2018/04/07(土)北条氏規と朝比奈泰寄

1568(永禄11)年の駿府陥落に際しての行動が、岡部和泉守と似ているのが朝比奈泰寄(甚内・右兵衛尉)。2人は北条氏規に同行して駿河を西進したのだろうと思われる。

親族が氏真と共に懸川城にいながら、北条氏規の奉者となっている。

  • 岡部和泉守:父の大和守が懸川籠城、兄弟の次郎兵衛尉は武田方へ。

  • 朝比奈泰寄:兄弟の泰勝が懸川籠城、兄弟の四宮泰雄は戦死しその妻子は甲府へ。

ところがその後の動向は大きく異なっている。

岡部和泉守が北条氏政・氏康に直接指示されて最前線を転戦。その後は正式な知行を得られず断絶している。

一方で朝比奈泰寄はそのまま氏規被官となる。3月26日には四宮泰雄の妻子引き取りについて今川氏真から指示を受けているが、翌月には氏規朱印を伊豆の多賀郷に発している。多賀は熱海南方なので前線ではない。

その後も引き続き氏規被官として活躍して、氏規次男辰千代の陣代も務めている。

1568(永禄11)年

12月15日

 龍雲院は沼津地域。岡部和泉守が同じく氏規奉者を務めた禁制(12月18日付)は吉原地域が対象。

制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申候、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十五日/(朱印「真実」)朝比奈甚内/多肥龍雲院

  • 戦国遺文後北条氏編1122「北条氏規制札」(龍雲院文書)

1569(永禄12)年

3月3日

四宮泰雄が戦死した後を受けて、敵地にいる子供から1人を引き取って相続させるように、今川氏真が朝比奈泰勝に指示しているが、その際に子供が幼少の間は泰勝、もしくは泰寄が名代を務めるようにと書き添えている。

四宮惣右衛門尉宛行知行分并同心給屋敷等之事
右、彼実子雖有兄弟之、未敵地仁取置之間、令馳走両人、一人引取一跡可申付、雖然幼少之間者、泰勝可相計、但於可致甚内相越名代之儀之者、可任其儀、兼又同心之儀及異儀者、如先判可加下知、被官以下者泰勝可為計者也、仍如件、
永禄十二年三月三日/氏真(花押)/朝比奈弥太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2299「今川氏真判物」(国立国会図書館所蔵武家文書所収)

3月26日

於大平之郷出置福島伊賀守代官給百貫文事。右、如伊賀守時不可有相違、惣右衛門尉今度遂討死、致忠節為跡職之間令馳走、自甲府妻子於引取者、彼郷ニ而堪忍之儀可申付、并陣夫参人於徳倉・日守郷可召遣之者也、仍如件、
三月廿六日/文頭に(今川氏真花押)/朝比奈甚内殿

  • 戦国遺文今川氏編2324「今川氏真判物」(鎌田武勇氏所蔵文書)

4月24日

多賀郷代官・百姓ニ其方借シ置候兵粮、何も難渋不済之由申上候、厳密催促可請取候、於此上も不済候ハゝ、急度可遂披露候、得上意其科可申懸候、人之物借済間敷、御国法無之候、如証文鑓責候て可請取者也、仍如件、
己巳卯月廿四日/(朱印「真実」)朝比奈兵衛尉奉之/岡本善左衛門尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編1201「北条氏規朱印状」(岡本善明氏所蔵文書)

1570(永禄13/元亀元)年

2月12日

鴨居之郷観音堂寺中竹木切取事、堅可令停止并号飛脚押立与出家役等、向後不可申付、諸条狼藉等遂申者於有之者、自今以後者注交名可申上者也、仍如件、
永禄十三年庚午二月十二日/御朱印・朝比奈甚内奉之/観音寺別当

  • 戦国遺文後北条氏編4686「北条氏規朱印状写」(諸国高札二)

1571(元亀2)年

7月15日

急度飛脚被遣候、則披露申候、仍今度之御動之儀、無比類被成様共前代未聞之義、従 殿様此段具可被仰下候へ者、御城爾于御座候間、寸之御透も無之候間、此趣我ゝ方巨細申候得由、御意ニ候、猶自今之義者海上動所ハ一円御父子へ被相任候由、堅御意ニ候、於我等満足此事ニ候、弥ゝ御走廻肝要ニ候、 御本城様其煩于今爾候旨、無之候間、何様昼夜御詰城被成候間、御障無之候、拙者も韮山之番被仰付候、有御用一昨日此方へ罷越候、明後日罷越候、重而御用候者、六郎大夫ニ可被仰渡候、何事も近内口上ニ申候間、早ゝ申候、恐ゝ謹言、
七月十五日/朝甚泰寄(花押)/山信・同新御報

  • 戦国遺文後北条氏編4059「朝比奈泰寄書状」(越前史料所収山本文書)

1574(天正2)年

11月20日

「六大夫」とあるのは「六郎大夫泰之」で、泰寄の後継者(子弟)と見られている。

奉建立鹿島御宝前
大檀那朝比奈六大夫敬白。相州三浦須賀郷之内、逸見村百姓中并代官、今■■■当大夫宮内丞
当大工山内六郎左衛門、当鍛冶小松原満五郎
于時天正甲戌年閏霜月廿日、諸願成就、皆令満足、筆者平朝臣賢清、
古記録

  • 戦国遺文後北条氏編1748「鹿島社棟札銘写」(新編相模国風土記稿三浦郡逸見村之条)

1576(天正4)年

9月11日

出家した今川氏真が朝比奈泰勝の労をねぎらった際に、泰寄にも宜しく相談するようにと指示している。

万々渡海之儀辛労ニ候、然者家康申給候筋目於相調者、一段可為忠節候歟、甚内方へ能々可申計候也、仍如件、
九月十一日/宗誾(花押)/朝比奈弥太郎殿

  • 戦国遺文今川氏編2584「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)

1577(天正5)年

4月6日

仰出之条ゝ
一、山本左衛門尉就進退不成、参拾貫文之所十年期ニ売度由、尤相心得候事
一、伊豆奥就手遠、三浦之在陣走廻も不成之由、知行替之侘言任存分候、別紙ニ書付被下候事
一、知行役之儀、参■■■■十年期明間者■■■■可致之事
右、如此之条ゝ雖為有間敷子細、信濃入道者自前ゝ忠信至于今走廻、子ニ候左衛門太郎者於眼前討死、忠信不浅候、只今太郎左衛門尉事者、乍若輩海上相任無二走廻之間、全人之引別ニ不成之候、依之如申上御納得被仰出候、弥抛身命可走廻段、可為申聞太郎左衛門尉者也、仍如件、
丁丑卯月六日/(朱印「真実」)朝比奈右兵衛尉奉之/山本信濃入道殿・同太郎左衛門尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編4721「北条氏規朱印状」(越前史料所収山本文書)

8月20日

北条氏規が陸奥の遠藤基信と連絡を取った際に、泰寄が間に入っている。「不思議之得便宜」とあり、もしかしたら泰寄が基信と先に知り合ったのかも知れない。

乍卒爾之儀、企一翰意趣者、貴国之儀年来承及候、去春不思議之得便宜、朝比奈右兵衛尉ニ内意申付、貴殿御事承及候間申届候処、此度態以飛脚御報候、遠国之儀寔御真実之至本望忝候、抑貴国与当国可被仰合筋目念願候、両国於御入魂者、天下之覚相互之御為不可過之候歟、有御塩味御取成肝要候、於当国者乍若輩涯分可令馳走候、委細右兵衛尉可申入間令省略候、恐ゝ謹言、
八月廿日/氏規(花押)/遠藤内匠殿参

  • 戦国遺文後北条氏編1936「北条氏規書状」(斎藤報恩博物館所蔵遠藤文書)

1587(天正15)年

3月21日

改進置知行
弐百貫文、知行辻
此出所
百六拾五貫三百十四文、小磯夏秋
卅四貫六百八十六文、蔵より可出
此上弐百貫文
右、龍千代陣代被走廻付而、如此進置候、陣番無患可被走廻者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/氏規(花押)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3067「北条氏規判物」(朝比奈文書)

入間・指田・落合・山根替進置分
百貫文、知行辻。此出所
七拾六貫五百六十六文、白子
廿三貫四百卅四文、蔵より可出
以上、百貫文
右之知行之替進置候、毎年如此可有所務者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/(朱印「真実」)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3068「北条氏規朱印状」(朝比奈文書)

1588(天正16)年

5月24日

任望下一宮百卅七貫百五十余、白子ニ取替進候、自戊子夏可有所努候、伊豆奥之不足銭此内ニて進候而も、廿貫余過上ニ候へ共、少之事候間其報進候者也、仍如件、
戊子閏五月廿四日/氏規(花押)/朝比奈右兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編3327「北条氏規判物」(朝比奈文書)

1592(天正20/文禄元)年

3月15日

知行方
弐百石、丈六
三百石、南宮村
以上五百
右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、
天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)

年未詳

6月30日

北条氏規から成田氏長への使者として泰寄が動いている。また、氏規を介して徳川家康からの進物を与えられている。

遥ゝ在御音信与従濃州預御使候、殊従家康被進物数多被懸御意候、寔畏入存斗候、内ゝ従此方も節ゝ雖可申達候、韮山為御番御在城、御帰府之時分を不存知候間、御無沙汰申、本意之外候、可然様御心得任入候、仍自貴所も鯨一合給候、御志即賞翫申候、何様従是可申述候、委細者福長頼入候、恐ゝ謹言、
六月晦日/成下氏長(花押)/朝兵御宿所

  • 戦国遺文後北条氏編4190「成田氏長書状」(荻野仲三郎氏所蔵文書)

8月5日

 朝比奈泰之は、泰寄の後継者と見られる。

雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、
八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中

  • 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)

2018/01/28(日)北条氏政が、弟の氏規に番編成を指導したのはいつか?

比定年が異なる文書

番の編成を、北条氏規に代わって兄の氏政が代行したという書状が残されている。この文書の年比定については、小田原市史と戦国遺文で1年異なっている。

原文

一、河尻・鈴木今十日罷立候、一、韮山之番帳進之候、一、長浜之番帳進之候、能ゝ御覧届、長浜ニ可被置候、其方之早船八艘之内七艘、三番ニ積候、番帳ニ委細見得候、一、韮山外張之先之城ニ候間、悉皆其方遣念、可有下知候、為其其方之舟衆三番ニ置候、一、長南之儀ニ付而之書状、態進迄者無之故、此者ニ進之候、日付相違可申候、一、東表動前候間、如何様ニも早速普請出来候様ニ可被成候、恐々謹言、
三月十日/氏政(花押)/美濃守殿

  • 小田原市史小田原北条2042/戦国遺文後北条氏編3430「北条氏政書状」(宮内直氏所蔵文書)

解釈

  1. 河尻と鈴木が今日10日に出発します。
  2. 韮山の番帳を送ります。
  3. 長浜の番帳を送ります。よくよくご覧になって、長浜に置かれますように。そちらの早船8艘のうち7艘を、3つの番に編成しました。番帳で委細が見られるでしょう。
  4. 韮山の外張の先にある城ですから、しっかりと念を入れて指示を下されますように。そのためにそちらの舟衆を3番に置きました。
  5. 長南のことについての書状は、わざわざお渡しするまでもなかったので、この者に渡しました。日付が違っているようです。
  6. 東方面の作戦直前なので、どのようにしてでも早く普請が完成するようにして下さい。

この文書について「東表動前候間」を重視したと思われる戦国遺文・下山年表は天正17年と比定。対して小田原市史は天正17年に「東表動」があったとは考えにくく、であれば韮山・長浜の軍事通達がある点から天正18年と比定すべきではないかとする。

どちらの比定も難点あり

天正18年の場合、眼前に羽柴方が進駐してきて散発的に戦闘も発生しているような状況で、「東表動前」だから普請を急げとは言わないように思う。氏政の意識は西に集中していたのは、他の文書を見ても判る。

しかし、天正17年3月というのもおかしい。この時点で後北条氏は足利表の平定に注力していて氏直が出馬した形跡はない。

それよりは、氏直が確実に常陸に出馬した天正16年に遡った方が信憑性が高いのではないか。

廿三日之一翰、今廿八日未刻到来、仍府中・江戸再乱、双方随身之面々書付之趣、何も見届候、当時西表無事、如此之砌、一行之儀、催促無余儀候、当表普請成就、定急度氏直可為出馬候、其方本意不可有疑候、弥手前之仕置専一候、猶此方之儀、争可為油断候哉、委細陸奥守可為演説候、恐々謹言、
二月廿八日/氏政在判/岡見治部大輔殿

  • 埼玉県史料叢書12_0848「北条氏政書状写」(先祖旧記) 1588(天正16)年

爰元帰陣休息、雖不可有程、向常陸へ氏直ニ令出陣候条、着到無不足有出陣、別而被相稼、可為肝要候、恐ゝ謹言、
三月廿五日/氏政/押田与一郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編3297「北条氏政書状写」(押田家文書中)

押田蔵人事、以書付被申越候、旧規之様子者、当時不及糺明儀ニ候、畢竟邦胤時菟角無裁許、被打置候儀迄、只今鑿穿信事思慮半候、近年不成様可被取成候ハゝ、殊一手之内之事ニ候間、聊も構別心無之候、雖味過間敷候、猶同名与云、旧規之筋目与云、何とそ被取成候ハゝ、異儀有間敷と校量候、恐ゝ謹言、
閏五月廿日/氏政判/押田与一郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編3326「北条氏政書状写」(内閣文庫本古文書集十五)

氏直出馬の面倒をあれこれ見ていたのが氏政で、この辺の状況を見ても天正16年の方が自然に感じられる。

2017/10/04(水)北条氏康の次男―藤菊丸、賀永、氏規―

北条藤菊丸は誰か

1555(弘治元)年11月23日、古河公方足利義氏の元服式が行なわれた『鎌倉公方御社参記次第』(北区史資料編古代中世2-77)。そこには勿論北条氏康の姿があったが、脇に控えた少年も記録されている。

「北条藤菊丸氏康二男、御腰物御手移ニ被下候」

この場所に他の兄弟は(既に元服・妻帯している後継者の氏政すら)いない。北条氏康の次男として、他の兄弟とは別格で登場する「北条藤菊丸」が誰なのかを検討してみよう。

藤菊丸 = 氏照の検証

藤菊丸について、通説では北条氏照だとされてきたが、以下の矛盾点があり不自然だと思われる。

  1. もう1点の文書で藤菊丸は「北条」を名乗っているが、氏照は「大石源三」として登場し、後に北条に改めている。一貫して北条を名乗る氏規の方が適しているのではないか。
  2. 関東で藤菊丸の活動がなくなると同時に駿府で氏康次男として「伊豆之若子」賀永が活動を始める。
  3. 御相伴衆として名が載っているのは、氏政と氏規のみ。
  4. 天正11年に酒井政辰は氏照を「奥州様」氏規を「美濃守殿様」と繰り返し呼んでおり、家中でも氏規の方が格が上である。

 氏照を藤菊丸に比定する根拠としては、藤菊丸の名がある棟札が座間郷にあり、ここは役帳で大石氏の知行されている点、藤菊丸の初出が足利義氏元服式だったことと、後年氏照が義氏被官を指南した点、主にこの2点からだと思う。しかし、この論拠は充分な比定要件にはならないかも知れない。

岩付太田氏を巡って、源五郎と氏房が同一人物と思われていた理由が、岩付に入ったこと・氏政の息子だったことというお大雑把な共通点からの憶測でしかなく、史料の考察が進んだ昨今では、「氏房は当初より十郎を名乗り、一貫していること」「氏直(国王丸)・源五郎(国増丸)の他に菊王丸がおり、これが氏房に比定できること」から、源五郎と氏房は別人であるという比定に切り替わった。

以上から、座間郷・義氏の関係を氏照が濃厚に持ったとして、それは藤菊丸の後継位置に入っただけということであり、後世の系譜諸記録に幻惑されている可能性がある。

藤菊丸 = 賀永の検証

改めて史料を読んでみる。

後北条氏は、「菊寿丸=宗哲」「菊王丸=氏房」というように、幼名に「菊」を冠することがある。但し「藤菊丸」は「菊」の前に「藤」を戴いている点で特異である。藤原を称している氏族で関東において最も巨大な存在は上杉氏だ。氏康は、藤菊丸を関東管領の後継者にしようと考えていたのではないか。であるなら、義氏元服式に後北条の跡取りを入れず、藤菊丸だけを出席させたのは、公方の梅千代王丸に管領の藤菊丸を配するという構想があったからではないか。

藤菊丸が上杉を継承した場合に、それを「大石」として補助する予定で、源三氏照・左馬助憲秀が控えていたのかも知れない。でなければこの2人が「大石」を称した理由が判らなくなる。

ところが、藤菊丸はそのまま姿を消す。

そしてその年の10月、駿府を訪れた山科言継は北条氏康次男「賀永」という少年と出会う。氏康次男という出自や年齢からこの2人が同一人物であるのはほぼ確実だと思う。

それにしても、氏康はなぜ急に方針転換したのだろうか。

1556(弘治2)年1~4月、氏康は東への外征が顕著で、同じく今川義元も西に進んでいた。義元の息子である氏真は既に氏康の娘婿ではあったが、氏康が織田信秀に書いたように「近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候」という状況もあり、氏康はそちらの関係強化を狙ったのではないか。

その背景には、氏康の身内である晴氏室(芳春院)すら動向が定かではない古河公方周辺に対して「しばらくほとぼりを冷まそう」という狙いもあったかも知れない。ただ何れにせよ「急遽今川に渡す」という背景は史料から直接読み取れないから、ここはもっと論拠がほしいところ。

藤菊丸が消えた後、永禄4年に「大石左馬助」として名が出た憲秀はやがて松田に復するが、氏照は大石名乗りを続け、藤菊丸が治める予定だった座間領も統治する。もしかすると、氏照固有の「如意成就」の朱印も当初は藤菊丸に用意されていたのかも知れない。

賀永 = 氏規の検証

言継卿記で登場する賀永は「ガイエイ」とも呼ばれ、音読みであることが確定している。彼は北条氏康次男と書かれているから、氏規・氏照・氏邦のうちの誰かだろうと判る(氏政は既に元服しているため)。この3人の弘治2~3年の動向は不明だが、年未詳の今川義元書状で「手習いをしないと、小田原の兄弟衆に負けてしまうぞ」という文面が「助五郎」宛てに出されている点、助五郎は氏規の仮名である点から、賀永と助五郎、氏規は同一人物であると断定可能だと思う。

音読み「賀永」という名が何を意味していたかは不明。和歌を詠む際の号か何かを、寿桂が殊更呼んでいたのかも知れない。

藤菊丸 = 賀永 = 氏規と仮定しての年齢確認

氏規が系譜にある1545(天文14)年生まれだと一旦仮定して、藤菊丸、賀永の記録と突き合わせてみる。

  • 11歳 弘治元年11月23日 北条藤菊丸氏康二男(鎌倉公方御社参記次第)
  • 12歳 弘治2年5月2日 大旦那北条藤菊丸(座間鈴鹿明神棟札)
  • 12歳 弘治2年10月2日 大方の孫相州北条次男也(言継卿記)
  • 12歳 弘治2年12月18日 伊豆之若子祝言(言継卿記)
  • 19歳 永禄6年5月 北条助五郎氏規、氏康次男(永禄六年諸役人附)

上記から、同一人物であっても時系列上問題はない。

本来であれば、初出の文書がいつかによって更に裏付けを得たいところだが、氏規の初出発給文書は意外と遅く、1565(永禄8)年1月28日に21歳で朱印状、1577(天正5)年4月17日に33歳で「左馬助氏規」を出していて元服時期の参考にならない。これは駿河にいた時期に後北条分国から切り離されていた可能性を窺わせる。因縁のある松田憲秀も初出はかなり遅いので、当主以外の政権中枢は発給時期が極めて遅い可能性がある。

氏規の息子である氏盛も1589(天正17)年12月に氏直から「氏」を貰って元服したとみられ、家譜の生年1577(天正5)年が正しいとするなら、13歳の年末に元服している。

4兄弟の生年を検討

12~13歳の年末に元服という前提で他の兄弟の生年を検討してみる。

氏政

系譜では天文7年生まれとされるが、同時代史料の『顕如上人貝塚御座所日記』見返しにある年齢から逆算すると天文10年生まれという仮説が妥当だろう。

氏政は天文23年6月以前には元服して「新九郎氏政」となっている(同年12月に婚姻)。

元服が天文22年12月と考えれば、天文10年説では13歳で不自然なところはない。一方で、系譜類の天文7年説では17歳となってしまい、結構遅い印象がある。

氏邦

天文13年という仮説が浅倉直美氏によって出されている。但し氏邦の場合、越後勢乱入の最中に対応を強いられたという経緯があり、ここからの検討も必要だと思う。

永禄4年9月8日~5年10月10日まで「乙千代」名で花押を据える。幼名で花押を据えている珍しい例。元服して仮名を持ちながらも手習いをしていた喜平次・助五郎との比較も必要かも知れない。

1544(天文13)年生まれであれば、1561(永禄4)年では18歳となり元服していないのは奇妙だ。

その後の1564(永禄7)年正月に「氏邦」を名乗り、この年の6月18日には朱印状を発給しているから、1563(永禄6)年12月に元服したと考えると自然だ。氏規・氏盛の例に当てはめると1551~1552(天文20~21)年となる。

もう少し遡るならば、1560(永禄3)年12月に13歳で元服予定だったとすると、1548(天文17)年生まれとなる。

氏照

生年は3説ある。

天文9年(寛政譜)・天文10年(小田原編年録)・天文11年(宗閑寺記録)

ただ、前の2説では氏政より年長になってしまうし、何れも後年の編著でしかない。『北条氏康の子供たち』で黒田基樹氏が、氏政・氏直の生年を記載した同時代史料『顕如上人貝塚御座所日記』を紹介しながら、他の一族の生年と合わなくなると、一旦戻したのもこの点が要因になっている。

とりあえず、専門家ではないので野蛮に切り進んでいくこととする。

初出発給文書から、氏邦と同様の手法で追ってみる。

  • 永禄2年11月10日付けで朱印状「如意成就」奉者:布施・横地
  • 永禄4年3月3日付けで判物「大石源三氏照」

文書の残存状況が不明だから、念のため1558(永禄元)年12月に13歳で元服、その後手習いをしつつ1561(永禄4)年には16歳で自著・花押を据えたと想定してみる。

他の史料とも整合されるし、氏邦の生年比定とも揃えられる。この場合、氏照の生年は1546(天文15)年となる。

まとめ

生年を整理してみよう。氏規も13歳元服だったと統一して考えてみる。

  • 氏政 1541(天文10)年
  • 氏規 1544(天文13)年
  • 氏照 1546(天文15)年
  • 氏邦 1548(天文17)年

この年齢差を見てから、今川義元が助五郎の宛てた有名な書状を読んでみると、「兄弟衆様躰長敷御入」が異なって感じられて面白い。

  • 戦国遺文今川氏編1532「今川義元書状」(喜連川文書)

猶ゝ文御うれしく候、あかり候、いよゝゝ手習あるへく候、二三日のうち爰を立候へく候間、廿日此は参候へく候、かミへも此由御ことつて申候、何事も見参にて可申候、かしく、 文給候、珍敷見まいらせ候、此間小田原にてみなゝゝいつれも見参申候、けなりけに御入候、可御安心候、それのうはさ申候、春ハ御出候ハん由候間、万御たしなミ候へく候、いつれも兄弟衆様躰長敷御入候、見かきられてハさんゝゝの事にてあるへく候、
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:助五郎殿 御返事 義元)

お手紙いただきました。珍しくて見せて回りました。今回は小田原のみなさん全員とお会いしました。お元気そうですから、ご安心下さい。あなたの噂をしました。春にはお出でになるそうですから、何でも頑張っておかないといけません。どの兄弟衆も大人っぽく見えました。見限られてしまっては、散々な目に会うでしょう。
さらにさらに、お手紙嬉しいです。上手になりました。どんどん手習いなさいますように。2~3日のうちにここを立ちますから、20日ころにいらっしゃい。『かみ』にも、このことを伝えてあります。いろいろと会ってお話しましょう。かしこ。