2022/11/11(金)相模朝倉氏の概要

相模に登場した朝倉氏

相模にいた朝倉氏については過去に駿河・伊豆・相模にいた朝倉氏で一度考察を試みたことがあるが、今回為昌や綱成を巡ってあれこれ試案を深めた結果として、もう少し細かく見られるようになったので追加で考察してみた。

朝倉右京による香林寺寄進

まず最初に見られるのが、朝倉右京が1531(享禄4)年に曹洞宗香林寺に宛てて「祖父の古播磨の通りに」と出している寄進状。

  • 戦国遺文後北条氏編0098「朝倉右京寄進書立写」(相州文書所収足柄下郡香林寺文書)

    香林寺開山以来祖父古播磨代寄進申分。拾貫文、西谷畠、大窪分。壱貫弐百文、南面田、同分施餓鬼免。弐貫四百文、織殿小路、同分本尊仏供免。壱貫弐百文、城下屋敷一間、古播磨同霊供。以上拾四貫文八百文。右、前ゝ寄進分書立、進之候、仍如件、
    辛卯十二月五日/朝倉右京(花押)/香林寺御納所

香林寺の本寺である海蔵寺は越前朝倉氏と親交があった(神奈川県史資料編3下7961)。恐らくこの繋がりは播磨守の寄進に影響があっただろう。

播磨守は右京の祖父だから、1484(文明16)年といわれる香林寺創建に関わっていた可能性も高い。そして、文明年間に小田原と関わりがあったとなると、この時期西相模に侵入してきた足利政知(堀越公方)の指揮下にあったのだろう。1462(寛正3)年に政知は松田左衛門尉の領地を鶴岡八幡宮に寄進している(鎌倉市史資料編1_096)。このことから見ても、伊豆の政知被官が相模西郡に関与していたとするのは妥当だろう。

江の島遷宮での寄進

次に朝倉氏が出てくるのが、初見から12年後の1544(天文13)年。江の島遷宮に際しての寄進一覧内に名前が見える(小田原市郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p35)。朝倉は弥四郎・藤四郎・孫左衛門尉が、福島・桑原・松田と並んで名を連ねており、後北条被官としての地位を確実に得ていることが判るほか、花木隠居も参加している。

長文のため本文掲載は省くが、朝倉氏が最も集中して見られるのがこの文書となっている。

駿河朝倉氏の登場

駿河安倍川上流にある長津俣で領主となる

江の島で相模朝倉が勢ぞろいした4年後、今川義元判物写で駿河国に朝倉氏が現われる。義元が長津俣を浦田又三郎に与えたところ、その翌年、借金で困窮した又三郎が、朝倉弥三郎に売却してしまったという。それを聞いた義元が証文の旨を追認して弥三郎の知行を安堵した。

  • 戦国遺文今川氏編0881「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

    駿河国中河内長津俣五ヶ村預職之事。右、去年補任于浦田又三郎之処、借物過分之条、依困窮売渡于朝倉弥三郎云々、然者、任証文之旨、彼職如先例可取沙汰之旨、所令領掌如件、
    天文十七十一月廿四日/治部大輔(花押影)/朝倉弥三郎殿

義元からすれば、浦田又三郎が宛て行なったその翌年に借金でいきなりいなくなって朝倉弥三郎という男に名義が代わっていたという形になる。そしてまた、これ以降で朝倉弥三郎・六郎右衛門は長津俣領主として登場するものの、一領主に過ぎず今川家中で活躍した訳ではない。駿河朝倉氏は異物としての扱いが近いように見える。

駿河朝倉氏は弥三郎から六郎右衛門尉に知行を受け継いているが、永禄3年の今川氏真書状(戦国遺文今川氏編1618)では、尊俣などの領地より「従前々在陣之時之金堀夫丸壱人之事=以前から在陣の時に金堀の作業員1名を提供すること」が明記されている。これは朝倉氏の支配する領域に金鉱があったことを示していて、同文書では「他者から領地を奪うための訴訟があるが気にしなくてよい」と氏真が恩着せがましく書き連ねていて、領地を狙う者が多かったと思われる。

朝倉氏は、さらに永禄6年になると以下の13ヶ村に領域が拡充されている(戦国遺文今川氏編1918)。

  • 村又村、坂本、長津又、柿島
  • 池谷、大淵、横沢、大沢
  • 腰越、内匠村、平瀬、落合
  • 萓間

上記のように、駿河朝倉氏は安倍川上流で金鉱を掌握して資本を拡張していた。この一族は永禄12年の今川家撤退後も生き残り、武田晴信から同地を保証されている(今川方として最後に一揆を率いたり、武田方では小山籠城戦に参加するなどして、この頃は例外的に武功を挙げている)。武田氏滅亡後は徳川氏につき、中村氏を経て再び徳川氏に所属して材木奉行に任じられた後に旗本になっている。

『後北条氏家臣団辞典』では、寛政譜の記述を受けて「今川氏を経由して後北条被官となった」と説明されている。しかし、このように同時代史料を見ていくと、駿河朝倉氏はどうも資本家の雰囲気があるし、相模朝倉氏より後で確立されている。相模・伊豆辺りから経済圏を安倍川上流にまで広げていく中で、拠点を得たという感じだろう。

相模朝倉氏の出自と浄土宗

駿河で時系列が下ってしまったが、一旦相模で話を戻す。朝倉氏の出自を探る上で最も重要な史料が登場する。

伊豆の住人だった朝倉一族

像がある大長寺は浄土宗で、胎内銘にある安養院住持から名越派であろうと思われる。為昌が支援した鎌倉光明寺は白旗派なので、ここに齟齬がある。名越派は越前にも教線を伸ばしているから、越前朝倉本家との関係もあるかもしれない。

  • 戦国遺文後北条氏編0355「朝倉氏像銘」(大長寺所蔵)

    「胎内腹部」

    造化御影像之事
    右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉息女、北条九郎之御前、御子ニハ北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、
    「胎内背部」
    并奉寄進拾二貫文日牌銭、法名養勝院殿華江理忠大姉相州小坂郡鎌倉名越、安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚、仏所上総法眼、使者大河法名善信、謹言、敬白
    于時天文拾八年己酉九月十八日

この鎌倉大長寺は浄土宗で、鎌倉名越の安養院もまた浄土宗。当初は曹洞宗だったと思われる朝倉氏だが、天文18年には既に改宗しており、娘が木像を使って自らの生前供養をするようになっていた。

また、この胎内銘では、為昌妻を伊豆住人としている。既に見たように朝倉播磨守が文明年間には小田原に勢力を持っていたとするなら、足利政知の入部に伴って伊豆入りしたという堀越公方官僚出自説が更に補強される。1549(天文18)年当時に「衰老」となったとするなら、40歳の初老初年だと考えても、彼女の生年は1499(明応8)年以前だろう。

良心寺の創建

天正に入ると朝倉能登守が、横須賀の良心寺を創建して浄土宗に深く帰依する。

  • 戦国遺文後北条氏編1790「朝倉景隆寄進状写」(相州文書所収三浦郡良心寺文書)1575(天正3)年比定

    われゝゝこおもち申さぬゆへ、ミなたにんにいへをいたし候、しかるニきんねんはしりめくり候ゆへ、上いも御かいほう候、しかしなから、こせのためにハ、いつれもまかりならす候間、小寺をとりたて候、右馬助ハにやいに、ちりやうつけをき候、これもなお、かさね申へく候、われゝゝハ、大もりにて、二くわん、とうねんいのとしよりきしん申候、これも又、かさね申へく候、もし両人のことも、われらしに候のち、いらん申候ハゝ、このせうもんを 上いへさし上られ、御わひ事あるへく候、このきミらくちやくニなされ候ハゝ、てらハたいてん申へく候、さやうニ候てハ、きんねんわれゝゝはしりめくりハ、なに事もむた事たるへく候、このところさへけんこに候へハ、へつにわれゝゝのそミなく候、そのため一さつしんちをき候、以上、
    いの六月廿六日/朝倉能登守(花押)/りやうしん寺へ参

  • 解釈

    私達には子がいないので、全て他人に家を継がせています。そうしたところ、近年は活躍したので上の覚えもめでたくなりました。とはいえこの栄達が後生のためにはなりませんから、小さな寺を取り立てて、右馬助が相応の寺領をお渡しします。これも更にご連絡します。私達は大森で2貫文、今年亥年より寄進します。これもまた、更にご連絡します。私が死んだあとに違乱があったなら、この証文を上へ差し上げて陳情するように。このことが落着しなければ寺は退去するでしょう。そのなっては、近年の私達の活躍は全て無駄になってしまいます。この地所が堅固に寄進されているなら、私達に他の望みはありません。そのために、一筆ご進呈いたします。

「子がいない」と明言している一方で「右馬助が寺領を渡すだろう」と書いているので、右馬助は能登守の弟か甥ぐらいの近親者で、彼にも子がないものの、死去は能登守よりは後だろうという見込みで文章を構成している。

能登守の寄進から8年後、能登守の意図通りになり、右馬助は良心寺へ更に寄進を行なっている。この寺には「大旦主、大慈院殿法誉良心大姉 朝倉能登守奥、天正十一年六月十日」との墓碑銘があるという(家臣団辞典・朝倉景隆の項目)。恐らく、能登守の妻が亡くなった翌日に改めて寄進を行なったのだろう。

  • 戦国遺文後北条氏編2548「朝倉右馬助寄進状写」(相州文書所収三浦郡良心寺文書) 1583(天正11)年比定

    能登守為後世、小寺家を被致建立候、依之拙者も其旨存候而、知行之内浦之郷ニ而、御堪忍分五貫五百八十文之処、寄進申候、但五百文者、寺屋敷候、於能登以後も、為違乱有間敷、如此候、仍如件、
    未六月十一日/朝倉右馬助(花押)/良心寺へ参

  • 解釈

    能登守は後生のため、小さな寺を建立されました。これにより拙者もその旨を知って、知行のうち浦郷にて御堪忍分5.58貫文の地所を寄進します。但し500文は寺屋敷となります。能登守以後になっても違乱がないように。

所領役帳の朝倉氏

御馬廻衆に3人、玉縄衆と江戸衆でそれぞれ1人が見られる。知行規模でいうと、右馬助が本家筋で平次郎が分家の有力者、右京進は氏康側近として配属されたという感じだろう。

御馬廻衆

一、朝倉右京進 (43貫815文)
廿壱貫文、豆州、鎌田
廿弐貫八百拾五文、西郡、大窪分
以上四拾四貫八百拾五文

一、卅弐貫文、西郡、佐須分、朝倉孫左衛門 (22貫文)

一、百三拾六貫七百三拾四文、久良岐郡、太田郷、朝倉又四郎 (136貫734文)
此内拾六貫七百卅四文、癸卯増分
以上

玉縄衆

一、朝倉右馬助 (299貫340文)
買得、百弐拾貫文、三浦、浦郷
卅弐貫三百四拾文、同所辰増
七拾弐貫文、豆州、玉川
以上弐百弐拾四貫三百四拾文
此内
百九拾貫文、自前々致来知行役辻
残而
卅四貫文三百四拾文、従昔除役間可為其分、人衆着到出銭者可懸高辻、但浦郷辰増分者重而惣検地上役可被仰付者也
此外
五拾貫文、上総、篠塚
廿五貫文、同、杉谷村
以上七拾五貫文、役惣次重而可被仰付

江戸衆

一、朝倉平次郎 (235貫900文)百弐拾九貫五百五拾文、豆州、梅名内
此外五拾貫八百文、花木隠居永代買得依之役左衛門太夫殿勤之
五拾六貫三百五拾文、葛西、木毛川
此半役二拾八貫百七拾五文
以上百八拾五貫九百文
此内
百廿八貫百七拾五文、知行役、但木毛川半役共
五拾貫文、御蔵出、此内拾五貫文引銭
以上

武士としての功績

合戦に関わった文書として下記2通が挙げられる。前者では下総原氏への使者を務め、後者では間宮康俊と共に佐竹方の監視役となっている。どちらも直接的な戦功を挙げたものではない。

  • 小田原市史資料編小田原北条0352「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)1556(弘治2)年比定

    動之様体如何、無心元候、昼夜辛労、令識察候、仍柳一荷進候、猶朝倉遠江守可申候、恐ゝ謹言、
    三月廿六日/氏康(花押)/宛所欠

  • 戦国遺文後北条氏編1947「北条氏政書状写」(武家事紀三十三)1577(天正5)年比定

    佐竹動之由候処、于今是非之無註進候、如何程進候処、油断之様候、箇様之砌者、其元弥万端遣念肝要候、当表之事者、勝海へ押詰候処、様ゝ悃望候、三日之内可為落著候、謹言、
    九月廿二日/氏政/間宮豊前守殿・朝倉能登守殿

伝肇寺の移設

後北条氏が中央政局に巻き込まれ臨戦態勢が一段と強化される1584(天正12)年になると、城郭の整備が大々的に行なわれるようになる。その一環として、城下の伝肇寺の立ち退きが検討される。

  • 埼玉県史料叢書12_0707「北条家虎朱印状」(伝肇寺文書)

    奥州屋敷構要害之内へ不入而雖不叶地形候、寺内可鑿事無心ニ候ニ付而、先打過候、此度火事出来与云、とても不鑿不叶地与云、此節申付候、堀よりも内之分之地形、何間も候へ、於他所所望次第、可渡置候、扨又堀よりも其寺之方者、勿論可為随意間、如此間在寺尤候、堀端三尺置、木を成共、藪を成共植、寺をかこわるへく候、仍如件、
    三月三日/日付に(虎朱印)/伝肇寺(上書:伝肇寺 天正十二年申甲三月三日御印判也)

  • 解釈

    北条陸奥守氏照屋敷は防御設備内へ入れなくてはならない地形です。寺地を削ることになるので、まず見合わせていました。今回火事があったといいます。とても削れる土地ではありませんが、今回はご指示がありました。堀から内側になる地形の代替として、どんな面積であっても望みの通りにお渡ししましょう。さてまた、堀よりもそちらの寺の土地は勿論ご随意なのですから、以前通り寺を保っても問題ありません。堀端3尺を置いて、木でも藪でも植えて寺を囲われますように。

全く同様の措置として常勝寺も土地の割譲を求められているから、かなり大規模な工事だったのだろう。その2年後に、伝肇寺は朝倉右京進との間で土地売買の訴訟を起こしている。伝肇寺は浄土宗で朝倉氏は熱心な宗徒だったから、右京進が自らの知行を売って代替地を用意しようとしたのだろう。

  • 小田原市史資料編小田原北条1814「北条家虎朱印状」(小田原市・伝肇寺所蔵)

    伝肇寺就訴状、朝倉右京進以論書遂糺決畢、然而右京進知行之内為寺屋敷買得、彼改替遅ゝニ付而、以利米可請取旨雖申、証文無之上者、右京進申所不可有之旨、依仰状如件、
    天正十五年丁亥卯月廿八日/日付に(虎朱印)評定衆上野介康定/伝肇寺

  • 解釈

    伝肇寺の訴状について。朝倉右京進が反訴状を出したので決裁しました。さて右京進の知行の一部を寺屋敷のためとして買得しました。ところがその履行が遅かったために、右京進は利息となる米を受け取りたいとの旨でしたが、証文がなかったので、この申出は不可となりました。

しかし、ここで右京進は「土地を売ったのに決済が遅れている。だからその期間の利息を払え」と伝肇寺に迫ったようだ。そこで寺は後北条氏に訴え出で評定衆の裁許となる。結果としては、売買証文の不備によって右京進の敗訴となった。そこで改めて両者で売買証文が作られる。

拙者私領大窪分之内八貫百文之所、東ハ山角上野介方藪際、西者山中大炊助方藪際、北者新堀はたを限、南者井神之森際、但古道を限而東之分、無年貢、永代売渡申候、於後年棟別・諸公事等不可有之候、然者右之替代、如大法六増倍之積、兵粮雖百六拾弐俵候、江雪斎御指引ニ付而、弐貫弐百五十文之兵粮指置、残所無未進請取申者也、仍後日状如件、
丁亥六月二日/朝倉右京進(花押)/伝肇寺参

  • 戦国遺文後北条氏編3110「朝倉政元証文写」(相州文書所収足柄下郡伝肇寺文書)
  • 解釈

    私の領地大窪分のうち、8貫100文の地所。東は山角上野介方の藪際、西は山中大炊介方の藪際、北は新堀までを限り、南は井神神社の森際(但し古道から東の分)。年貢もなく、永代売り渡し申ます。後年において棟別・諸税があってはなりません。ですから右の代替として、大法にあるように六倍増額して、兵粮162俵となりますが、江雪斎のご提案があったので、2貫150文の兵粮で決定。残額なく全て受領しました。

仲介として板部岡融成が入り、買得金額の受領も完了している。そして、更に翌年の上期〆となる6月末で、寺地の免税が最終的に確認された。

  • 小田原市史資料編小田原北条1903「北条家虎朱印状」(伝肇寺所蔵)

    伝肇寺新地屋敷之儀、朝倉右京進知行之内、永代買得不可有相違、諸役令免許候、猶横合非分之族有之者、可有披露者也、仍如件、
    天正十六年戊子六月廿一日/日付に(虎朱印)宗悦奉之/伝肇寺

  • 解釈

    伝肇寺の新地屋敷の件。朝倉右京進知行の内、永代買得したのは相違ありません。諸税は免除します。なお、横から異議を唱える者がいれば報告して下さい。

ここで興味深いのは、浄土宗徒だから伝肇寺移転で助力したものの、寺の決済遅れに異議を唱え利息取り立てに及んだ右京進の行動である。信仰心は持っているものの、金銭に関してはきっちりしている側面が窺われる。

相模朝倉氏のまとめ

相模朝倉氏は熱心な浄土宗信者である一方で、資本家としての性格が強く出ているといえる。むしろ、経済活動に利があるからこそ浄土宗を支援した面の方が大きいのかもしれない。

戦闘に直接参加した形跡はなく、経済系の文官だったのは確実だろう。これは借財を契機に駿河国内に領地を得た駿河朝倉氏とも通ずるものがあり、相模から伊豆へ分派した流れが想起される。

こうした性格は、伊豆堀越公方についてきて土着した流れと関係があるかもしれない。鎌倉にも伊豆にも財源を持たないまま赴任してしまった足利政知は行動が著しく制限され、政知被官達による押領が頻発していた。そういった中で頭角を表した朝倉氏が、資本の収奪と運営能力に長けていたのだろう。

後世編著で当てにはならないが、天正17年末に羽柴秀吉と外交が決裂し開戦不可避になった際に、北条氏勝ともども伊豆山中城への籠城を命じられた朝倉能登守は、以下のように毒を吐く。

  • 小田原北条記・関八州古戦録・改正三河後風土記

    「今度の一挙当家運の究ける処歟、山中の白は旧臘より修営ありといへ雖踈々にして全からす。大軍の囲を請てやわか久敷は持タるへしとは覚へす。然るを屋形御思案なく爪牙の功臣四人迄被差置ラルル事は可惜一命を無下に棄損せらるゝ者也」

この態度は独特のもので、開戦準備で不服を唱えて氏政に叱られた氏規を想起させる。氏規は海運と外交関係を背景に独自の地位を保持していたと思われるが、朝倉能登守もまた異色の位置取りをしていた可能性が窺われる。

2022/11/06(日)花木隠居・花木殿・花之木の実体

後北条家中で花木隠居・花木殿・花之木という人物がいた。それぞれを連携して考証した例がなかったので、事例を並べつつ考えをまとめてみた。

花木・花之木の比定地

家臣団辞典では「花之木」の比定地を金子郷(埼玉県入間市花ノ木)に求めている。これは所領役帳に出てくる「花之木」の知行地に「金子郷」があり、比定地とされる入間市に「花ノ木」があるため。しかし、後述するように役帳の「花之木」が知行した金子郷は寄子のために特別給付されたもので、根本的な知行ではない。この比定は可能性が低いだろう。

次に目につくのが、室町後期に名が出てくる「花之木」(神奈川県横浜市南区花之木町)。ここに因んだ名乗りである可能性もなくはない。

ただ、花木殿の所在地は高室院月牌帳で小田原となっており、関連するだろう花木隠居もまた小田原花ノ木にいたことはほぼ確実だろうと思われる。また、役帳の「花之木」も後述するように知行地が直轄領から拠出されている小田原衆であり、小田原花之木に起居したことからの呼称と見てよいだろう。

上記より、花木・花之木は小田原市浜町2丁目近辺(蓮上院・新玉小学校近く)と見られる。

養勝院殿とは何者か?

ここでまず、北条為昌妻、もしくは綱成母と言われる養勝院殿の実態を検証・確認してみる。「花木殿」が北条綱成室であるため、姑に当たる彼女の存在をまず前提におく必要があるためだ。

鎌倉大長寺には木像があり、その胎内銘にその名が残されている。

  • 戦国遺文後北条氏編0355「朝倉氏像銘」(大長寺所蔵)

「胎内腹部」

造化御影像之事右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉、息女北条九郎之御前、御子ニハ北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、
「胎内背部」
并奉寄進拾二貫文日牌銭、法名養勝院殿華江理忠大姉相州小坂郡鎌倉名越、安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚、仏所上総法眼、使者大河法名善信、謹言、敬白于時天文拾八年己酉九月十八日

  • 解釈

奉る。御影像を造化すること。この施主は故郷伊豆国の住人で朝倉名字の息女。北条九郎の御前で、お子には左衛門大夫綱成・同刑部少輔綱房・松田尾張守の妻がいる。老衰となったので菩提心を発して木像を彫刻した。並びに、12貫文の日牌銭を寄進奉る。法名は「養勝院殿華江理忠大姉」。相模国小坂郡鎌倉名越の安養院住持16代「高蓮社山誉大和尚」・仏師は上総法眼(後藤宗琢)・使者は大河(法名:善信)。

この銘の解釈では当初、北条九郎を彦九郎為昌と比定し、その養子に綱成・綱房・盛秀妻がいたとしていた。しかし当時の養子記載は男系に限られるため、盛秀妻を記載しているのは実子関係を記述したのだろうということで、北条九郎・養勝院は綱成の実親であり、為昌とは無関係という仮説も出てきた(では「北条九郎」は誰かというと、この説は不明とされている)。

しかしこれは、前記事『北条氏時・為昌の出自』で考察したように、福島為昌が北条家に養子入りしてその息子が綱成だとすれば、北条九郎は為昌ということですっきりと繋がる。以下、これを前提にして論を進める。

花木隠居

「隠居」としての記録

「隠居」という扱いで所領役帳に登場するのはこの人物だけなので、かなり特殊な存在。

  • 登場部分1 玉縄衆 左衛門大夫殿(北条綱成)内の項目

買得、百貫文、梅名内、元朝倉平次郎知行、但隠居買得

  • 登場部分2 玉縄衆 花木隠居の項目

一、買得、九拾貫文、東郡、津村内、花木隠居

  • 登場部分3 江戸衆 朝倉平次郎の項目

百弐拾九貫五百五拾文、豆州、梅名内
此外五拾貫八百文、花木隠居永代買得依之役左衛門太夫殿勤之

北条綱成・朝倉平次郎の各項目で「役の負担は綱成」とあるので、花木隠居本人名義とされる相模東郡津村内の90貫文(これも買得)もまた、恐らく綱成の役負担だったと思われる。役を負担できない点から女性と見られ、玉縄北条氏と朝倉氏を繋ぐ人物であるから養勝院殿が想起される。なおかつ役帳で隠居となっている点から見ても、為昌死後の養勝院殿が該当する。

そして、こちらもまた花木隠居と同一人物と思われるが、1544(天文13)年、江の島弁天遷宮での寄進で、松田殿、朝倉藤四郎殿名義で絹2疋を、孫九郎殿、朝倉弥四郎殿名義で小袖1重を、それぞれ「ゐんきよ」が提供している(小田原北条氏文書補遺p35)。

念のため調べてみたが、女性が「隠居」を称するのはごく僅かだが他例もある。「妙春尼書状写」で妙春尼は自署で「いんきよ」と書いている(愛知県史資料編12_525・上宮寺文書)。また、「北条氏康書状」で氏康は東慶寺住持の松岡殿の引退を「御いんきよあるへきにつゐて」と記している(戦国遺文後北条氏編1541・東慶寺文書)。

所領役帳に載っている女性

花木隠居の状況を確認するため、女性で役帳に載っている例を次に挙げてみる。

新五郎娘

小机衆にいる彼女に与えられた30貫文の知行(伊豆・田代)は、同族と見られる笠原弥十郎が負担している。

赤沢千寿の母

江戸衆で江戸高田内に15貫文を与えられている「赤沢千寿」は、千寿が成人するまでは後家が差配し、その間は役を免除されている。

北条宗哲の妻

北条宗哲の知行一覧内に「御新造様知行分」310貫文がある(白根内箱根分、戸田分、太平)。こちらの役は宗哲が代行して負担しているので、花木隠居と同じ方式。

有滝某の母

諸足軽衆にいる「有滝母」は10貫960文の知行(江戸、安方分)を与えられ、こちらは役を負担しているようだ。

有滝氏は当主の死で領地が解体されたようで、31貫文(小机、一宮)を御馬廻衆の関兵部丞が、56貫581文(江戸、小石川本所方)を江戸衆の桜井某が、それぞれ有滝氏から買得している。また、1566(永禄9)年8月20日には江戸城の有滝屋敷を豊前山城守に与える旨の虎朱印状が存在する(小田原市史資料編小田原北条651)。

つまり、解体過程にあった有滝知行地の残存部がその母名義で残っていた。諸足軽衆に配属されたのは、残存兵員の有効活用を図ったのだろう。諸足軽衆には、他の衆に所属する兵員も給田を与えられて集められているので、都合がよかったものと思われる。

以上を考えると、有滝母が例外措置で、赤沢後家のように後継者が立つまで無役とするか、宗哲妻・花木隠居のように代行者が役を負担するかの方法で男性当主不在に対応していたものと思われる。

まとめ

花木隠居は1544(天文13)年には既に「隠居」しており、1559(永禄2)年の所領役帳作成時までは存命だった。土地買収を繰り返した形跡があり、江の島への寄進でも子供たちを支援している。彼女は資産家だった可能性が高い。

花木殿

高室院月牌帳に出てきた「北条上総御内方」

寒川町史にある高野山高室院月牌帳に出てくる「北条上総殿御内方花木殿」は、綱成の妻と見てよい。1587(天正15)年11月21日に「春誉馨林禅定尼」の戒名で逆修(生前供養)を行なっている。

一方で通説の綱成妻は、新編相模国風土記により「大頂院殿光誉耀雲大姉」の戒名で1558(永禄元)年9月10日に死去しているという。

両方を合わせて考えるならば、大頂院殿が亡くなったのちに花木殿が後妻となったのかとも見えるが、高室院月牌帳を見るとその可能性は低そうだ。

まず同書での「花木」を追ってみると7件出てくる。

 項番   戒名    補記   地名   人名   取次   日付 
49 真哲恵玉 相模国西郡小田原 花木兵部卿立 1551(天文20)年3月22日
603 妙慶 相模国西郡小田原・花木 宗賢寺 ■■ 1585(天正13)年
767 光数禅定尼 相模国西郡小田原 花木小相宰 1587(天正15)年2月5日
768 理栄 相模国西郡小田原 花木小宰相母 1587(天正15)年2月5日
783 月窓宗光 順修 相模国西郡小田原 花木殿女房衆 玄仙坊 1587(天正15)年5月13日
780 春誉馨林禅定尼 逆修 相模国西郡小田原 北条上総殿御内方花木殿御自分 玄仙坊 1587(天正15)年11月21日
781 西来院殿 逆修 相模国西郡小田原 苅部殿内女 1587(天正15)年某月21日
782 正仏 逆修 相模国西郡久野 御前方宮内殿 玄仙坊 1587(天正15)年11月21日
860 栄覚春慶 逆修 相模国西郡小田原 花木■之内衆 徳蔵院 1589(天正17)年2月18日

「花木兵部卿」は恐らく、蓮上院関係の高位の僧侶だろう。官途名の「兵部卿」は武家では通常用いられず、出家者が兵部卿・民部卿・治部卿を用いた例がある。

「花木小宰相」とその母は、日付が同日なので恐らく逆修。取次の名がないので、死期が迫った綱成を前にして独自に逆修したのだろう(綱成死去は天正15年5月6日と伝わる)。禅定尼の位を持つ娘に添えられていることから、母の出自は低いと見られる。取次・日程が正室である花木殿と乖離しているため、綱成より年下の側室とその母親かもしれない。

これに比較して花木殿は二重に「殿」が用いられているほか、自らを指す「自分」に敬称が添えられ「御自分」となっている。「御自分」を使われているのは彼女と「山木様」にだけ(同書中他の19例は全て「自分」)。この待遇から考えると北条氏綱娘である山木大方と並ぶ存在。

加えて、花木殿には女房衆・内衆を抱えていたほか、氏光妻の侍女と見られる「苅部殿内女」が花木殿と同日で逆修をしている。更に取次「玄仙坊」を同じくする「御前方宮内殿」は、氏隆妻の侍女と思われる。

まとめ

これらから推測すると「花木殿」は綱成に嫁したと言われる氏綱娘本人であるといえる。綱成の妻には他に「花木小宰相」がいたようだ。

また、通説では綱成妻とされる大頂院殿は時期から見て為昌の母か姉ではないか。為昌没後も丁重に扱われていることから、為昌母(綱成祖母)という可能性が若干高いように思う。

花之木

小田原衆の謎の人物

所領役帳に登場するこの人物は、小田原衆にいた比較的大規模な被官であるにも関わらず、その後の動向が全く不明。であれば、謎の人物が混ざり込んだというよりは、既知の人物が小田原花ノ木の地名を名乗っていたと考えるべきだろう。元服し、文書発給を始めていた有力被官の中で役帳に出てこないのは、北条氏秀、北条氏繁、吉良頼康。

このうちで武蔵吉良の頼康は可能性が低い。同氏は、後北条氏との度重なる婚姻関係にも関わらず、過去帳にも一切登場せず滅亡も共にしなかった。独立性が高いが故に役帳に出てこなくても不思議ではない。もし現われるとしても、小田原衆というのは奇妙で、御家中衆か江戸衆、もしくは他国衆だろう。

北条綱成の弟である氏秀も出てこないが、当時沼田康元と呼ばれていたこの人物は、対上杉の最前線である上野国沼田にいたので載せられなかったものと思われる。

消去法で候補に残るのは氏繁だが、もし氏繁だとするなら、当時は「善九郎康成」と名乗っていた彼が役帳にその名で載っていないのはなぜか。

「花之木」の正体

改めて「花之木」の知行地を見てみる。

一、花之木
百貫文、中郡、小磯
百拾貫文、同、恩名及川
百五拾貫文、東郡、一宮之内
四拾六貫文、西郡、下中村惣領分
以上四百六貫文
此外、三百八拾壱貫六百文、金子郷、寄子給

小磯は先頭にあって本知と思われるが、その由来は不明。高野山高室院月牌帳には170の地名が延べ600回記載されているが、そのうちで「小磯」は12件があり、それなりの人口規模とは思われる。ところが役帳で「小磯」が見られるのはここだけなので、役帳範囲外に存在したと思われる直轄領の可能性がありそうだ。

高室院月牌帳に載っている相模国の地名(延べ600、地名数179)から上位を抽出すると、小田原が圧倒的に多数を占めている。他は少なく見えるが、5回以下の地名が圧倒的多数なのでそれなりの規模の集落だったと思われる。

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恩名・及川は、1582(天正10)年8月27日に綱成が堀内七郎衛門に「中郡恩名之郷弐拾貫文」を与えている(戦北2406)から、玉縄北条家と関係が深い。

東郡一宮は後北条当主に近しい人物が分け合っている(小田原衆の花之木、御馬廻衆の山角四郎右衛門、河越衆の山中彦八郎、御家中衆の山中彦十郎・富塚善十郎)。これは、後北条直轄領を氏康が一時的に預けていた可能性が高い。寄子給として花之木に与えられた金子郷にしても、1561(永禄4)年4月2日には虎朱印状で金子大蔵丞にこの金子郷は返還されている。この迅速な対応は、直轄領として扱われていたからこそのものだろう。

下中村は一貫して本光寺領(為昌菩提寺)。下中村惣領分を見ると、花之木の名前の後に続く、渡辺左衛門と西右衛門へ50貫文ずつ与えられている。

これらをまとめると、直轄領からの支給が631貫600文、玉縄系が110貫文、本光寺系が46貫文となる。

ここまでくれば、役帳に出てくる花木隠居が想起される。花木隠居が為昌妻で綱成母(氏繁祖母)とすれば、氏繁が花ノ木にいたのは不自然ではないし、小田原衆に所属するのも、同衆の筆頭が松田憲秀で、氏繁から見れば従兄弟(父の姉妹が盛秀に嫁ぎ、盛秀の息子が憲秀)だから、あながち妙な話ではない。1560(永禄3)年以前の氏繁は下総国東庄にいた東修理亮と氏康との仲介をしていたのみで、玉縄在地は確認できない。むしろ、戦果報告に際して氏康と緊密に連絡を取り合っていたことから、氏繁が氏康に直属していたことが窺われる(北条氏繁の初期所属を参照のこと)。

氏繁が「花之木」と呼ばれることの特異性

上記をまとめると、氏康が氏繁を側近として育てる意図で、小田原内の居所を為昌妻と近い花ノ木として、綱成とは一旦切り離していたと考えるのが妥当だろう。

では他の一門のように名前で呼ばれなかったのはなぜなのだろうか。この時点で氏繁は官途を持っていないものの、宗哲嫡男は「三郎殿」と記されているから、「善九郎」という仮名で記載されるのが本来の姿。それをわざわざ地名表記にしている。

地名が表記されたのが判る例としては、他国衆での「油井領」と江戸衆での「本住寺領」がある。このほか「~跡」という当主不在な領地があり、御馬廻衆での「西原弥七跡」、江戸衆での「小野跡」「川村跡」が見られる(恐らく、これ以外にも領域名があると思うが名字と区別できないため未詳)。

北条から切り離された氏照の名が出ずに「油井領」とされていたことを考えると、「花之木」は花木隠居(祖母)・花木殿(母)の後継者としての氏繁を指していて、綱成とは分立した存在だった可能性も考えられる。しかしながら、氏繁は明確に綱成の嫡男であり、それも考えづらい。氏繁が次男ならば、笠原康明・遠山康光・垪和康忠のように分家筋を直参として取り立てた例は複数存在するが、その可能性も低い。やはり、綱成嫡男を分立した意図はどうにも判らない。

あれこれ考えてみるほどに、花木集団が後北条政権の中で異端児だったとしか考えようがない。

余談だが、名字だけしか記載されなかった例として、河越衆筆頭の「大道寺」がある。名字しか書かれていないものの、この人物が源六周勝なのは確実で、4人挟んで名が出てくる一族の大道寺弥三郎の項目では「源六拘=源六の所有」という語が3回も出てくる。周勝の名が禁忌という訳でもないのだが、大道寺氏の当主が、盛昌のあとは周勝・周資で不安定だった可能性がある。名字以外を書いてしまうと揉めるため、わざと避けたのだろうか。

2022/11/01(火)北条氏繁の初期所属先

北条氏繁の初期行動

北条氏繁は当初父の綱成に付随して行動していたと考えていたが、彼が最初に発した文書を見るとどうやら北条氏康に直属していたようだ。よくよく考えてみると、永禄3~4年に上杉方が大挙して関東に攻め込んだ際に、綱成は遠方にいて参戦できていないが、混乱の真っ最中である2月28日に氏繁は玉縄にいたことが判っている(戦国遺文後北条氏編665)。氏繁は3月4日に江の島、翌日には鶴岡八幡宮に禁制を発している(戦国遺文後北条氏編671/672)。

氏繁の最初の文書を読み解く

氏繁がどのような立場にあったかを考えてみるため、彼が最初に発した書状を追ってみよう。

1558(永禄元)年の6月21日に氏繁は東修理亮の戦功を賞している。下総方面で戦っている修理亮の戦功を、氏康に報告する役目を担っていたようだ。

北条氏繁が東修理亮の戦功を賞す

  • 戦国遺文後北条氏編0584「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定

    昨今之御高名、誠以御走廻之御心懸、感入外無他事候、弥以御頼も敷候、則小田原江具申上候間、定而可有御感候、子細期来可申候、恐ゝ謹言、
    六月廿一日/善九郎康成(花押)/東修理亮殿御宿所

  • 解釈

    昨今のご高名、本当にご活躍なさるお心がけで感じ入るほかありません。ますますもって頼もしいことです。すぐに小田原へ詳しくご報告しますから、きっと感状が来るでしょう。詳しくは返信が来たら申します。

北条氏繁が東修理亮の戦功を賞す

  • 戦国遺文後北条氏編0585「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定

    敵之伏兵出処、貴所物主御越、被押散、殊更自身御高名之由候、■何感入候、御走廻之旨趣昨今日、上意へ申上候、御褒美之御状重而可進之、恐ゝ謹言、
    六月廿一日/善九郎康成(花押)/東修理亮殿御貴所

  • 解釈

    敵の伏兵が出てきたところ、あなたが物主として出撃し押し散らし、ことさらに自身でご高名を挙げたとのこと。感じ入りました。ご活躍の趣旨は昨今上意へ申し上げました。ご褒美の書面を重ねて進呈するでしょう。

上記の2通はほぼ同じ意味合いのもので、なぜこれを同日に発行したかは謎ではある。しかし、まだ若年だったことや戦場の混乱を考えると、重ねて発した可能性も考えられなくはない。

これに対応して、氏康が修理亮に感状を与えている。氏繁からの報告とは書いていないものの、先の2通からそれは確実といえる。

北条氏康が東修理亮に感状を発し、太刀を与える。

  • 小田原市史資料編小田原北条0403「北条氏康感状写」(川辺氏旧記三)1558(弘治4/永禄元)年比定

    今度向其地敵相動候之処、両三度及戦、被走廻由候、高名之至感悦候、仍太刀一腰進之候、尚可抽忠儀事、可為肝要候、恐ゝ謹言、
    六月廿七日/氏康(花押)/東修理亮殿

  • 解釈

    今度その地へ向かって敵が動いたところ、3回戦闘となりご活躍されたとのこと。高名の至りで感悦しました。太刀一腰を進呈します。さらに忠義にぬきんでることが大切でしょう。

翌月になって氏繁が修理亮に書状を発し、今後の活躍を氏康も期待している旨を通達している。小田原の氏康との連絡を担当していた氏繁が、この日に感状と太刀を渡したのだろう。

北条氏繁が東修理亮に感状と太刀を渡し、今後の活躍を期待している旨を伝える。

  • 戦国遺文後北条氏編0589「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定

    先日御走廻段、具申上候処、今般御感状并御太刀一腰令進候、弥御加世儀候得候由、従貴所可申入旨候、子細民部丞口状候、恐ゝ謹言、
    壬六月七日/善九郎康成(花押)/東修理進殿へ人ゝ御中

  • 解釈

    先日ご活躍されたこと、詳しく申し上げたところ今回御感状と御太刀一腰を進呈なされます。ますますお稼ぎなされるよう、あなたより申し入れてほしいとのこと。詳細は民部丞の口上となります。

奇妙な綱成文書

ここで奇妙な文書が出てくる。氏繁が感状と太刀を渡したのと同じ日付で、氏繁の父である綱成が修理亮に書状を発している。明らかに要検討だが、内容をひとまず確認する。

北条綱成が東修理亮への感状と太刀を渡し、今後の活躍を期待する。

  • 戦国遺文後北条氏編0588「北条綱成書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定

    去月其口へ敵相動候処、両日御高名御粉骨之段、氏康不■事。満足之由候、因茲、感状并金覆輪太刀壱腰、為御証文、被進置候、於此上も、弥以抽而御走廻御心懸純一之由、被申事候、猶巨砕、木村民部之丞口上令附候、恐ゝ謹言、
    壬六月七日/右衛門大夫綱成(花押)/東修理亮殿御宿所

  • 解釈

    去る月その方面へ敵が動いたところ、両日でご高名と粉骨されたこと、氏康は大変ご満足とのこと。これにより、感状と金覆輪の太刀一腰、ご証文としてお渡しします。この上もますますぬきんでたご活躍を心がけて専心するとのこと、申されました。さらに巨細は木村民部丞の口上に付与しています。

まず人物名称がおかしい。本来「左衛門大夫」である綱成が「右衛門大夫」となっているのは筆写時の誤記とも考えられるが、氏康・氏繁氏繁書状にも出てくる使者「民部」を「木村民部之丞」としている。しかし、同年7月17日に正木弥五郎に宛てた氏康書状写では「諸軍油断有間敷旨、以中村民部丞申遣候」(市史338)とあり、「民部」は「中村民部丞」が正しい。また、与えられた感状・太刀を証文として渡すという文言は他に例がない。

氏繁・氏康の文書を元にして、氏繁がいたなら綱成もいたはずという見込みで後世作られた文書の可能性が高い。

上記より、氏繁は綱成と離れて、氏康直属で当初活動していたと考えられる。