2022/08/19(金)北条家過去帳まとめ

寒川町史の高野山高室院過去帳に加えて、平塚市史付録の北条家過去帳をデータ化してみた。

後北条氏関連人物過去帳

このシートで、どちらも見られるようになっている。

気づいた点を挙げておく。

  1. 北条氏長による介入が思ったよりも全般に及んでいる。
  2. 北条氏規の妻の戒名と死去年月日には疑問がある(氏宗曾祖母が他に3名いるため)。
  3. 平塚市史が指摘しているようにこの過去帳は供養目的とは思えない(寒川町史の月牌帳と比較)。
  4. 氏繁二男が無理やり挿入されており、何かの意図が感じられる。
  5. 玉縄系の江戸北条家が途中強力に入ってくるものの、その前後は本家系の狭山北条家が記載を行なっており、氏長一代での介入が想定される。

2022/08/01(月)高野山高室院月牌帳

寒川町史にあった過去帳をフルテキスト化してみた。

高野山高室院月牌帳_寒川町史10別編寺院

気づいた点

黄梅院殿関係

冒頭の内表紙は北条氏政室の黄梅院殿の記載で占められている。注で記したが、建立者は3名もいてかなり大きな扱いになっていた。推測してみると、「小田原御城御房」は小田原城にいた出家者なので恐らく北条宗哲。続く「飯河内方」は、足利義昭に仕えた飯河信堅の身内の者。最後の「安西入道」は足利義氏に仕えた安西右京亮が出家した姿だろうと思われる。以上を考えると、後北条氏は勿論のこと、室町殿・鎌倉殿の名義も使って黄梅院殿を追善していたことが判る。

また、3名ともに「相州小田原」とあることから、信堅の妻と安西入道は小田原に在住していたか供養の際に小田原に滞在したかだろう。

黄梅院殿関係で目を引くのは、その命日の5日前に当たる1569(永禄12)年6月12日に「松田新六郎内方」が亡くなっている(項番308)。何らかの関連があるのかもしれない。

その他

名簿部分で気になった箇所は、データ化済みタブの中で青セルにしておいた。

後北条被官だと、山角・大藤・桑原・安藤・山口の各氏が多数見られる。

1578(天正6)年4月15日に、箱根権現の金剛王院が取り次ぎとなり「御北殿」と「内小少将方」が逆修(生前供養)を行なっている(項番439/440)。これは太田氏資室とその娘かもしれない。北条氏康の娘とされる氏資室の戒名としては「長林院殿」が伝わっているが、ここでは「慈光宗観大姉」となっていた。