2017/09/06(水)今川攻めで徳川が武田を利用した可能性

井伊谷占領時の但し書きに武田が出てくる件

1568(永禄11)年に今川氏真を攻める際、徳川が遠江、武田が駿河という分割協定があったと通説で言われているが、史料を見るとそんな単純な話じゃないように見える。

12月12日の起請文・判物で、徳川家康は井伊谷侵攻に当たり、武田晴信から何を言われようと与えた知行は保証するとしている。

  • 戦国遺文今川氏編2200「徳川家康起請文写」(鈴木重信氏所蔵文書)

    「若自甲州彼知行分如何様の被申様候共、進退ニ引懸、見放間敷候也、其外之儀不及申候」

  • 戦国遺文今川氏編2201「徳川家康判物写」(鈴木重信氏所蔵文書)

    「若従甲州如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也」

これは、今川攻めが武田主導で行なわれていて、三河に隣接する井伊谷ですら家康が保証できるか不透明だったことを示す。

武田晴信の怒り

その後家康は後北条と手を組んで、武田とは敵対する。この裏切りへの怒りを、晴信は織田信長にぶちまける。

  • 戦国遺文今川氏編2371「武田晴信書状」(神田孝平氏所蔵文書)

態令啓候、懸川之地落居、今河氏真駿州河東江被退之由候、抑去年信玄駿州へ出張候処、氏真没落、遠州も悉属当手、懸河一ヶ所相残候キ、経十余日、号信長先勢、家康出陳、如先約、遠州之人質等可請取之旨候間、任于所望候シ、其已後、北条氏政為可救氏真、駿州薩埵山へ出勢、則信玄対陣、因茲向于懸川数ヶ所築取出之地候故、懸河落城候上者、氏真如生害候歟、不然者三尾両国之間へ、可相送之処ニ、小田原衆・岡崎衆於于半途、遂会面、号和与、懸川籠城之者共、無恙駿州へ通候事、存外之次第候、既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候、此所如何、信長御分別候哉、但過去之儀者不及了簡候、せめて此上氏真・氏康父子へ寄敵対之色模様、従信長急度御催促肝要候、委曲可在木下源左衛門尉口上候間、不能具候、恐ゝ謹言
追而、上使瑞林寺、佐々伊豆守越後へ通候、津田掃部助者為談合、一両日已前着府候、
五月廿三日/信玄(花押)/津田国千世殿・夕庵

「遠州も悉属当手」とは、武田主導で今川を攻めたのだから遠江は武田のものという認識。

「号信長先勢、家康出陳、如先約、遠州之人質等可請取之旨候間、任于所望候シ」は面白い。家康は信長の先方衆として出陣したという指摘がまずある。晴信としては信長との共同作戦という座組みがまずあって、その中で家康が一部隊として動いたという認識だ。そして事前の約束として、家康が遠江の人質等を回収することを希望したので任せた、ということになる。

その後、北条氏政が駿河に出てきて晴信が手間取っている間に、家康は後北条と「号和与=和睦と称して」掛川で籠城していた者を逃がしてしまった。これを晴信は

「存外之次第候、既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候」

「思ってもみなかった状況だ。氏真・氏康・氏政への和睦をしないことは、既に家康の起請文で明らかだ」

と糾弾する。これを信長はどう考えるのか、とまで詰め寄った後で一転して、とはいえもう過ぎてしまったことだから、これからはせめて家康に、今川・後北条と敵対するよう指導してくれと依頼している。

家康は、晴信を利用して遠江を奪い、武田が駿河で敗色濃厚と見るや、掛川を確保するために独断で後北条と結んだ。結果が全ての戦国期でも、さすがにあざとい動きでこれは見事。ただ、その反動は後々まで残って、武田が遠江と三河へ執拗に攻撃をかけるようになる。

限られた史料ではあるが、このように理解するとすっきりする。

だけど、近世の価値観では「神君がそのような卑怯な行動はしない」と躍起になったのではないか。通説だと「晴信が先に遠州にちょっかいをかけたので、家康は報復として氏真を助けた」みたいに書かれている。

その以前に家康が今川氏真に逆心した時のことを「あれは仕方がなかった」というストーリーに仕立てた近世編著からしたら、この逆心もあれこれ捻じ曲げた解釈を広めた可能性があるだろう。

人質の安否

家康が今川・後北条と和睦するに当たり、徳川から武田に渡されていた人質はどうなったのだろうか。2月23日に出された山県昌景書状がその時の様子を少し窺わせている。この書状で昌景はごまかしているが、武田方は敗色が濃厚になっていて駿府を一時奪われている。

昌景書状によると、酒井忠次から「人質替=人員変更」に関して武田方に申し出たものの返信がなかったのがまずあったようだ。昌景は担当の3人(上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守)が安部山地下人の反乱に連座して出仕を停止されていたとする。昌景自身はこの人質替の事情を知らなかったと弁明しつつ、「最終的には甲府のご息女はお返しするでしょうから、ご安心下さい」と結んでいる。

とすると、この人質替とは他例でいう人員変更ではなく、当座の人質を返還することを意味するようだ。忠次の娘が無事に帰れたかは判らないが、和睦と掛川開城が5月になったのはこの辺の事情もあったのかも知れない。

  • 戦国遺文今川氏編2280「山県昌景書状」(東京都・酒井家文書)

今廿三日下条志摩守罷帰、如申者、向懸川取出之地二ケ所被築、重而四ケ所可有御普請之旨候、至其儀者、懸川落居必然候、当陣之事、山半帰路以後、弥敵陣之往復被相留候之条、相軍敗北可為近日候、可御心安候、随而上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守人質替、最前之首尾相違、貴殿へ不申理候由、御述懐尤無御余儀候、惣而駿州衆之擬、毎篇自由之体、以此故不慮に三・甲可有御疑心之旨、誠於于其も迷惑に候、此度之様体者、当国安部山之地下人等企謀叛候之間、過半退治、雖然、山中依切所、残党等于深山に楯籠候、彼等降参之訴詔、頼上野介・朝駿候、為其扱被罷越、永々滞留、既敵近陣候之処に、雖地下人等降参之媒介候、経数日駿府徘徊、信玄腹立候キ、三日以前告来候之者、人質替之扱之由候、信玄被申出候者、於于甲州大細事共に不得下知而不構私用候、況是者敵味方相通儀に候之処、不被窺内儀而如此之企無曲候、以外無興、上野介被停止出仕候、小伊豆・朝駿事者、唯今之間屢幕下人に候之間、無是非之旨候、是も信玄腹立被聞及候哉、無出仕之体に候、元来於某人質一切に不存候、御使本田百助方に以誓言申述候、尚就御疑者、公私共に貴方不打抜申之趣、大誓詞可進置候、所詮甲州に候御息女之事返申之旨候之間、可御心易候、委曲之段、本田百助方被罷帰候砌、可申候、恐ゝ謹言、
二月廿三日/山県三郎兵衛尉昌景(花押)/酒井左衛門尉殿御陣所