2017/04/26(水)三城落ちの文書

駿・遠両国内知行勝間田并桐山・内田・北矢部内被官給恩分等事右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件、
永禄三庚申年六月八日/氏真(花押)/岡部五郎兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編1544「今川氏真判物」(藤枝市郷土博物館所蔵岡部文書)

当知行之内、北矢部并三吉名之事右父玄忠隠居分、先年分渡云々、然者玄忠一世之後者、元信可為計、若弟共彼隠居分付嘱之由、雖企訴訟、既為還付之地之条、競望一切不可許容、并弟両人割分事、元信有子細、近年中絶之刻、雖出判形、年来於東西忠節、剰今度一戦之上、大高・沓掛雖令自落、鳴海一城相踏于堅固、其上以下知相退之条、神妙至也、因茲本領還付之上者、任通法如前之陣番可同心、殊契約為明鏡之間、向後於及異義者、如一札之文言、元信可任進退之意之状如件、
永禄三庚申年九月朔/氏真判/岡部五郎兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編1573「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

其以来依無的便、絶音問候事、本意之外候、抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間、寔武功之至無比類候、二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処、無恙帰府、結局被挙名誉候間、信玄喜悦不過之候、次対氏真別而可入魂之心底ニ候、不被信侫人之讒言様、馳走可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
六月十三日/信玄御書印/岡部五郎兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編1547「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書)

2017/04/24(月)史料想-3 引用史料原文と補記

1573(元亀4/天正元)年の、某に対する条目4カ条

一、水窪之替地為如何他人之申事可有之候哉、若菟角之族有之者、可捧目安、以合目安遂■可■仰■■、如何而■儀無之知行を員数ニ立可被仰付候哉、近比■■申事ニ候、被仰出程無之者、御糺明之上何分ニも如先証文可被仰付事。一、取出之儀申上候、神妙候、自元西之体之者ハ境目走廻ニ極儀候、何分成共敵境目見立可被仰付間、抛身命可走廻候、自元知行之事者何分ニも可被充行間、心易可存事。一、何方之境目ニ被指置候共、妻子之安居無之而迷惑可存間、此度黒谷之内多々良分七拾貫文御領所ニ候間、彼地被仰付候、早々彼地へ悉妻子引移、心易可有之事、付、八郎左衛門・喜左衛門妻子之儀をも、彼一所ニ可被指置間、多々良分之内両人妻子置分屋敷を可相渡候、猶此上者一味同心ニ申合、可走廻事。一、先年懸川へ被指遣候時、御褒美銭之未進申上候、当年・来年領年円皆済■可被■出事。已上、
癸酉三月晦日/(虎朱印)江雪斎奉之/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p28「北条家朱印状」(海老原文書)

1569(永禄12)年の、某に対する感状

昨十日円能口敵相動処、最前ニ及仕合、敵五人討捕、殊自身致高名候、誠無比類感悦候、刀一一文字遣之候、弥可走廻候、仍状如件、
永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

1570(元亀元)年の、水窪替地を巡る裁定

水窪去年七月迄者、為御領所間、於土狩一所各ニ被下候間、其並ニ被仰付候、只今之儀者、諸給ニ被下間、任侘言、於水窪十八貫文請取之、於土狩十八貫文請取分、所肥後ニ可渡候、然而葛山衆先方之時上下、更不知候、去又所肥後同心ニ申付ニも無之候、至于時属仕候間、指南之様申付候、但所肥後慮外非法之義有之者、申上、至于其時者、各別ニ可有奉公者也、仍如件、
庚午卯月十日/(虎朱印)石巻奉/渡辺蔵人佐殿
戦国遺文後北条氏編1403「北条家朱印状写」(判物証文写今川二)

「土狩」への言及

  • 戦北1237 永禄12年閏5月4日 北条氏政判物で「土狩郷之内三島宮御神領」を改めて寄進するとする
  • 戦北1597 元亀3年6月6日 北条家朱印状では「土狩百姓中」に堤築造を命じている
  • 戦北1654 天正元年7月9日 北条氏光着到定書では「卅七貫文土狩にて出」とある
  • 戦北1885 天正4年12月29日 北条氏光朱印状では「亥歳土狩御蔵米」とある

2017/04/22(土)板部岡融成の新出文書

埼玉県史料叢書12には「松野文書」が掲載されているが、その中に板部岡融成書状があった。年比定は1592(天正20/文禄元)年4月12日に死去していることから、同年に比定されている。同年10月7日の家忠日記に下妻の多賀谷重経の参陣拒否に伴い融成が下向していることが書かれていることからも、この比定は妥当だと思われる。


「殊於備前十郎・良安母以下、年内計可見届由、様々被申ニ付而」は状況が不明。1595(文禄4)年の「京大坂之御道者之賦日記」(埼玉県史料叢書参考26)では「岩付御前」は大坂の北条氏規の元にいたが、その前は宇喜多氏の庇護を受けていたのだろうか。「良安母」に全く手がかりがなく、ここで行き詰まる。


文中の十郎は北条氏房、大納言様は徳川家康、宛所の「加賀甚」は加賀爪政尚と比定。

態申達候、然者岩付松野勘七郎、十郎を見届ニ付而、大納言様被及聞召、可被召仕旨被 仰出由承及、於我等も大慶ニ存候、勘七郎親ニ候摂津守と申候者、従氏政代愚拙致奏者、別而存知之者ニ候、岩付於家中も抽而走廻之者ニ候、依之勘七郎も十郎を見届申候、彼勘七郎ニ御証文迄被下候処ニ、為十郎熊野・高野・紫野迄 致仏詣、御陣下ニ参儀遅々仕候、殊於備前十郎・良安母以下、年内計可見届由、様々被申ニ付而、無拠勘七郎今迄備前ニ踞候、此上関東へ罷下候者、弥御陣下へ参候事遅々申候間、先早々勘七郎事、進上仕度由、此度下妻迄親之摂津守参候而、愚拙頼申ニ付而、御貴殿迄申入候、勘七郎儀一廉被引立被召置候様ニ、御披露畢竟奉頼候、軈而参陣候而、猶御直ニ可申候、恐々謹言、
十月廿日/江雪斎融成(花押)/加賀甚様人々御中
埼玉県史料叢書12_参考20「板部岡融成書状」(松野文書)

 折り入ってご連絡します。岩付の松野勘七郎が、十郎を見届けたことを大納言様がお聞きになり、召し抱えようとおっしゃっていただけたそうです。私も大変喜んでいます。勘七郎の親である摂津守という者は、氏政の代より私が奏者を担当していて、とりわけ見知った者です。岩付の家中でもぬきんでて活躍した者です。こういったこともあって勘七郎は十郎を見届けました。その勘七郎に御証文を下されたところ、十郎のために熊野・高野・紫野まで供養して回って、御陣への参加が遅れに遅れています。更に、備前国で「十郎・良安母以下」が年内いっぱい見届けたいとの願いを色々と言ってきましたので、よんどころなく、勘七郎は現在備前に滞在しています。これらが済んでから関東に下って参陣したのでは余りに遅いので、早々に勘七郎を渡してほしいと、下妻まで来て親の摂津守が頼んできましたので、貴殿をお頼みしたく思います。勘七郎のこと、一際引き立てて召し抱えられますように、ご披露をお願いします。すぐに参陣しますので、さらに直接申しましょう。