠ける。

とすると、在京被官を活用した可能性がある。在京していれば、秀吉が聚楽行幸の直前に出陣するという荒唐無稽な情報を流すとも思えないが、京に慣れない小田原の者が行幸準備の慌ただしさを出陣準備と勘違いした可能性は捨てきれない。

この時期に在京した後北条被官は、笠原康明がいる。これは同年2月25日の施薬院全宗書状に名が出てくることからほぼ確実。

消去法になってしまうが、家康への不信感から、別個の情報源として急遽在京した笠原康明の早とちりが後北条の国家総動員を招いたというのが現状の結論になる。

御札殊臘燭一折、御懇情祝着仕候、随而従切流斎尊書并両種拝受候、忝存候、可然様御取成奉憑候、不計御上洛待入候、猶笠越可被申展候条、令省略候、恐惶謹言。尚ゝ、勅作薫物十貝・照布一端令進之候、表祝儀計候、二月廿五日/全宗(花押)/北条美濃守殿御返報戦国遺文後北条氏編4535「施薬院全宗書状」(韮山町・堀江伴一郎氏所蔵文書)天正16年比定

結局何も起きなかったことから氏直は警戒を解いて東部戦線に復帰するものの、家康への不信感は残っただろう。ちなみに、この失点があったからか、笠原康明はその後ぱっとした活躍はしなくなる。天正17年11月に沼田割譲の御礼で上洛したのは石巻康敬だった。

家康・秀吉が遅れて反応

しかしこの後、今度は秀吉・家康側で緊迫した状況になる。

家忠日記を見ると、天正16年4月27日に聚楽行幸を終えた家康が京から帰還すると、その翌日に「小田原江被仰様不相済候由候」とある。更に5月6日「相州と上と被仰様事きれやうニ」とあり、氏直と秀吉が決裂したとある。

聚楽行幸に際して家康が氏直を連れてくると秀吉が考えていて、恐らく家康は秀吉から氏直の不在を咎められたのだろう。2月25日に施薬院全宗が氏規上洛に言及していることから、家康としては「氏規をまず連れてきました」とごまかすつもりだったか(恐らく氏規上洛までは合意が取れていた)。

何れにせよ、不信感から後北条氏は音信を断っていたと思われる。

秀吉の剣幕に押された家康は5月12日に、氏直と氏政に向けて起請文を出し「今月中にせめて氏規の上洛を確約せよ」と迫っている。

何となくだが、怖い上司が長期出張している間、勝手な行動でさぼっていた部下同士のいざこざに見えてしまう。

1年以上にわたって家康と没交渉で状況が読めず、4ヶ月前までは上方との決戦を覚悟して身構えていた氏直からすると、ますます家康への疑心が強まったと思われる。

余談:聚楽行幸の序列

天正16年4月14日に行なわれた聚楽第への行幸には、織田信雄と徳川家康が参加している。3月19日に近江草津に到着した家康に比して、信雄上洛はかなり遅れたようだ(3月20日付で秀吉が「行幸前候間、早々上洛待入候」と信雄に書き送っている)。

もしもだが、聚楽行幸に氏直が参加したとして、彼はどの位置にいられたか。愛知県史にある順列を見てみる。武家で最前列に立つのは信雄。烏丸光基を挟んで家康、更に日野輝資を間に置いて秀長が続く。この後は公家衆が続き、先駆けの最後尾に秀家が納まる。

この後ろに増田や石田といった秀吉近臣がずらりと並んで、秀吉の乗輿が進み、それに扈従して利家を先頭に外様太守が列をなす。越後内乱で参加できなかったが、少将である景勝はこの序列の上位に入るだろう。更に後ろには秀勝・秀康のほか、長谷川秀一・堀秀政・蒲生氏郷らが名を連ね、最後尾が長宗我部元親。氏直が上洛した場合、入れてこの後ろ。むしろ、列にも入れなかった可能性が高い。家康被官の井伊直政ですら後ろから3番目に入っているのに。

奇跡的に氏直が上洛したとして、この扱いに彼が耐えられたかはかなり疑問。

2020/11/12(木)後北条氏の評定衆

前提

手持ちのデータとして集めた虎朱印状は1,010件あり、このうち虎朱印の下に被官・一門の名があるものは56%(563件)存在する。

従来の仮説では、これを「虎朱印を奉じる者=奉者」としてひと括りにしていたが、それらとは異なる独自の特徴を持つ一群が存在する。これを「評定衆」として定義してみる。両者を比較すると以下の差異がある。

評定衆 奉者
表記 名字を書かない 一門・出家以外は名字
肩書 評定衆を名乗る 名乗りなし
花押 原則据える 原則据えない
人数 8人 99人
件数 47 443

虎朱印の下に花押を据えた史料の一覧はこちら

まず登場したのは石巻家貞と狩野泰光。同じ年に、笠原綱信と清水康英が連署として「評定衆」を名乗った文書があるが、文書は写しである点、二人とも名字を名乗っている点、花押がない点から要検討として除外したい。

その後は狩野泰光が一貫して評定衆として登場し、永禄11年2月に評定衆としての活動を停止する。出家して一庵を名乗り、北条氏照の指揮下に異動したようだ。その4ヶ月後に石巻家貞が登場し、こちらもそれをもって活動を停止する。これを評定衆第1世代とする。

第2世代である石巻康保・依田康信・山角康定は、永禄12年~元亀3年の3年間で登場していく。その後、天正7年に康保の活動が停止するものの、康信と康定は後北条氏最末期まで活躍している。

  • 例外1:花押を据えた者としては、「奏者」と名乗った遠山直景のものが最も早い。1525(大永5)年だから、虎朱印の上に「調」朱印を捺されたりという形式模索が行われている頃でもある。ただ、直景の息子の綱景もまた虎朱印下の花押を据えている(34年後の永禄2年)。恐らくこれは、石巻家貞・狩野泰光らの評定衆とは別系統として存在した可能性がある。

  • 例外2:山中康豊は北条氏規の指揮下にあり、海に関する文書で登場する。康豊は永禄9年に1回だけ虎朱印下花押を据えている。「評定衆」の名乗りはないものの、「修理亮康豊」という名乗りは他の評定衆と同じ。この時期に虎朱印と評定衆のシステムで何かの異常が見られたか。

  • 例外3:石巻康敬は「石巻彦六郎」と名乗り、評定衆としては異例な名乗り。但し花押は据えている。この文書は、武田晴信の駿河侵攻に伴って北条氏政が駿東在陣していた際に発せられた軍事的指示。石巻家貞と康保の間にあって、石巻家が評定衆世襲だったすればだが、混乱があったと思われる。

  • 例外4:垪和康忠が天正9年に一度だけ評定衆となっている。これは天正7年に石巻康保が退場したことを受けて、康忠が評定衆に加わったかも知れない。康忠は奉者として最多の48回登場。奉者として突出した活躍が認められて、評定衆に登用されたか。

評定衆をまとめると、以下のように分布している。

氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻家貞 2 0 1555(天文24)年1月21日~1568(永禄11)年6月28日
狩野泰光 7 2 1555(天文24)年3月21日~1568(永禄11)年2月10日
山中康豊 1 0 1566(永禄9)年8月28日 評定衆記載なし
石巻康敬 1 8 1569(永禄12)年5月16日 評定衆記載なし・彦六郎名
石巻康保 11 4 1569(永禄12)年6月10日~1579(天正7)年6月20日
依田康信 10 0 1569(永禄12)年10月27日~1588(天正16)年7月20日 確実な登板は1577(天正5)年2月11日
山角康定 15 5 1572(元亀3)年3月21日~1589(天正17)年6月28日
垪和康忠 1 48 1581(天正9)年10月25日

虎朱印が受給者へと伝達されるルートがどのように区分けされたかを図にまとめると以下のとおり。

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これら評定衆は、石巻・狩野・山角といった根本被官のみで構成されている。一方、奉者は、上は一門の北条氏規・氏照や氏邦から、下は「万阿弥」といった出家や「中将」という出自不明な人物などがごった返しているような状況。

名字は書かないことは、必ず花押を据えて個人特定を念入りにしている点と一見矛盾する。ただ、後北条の一門(氏規・氏照・氏邦ら)が名字を名乗らない(彼らの場合は受領名のみ記載)ことと合わせて考えると、評定衆たちは擬似的に北条一門の立場を持っていたのかも知れない。

後北条家中における、虎朱印奉者(取次・指南)とは異なる階層「評定衆」が存在したことの根拠史料

三例を挙げてみる。それぞれの動きを追ってみると図の通り。

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吉良氏朝の認識

吉良氏朝が山角康定に宛てた書状では、太守(氏政か氏直)への申し立てを康定経由で行おうとしたものの、康定が出陣して不在だったので幸田定治・板部岡融成と交渉した。ところがそれでは不安であり、康定の介入を要望している。

しかし、頼りにならないとした板部岡融成は40回、幸田定治は13回奉者として登場しており、奉者としてのみ見れば、氏朝が頼みに思った山角康定の5回を大きく上回っている(評定衆と奉者を合わせても20回であり、融成の半分でしかない)。

これは、評定衆の康定が奉者である定治・融成よりも上位に存在していたことを証明するものになる。

態申候、其城為在番越山之由、極熱之時分、大儀察入候、仍年来太守江申立存分■■御人数等をも被相竈御手透ニ候間、早々自身遂参府、可申立心底候処、其方其地他行、誠以恐怖千万候、雖然只今之御世間ニ無是非為如何可有之無儀候、従先段其方引付を以幸田相憑候之間、大方彼人相憑、先使者以卒■存分可得御内儀所存候、并近年加懇切候間、江雪斎をも引入可申条、両人江其方無拠在番故、氏朝申所委細有取成可被進之由、両所へ状被遣憑入候、誠其方取持之万之一も有之間敷候得共、余無際限打過儀、外聞実儀共氏朝心底可被察候、此度可取成与者不思候、責而御陣触■迄之儀候、御真実付而者、存分被立置書状待入候、委細者周防蔵人口上申含候、恐々謹言 追而幸大、江雪斎両所へ之書状之案文進置候、月日欠/氏朝(花押)/山角上野介殿

  • 戦国大名北条氏文書の研究p306「吉良氏朝書状」

折り入って申します。その城への在番のため越山とのこと。極熱の時分に大変なこととお察しします。さて、年来太守へ申し立てている存分ですが、■■兵員を籠もらせてお手すきになりましたら、早々に自身が参府を遂げて、申し立てようと考えていたところ、あなたがその地へ行ってしまい、本当に取り乱しています。とはいえ現在のところ世情ではいかんともしがたく、どのようにもならないことです。先段よりあなたが<書き留めたもの ※>を幸田に頼んでいますから、大方はあの人にお願いしています。先の使者が卒爾にもご内意を得ようとしています。そして近年は懇切を加えていますから、江雪斎も引き入れて申請していますから、両人へはあなたがよんどころなく在番しているので、氏朝の申す所を詳しく取り成してくれるとのこと。二人へ書状を送ってお願いしています。本当に、あなたの取り持ちに万が一のこともないとは思いますが、余りにも際限なく時間が経っていること、外聞といい実態といい、氏朝の心底をお察し下さい。この度の取り成せるとは思いません。せめて御陣触が終わるまでのことです。本当のところについて、存分を立て置かれた書状をお待ちしています。委細は周防蔵人の口上に申し含めました。追伸:幸田大蔵丞・板部岡江雪斎の両所への書状の案文をお送りします。

* 「引付」を訴訟案件として使用しているのは30例中で2例。25例は「味方に引き寄せる」の用例で、2例が書き留めておくこととなっている。このことと、文面から考えてこの場合の「引付」は「書き留めておいたもの」と考えてよいと思う。

野田景範の認識

野田景範は、依田康信に直訴を試みている。これは、景範と北条氏政との取次役が氏照であり、その氏照が訴訟を握りつぶしたための対抗策である。その際に康信を頼っているのは、彼が評定衆として奉者(氏照)の上位に存在していたためだろう。

(前欠)小田原へ申上候処ニ、其時之様子書付を以可申越候、可預御裁許之由蒙仰候段、氏照御返答候之間、同十四日ニ相認、滝山へ申届候処ニ、尓今不被御披露候之哉、唯今之紙面者、拙者召仕之者矢ヲ放之由被申候、都筑与申者、拙者披官山中与申者ニ矢ヲ射付申、其侭押懸、両人打留由、拙者召仕之者逃返申事ニ候、如此之仕合失面目候条、則雖可及其意趣候、無二ニ進退奉任候之間、小田原御下知を以可達本意与存知、尓今堪忍令申候、此段々難尽紙面候、此趣幾度歟源三殿迄申達候処、無御披露候事、無是非存知候、此意事宜御裁許可為過分候、以上、 拾月廿七日/野田右馬助景範/依田大膳亮殿

  • 埼玉県史料叢書12_0377「野田景範書状案」(野田家文書)1569(永禄12)年比定

小田原へ申し上げるため、その時の様子を書付にして報告しました。それを預かってご裁許するとの仰せと、氏照がご返答しましたので、同日14日に作成し滝山に届けました。今に至っても披露されていないのでしょうか。現在の紙面は、拙者が召し使っていた者が矢を放ったとのことを申しています。都筑という者が、拙者の被官山中という者に矢を射掛け、そのまま押しかけて両人が死んだとのこと。拙者が召し使っていた者が逃げ帰って申したことです。このような成り行きで面目を失ったので、すぐに意趣返しに及ぼうとしましたが、判断をどうにか保留して、小田原のご命令をもって本意を達しようと考え、今も我慢しています。この状況は紙面での説明が難しいところです。この趣旨を何回か源三殿まで報告したのにご披露されないなら、どうにもならないと思います。この意を宜しくご裁許いただければ幸いです。

落合三河守の訴え

関山隼人と当麻宿の権益を巡って係争した落合三河守は、評定衆に当てて反訴状を提出している。その中で三河守は「山角康定は自分に遺恨があるから、担当から外してほしい」と願い出ている。これは、評定衆が複数人員で構成され、利害関係によっては担当が変更になったことを示す。原告の関山隼人に勝訴を伝えた際の虎朱印状には、康定が奉者として登場している。最終通知で康定が奉者としてのみ登場したのは、この件で彼が評定衆から一旦外れ、奉者としての権限で虎朱印状を取り次いだことになる。

乍恐相書付を以申上候 一、此度当麻問屋之儀ニ付而、拙者非分ニ一月■内を上十五日、関山隼人前より取はなし、下之宿より上之宿江取上申様ニ、御侘言被申上候事、不当ニ奉存候 一、下之宿ニ問屋御座候ニ付而、下宿者いかにもさかり申候、上之宿者町人も退転申、去年之御陣返之刻ニ者、御伝馬上宿ニ相当申候得者、町人退転ニ付而、下之宿より六十疋余備申、御伝馬走廻申候、是ニ付而問屋之処、一月之内上十五日之分を、上宿江可被指上之由申断候処ニ、かんてん不被申候キ 一、上之宿江問屋被上間敷ニ付而者、他之宿なミに、上下之宿 御公用無退転様ニ、替所問屋役ニ指引可被成候由、申断候処ニ、是又かんてん不被申候 右之条ゝ、御かんてんなく候て、御伝馬参候而、上宿ニ余候御伝馬、替所迄越可申候由、町人共申断候ニ付而、如何与分別被申候哉、三月より今日ニ至而、一月之内を上十五日、上之宿江売人指上被申候間、此上者、宿中もさかり可申与存、拙者知行之内過分ニそん物を仕、宿をわりなをし、町人を置付申、 御公方用走廻候処ニ、只今事を取立、御侘言被申上候儀、不審ニ存候、但是者山角殿我等ニ四五ヶ条之御いこん御座候由及承候、以此意趣御取成候歟、此上者可然様ニ御裁許奉仰入候、以上 追而申上候、四五ヶ条之、山角殿背御機嫌候儀共、御尋之上、可申上候、以御検使御尋被成可被下候、以上、七月十六日/落合三河守(花押)/御評定衆、御披露

  • 戦国遺文後北条氏編2971「落合三河守陳状」(関山文書) 1586(天正14)年比定

恐れながら、反訴状として申し上げます。 一、この度の当麻問屋の件。拙者が無法に1ヶ月のうち上旬15日の売上を関山隼人から奪い、下の宿から上の宿へと取り上げた、という言い分で告訴されました。これは不当だと考えています。 一、下の宿に問屋がある件。下宿は盛況で上の宿の町人は退去しています。去年の帰陣される際に御伝馬を上宿に割り当てられましたが、町人が退去していたので、下の宿から60疋余りを用意して御伝馬で活躍しました。これについて問屋として、1ヶ月のうち上旬15日分をよこすように上宿に伝えたところ、承知しませんでした。 一、上の宿へ問屋が上がらないようにした件。他の宿に準じて上下の宿が御公用から逃げ出さないように、『替所』の問屋税に充当するように申し伝えたところ、これもまた承知しませんでした。 右の条項に承知がないまま、御伝馬が来ました。上宿で余っていた御伝馬を『替所』まで持ってくるように町人達に通達したところ、どのような考えでしょうか。3月から今日に至るまで、1ヶ月のうち上旬15日、上の宿へ売人をよこすように言ってきました。この上は、宿中も盛んになるだろうと考えて、拙者知行から自腹で賄い、宿の割り当てを直して、町人を置いて御公用に活躍しました。こうしたところで、今は事を荒立てて訴訟に及んだのは不審なことです。但し、山角殿が私に4~5ヶ条のご遺恨があると聞いています。この意趣によって取りなしを得ようとしているのでしょうか。この上はしかるべきご裁許をお願いします。 追伸:4~5ヵ条のことは、山角殿のご機嫌に逆らうことになりますが、お尋ねがあったので申し上げます。御検使を調査に派遣して下さい。

評定衆の人選

依田康信の正体

一族が後北条氏の根本被官として活躍する山角康定・石巻康保・垪和康忠・狩野泰光とは異なり、依田康信には謎が多い。

永禄10年12月17日の北条氏邦朱印状の奉者「依田大膳守」として登場しつつ、同年同月には野田景範の訴訟案件を受け付けており、元亀3年には垪和康忠と並んで武田家との同盟交渉に当たっている。これは、根本的には氏規被官であった山中康豊と似ているが、康豊と違って康信が長期間にわたって評定衆として活躍しており、少し状況が異なるように思える。

依田康信は天正6年から虎朱印状に登場し、評定衆とある。ただ、永禄12年の野田景範書状では、北条氏照との訴訟を康信宛てで送っており、この頃から評定衆となっていた可能性が高い。

天正13年の虎朱印状で「依田下総守殿・同大膳亮殿」とあり、彼の官途名「大膳亮」を後継者が名乗っている。このことから、康信は狩野泰光の後継者だったのではないか。

天文24年の虎朱印状に「狩野介・同大膳亮・山角四郎左衛門・松田尾張守」が奏者となった相州天十郎宛てのものがある。そして、同年3月21日の天十郎宛てでは虎朱印状の評定衆として「狩野大膳亮」があり、狩野介の後継者が狩野大膳亮泰光だったのが判る。

この狩野内膳亮は、永禄9年10月2日に「評定衆飛騨守泰光」と名乗り、11年2月10日まで活動が見られる。そのあとの永禄12年11月7日の北条氏照朱印状で奉者「狩野一庵」が登場することから、泰光と一庵が同一人物と比定される。そもそも官途「大膳亮」は文明年間から「狩野大膳亮為茂」が見られ、本来は伊豆狩野氏が称したもの。天文~永禄で活躍した狩野介は、駿河吉原城を松田弥次郎と共に守備したり、松山衆の筆頭を務めるなどしてかなり中枢に近い位置にいた被官。

つまり、官途「大膳亮」の評定衆という切り口で見てみると、

  • 狩野介
  • 狩野大膳亮 → 狩野飛騨守泰光 → 狩野一庵(氏照配下)
  • 依田大膳守(氏邦配下)→ 大膳亮康信 → 依田下野守康信
  •                      依田大膳亮

となり、狩野から依田へと名字は変わっているがきっちりと後継者に承継されている様子が判る。

してみると、評定衆は官途名に基づいた承継が前提になっていたのかも知れない。

  • 下野守家:石巻家貞・石巻康保
  • 大膳亮家:狩野泰光・依田康信
  • 上野介家:山角定吉?・山角康定

ただ、山角康定だけは前代の山角定吉の官途名が不明だが、仮名は「四郎左衛門尉」で合致しており、官途の「上野介」も同一だったと思われる(定吉自体が評定衆であった確証はないが、当麻宿訴訟では康定の前々代である定澄から関わっていたという記述があり、康定の評定衆資格は父祖から継承したと理解できる)。

第1世代と第2世代の間の断絶

第1世代を石巻家貞・狩野泰光・山角定吉と考えると、永禄7年に戦死したとされる定吉が最も早く脱落している。これを受けてか、氏規配下の山中康豊が永禄9年に登場しているが、史料では1点しか確認できず定着してはいないように思える。その後永禄11年をもって家貞・泰光も評定衆として終見となる。泰光が出家して氏照配下に転じたのを考えると、偶然残りの二人が隠居したというよりも、何らかの意図的な人事異動を想起させる。

 この直後に武田晴信の駿河侵攻があって慌ただしくなるなか、石巻康敬がイレギュラーな形式で1回登場したあとで、石巻康保・依田康信が登場して第2世代を形成する。

 この第1世代の終了は、瞬間的ではあるが評定衆自体の廃絶の可能性を秘めていたように思える。

 表で区分けしてみる。

第1世代 2人・9件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻家貞 2 0 1555(天文24)年1月21日~1568(永禄11)年6月28日
狩野泰光 7 2 1555(天文24)年3月21日~1568(永禄11)年2月10日
過渡期 2人・2件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
山中康豊 1 0 1566(永禄9)年8月28日 評定衆記載なし
石巻康敬 1 8 1569(永禄12)年5月16日 評定衆記載なし・彦六郎名
第2世代 4人・37件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻康保 11 4 1569(永禄12)年6月10日~1579(天正7)年6月20日
依田康信 10 0 1569(永禄12)年10月27日~1588(天正16)年7月20日 確実な登板は1577(天正5)年2月11日
山角康定 15 5 1572(元亀3)年3月21日~1589(天正17)年6月28日
垪和康忠 1 48 1581(天正9)年10月25日

 廃絶が試みられた契機は、通貨納税から現物納税への切り替えがちょうど永禄9~10年で行なわれていたことに関係すると考えてみた。良貨による通貨納税は永禄元年から後北条氏が積極的に推進していたものだが、徐々に良貨の納税率を下げざるを得ず、永禄8年5月25日には良貨30%での納税を認めざるを得なくなっていた。ただ、この流れに逆らうかのように、この翌年5月15日に先代当主の氏康が自身の朱印状によって「良貨50%とせよ」との指示を出してみたものの、同年閏8月7日には「良貨がなければ物納を認める」と再び後退。これは、郷村の退転という激しい抗議に屈した形になる。

 興味深いのは、永楽通宝を意味する「永楽」の文言が、今川・後北条ともに永禄11年から登場する点。それまでは「精銭」と呼んでいたものが切り替わっている。「精銭」の終見は永禄11年8月10日(北条氏康朱印状)で、「永楽」初見は8月3日(匂坂直興書状)。

「銭」という言葉は北条氏康が永禄元年に「品質の悪い銭を除外せよ」と通達したのが初見。このあと、永禄3年の虎朱印状で、この通貨選別によって選ばれたものを「精銭」としている。ここから考えると、「銭」に着目した氏康の時代は、永楽通宝をもって精銭とする「永楽」表記によって新しい局面に入り、この永楽表記は近世を通じて用いられていく。

 経済政策の煽りで評定衆廃止が検討されたことを考えると、市中に対する司法業務よりも金融財政に主眼が置かれた近世の江戸町奉行を想起させる。

 廃絶を企図したのは一見すると当主氏政のようにも見えるが、氏政は独自構築した岩付衆において「評定衆」を導入している。先行していた玉縄衆・八王子衆・鉢形衆・江戸衆では見られないことから、この第2の評定衆導入は氏政の意向を反映したものと考えていいだろう。であるならば、廃絶は氏康の意向と見てよいだろう。実際、氏政が駿河から帰陣するのに合わせるように評定衆の第2世代が稼働を始める。

2020/11/12(木)後北条家の虎朱印状で、朱印の下に花押を捺す用例

虎朱印状のうち、以下の条件を満たすものを抽出。

  • 日付の上に虎朱印が捺されているもの
  • 虎朱印状の下に被官の名前と花押が記されているもの

※項番6は虎朱印が日付の下に捺されたとされるが、写しである点、文言が要検討である点から、項番5と同じ位置に虎朱印が捺されたと考え、暫定的に表内に入れている。

●一覧

項番 朱印下の名前 肩書 表記上の名 宛所 用途 種別 年月日 出典
1 遠山直景 奏者 遠山(花押) 相州・豆州 過所 郷村 1523(大永3)年3月12日 小田原市史資料編小田原北条50「伊勢家過所」(熊谷市・長慶寺所蔵)
2 石巻家貞 評定衆 石巻下野守判 矢野右馬助殿 訴訟 武家 1555(天文24)年1月21日 小田原市史資料編小田原北条0324「北条家裁許朱印状写」(紀伊国古文書)
3 笠原綱信・清水康英 評定衆 笠原美作守・清水太郎左衛門尉 伊豆大夫 免許 職人 1555(天文24)年3月21日 小田原市史資料編小田原北条331「北条家裁許朱印状」(練馬区・清水宏之所蔵)
4 狩野泰光 評定衆 狩野大膳亮 天十郎 免許 職人 1555(天文24)年3月21日 小田原市史資料編小田原北条332「北条家裁許朱印状」(相州文書・足柄下郡天十郎所蔵)
5 遠山綱景 丹波守綱方(花押) 森彦七郎殿 相続 寺社 1559(永禄2)年1月26日 小田原市史資料編小田原北条413「北条家虎朱印状写」(世田谷区・慶元寺蔵玉川文庫文書)要検討
6 遠山綱景 遠山丹波守綱方(花押) 江戸与三郎殿 宛行 武家 1559(永禄2)年2月17日 小田原市史小田原北条415「北条家虎朱印状写」(世田谷区・慶元寺所蔵玉川文庫文書)要検討
7 狩野泰光 評定衆 大膳亮泰光判 玉瀧坊 訴訟 寺社 1559(永禄2)年7月21日 小田原市史資料編小田原北条418「北条家裁許朱印状写」(古証文之写)
8 狩野泰光 評定衆 大膳亮泰光(花押) 藤沢客寮中 訴訟 寺社 1560(永禄3)年4月25日 小田原市史資料編小田原北条433「北条家裁許朱印状」(藤沢市・森万佐子所蔵)
9 狩野泰光 評定衆 大膳亮泰光(花押) 酒匂代官小島左衛門太郎 訴訟 代官 1560(永禄3)年5月15日 戦国遺文後北条氏編630「北条家裁許朱印状写」(相州文書所収足柄下郡徳右衛門所蔵文書)
10 狩野泰光 評定衆 大膳亮泰光(花押) 豆州八幡野百姓 訴訟 郷村 1564(永禄7)年12月28日 小田原市史資料編小田原北条610「北条家裁許朱印状写」(肥田氏由緒書)
11 狩野泰光 評定衆 飛騨守泰光(花押) 天十郎 訴訟 職人 1566(永禄9)年7月10日 小田原市史資料編小田原北条647「北条家裁許朱印状写」(足柄下郡天十郎所蔵)
12 山中康豊 修理亮康豊在判 西来寺 訴訟 寺社 1566(永禄9)年8月28日 小田原市史資料編小田原北条656「北条家裁許朱印状ヵ写」(相州文書・三浦郡西光寺所蔵)
13 狩野泰光 評定衆 飛騨守泰光(花押) 成福寺 免許 寺社 1566(永禄9)年10月20日 小田原市史資料編小田原北条667「北条家裁許朱印状」(戸田村・宝徳寺所蔵)
14 評定衆 宛行 武家 1567(永禄10)年4月20日 小田原市史資料編小田原北条680「北条家裁許朱印状」(原文書)
15 狩野泰光 評定衆 飛騨守泰光(花押) 小窪六右衛門尉殿 宛行 武家 1568(永禄11)年2月10日 神奈川県史資料編3下7584「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収高麗郡新五郎所蔵文書)
16 石巻家貞 評定衆 下野守家種(花押) 石切左衛門五郎 相続 職人 1568(永禄11)年6月28日 小田原市史資料編小田原北条722「北条家裁許朱印状」(清水市・片平信弘所蔵青木文書)
17 石巻康敬 石巻彦六郎(花押) 矢部殿 指示 武家 1569(永禄12)年5月16日比定 小田原市史資料編小田原北条834「北条家虎朱印状」(矢部文書)
18 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 愛染院 宛行 寺社 1569(永禄12)年6月10日 戦国遺文後北条氏編1259「北条家裁許朱印状」(小出文書)
19 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 西郡鋳物師 訴訟 職人 1570(永禄13/元亀元)年3月28日 小田原市史資料編小田原北条952「北条家裁許朱印状写」(公用永代書留諜)
20 山角康定 評定衆 四郎左衛門尉(花押) 大納言尊良 相続 寺社 1572(元亀3)年3月21日 小田原市史資料編小田原北条1100「北条家裁許朱印状写」(相州文書・鎌倉郡我覚院所蔵)
21 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 宮城四郎兵衛尉殿 訴訟 武家 1572(元亀3)年6月21日 戦国遺文後北条氏編1598「北条家裁許朱印状」(内閣文庫所蔵豊島宮城文書)
22 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 三保谷鈴木 訴訟 百姓 1572(元亀3)年10月16日 小田原市史資料編小田原北条1118「北条家裁許朱印状」(鴻巣市・鈴木和男所蔵)
23 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) すな原百姓中 訴訟 百姓 1573(元亀4/天正元)年12月10日 戦国遺文後北条氏編1677「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡三太夫所蔵文書)
24 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 大宮社人中 訴訟 寺社 1574(天正2)年6月22日 小田原市史資料編小田原北条1154「北条家裁許朱印状」(大宮市・氷川神社所蔵)
25 山角康定 評定衆 四郎左衛門尉康定(花押) 閼伽井坊 訴訟 寺社 1574(天正2)年9月10日 小田原市史資料編小田原北条1164「北条家裁許朱印状」(桶川市・明星院所蔵)
26 山角康定 評定衆 四郎左衛門尉康定(花押) 保正寺 訴訟 寺社 1574(天正2)年9月10日 戦国遺文後北条氏編1728「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡法性寺文書)
27 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 金剛頂寺 訴訟 寺社 1575(天正3)年12月10日 小田原市史資料編小田原北条1211「北条家裁許朱印状」(平塚市・金剛頂寺所蔵)
28 山角康定 評定衆 上野守康定(花押) 大井郡番匠勘解由 訴訟 職人 1576(天正4)年4月28日 小田原市史資料編小田原北条1216「北条家裁許朱印状」(小田原市・和田慎平所蔵)
29 山角康定 評定衆 上野守康定 中村八郎左衛門殿 訴訟 武家 1576(天正4)年4月28日 小田原市史資料編小田原北条1217「北条家裁許朱印状写」(駿河志料八十一)
30 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 内田孫四郎殿 訴訟 武家 1577(天正5)年2月11日 戦国遺文後北条氏編1892「北条家裁許朱印状写」(屋代典憲氏所蔵古文書之写)
31 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 泉郷 訴訟 郷村 1577(天正5)年3月10日 戦国遺文後北条氏編1893「北条家裁許状写」(判物証文写北条)
32 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 苅野庄百姓杉田源左衛門尉とのへ 訴訟 百姓 1577(天正5)年3月20日 戦国遺文後北条氏編1897「北条家裁許朱印状」(杉田彬氏所蔵文書)
33 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 小幡太郎左衛門尉殿 訴訟 武家 1577(天正5)年4月10日 小田原市史資料編小田原北条1244「北条家裁許朱印状写」(諸氏家蔵文書)
34 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 西浦百姓大川兵庫助(上書:西浦百姓 大川兵庫助 評定衆) 訴訟 百姓 1577(天正5)年4月10日 戦国遺文後北条氏編1900「北条家裁許朱印状」(国立史料館所蔵文書)
35 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 清水上野入道殿 訴訟 武家 1578(天正6)年12月10日 小田原市史資料編小田原北条1299「北条家裁許朱印状」(練馬区・清水宏之所蔵)
36 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 泉郷百姓窪田十左衛門 訴訟 百姓 1578(天正6)年12月20日 小田原市史資料編小田原北条1302「北条家裁許朱印状写」(判物証文写今川一)
37 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 岩付衆中村右馬助殿 訴訟 武家 1579(天正7)年6月10日 戦国遺文後北条氏編2081「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収埼玉郡吉兵衛所蔵文書)
38 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 南条織部同心関主水助殿 訴訟 武家 1579(天正7)年6月20日 戦国遺文後北条氏編2084「北条家裁許朱印状」(高杉光穂氏所蔵文書)
39 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 鳩ヶ谷百姓舟戸大学助 訴訟 百姓 1579(天正7)年6月20日 戦国遺文後北条氏編2085「北条家裁許朱印状」(牛込武雄氏所蔵文書)
40 垪和康忠 評定衆 伯耆守康忠(花押) 大平百姓宮内隼人(上書:大平百姓、宮内隼人 評定衆) 訴訟 百姓 1581(天正9)年10月25日 小田原市史資料編小田原北条1400「北条家裁許朱印状」(修善寺町・宮内英太郎所蔵)
41 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 柳川百姓武井善左衛門 訴訟 百姓 1583(天正11)年12月20日 小田原市史資料編小田原北条1559「北条家裁許朱印状」(秦野市・武井孝雄所蔵)
42 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 狩野牧百姓三須孫次郎 訴訟 百姓 1583(天正11)年12月20日 小田原市史資料編小田原北条1560「北条家裁許朱印状」(修善寺大川文書)
43 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 大乗院 訴訟 寺社 1584(天正12)年2月10日 小田原市史資料編小田原北条1570「北条家虎朱印状写」(相州文書・大住郡東光寺所蔵)
44 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 前川百姓五郎左衛門 訴訟 百姓 1584(天正12)年3月2日 戦国遺文後北条氏編2637「北条家裁許朱印状」(所蔵未詳)
45 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 沼上出羽守殿 訴訟 武家 1584(天正12)年3月2日 戦国遺文後北条氏編4749「北条家裁許朱印状写」(模写古文書四)
46 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 伊勢阿闍梨 訴訟 寺社 1584(天正12)年11月10日 小田原市史資料編小田原北条1631「北条家裁許朱印状」(南足柄市・田代克己所蔵)
47 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 西浦之百姓、大川兵庫助 訴訟 百姓 1586(天正14)年10月20日 小田原市史資料編小田原北条1774「北条家裁許朱印状」(国文学研究資料館所蔵大川文書)
48 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 鈴木但馬守殿 訴訟 武家 1586(天正14)年12月25日 小田原市史資料編小田原北条1788「北条家裁許朱印状」(鈴木文書)
49 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 後閑殿代、安蛇井志摩守殿 訴訟 武家 1587(天正15)年4月20日 小田原市史資料編小田原北条1812「北条家裁許朱印状」(京都大学文学部博物館所蔵後閑文書)
50 山角康定 評定衆 上野介康定 伝肇寺 訴訟 寺社 1587(天正15)年4月28日 小田原市史資料編小田原北条1814「北条家裁許朱印状」(小田原市・伝肇寺所蔵)
51 山角康定 評定衆 上野介康定判 山川備中守殿・上原出羽守殿 訴訟 武家 1587(天正15)年5月18日 小田原市史資料編小田原北条1820「北条家裁許朱印状写」(上杉系図)
52 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) ■■■豊後 訴訟 武家 1588(天正16)年6月日 小田原市史資料編小田原北条1905「北条家裁許朱印状」(厚木市・木村憲一所蔵)
53 依田康信 評定衆 下総守康信書判 田島豊後守とのへ 訴訟 武家 1588(天正16)年7月20日 埼玉県史料叢書12_0861「北条家裁許朱印状写」(会田家譜)
54 評定衆 (異筆:中山)法華経寺 訴訟 寺社 1589(天正17)年2月14日 小田原市史資料編小田原北条1935「北条家裁許朱印状」(市川市・法華経寺所蔵)
55 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 正覚院 訴訟 寺社 1589(天正17)年6月28日 小田原市史資料編小田原北条1947「北条家裁許朱印状」(修禅寺所蔵)
56 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 修禅寺 訴訟 寺社 1589(天正17)年6月28日 小田原市史資料編小田原北条1948「北条家裁許朱印状」(修禅寺所蔵)
57 松■・雲■ 松■(花押)・雲■(花押) 賀藤讃岐とのへ 指示 武家 年月日欠 戦国遺文後北条氏編4986「北条家虎朱印状」(清水文書)

2020/10/24(土)官途名からの逆引き人名辞典

『戦国遺文後北条氏編』と『戦国遺文今川氏編』の人名索引から、官途名・受領名を名乗った人名を列挙。

「弾正左衛門」や「越州守」といった東百官に関しては、正規の官途が先頭に来ているものは列挙している。

戦国遺文後北条氏編

官途名

  • 右衛門
    • 石巻
  • 右衛門尉
    • 斎藤、大平、朝比奈綱尭、渡辺、島津忠貞、板部岡康雄、堀内
  • 右衛門佐
    • 伊勢、一色氏久、酒井、太田、北条氏光、本間、茂呂
  • 右衛門大夫
    • 遠山直景・政景、松田康長
  • 右京
    • 小暮戸
  • 右京進
    • 朝倉政元
  • 右京大夫
    • 吉良頼高
  • 右京亮
    • 原島、黒沢、寺田、小林、植松、清水吉広・吉政、南、南条、野田
  • 右近
    • 安藤、大村、秩父、二宮、北条
  • 右近助
    • 市河
  • 右近将監
    • 後藤
  • 右近丞
    • 興津、手島、垂水、杉田、長田
  • 右近大夫
    • 小笠原
  • 雅楽助
    • 井上、横山、山口、四方田、諸田、新木、大芦、大串、町田、萩原、保津見、鈴木、生駒、青山、青木信重
  • 采女
    • 吉田、諸田、大村
  • 采女正
  • 采女佑
    • 師岡
  • 右兵衛尉
    • 千野
  • 右馬尉
    • 恒岡
  • 右馬允
    • 伊東、関、斎藤行定、三谷、簗田
  • 右馬介
    • 猪俣
  • 右馬助
    • 逸見、関根、栗原、桑原、後藤、幸田、高萩、黒沢、山口、青木安重、大須賀、大津、中村、朝倉、湯浅、二見、富永、野田、矢野、柳下、林、鈴木、和知、簗田
  • 右馬丞
    • 鈴木
  • 右馬頭
    • 毛利輝元
  • 右馬亮
    • 発智
  • 大炊助
    • 金差、原親幹、高井、高麗、山中頼元、若林、勝田、小高、大島、中居、中山、猪、田村、洞毛、淵名、木住野、矢部
  • 大炊頭
    • 真里谷義信
  • 大蔵
    • 北爪
  • 大蔵少輔
    • 金子
  • 大蔵丞
    • 原邦長、幸田定治、山井、森、中島、木住野、垪和、簗
  • 織部
    • 関根、新木、南条、畑、北爪
  • 織部助
    • 井上、松井
  • 織部丞
    • 佐藤、菅谷、長井、椎名、二宮、目黒
  • 織部正
    • 二宮
  • 勘解由
    • 押田、高麗、黒田孝高、小室、新井、立石、鈴木
  • 勘解由左衛門
    • 加治吉範、橋本、石巻、大野(石巻)、中山
  • 勘解由左衛門尉
    • 原、上原、須藤
  • 主計
    • 石塚、大橋
  • 主計助
    • 苅部、岩本、持田、須藤、石原、中村、北爪
  • 掃部
    • 岩井
  • 掃部助
    • 横須賀成高、会田、宮寺、金子、小田、上田、石河、和田昭為
  • 掃部丞
    • 登坂
  • 刑部
    • 河村
  • 刑部左衛門
    • 山下、小林
  • 刑部左衛門尉
    • 細谷資満、三谷、山角定勝、白川
  • 刑部助
    • 佐々木
  • 刑部少輔
    • 鵜沢、久々宇、原胤之、後閑、江戸頼忠、布施景尊、北条綱房
  • 刑部丞
    • 斎藤、椎名、野口照房、垪和
  • 刑部大輔
    • 大村、井田、狩野、蕪木
  • 宮内
    • 吉田、荒田、神保
  • 宮内右衛門尉
    • 天野、栗原
  • 宮内助
    • 木部
  • 宮内少輔
    • 下条、牛込、後閑、山室、勝、埴谷、藁科
  • 宮内丞
    • 中村
  • 宮内大輔
    • 祢津昌綱
  • 内蔵佐
    • 保津見
  • 内蔵助
    • 稲村、橋本、斎藤、小倉勝久、清田、石田、増戸、土屋
  • 蔵人
    • 押田、周防、小笠原、富岡
  • 蔵人佐
    • 逸見、三谷胤重、上田長則、大道寺、渡辺
  • 蔵人守
    • 吉田
  • 蔵人丞
    • 金子
  • 蔵人佑
    • 伊達、佐藤
  • 外記
    • 円城寺、河田、橋本、舟田、小柳津、曽祢、鏑木、田口
  • 外記助
    • 関口
  • 外記亮
    • 川村
  • 玄蕃
    • 大屋、田中
  • 玄蕃尉
    • 岡田
  • 玄蕃允
    • 月岡広秀、多留、林田胤敏
  • 玄蕃助
    • 吉原、久米、南条
  • 玄蕃頭
    • 岩田、真木島昭光
  • 監物
    • 宇野、御宿友綱、川面、大和、中山、渡辺、尾崎
  • 監物允
    • 小鷲直吉
  • 監物丞
    • 横地吉信
  • 左衛門
    • 太田景資、島津、平内
  • 左衛門尉
    • 遠山康英・康光、柿崎、近藤、原、高田、狩野、酒井忠次・政辰、成田泰喬、長尾輝景・憲景、天野、渡辺、由木景盛、和田昌繁
  • 左衛門五郎
    • 菅谷
  • 左衛門佐
    • 佐野氏忠、小笠原、大館晴光、豊前、北条氏尭・氏忠
  • 左衛門丞
    • 毛呂
  • 左衛門太郎
    • 坂戸胤直、山本正直
  • 左衛門大夫
    • 北条綱成・氏繁・氏舜・氏勝、野田、垪和
  • 左京助
    • 柿沢
  • 左京進
    • 岡部親綱、小山、相良
  • 左京大夫
    • 白川、北条氏綱・氏康・氏政・氏直
  • 左京亮
    • 永島、横田、金子、栗田、後藤、三浦元政、持田、若海、周防、小河、神田、浅海、太田、豊前、堀内、野村、和田
  • 左近
    • 荒川、高橋、佐久間、桜井、石上、秩父、長江、渡辺、奈良
  • 左近尉
    • 次名信明
  • 左近助
    • 興津
  • 左近将監
    • 芦川景盛、小熊、庄、正木時長、滝川一益、猪又、内藤直行、富田知信
  • 左近丞
    • 大石
  • 左近大夫
    • 安中、横地勝吉、庄、上田朝直、正木時忠、相馬治胤、大草康盛、島津
  • 左兵衛
    • 垪和
  • 左兵衛尉
    • 土岐
  • 左兵衛佐
    • 吉良氏朝・頼康
  • 左馬允
    • 行方、小沢、石巻、朝比奈泰忠、椎名
  • 左馬介
    • 土屋
  • 左馬助
    • 桑原、原田宗時、斎藤、手島、松田憲秀・直秀、諏訪、大石、比企、武田信豊、北条氏時・氏規、木村
  • 左馬亮
    • 逸見
  • 式部
    • 間々田、金子、高井、山造、酒井、出浦、小保方、上野、星野
  • 式部尉
    • 馬場
  • 式部少輔
    • 榊原康政、庄、設楽、大藤政信、中村一氏
  • 式部丞
    • 向原政秀、大須賀、大藤政信、立川
  • 式部大輔
    • 真里谷信応、原胤栄、渋江
  • 治部
    • 篠窪
  • 治部左衛門
    • 久々宇、近藤、古尾谷、持田、林
  • 治部左衛門尉
    • 栗田
  • 治部少輔
    • 佐藤、三田綱定、小保方、石田三成、倉賀野、大久保忠隣、大畠長晴、北条氏秀
  • 治部丞
    • 山角直繁、野村
  • 治部大輔
    • 岡見治広、吉良治家、山角直繁
  • 主膳
    • 石原
  • 主膳亮
    • 山下、村上、萩野
  • 主馬
    • 安藤
  • 主馬允
    • 吉原
  • 修理
    • 斎藤
  • 修理進
    • 上高尾、鈴木
  • 修理大夫
    • 蘆名盛氏
  • 修理亮
    • 伊波、羽尾、遠山政秀、奥、関、岩崎、金子、行方、山中康豊、柴田勝家、星屋、赤尾広宗、前島、中田、東、堀内、野中、矢内
  • 将監
    • 井草、岡谷、関根、境田、戸張、山下、志村、小山田、上原、千野、増田、多比良、長江、内村、二見、梅沢、浜野、服部、北爪、綿貫、野本、矢部、矢部、友光
  • 将監丞
    • 池上
  • 城介
    • 織田信忠
  • 甚内
    • 朝比奈泰寄
  • 図書
    • 薗田、山田、小曽戸、小沢、神保、比木、落合
  • 図書助
    • 蔭山、関口、関根、橋本、佐藤、小倉、中島、椎名、島村、道祖土、南、武、鈴木
  • 大学
    • 河野、斎藤、真里谷、川目
  • 大学助
    • 伊波、賀藤、岸、栗原、栗田信豊、寺島、狩野、舟戸(船戸)、鈴木
  • 大膳
    • 牛込、酒井、南雲、尾崎、北爪
  • 大膳正
    • 山口
  • 大膳大夫
    • 国分
  • 大膳亮
    • 依田康信、円城寺頼長、吉橋、久米、狩野、正木憲時、大島、中村、反町、矢部
  • 大納言
    • 中山
  • 内匠
    • 塩野、橋本、木村
  • 内匠助
    • 井出、遠藤、吉橋、吉川兼岡、原、小野、石井兼実、大谷、由木
  • 帯刀
    • 井田、磯崎、閑野、境、窪田、根岸、斎藤賢吉、三沢、山田、田口
  • 帯刀左衛門
    • 小板橋
  • 帯刀左衛門尉
    • 椎名、蜷川、三上
  • 帯刀助
    • 関口、大道寺
  • 丹後守
    • 安中、賀藤、小野、大草康盛、大竹、長門、北条、鈴木
  • 弾正
    • 引間、円城寺、荻原、皆川、行方、倉林、田原、茂呂
  • 弾正右
    • 仁木
  • 弾正左衛門
    • 椎名、難波田善銀
  • 弾正左衛門尉
    • 布施康朝
  • 弾正少弼
    • 大内、長尾景虎、蘆野盛泰
  • 弾正忠
    • 伊奈盛泰、越知影好、恒岡、小田切、小敷屋、織田信秀、真田、増田
  • 主税助
    • 井原、下、荒木、三谷、富岡
  • 舎人
    • 清水
  • 主殿助
    • 天野
  • 内記
    • 吉田、原科、白石
  • 内記助
    • 野崎
  • 内膳
    • 河尻、原田、山崎、島田
  • 内膳助
    • 大野行通
  • 内膳正
    • 長尾、板倉
  • 内膳亮
    • 河村、佐野、渡辺、野口
  • 中務
    • 岩井
  • 中務尉
    • 飯田泰長
  • 中務少輔
    • 上野家成、谷田部、脇坂安治
  • 中務丞
    • 浦野、金子、佐瀬
  • 中務大輔
    • 安保、一色、岡見宗治、佐竹、宍戸、土肥、富(戸見)、本多忠勝、簗田高助・晴助・持助
  • 縫殿助
    • 毛利、伊東、吉野、高橋、小曽戸、小沢、小幡、新井、仙波、川野、川連、大野、内田、落合
  • 隼人
    • 河田、関山、岩本、宮内、山取、山本、升田、水野、田山、豊泉、野崎、鈴木
  • 隼人佐
    • 遠山直景、岡谷、近藤、進藤
  • 隼人正
    • 津田
  • 隼人佑
    • 二見
  • 囚獄
    • 長野、津久井、野村
  • 囚獄助
  • 兵衛尉
    • 小幡信定、朝比奈泰寄、椎名
  • 兵衛大夫
    • 大森、和田信業
  • 兵庫
    • 円城寺、金上盛備、勝、石川、大野、梅沢
  • 兵庫助
    • 一櫟、宇津木、岡安、関根、吉田、久々宇、原、高井、高田、師岡、宍戸、柴崎、小野、青木、太田正勝、大川、長谷部、渡辺
  • 兵庫丞
    • 師岡
  • 兵庫大夫
    • 布施
  • 兵庫頭
    • 伊勢、小笠原氏長
  • 兵部
    • 橋爪、高岸、高城、根岸、室賀
  • 兵部右衛門
    • 矢野
  • 兵部少輔
    • 金子、原、小笠原元続・康広
  • 兵部丞
    • 安藤、横瀬勝繁、関、小野寺長綱、松本、青岡、川村、内田、武井、和田
  • 兵部太郎尉
    • 佐藤
  • 兵部大夫
    • 武田豊信
  • 兵部大輔
    • 愛洲、国分、細川藤孝、正木
  • 美濃介
    • 和知
  • 民部
    • 右谷、佐久間、星野
  • 民部右衛門尉
    • 大戸
  • 民部少輔
    • 後藤、江戸、坂口、三谷、小林国家
  • 民部丞
    • 出浦、小菅、中村、南条、二見、板橋、木村
  • 民部大夫
    • 宮岡盛久、相馬胤永
  • 民部大輔
    • 村上、大内
  • 木工
    • 多田
  • 木工左衛門尉
    • 樋口
  • 木工助
    • 若林、森、中山、重田
  • 主水
    • 宇野、鵜山、吉田、長田、天野
  • 主水佐
    • 佐藤、芝山、発智
  • 主水助
    • 巻島、関、諏訪部
  • 主水正
    • 島津、内藤
  • 主水佑
  • 靭負尉
    • 小河

受領名

  • 安芸守
    • 村野、多賀谷政広、池田、北条、矢野
  • 安房守
    • 北条氏邦
  • 淡路守
    • 雨宮、正木、清水、前原、倉賀野家吉、大屋、大和
  • 伊賀守
    • 安西、伊東、栗原、山中、山田、星野、石巻、村山、大河、徳江、矢野、立川、林、鈴木、和田
  • 壱岐守
    • 根本
  • 伊豆守
    • 関口、小山
  • 和泉守
    • 伊波、岡部、柿崎、岩本、吉橋、吉田真重・政重、佐相、桜井、青山、太田、鳥海、土屋、梅沢、八木、飯塚、豊泉、豊田、牧
  • 出雲守
    • 宇田川、永島、越知、小河、設楽利継、池田、鮒田、林
  • 伊勢守
    • 大貫、朝見、椎名、矢井
  • 因幡守
    • 井田、遠山、久々宇、県、高柳、小野、松木、大島、猪熊長重、朝倉、長島、南条昌治、茂呂、木部
  • 伊予守
    • 滝川、田口、渡辺長広、垪和氏続
  • 石見守
    • 宇田川、河目、関根、県、根本、松本景繁、長田、田代、渡辺
  • 越後守
    • 加納(神尾)、恒岡、狩野、上野、中台、中沢、長尾、木下、木村
  • 越州守
    • 荻原
  • 越前守
    • 安中、岡本政秀、河目、笠原、近藤、金子、原、御宿綱秀、高麗、志村昌瑞、西原、太田、大森、大和勝親、半田政勝、本郷、落合
  • 越中守
    • 岡部、巨海、金子、大須賀、萩野、幡谷、板部岡
  • 近江守
    • 五十嵐、高麗、佐々木、山中、小島、須藤、大石秀信、大塚、島根、島村、八条
  • 大隅守
    • 関谷、篠田、匝瑳
  • 隠岐守
    • 狩野、菅谷
  • 尾張守
    • 小幡憲重、松田盛秀・憲秀、大須賀、飯塚
  • 甲斐守
    • 遠山政景、鷲宮
  • 加賀守
    • 岡谷、興津、金子、須田、大草、竹間、中田、白井、鈴木
  • 上総介
    • 月岡、山口、小幡信真、壬生義雄、北条綱成
  • 河内守
    • 岩田、上田、新木、村岡、大井、良知
  • 紀伊守
    • 金子、高瀬、山角定勝、船沢、大和田、奈良原、木村正直
  • 上野介
    • 山角康定、周防、上田憲定、清水、赤堀、朝倉、黒沢繁信
  • 相模守
    • 渋川、北条氏康・氏政
  • 薩摩守
    • 矢沢
  • 佐渡守
    • 安威、甘利、芹沢、金井、原重信、勝田、松浦康成、植松、椎名、土屋、島根、内田、布施康能、天野
  • 讃岐守
    • 芹沢、斎藤、中原
  • 信濃守
    • 山本家次・正次、小宮、多賀谷、大須賀、大石、長尾為景、木村、由良成繁・国繁、垪和
  • 志摩守
    • 安蛇井、井田、原、山崎堅家
  • 下総守
    • 依田康信、宇津木、羽柴雄利、山口、春日、小板橋、成田氏長、大沢、反町、富永、木暮、簗田
  • 下野守
    • 押田、岡本重政、高城胤辰・胤吉・胤忠、水野信元、清水、石巻、川尻、浅見、太田、木呂子
  • 周防守
    • 雲沢、江戸重久、上田、杉山、曽祢長重、豊田、茂呂
  • 駿河守
    • 加藤、閑馬、金子、松島、大道寺周勝・資親・政繁、那波顕宗
  • 摂津守
    • 興津、江戸朝忠、斎藤定盛、春日、小曽戸、松岡、椎名、土屋
  • 但馬守
    • 安西、井上、賀藤、久保、金井、高見沢、柴崎、杉崎、大草、沢村、武井、中村、鈴木
  • 丹波守
    • 遠山綱景、岡見、岡部、海保、岩瀬、高橋、高麗、車、小曽戸、新田、瀬戸、谷沢貞儀、竹長、猪俣、福島、堀内、木呂子
  • 筑後守
    • 興津、戸張、上野貞国、森、中、勅使河原、堤
  • 筑前守
    • 鵜沢、小河、小山、上野貞国、大石、竹本、渡辺、武藤、林
  • 対馬守
    • 河村定真、河田、岩崎、高岸、山角、山田、出浦、青木、大村、内田、馬見塚、富岡、武
  • 出羽守
    • 近藤綱秀、篠窪、若林、沼上、上原、神屋、中条、福島、北爪長秀、門沢
  • 遠江守
    • 井田、高山、篠窪、小野寺景綱、森、諏訪部、朝倉、波田野、野口、野中、矢部
  • 土佐守
    • 井原、原重政、三浦、四方田、市川、川連、中村、町田、椎名、道祖土、毛呂顕季
  • 長門守
    • 蔭山、額賀、喜多条、吉原、恒岡資宗、小池、小野、神保、大藤直昌、武藤
  • 能登守
    • 桑原、上田朝直・長則、清水、猪俣邦憲、朝倉景隆、板部岡康雄、富永助盛
  • 播磨守
    • 勝田、小笠原康広、小幡昌高、大橋、朝倉、二宮
  • 肥後守
    • 所、小田野、松田康郷、太田、福島
  • 肥前守
    • 安藤、桜井、三津、志村景元、小池、松田、成田、仙波、池谷、長谷部
  • 備前守
    • 梶原、苅部、栗原、小村江、小甫方、長谷部、土屋、門沢、林
  • 飛騨守
    • 高山、狩野、大曽根、南条、尾崎
  • 常陸介
    • 岩堀、大胡(毛利)高繁、木村、赤見、中野、尾崎、北条氏繁
  • 備中守
    • 安藤、伊勢、荻原、山川、小泉、太田、町野
  • 日向守
    • 黒沢、堀内
  • 備後守
    • 斎藤、千野、大畠、野本
  • 豊前守
    • 安藤、下沼田、河田、間宮康俊、窪田、原、斎藤、小沢、瀬下、太井、反町
  • 豊後守
    • 鮎川、岩本、吉岡、座間、小滝、松井、森、糟谷、猪久繁、田山、田島、都築、藤間、浜名時成、野原、葉山
  • 伯耆守
    • 河田、御厨、酒井康治、石川、垪和康忠
  • 三河守
    • 伊丹政富、遠山、梶原朝景、高村、細谷資満、小幡信尚、森、神庭、布施康貞、豊島貞継、野村、落合、簗
  • 美濃守
    • 郷沢、金子、太田資正、反町、北条氏規
  • 美作守
    • 静野、笠原、宮城為業、山口、手島、松川、石川、太田、南条、富岡、富田氏実、布施景尊
  • 陸奥守
    • 北条氏照
  • 山城守
    • 遠藤、海上胤保、皆川広照、岸野、戸張、向原、高麗、斎藤、師岡、松井、仁神、赤見、中地、南条長吉、布施、豊前、矢野、立川、鈴木
  • 大和守
    • 岡部、角田、岩井、高、菅谷、大貫、直江景綱、東、内藤綱秀・昌月、馬見塚
  • 若狭守
    • 遠藤、間宮綱信、原、後藤繁能、佐枝信宗、山口、山田、沼野、新井、石川、倉林、島村、福島

戦国遺文今川氏編

官途

  • 右衛門尉
    • 芋川親正、奥山、蒲原元賢、甲斐敏光、星谷、長尾顕忠、土屋昌恒、花井
  • 右衛門佐
    • 一色氏久、畠山、本間
  • 右衛門四郎
    • 星谷
  • 右衛門太郎
    • 中村
  • 右衛門大夫
    • 伊丹、下条義鎮、広瀬、三浦
  • 右京助
    • 月谷
  • 右京進
    • 酒井、小笠原、小笠原春茂、津月、都筑
  • 右京大夫
    • 佐竹、細川勝元・晴元・政元
  • 右京亮
    • 伊東貞守、井出、蔭山、加賀爪泰定、賀茂、近藤、紅林、渋谷親重、勝原直恒、松井、松平、松平義春、植松、神座、神尾、西郷、本多、和田家久
  • 右近
    • 高橋、牧野
  • 右近尉
    • 勝原為久、矢田
  • 右近佐
    • 今村
  • 右近左衛門尉
    • 中畠
  • 右近三郎
    • 細江谷
  • 右近助
    • 三浦
  • 右近将監
    • 石川忠成
  • 右近丞
    • 佐藤
  • 雅楽助
    • 岩瀬、岡部、蒲原、栗田、佐竹高貞、酒井政家、松平親重、大隅、大村、渡辺、富士
  • 右中将
    • 山科言経
  • 采女
    • 吉野、若林、葛山
  • 右兵衛尉
    • 垪和
  • 右兵衛佐
    • 足利義氏、大沢
  • 右兵衛助
    • 高橋
  • 右兵衛大夫
    • 朝比奈信置
  • 右兵衛督
    • 仁木義持
  • 右馬允
    • 関春光、山内通輔、牧野貞成・成守
  • 右馬佐
    • 小笠原長隆
  • 右馬助
    • 小鹿元詮、秋鹿、松平、足立勝正、朝比奈、富永、富士忠時、福島、福島春興、野田、簗田助実
  • 右馬丞
    • 加賀爪
  • 右馬大夫
    • 田代久重
  • 右馬頭
    • 一色、細河、細川尹賀、毛利輝元
  • 大炊左衛門尉
    • 朝比奈
  • 大炊助
    • 金差、後藤、松平好景、瀬見、石川信昌、跡部勝資
  • 大炊頭
    • 真里谷
  • 大蔵
    • 阿部定吉
  • 大蔵丞
    • 幸田定治
  • 織部佐
    • 菅沼定村
  • 織部丞
    • 菅沼不春、二宮
  • 織部佑
    • 神尾元直
  • 勘解由左衛門尉
    • 松平康定、河合、豊島、由比光英
  • 勘解由助
    • 江尻
  • 主計
    • 片岡
  • 主計允
    • 野依親家
  • 主計助
    • 河連助国、榊原久重、牧
  • 掃部助
    • 伊集院忠倉、岩城、金子、三豬、小野崎
  • 掃部丞
    • 大井、大田
  • 掃部頭
    • 安田
  • 刑部
    • 垪和、垪和
  • 刑部尉
    • 藤原国吉
  • 刑部右衛門
    • 天野
  • 刑部左衛門
    • 山角定勝、浅井、福沢
  • 刑部左近
    • 河内重茂
  • 刑部少輔
    • 一色、赤井、赤松、関口氏純、篠、篠原、上杉朝昌、帯兼、大館、武藤氏定
  • 刑部丞
    • 松平、常葉、朝比奈
  • 刑部大輔
    • 新納忠元、関口氏縁、手賀、平塚
  • 宮内
    • 真田、神加茂
  • 宮内右衛門尉
    • 天野藤秀
  • 宮内左衛門尉
    • 吉里、松浦
  • 宮内助
    • 市川昌房
  • 宮内少輔
    • 関口、原、源政康、佐々木賢誉、藁科
  • 宮内丞
    • 秋山昌満
  • 宮内大輔
    • 一色義直、原胤隆、原胤隆、山田
  • 宮内亮
    • 織田
  • 内蔵
    • 山口
  • 内蔵佐
    • 清田
  • 内蔵助
    • 小倉勝久
  • 蔵人
    • 佐原、松下建昌、朝比奈、富士信通
  • 蔵人佐
    • 松井、松平信孝、大道寺盛昌、徳川(松平)家康
  • 蔵人左大弁
    • 中御門宣秀
  • 蔵人丞
    • 伊達忠宗
  • 蔵人頭右近衛権中将
    • 庭田重保
  • 蔵人頭右大弁
    • 中御門資胤
  • 蔵人頭右大弁
    • 柳原淳光
  • 外記
    • 橋本
  • 玄蕃
    • 栗田、足代、大坪
  • 玄蕃尉
    • 芹沢
  • 玄蕃允
    • 松平清善
  • 玄蕃助
    • 山路
  • 玄蕃頭
    • 穴山信君
  • 監物
    • 黒田、太田、畔田
  • 監物丞
    • 井伊朝光、奥平定勝・定能、御宿友綱、松平家次、西郷信房
  • 左衛門
    • 土肥、二俣
  • 左衛門尉
    • 安保泰通、一宮元実、遠山景前、遠山康英・康光、海老名、興津清房、結城、原頼郷、御宿、酒井忠次、松田頼秀、村岡、町田義之、長井、長池親能、長尾、長尾憲景、田原、島津忠久、藤原、富士、武蔵、福島助春、由比為光、由比光澄
  • 左衛門九郎
    • 梧岡、村松綱吉
  • 左衛門五郎
    • 小島家次
  • 左衛門佐
    • 今川、渋川義鏡、小笠原広重、小笠原定基、小早川隆景、松井宗信、上杉憲清、大館晴光、北条氏尭
  • 左衛門三郎
    • 下岩崎
  • 左衛門次郎
    • 岡村久吉、御宿友綱
  • 左衛門少尉
    • 今川国氏
  • 左衛門太郎
    • 上島、石黒成吉、土屋
  • 左衛門大夫
    • 粟屋、浅井、横須賀、穴山信君、行方、佐々木(六角)義賢、鹿島、鳥山、飯尾元種、北条綱成
  • 左衛門督
    • 結城晴朝、小山、松平、大友義鎮、桃井
  • 左衛門督
    • 朝倉義景
  • 左京進
    • 安方、岡部親綱、小美、村井、朝比奈、林
  • 左京大夫
    • 伊達晴宗、佐々木(六角)定頼、三好義継、仁木長政、北条氏綱・氏康・氏政
  • 左京亮
    • 伊東貞久、秋鹿、蔭山貞広、興津、戸田(藤田)定光、後藤勝元、佐野、三浦元政、三沢、大石、武田、豊前氏景
  • 左近
    • 遠山(苗木)道廉、津田、匂坂直興
  • 左近尉
    • 戸田政光、西茂重、藤原
  • 左近衛門
    • 西屋
  • 左近三郎
    • 雲谷
  • 左近四郎
    • 前島
  • 左近次郎
    • 松平
  • 左近助
    • 伊東、興津、興津信家
  • 左近将監
    • 奥山友久、高橋、根本、松井忠次、正木実次、中村親清、福島春能、木戸、矢部
  • 左近丞
    • 神尾
  • 左近太郎
    • 井出、毛呂
  • 左近大夫
    • 一色、後藤宗誕、斎藤利政、大草康盛
  • 左兵衛佐
    • 大沢基胤
  • 左兵衛丞
  • 左兵衛督
    • 斯波、足利政知・晴氏
  • 左馬允
    • 岡部、朝比奈泰忠
  • 左馬助
    • 原河、三浦、山口教継、酒井、小原、新野、諏訪、太田、武田信繁、垪和広基
  • 左馬丞
    • 近藤
  • 左馬頭
    • 紀井守世、足利義氏
  • 式部
    • 佐野
  • 式部少輔
    • 上野、大藤
  • 式部丞
    • 石川信実、石田、武田信嗣
  • 式部大輔
    • 下川辺、印東、大森顕隆
  • 治部少輔
    • 荒河、今川範将、小田切、上杉政憲、上杉朝良、大沢
  • 治部大輔
    • 一色義紀、今川義元、今川義忠、斯波、上杉、中居
  • 修理
    • 多賀谷重経、平野
  • 修理権大夫
    • 平時明
  • 修理助
    • 後藤
  • 修理進
    • 興津、古津、高橋、色部、西、中路
  • 修理正
    • 内藤昌秀
  • 修理大夫
    • 今川氏親、佐竹義昭、上杉定正、相良義頼、島津義久、尼子晴久、畠山義継、蘆名盛重
  • 修理亮
    • 一宮宗久、賀、甲斐、高氏師、今河、佐野、三和、氏家、勝田、小長谷、進士晴舎、長尾
  • 将監
    • 粟生永信、賀藤、興津、芹沢、三浦、酒井忠尚、小野、松下長安、上原、植松、中山、渡辺、平賀勝家、矢部
  • 将監太郎
    • 鈴木重春
  • 少弐
    • 佐々木長守
  • 周防守
    • 庵原、松浦盛、進藤
  • 図書助
    • 角田、四宮輝明、太田資忠、渡辺盛、富士、福島助春
  • 摂津助
    • 肥後
  • 大学助
    • 興津
  • 大膳大夫
    • 武田晴信
  • 大膳亮
    • 印東、奥山、奥山良茂、菅沼定継、正木時茂、中村、筒井藤秀、南部
  • 大納言
    • 広橋国光
  • 内匠助
    • 三浦正俊、曽祢昌世
  • 内匠頭
    • 由比光綱
  • 帯刀
    • 岡部、佐野宗元、朝比奈
  • 帯刀左衛門尉
    • 山本成氏、瀬上
  • 弾正
    • 下条、三宅、西郷、渡辺、那須
  • 弾正左衛門
    • 戸田(田原)、西郷吉員、難波田善銀
  • 弾正左衛門尉
    • 朝倉、荻野、戸田(松平)宗光
  • 弾正小弼
    • 今川、佐々木(六角)定頼、小笠原信興、上杉景虎、上杉憲藤、長尾景虎
  • 弾正忠
    • 伊奈盛泰、加治木兼盛、甘利、戸田憲光、佐久間、春日虎綱、織田信長・信秀
  • 主税助
    • 佐野、万沢
  • 千葉介
    • 千葉勝胤・邦胤・孝胤・胤富
  • 中将
    • 岩崎、長田
  • 中納言
    • 広橋綱光、北畠
  • 典厩
    • 上杉定昌、武田信豊
  • 主殿助
    • 戸田重貞
  • 内記
    • 石川数正
  • 内膳大夫
    • 長井
  • 内膳亮
    • 松井
  • 中務
    • 鈴木
  • 中務少輔
    • 上野家成、植野、谷内部
  • 中務丞
    • 永見輔安、本間季能・久季、藁科
  • 中務大輔
    • 一色、瀬名氏範、千葉、富士、木曽義康、簗田高助・晴助
  • 縫殿
    • 鈴木
  • 縫殿左衛門
    • 由比
  • 縫殿左衛門尉
  • 縫殿助
    • 坂下、杉山、白石、本多正忠
  • 縫殿丞
    • 町田
  • 隼人
    • 上条、渡辺、藤井、由比
  • 隼人佐
    • 丹羽
  • 隼人佑
    • 原昌胤
  • 兵衛尉
    • 朝比奈元智、長尾
  • 兵衛太郎
    • 松平
  • 兵衛太郎尉
    • 佐藤
  • 兵衛大夫
    • 富永
  • 兵庫助
    • 伊藤、奥平(宮崎)信近、葛山、高井、柴豊宗、小笠原氏長、小野、松井貞宗、上原、植松元俊、真木重信、大河内真家、中山、渡辺、浜名政明、浜名忠正、牟呂、矢野、鱸信重
  • 兵部
    • 小笠原、朝比奈
  • 兵部少輔
    • 一色、下条、後藤、中安定安、富士信忠
  • 兵部丞
    • 奥山定友、桑原
  • 兵部大輔
    • 一色、今川国氏、細川藤孝、武田信懸
  • 民部
    • 下里、近藤康用、中川
  • 民部少輔
    • 高瀬、小笠原貞頼、小鹿、天野、富樫氏賢
  • 民部丞
    • 奥山、今村、牧野成勝、野呂、由比光能、孕石行重
  • 民部大輔
    • 大須賀、今川範政、上杉、上杉房定、大内晴泰、中居、木内、里見
  • 木工左衛門尉
    • 土屋
  • 木工助
    • 吉江茂高
  • 主水佐
    • 孕石元泰
  • 主水助
    • 戸田、鈴木
  • 主水佑
    • 井伊
  • 靭負
    • 幡鎌

受領名

  • 安芸守
    • 江馬泰顕、三浦、石川忠成、天野景泰
  • 安房守
    • 三吉隆亮、北条氏邦、里見
  • 淡路守
    • 古槇、正木時盛・頼時、長沼、福島
  • 伊賀守
    • 伊東祐遠、井伊直勝、井出、茨木、芹沢、高尾、渋谷、菅沼定盛、西尾親範、石巻、中村、長谷川、板倉勝重、福島
  • 伊豆守
    • 関口、興津、栗原、穴山信友、荒川、佐々、小原、武田信懸、木戸忠朝
  • 和泉守
    • 岡部、柿崎景家、岩間、岩瀬、守屋、小野、松井、松平親乗・真乗、水野、清貞英、福島範為
  • 伊勢守
    • 伊勢貞宗、遠藤、上杉
  • 出雲守
    • 目賀田、䳬田
  • 因幡守
    • 小野、松井、鷹野徳繁、長尾寛景、福島春興、野瀬頼則
  • 伊予守
    • 各和道空、諏訪、西郷、大館尚氏、筒井定次・順慶・藤賢、富樫氏賢、垪和氏続
  • 石見守
    • 岡部輝忠、玉井、近藤康用、松本景繁、大石、長谷川、鳥谷尾満栄
  • 越後守
    • 関口氏経、青木、周西、大塚、鈴木
  • 越前守
    • 井口、隠岐、勝田之長、小畑高勝、織田、村田経定、大田、百々、福島、鱸
  • 越中守
    • 粟屋宗菊、巨海、真木、長池
  • 近江守
    • 佐々木、大塚、二俣扶長、飯尾貞運、本間、里見
  • 大隅守
    • 伊波
  • 隠岐守
    • 河村縄興、甘利、菅谷、孕石
  • 尾張守
    • 井出、蔭山、春日、織田信長、真田、大東、大友、長尾
  • 甲斐守
    • 遠山綱景、荒川、妹尾
  • 加賀守
    • 伊勢貞満、江馬時成、斎藤安元、狩野、藤井、飯尾清房、鈴木
  • 上総介
    • 加子、今川義忠、今川氏真、今川範国、今川範氏、今川範政、今川範忠、小幡信真、織田信長、畠山、武田信高
  • 河内守
    • 岩瀬、富永、簗田成助
  • 紀伊守
    • 今村慶満、浅見、朝比奈、林
  • 上野介
    • 寺尾、酒井忠尚、上田、清水、曽我教助、沢木、武田信友
  • 上野守
    • 清水康英
  • 相模守
    • 富士信忠、北条氏康・氏政
  • 薩摩守
    • 粟屋、島津義俊
  • 佐渡守
    • 甘利、久能、後藤真正、水谷
  • 讃岐守
    • 栗田、原河、細河、小田氏治
  • 信濃守
    • 井伊直平・直盛、小笠原貞信、大森藤頼、朝比奈泰高、長野、矢部定信、由良成繁
  • 志摩守
    • 下条
  • 下総守
    • 神戸、成田長泰・正等、多賀谷、富津
  • 下野守
    • 宇都宮、宮、小山高朝、水野信元、曽祢昌世、朝比奈、朝比奈親孝・時茂、東、簗田助孝
  • 駿河守
    • 奥山、吉川元春、山内、大石、朝比奈信置、板垣信方
  • 摂津守
    • 興津、中原晴門、朝比奈、良知
  • 但馬守
    • 井上継隆・憲定、古槇延能、江戸、小笠原長則、小野、糟屋、大庭、長尾、津渡野
  • 丹後守
    • 海老江元喜、蒲原、杉山、大草、北条高広
  • 丹波守
    • 岡部、覚島、戸田、佐竹、朝比奈親徳、野瀬、鈴木
  • 筑後守
    • 吉田、走井、長坂虎房、茂木
  • 筑前守
    • 大石、朝比奈輝勝
  • 出羽守
    • 一宮、最上、三豬政長、牧野保成、由比
  • 遠江守
    • 宇都宮、狩野、拙秀治、万沢
  • 土佐守
    • 芹沢、青山、今村玄龍、三浦、三枝虎吉、飯尾、毛呂
  • 長門守
    • 三浦、植松盛信、前島、朝比奈
  • 能登権守
    • 大森
  • 能登守
    • 奥山、富士忠時・親時
  • 播磨守
    • 葛山、荒河、松田車順
  • 肥後守
    • 各和、朝比奈、友野
  • 肥前守
    • 松浦隆信、大原資良
  • 備前守
    • 加賀爪政豊、糟屋、走井、池谷、渡辺
  • 飛騨守
    • 朝原、武田
  • 常陸介
    • 温井
  • 常陸守
    • 菅沼定仙、富士
  • 備中守
    • 伊勢貞隆、海上師胤、葛山、太田永厳、大河内真家、大河内貞綱、丹下盛知、朝比奈泰朝・泰煕・泰能、町野義俊、浜名政明
  • 日向守
    • 吉野、元井、石川家成、鈴木重治、和夫
  • 備後守
    • 広戸重久、三浦正俊、松平清善、織田信秀
  • 豊前守
    • 河田長親、土屋(岡部)貞綱、飯尾連龍・乗連・致実、由比光澄
  • 豊後守
    • 佐保田、斎藤宗基、西郷、多賀、福島春久、本多広孝
  • 伯耆守
    • 河田重親、秋山虎繁、石川数正、多芸
  • 三河守
    • 加賀爪永授、海老名、根本、佐野、小幡信尚、曽根虎長、天方、徳川(松平)家康、毛呂、木戸孝範
  • 美濃守
    • 奥山良茂、岡部久綱、興津久信、山本、菅沼、太田資正、土岐頼芸、馬場信春、板倉、矢部
  • 美作守
    • 梶原政景、興津、小笠原氏興、跡部勝忠、中村、土岐、由比
  • 陸奥守
    • 一色、瀬名親隆、大館、島津貴久、北条氏照、毛利元就
  • 山城守
    • 皆川広照、近藤、斎藤龍興、松井貞宗・宗能、進藤賢盛、豊前、牧野、垪和広基
  • 大和守
    • 伊集院忠朗、岡部、河村縄興、原河、高、高山、松井、直江景綱、飯尾元連、由比光広
  • 若狭守
    • 阿多、佐野、朝比奈、長野、匂坂直興、馬場、飯尾、鈴木、藁科
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