2023/04/07(金)駿府にいた賀永の正体

賀永と氏規は別人か?

『言継卿記』に出てくる「賀永」は北条氏規と考えていたが、専門家から別人との仮説が出された。言われてみると「賀永=氏規」という記載はないから、検討が必要だろう。改めて記載を追ってみよう。

賀永関連記述の時系列

◎は寿桂(今川氏親の妻)と同伴している記載。※は参考用記載

  • ◎「大方之孫」10月2日

    湯山(伝聞):寿桂とその娘(中御門宣綱の妻)と共に湯治。「大方之孫、相州北条次男也」と説明している。

  • ◎「孫がいえい若子」10月28日

    寿桂宅:寿桂の他に賀永と上臈(冷泉)・奥殿(元上臈)・中臈頭(小宰相)が在宅している。

  • 「伊豆之若子」12月19日

    伝聞:賀永の祝言があったと言継が聞く。

  • ◎「伊豆之若子」12月23日

    寿桂宅:寿桂へ小鬼子を贈り、同時に賀永へも「矢、車字」を贈る。寿桂から「はつり一包、雉之羽十一具」を、賀永から「羽三具」を贈られる。

  • 「若子」12月24日 単独で言継を訪問

    言継宿所:昨日の大方・若子へ贈った小鬼子を取り寄せ、「木れん子」を「すけ薄」を置く。若子が来て「晩飡」を共にする。

  • 「伊豆之若子賀永」1月2日 単独で破魔矢を贈与

    賀永に依頼していた破魔矢が到着する。

  • ◎「若子賀永」1月3日

    寿桂宅:寿桂へ「薫物十貝」を、賀永へ「五貝」を贈る。三献があり賀永、奥殿・御黒木(言継の養母)が相伴する。

  • ◎「賀永」2月9日

    御黒木宅:十炷香を張行。参加者は御黒木・寿桂・言継・賀永・御まん・奥殿・山宰相・中将・小少将・賀永乳母・あこう・客人・あち・こち・城桶検校。

  • ※「中御門息之喝食」2月22日 再延期された浅間宮廿日会の桟敷で同席

    冷泉弟の子・各和式部少輔・牟礼備前守・朝比奈泰朝・蒲原元賢、由比光綱・光綱弟の十郎兵衛・神尾対馬入道・観世大夫が既に桟敷にいた面々。

  • ◎「賀永」2月29日

    言継宿所:甘利佐渡守が使者として来訪。寿桂から「黄金二両、島つむき三端、紙一束」、賀永から「段子一端、紙一束」、冷泉局から「紙二束」、奥殿から「紙一束、引物二、師子皮こ一対」、小宰相から「香箸、紙一束」が贈られる(その後言継は寿桂宅を訪れるが賀永の名は出てこない)。

従来の通説では「孫」とある繋がりから氏規=賀永とされていた。これに対して「孫は何人もいたはず」としたのが別人説で、更に踏み込んで中御門宣綱の息子を賀永とする説もある。それぞれ、検討してみる。

賀永は中御門信綱の息子か?

まず、中御門宣綱の息子が賀永というのは否定できる。上の一覧で判るように、賀永が中御門息だとすると、名前の呼び方が不自然になってしまう。親交を重ねた言継は2月9日に「賀永」と名のみ記すようになったのに、2月22日にいきなり「中御門息之喝食」と他人行儀になり、2月29日に再び「賀永」呼びになる。これはさすがに不自然だ。

一方、12月19日の賀永祝言に続けて宣綱の行動が記述され「賀永と宣綱は近しい存在」という指摘もある。しかし、記述内容をきちんと読むとおかしい点に気づく。賀永祝言に続けて、宣綱は「無興=不満」だったと書かれている。息子の祝言に不満を持つというのもまた不自然だろう。

元服前の氏規が喝食っぽい名を持っているのを不審に思っての比定かもしれない。しかし、上記のように言継卿記を素直に読む限りでは別人だろう。

賀永と氏規は別人か?

どちらも寿桂の孫と記述されている氏規と賀永は別人だろうか。別人説では、賀永は寿桂孫の一人ではあるものの、相模ではなく「伊豆之若子」と呼ばれたことから後北条との関係者ではないと推測している。

寿桂の孫となると、言継卿記には実に6人も登場する。北条氏康に嫁した娘が産んだと思われる氏規・氏真妻、中御門宣綱に嫁した娘が産んだと思われる娘と息子、義元の息子である氏真、瀬名貞綱に嫁した娘が産んだと思われる虎王。これに対して「孫」として説明されているのは氏規と賀永しかいない。

これは、氏規・賀永が寿桂と同居して孫として扱われていたからだろう。氏規は寿桂の湯治に同行しているし、賀永は8回登場するうちで5回は寿桂同伴である。他の孫達は寿桂と別の生活圏に居住していたため、その関係から説明されたものと思われる。

更に「若子」という尊称がつくのは賀永のみであり、周囲に敬されていたと考えられる。こうした敬称は宣綱の娘に付されていて「姫御料人」と呼ばれているものの、貞綱息子の虎王には付いていない。権大納言である宣綱と、一門とはいえ義元被官である貞綱とで待遇を分けているのだとすれば、賀永は太守氏康の次男だから尊称を付けられたと考えられる。

※興味深いのが宣綱の息子である喝食に尊称がない点。寺に入った者として距離を置いているように見える。であれば喝食風な名を持つ賀永は実態としては寿桂宅にいたため俗人として扱われ「若子」と呼ばれたのだろう。

まとめると、以下の項目から氏規と賀永は同一人物と考えられる。

  • 寿桂と極めて親しい関係にある氏規が、言継卿記では1回の伝聞にしか登場しないのは不可解
  • 寿桂孫として敬され言継卿記で多数登場する賀永が、同時代史料で一切見えないのは不可解
  • 寿桂と常に同行した孫で「若子」の尊称という条件を満たすのは氏規
  • 氏規と全く同条件の人物の存在を比定するよりも、氏規=賀永とした方が自然

相模ではなく伊豆の若子と記されるから後北条とは無縁という推測も、よくよく考えると筋が通っていない(伊豆国は後北条分国)。後北条と無関係でありながら、伊豆と関わりを持った寿桂孫の存在を想定するほうが無理があるのではないか。

伊豆や喝食との関連性

では、氏規はなぜ「伊豆之若子」と呼ばれたり、喝食のような名前「賀永(がえい)」を名乗ったりしたのか。

「伊豆」と「祝言」

私は、「伊豆」が使われるようになった鍵は12月19日の「祝言」にあると考えている。言継はこの祝言を記した後に「中御門無興」と付け加えている(どちらも伝聞)。「無興」は「気に食わない」とか「不満」を指すが、言継卿記では直近の12月5日に登場している。

次中御門へ罷向暫雑談、今日隠居之事、使四人有之云々、無興至極痛入者也

とあり、「隠居」について使者4人が来て宣綱が憤懣やる方ない状況になったと書かれている。14日にも宣綱は「隠居之儀事破云々、種々雖加意見無同心之間罷帰了」とあり、その憤激を言継が宥めようとして諦めた記載もある。その5日後の祝言で宣綱が「無興」というのであれば、賀永の祝言が宣綱隠居と密接に関わっていると考えていいだろう。

宣綱が登場する12月分記載を全て列挙してみた(※11月末に濃密な接触もあったので参考記載)。

  • ※11月28日:中御門宅にて酒宴。
  • ※11月30日:中御門宅にて風呂に入る。
  • 12月01日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月03日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月05日:中御門宅に行き「隠居の件で使者4人が来訪し、強い不満を抱いた」と宣綱から聞く。
  • 12月07日:宣綱から筆が返却される。
  • 12月11日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月13日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月14日:早朝に宣綱から呼び出しがあり、隠居の件が破綻したと激怒される。説得を試みるが効果なし。
  • 12月19日:言継が、伊豆の若子の祝言と、宣綱の不満を伝え聞く。
  • 12月26日:言継が、宣綱から借りていた鏡を返却し、同時に姫御料人へ物を贈る(姫御料人の記載終見)。

宣綱が「無興」になったのは、氏規を姫御料人の婿に迎えて中御門家を継がせたかったのではないか。駿河の今川、遠江の朝比奈に娘を送り込んだ中御門家だから、その計策を練ったとしても突飛な話ではない。何より、政略結婚の画策だと考えると、宣綱の行動のあれこれが腑に落ちる。彼を憤激させた使者4人は後北条氏から来て中御門家との婚姻を謝絶したものだと思われる。

※宣綱には子がいなかったと思われる一方で、異母兄弟とされる宣治には男子(宣教)と女子(宣胤の妻)がいた。宣治は1555(弘治元)年に死去しており、言継が駿府に滞在した弘治2~3年の前に遺児達を引き取って養子にしていた可能性がある。但し、この女子が宣胤の妻となるかは年代的に疑問が残る。宣胤は1569(永禄12)年生まれだから、宣胤の妻はこの女子の娘である可能性の方が高いように思う。

そして、この祝言から「伊豆」が賀永に付されるようになる。これは、北条綱成の娘との婚姻が成立して伊豆に知行を得たからではないか。この時点で氏規知行が伊豆にあったという史料はないが、1565(永禄8)年に伊豆奥郡の手石郷へ朱印状を発給している(戦北891)。また、更に後年になるが氏規の妻は伊豆仁科郷の地頭として名を残している(戦北4969)。結婚を機に伊豆の知行を与えられる可能性は高い。

ちなみに、元服前の婚姻は他に井出千熊・馬淵金千代の婚姻契約があるので問題はない(戦今1667)。むしろ、祝言が元服だとするなら、その後も若子・賀永と呼び続けた理由が判らなくなるから、婚姻と考えるべきだろう。

氏規は喝食だったか?

ここから先は推測・憶測の上に仮説を進める形になるため、一つの仮構として捉えていただきたい。

氏規が喝食のような「賀永」を名乗ったことについて。彼は実際に喝食だったのだろうと考えている。というのも、氏規は後北条一門の中で唯一浄土宗の戒名を持っている。とすれば、臨済宗大徳寺派で占められる後北条一門から離れた場所で浄土宗に帰依する出来事があったと推測される。

今川一門もまた義元以降は臨済宗(妙心寺派)なのだが、義元には氏規を浄土宗に帰依させる動機がある。それが対三河政策で、当時の三河には日蓮宗や浄土真宗、曹洞宗もあったのだが、義元が橋頭堡にしようとした松平一族は浄土宗を信仰していた。恐らくだが、義元は氏規を養子にして三河進出の中心に据えようとしていたのではないか。その足がかりとなる松平氏と同じ宗派にするため、氏規を浄土宗寺院に喝食として入れた。

氏規は終生浄土宗に帰依しており、当時駿府にいなかったと思われる徳川家康となぜか親しかったのは、同じ宗派を信仰しているためだろう(家康の駿府不在は徳川家康登場初期の考察、家康との関係性については北条氏規への偏見についてを参照)。

しかしながら言継卿記の賀永は寿桂宅に起居しているし、当時の駿府で最も有力だった浄土宗寺院(新光明寺)に寄宿していた言継の記述でも寺院関係者としては出てこない。

これは、義元の意図を危ぶんだ寿桂が氏規を引き取って身柄を担保していたのだろう。そしてそれを横からかっさらおうとしたのが宣綱で、亡くなった弟の娘を充てがって中御門家を継がせようと画策していた。

この駿府での騒動に慌てた氏康は綱成の娘との婚姻を強行し、元服前とはいえ伊豆で知行を与えた。このために「伊豆之若子」と呼ばれるようになったのだろう。

しかし、1556(弘治2)年5月2日に座間鈴鹿明神社の棟札銘に「北条藤菊丸」と名を残した氏規が、僅か5ヶ月後の同年10月2日に言継卿記で「賀永」という名乗りになっていたことから考えると、氏規の争奪戦はこの年に相当な速度で進んだようだ。

氏康と同盟した後の義元は西へ一気に勢力を広げており、天文19~22年頃には尾張東部(知多・岩崎)にまで達している。この勢いに乗った義元は、氏康の息子を得たのだろう。義元の後継者は氏真しかおらず、その妻に氏康娘を迎えたとしても縁戚関係は不安定だった。

1545(天文14)年11月9日に実績がある(戦国遺文今川氏編783)ことから、この時も寿桂が氏康と義元を仲介して、氏康次男の藤菊丸を氏真予備として養子にする決定がなされた。その後、1556(弘治2)年から三河国で反乱がが相次ぎ、三河の政情が悪化。この対応に苦慮した義元が、一刻も早くという要請を出し、今川家の将来を憂慮した寿桂が口添えしたのかもしれない。

2022/11/28(月)花木集団 浄土宗と臨済宗

この記事は下記の考察を元に行なっているため、事前のご一読をお薦めする。

北条氏規妻の実体

北条氏時・為昌の出自

花木隠居・花木殿・花之木の実体

相模朝倉氏の概要

玉縄と花木

それぞれの役割分担

新参者の福島為昌に異例の抜擢がされた理由として、その妻である花木隠居(養勝院殿)の資金力がありそうだ。彼女自身が資産家の側面を持っているほか、その実家である伊豆朝倉氏は、相模・伊豆で資産家として活動している。

  • 花木隠居:役帳に買得地だけで名が載っているのは彼女だけ
  • 相模朝倉氏:伝肇寺との土地売買で係争、文官として名が見える
  • 駿河朝倉氏:長津俣の地を浦田又三郎から借金の見返りとして入手

後北条氏としては、この朝倉一族を取り込む意図があり、為昌を氏綱養子に取り立てて北条の名字を与えて一門扱いした。ただ一方で、実名での通字「氏」を許可することはなかった。これは為昌が比較的早く死去した要因もあるものの、遠江福島氏出身で妻も相模朝倉氏で血縁が薄かった異分子だったのが大きいだろう。息子の綱成が氏綱娘を娶ってようやく氏綱の偏諱を受け、孫の康成が氏康娘を娶るに至ってようやく「氏繁」の名を名乗れた。為昌一族が後北条一門に正式に認められるまでには、かなり長い年月がかかっている。

為昌は小田原の本光寺に葬られるが、この寺は臨済宗で為昌戒名は後北条一門と同じ「宗」が使われている。この本光寺を中心にした集団は所領役帳でも見られる。御家門衆の中に「本光院殿衆」が3名残っており、それなりの規模の家臣団だったことが推察できる。

  • 山中彦十郎(知行168貫文)
  • 仙波藤四郎(知行90貫文)
  • 山本太郎左衛門(135貫文)

本光寺の所在地は不明だが、為昌妻が「花木隠居」、綱成妻が「花木殿」、氏繁が「花之木」と呼称されたことを踏まえると、小田原の花ノ木に所在したと見てよいだろう。花ノ木の蓮上院は宗哲率いる久野北条家と関わりがあるが、その宗哲妻が開基となった「栖徳寺」が本光寺住持職継承に関与している文書がある。この関連性から見ても、為昌菩提寺は花ノ木で蓮上院を介して久野北条と繋がっていたと思われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0428「北条家虎朱印状写」(本光寺文章)1560(永禄3)年

    本光寺住持職之事、任和尚御遺言筋目、初首座可有住、其外寺内之仕置等、長老被仰置如筋目、万事栖徳寺可有異見、然者、衆中一人モ無異儀、在寺肝要候、是則被対檀那申、各被重可為意趣状如件、
    永禄三年二月九日/「虎印」/本光寺僧衆中栖徳寺

浄土宗との関わり

死後は後北条一門と同じ臨済宗の戒名がつけられた為昌だが、彼の周囲を見ると、浄土宗の関係者が多いことに気づく。

玉縄北条・為昌近辺の浄土宗

  • 氏時の位牌が伝わる二伝寺は浄土宗寺院
  • 養勝院殿の木像、大頂院殿の位牌が伝わる大長寺は浄土宗寺院
  • 養庄院殿木像で菩提を弔ったのは浄土宗の高僧(安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚)
  • 朝倉氏は当初曹洞宗で、能登守から浄土宗へ転出した痕跡あり
  • 吉良頼康、朝倉能登守は熱心な浄土宗徒
  • 大道寺氏は河越蓮馨寺の創建に関わり、一門から浄土宗の僧を輩出
  • 小田原伝肇寺の移転で朝倉右京が関与

為昌が最初に発した文書(朱印状)は鎌倉光明寺への優遇策

為昌初見文書は、三浦郡の全域の一向衆を全て鎌倉光明寺に所属させるというもの。鎌倉光明寺はこの時点で関東最大の浄土宗寺院で、同宗白旗派の中心となっていた。

  • 戦国遺文後北条氏編0102「北条為昌朱印状」(光明寺文書)

    三浦郡南北一向衆之檀那、悉鎌倉光明寺之可参檀那者也、仍如件、
    享禄五壬辰七月廿三日/日付に(朱印「新」)/光明寺

後北条氏が一向宗の拡大を禁じていたのは下記の文書でも見られる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0664「北条家掟書」(港区・善福寺所蔵)


    一、去今両年、一向宗、対他宗度ゝ宗師問答出来、自今以後被停止了、既一向宗被絶以来及六十年由候処、以古之筋目、至于探題他宗者、公事不可有際限、造意基也、一人成共就招入他宗者、可為罪科事
    一、庚申歳長尾景虎出張、依之、大坂へ度ゝ如頼入者、越国へ加賀衆就乱入者、分国中一向宗、改先規可建立旨申届処、彼行一円無之候、誠無曲次第候、雖然申合上者、当国対一向宗不可有異儀事
    右、門徒中へ此趣為申聞、可被存其旨状如件、
    永禄九年丙寅十月二日/日付に(虎朱印)/阿佐布

1566(永禄9)年の60年前というと1506(永正3)年で、為昌が三浦郡一向宗を鎌倉光明寺に帰属させたのは時間軸からして合ってはいる。しかし、鳥居和郎氏の下記論文の史料解釈を見る限り、為昌のこの朱印状には単に一向宗禁圧の方針からの発給ではないようだ。

『戦国大名北条氏と本願寺―「禁教」関係史料の再検討とその背景―』

この論文によると、後北条氏の禁教は政治的宣伝が主目的で、実際に抑圧した確証はないという。氏康は永禄4年の上杉輝虎侵攻を受けて、越中の一向宗門徒を活発化させるため本願寺に恩を着せたかったようだ。浄土真宗の動向としては、むしろ甲斐との関係性・日蓮宗との対立の方が要素として大きいという。確かに、上杉侵攻時に本願寺と氏康を仲介したのは武田晴信だし、晴信の駿河侵攻で氏康と敵対した際に、相模・伊豆の浄土真宗寺院を氏康は警戒している。

とすると為昌が鎌倉光明寺に便宜を図ったのは独自判断によるもので、為昌もまた浄土宗に帰依していた。もしくは、浄土宗徒であることが確実な妻の懇願によって自身が影響力を行使できる三浦郡へ浄土宗拡大の指示を出したものと思われる。

ただし、既に記述したように為昌は死後に小田原の臨済宗本光寺に菩提を持っているから、北条養子入りを機に臨済宗へ転身したと思われる。

花木集団 浄土宗と臨済宗の混淆

後北条一門に列した為昌の菩提寺本光寺(臨済宗)が、花木集団の象徴になったことは確実だろうと思われるが、その一方で浄土宗と連携した相模朝倉氏が集団の母体になっており、それが集団の捻れた二重構造に繋がったのではないか。その点を少し検討してみる。

宗派を継承すること

譜牒余録 二十四松平相模守家臣

良正院殿が息子の松千代(照澄)の初お目見えの際に、父である家康に願い出て、松平姓を願い出て許された件。記録では良正院が「母である西郡殿の日蓮宗を受け継いだが、自分は家康と同じ浄土宗に改修するので、日蓮宗を松千代に継がせたい」と願い、家康が「であれば西郡殿の宗派を受け継ぐのだから、松千代には松平を名乗らせよう」と受諾したという。

これはかなり奇妙な話だ。徳川・松平は浄土宗徒だから、普通に考えれば「祖母も母も日蓮宗だが、松千代は浄土宗にする」と良正院が願い出た結果として、松平姓を名乗らせる方が自然に見える。

また、鵜殿氏系譜の西郷殿が日蓮宗であるのは確度の高い話だが、彼女は駿府の宝台院に葬られており、最終的に浄土宗に改宗したことは確実。

この話には裏があったと考えて解釈すると、良正院殿は自らも母と同じく改宗するので、息子の松平改姓と日蓮宗信仰を保証してもらったのではないかと気づく。

つまり、家康の子女は全て浄土宗に統一しようという政策がまずあった。しかし、鵜殿氏の頃から熱烈な日蓮宗徒だった良正院は、自らの改宗に交換条件をつけた。それが、息子の松千代の日蓮宗信仰保証と、松平を賜姓されることだったのだろう。譜牒余録の記録は、それを受けた小芝居だろうと思われる。

このことから、母から娘・息子に向けて宗派の継承がなされていたこと。それは家長の意向というよりは、個人的な嗜好によるものだったことが判る。

上記より、以下が推察される。

  • 自然な状態では、太守家中でどの宗派を信仰するかは自由だった
  • 個人が持つ宗派は、母系で継承される例があった
  • 太守の体面を保つために、一門が宗派を当主と合わせる必要があった

これらの要件が後北条家でも適用される前提で、引き続き浄土宗からの観点で俯瞰してみる。

誉号を巡る課題点

誉号とは、浄土宗の戒名で用いられる名称で、五重相伝を授けられた者だけに与えられる名誉称号。これを持っていれば浄土宗徒であることは確実だと思われる。玉縄北条家の面々を調べてみると……

  • 誉号を持たない者為昌・為昌妻・綱成・氏繁・氏繁妻・氏秀・氏勝・直重

  • 誉号持ち大頂院(為昌母ヵ)・綱成妻・氏規・氏盛

  • 戒名不明氏規妻・氏盛妻

為昌妻の戒名は「養勝院殿華江理忠大姉」で誉号はない。とはいえ、高蓮社山誉が逆修を執り行っているし大長寺も浄土宗。これは夫が臨済宗となったため、露骨に浄土宗と判る誉号を回避した可能性が高いだろう。

※ちなみに、戒名に「誉」があるのが浄土宗戒名かと思いきや、大磯地福寺の僧に「良誉」がいた。高室院月牌帳に「権大僧都法印良誉」と記されているこの人物は、相模国中郡大磯の在所となっており、「地福寺為菩提也」と補記されている。地福寺は真言宗なので、たまたま法名に「誉」が入ったのだろうか。

花木集団のその後

 為昌妻、綱成妻、氏規妻が北条家過去帳に現れないのはなぜか。為昌妻はともかく、綱成妻は氏綱の娘だろうし、氏規妻は狭山藩祖の妻でもある。この要因を考えてみると、小田原開城後に花木集団は氏直・氏規・氏勝と袂を分かったのではないかと推測できる。

1595(文禄4)年10月27日付けの「京大坂之御道者之賦日記」(埼玉県史料叢書12_参12)で氏規・氏盛の一家が登場するが、その記述で「美濃守御前さま」を通説では氏規妻と比定している。

北条一睡入道様
北条助五郎殿様
北条御辰様
美濃守御前さま
同御つほねさま

しかし、この当時氏規は隠居しているから「美濃守御前さま」は氏盛妻(寛政譜によると船越景直の娘)。また、従来の通説だった高源院殿(北条家過去帳で氏宗曾祖母を記される人物)が氏規妻ではないという考察(北条氏規妻の実体)も合わせて考えると、氏規妻は過去帳類の記録に登場しなかったのだろう。とはいえ「北条美濃守御前」が1589(天正17)年11月に存命であるのは確実でもある(戦北4969)。

してみると、氏規妻は後北条滅亡を契機に独自の行動をとっていたと考えるのが妥当なように見える。夫の子息(氏盛・勘十郎)の実母ではなかったのかもしれない。独自行動をとったとすれば、その際、こちらも恐らく存命だったろう母(花木殿・綱成妻)と共に行動した可能性が高い。

ここで気づくのが、江戸の種徳寺。為昌の菩提寺である小田原本光寺を移設したものとされている。この寺は小笠原康広に嫁したといわれる氏康娘「種徳寺殿恵光宗智大姉」が開基となっている。種徳寺殿は他の史料に一切出てこないためその実態は判らないのだが、本光寺を移設して継承したことから、為昌娘ではないかという指摘もある。ただし、種徳寺殿は死去が1625(寛永2)年6月5日(御府内備考続編)なので氏康世代だと100歳を超えてしまう。

※夫とされる康広死去は1597(慶長2)年12月8日で享年67歳(寛永諸家系図伝)。

没年から考えると、種徳寺殿は旧新小笠原康広に奉じられた氏規妻(綱成娘)の方が可能性が高くないだろうか。その所伝が後に粉飾され氏康娘・康広妻となったとすれば、年齢的な矛盾は回避される。

種徳寺殿が氏規妻の後身だったとするなら、氏康娘でありながら一門とは違う誉号の戒名を持った母とは異なり、本光寺の為昌菩提を継承するために臨済宗の後北条一門流の戒名を選んだことになる。この点は更に検討の余地がありそうに思う。

2022/11/06(日)花木隠居・花木殿・花之木の実体

後北条家中で花木隠居・花木殿・花之木という人物がいた。それぞれを連携して考証した例がなかったので、事例を並べつつ考えをまとめてみた。

花木・花之木の比定地

家臣団辞典では「花之木」の比定地を金子郷(埼玉県入間市花ノ木)に求めている。これは所領役帳に出てくる「花之木」の知行地に「金子郷」があり、比定地とされる入間市に「花ノ木」があるため。しかし、後述するように役帳の「花之木」が知行した金子郷は寄子のために特別給付されたもので、根本的な知行ではない。この比定は可能性が低いだろう。

次に目につくのが、室町後期に名が出てくる「花之木」(神奈川県横浜市南区花之木町)。ここに因んだ名乗りである可能性もなくはない。

ただ、花木殿の所在地は高室院月牌帳で小田原となっており、関連するだろう花木隠居もまた小田原花ノ木にいたことはほぼ確実だろうと思われる。また、役帳の「花之木」も後述するように知行地が直轄領から拠出されている小田原衆であり、小田原花之木に起居したことからの呼称と見てよいだろう。

上記より、花木・花之木は小田原市浜町2丁目近辺(蓮上院・新玉小学校近く)と見られる。

養勝院殿とは何者か?

ここでまず、北条為昌妻、もしくは綱成母と言われる養勝院殿の実態を検証・確認してみる。「花木殿」が北条綱成室であるため、姑に当たる彼女の存在をまず前提におく必要があるためだ。

鎌倉大長寺には木像があり、その胎内銘にその名が残されている。

  • 戦国遺文後北条氏編0355「朝倉氏像銘」(大長寺所蔵)

「胎内腹部」

造化御影像之事右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉、息女北条九郎之御前、御子ニハ北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、
「胎内背部」
并奉寄進拾二貫文日牌銭、法名養勝院殿華江理忠大姉相州小坂郡鎌倉名越、安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚、仏所上総法眼、使者大河法名善信、謹言、敬白于時天文拾八年己酉九月十八日

  • 解釈

奉る。御影像を造化すること。この施主は故郷伊豆国の住人で朝倉名字の息女。北条九郎の御前で、お子には左衛門大夫綱成・同刑部少輔綱房・松田尾張守の妻がいる。老衰となったので菩提心を発して木像を彫刻した。並びに、12貫文の日牌銭を寄進奉る。法名は「養勝院殿華江理忠大姉」。相模国小坂郡鎌倉名越の安養院住持16代「高蓮社山誉大和尚」・仏師は上総法眼(後藤宗琢)・使者は大河(法名:善信)。

この銘の解釈では当初、北条九郎を彦九郎為昌と比定し、その養子に綱成・綱房・盛秀妻がいたとしていた。しかし当時の養子記載は男系に限られるため、盛秀妻を記載しているのは実子関係を記述したのだろうということで、北条九郎・養勝院は綱成の実親であり、為昌とは無関係という仮説も出てきた(では「北条九郎」は誰かというと、この説は不明とされている)。

しかしこれは、前記事『北条氏時・為昌の出自』で考察したように、福島為昌が北条家に養子入りしてその息子が綱成だとすれば、北条九郎は為昌ということですっきりと繋がる。以下、これを前提にして論を進める。

花木隠居

「隠居」としての記録

「隠居」という扱いで所領役帳に登場するのはこの人物だけなので、かなり特殊な存在。

  • 登場部分1 玉縄衆 左衛門大夫殿(北条綱成)内の項目

買得、百貫文、梅名内、元朝倉平次郎知行、但隠居買得

  • 登場部分2 玉縄衆 花木隠居の項目

一、買得、九拾貫文、東郡、津村内、花木隠居

  • 登場部分3 江戸衆 朝倉平次郎の項目

百弐拾九貫五百五拾文、豆州、梅名内
此外五拾貫八百文、花木隠居永代買得依之役左衛門太夫殿勤之

北条綱成・朝倉平次郎の各項目で「役の負担は綱成」とあるので、花木隠居本人名義とされる相模東郡津村内の90貫文(これも買得)もまた、恐らく綱成の役負担だったと思われる。役を負担できない点から女性と見られ、玉縄北条氏と朝倉氏を繋ぐ人物であるから養勝院殿が想起される。なおかつ役帳で隠居となっている点から見ても、為昌死後の養勝院殿が該当する。

そして、こちらもまた花木隠居と同一人物と思われるが、1544(天文13)年、江の島弁天遷宮での寄進で、松田殿、朝倉藤四郎殿名義で絹2疋を、孫九郎殿、朝倉弥四郎殿名義で小袖1重を、それぞれ「ゐんきよ」が提供している(小田原北条氏文書補遺p35)。

念のため調べてみたが、女性が「隠居」を称するのはごく僅かだが他例もある。「妙春尼書状写」で妙春尼は自署で「いんきよ」と書いている(愛知県史資料編12_525・上宮寺文書)。また、「北条氏康書状」で氏康は東慶寺住持の松岡殿の引退を「御いんきよあるへきにつゐて」と記している(戦国遺文後北条氏編1541・東慶寺文書)。

所領役帳に載っている女性

花木隠居の状況を確認するため、女性で役帳に載っている例を次に挙げてみる。

新五郎娘

小机衆にいる彼女に与えられた30貫文の知行(伊豆・田代)は、同族と見られる笠原弥十郎が負担している。

赤沢千寿の母

江戸衆で江戸高田内に15貫文を与えられている「赤沢千寿」は、千寿が成人するまでは後家が差配し、その間は役を免除されている。

北条宗哲の妻

北条宗哲の知行一覧内に「御新造様知行分」310貫文がある(白根内箱根分、戸田分、太平)。こちらの役は宗哲が代行して負担しているので、花木隠居と同じ方式。

有滝某の母

諸足軽衆にいる「有滝母」は10貫960文の知行(江戸、安方分)を与えられ、こちらは役を負担しているようだ。

有滝氏は当主の死で領地が解体されたようで、31貫文(小机、一宮)を御馬廻衆の関兵部丞が、56貫581文(江戸、小石川本所方)を江戸衆の桜井某が、それぞれ有滝氏から買得している。また、1566(永禄9)年8月20日には江戸城の有滝屋敷を豊前山城守に与える旨の虎朱印状が存在する(小田原市史資料編小田原北条651)。

つまり、解体過程にあった有滝知行地の残存部がその母名義で残っていた。諸足軽衆に配属されたのは、残存兵員の有効活用を図ったのだろう。諸足軽衆には、他の衆に所属する兵員も給田を与えられて集められているので、都合がよかったものと思われる。

以上を考えると、有滝母が例外措置で、赤沢後家のように後継者が立つまで無役とするか、宗哲妻・花木隠居のように代行者が役を負担するかの方法で男性当主不在に対応していたものと思われる。

まとめ

花木隠居は1544(天文13)年には既に「隠居」しており、1559(永禄2)年の所領役帳作成時までは存命だった。土地買収を繰り返した形跡があり、江の島への寄進でも子供たちを支援している。彼女は資産家だった可能性が高い。

花木殿

高室院月牌帳に出てきた「北条上総御内方」

寒川町史にある高野山高室院月牌帳に出てくる「北条上総殿御内方花木殿」は、綱成の妻と見てよい。1587(天正15)年11月21日に「春誉馨林禅定尼」の戒名で逆修(生前供養)を行なっている。

一方で通説の綱成妻は、新編相模国風土記により「大頂院殿光誉耀雲大姉」の戒名で1558(永禄元)年9月10日に死去しているという。

両方を合わせて考えるならば、大頂院殿が亡くなったのちに花木殿が後妻となったのかとも見えるが、高室院月牌帳を見るとその可能性は低そうだ。

まず同書での「花木」を追ってみると7件出てくる。

 項番   戒名    補記   地名   人名   取次   日付 
49 真哲恵玉 相模国西郡小田原 花木兵部卿立 1551(天文20)年3月22日
603 妙慶 相模国西郡小田原・花木 宗賢寺 ■■ 1585(天正13)年
767 光数禅定尼 相模国西郡小田原 花木小相宰 1587(天正15)年2月5日
768 理栄 相模国西郡小田原 花木小宰相母 1587(天正15)年2月5日
783 月窓宗光 順修 相模国西郡小田原 花木殿女房衆 玄仙坊 1587(天正15)年5月13日
780 春誉馨林禅定尼 逆修 相模国西郡小田原 北条上総殿御内方花木殿御自分 玄仙坊 1587(天正15)年11月21日
781 西来院殿 逆修 相模国西郡小田原 苅部殿内女 1587(天正15)年某月21日
782 正仏 逆修 相模国西郡久野 御前方宮内殿 玄仙坊 1587(天正15)年11月21日
860 栄覚春慶 逆修 相模国西郡小田原 花木■之内衆 徳蔵院 1589(天正17)年2月18日

「花木兵部卿」は恐らく、蓮上院関係の高位の僧侶だろう。官途名の「兵部卿」は武家では通常用いられず、出家者が兵部卿・民部卿・治部卿を用いた例がある。

「花木小宰相」とその母は、日付が同日なので恐らく逆修。取次の名がないので、死期が迫った綱成を前にして独自に逆修したのだろう(綱成死去は天正15年5月6日と伝わる)。禅定尼の位を持つ娘に添えられていることから、母の出自は低いと見られる。取次・日程が正室である花木殿と乖離しているため、綱成より年下の側室とその母親かもしれない。

これに比較して花木殿は二重に「殿」が用いられているほか、自らを指す「自分」に敬称が添えられ「御自分」となっている。「御自分」を使われているのは彼女と「山木様」にだけ(同書中他の19例は全て「自分」)。この待遇から考えると北条氏綱娘である山木大方と並ぶ存在。

加えて、花木殿には女房衆・内衆を抱えていたほか、氏光妻の侍女と見られる「苅部殿内女」が花木殿と同日で逆修をしている。更に取次「玄仙坊」を同じくする「御前方宮内殿」は、氏隆妻の侍女と思われる。

まとめ

これらから推測すると「花木殿」は綱成に嫁したと言われる氏綱娘本人であるといえる。綱成の妻には他に「花木小宰相」がいたようだ。

また、通説では綱成妻とされる大頂院殿は時期から見て為昌の母か姉ではないか。為昌没後も丁重に扱われていることから、為昌母(綱成祖母)という可能性が若干高いように思う。

花之木

小田原衆の謎の人物

所領役帳に登場するこの人物は、小田原衆にいた比較的大規模な被官であるにも関わらず、その後の動向が全く不明。であれば、謎の人物が混ざり込んだというよりは、既知の人物が小田原花ノ木の地名を名乗っていたと考えるべきだろう。元服し、文書発給を始めていた有力被官の中で役帳に出てこないのは、北条氏秀、北条氏繁、吉良頼康。

このうちで武蔵吉良の頼康は可能性が低い。同氏は、後北条氏との度重なる婚姻関係にも関わらず、過去帳にも一切登場せず滅亡も共にしなかった。独立性が高いが故に役帳に出てこなくても不思議ではない。もし現われるとしても、小田原衆というのは奇妙で、御家中衆か江戸衆、もしくは他国衆だろう。

北条綱成の弟である氏秀も出てこないが、当時沼田康元と呼ばれていたこの人物は、対上杉の最前線である上野国沼田にいたので載せられなかったものと思われる。

消去法で候補に残るのは氏繁だが、もし氏繁だとするなら、当時は「善九郎康成」と名乗っていた彼が役帳にその名で載っていないのはなぜか。

「花之木」の正体

改めて「花之木」の知行地を見てみる。

一、花之木
百貫文、中郡、小磯
百拾貫文、同、恩名及川
百五拾貫文、東郡、一宮之内
四拾六貫文、西郡、下中村惣領分
以上四百六貫文
此外、三百八拾壱貫六百文、金子郷、寄子給

小磯は先頭にあって本知と思われるが、その由来は不明。高野山高室院月牌帳には170の地名が延べ600回記載されているが、そのうちで「小磯」は12件があり、それなりの人口規模とは思われる。ところが役帳で「小磯」が見られるのはここだけなので、役帳範囲外に存在したと思われる直轄領の可能性がありそうだ。

高室院月牌帳に載っている相模国の地名(延べ600、地名数179)から上位を抽出すると、小田原が圧倒的に多数を占めている。他は少なく見えるが、5回以下の地名が圧倒的多数なのでそれなりの規模の集落だったと思われる。

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恩名・及川は、1582(天正10)年8月27日に綱成が堀内七郎衛門に「中郡恩名之郷弐拾貫文」を与えている(戦北2406)から、玉縄北条家と関係が深い。

東郡一宮は後北条当主に近しい人物が分け合っている(小田原衆の花之木、御馬廻衆の山角四郎右衛門、河越衆の山中彦八郎、御家中衆の山中彦十郎・富塚善十郎)。これは、後北条直轄領を氏康が一時的に預けていた可能性が高い。寄子給として花之木に与えられた金子郷にしても、1561(永禄4)年4月2日には虎朱印状で金子大蔵丞にこの金子郷は返還されている。この迅速な対応は、直轄領として扱われていたからこそのものだろう。

下中村は一貫して本光寺領(為昌菩提寺)。下中村惣領分を見ると、花之木の名前の後に続く、渡辺左衛門と西右衛門へ50貫文ずつ与えられている。

これらをまとめると、直轄領からの支給が631貫600文、玉縄系が110貫文、本光寺系が46貫文となる。

ここまでくれば、役帳に出てくる花木隠居が想起される。花木隠居が為昌妻で綱成母(氏繁祖母)とすれば、氏繁が花ノ木にいたのは不自然ではないし、小田原衆に所属するのも、同衆の筆頭が松田憲秀で、氏繁から見れば従兄弟(父の姉妹が盛秀に嫁ぎ、盛秀の息子が憲秀)だから、あながち妙な話ではない。1560(永禄3)年以前の氏繁は下総国東庄にいた東修理亮と氏康との仲介をしていたのみで、玉縄在地は確認できない。むしろ、戦果報告に際して氏康と緊密に連絡を取り合っていたことから、氏繁が氏康に直属していたことが窺われる(北条氏繁の初期所属を参照のこと)。

氏繁が「花之木」と呼ばれることの特異性

上記をまとめると、氏康が氏繁を側近として育てる意図で、小田原内の居所を為昌妻と近い花ノ木として、綱成とは一旦切り離していたと考えるのが妥当だろう。

では他の一門のように名前で呼ばれなかったのはなぜなのだろうか。この時点で氏繁は官途を持っていないものの、宗哲嫡男は「三郎殿」と記されているから、「善九郎」という仮名で記載されるのが本来の姿。それをわざわざ地名表記にしている。

地名が表記されたのが判る例としては、他国衆での「油井領」と江戸衆での「本住寺領」がある。このほか「~跡」という当主不在な領地があり、御馬廻衆での「西原弥七跡」、江戸衆での「小野跡」「川村跡」が見られる(恐らく、これ以外にも領域名があると思うが名字と区別できないため未詳)。

北条から切り離された氏照の名が出ずに「油井領」とされていたことを考えると、「花之木」は花木隠居(祖母)・花木殿(母)の後継者としての氏繁を指していて、綱成とは分立した存在だった可能性も考えられる。しかしながら、氏繁は明確に綱成の嫡男であり、それも考えづらい。氏繁が次男ならば、笠原康明・遠山康光・垪和康忠のように分家筋を直参として取り立てた例は複数存在するが、その可能性も低い。やはり、綱成嫡男を分立した意図はどうにも判らない。

あれこれ考えてみるほどに、花木集団が後北条政権の中で異端児だったとしか考えようがない。

余談だが、名字だけしか記載されなかった例として、河越衆筆頭の「大道寺」がある。名字しか書かれていないものの、この人物が源六周勝なのは確実で、4人挟んで名が出てくる一族の大道寺弥三郎の項目では「源六拘=源六の所有」という語が3回も出てくる。周勝の名が禁忌という訳でもないのだが、大道寺氏の当主が、盛昌のあとは周勝・周資で不安定だった可能性がある。名字以外を書いてしまうと揉めるため、わざと避けたのだろうか。