2022/05/21(土)戦国期の愛鷹牧

『愛鷹牧 : 企画展解説書』(沼津市明治史料館)によると、愛鷹山南麓に展開した愛鷹牧は戦国期にはその機能を失って野生馬がいただけだろうとする。

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古代末期から中世へと時代が移り、律令制が衰退していくと、牧も私牧・荘園化していった。岡野馬牧も私領に転化し、岡野牧とか大岡庄と呼ばれる荘園になっていったと思われる。大岡庄は、平家全盛期には平頼盛の荘園だった。その管理を担当した荘官が牧宗親であり、宗親の娘が北条時政の夫人となった牧ノ方である。
その後愛鷹山には牧の施設・機能はなくなったようだが、野生の馬は生き続け、愛鷹山頂を本宮とする愛鷹明神の神主奥津家がそれを保護し、今川氏や武田氏からも神領・神馬の安堵を受け、近世に至った。

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幕府牧の支配体制は、八代将軍吉宗の享保期に整えられ、若年寄支配のもとに野馬奉行が置かれ、小金町(現松戸市)に役宅を構える綿貫氏がこれを世襲した。その後、寛政期に御小納戸頭取岩本石見守正倫によって組織改革が行われ、野馬奉行は御小納戸頭取(野馬掛)の配下とされるに至った。愛鷹牧の新設は、この岩本による改革の一環として実現したものである。

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古代・中世以来放置されてきた愛鷹山の野馬に江戸幕府が最初に目を付けたのは、房総において牧の整備・新設を進めていた享保期のことであった。

このように同書では戦国期の愛鷹牧が存在していなかったように書いているが、直接的な史料が残されていないだけで、実際にはそれなりに機能していて重要拠点であったと考えられる。

愛鷹牧には尾上牧・元野牧・霞野牧・尾上新牧がある。このうち尾上新牧は江戸期に作られたものなので、戦国期に存在した可能性があるのは東から尾上牧・元野牧・霞野牧となる。大体の位置関係は以下。

Screenshot 2022-05-21 12.39.45.png

これを1569(永禄12)年の駿河動乱に伴う後北条方の動きを合わせると、それまでは曖昧だった作戦意図が明確になる。

最も西にある霞野牧は、須津川と大沢川の間の高地にあったとされるが、それと重なるように小麦石砦があった。富士宮陥落時の永禄12年7月4日、蒲原城番の北条氏信が須津近辺の寺社に対して「小麦石小屋」の防衛を依頼している。

-戦国遺文後北条氏編1275「北条氏信ヵ朱印状」(多聞坊文書)

小麦石之小屋、可被相拘事簡要ニ候、依走廻ニ氏政・氏実へ御取合可申上候、尚各々相談、彼小屋可被拘事専一候、仍如件、
巳七月四日/日付に(朱印「福寿」)二宮織部之丞・長谷川八郎左衛門尉奉之/多門坊・実相坊・大鏡坊・須津小屋中

また同時に須津八幡・愛鷹・別当屋敷の保護を命じた禁制も出している。ここで保護対象となった「愛鷹」が牧場と考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編1276「北条氏信ヵ朱印状」(多聞坊文書) 1569(永禄12)年

    須津庄之内八幡・愛鷹并別当屋敷、竹木伐取事、堅令停止畢、若背旨者有之者、彼者召連当城可被参者也、仍如件、
    巳七月四日/日付に(朱印「福寿」)二宮織部丞・長谷川八郎左衛門奉之/須津内八幡多門坊

その蒲原城が失陥したあとも2年にわたって後北条氏が興国寺城維持を貫いている。この城の北北東2キロメートルには、愛鷹3牧のうちで中央に位置する元野牧がある。

これらは、愛鷹牧による軍馬確保が至上命題として存在したことに繋がるように思う。

1537(天文6)年に今川義元・北条氏綱の間で起きた河東の乱でも、氏綱が逸早く駿河吉原までを占拠している。

ちなみに、江戸時代の愛鷹牧を管理していた牧士には植松・渡辺・井手の名があり、これらは今川氏時代にも名が出てくる。

2022/05/01(日)新出虎朱印状を巡る諸情報の覚書

新府中市史研究第4号で新出の後北条氏文書2通が紹介されているとの情報をフォロワさんからいただき、早速実見。新出文書は2件で、どちらも宛所は山上強右衛門尉で、伝来も同じく府中市内の押立金井家。このうち、1589(天正17)年比定2月2日付けの北条氏直書状は足利表での戦功を賞した感状で、他者宛てと齟齬がない。今回の覚書からは除外する。

新出虎朱印状

  • 新府中市史研究第4号「北条家虎朱印状」(押立金井家文書)

    前々横地知行
    西郡飯田之内堀内分弐拾六貫四百文出置候、自当秋可致所務候、此替松井田新堀之内弐拾六貫四百文可指上者也、仍如件、
    天正十三年乙酉七月九日/日付に(虎朱印)垪和刑部丞奉之/山上強右衛門尉殿

前々の横地知行。西郡飯田のうち堀内分26貫400文を拠出する。この秋より所務するように。この替え地として、松井田新堀のうち26貫400文を返上するように。

概観

これは北条氏直が自身の被官である山上強右衛門尉に相模国西郡の堀内(以前横地某の知行だった領域)で26.4貫文を与えるとしたもの。そして同額の知行を、上野国松井田の新堀から差し引くとする。松井田の強右衛門尉知行は、この前年3月22日に100貫文が与えられていた(戦国遺文後北条氏編4750「北条氏直判物」山上文書)。

この朱印状が出された1585(天正13)年は、北条氏直が上方との決戦を意識し始めた頃で、東山道の玄関口となる松井田の整備に取り組んでいたと思われる。その中で一定領域を確保する必要があり、知行地が関係していた山上強右衛門尉に替え地を命じたのだろう。この点に加えて『新府中市史研究第4号』では氏直による側近集団の整理といった要因が挙げられているのでご参照を。

横地知行の考察

「前々横地知行」はこの文書だと「飯田之内堀内分」となっている。「飯田」には武蔵国や相模国東郡にも当該地名があるが、所領役帳で横地図書助が知行しているという点から見て相模西郡と見て間違いないだろう。この時の数値は48.58貫文。山上に与えられたのは26.4貫文なので、旧横地知行のうち一部を宛てがったことになる。

そこで改めて役帳を見ると、相模国西郡には飯田・飯田岡・飯田堀内がある。文書と役帳を合わせて考えると、飯田という領域内の一部に岡・堀内と呼ばれる地域があり、そこから現在の字名である「飯田岡」「堀之内」が残ったのだろう。

相模国西郡の「飯田」は役帳によると595.57貫文の土地を8名の知行主が分割統治している。

  • 飯田

    • 上総分108.4貫文(江戸衆・富永弥四郎)
    • 田中分80貫文(御馬廻衆・狩野泰光)
    • 壱岐分60貫文(御馬廻衆・石巻康保)
    • 円応寺分33.5貫文(諸足軽衆・加藤四郎左衛門)
    • 富永知行23.75貫文(小田原衆・松田憲秀)
    • 上総分内桑原分20貫文(松山衆・芝田彦八郎)
  • 飯田岡

    • 飯田岡分160貫文(御一門衆・北条氏尭)
    • 飯田岡孫太郎分61.34貫文(小田原衆・松田憲秀)
  • 堀内
    • 堀内48.58貫文(御馬廻衆・横地図書助)

近隣の飯泉(180.391貫文)・延沢(157.557貫文)・成田(102.987貫文)・鬼柳(326.02貫文)では、どれも知行主が一名に集約されている。一方で飯田は、上総分が更に桑原分に分割されていることや、上総・田中・壱岐などの前所有者と現行知行主が異なることから見て、この知行主は細分された上で頻繁に変わっているようだ。

氾濫ごとに地形が変わる酒匂川流域の微高地を「飯田」として広範に定義づけていたのだろう。また所領役帳での知行主に根本被官や一門衆が名を連ねていることから見て、彼らの知行高を調整するための予備地であった可能性が考えられる。

酒匂川水系保全協議会『酒匂川』

画面やや左上に飯田岡・堀ノ内がある。戦国期の酒匂川は蛇行しており、当時の堀之内・飯田岡は酒匂川東岸に位置し、向かい岸には大森氏拠点だった岩原や、小田原城の兵粮蔵が置かれたとも言われる多古がある。「堀之内」は中世武家の居館跡でよく使われる地名で、もしかしたらここに鎌倉・室町期の在地勢力(中村・小早川・曽我)辺りの拠点があったのかもしれない。

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横地図書助の推定

役帳でこの堀之内を知行していたとされる横地図書助は、他の史料には出てこない。後北条家中で名が通っている横地氏には、後に氏照付きの被官筆頭となる横地監物丞吉信がいる。しかし「横地監物丞」は役帳内で別に名が挙がっている(御馬廻衆・相模国西郡願成寺分28.7貫文)。

横地氏が後北条家中で初めて見られるのは1544(天文13)年の「岩本坊江島遷宮寄進注文」で、後北条被官に混じって「横地助四郎」が布を一反寄進している。

次いで1559(永禄2)年に北条氏照朱印状の奉者として「横地」が出現。翌年には商取引における撰銭基準を示した虎朱印状が「横地監物小路奉行」である久保孫兵衛と「横地代八木」に宛てられている。久保は内田と共に御台所奉行を務めており、また横地氏の代官と思われる八木は役帳の職人衆で「銀師八木」とある。

1570(永禄13)年の虎朱印状で徴兵目的の住民調査を行なった際の奉者が「横地助四郎・久保惣左衛門尉・大藤代横溝太郎右衛門尉」。

まとめると、横地監物丞(吉信)は小田原市街地で食料・鉱物を扱う繁華街的な地域を統括しており、横地助四郎は吉信と同時期に活動しており、有力被官として住民台帳管理に携わっていた。

一方で横地図書助は、所領役帳に吉信と並んで名を出しているものの、吉信や助四郎のように文書で出てくることはない。

とすると図書助は誰なのか。

ここで着目されるのが、北条氏邦同心と見られる横地氏である。氏邦が「横地」に言及した文書には要検討ながら1562(永禄5)年のものがある。そして、1585(天正13)年に鑁阿寺に向けて書状を発した横地左近大夫勝吉は、氏邦の意を奉じて戦時の折衝を行なっていた。また年未詳の氏邦朱印状写によると、武蔵国榛沢辺りに「横地備前守跡八幡社前」という地名記述がある。

  • 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p29「北条氏邦朱印状写」(北条氏歴代朱印・花押写)年未詳

武州榛沢郡榛沢村・原宿村・横地備前跡八幡社前・上州緑埜郡谷岸南方観音石ヲ限リ、中沢播磨跡谷川村・片岡郡吉昌庄・吾妻郡円通寺領、右之処、養父岩田彦次郎跡無相違充行者也、
九月九日/日付に(朱印「翕邦把福」)/中山玄蕃頭殿

これらを合わせると、横地氏は小田原を中心にした都市整備に関わりつつ、2系統が分派したと見ることが可能。そこに官途名が図書助の人物が入れる余地があるとすれば、受領成りして備前守となった氏邦同心の系統(恐らく勝吉の父)しかいない。また助四郎については、2回の登場で26年が空いていることから、図書助と勝吉が父子で同じ仮名を名乗ったことが考えられる。

  • 氏照同心:監物丞吉信・与三郎(吉清?)

  • 氏邦同心:(助四郎)図書助(備前守)・(助四郎)左近大夫勝吉

史料が少なく明確ではないが、氏照同心の系統は出向後には氏照指揮下での行動に専念している。氏邦同心のほうは氏邦朱印状の奉者にもならず、虎朱印状奉者に名を出すなどで当主指揮での活動も見られるといえそうだ。

2022/03/28(月)北条氏規への偏見について

以前フォロワーさんに教えていただいた下山治久氏の北条氏規記事で疑問があったので覚書。

対象記事

情報誌「有鄰」531号 北条氏規と徳川家康との熱い関係(下山治久)

下山治久氏というと後北条研究では大御所なのだけど、氏規に関しては予断というか思い込みから妙な解釈をしているので論拠史料と比較してみる。一般向けの記事ということで後世編著からの憶測を織り交ぜて記述しているのかもしれない(下山氏編の『戦国時代年表後北条氏編』では下記のような解釈は見られない)。

家康は氏規と昔話をしたがった?

記事引用「天正11年(1583)3月にはすでに三河・遠江国の大名になっていた家康から伊豆の韮山城(静岡県伊豆の国市)城将になった氏規へ書状を出して伊豆の近くに出陣したので、ぜひ会って少年の頃の思い出話しをしたいと記しているのである」

この典拠は以下の文書を指すのだが、実態とは異なる。家康は3月5日に富士郡で、3月28日には甲斐国内で宛行しているのでそこは合っているのだが、実際には駿東近辺で恐らく氏直に出されたもの。その中で氏規が仲介していたという事実のみがある。

其地江被納御馬之由、先以目出度存候、仍拙者儀、駿甲為見廻与、此地迄令出馬候、程■候之間、節ゝ可申談候、委細猶濃州迄申入候条、不能詳候、恐ゝ謹言、
三月十九日/家康/宛所欠

戦国遺文後北条氏編4507「徳川家康書状写」(諸州古文書)1583(天正11)年比定

その地へ御馬を納められたとのこと。まずもってめでたく思います。拙者は駿河国・甲斐国を見回ろうとこの地へ出馬しました。程(近く?)なので、時々ご連絡しましょう。詳しくは更に氏規に申し入れておりますので略します。

※「申談」は情報交流を示し、直接の面談に限定されない。たとえば、戦今1175で武田晴信は天野安芸守に「於自今以後者、其近所節々可申談候条」と書いているが、北遠江の天野と面談した様子はない。

氏規は重次と昔話をしたがったか?

記事引用「翌11年正月には氏規が家康の重臣の本多重次に外交交渉の謝礼として名馬を贈り、ぜひ面会して若い日の思い出話しを語りたいとの書状を出すにいたった」

この文中に「面会して若い日の思い出話しを語りたい」というものはない。「別紙」の挨拶がどのようなものかは不明だ。

別紙ニ令啓候、散ゝ之馬ニ候得共、鴇毛之馬進候、委細鈴木伊賀守口上ニ申含候、恐ゝ謹言、
正月五日/氏規(花押)/本作左御宿所

戦国遺文後北条氏編4775「北条氏規書状」(森田周作氏所蔵文書)1583(天正11)年比定

別紙でご挨拶しました。散々な馬ですが鴇毛の馬を進上します。詳しくは鈴木伊賀守の口上に申し含めました。

氏規は忠次に同盟を持ちかけたか?

記事引用「北条氏規と徳川家康が戦国大名の外交交渉の相手として出くわすのは、甲斐の武田信玄が駿甲相三国同盟を破棄して今川領の駿河に侵攻した翌年の永禄12年5月末であった。氏規が家康の側近の酒井忠次に書状を出して北条氏と徳川氏が和睦同盟して共に信玄に当ろうともちかけたのである」

これは該当文書がないが、氏政が既に締結された交渉条件に基づいて氏真返還に尽力した酒井忠次に礼を言っている書状は存在する。この取次役として氏規の名は出ているものの、同盟を氏規が持ちかけたかは不明であり、この同名交渉前に氏規と忠次に交流があったかも判らない。

就氏真帰国、家康へ以誓句申届処、御返答之誓詞、速到来本望候、殊氏真并当方へ無二可有御入魂由、大慶候、就中懸河出城之刻、其方至于半途為証人入来之由、誠以手扱喜悦候、自今以後者、家康へ別而可申合候条、可然様ニ馳走任入候、仍馬一疋黒進之候、猶弟助五郎可申候、恐々謹言、
五月廿四日/氏政(花押)/酒井左衛門尉殿

戦国遺文後北条氏編1229「北条氏政書状」(致道博物館所蔵酒井文書)永禄12年比定

氏真の帰国について、家康へ起請文で申し入れたところ、ご返答の起請文が速やかに到着し本望です。特に、氏真と東方へは無二に親しくしていただけるとのこと、大慶です。とりわけ掛川城から出る際には、あなたが保証人として途中まで付き添ったのは本当に喜ばしい手扱いです。これ以降は家康へ格別に申し合わせますから、しかるべき馳走をお任せします。ということで馬1疋を進呈します。更に弟助五郎が申します。

氏規は家康に茶の湯を学びたがったか?

記事引用「天正12年9月末に氏規が某に家康に会って茶の湯の作法を学び昔話をしたいと伝えた」

当該文書によると、家康は無上茶を時々氏規に贈っていると言及されているだけで、会って昔話をしたいと伝えている相手は忠次。

先日者預一簡候、祝着候、面談之心地面詠入候、陸地之通用可有之事猶有間敷候、必一夜備ニ御越彼むかしを承届度候、自先年者少年寄候へ共、彼覧之昔を承度候、仍箱一給候、御心指祝着候、秘蔵可申候、但茶之湯与成らん不存候間如何然共自家康節ゝ無上御音信候、賞味不浅候、遂面上積御物語申度候、委細者朝弥可被申候条早ゝ申候、恐ゝ謹言。追而到来之間、鮭進之候、
九月廿三日/美氏規(花押)/宛所欠

戦国遺文後北条氏編4024「北条氏規書状」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)年未詳

先日はお手紙を預かりまして祝着です。面談の心地を歌に詠み入りました。陸地の通用は望めないでしょう。必ず一夜備えにお越しになりあの昔話を承りたく。先年よりは少し年寄になりましたが、かれらの昔をお聞きしたいのです。茶箱1つをいただき、お志祝着です。秘蔵いたしましょう。ただし茶の湯やらは存じませんのでどうでしょう。でも家康より折々に無上をいただいています。味わい深いものです。直接お会いして積もる話をしたいところです。詳細は朝比奈弥太郎が申しますので筆を置きます。
追伸:ちょうど到着しましたので鮭を進上します。

これは恐らく酒井忠次か岡部元信宛てのものだろう(この文書は戦国遺文だと年未詳で、天正12年とした根拠が不明。天正12年であれば岡部元信は候補から外れる)。氏規が聞きたがっているのは忠次が語る共通の知己達の昔話だろう。前述のように永禄12年の同盟交渉で氏規は徳川家中とやり取りはあったようなので、その時に知り合った人物の話である可能性がある。勿論、氏規の駿府滞在時代を示唆する可能性もあるが、それを裏付ける史料はない。

このように、下山氏は史料を「氏規は家康と駿府で親しかった」という予断に基づいて解釈している。現状の史料からは家康が駿府に入ったのが確認できるのは天正10年以降なので、厳密な史料解釈としては正しくないように思う。

2022/03/23(水)新出の北条氏照・氏規連署書状

Twitterのフォロワーさんからご教示いただき、『川崎市文化財調査集録55』にて北条氏照・氏規の連署状が新しく発見されたことを知った。

この文書についてあれこれ考察してみようと思う。

新出文書

北条氏照・氏規、韮山の某に駿東の戦況を報告

原文

不寄存候処、此度就致出陣、御使特御折紙、披閲本望之至存候、昨日者、興国寺へ罷移、万端申付候、陣屋等無之間、打返黄瀬川端陣取申候、明日者、吉原辺迄陣寄、一両日之内、富士筋地形見聞、彼口之様子可申達覚語候、委曲大草方口上頼入候、恐々謹言、
七月十二日/氏照(花押)・氏規(花押)/宛所欠(上書:韮山江御報 北条源三・■■■)

川崎市文化財調査集録55「北条氏照・氏規連署書状」(王禅寺文書)1569(永禄12)年比定

解釈

思いがけず、今回の出陣について御使者、特にお手紙をいただき拝見しました。本望の至りに思います。昨日は興国寺へ移動し、万端申し付けました。陣屋がなかったので引き返し、黄瀬川岸に陣取りました。明日は、吉原辺りに陣を寄せ一両日のうちには富士方面の地形を調査して、あの口の様子を報告する覚悟です。詳しくは大草方へ口上を頼みました。

疑問点

文意から氏規が連署する必然性はない

「富士筋地形見聞」とあるが、氏規は駿府育ちだし吉原までの進軍は前年12月に行なっている。武蔵・下総での合戦しか経験がない氏照単独なら判るが、むしろ不審に見える。元々は氏照単署だった書状に氏規が巻き込まれた感じがする。

戦国期の連署の実態については先行記事連署の順番は序列を表すかをご参照のこと。

奥書きとしての宛所がなく、上書き宛所が小路名

書状の奥に宛所を書かずに上書きで宛名を書く例は少ない。更に、写し文書だと宛所が削除された可能性があるので、これを除外すると179例ある。

宛所欠で上書きあり_正文

上記例をざっと見ると、女性や僧侶に宛てたものやごく近い人間に内々の情報として送ったもの、急いで報じようとしたものが多い。敬称についても丁寧なものもあり、それなりに格上相手にも送られたようだ。

この中で宛所が小路名(地名)になっているものは1例しかない(戦国遺文後北条氏編3687)。これは伊豆山中城に籠城中の松田康長が箱根権現別当に宛てたもので、上書きに「箱根へ尊報御同宿中 自山中松兵太」とある。とはいえ、他の寺社宛てではことごとく寺社名を宛所にしているのでこれは例外中の例外と見てよいだろう。

「韮山」に敬称としてつけられた「江御報」は他に4例があるが、何れも奥書の宛所に用いている(北条氏照2・千本芳隆・真壁氏幹各1)。氏照文書として違和感がないものの、なぜ奥書の宛所が書かれなかったのかは違和感がある。

北条氏政弟の連署は珍しく、他には天正10年の氏照・氏邦連署が2通あるのみ

北条氏政の弟達は連署を出すことがほとんどない。氏照・氏邦が連署を出したのは甲信遠征時であり、虎朱印状の奉者としても両人が名を連ねる例外案件。どういった状況で出されたものかを慎重に見極める必要がある。

文書を取り巻く状況

永禄11年12月12日、駿河国に侵攻した甲斐国の武田晴信に対して、北条氏政は素早く今川氏真支援に動き、駿東方面の各拠点を押さえた(薩埵・蒲原・富士大宮・興国寺)。氏真は駿府を維持できずに遠江国掛川へ逃れるも、晴信と示し合わせて三河国から遠江国に侵入してきた徳川家康の包囲を受ける。そこで氏政は伊豆国から海路援軍を送り、掛川の氏真に合流させた。

一方で氏政の父氏康は晴信との交戦に伴って、これまで対立してきた越後国の上杉輝虎との同盟を模索、氏政の弟である氏邦から由良成繁を介して交渉を行なう。同時期に、下総国関宿で上杉方と交戦中だった氏照も、北条高広を介して輝虎に独自接触し同盟交渉を始めた。

翌年閏5月になって事態は急転回し、掛川で氏真を囲んでいた家康が氏政と和睦。氏真退去後の掛川を接収することで合意し、氏真らは後北条被官達とともに駿河へ帰還する。この外交転換で晴信は東の氏政、西の家康から挟撃される形となり駿河国から撤退することとなった。

その後、なおも甲斐国から南下する晴信に備えるため、氏政は薩埵・蒲原・富士大宮・興国寺のほかに、御厨で矢倉沢往還を押さえる深沢城を構築。対する晴信は、上野国や秩父からの侵入を小刻みに行なって後北条方の兵力を分散させつつ、富士大宮の攻略作戦を進めていく。

こうした中で5月下旬から富士大宮は武田方に包囲されていた。閏5月を挟んで6月28日・29日に氏真が富士大宮籠城衆の奮戦を称えているものの、同時進行で籠城衆は武田方と開城交渉を行なっており7月3日には城主らが退去して開城したようだ。

氏照の参戦状況

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この時の後北条方は、蒲原の北条氏信、興国寺の垪和氏続、深沢の北条綱成は継続して在城したものの、薩埵近辺で奮戦していた北条氏邦は本領の武蔵国鉢形に戻っている。これは、武蔵国への侵攻を武田方が試みている状況を受けてのもの。代わって、越相同盟交渉の進展で武装解除された下総国戦線から北条氏照が引き抜かれた(6月9日に相模国小田原で後北条一門が集まって輝虎への起請文を作成していることから、氏照はそのまま留まっていたと見られる)。

ただし氏照の動きは緩慢だった。6月28日に氏照は野田景範に西方戦線への移動を伝えているが、7月4日になっても小田原にいて「富士大宮への支援で氏政が出馬して私の部隊も同行するようだ」と書きつつ、栗橋留守部隊の移動指示をしている。こうした氏照の不安を解消するべく、これに先立つ7月1日に氏政・綱成が相次いで景範に留守居を指示している。氏政は何としてでも氏照を駿河戦線に投入したかったのだろう。

氏政の思惑を横目に、氏照は7月5日になっても武蔵国御獄の番衆の労をねぎらったりして視線が東に引き寄せられたまま。この2日前に富士大宮は開城しているが、富士信忠は後北条方に留まり、恐らく吉原近辺で失地回復を目指していた頃だ(信忠は氏真から暇状をもらう元亀2年10月26日までは後北条方に留まっている。また、7月4日に蒲原城番の氏信が吉原の各拠点に対して督戦したり禁制を出したりしている)。

この時点で富士大宮を奪還できれば駿東戦線は維持継続されていた筈で、ここが重要な転換点であることは後北条方も認識していた。だからこその氏照投入だった訳だが、7月12日段階で氏照は黄瀬川に引き返していた。17日に氏照は輝虎に書状を発しているが、内容は取次担当者の確認のみで駿河戦線には言及していない。既に戦線から離れていたのだろう。

永禄11年12月の際は、12日に晴信が駿河国に侵入すると翌日には氏政が三島へ着陣、15日に氏規が吉原で禁制を発している。これと比べると、吉原にさえ進まなかった氏照は進軍に消極的だったといえる。

宛所は何者か

使者として「大草」を使えて、氏照に「氏規連署が必要」と思わせる人物。そしてその人物は韮山に滞在していたが、それを氏照が想定できていなかった。手がかりとして確実なのはこの程度だろう。

そこで候補者を挙げつつ、それぞれ条件に合致するかを記してみる。

氏真

  • 合致

    • 被官に大草次郎左衛門尉が存在
    • 上書に「北条源三」とある点は他家宛てを想起させる
    • 氏照は面識のある氏規を連署に加える配慮を見せた
  • 不合致
    • 他家太守を敬ったにしては奥書の宛所がない
    • 他国太守に宛所を欠いた書状は見られない
    • 韮山は暫定滞留なので「御陣所」をつける可能性が高いがそれがない
    • この時点では氏真は沼津にいた(別記事参照今川氏真帰国後の居所

宗哲

  • 合致

    • 大草康盛(左近・丹後守)がのちに奉者になる
    • 息子の氏信が蒲原に在城しており連携しやすい
    • 身内なので奥書の宛所を略した可能性がある
    • 北条氏康が宗哲に宛てた書状は宛所欠で上書きに「幻庵参 太清軒」(戦国遺文後北条氏編1535)とあり形式が近い
  • 不合致
    • この当時の大草康盛は虎朱印状奉者で繋がりが弱い
    • 宗哲宛ての文書5通で小路名のものはなく、全て「幻庵」を含む。地名を含んだ場合も「幻庵久のとのまいる」(戦国遺文今川氏編2367)となる
    • 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
    • 氏規を連署にする理由が想定できない

山木大方

  • 合致

    • 韮山に知行を持っている
    • 身内の女性宛てなので奥書の宛所を略した可能性がある
  • 不合致
    • 使者「大草」との繋がりが不明
    • 女性宛ての文書でない
    • 香山寺住持など他者を介したとしても当該文書内に「披露」の文言がない

氏政

  • 合致

    • 7月4日の氏照書状では氏政が三島に出馬するとあり、伊豆に在国した可能性がある
    • 虎朱印奉者として大草康盛を帯同できた
    • 兄の叱責を恐れ、作戦進行の遅れを弁解するため氏規の連署を入れた
  • 不合致

    • 相模円能口合戦の褒賞、知行宛行、課役徴発といった文書発行を見ると小田原在城の可能性が高いように見える
    • 氏照が「思いがけず連絡をもらった」と驚く要素がない
    • 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
    • 氏政は駿東の戦況と地形に詳しく氏規を連署にしても言い訳にならない
  • 備考
    • 弟から氏政への書札礼の例がないため比較不能
    • 結びが「恐惶謹言」でなくても問題なし
    • 後北条一門は他家太守に宛てて「恐々謹言」で文書を発している
    • 吉良氏朝が氏政に宛てた書状では結びが「恐々謹言」で宛所が「御隠居」(戦国遺文後北条氏編3256)

氏康

  • 合致

    • 大草康盛は永禄9年6月10日に氏康朱印状奉者になっており帯同に問題はない
    • 7月2日、伊豆国桑原郷に箱根竹の供出を命じている(伊豆への朱印状発給は異例)
    • 開戦初頭から小田原にいたため最新の戦況・地形に疎く氏規連署が言い訳になる
    • 氏康の韮山滞在を氏照が把握できておらず驚いた可能性が高い
    • 氏康は7月3日~26日に文書が見られず外出していた可能性がある
  • 不合致

    • 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
  • 備考
    • 息子から氏康への書札礼の例がないため比較不能
    • 結びが「恐惶謹言」でなくても問題なし
    • 後北条一門は他家太守に宛てて「恐々謹言」で文書を発している
    • 吉良氏朝が隠居後の氏政に宛てた書状では結びが「恐々謹言」で宛所が「御隠居」(戦国遺文後北条氏編3256)

まとめ

北条氏照・氏規の連署状は、駿河国富士大宮城の救援に失敗した過程を表している。富士信忠が本拠を失陥することは、駿河を巡る北条氏政と武田晴信との紛争で画期となる出来事であり、東の戦線から氏照を入れることで乗り切ろうと氏政は考えていた。しかし氏照の動きは緩慢で手前の吉原に至ることなく黄瀬川に引き返している。

富士大宮城に関して氏照は他の書状で「悪地誠ニ雖屋敷同前之地ニ候」(戦国遺文後北条氏編1277)と酷評しており、状況打開の意気込みは感じられない。ただ、この連署状では強気な発言はなく「興国寺に陣所がなく引き返した」と弁明のような趣旨が感じられるし、氏規を連署に引き込んでいる点から「自分だけのせいではない」という主張も想定できる。

この点から見て、氏照が強く出られず氏規が言い訳に使える相手が宛所、すなわち氏康である確率が高いだろうと考えている。

もう一歩踏み込んだ考察

ここから先は「宛所が氏康」という前提で考えてみる。仮定を重ねているので参考用の覚書となる。

この連署状を送ったあとの氏照は、7月17日付で輝虎に書状を送っている。

北条氏照、上杉輝虎に取次役の担当者を確認する

原文

態預芳札候、御懇切之段、誠以本望至極存候、仍越相御一味御取次之事、弟候氏邦并氏照可走廻段、去春氏康被申述候之哉、於拙者存其旨候、然ニ此度就両使御越、氏邦一人走廻儀、御不審之由候、由良手筋故、如此候キ、於氏照も内外共、従最前之御首尾、聊不存無沙汰馳走申候、定而広泰寺・進藤方可被申達候、委細山吉方頼入之由、可得御意候、恐々謹言、
七月十七日/北条源三氏照(花押)/越府江御報

戦国遺文後北条氏編1287「北条氏照書状」(上杉文書)1569(永禄12)年比定

解釈

わざわざお手紙をいただき、ご懇切なこと本当に本望の限りに存じます。越相同盟の取次役のこと、弟の氏邦と氏照が担当すると、去る春に氏康が申しましたでしょうか。拙者においてはそのように考えていました。しかるに今回、両方の使者が伺うことについて、氏邦一人が担当しているのがご不審とのこと。由良成繁経由なのでこのようになりました。氏照においても内外ともに最初から最後まで、少しの無沙汰もせずに奔走します。恐らく広泰寺・進藤方より申されるでしょう。詳しくは山吉方に頼みました。御意を得られますように。

この「取次役が氏邦・氏照で不審」と輝虎から言われた案件は、3月3日に氏康が回答済み。その時氏康は「氏邦と氏照の2人を使っても、どちらか一人でも構いません。もし氏照を継続させるとしても由良成繁経由に統合します」と輝虎に伝えている。その時の書状は下記になる。

北条氏康、上杉輝虎被官の河田伯耆守・上野中務少輔に取次担当者について確認する

原文

一、越相取扱之儀、旧冬以来源三・新太郎如何様ニも与存詰、様ゝ致其稼候、就中新太郎ニ者愚老申付、由信取扱ニ付而、無相違相調、源三事も、涯分走廻処、難指置間、以天用院進誓句砌、源三・新太郎扱一ニ致、以両判添状申付候、然ニ自陣中三日令遅ゝ、二月十三日来着候、天用院をハ十日ニ当地を相立候、然間、其砌両判添状をしおかれ、愚老預置、此度進候。一、向後之義者、両人共可走廻歟、又不及其儀、一人可走廻歟、菟も角も輝虎可為御作意次第候、愚老心底者、両人共ニ走廻候者、弥可満足候、菟角可然様、各頼入候。一、源三事も由信方頼入、以同筋可申入候、猶爰元不可有紛候、恐ゝ謹言、
三月三日/氏康/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿

小田原市史資料編小田原北条0791「北条氏康書状写」(歴代古案三)1569(永禄12)年比定

解釈

一、上杉と後北条との取次役のこと。旧冬以来氏照・氏邦がどのようにも対応しようと思い、あれこれ励んでいました。とりわけ氏邦には愚老が指示して由良成繁の取り扱いとして相違なく準備させました。氏照も随分と活躍していましたが配置が難しかったので、天用院が起請文を進呈した際に、氏照・氏邦の扱いを統合すると、双方が花押を据えた添状を用意させました。しかるに陣中より3日も遅れて、2月13日に到着。天用院は10日にここを発っていました。その添状を愚老が預かっておりましたので、この度お送りします。一、今後のことは、両人ともに起用しましょうか。またはそれには及ばないなら一人だけにしましょうか。とにもかくにも輝虎のお考え次第です。愚老の心底では両人ともに使ってもらえれば、満足です。ともかくしかるべきように皆さんお願いします。一、氏照となっても由良成繁を頼みますので、経路は同じになるでしょう。更にこちらから混乱させることはないでしょう。

このように氏康は取次役をどうするかは輝虎に一任しているのだが、その案件を半年を経て氏照がわざわざ蒸し返したのがなぜか、今まで判らずにいた。恐らくは輝虎が明確な返事をしなかったのだろうかと。

しかし、富士大宮失陥への対応失敗を受けて氏康の不興をかった氏照が越後への取次役を確認することで、外交上で重要な地位を占めているのだと、輝虎を介して氏康に伝えたかったと考えれば腑に落ちる。

そして連署状で「北条源三」と上書きに書いたのは、氏照が勝手に北条に改姓したことに繋がるように見える。元々氏照は「大石源三」と自称しているが、晴信の駿河乱入で独自に輝虎と同盟交渉を始めた際に「平氏照」「北条源三氏照」と自署していた(大石氏は源氏で、それは氏照仮名の「源三」にも表れている)。

ところが、この当時他家の本文内では一貫して「大石源三」と呼ばれている(上杉家中ですら)。氏康にしても氏照・氏邦を同列に扱っており、藤田を名乗り続ける氏邦と、北条に復姓したはずの氏照を同列に扱っていた。また、氏康・氏政と氏照で連絡が滞っていたことは下総国山王砦破却を巡る経緯で確認できる。上記から、氏照改姓は氏康・氏政の承認を経ず、関東諸家・武田家には周知されなかったのだろうと考えている。

そしてこの独自の改姓は、6月9日に後北条一門が小田原に勢揃いして血判起請文を作成した際に氏康・氏政に知られてしまったのだろう。この時改姓を既成事実として認めた氏政とは違い、氏康は認めなかったのだろうと思う。というのは、それまでも氏政・氏邦と比して氏照言及数が少なかった氏康文書から、このあと一切氏照が登場しなくなるのである。

こうした確執を念頭に置くと、韮山から黄瀬川という短距離、かつ身内への書状にわざわざ大草康盛という懐刀を使者として送り込んだ氏康の厳しい視線と、それに身構えた返書をした氏照の鬱屈が読み取れる。

氏康・氏政の受給文書はほぼ残されていないのに、これだけが伝来したというのも、韮山でこの書状を読んだ氏康が捨てるように放置し、それを拾った者がいたのを示すのかもしれない(本拠に持ち帰って文箱に入れなかったイレギュラーさから例外的に残されたという想定)。

2022/03/22(火)今川氏真帰国後の居所

掛川退去後の氏真はどこにいたか

永禄11年12月に本拠地である駿府を武田晴信に追われた今川氏真は、掛川で籠城する。ここで徳川家康に攻囲されるものの、伊豆から海路やってきた後北条方の援軍を得て善戦。やがて北条氏政が家康との停戦交渉に成功し、掛川から出ることとなる。遠江国は徳川分国となり、永禄12年5月、氏真は自身の被官と後北条方援軍を伴って駿河へ入った。

  • 5月18日:氏政は大叔父の北条宗哲への書状で状況を報告

    「氏真御二方各無相違、昨日蒲原迄引取申候」(戦国遺文今川氏編2367)

  • 5月28日:氏政は自身の被官清水新七郎へ、掛川に援軍として駐屯したことを賞しつつ氏真帰国に言及

    「終氏真并御前御帰国候」(戦国遺文後北条氏編1228)

  • 閏5月3日:北条氏康は、氏真被官の岡部大和守に戦況を報告

    「氏真御二方、無相違至于沼津御着候」(戦国遺文今川氏編2382)

  • 閏5翌4日:氏政被官の遠山康光は、上杉輝虎被官の松本景繁に戦況を報告し氏真近況に触れる

    「只今者、三島近所号沼津地被立馬」(戦国遺文後北条氏編1240)

  • 閏5月21日:氏真は輝虎に宛てた書状で近況を報告

    「去十五日駿州号沼津地納馬候、当地氏政陣下三島為近所之間、諸事遂談合」(戦国遺文今川氏編2400)

5月17日に遠江国の掛川から駿河国の蒲原に移る。ここには北条宗哲の息子である北条氏信が在城。翌閏5月3日には更に東へ移動して沼津に入った。黄瀬川を挟んだ三島には氏政の本陣があり、ここに居を据えて駿河国全域の奪還を目指すと上杉輝虎に伝えている。

このように、氏真を擁した後北条方は駿河国から武田方をほぼ撤退させるに至るものの、7月3日には富士大宮城を奪われてしまう。その後晴信の小田原急襲を経て、同年12月6日に蒲原城、12日には薩埵峠も失陥。深沢城・興国寺城は維持していたものの、戦況は悪化しており、氏真は沼津から離れたようだ。

  • 12月18日:氏真は自身の被官興津摂津守の功績を称える

    「就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也」(戦国遺文今川氏編2434)

文面から緊急退避した様子が伺われる。対比先の「当城」は地理的に考えて韮山城だろう。

上記を勘案すると、閏5月3日から氏真は沼津にいて12月18日より前に韮山城へ退去したと考えるのが妥当である。氏真が退避したのは蒲原・薩埵の陥落によって沼津近郊の安全が保証されなくなったためだと思われる。

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氏真が大平にいたとする仮説の信憑性

通説での氏真は沼津から南にある戸倉か大平にいたとされる。戸倉にいたとするのは江戸期の編著史料である『北条記』によるもので、大平とするのは同時代史料の存在が影響している。

北条記による戸倉説は同時代史料の範疇外なので顧慮しないとして、氏真が駿河大平にいたというのは以下の虎朱印状の解釈による。

後北条家、吉原の矢部将監に鈴木某の身元調査を命ず

原文

鈴木令帰往由、入御耳候、彼者親敵へ相移由候条、実否可令糺明間者、可他出由申付処ニ、不審候、若者大平へ如何様ニも申上有仁、被為返候哉、自最前之筋目知候間、申付候、彼者糺明之間、吉原ニ置事無用候、此印判を大平へ致持参、右趣可申上候、猶鈴木父、信玄へ不出仕条、歴然之所申開ニ付而者、不可有別条状如件、
巳潤五月十五日/日付に(虎朱印)石巻奉之/吉原矢部将監殿

戦国遺文後北条氏編1250「北条家虎朱印状」(矢部文書)1569(永禄12)年比定

解釈

鈴木が帰住したと耳にした。彼の父は敵方へ移ったというので、実否を調査している間は追放せよと指示していた。不審なことだ。もしかしたら、大平に巧妙に申告した者がいて帰住したのだろうか。直近の状況を知っているので指示する。彼を調査している間は吉原に置くことは無用である。この印判を大平に持参し、右の趣旨を申し上げよ。なお鈴木の父が信玄へ出仕していないのが明白ならば、帰住に問題はない。

これは吉原の矢部将監に宛てたもので、鈴木某が吉原に帰住したと聞きつけた氏政が発したもの。これより先に、鈴木の父は武田方に寝返ったという情報があり、その真偽を確認するまでは鈴木を吉原から追い出せと指示していた。この時に氏政は「大平は鈴木父の件を知っているのか」と疑問を感じており、経緯を大平と共有するように矢部へ命じている。

この鈴木某は、恐らく鈴木善右衛門尉だろう。開戦最初期の永禄11年12月24日に吉原へ宛てた虎朱印状では宛所の名義が「矢部将監殿・渡辺兵庫助殿・鈴木善右衛門尉殿・石巻代市川殿・山角代鈴木弾右衛門殿」となっているが、1月晦日の虎朱印状では「太田四郎兵衛殿・鈴木弾右衛門尉殿・矢部将監殿」と、後北条家中の江戸衆である太田四郎兵衛、小田原衆山角氏の被官鈴木弾右衛門尉の名が先に挙げられ、今川家中では矢部将監しか残されていない。

この「大平」を地名と解釈し、氏真が大平にいたと読んだのが大平居住説の論拠だろう。しかしこの解釈は無理がある。三島にいた氏政からすれば、吉原の矢部に「大平へ問い合わせろ」というよりも直接大平の氏真に確認した方が早い。その上で鈴木の帰住許可をどうするか矢部に指示するのが合理的だ。

武田家内通を疑っている人物が吉原に入り込んでいるかもしれない時に、氏政が「この印判を大平に持参しろ」と書いているのも妙だ。矢部が吉原から大平移動せねばならず、その間は吉原が手薄になってしまう。氏政は基本的に現場判断に委ねつつ「ちょっと事情を確認して。前に疑いがあったから」と、咄嗟の念押しをしている。仰々しく三島・吉原・大平を言ったり来たりするような内容ではない。

また、虎朱印状は後北条家中で効力を発揮するものであり、当主が被官に対して発するのが前提である。さらに言うと、朱印・黒印といった印判状は薄礼で後北条氏でも外交文書や感状にはほぼ使われない。分国が崩壊したとはいえ駿河太守である氏真に対して、この朱印状を見せろと言うだろうかと疑問に思う。虎朱印状内で「これを代官・抗議者に見せろ」と書いている例はあるが、家中外に向けて掲示させるような例はない(戦国遺文後北条氏編1776・小田原市史資料編小田原北条1391/1572など)。

対武田方戦をともに行なっていた今川家有力被官(富士兵部少輔・岡部和泉守・三浦左京亮)に対しても、氏政は虎朱印状を使わず書状で連絡している。

※一方で、矢部・杉本・秋山・武藤といった駿東の小規模被官には虎朱印状を用いている。これは永禄11年12月の開戦初頭からのもので、戦時制圧した領地は終戦まで実効支配するという枠組みによるものだろうか。この点は検討を要する。

何れにせよ、対等な太守である氏真を自身の朱印状で追求する行動を氏政がとるとは考えづらい。

このように、行動手順・書札礼から考えれば「大平」は人名で、吉原の後北条方拠点にいた責任者だったとする方が齟齬がない。

後北条方では4月15日に大平右衛門尉が確認できる。

  • 4月15日:虎朱印状で大平右衛門尉・江戸刑部少輔・江戸近江守を緊急動員

    「敵動火急之由告来候間、早ゝ人数を集、来廿一日当地迄着陣待入候、普請動無寸隙、御苦労無是非候、雖然、自敵至懸儀無拠候者、塩味専要候、猶御仁体へ、重而可申候」(戦国遺文後北条氏編1408)

この書状は永禄13年に比定されているが、その前年の比定でも矛盾は生じない。また、大平右衛門尉と同じく武蔵吉良家に仕えている高橋郷左衛門尉は永禄12年1月13日にはこの戦線への投入が確認されている。このことから、永禄12年閏5月15日時点で大平右衛門尉が吉原にいる可能性はある。

氏政が大平に直接朱印状を発しなかった理由は不明だが、吉原統括者となって日が浅い大平よりも、元から吉原にいた矢部を動かした方が早いと判断したと考えられる。

この時点で沼津が戦場だったか

もう1点、氏真が狩野川より南にいたと判断された根拠として武田晴信の3通の書状がある。永禄12年比定で「伊豆に攻め込み三島で勝利した」と自身の被官に報じたもの。これがあるため「武田方は三島まで攻め込んでいるため沼津は拠点確保できなかった」という先入観を持つこととなり「氏真が沼津に留まり続けられる筈がない」という予断を招いたものと思われる。

武田晴信、某に駿河国への攻撃状況を伝える

原文

今度向豆州出馬任存分、則当城へ移陣候、仍富士兵部少輔属穴山左衛門大夫、種々懇望之旨候、但分量之外訴訟数多之間、可赦免哉否思案半ニ候、何ニ当表之本意可為五三日之内候条、可心易候、次ニ由比又四郎召寄候之処、存命不定之煩、因茲先方万沢迄返候、猶土屋平八郎可申候、恐々謹言、
七月朔日/信玄御居判/宛所欠

戦国遺文今川氏編2407「武田晴信書状写」(塩山市・菅田天神社文書)1569(永禄12)年比定

解釈

今度伊豆国に出馬して思うがままにし、すぐにこの城へ陣を移しました。富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属したいと様々に懇望しています。ただ、とても訴訟が多いため、赦免するかどうかは思案半ばといったところです。どちらにせよこの方面で目標を達成するのは数日でしょうから、ご安心下さい・次に、由比又四郎を出仕させようとしたところ、生死も危うい病気ということで先方が万沢へ返しました。更に詳しくは土屋平八郎が申します。

武田晴信、玉井石見守に駿河国内の戦況を伝える。

原文

従是可申越之処、態音問祝着候、抑今度向豆州、及不虞之行、三島以下之悉撃砕、剰於于号北条地、当手之先衆与北条助五郎兄弟遂一戦、味方得勝利、小田原宗者五百余人討捕候、則小田原へ雖可進馬候、足柄・箱根両坂切所候之条、駿州富士郡へ移陣候、然者大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内ニ可渡城之旨儀定、此上者早速可令帰国候、猶土屋平八郎可申候、恐ゝ謹言、
七月二日/信玄(花押)/玉井石見守殿

戦国遺文今川氏編2408「武田晴信書状写」1569(永禄12)年比定

解釈

こちらからご連絡しようとしたところ、わざわざご連絡いただき祝着です。今度は伊豆国へ思いがけず作戦を行ない、三島以下全てを撃破。更には北条という地で、こちらの先遣隊が北条助五郎兄弟と一戦を遂げて味方が勝利し、小田原方の主な者500人余りを討ち取りました。、すぐに小田原へ馬を進めようとしましたが、足柄・箱根の両坂は険難なので、駿河国富士郡へ陣を移しました。大宮城主の富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属して今日・明日のうちに城を明け渡すのは確実です。この上ですぐに帰国するでしょう。更に土屋平八郎が申します。

武田晴信、大井左馬允入道に駿河国の戦況を伝える

原文

従三島直ニ向大宮出張、諸虎口取破詰陣候之処、対于穴山左衛門大夫、城主冨士兵部少輔悃望之間、令赦免、城請取、当表悉達本意候、此上城内法置等成下知、三日之内ニ可納馬候、可被存心易候、恐々謹言、
七月三日/日下に(朱印「晴信ヵ」)/大井左馬允入道殿

戦国遺文今川氏編2409「武田晴信書状写」(大井文書)1569(永禄12)年比定

解釈

伊豆国三島からすぐに駿河国富士大宮に出撃し、諸虎口を破って陣を詰めたところ、穴山左衛門大夫に対して、城主の富士兵部少輔が懇願したので赦免して城を受け取りました。この方面は全て望み通りとなりました。この上は城内に法を置いて指示を下して、3日以内に帰陣するでしょう。ご安心下さいますように。

ところが、この段階で武田方が三島に到達した証跡はない。北の御厨口は深沢城があり、西は蒲原・薩埵・富士大宮を抑えている。この直後に武田方が富士大宮を無力化させたのは確かだが、三島から富士大宮に行ったのではなく、右左口か身延を経て甲斐から直接攻撃したのだろう。実際、武田家の禁制は身延から富士大宮に向かう範囲にのみ出されている(静岡県史資料編8_45・46・53・54・55・56・57・58)。

晴信は虚報を発する例がある。たとえば、下記のように「伊豆一国を撃破して先月下旬に帰還し、更に5日には武蔵国御獄城を乗っ取り軍備を整えた」とある。

武田晴信、太田資正に伊豆・武蔵の戦況を伝え協力を求める。

原文

其已後者、通路無合期故、絶音問意外候、仍去月、向豆州覃行、一国悉撃砕任存分、下旬之比帰府、剰云五日、武州御獄之城乗取、則令普請、移矢楯・兵粮、甲信之人数千余輩在城候、然而至関東、早々可致出陣候、弥味方中無異儀様、調略憑入存候、恐々謹言、
六月廿七日/信玄(花押)/太田美濃守殿

静岡県史資料編8_0039「武田晴信書状写」(太田文書)1569(永禄12)年比定

解釈

それ以後は交通阻害で意に反してご無沙汰していました。去る月伊豆国に作戦を行ない一国全てを撃破し思うままにしました。更には5日に武蔵国御獄の城を乗っ取ってすぐに普請し、矢盾・兵粮を移して甲斐国・信濃国の兵員数千人余りを在城させています。そして関東に向かって早々に出陣するでしょう。味方に対しては異議が発生しないように、ますますの調略をお願いします。

ところが実態は異なり、伊豆国襲撃がないどころか、武蔵国御獄城から上野国長根城付近に攻め込まれ小幡三河守が後北条方に寝返っている(埼玉県史料叢書12_0360/戦国遺文後北条氏編1265/1271)。対抗する後北条方が虚報を伝えている可能性もあるが、氏政から由良成繁への援軍依頼や、平沢政実による長根への禁制から見ると他者をより多く巻き込んでいる点や、文書で登場する地名・人名が具体的であることからその可能性はないと見てよいだろう。

こうした晴信の虚報には氏康も翻弄されたようで、氏邦に対して注意を喚起している。

北条氏康、駿河国戦況を伝え、北条氏邦に武蔵国での軍事行動を指示

原文

■三日書状廿八日到来、具令披見候、一、今春向西上州相動、所ゝ放火敵数多討捕之由心地好候、各参陣人数又無分■人数書立令披見候、一、敵重而大瀧筋日尾之山口動候哉、か様之せゝり動ハ五■■七日不経可有之候、各為宗者懸廻ニ付而ハ不残可■兵候、其口ニ者請取之人数を定、切所際ニ指置郷人等をも相集、兼日ニ路次をも切塞、以普請待懸ニ付者、待方ニ可有勝利候、只兼日普請ニ極候、一、信玄ハ向富士城大宮ニ被陣取候、多勢之由申候、大瀧口へ出張者可為虚説候、口ゝにて信玄をかさし物ニ申候、大宮口ハ、歴然之陣取たる虚説有間敷候、一、矢鉄炮用所候由候、無際限召仕候、一疋一腰も不入候、何とて嗜無之候哉、不及是非候、一、御獄仕置先書如申、先当意者なため、小田原へ非可申入儀間、平沢・浄法寺共可致和融由、如何にも身ニ成懇ニ可被申候、猶致様者以使可申候、恐ゝ謹言、
六月廿九日/氏康(花押)/新太郎殿

小田原市史資料編小田原北条0978「北条氏康書状写」(新田文庫文書)1570(永禄13/元亀元)年比定

解釈

23日の書状が28日に到来し、詳しく拝見しました。
一、今春に西上州へ作戦を行ない、あちこち放火して敵を多数討ち取ったとのこと、心地よい思いです。おのおの参陣した兵員数の一覧を拝見しました。
一、敵は重ねて大瀧筋の日尾之山方面に動いているのでしょうか。そのようなつっつきは5~7日を経ずに起きるでしょう。おのおので主だった者を駆け回らせるよう兵を集めておくように。要路には受け持ちの部隊を定めて、要所に配置し村人も集めなさい。その前に道路を塞いでおき、普請して待ち受ければ勝利するでしょう。ひたすら、事前の普請で決まります。
一、信玄は富士城大宮へ陣取りました。多勢とのこと。大瀧口への出撃は虚説でしょう。口々に信玄をかざして言っているのです。大宮口は歴然とした陣取りで虚説ではありません。
一、矢・鉄炮が必要らしいですが、際限なく徴発すれば兵站は不要です。どうして事前の準備がないのでしょう。是非もありません。
一、御獄城の措置は先の書状で伝えた通りです。まず当意の者をなだめ、小田原へ訴えることがないように、平沢・浄法寺を和解させるよう、どうやっても懇切に説得するように。更なる指示は使者が申します。

まとめ

氏真滞在状況の史料精査から見て、彼が永禄12年の閏5月3日から12月17日までは確実に沼津に拠点を据えたと考えられる。

翌永禄13年4月26日に、北条氏康は小田原西方の海蔵寺・久翁寺に宛てて禁制を出し、この保証者に富士常陸守・甘利佐渡守・久保新左衛門を指名している。これは、早川右岸に今川被官が駐屯しており、近隣の寺社を保護する必要があったものと思われる(富士常陸守・甘利佐渡守については、後に武田氏が今川旧臣として記載)。

状況を考えると、永禄12年12月18日以降に氏真は韮山城を出て小田原西方の早川村近辺に転居したのだろう。