2017/11/07(火)小幡兵衛尉の処遇に関連する文書

岡田利世、小幡信定に、降伏を促す

  • 戦国遺文後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年に比定。

当城を六月七日両日相尋候へハ、はや其方へ御越候由候、不懸御目御残多存知候、彦三様より貴所様之事内ゝ心懸申候へて被仰越候条、小田原へ取寄候時分より、いかなるつてニても、セめて書状を取かわし申度候而、さまゝゝ調略共仕候へ共、此方ハ不苦候へ共、城中ニて御法度つよく候由候而、御為いかゝと存候て不申入候、六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候、一、彦三様御身上之事いかか被思食候哉、其方之御様子之通ニてハ是又家康へか内府へ御出候て尤候、一、忍之城御セめ候わんとて越後衆・羽筑前殿ニ被仰付候、昨夕此地まて御越候間今朝すくニおしへ御越候、定而彦三郎殿もおしへ可為御参陣候哉、貴所様もおしへ御出候ハん哉、御大儀なから御馬とり一人ニて此方へ御出候事ハなるましく候哉、以而上彦三様御身上又ハ貴所様御身上之事申談度候、一、信州あいき息宗太郎も家康へ罷出度と被申間、津田小平次と我ゝ両人して肝煎申候ハんと申候ても不人事、被仰候間、片時もいそぎ申談度候、一、先度木村ニ直談申候、先年信州こむろニて、井野五左衛門と申人へやくそく申候金子早ゝ御済候て尤候由申入候、五左衛門と申人、其時ハほうはいニて候今ハ上様御馬廻ニて一段御意よしニて候定而其方より御出可申候へ共、我もひきやうをかまへ候カなとゝ申候てめいわく仕候、けにゝゝ難相済候、一時も御いそき候て是非を御きわめ候て、其上不相調候者それにしたかひ御分別なされ尤候、上州之事家康へまいり候事必定と相聞申候間、家康へ御詫言候やうにと存候て、内府へも大かた申籠候、内府より被仰候者家康之御まへハ可相済候と存候、一、小田原城当年中ハ家康可有御出由候、来年江戸へ御越候へと被仰出候、一、此間ハ近年家康之御分国を一円ニ内府へ可被遣候と申候キ、三川国ニ別人を御おき候て其かわりニ上州を内府へ被遣候ハんなとゝ、たた今御本陣より被越候人被申候、あわれゝゝさ様ニも御及候へハ、彦三様御身上其まゝ相済申事候、莵角いつれの道ニても、内府を御頼候て家康へ御理候てハはつれぬ御事たるへきと存候、一、貴所様御身上なともなにとそ御分別尤候、彦三郎殿御身上如前ゝ相済候へハよく候、若不相済候とて俄ニとやかくと被仰候ても、難相調候間、我ゝ請取不申候ハゝ急度 上使を可遣候なとゝ申候而、此間ハ日ゝニ申来候而難儀仕候、急度被仰付候而尤候、一、当城之御無事之きわニ貴所様之事疎略仕候様ニ可思食八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ、不及了簡候、とかくたゝ今御身上御きわめて尤候、少御やすミ候て、何分是へ木村存知ニて候間、可有御出候哉、申談度候、恐惶謹言、
六月八日/利世(花押)/宛所欠(上書:岡田新■■利世 小幡兵衛尉殿人々御中)

 この城を6月7日から2日訪れましたので、早くもそちらへお知らせになったとのこと。お目にかかれず大変残念に思います。彦三様よりあなた様のことを内々で心がけてほしいと仰せいただいていたので、小田原を包囲した時分より、どのような伝手でもせめて書状を交換したいと考え、様々な手段を試みましたが、こちらは問題なくても、城中ではご法度が強いとのことで、そちらのためにならないと思って申し入れませんでした。6日・7日の2日間は垪和善七郎殿という方を頼んで案内する者を得てお訪ねしました。氏直様お一人で2夜お酒などをいただきましたので、昨日7日の晩に家康の陣へお立ち寄りになりました。 一、彦三様の身の上のこと、いかがお考えでしょうか。そちらのご様子の通りだと、こちらもまた家康へか内府(信雄)へ出仕なさるのがもっともです。 一、忍の城をお攻めになるということで、越後衆と前田利家殿へご命令になりました。昨夕この地にお越しだったので、今朝すぐに忍へお出かけになりました。きっと彦三郎殿も忍へご参陣なさるでしょうか。あなた様も忍へお出でになりますか。お手数ですが、お馬とり1人だけ連れてこちらへお出でになるのはかないませんか。その上で、彦三様の身の上、またはあなた様の身の上のことをご相談したく思います。 一、信濃国相木の息子宗太郎も家康へ出仕したいと申されているので、津田小平次と私の2人で肝煎りして申し上げようとしても人事とならぬと仰せになられているので、とにかく急いでご相談したく思います。 一、先に木村へ直接申しました。先年信濃国『こむろ』(小諸)で井野五左衛門というに約束した金銭を早々にご返済するのがもっともであると申し入れがありました。五左衛門という人は、その時は同僚で、今は上様のお馬廻で一段と目をかけられています。きっとそちらからお返しになるでしょうが、私も裏表があるのかと言われて困っています。本当に紛糾しているので、一時もおかずお急ぎになって事実を確認して、その上で揉めるようならそれによってご判断さなるのがもっともです。上野国のことは家康へ与えられることは間違いないと聞いていますので、家康へお詫び言するようにと考え、内府へも大体は申し含めています。内府から仰せになれば家康に仕えることは済んだも同然です。 一、小田原城は今年一杯は家康へ渡されるとのことです。来年は江戸へ移るように仰せになられました。 一、この間、近年の家康ご分国を全て内府へ渡されるだろうとのことでした。三河国に別の人を置かれて、その代わりに上野国を内府へ遣わすなどと、ただいまご本陣より来られた方が申されています。かわいそうに、そうなってしまったら、彦三様の身の上はそのままでは済まなくなることです。とにかくどのようになったとしても、内府をお頼りになって、家康へご説明なさらねば進展はないだろうと思います。 一、あなた様の身の上なども、どうかご分別なさるのがもっともです。彦三郎殿の身の上は前々のように済めばよいことです。もし済まないことになって急にとやかく申されても、調整するのは難しいでしょうから、私たちが保障できなければ、上使を派遣するだろうなどと言ってきています。このところ毎日言ってきて難儀しています。急いでご指示いただくのがもっともです。 一、当城のご無事の際に、あなた様のことを疎略に扱うような思し召しは、八幡にも富士権現・白山権現にも精を入れていることは、大概のことではありませんけれども、巡り会わせが悪く懸け違いが起きては了見を得ません。とにかくただいま身の上をお決めになるのがもっともです。少しお休みになって、なにぶんこのことは木村も存じていますから、お出でになりませんか。ご相談したく。

井伊直政、小幡信定の陸奥遠征を労い上野国で助力することを約す

  • 戦国遺文後北条氏編4549「井伊直政書状写」(加賀小幡文書)天正18年に比定。

    別て炎天時分御辛労無申計候、次黒田官兵様へ心得て可有、於小田原之万ゝ御取籠付て委細不申遂候、此返御心得所仰候、内ゝ御床敷存幸便之間一筆令申候、其已来者遠路故給音問所存外候、小田原御立之時分者御暇乞不申候、奥へ御供之由、扨ゝ御苦労察入申候、拙者者箕輪へ可罷移由御上意候間、先ゝ当地ニ移申事候、爰元御用等候者、可被仰越候、少も疎略有間敷候、何様御帰之時分、以而申入候者可承候、如在存間敷候、猶重而可申達候、恐々謹言、
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/小幡右兵衛尉■

 内々にお懐かしく思い、便があったので一筆申し上げます。あれ以来は遠路によってご連絡いただけるとは考えておりませんでした。小田原をお発ちの時にはご挨拶を申し上げませんでした。陸奥国へお供されたとのこと。さてさて、ご苦労お察しします。私は箕輪へ移るように上意がありましたので、とにかくこの地へ移りました。こちらでご用向きの際は、仰せになって下さい。少しの粗略もありません。色々とお帰りになった際にお申し入れいただければ、承りましょう。手抜かりはありません。さらに重ねてご伝達しましょう。 別途。炎天の時分のご辛労は申し上げるばかりもありません。次に、黒田官兵衛様へ心得を言い付かりました。小田原においては色々と取り込んで詳細を申し遂げられませんでした。この返信はお心得を仰ぐところです。

井伊直政、某に、所領の維持が困難であることを告げる

  • 戦国遺文後北条氏編4550「井伊直政書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年、小幡兵衛尉宛に比定。

    就貴所乃御身上之儀、自岡田新八郎殿被仰越候、其郡之儀者、未何方へも不相定候間、先其地ニ有之、御世上見合尤ニ候、何方よりも六ケ敷申候由、早ゝ御注進所仰候、御国竝之儀候間、内ゝ御他国仕度候御心懸候て尤ニ候、御荷物已下、少障り者有間敷候間、可有御心安候、少も事六ケ敷被、(後欠ヵ)
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/宛所欠

 貴所の身の振り方について、岡田新八郎殿よりご連絡がありました。あの郡のことは、まだどこへとも決まっていませんので、まずあの地にいていただき、世の流れを見極めるのがもっともです。どこよりも難しく申していること、早々にご注進と仰せのところ、御国並のことですから、内々で他国への支度をするお気持ちでいるのがもっともです。お荷物などは少しも損なうことはあり得ませんから、ご安心下さい。少しも事が難しく……(後半断か)

2017/08/05(土)史料データの更新

ここまでまとめてきた文献データ2,140件をアップロード。

CSVファイルを表計算ツールなどで開く、もしくは、TSVファイルをコピー&ペーストでGoogleスプレッドシートへ貼り込むといった方法で使える。前回までのバージョンでは文書番号に不備があったり重複したりというところもあったが、今回は締めくくりということでかなり改善した、と思う。

historical_resource05

2007年8月27日に最初の解釈文をブログにアップしているから、私が古文書の解釈に取り組んでおおよそ10年。データ化できたのは2,140件。目視したのは大体1.5~2万件ぐらい。

余りにも少ないが、一旦ここで締め括る。当初から「10年を目途に情報を集めよう」という目標があり、後北条・今川に関しては一通り目を通せたから予定通りではある。

ただ2013年末からずっと「専門家解釈との乖離」に悩まされていて、この誤差はひどくなるばかり。データの母数を稼ぐためにデータ化する量を増やしてみたものの、全く改善が見られない。

専門家の史料解釈は完全に無謬ではないとは思うが、我々より圧倒的に莫大な知識を持つ専門家は、素人から見たら完全(素人の知識量では誤りを見つけられないレベル)であるはず。もし専門家の解釈が誤っていてそれが素人にも判るのであれば、知識を増やしても解釈の精度が上がらないこととなり、それは皮肉にも素人たちの「知識を増やせば読みの精度は向上する」という当て推量も同時に不成立になることを示してしまう。つまり、史料を通読して知識を増やすことと、解釈の精度が向上することに相関関係はないことになる。

逆に、専門家の解釈は誤っていないとする。その解釈へ至るロジックが判らないのは素人の知識が至らぬためで、知の体系に異変はないという考え方もある。ただそうなると、レベルの隔絶によって素人が解釈の真贋を判断することすらできないことを意味し、素人の言説は惑説を生み出すことでしかなくなる。

どちらを選択するにしても、結論は同じ。

「素人がこれ以上学術の真似事をしてはならない」

ということで、本来であればこの後に史料を読んでいって仮説を作っていく作業を想定していたんだけど、そこには至らないままで終わるのかも知れない。

2017/04/20(木)岩付落城を巡るあれこれ

1590(天正18)年5月27日。岩付城が陥落したことを、長谷川秀一・池田輝政・細川忠興が北条氏直に報告し、拘置している氏政妹(長林院殿)と氏房室(小少将)の身柄と、討死した将の首級について打診をしている。但し、6月24日段階の小少将書状では「岩付三ノ丸」「はし番にて」と書かれており、1か月近く経っても岩付城内で軟禁されていたことが判る。また、落城の契機について「本丸から坊主が出てきて兵士が全滅したというので接収した」と羽柴被官が言っているのに対して、小少将は「年寄(物頭か?)の才覚で本丸と二の丸を明け渡して三の丸にいる」と書いている。後者だと三の丸の武装解除は行なわれていないような書き方になっている。

何となく、羽柴方による情報操作が窺える。一方で後北条方の反応もよく判らなくて、籠城中の金銭貸し借りは無効とする徳政令を氏房が出している。日付は小少将の降伏勧告の翌日で、反応が鈍い後北条方に業を煮やして、閉じ込めた小少将に書状を書かせた可能性がある。


羽柴氏被官(長谷川・池田・細川)が、北条氏直に岩付陥落を知らせる。

取り急ぎ申します。さて関八州の諸城のこと、攻め殺すべしとのことで、上杉景勝・前田利家・木村重茲・浅野長政・山崎方家・岡本良勝と、徳川家康配下の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉、以上で5万騎が派遣されましたところ、それぞれの城の命は助ける方針だとこれらの衆が申し上げたところ、数に入らないような城は追求すべきではないからと、助命をお認めになりましたので接収しました。ということで残る岩付・鉢形・八王子・忍・津久井の5城については、降参が遅れたことから、対応に乗り出して詳細を調べたところ、武蔵の岩付が5城の中で最も要害堅固だと案内者が申しましたので、では良い城から先に攻めるように仰せ出しになられ、そこで木村重茲・浅野長政・山崎方家・平岩親吉の面々が総勢2万余で持ち場を決めて20日から攻撃し、すぐに町まで乗り崩し悉く首を刎ねました。息をも継がず端城へ攻め入りました。数回反撃があったものの「とても適わない」とのことで本丸より坊主を出してきました。「戦える者はもう全員戦死していて、城の中に残っているのは町人・百姓・女性以外はいませんから、命はお助け下さい」と申しました。助命のために攻撃陣営から検使を出して、命を助けて城を受け取りました。百姓・町人のほかに年寄と子供が2~3人混じっていて、更に氏政妹とその娘(氏房妻)がいました。その対処について上申したところ「名のある武士の妻女なのだから恥辱を与えてはならない」との仰せ出しだったので、端城へ出して、その他の隠れていた者たちと一緒に鹿垣を結い回した中に保護しました。その後で年長者(氏政妹と娘か?)が言うには「命を助けてもらっても生き甲斐がありませんから、せめて小田原に入れていただき、氏房と一緒に腹を切りたい」と言っているのをお聞きになって、義理を弁えている人ですから哀れにお思いになり、そちらの城中へ送るように仰せになりました。ですから、数日中にその者が到着するので必ずこの口から送ります。次に、この親子のことは、不憫に思われて、女のことだからということで、お詫び言を申し上げるために呼ばれました。これについては、幸い石巻康敬が助命されていますから、岩付へ遣わし彼女らを送らせました。とりわけ岩付城で討ち取った首級が今到着しましたので、この口に掛けて置きまますのでご諒解下さい。その中で引き取りたい者がいれば、人を出して望むままにお持ち下さい。そうであれば、互いに射撃をやめて首を掛けたいと思います。ご同意いただけないのであれば、夜間に掛ければよいでしょうか。ご連絡をお待ちします。次に、残された1か所の城のこと。鉢形城は上杉景勝・前田利家の両人が担当して包囲しています。忍・八王子・津久井についても、それぞれで担当を決めて、急いで決着をつけられるかも知れません。

急度令申候、仍八州諸城事、為可被責殺、越後宰相中将、加賀宰相、木村常陸介、浅野弾正少弼、山崎志摩守、岡本下野守、家康内本多中務少輔・鳥居彦右衛門尉・平岩七之助、以上五万余騎被差遣候処ニ、城ゝ命を被助候様ニと、右衆中江申ニ付而、其旨言上仕候へハ、数ならさるものゝ儀ハ、不入事候間、可助由被仰出候付、城ゝ請取候、然者残る岩付・鉢形・八王寺・忍・付井此五ケ所之儀、降参遅ゝ故、為被加御許戮、城の可然、を被成御尋候処ニ、右五ケ所之内にてハ、武蔵国岩付城要害堅固之由、案内者共申上候、然者よき城より先可責崩由被仰出、則木村常陸・浅野弾正・山崎志摩・平岩七之助、此面ゝ都合以二万余、責口分相究、去廿日押懸、即時ニ町まて乗崩、悉刎首、息を不続、端城責入候、数度之戦雖有之、不叶ニ付て、本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後、百姓・町人以下之年寄・子共二三人打交り、并氏政妹、其息女、十郎妻女在之条、如何可仕哉之旨、従彼面得御意候処ニ、名も有者の妻子ニ候間、当座之恥辱を不與様ニ可仕旨、被仰出候ニ付、端城江出し、其外かくれ居候者ともさかし出、一所ニ鹿垣をゆひ廻、追入被作置候、就其後長敷者申様、此上にてハ、命を御助候ても、生甲斐無之候条、迚事ニ小田原へ入、十郎與一所ニ腹を切度と申候を被聞召付、義理を存知たる者ニ候条、哀ニ被思召候、其城中江遣候へと被仰出候間、定而五三日中ニ、彼者可令参着候条、必此口より可送遣候、次おやこの女房衆之儀、不便ニも被思候て、女之儀候条、為差御詫言申上可遣候、於然者、幸石巻下野守最前命を助被遣たるものゝ儀候間、迎ニ被遣候ハゝ、岩付江遣、右女房衆ニ引合、可送候、就中於岩付城討残候首共、只今持来候間、此口ニ可掛置旨、御意候、其内ニ可被取蔵も候ハゝ、人を出し、所望次第可被取入候、さ候ハゝ、互ニ鉄炮を打留候て、程を可掛候、但於無同心者、夜陰ニ可懸置候歟、御報ニ可承候、次相残一ケ所之城之儀、鉢形城ハ、羽柴越後宰相中将・羽柴加賀宰相両人ニ被仰付、被取巻候、忍・八王寺・付井之儀も、手宛ゝゝ何茂被仰付候、急度可為一着歟、恐ゝ謹言、
五月廿七日/羽柴東郷侍従秀一判・羽柴岐阜侍従輝政判・羽柴丹後少将ー―判/北条左京大夫殿御宿所
小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

小少将(北条氏房室ヵ)が某(北条氏房ヵ)に降伏勧告を行なう

一筆送ります。そちらでの日夜のお気遣い、軽くはないだろうと思います。それで、この地のことですが、夥しい数の上方勢がやってきて危うい状況だと思い、どんな辛い目に遭うだろうと考えていたところ、年寄たちの機転で本丸・二の丸も渡して、自分たちは三の丸に押し込められています。とりあえずはご安心下さい。とはいえまだまだ危ないことで(欠落)、あなたは急いで秀吉将軍へお味方なさいますように。そうでなければ、大変な攻撃をされて、その後は重い罪に問われるでしょう。事の習いとはいえ痛ましいことだと思ってしまいます。もしも、哀れにも思っていただき、義理とやらの筋さえ、違えることもなくいらっしゃるならば、良いようにお計らいいただき、こちらの父母妻子などをお助けなさいますように、宜しくお願いします。詳しくは葛原が申しますから、筆を留めます。

一筆参せ候、そこほと日夜の御きつかひ、かろからぬ御事にこそとそんし参せ候、左候得ハ、此地の御事おひたゝしき上勢むかひ来てあやうく見え、いかなるうき目にもあひなんやといふかしく存候処ニ、としより共さいかくにて本丸・二之丸も相渡、みつからなとハ三之丸におしこめられある事候、まつゝゝ御こゝろやすくおほされ候得、されともいまたやすからぬ御事■■■そもしさたいそき秀よし将くんへ御見かたなされ候得、左もあらぬほとならは、ことゝゝしきせめにあわせ候て、其後ハおもきつミにおしつめ侍らんとの事也けれは、ことのならいいたミ入存まいらせ候、もしあハれにもおほされ候て、義理と哉らんのすちさへ、たかふ事なくおハしまさは、よきにはからひ結ふてこゝもとの父母さいしなと御たすけなされよろしく候ハんや、くわしく葛原申上候ハんまゝ筆をとゝめまいらせ候、目出度かしく、
六月廿四日/岩付三ノ丸小少将はし番にて/人ゝ御中
戦国遺文後北条氏編3752「小少将書状写」(秋田藩家蔵文書三十一)

北条氏房、内田兵部に籠城に伴う徳政実施を伝える

今度の籠城について、頼母子講・借金は徳政とすることを申し上げている。もっともで異議はないとのこ仰せ出しである。

今度籠城付而、たのもし并借銭徳政之事申上候、尤無異儀被仰出者也、仍如件、
天正十八年庚寅六月廿五日/(朱印影「心簡剛」)/内田兵部殿
埼玉県史料叢書12_0935「北条氏房朱印状」(屋代典憲氏所蔵古文書写)