2023/04/07(金)駿府にいた賀永の正体

賀永と氏規は別人か?

『言継卿記』に出てくる「賀永」は北条氏規と考えていたが、専門家から別人との仮説が出された。言われてみると「賀永=氏規」という記載はないから、検討が必要だろう。改めて記載を追ってみよう。

賀永関連記述の時系列

◎は寿桂(今川氏親の妻)と同伴している記載。※は参考用記載

  • ◎「大方之孫」10月2日

    湯山(伝聞):寿桂とその娘(中御門宣綱の妻)と共に湯治。「大方之孫、相州北条次男也」と説明している。

  • ◎「孫がいえい若子」10月28日

    寿桂宅:寿桂の他に賀永と上臈(冷泉)・奥殿(元上臈)・中臈頭(小宰相)が在宅している。

  • 「伊豆之若子」12月19日

    伝聞:賀永の祝言があったと言継が聞く。

  • ◎「伊豆之若子」12月23日

    寿桂宅:寿桂へ小鬼子を贈り、同時に賀永へも「矢、車字」を贈る。寿桂から「はつり一包、雉之羽十一具」を、賀永から「羽三具」を贈られる。

  • 「若子」12月24日 単独で言継を訪問

    言継宿所:昨日の大方・若子へ贈った小鬼子を取り寄せ、「木れん子」を「すけ薄」を置く。若子が来て「晩飡」を共にする。

  • 「伊豆之若子賀永」1月2日 単独で破魔矢を贈与

    賀永に依頼していた破魔矢が到着する。

  • ◎「若子賀永」1月3日

    寿桂宅:寿桂へ「薫物十貝」を、賀永へ「五貝」を贈る。三献があり賀永、奥殿・御黒木(言継の養母)が相伴する。

  • ◎「賀永」2月9日

    御黒木宅:十炷香を張行。参加者は御黒木・寿桂・言継・賀永・御まん・奥殿・山宰相・中将・小少将・賀永乳母・あこう・客人・あち・こち・城桶検校。

  • ※「中御門息之喝食」2月22日 再延期された浅間宮廿日会の桟敷で同席

    冷泉弟の子・各和式部少輔・牟礼備前守・朝比奈泰朝・蒲原元賢、由比光綱・光綱弟の十郎兵衛・神尾対馬入道・観世大夫が既に桟敷にいた面々。

  • ◎「賀永」2月29日

    言継宿所:甘利佐渡守が使者として来訪。寿桂から「黄金二両、島つむき三端、紙一束」、賀永から「段子一端、紙一束」、冷泉局から「紙二束」、奥殿から「紙一束、引物二、師子皮こ一対」、小宰相から「香箸、紙一束」が贈られる(その後言継は寿桂宅を訪れるが賀永の名は出てこない)。

従来の通説では「孫」とある繋がりから氏規=賀永とされていた。これに対して「孫は何人もいたはず」としたのが別人説で、更に踏み込んで中御門宣綱の息子を賀永とする説もある。それぞれ、検討してみる。

賀永は中御門信綱の息子か?

まず、中御門宣綱の息子が賀永というのは否定できる。上の一覧で判るように、賀永が中御門息だとすると、名前の呼び方が不自然になってしまう。親交を重ねた言継は2月9日に「賀永」と名のみ記すようになったのに、2月22日にいきなり「中御門息之喝食」と他人行儀になり、2月29日に再び「賀永」呼びになる。これはさすがに不自然だ。

一方、12月19日の賀永祝言に続けて宣綱の行動が記述され「賀永と宣綱は近しい存在」という指摘もある。しかし、記述内容をきちんと読むとおかしい点に気づく。賀永祝言に続けて、宣綱は「無興=不満」だったと書かれている。息子の祝言に不満を持つというのもまた不自然だろう。

元服前の氏規が喝食っぽい名を持っているのを不審に思っての比定かもしれない。しかし、上記のように言継卿記を素直に読む限りでは別人だろう。

賀永と氏規は別人か?

どちらも寿桂の孫と記述されている氏規と賀永は別人だろうか。別人説では、賀永は寿桂孫の一人ではあるものの、相模ではなく「伊豆之若子」と呼ばれたことから後北条との関係者ではないと推測している。

寿桂の孫となると、言継卿記には実に6人も登場する。北条氏康に嫁した娘が産んだと思われる氏規・氏真妻、中御門宣綱に嫁した娘が産んだと思われる娘と息子、義元の息子である氏真、瀬名貞綱に嫁した娘が産んだと思われる虎王。これに対して「孫」として説明されているのは氏規と賀永しかいない。

これは、氏規・賀永が寿桂と同居して孫として扱われていたからだろう。氏規は寿桂の湯治に同行しているし、賀永は8回登場するうちで5回は寿桂同伴である。他の孫達は寿桂と別の生活圏に居住していたため、その関係から説明されたものと思われる。

更に「若子」という尊称がつくのは賀永のみであり、周囲に敬されていたと考えられる。こうした敬称は宣綱の娘に付されていて「姫御料人」と呼ばれているものの、貞綱息子の虎王には付いていない。権大納言である宣綱と、一門とはいえ義元被官である貞綱とで待遇を分けているのだとすれば、賀永は太守氏康の次男だから尊称を付けられたと考えられる。

※興味深いのが宣綱の息子である喝食に尊称がない点。寺に入った者として距離を置いているように見える。であれば喝食風な名を持つ賀永は実態としては寿桂宅にいたため俗人として扱われ「若子」と呼ばれたのだろう。

まとめると、以下の項目から氏規と賀永は同一人物と考えられる。

  • 寿桂と極めて親しい関係にある氏規が、言継卿記では1回の伝聞にしか登場しないのは不可解
  • 寿桂孫として敬され言継卿記で多数登場する賀永が、同時代史料で一切見えないのは不可解
  • 寿桂と常に同行した孫で「若子」の尊称という条件を満たすのは氏規
  • 氏規と全く同条件の人物の存在を比定するよりも、氏規=賀永とした方が自然

相模ではなく伊豆の若子と記されるから後北条とは無縁という推測も、よくよく考えると筋が通っていない(伊豆国は後北条分国)。後北条と無関係でありながら、伊豆と関わりを持った寿桂孫の存在を想定するほうが無理があるのではないか。

伊豆や喝食との関連性

では、氏規はなぜ「伊豆之若子」と呼ばれたり、喝食のような名前「賀永(がえい)」を名乗ったりしたのか。

「伊豆」と「祝言」

私は、「伊豆」が使われるようになった鍵は12月19日の「祝言」にあると考えている。言継はこの祝言を記した後に「中御門無興」と付け加えている(どちらも伝聞)。「無興」は「気に食わない」とか「不満」を指すが、言継卿記では直近の12月5日に登場している。

次中御門へ罷向暫雑談、今日隠居之事、使四人有之云々、無興至極痛入者也

とあり、「隠居」について使者4人が来て宣綱が憤懣やる方ない状況になったと書かれている。14日にも宣綱は「隠居之儀事破云々、種々雖加意見無同心之間罷帰了」とあり、その憤激を言継が宥めようとして諦めた記載もある。その5日後の祝言で宣綱が「無興」というのであれば、賀永の祝言が宣綱隠居と密接に関わっていると考えていいだろう。

宣綱が登場する12月分記載を全て列挙してみた(※11月末に濃密な接触もあったので参考記載)。

  • ※11月28日:中御門宅にて酒宴。
  • ※11月30日:中御門宅にて風呂に入る。
  • 12月01日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月03日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月05日:中御門宅に行き「隠居の件で使者4人が来訪し、強い不満を抱いた」と宣綱から聞く。
  • 12月07日:宣綱から筆が返却される。
  • 12月11日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月13日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月14日:早朝に宣綱から呼び出しがあり、隠居の件が破綻したと激怒される。説得を試みるが効果なし。
  • 12月19日:言継が、伊豆の若子の祝言と、宣綱の不満を伝え聞く。
  • 12月26日:言継が、宣綱から借りていた鏡を返却し、同時に姫御料人へ物を贈る(姫御料人の記載終見)。

宣綱が「無興」になったのは、氏規を姫御料人の婿に迎えて中御門家を継がせたかったのではないか。駿河の今川、遠江の朝比奈に娘を送り込んだ中御門家だから、その計策を練ったとしても突飛な話ではない。何より、政略結婚の画策だと考えると、宣綱の行動のあれこれが腑に落ちる。彼を憤激させた使者4人は後北条氏から来て中御門家との婚姻を謝絶したものだと思われる。

※宣綱には子がいなかったと思われる一方で、異母兄弟とされる宣治には男子(宣教)と女子(宣胤の妻)がいた。宣治は1555(弘治元)年に死去しており、言継が駿府に滞在した弘治2~3年の前に遺児達を引き取って養子にしていた可能性がある。但し、この女子が宣胤の妻となるかは年代的に疑問が残る。宣胤は1569(永禄12)年生まれだから、宣胤の妻はこの女子の娘である可能性の方が高いように思う。

そして、この祝言から「伊豆」が賀永に付されるようになる。これは、北条綱成の娘との婚姻が成立して伊豆に知行を得たからではないか。この時点で氏規知行が伊豆にあったという史料はないが、1565(永禄8)年に伊豆奥郡の手石郷へ朱印状を発給している(戦北891)。また、更に後年になるが氏規の妻は伊豆仁科郷の地頭として名を残している(戦北4969)。結婚を機に伊豆の知行を与えられる可能性は高い。

ちなみに、元服前の婚姻は他に井出千熊・馬淵金千代の婚姻契約があるので問題はない(戦今1667)。むしろ、祝言が元服だとするなら、その後も若子・賀永と呼び続けた理由が判らなくなるから、婚姻と考えるべきだろう。

氏規は喝食だったか?

ここから先は推測・憶測の上に仮説を進める形になるため、一つの仮構として捉えていただきたい。

氏規が喝食のような「賀永」を名乗ったことについて。彼は実際に喝食だったのだろうと考えている。というのも、氏規は後北条一門の中で唯一浄土宗の戒名を持っている。とすれば、臨済宗大徳寺派で占められる後北条一門から離れた場所で浄土宗に帰依する出来事があったと推測される。

今川一門もまた義元以降は臨済宗(妙心寺派)なのだが、義元には氏規を浄土宗に帰依させる動機がある。それが対三河政策で、当時の三河には日蓮宗や浄土真宗、曹洞宗もあったのだが、義元が橋頭堡にしようとした松平一族は浄土宗を信仰していた。恐らくだが、義元は氏規を養子にして三河進出の中心に据えようとしていたのではないか。その足がかりとなる松平氏と同じ宗派にするため、氏規を浄土宗寺院に喝食として入れた。

氏規は終生浄土宗に帰依しており、当時駿府にいなかったと思われる徳川家康となぜか親しかったのは、同じ宗派を信仰しているためだろう(家康の駿府不在は徳川家康登場初期の考察、家康との関係性については北条氏規への偏見についてを参照)。

しかしながら言継卿記の賀永は寿桂宅に起居しているし、当時の駿府で最も有力だった浄土宗寺院(新光明寺)に寄宿していた言継の記述でも寺院関係者としては出てこない。

これは、義元の意図を危ぶんだ寿桂が氏規を引き取って身柄を担保していたのだろう。そしてそれを横からかっさらおうとしたのが宣綱で、亡くなった弟の娘を充てがって中御門家を継がせようと画策していた。

この駿府での騒動に慌てた氏康は綱成の娘との婚姻を強行し、元服前とはいえ伊豆で知行を与えた。このために「伊豆之若子」と呼ばれるようになったのだろう。

しかし、1556(弘治2)年5月2日に座間鈴鹿明神社の棟札銘に「北条藤菊丸」と名を残した氏規が、僅か5ヶ月後の同年10月2日に言継卿記で「賀永」という名乗りになっていたことから考えると、氏規の争奪戦はこの年に相当な速度で進んだようだ。

氏康と同盟した後の義元は西へ一気に勢力を広げており、天文19~22年頃には尾張東部(知多・岩崎)にまで達している。この勢いに乗った義元は、氏康の息子を得たのだろう。義元の後継者は氏真しかおらず、その妻に氏康娘を迎えたとしても縁戚関係は不安定だった。

1545(天文14)年11月9日に実績がある(戦国遺文今川氏編783)ことから、この時も寿桂が氏康と義元を仲介して、氏康次男の藤菊丸を氏真予備として養子にする決定がなされた。その後、1556(弘治2)年から三河国で反乱がが相次ぎ、三河の政情が悪化。この対応に苦慮した義元が、一刻も早くという要請を出し、今川家の将来を憂慮した寿桂が口添えしたのかもしれない。

2017/08/18(金)要検討でも写しでもない北条氏政書状への疑問

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滝川一益宛北条氏政書状写の検討

花押がおかしな北条氏政書状

隠居して大きく花押を変えたはずの氏政が、隠居前のものを用いているとされている文書がある。この文書については30年以上前から指摘があった。

『後北条氏の研究』(佐脇栄智編・吉川弘文館・1983)p124

『発給文書の基礎的研究と背景』「小田原北条氏花押考」(田辺久子・百瀬今朝雄)

原本は戦災により焼失したとのことで、実見することは出来なかったが、東京大学史料編纂所の影写本によってみる限り、書風は当時のものとして疑わしいところは見当たらない。けれども花押は、当時はすでに使用していない一類の最後の型に属するものである。既述の如く遅くとも天正九年十一月には二類の花押が使用されているのに、翌十年六月に至り、再び一類の花押を使ったということになるのである。氏政の花押の変遷は、全体として相当規則正しく行われているので、この時期だけ乱雑であったとは考えられない。

この疑問は継承され、下記でも取り上げられている。

本文書の氏政の花押は、天正四、五年頃のものであり、同十年のものとは全く異なる。但し本文書は、文言・書式などに特に疑点はない。

  • 小田原市史小田原北条2 p392

なおこの書状で注目されるのは、氏政が旧型の花押を据えていることである。氏政は天正九年五月(「寿命院文書」戦二二三五)から八月(「服部玄三氏所蔵文書」戦二三九一)の間に花押形を改判しているので、本来であればこの書状にも新型の花押が据えられるはずである。ここでわざわざ旧型の花押が据えられている理由については明確ではないが、花押形の改判以降、一益との間で連絡を取り合うことがなかったか、新型の花押は一益などの対外関係にはいまだ用いられていなかったか、いずれかであろう。

  • 『戦国北条氏五代』p159

伝来も微妙

この不可思議な文書を改めて考えてみる。原本は写しではないらしいのだが、一度東京大学史料編纂所に持ち込まれ影写された後に戦災で焼失したとのこと。高橋一雄という人物が所持していたのだが、その伝来は残されていない。

内容分析

今十一未刻、自深谷之台一庵書状を指越候、抑京都之様子、自是も申届候キ、実儀候哉、自遠州も注進連続候、一、以早飛脚申届意趣者、此際堅固ニ其地被相拘専一候、当方へ毛頭御疑心有間敷候、千万一妄之模様ニ有之而者、此度之対逆心人、貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、一、右之書状到来、則時ニ申達候、不可過勘弁候、軈以使可申候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/滝川左近将監殿進之候
戦国遺文後北条氏編2347「北条氏政書状」(高橋一雄氏所蔵文書)

まずは差出人と宛所を一旦抽象化して、単純に文面だけに注目。

第1項

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、私たちからもお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

第2項

一、早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

第3項

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

これらを項目ごとに考察。

第1項考察

冒頭は、これを書く契機になった狩野一庵書状が、11日未刻(13~15時前後)に到着したとある。受け取った<差出人>が<宛所>に向けて送ったのは文書日付が6月11日でその日のうちとなっていることから、急いでいたことが判る。一庵書状は、深谷の「台」から来たという。一庵は狩野一庵、深谷は埼玉県深谷市・神奈川県横浜市戸塚区深谷・千葉県いすみ市深谷の3か所に比定候補があるが、埼玉県深谷市は近隣に「上野台」という地名を持っていること、深谷衆は滝川一益に出仕していて関連することから、深谷市の比定で問題はないと思う。一庵は深谷城には入らず、「台」にいたことを強調しているように見える。

続けて「そもそも京都の様子」とある点は、少し唐突。ただ「こちらからも申し届けていました」と、既に<差出人>から情報提供をしたとあるので、共通の話題として成り立っていたことが判る。その上で<差出人>はこの様子を「本当か?」と疑っていること、徳川氏(遠州)から報告が連続して来たことを書いている。この時点で、<差出人>は結論を出していないため、ここで書状が終わっていたら、<宛所>に真偽を尋ねる内容だといえる。

第2項考察

これは前後とつながらない不思議なパラグラフ。<差出人>は、拠点防御に専念することを勧告し、自らを疑わないように指示している。そして次文に行くと一転して疑問形になり「万一疑うなら、逆心した者への鬱憤は晴らせなくなるのでは?」と尻すぼみになっている。「氏政父子」とあるのは、北条氏政・氏直のことで問題ない。「相談されたら、最後まで親身になるから、大・小の事柄を協議しましょう」という提案で締めくくっている。

第3項考察

最後の部分は、「右の書状が来たからすぐ報告した」とある。第1項の直後なら「右之書状」は一庵書状を指すと考えて問題ないのだが、第2項が長々と入っているために意図不明で、第2項自体が一庵書状だったのか、それを要約したものなのか、または無関係な文面なのかが判断しがたい。

そもそも第2項は氏政父子の行動を言明したもので、一庵が緊急時にそこまで明言できるかは疑わしい。<差出人>が「一庵書状の写し・現物を添えた」とも書いておらず、第2項と第3項の連携はほぼないといえる。

第2項は追而書?

第2項は追而書として書き込まれていたもので、これを改変して本文内に収納した可能性もある。その場合の解釈文を作ってみた。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。
追記:早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

但し、これだと一庵書状が何だったのか判らないままだし、追而書が孤立し過ぎているように見える。また、第2項の中には以下の例外的語用が存在する。

  • 逆心人:見かけない言葉。とにかく逆心した人間の具体的な名を書くのが通例。
  • 乍出角:語感からして「差し出がましいことですが」程度の意味になりそうだが、同時代で用例がない。「乍聊爾」「乍卒爾」が近いかも知れないが、そもそも「差し出がましいこと」をわざわざ言う文化がないのかも知れない。

いっそのこと第2項を丸々抜いて考えると、第1項が真偽を確認するための情報共有という趣旨である点、第3項の取りまとめ的表現が非常にうまく呼応する。第2項自体、表現の怪しさ、後からの知見が込められたような饒舌さを考えると、第2項自体が創作され、挿入されたものだという可能性が高いと思う。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

更に厳密に言うなら、第3項も「不可過勘弁」という妙な言い回しを使っている。他例を見ると「不可過御塩味」か「不可有御勘弁」とすべき部分で、違和感がある。

  • 不可過之 8
  • 不可過御塩味事 6
  • 不可過[工夫|狭量|推察|御計量|分別]候 7
  • 不可過両条・不可過十人・不可過勘弁 各1

この点から第3項も一旦排除すべきであり、そうなると、使用語句と語用から考えて第1項のみの身内同士の簡易な覚書だったのではないかと考えられる。具体例として、氏政から氏邦に送られたと思われる覚書、氏直から氏邦に送られた書状がある。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、以上
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:房 截)
小田原市史資料編後北条氏編2240「北条氏政書状」(神奈川県横浜市・県立文化資料館所蔵小幡文書)

糊付之御状披見、得心申候、同者此度討つふし候ニ極候、恐々謹言、
九月八日/氏直(花押)/安房守殿
小田原市史資料編後北条氏編1915「北条氏直書状写」(武蔵古文書一)

身内の覚書だった場合、一庵が氏照配下である点から、氏照が発信者だったと見るのが妥当だろう。宛所は複数の可能性がある。

  • 氏直:当主であり甲信侵攻で氏照・氏邦と素早く動いている
  • 氏政:氏規と共に徳川・織田との折衝を担当している
  • 氏邦:滝川一益にも出仕していて、一益の近況は把握している

ここで論点となるのが、何故一庵が深谷の台にいたのかという点。一益は一貫して義氏・氏直らを無視しているから、一益が指示したとは思えない。そもそも「一庵」と言われて一益が把握できたかすら疑問。

となると、情報収集のため氏照が一庵を動かしたと見るしかない。

そして、氏直・氏政は小田原で情報を把握していた訳だから候補から外れ、氏邦に宛てたと考えるのが最も適切だと思われる。

つまり、上方・遠州からの情報を掴んだ氏照が一庵を移動させ、既に一益に出仕していた深谷で情報を探らせた。それを一益の元にいた氏邦に伝えて、情報共有を計ろうとした。

まとめ

原本が失われた点からして、既に要検討だと思うのだが、この文書は写しではないという認識から長らく要検討指定から外されてきた。語用や文脈の分析から見たように、第1項だけが現存していた断片的な書付がベースになったのだろうと思う。

もう少し突っ込んで考えるなら、作者はまず第2項を足したのだろうと思う。

一体、近世後筆による創作というのは後世から見て判り易いのが前提だと思う。先の第2項は、軍記で描かれる川越夜戦を想定している。家忠日記では「明智」と明記されている謀叛人を「逆心人」とぼやかしているのも特徴的で、同時代での呼称に自信がないため回避したのではないか。一益の下で果敢に戦ったと主張している上野国系の軍記が影響している感もある。

その後に、このままでは書状にならない点から第3項と氏政花押を付け足したのだろう。

参考データ

北条氏政が「氏政父子」と書くだろうか、という疑問

実は、その書状を見て私がまず疑問に思ったのが、隠居した北条氏政が「氏政父子」という表現をするだろうか、という点だった。

天正11年に家康宛てで送った書状でも「氏直大慶、於拙者も忝候」として一歩自分は引いている。

以鈴木申達候処、朝弥太郎被指添、始中終御懇答、殊七月可被入御輿儀、猶以御儀定之旨被顕御状候間、愚拙歓喜何事と可遂之候哉、心腹難尽筆紙候、就中五ケ条蒙仰候、一ゝゝ御返答申述候、然ニ沼田・吾妻急速可渡給由、弥御真実之模様、氏直大慶、於拙者も忝候、委曲使を指添申入候間、具御返答待入候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/徳川殿
戦国遺文後北条氏編2547「北条氏政書状写」(古案敷写)

その他の例を見ても、北条氏政は1580(天正8)年の家督譲渡後は一貫して隠居の立場を前提に動いていて、重大な外交決定では決裁を全て氏直に一任している。これは彼の死に至るまで一貫している。

だから、氏政が滝川一益への書状で「氏政父子」と自ら書いているのには強い違和感を感じてしまう。そもそも、氏政が隠居して花押を改める契機となったのが織田方との新たな交渉のためであったことを考えてみても、こういう書き方はしなかっただろう、としか思えない。

家督継承前

1579(天正7)年比定2月24日付・清水入道宛・氏政名義

  • 「氏直をハ不同心候、当城ニ為立馬申候、為心得申遣候」戦北2055

家督継承

1580(天正8)年8月19日付・截流斎名義

  • 「天正八年庚辰八月十九日、氏直江直ニ相渡者也、仍如件」戦北2187

家督継承後

従金山之一札到来、先段者給候ニ内儀候間、愚意委細申越候キ、何時も河辺之人衆、被引立候者、自元大途事ニ候間、直ニ氏直江被相達可然候、其勘弁肝要候、猶ゝ給候者、内談候得者、其筋目申候、扨又、見当而可被致筋目候者、尤旁ゝ可有御出陣上ハ心易候、恐ゝ謹言、
二月十五日/氏政(花押)/安房守殿
戦国遺文後北条氏編2305「北条氏政書状」(根岸浩太郎氏所蔵文書)1582(天正10)年比定

願書右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、
天正十年三月廿八日/氏政(花押)/三嶋神主殿
戦国遺文後北条氏編2329「北条氏政願文」(三嶋大社所蔵)

所存江雪所へ被申越候、尤ヶ様之儀、意見神妙候、任申遣願書候、国主之儀候間、氏直可遣子細候へ共、輿之一ヶ条肝要ニ候条、氏直者難書子細、依之愚老如此遣之候、又なて物之事ハ、本人之を置物候間、陣中へ早ゝ可被申上候、恐々謹言、
三月廿八日/氏政(花押)/清水上野入道殿
戦国遺文後北条氏編2330「北条氏政書状」(東京都練馬区清水宏之所蔵)1582(天正10)年比定

今度之模様無是非候、然者長新就在府、初中後共様子有様ニ相談、自彼方使被指越候、委細可為演説候、向後之儀者氏政可為証人由候、隠遁之上雖思慮候、相任其儀上者聊別儀有間敷候、勘弁之上早々落着専肝候、恐々謹言、
十二月七日/氏政(花押)/岡部左衛門尉殿
埼玉県史料叢書12_0731「北条氏政書状」(岡部忠勝家文書)1584(天正12)年比定

北条氏政の念押し文書

氏政については、1569(永禄12)年に越相同盟交渉中の上杉家被官に、武田方との戦闘状況を伝えているものがある。見て判るように平明な書き方であって、例の文書に見られる混乱した表記はない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿
戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

里見義頼の情報

天正10年6月に、例の文書とほぼ同時に里見義頼が出した書状では、情報の出どころとして徳川氏が挙げられ、同時に、氏直から出陣催促があったと告げている。一方で、上方・信濃・越後・駿河の状況について何か情報がないかと太田資正・梶原景政に質問している。そして、この情報は佐竹義重もほしがっていると書いており、徳川・後北条以外からの情報が途絶したようにも見える(上野国の滝川一益は話題に上っていないので不明)。

徳川家康注進之由、随而自相府如被申越者、於京都信長御父子生涯之由候、依之氏直早速出陣候間、当方も加勢所望候、一、上口之様子并信・駿之儀如何被聞召候哉、一、越国之模様是又承度候、一、義重以切紙申通候、自其御届頼入候、如兼約此度以使雖可申述候、其筋之様子難測候条、遅退非疎折候、恐々謹言、
六月五日/義頼(花押)/梶・三
埼玉県史料叢書12_0627「里見義頼書状写」(温故知新集)6月15日の可能性を示唆。

徳川家康が報告したとのこと、それに従って小田原からの使者が話していたのは、京都において信長御父子が死んだということです。これによって氏直から、すぐ出陣するから加勢するようにと指示が来ました。一、上方方面の様子と、信濃国・駿河国のことはどのようにお聞きになっていますか? 越後国の状況も伺いたく思います。一、佐竹義重が切紙で申し通してきました。そちらよりのお届けを頼み入ります。兼ねてからの約束通り、この度は使者によって説明するでしょうが、その筋の様子は予測しがたく、遅滞をしても粗略に思ってのことではありません。

2017/06/12(月)北条氏康の「次男」は誰か?

1552(天文21)年3月21日に長男が亡くなると、氏康の次男氏政が繰り上がりで長男となる。

この後、1555(弘治元)年11月~翌年10月の間に、北条氏康の次男が頻出する。「藤菊丸」は古河公方・座間との関係性から見て北条氏照であり、伊豆若子は助五郎の仮名を持つ北条氏規である可能性が高いとされる。

  • 弘治元年11月23日の足利義氏元服式に登場する「北条藤菊丸氏康二男」
  • 弘治2年5月2日座間鈴鹿明神社棟札にある大檀那「北条藤菊丸」
  • 弘治2年10月2日『言継卿記』で駿府にいた伊豆若子「大方の孫相州北条次男也」

これは、古河公方を初めとする関東には氏照が次男、今川義元を初めとする上方には氏規が次男という二枚舌を氏康が用いたことになるのだが、そのようなダブルスタンダードを安易に用いるのだろうか。ここに疑問がある。

氏規が言継に次男と認識された背景には、既に氏照が大石家の養子になっていて繰り上がったのではとも指摘されるが、藤菊丸は一貫して「北条」であり「大石」ではない。藤菊丸はあくまで氏規で、弘治2年5月以降に駿府へ移り、その後を幼名不詳の氏照が継承した可能性は存在する。

氏照は「委細息源三」(氏康)「氏政舎弟北条源三」(輝虎)「委細弟候源三可申候」(氏政)と書かれていて、次男であるという記載はない。これは助五郎氏規も同様である。ただ、氏照が「奥州様」と呼称される一方で氏規は「美濃守殿様」と呼ばれることもあり、格差はありそう(埼玉県史料叢書12_0697「酒井政辰書状写」)。

この点から、氏規は一貫して次男待遇であり、藤菊丸だった可能性もまた同様に高いのではないかと思われる。氏照は氏規より年下だった可能性も検討すべきではないかと思う。