2017/10/04(水)北条氏康の次男―藤菊丸、賀永、氏規―

北条藤菊丸は誰か

1555(弘治元)年11月23日、古河公方足利義氏の元服式が行なわれた『鎌倉公方御社参記次第』(北区史資料編古代中世2-77)。そこには勿論北条氏康の姿があったが、脇に控えた少年も記録されている。

「北条藤菊丸氏康二男、御腰物御手移ニ被下候」

この場所に他の兄弟は(既に元服・妻帯している後継者の氏政すら)いない。北条氏康の次男として、他の兄弟とは別格で登場する「北条藤菊丸」が誰なのかを検討してみよう。

藤菊丸 = 氏照の検証

藤菊丸について、通説では北条氏照だとされてきたが、以下の矛盾点があり不自然だと思われる。

  1. もう1点の文書で藤菊丸は「北条」を名乗っているが、氏照は「大石源三」として登場し、後に北条に改めている。一貫して北条を名乗る氏規の方が適しているのではないか。
  2. 関東で藤菊丸の活動がなくなると同時に駿府で氏康次男として「伊豆之若子」賀永が活動を始める。
  3. 御相伴衆として名が載っているのは、氏政と氏規のみ。
  4. 天正11年に酒井政辰は氏照を「奥州様」氏規を「美濃守殿様」と繰り返し呼んでおり、家中でも氏規の方が格が上である。

 氏照を藤菊丸に比定する根拠としては、藤菊丸の名がある棟札が座間郷にあり、ここは役帳で大石氏の知行されている点、藤菊丸の初出が足利義氏元服式だったことと、後年氏照が義氏被官を指南した点、主にこの2点からだと思う。しかし、この論拠は充分な比定要件にはならないかも知れない。

岩付太田氏を巡って、源五郎と氏房が同一人物と思われていた理由が、岩付に入ったこと・氏政の息子だったことというお大雑把な共通点からの憶測でしかなく、史料の考察が進んだ昨今では、「氏房は当初より十郎を名乗り、一貫していること」「氏直(国王丸)・源五郎(国増丸)の他に菊王丸がおり、これが氏房に比定できること」から、源五郎と氏房は別人であるという比定に切り替わった。

以上から、座間郷・義氏の関係を氏照が濃厚に持ったとして、それは藤菊丸の後継位置に入っただけということであり、後世の系譜諸記録に幻惑されている可能性がある。

藤菊丸 = 賀永の検証

改めて史料を読んでみる。

後北条氏は、「菊寿丸=宗哲」「菊王丸=氏房」というように、幼名に「菊」を冠することがある。但し「藤菊丸」は「菊」の前に「藤」を戴いている点で特異である。藤原を称している氏族で関東において最も巨大な存在は上杉氏だ。氏康は、藤菊丸を関東管領の後継者にしようと考えていたのではないか。であるなら、義氏元服式に後北条の跡取りを入れず、藤菊丸だけを出席させたのは、公方の梅千代王丸に管領の藤菊丸を配するという構想があったからではないか。

藤菊丸が上杉を継承した場合に、それを「大石」として補助する予定で、源三氏照・左馬助憲秀が控えていたのかも知れない。でなければこの2人が「大石」を称した理由が判らなくなる。

ところが、藤菊丸はそのまま姿を消す。

そしてその年の10月、駿府を訪れた山科言継は北条氏康次男「賀永」という少年と出会う。氏康次男という出自や年齢からこの2人が同一人物であるのはほぼ確実だと思う。

それにしても、氏康はなぜ急に方針転換したのだろうか。

1556(弘治2)年1~4月、氏康は東への外征が顕著で、同じく今川義元も西に進んでいた。義元の息子である氏真は既に氏康の娘婿ではあったが、氏康が織田信秀に書いたように「近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候」という状況もあり、氏康はそちらの関係強化を狙ったのではないか。

その背景には、氏康の身内である晴氏室(芳春院)すら動向が定かではない古河公方周辺に対して「しばらくほとぼりを冷まそう」という狙いもあったかも知れない。ただ何れにせよ「急遽今川に渡す」という背景は史料から直接読み取れないから、ここはもっと論拠がほしいところ。

藤菊丸が消えた後、永禄4年に「大石左馬助」として名が出た憲秀はやがて松田に復するが、氏照は大石名乗りを続け、藤菊丸が治める予定だった座間領も統治する。もしかすると、氏照固有の「如意成就」の朱印も当初は藤菊丸に用意されていたのかも知れない。

賀永 = 氏規の検証

言継卿記で登場する賀永は「ガイエイ」とも呼ばれ、音読みであることが確定している。彼は北条氏康次男と書かれているから、氏規・氏照・氏邦のうちの誰かだろうと判る(氏政は既に元服しているため)。この3人の弘治2~3年の動向は不明だが、年未詳の今川義元書状で「手習いをしないと、小田原の兄弟衆に負けてしまうぞ」という文面が「助五郎」宛てに出されている点、助五郎は氏規の仮名である点から、賀永と助五郎、氏規は同一人物であると断定可能だと思う。

音読み「賀永」という名が何を意味していたかは不明。和歌を詠む際の号か何かを、寿桂が殊更呼んでいたのかも知れない。

藤菊丸 = 賀永 = 氏規と仮定しての年齢確認

氏規が系譜にある1545(天文14)年生まれだと一旦仮定して、藤菊丸、賀永の記録と突き合わせてみる。

  • 11歳 弘治元年11月23日 北条藤菊丸氏康二男(鎌倉公方御社参記次第)
  • 12歳 弘治2年5月2日 大旦那北条藤菊丸(座間鈴鹿明神棟札)
  • 12歳 弘治2年10月2日 大方の孫相州北条次男也(言継卿記)
  • 12歳 弘治2年12月18日 伊豆之若子祝言(言継卿記)
  • 19歳 永禄6年5月 北条助五郎氏規、氏康次男(永禄六年諸役人附)

上記から、同一人物であっても時系列上問題はない。

本来であれば、初出の文書がいつかによって更に裏付けを得たいところだが、氏規の初出発給文書は意外と遅く、1565(永禄8)年1月28日に21歳で朱印状、1577(天正5)年4月17日に33歳で「左馬助氏規」を出していて元服時期の参考にならない。これは駿河にいた時期に後北条分国から切り離されていた可能性を窺わせる。因縁のある松田憲秀も初出はかなり遅いので、当主以外の政権中枢は発給時期が極めて遅い可能性がある。

氏規の息子である氏盛も1589(天正17)年12月に氏直から「氏」を貰って元服したとみられ、家譜の生年1577(天正5)年が正しいとするなら、13歳の年末に元服している。

4兄弟の生年を検討

12~13歳の年末に元服という前提で他の兄弟の生年を検討してみる。

氏政

系譜では天文7年生まれとされるが、同時代史料の『顕如上人貝塚御座所日記』見返しにある年齢から逆算すると天文10年生まれという仮説が妥当だろう。

氏政は天文23年6月以前には元服して「新九郎氏政」となっている(同年12月に婚姻)。

元服が天文22年12月と考えれば、天文10年説では13歳で不自然なところはない。一方で、系譜類の天文7年説では17歳となってしまい、結構遅い印象がある。

氏邦

天文13年という仮説が浅倉直美氏によって出されている。但し氏邦の場合、越後勢乱入の最中に対応を強いられたという経緯があり、ここからの検討も必要だと思う。

永禄4年9月8日~5年10月10日まで「乙千代」名で花押を据える。幼名で花押を据えている珍しい例。元服して仮名を持ちながらも手習いをしていた喜平次・助五郎との比較も必要かも知れない。

1544(天文13)年生まれであれば、1561(永禄4)年では18歳となり元服していないのは奇妙だ。

その後の1564(永禄7)年正月に「氏邦」を名乗り、この年の6月18日には朱印状を発給しているから、1563(永禄6)年12月に元服したと考えると自然だ。氏規・氏盛の例に当てはめると1551~1552(天文20~21)年となる。

もう少し遡るならば、1560(永禄3)年12月に13歳で元服予定だったとすると、1548(天文17)年生まれとなる。

氏照

生年は3説ある。

天文9年(寛政譜)・天文10年(小田原編年録)・天文11年(宗閑寺記録)

ただ、前の2説では氏政より年長になってしまうし、何れも後年の編著でしかない。『北条氏康の子供たち』で黒田基樹氏が、氏政・氏直の生年を記載した同時代史料『顕如上人貝塚御座所日記』を紹介しながら、他の一族の生年と合わなくなると、一旦戻したのもこの点が要因になっている。

とりあえず、専門家ではないので野蛮に切り進んでいくこととする。

初出発給文書から、氏邦と同様の手法で追ってみる。

  • 永禄2年11月10日付けで朱印状「如意成就」奉者:布施・横地
  • 永禄4年3月3日付けで判物「大石源三氏照」

文書の残存状況が不明だから、念のため1558(永禄元)年12月に13歳で元服、その後手習いをしつつ1561(永禄4)年には16歳で自著・花押を据えたと想定してみる。

他の史料とも整合されるし、氏邦の生年比定とも揃えられる。この場合、氏照の生年は1546(天文15)年となる。

まとめ

生年を整理してみよう。氏規も13歳元服だったと統一して考えてみる。

  • 氏政 1541(天文10)年
  • 氏規 1544(天文13)年
  • 氏照 1546(天文15)年
  • 氏邦 1548(天文17)年

この年齢差を見てから、今川義元が助五郎の宛てた有名な書状を読んでみると、「兄弟衆様躰長敷御入」が異なって感じられて面白い。

  • 戦国遺文今川氏編1532「今川義元書状」(喜連川文書)

猶ゝ文御うれしく候、あかり候、いよゝゝ手習あるへく候、二三日のうち爰を立候へく候間、廿日此は参候へく候、かミへも此由御ことつて申候、何事も見参にて可申候、かしく、 文給候、珍敷見まいらせ候、此間小田原にてみなゝゝいつれも見参申候、けなりけに御入候、可御安心候、それのうはさ申候、春ハ御出候ハん由候間、万御たしなミ候へく候、いつれも兄弟衆様躰長敷御入候、見かきられてハさんゝゝの事にてあるへく候、
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:助五郎殿 御返事 義元)

お手紙いただきました。珍しくて見せて回りました。今回は小田原のみなさん全員とお会いしました。お元気そうですから、ご安心下さい。あなたの噂をしました。春にはお出でになるそうですから、何でも頑張っておかないといけません。どの兄弟衆も大人っぽく見えました。見限られてしまっては、散々な目に会うでしょう。
さらにさらに、お手紙嬉しいです。上手になりました。どんどん手習いなさいますように。2~3日のうちにここを立ちますから、20日ころにいらっしゃい。『かみ』にも、このことを伝えてあります。いろいろと会ってお話しましょう。かしこ。

2017/08/19(土)要検討史料の例

「要検討」とは何か?

史料集などで文書の備考に「要検討」「なお検討を要す」とあるものは、シンプルに言うと「これは偽文書の疑いが濃厚」ということ。ただ、その度合いは結構バラバラで、明らかに偽物だけど慎重に言っているものもあれば、記述者によって判断が分かれるぐらい微妙な疑いだったりする。要素としては、私が見たところでは以下のようなものだと思う。

  • 文言が類似の文書と甚だしく異なる(顕彰過多・近世的表現)
  • 発給者の花押が異なる
  • その時に存在しない人物が登場する
  • 同じ伝来で要検討が多数存在

今川義元を装った要検討史料

御宿藤七郎宛の今川義元感状写が2通、山梨県・白根桃源美術館所蔵の御宿文書にある。この文書写には花押が残っているのだが、これが太原崇孚のものに酷似しており、要検討とされる。ただ文言も装飾が激しくて花押形の話がなくても充分要検討となると思う。

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」

これと同じ年月日の弓気多七郎宛の感状写が別の伝来で残されている。こちらも文言の装飾度合いが強く、花押形が残されていないにも関わらず、同系統の要検討文書であることは確実だ。

今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕、城中真先乗入、於本城門際、別而敵苦之条、神妙也、弥可抽忠功之状如件、
十二月廿三日/義元判/弓気多七郎殿
戦国遺文今川氏編0926「今川義元感状写」(三川古文書)

また更に、花押が太原崇孚に酷似している文書が長野県の真田宝物館に所蔵されている。こちらの文言は盛大に装飾した前記3文書とは違って「微妙な違和感」ぐらいな逸脱に過ぎないが、1555(天文24)年に亡くなっている崇孚の花押を1558(永禄元)年付けで用いていることから、要検討と言える。

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中
戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(長野県・真田宝物館所蔵文書)

偽文書作成者の意図

御宿藤七郎・多気弓七郎の文書は、下記の天野安芸守宛の感状と符合する。

去月廿三日上野端城乗取刻、任雪斎異見、井伊次郎同前ニ為後詰之手当相残于安城云々、誠神妙ノ至也、殊忠功肝要候、仍如件、
十二月七日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0922「今川義元感状」(滋賀県長浜市・布施美術館所蔵文書)

このため、偽作者がとりえた手法は2通り考えられる。

  1. 天野文書を元にして一から創作した
  2. 天野文書に類似する原本があり、それを改変した

前者は、花押が異なることから考えづらい。922号の花押を模写しなかったのは、そもそも偽作者が義元の花押を知らなかったことを強く示唆している。

太原崇孚が発給した暫定感状しか存在せず、義元のものがなかったが故に改変したのだろう。前述の922号に「任雪斎異見」とあることから、崇孚が前線で指揮をとっていたことは確定できる。

太原崇孚が前線で感状を暫定発給したのは、天野文書に残されている。

去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候、追感状可有御申候、急候間早々申候、恐々謹言、尚々松井殿其方取分御粉骨之由、自諸手被申候、雖毎度之儀候、御高名之至候、
九月十日/雪斎崇孚(花押)/天野安芸守殿御報
戦国遺文今川氏編0841「太原崇孚書状」(天野文書)

これに対応して出されたのは下記の文書となる

去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓、各粉骨無比類候旨、誠以神妙之至也、殊被官木下藤三・溝口主計助・気多清左衛門突鑓走廻云々、弥可抽軍忠之状如件、
九月廿日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0847「今川義元感状」(天野文書)

では、何故義元の感状がなかったのか。後年になるが、今川家中で合戦時に報告の手違いがあって、訴訟に発展している。

壬戌年七月廿六日崇山中山落城之砌、其方為高名西郷新左衛門子令生捕、則良知披官中谷清左衛門ニ被相渡候処ニ、依取逃之、彼清左衛門于今ニ令山臨候処ニ、其方曲事之由大原肥前守被申候間、今度其子細申分之上被聞分候間、度々忠節奉公申候之 御判形、我等為奏者被下候所明鏡也、為向後候条、我等一筆進候、仍如件、
永禄六癸亥三月一日/関越氏経(花押)/田嶋新左衛門尉殿
戦国遺文今川氏編1897「関口氏経書下」(本光寺常盤歴史資料館所蔵田嶋文書)

田嶋新左衛門尉が合戦で西郷新左衛門の息子を生け捕った際、良知被官の中谷清左衛門に渡したところ逃がされてしまった。中谷は田嶋の過失だと現場指揮官の大原肥前守に報告して問題化したという。

これと同じようなことが御宿・弓気に起きたのではないか。戦後に情報を整理した結果、この2人の戦果は誤認だったと判り、義元の最終認定が得られなかった。何とか崇孚の臨時感状だけを残したところ、何者かが改変した。

そしてその段階で義元と崇孚の花押誤認が発生し、真田宝物館所蔵文書の偽作時に継承されたと。

偽造部分は見抜けるか

御宿・弓気の例では、この時代の感状をいくつか見たことのある人間であれば容易に違和感を受けるだろう。そう考えると、偽作者は商売として偽造はしつつ後世の識者が見れば一発で見抜けるように作成したのではと思うこともある。わざと変な表記にしたり、決定的に矛盾したりするような情報を故意に織り交ぜたような印象がある。

しかし一方で、疑わしき情報は悉く削り取り、精巧に文言を構成した写しの場合に、後世の人間が見抜くことは殆ど不可能だろう。それが存在しているかすら判らずに踊らされているものも実は多いのかも知れない。後世の我々は確証は絶対持てないためだ。

ただ、要検討を更に吟味して精度を高める試みは有効だと思っていた。他の例を増やしていくことで、偽造箇所が浮き彫りになるのではないかと。だがそれも昔日の夢想になりつつある。

結局はデッドエンド

前回検討した北条氏政書状(戦北2347)は、写しではないという認識が通例で、専門家もその正当性に疑問は持っていない。文言がおかしくても、伝来として不明な点が多くても、花押が奇妙でも、文書自体は要検討にはならず、それを元に比定や解釈をいじろうとしている。

それは逆ではないか?

何とも奇妙な光景だ。史料批判で諸要素の徹底的な検討を経なくてよいのだろうか。

勿論、真正の文書でも奇妙な表現が見られる例もあるだろうし、現状で把握している用例が追い付かずに奇妙に見えてしまっているようなパターンも存在するだろう。ただ、この氏政書状のようにおかしな部分が多数存在しているものは、一つ一つをきちんと検証したうえで用いるべきなのではないか。

2017/08/18(金)要検討でも写しでもない北条氏政書状への疑問

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滝川一益宛北条氏政書状写の検討

花押がおかしな北条氏政書状

隠居して大きく花押を変えたはずの氏政が、隠居前のものを用いているとされている文書がある。この文書については30年以上前から指摘があった。

『後北条氏の研究』(佐脇栄智編・吉川弘文館・1983)p124

『発給文書の基礎的研究と背景』「小田原北条氏花押考」(田辺久子・百瀬今朝雄)

原本は戦災により焼失したとのことで、実見することは出来なかったが、東京大学史料編纂所の影写本によってみる限り、書風は当時のものとして疑わしいところは見当たらない。けれども花押は、当時はすでに使用していない一類の最後の型に属するものである。既述の如く遅くとも天正九年十一月には二類の花押が使用されているのに、翌十年六月に至り、再び一類の花押を使ったということになるのである。氏政の花押の変遷は、全体として相当規則正しく行われているので、この時期だけ乱雑であったとは考えられない。

この疑問は継承され、下記でも取り上げられている。

本文書の氏政の花押は、天正四、五年頃のものであり、同十年のものとは全く異なる。但し本文書は、文言・書式などに特に疑点はない。

  • 小田原市史小田原北条2 p392

なおこの書状で注目されるのは、氏政が旧型の花押を据えていることである。氏政は天正九年五月(「寿命院文書」戦二二三五)から八月(「服部玄三氏所蔵文書」戦二三九一)の間に花押形を改判しているので、本来であればこの書状にも新型の花押が据えられるはずである。ここでわざわざ旧型の花押が据えられている理由については明確ではないが、花押形の改判以降、一益との間で連絡を取り合うことがなかったか、新型の花押は一益などの対外関係にはいまだ用いられていなかったか、いずれかであろう。

  • 『戦国北条氏五代』p159

伝来も微妙

この不可思議な文書を改めて考えてみる。原本は写しではないらしいのだが、一度東京大学史料編纂所に持ち込まれ影写された後に戦災で焼失したとのこと。高橋一雄という人物が所持していたのだが、その伝来は残されていない。

内容分析

今十一未刻、自深谷之台一庵書状を指越候、抑京都之様子、自是も申届候キ、実儀候哉、自遠州も注進連続候、一、以早飛脚申届意趣者、此際堅固ニ其地被相拘専一候、当方へ毛頭御疑心有間敷候、千万一妄之模様ニ有之而者、此度之対逆心人、貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、一、右之書状到来、則時ニ申達候、不可過勘弁候、軈以使可申候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/滝川左近将監殿進之候
戦国遺文後北条氏編2347「北条氏政書状」(高橋一雄氏所蔵文書)

まずは差出人と宛所を一旦抽象化して、単純に文面だけに注目。

第1項

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、私たちからもお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

第2項

一、早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

第3項

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

これらを項目ごとに考察。

第1項考察

冒頭は、これを書く契機になった狩野一庵書状が、11日未刻(13~15時前後)に到着したとある。受け取った<差出人>が<宛所>に向けて送ったのは文書日付が6月11日でその日のうちとなっていることから、急いでいたことが判る。一庵書状は、深谷の「台」から来たという。一庵は狩野一庵、深谷は埼玉県深谷市・神奈川県横浜市戸塚区深谷・千葉県いすみ市深谷の3か所に比定候補があるが、埼玉県深谷市は近隣に「上野台」という地名を持っていること、深谷衆は滝川一益に出仕していて関連することから、深谷市の比定で問題はないと思う。一庵は深谷城には入らず、「台」にいたことを強調しているように見える。

続けて「そもそも京都の様子」とある点は、少し唐突。ただ「こちらからも申し届けていました」と、既に<差出人>から情報提供をしたとあるので、共通の話題として成り立っていたことが判る。その上で<差出人>はこの様子を「本当か?」と疑っていること、徳川氏(遠州)から報告が連続して来たことを書いている。この時点で、<差出人>は結論を出していないため、ここで書状が終わっていたら、<宛所>に真偽を尋ねる内容だといえる。

第2項考察

これは前後とつながらない不思議なパラグラフ。<差出人>は、拠点防御に専念することを勧告し、自らを疑わないように指示している。そして次文に行くと一転して疑問形になり「万一疑うなら、逆心した者への鬱憤は晴らせなくなるのでは?」と尻すぼみになっている。「氏政父子」とあるのは、北条氏政・氏直のことで問題ない。「相談されたら、最後まで親身になるから、大・小の事柄を協議しましょう」という提案で締めくくっている。

第3項考察

最後の部分は、「右の書状が来たからすぐ報告した」とある。第1項の直後なら「右之書状」は一庵書状を指すと考えて問題ないのだが、第2項が長々と入っているために意図不明で、第2項自体が一庵書状だったのか、それを要約したものなのか、または無関係な文面なのかが判断しがたい。

そもそも第2項は氏政父子の行動を言明したもので、一庵が緊急時にそこまで明言できるかは疑わしい。<差出人>が「一庵書状の写し・現物を添えた」とも書いておらず、第2項と第3項の連携はほぼないといえる。

第2項は追而書?

第2項は追而書として書き込まれていたもので、これを改変して本文内に収納した可能性もある。その場合の解釈文を作ってみた。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。
追記:早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

但し、これだと一庵書状が何だったのか判らないままだし、追而書が孤立し過ぎているように見える。また、第2項の中には以下の例外的語用が存在する。

  • 逆心人:見かけない言葉。とにかく逆心した人間の具体的な名を書くのが通例。
  • 乍出角:語感からして「差し出がましいことですが」程度の意味になりそうだが、同時代で用例がない。「乍聊爾」「乍卒爾」が近いかも知れないが、そもそも「差し出がましいこと」をわざわざ言う文化がないのかも知れない。

いっそのこと第2項を丸々抜いて考えると、第1項が真偽を確認するための情報共有という趣旨である点、第3項の取りまとめ的表現が非常にうまく呼応する。第2項自体、表現の怪しさ、後からの知見が込められたような饒舌さを考えると、第2項自体が創作され、挿入されたものだという可能性が高いと思う。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

更に厳密に言うなら、第3項も「不可過勘弁」という妙な言い回しを使っている。他例を見ると「不可過御塩味」か「不可有御勘弁」とすべき部分で、違和感がある。

  • 不可過之 8
  • 不可過御塩味事 6
  • 不可過[工夫|狭量|推察|御計量|分別]候 7
  • 不可過両条・不可過十人・不可過勘弁 各1

この点から第3項も一旦排除すべきであり、そうなると、使用語句と語用から考えて第1項のみの身内同士の簡易な覚書だったのではないかと考えられる。具体例として、氏政から氏邦に送られたと思われる覚書、氏直から氏邦に送られた書状がある。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、以上
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:房 截)
小田原市史資料編後北条氏編2240「北条氏政書状」(神奈川県横浜市・県立文化資料館所蔵小幡文書)

糊付之御状披見、得心申候、同者此度討つふし候ニ極候、恐々謹言、
九月八日/氏直(花押)/安房守殿
小田原市史資料編後北条氏編1915「北条氏直書状写」(武蔵古文書一)

身内の覚書だった場合、一庵が氏照配下である点から、氏照が発信者だったと見るのが妥当だろう。宛所は複数の可能性がある。

  • 氏直:当主であり甲信侵攻で氏照・氏邦と素早く動いている
  • 氏政:氏規と共に徳川・織田との折衝を担当している
  • 氏邦:滝川一益にも出仕していて、一益の近況は把握している

ここで論点となるのが、何故一庵が深谷の台にいたのかという点。一益は一貫して義氏・氏直らを無視しているから、一益が指示したとは思えない。そもそも「一庵」と言われて一益が把握できたかすら疑問。

となると、情報収集のため氏照が一庵を動かしたと見るしかない。

そして、氏直・氏政は小田原で情報を把握していた訳だから候補から外れ、氏邦に宛てたと考えるのが最も適切だと思われる。

つまり、上方・遠州からの情報を掴んだ氏照が一庵を移動させ、既に一益に出仕していた深谷で情報を探らせた。それを一益の元にいた氏邦に伝えて、情報共有を計ろうとした。

まとめ

原本が失われた点からして、既に要検討だと思うのだが、この文書は写しではないという認識から長らく要検討指定から外されてきた。語用や文脈の分析から見たように、第1項だけが現存していた断片的な書付がベースになったのだろうと思う。

もう少し突っ込んで考えるなら、作者はまず第2項を足したのだろうと思う。

一体、近世後筆による創作というのは後世から見て判り易いのが前提だと思う。先の第2項は、軍記で描かれる川越夜戦を想定している。家忠日記では「明智」と明記されている謀叛人を「逆心人」とぼやかしているのも特徴的で、同時代での呼称に自信がないため回避したのではないか。一益の下で果敢に戦ったと主張している上野国系の軍記が影響している感もある。

その後に、このままでは書状にならない点から第3項と氏政花押を付け足したのだろう。

参考データ

北条氏政が「氏政父子」と書くだろうか、という疑問

実は、その書状を見て私がまず疑問に思ったのが、隠居した北条氏政が「氏政父子」という表現をするだろうか、という点だった。

天正11年に家康宛てで送った書状でも「氏直大慶、於拙者も忝候」として一歩自分は引いている。

以鈴木申達候処、朝弥太郎被指添、始中終御懇答、殊七月可被入御輿儀、猶以御儀定之旨被顕御状候間、愚拙歓喜何事と可遂之候哉、心腹難尽筆紙候、就中五ケ条蒙仰候、一ゝゝ御返答申述候、然ニ沼田・吾妻急速可渡給由、弥御真実之模様、氏直大慶、於拙者も忝候、委曲使を指添申入候間、具御返答待入候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/徳川殿
戦国遺文後北条氏編2547「北条氏政書状写」(古案敷写)

その他の例を見ても、北条氏政は1580(天正8)年の家督譲渡後は一貫して隠居の立場を前提に動いていて、重大な外交決定では決裁を全て氏直に一任している。これは彼の死に至るまで一貫している。

だから、氏政が滝川一益への書状で「氏政父子」と自ら書いているのには強い違和感を感じてしまう。そもそも、氏政が隠居して花押を改める契機となったのが織田方との新たな交渉のためであったことを考えてみても、こういう書き方はしなかっただろう、としか思えない。

家督継承前

1579(天正7)年比定2月24日付・清水入道宛・氏政名義

  • 「氏直をハ不同心候、当城ニ為立馬申候、為心得申遣候」戦北2055

家督継承

1580(天正8)年8月19日付・截流斎名義

  • 「天正八年庚辰八月十九日、氏直江直ニ相渡者也、仍如件」戦北2187

家督継承後

従金山之一札到来、先段者給候ニ内儀候間、愚意委細申越候キ、何時も河辺之人衆、被引立候者、自元大途事ニ候間、直ニ氏直江被相達可然候、其勘弁肝要候、猶ゝ給候者、内談候得者、其筋目申候、扨又、見当而可被致筋目候者、尤旁ゝ可有御出陣上ハ心易候、恐ゝ謹言、
二月十五日/氏政(花押)/安房守殿
戦国遺文後北条氏編2305「北条氏政書状」(根岸浩太郎氏所蔵文書)1582(天正10)年比定

願書右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、
天正十年三月廿八日/氏政(花押)/三嶋神主殿
戦国遺文後北条氏編2329「北条氏政願文」(三嶋大社所蔵)

所存江雪所へ被申越候、尤ヶ様之儀、意見神妙候、任申遣願書候、国主之儀候間、氏直可遣子細候へ共、輿之一ヶ条肝要ニ候条、氏直者難書子細、依之愚老如此遣之候、又なて物之事ハ、本人之を置物候間、陣中へ早ゝ可被申上候、恐々謹言、
三月廿八日/氏政(花押)/清水上野入道殿
戦国遺文後北条氏編2330「北条氏政書状」(東京都練馬区清水宏之所蔵)1582(天正10)年比定

今度之模様無是非候、然者長新就在府、初中後共様子有様ニ相談、自彼方使被指越候、委細可為演説候、向後之儀者氏政可為証人由候、隠遁之上雖思慮候、相任其儀上者聊別儀有間敷候、勘弁之上早々落着専肝候、恐々謹言、
十二月七日/氏政(花押)/岡部左衛門尉殿
埼玉県史料叢書12_0731「北条氏政書状」(岡部忠勝家文書)1584(天正12)年比定

北条氏政の念押し文書

氏政については、1569(永禄12)年に越相同盟交渉中の上杉家被官に、武田方との戦闘状況を伝えているものがある。見て判るように平明な書き方であって、例の文書に見られる混乱した表記はない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿
戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

里見義頼の情報

天正10年6月に、例の文書とほぼ同時に里見義頼が出した書状では、情報の出どころとして徳川氏が挙げられ、同時に、氏直から出陣催促があったと告げている。一方で、上方・信濃・越後・駿河の状況について何か情報がないかと太田資正・梶原景政に質問している。そして、この情報は佐竹義重もほしがっていると書いており、徳川・後北条以外からの情報が途絶したようにも見える(上野国の滝川一益は話題に上っていないので不明)。

徳川家康注進之由、随而自相府如被申越者、於京都信長御父子生涯之由候、依之氏直早速出陣候間、当方も加勢所望候、一、上口之様子并信・駿之儀如何被聞召候哉、一、越国之模様是又承度候、一、義重以切紙申通候、自其御届頼入候、如兼約此度以使雖可申述候、其筋之様子難測候条、遅退非疎折候、恐々謹言、
六月五日/義頼(花押)/梶・三
埼玉県史料叢書12_0627「里見義頼書状写」(温故知新集)6月15日の可能性を示唆。

徳川家康が報告したとのこと、それに従って小田原からの使者が話していたのは、京都において信長御父子が死んだということです。これによって氏直から、すぐ出陣するから加勢するようにと指示が来ました。一、上方方面の様子と、信濃国・駿河国のことはどのようにお聞きになっていますか? 越後国の状況も伺いたく思います。一、佐竹義重が切紙で申し通してきました。そちらよりのお届けを頼み入ります。兼ねてからの約束通り、この度は使者によって説明するでしょうが、その筋の様子は予測しがたく、遅滞をしても粗略に思ってのことではありません。