2018/03/05(月)戦国期の古文書を解釈する基本的なこと
独学の解釈ではあるが、戦国期の史料を見た上での読み方をまとめてみた。
他の場所で公開していたものに若干の加筆をしている。
1)接続部分
- 候条 (そうろうじょう) 「前文から後文が導かれる」と、因果を示す。「条」だけの場合もあり
- 候間 (そうろうあいだ) 「前文であるから後文となる」と、前文が前提であることを示す。「間」だけの場合もあり
- 并 (ならびに) 並列
- 併 (しかし) 「あわせて」「そして」
- 然者 (しかれば) 順接「ということで」
- 然処 (しかるところ) 順接「そうしたところ」
- 乍去 (さりながら) 逆接
2)語尾 <時制・区切り(順逆の接続)を主に担う>
- 候 (そうろう) 文の区切り。但し、これがなくても体言止めで切る場合もある
- 哉 (や) 疑問詞、時々反語
- 歟 (か) 疑問詞、時々反語
- 畢・訖・了 (おわんぬ) 過去表現
- 也 (なり) 断定
- 共 (とも) 逆接「雖」を語尾に持ってきたもの。但し「人称+共」で「~ども」となったり、「共に」の意だったり「供」の当て字だったりすることもあるので注意
3)返読文字=戻って読むもの。ここが難関。
3-A:副詞的用例。頻出し、連続して更に前の文字に戻っていくこともある。
- 可 (べく) 未来に向かって開いた状態(仮定・要請・願望・推測)
- 被 (られ) 敬語「なさる」、まれに受動
- 令 (しむ) 敬語「させていただく」、他者動作、まれに使役
- 為 (ため・なす) 「~のため」「~となす」
- 不 (ず) 否定
- 如 (ごとく) 「~のように」
- 于 (に) 「~に」で「于今=いまに」が多い
3-B:動詞的用例。状況によっては返らないこともある。殆どが現代語と同じ意味。
- 出 (だす)
- 以 (もって) 「~をもって」となって前提を示す。「猶以」(なおもって)「甚以」(はなはだもって)は例外的な読み方
- 有 (あり)
- 自・従 (より)
- 成 (なる)
- 依 (より)
- 致 (いたす)
- 得 (える)
- 於 (おいて)
- 遂 (とげ)
- 無 (なし)
- 守 (まもる)
- 奉 (たてまつる)
- 励 (はげむ)
- 就 (ついて)
- 期 (きす)
- 預 (あずかる)
- 異 (ことなる)
- 任 (まかせる)
- 及 (およぶ)
- 属 (ぞくす)
- 尽 (つくす)
- 備 (そなえる)
- 失 (うしなう)
- 与 (あたえる・あずける)
- 取 (とる)
- 非 (あらず)
- 達 (たっす)
- 対 (たいして)
- 乍 (ながら
- 号 (ごうす) 称する
- 能 (あたう) 同字で「よく」とする形容詞とは別
- 難 (がたく) 難しい・できそうにない
- 為始 (はじめとして)
3-C:名詞的用例。本来は動詞での返読だが、名詞化されることが多く返読しないで済ませる例が多い。
- 稼 (かせぐ) 功績を挙げる
- 動・働 (はたらく) 行軍・戦闘をする
4)漢文的なことば。「雖」は頻出する。
- 況 (いわんや)
- 雖 (いえども)これは返読
- 未 (いまだ) 「まだ」な状態、まれに未年を示す
- 剰 (あまつさえ)
- 就中 (なかんずく)
- 因茲 (これにより)
5)現代語に通じるが読みや字が異なるもの
- 拾 (じゅう)
- 廿 (にじゅう)
- 卅 (さんじゅう)
- 縦・仮令 (たとえ)
- 耳・而已 (のみ)
- 已上 (いじょう)
- 急度 (きっと) 取り急ぎ
- 態 (わざと) 折り入って、わざわざ
- 聊 (いささか) 少しの
- 聊爾 (りょうじ) 軽率な、いい加減な
- 闕 (けつ・かけ) 「欠」
- 敷・舗 (しく・しき) 「~しい」の当て字
- 間敷 (まじく) あってはならない
- 若 (もし)
- 而 「~て」の当て字
- 重而・重 (かさねて)
- 定而・定 (さだめて)
- 達而・達 (たっての)
- 付而・付 (ついて)
- 抽而・抽 (ぬきんじて)
- 然而・然 (しかして)
- 弥 (いよいよ)
- 忝 (かたじけなく)
- 不図・与風 (ふと)
- 由 (よし) 伝聞、一連の出来事を抽象的に一括りにする
- 云 (という) 伝聞
- 刻 (きざみ) 「~の際に」
- 砌 (みぎり) 「~の時に」
- 遣 (つかわす) 人や書状、軍勢、物品を送る
6)現代語と意味が違うもの、または現代での死語
- 軈而 (やがて) すぐに
- 床敷 (ゆかしい) 慕わしい・懐かしい
- 給 (たまう) もらうこと、まれに敬語
- 向後 (きょうこう・こうご) 今後
- 仍 (よって) 本題に入る際の語
- 別而 (べっして) 格別に
- 断 (ことわり) 報告
- 仁 (に・じん) 「~に」の場合と「仁=人」の場合がある
- 漸 (ようやく) 段々、少し、もう
- 努々 (ゆめゆめ) 万が一にも
7)特殊なもの
- 者 「~は」、人間を指す「者」、順接を指す「てへれば」がある。「者者=者は」というような用法もあるので注意。
- 曲 曲事は「くせごと」で違反状態を指し、「無曲」は「つまらない」を意味する。意味の幅が広いので要注意
- 次 「つぎに」「ついで」と追加を指す場合と、「なみ」と読んで「並」と同義になり、一律指定を意味する場合もある。「惣次=そうなみ」は例外なくという意味
- 差・指 (さし) 何となくつけられている場合もあってそんなに気にしなくて良い。指向性を示しているようなニュアンス
- 越 (こす) 行く・来るなどの移動を示す。「移」とは違って、当事者のもとに行くか、当事者が行く場合が多い。「進」と同じく進呈・贈与を指す場合もある
- 当 (とう) 「当城」「当地」とある場合、記述者のいる場所とは限らず、話題になっている場所を指す。どちらかというと「フォーカスの当たっている」という意味。「当年」「当月」も同じように注意が必要
- 我等・われわれ 「我等」は一人称単独で「私」を意味する。「われわれ」は「私たち」で複数だと思われるが、文脈によって異なるような印象があり要注意。
- 沙汰 (さた) 処理すること、行動すること、決裁すること、取り上げること。「無沙汰」は怠慢で義務を怠ること、「沙汰之限」はもうどうしようもないことを指す
- 行 (てだて) 軍事的な行動を指す。「行」を含む熟語に紛れることがある
- 調 (ととのえる) 調整して準備する。「調儀」は軍事行動や政治工作を指す
- 據 「無據」は「よんどころなく」、「証據」は「証文」と併記される何かで、多分「証状」
- 外実 (がいじつ) 元々は「外聞与云実儀与云」(がいぶんといい、じつぎといい)であり、内実共にという意味。「外聞実儀」に略され、更に略された形
2018/01/17(水)第2次国府台合戦報告書
永禄7年の国府台合戦に関して、北条氏康・氏政が連署して、小田原にいたと思われる留守衆(北条宗哲・松田盛秀・石巻家貞)に戦況報告をした書状写が残されている。
- 油断して渡河して崩れた江戸衆を支えたのは氏政旗本であること
- 氏康旗本は地形上緒戦の状況を把握できていなかったこと
- 氏照・綱成・氏繁・憲秀(または氏規)・氏邦(または氏信)が活躍したこと
- 江戸衆の敗兵を再編成して追撃、18時前後に決戦をしたこと
- 太田資正は重傷を負って退却したこと
- 里見義弘を討ち取ったという報告があるが首級は確認できていないこと
永禄7年の1月8日はグレゴリオ暦で3月1日であり、17時35分に日没。薄明が終わるのが18時過ぎ。月の入りは20時22分で月齢2.5。月明かりは期待できない。こうした暗夜にまでもつれた合戦を指して「夜戦」と誤解されたのかも知れない。軍記ものでは緒戦の勝利に浮かれた里見方が油断した隙を狙って夜戦を仕掛けたとあるが、先勢敗退後に反撃した氏政によって里見方は後退している。更に、後北条方の接近を知って里見方も備を寄せたとあるので、奇襲ではない。
- 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p17「北条氏政・氏康連署書状写」(大阪狭山市教育委員会所蔵江馬文書)
八日一戦勝利注進之間、即従仕場遣之、今度■前代未聞之儀候、最前敵退由申来を勝利存、先衆車次々之瀬を取越候、敵者大将里見義広為始安房・上総・岩付勢、鴻台拾五町之内備相手候、此有無不知遠山以下聊爾ニ鴻台上候処ニ、敵一銘押掛候間、於坂半分崩、丹波守父子・富永其外雑兵五十被討候、能時分ニ氏政旗本備寄候間、即押返、敵共討捕候、切所候故、氏康旗本者不知彼是非候、既先勢如此仕様、相続行兼術無了簡候処、跡者召集鍛直、無二一戦例落着、従鴻台三里下へ打廻候、敵も添而備寄候間、及酉刻遂一戦、即伐勝候、正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・荒野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人を為始弐千余人討捕候、太田美濃も深手負下総筋へ逃延候、此衆太田下総・常岡・半屋を為始悉討捕候、雖義広討死候由候、其頸未見来候、椎津・村上両城自落之由申来候、源蔵・左太父子・左馬介乍常兼粉骨候、新太郎事、能時分従川越走着走廻候、此度之軍始中終両旗本を以切留候、此上者向小田喜・左貫可相動之条、先今度者可治馬覚悟候、謹言、
正月八日/氏政・氏康/幻庵・松田尾張守殿・石堂下野守殿
8日の一戦の勝利を戦場から報告する。
今度は前代未聞のこと。
直前に敵を退けて勝ったと思ったようで、先衆が次々と瀬を越えた。
敵は大将が里見義弘の安房・上総・岩付勢。
国府台15町(約1.6km)の内に相手が備えを置いていた。
この存在を知らずに、遠山以下の者が迂闊に国府台に登った。
敵が一斉に押し寄せたので坂の半ばで崩れた。
遠山丹波守父子(綱景・隼人佑)・富永(康景)その他の雑兵50が討たれた。
良い時機に氏政の旗本備が攻め寄せたので、すぐに押し返し敵を討ち取った。
切所だったので氏康の旗本はこれを知らなかった。
先勢は既にこのようになり、続いての手立ても思いつかずにいたので、追撃のため編成し直した。
無二に一戦して決着をつけるため、国府台より3里(約2km)下へ出撃した。
敵も近づいて備えを寄せたので、酉刻(18時頃)になって一戦を遂げてすぐに切り勝った。
正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・薦野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人をはじめとして、2,000余人を討ち取った。
太田美濃は重傷で下総方面へ逃げ延びた。
この衆は太田下総・恒岡・半屋をはじめとして全て討ち取った。
義弘は討ち死にしたとのことだが、その首級をまだ見ていない。
椎津・村上の両城は自落したとのこと。
源蔵(氏照)・左太父子(綱成・氏繁)・左馬介(憲秀or氏規)がいつもながら粉骨した。
新太郎(氏邦or氏信)はよい時機に川越より走り着いて活躍した。
今度の軍は最初から最後まで両旗本によって切り留めた。
この上は小田喜・佐貫に向かって作戦するだろうから、まず今回は帰陣するつもり。
2017/06/10(土)稲河文書の松平清康・清孝
松平清康・清孝が発給したとされる文書のうち、愛知県史資料編10に収められた稲河文書の974号・975号について、翻刻の文章で違和感を覚えた点を整理してみる。どちらの文書も影写本で、愛知県史では「検討の余地がある」としている。
但しこの違和感は私の限られた知識によるもので、他に表現や文例があるようであればご指摘を待つ。
清孝判物について
今度忠節無比類候、如本意候者、若松之郷不入候、并杉山分蔵一つゝ并土蔵之儀ハ、両人江進入候、万一聞候而不相調候者、大畠・そふみ於両郷三拾貫分可進之候、扶持ハ六人扶持ニ可申合候、居敷之儀ハ、寺道より西方を両人江進之候、仍如件、
大永三年八月十二日/次郎三郎清孝(花押)/中根弥五郎殿進之候
愛知県史資料編10_0974「清孝判物」(稲河文書)
奇異に感じる部分
「~郷不入候」という表現は見覚えがない。若松郷を既に中根弥五郎が当知行していたのかも知れないが、その点を書かないのは不自然に感じる。
蔵を与えるというのも例がない。杉山分の蔵を1つずつと、土蔵のこと、としている。また、この評価金額がない一方で「それで調整できなければ」と出した大畠・そふみの両郷で30貫文を拠出すると今度は具体的な数量を示している。ちぐはぐな印象を覚える。
宛所が1名なのに「両人」が何者か書かれていない。
扶持人数を定める文章。後北条氏・今川氏に見られるが、愛知県史資料編10を見ても松平氏関連では出てこない。時代的・地域的に見て不自然。下記の文書に形式が似ているかも知れない。
遠江国久津部郷之事
右、当郷除諸給分、一円令扶助畢、息郷八郎為近習可令在府之由、尤以神妙也、但蔭山与次方・岡部又次郎給分者、於国静謐之上者、以別所可充行于彼両人、其時五拾貫拾人扶持分、重而可令扶助者也、仍如件、
天文八己亥年九月晦日/治部大輔(花押)/松井兵庫助殿
戦国遺文今川氏編0634「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)
清康書状について
書状披見候、実子之候ニ其子にハ職候て他人ニ職候事、当劣之沙汰にハ不可出候、雖然別成理も候ハんハしり候ハす候、実子之跡職うハひ取候ハん者ハ可為盗候、謹言、
三月十一日/(花押)/宛所欠(端裏上書:中根弥五郎殿 清康)
愛知県史資料編10_0975「清康書状」(稲河文書)
奇異に感じる部分
「当劣之沙汰」という表現は例がない。
実子に相続させることを無条件に指示している内容も違和感がある。天文23年のものだが、戦国遺文今川氏編1165「今川義元判物」では「其上或実子出来、或自余之聟・親類・縁類等、雖企競望、甚右衛門尉譲状明鏡之上者、一切不可許容」とも書いていて、何が何でも実子相続という訳ではなかった。「実子之跡職うハひ取候ハん者ハ可為盗候」という強い表現も他では見たことがない。当時の西三河でこの規範があった可能性はあるが、愛知県史では見つけられなかった。
跡職について書かれた書状なのに、2回「跡」が脱字しているのも少し変ではある。
花押について
2つの文書の花押は異なり、前者の花押は松平信孝・松平康忠に近しい印象があるが、似ているという程ではないように感じる。後者のそれははっきりと広忠花押に似ているように見える。
出典の稲河文書について
戦国遺文今川氏編にも収録されている。稲河大夫の子である松(千代)が馬淵経次郎の跡を継いだが死去し、その弟の又三郎に相続を認めている。
馬淵経次郎跡職事、稲河大夫子松■■為相続増善寺殿判形明鏡也、雖然就死去、弟又三郎仁領掌畢者、守先例神事祭礼等、不可有怠慢者也、仍如件、
天文六丁酉年六月十三日/義元(花押影)/馬淵又三郎殿
戦国遺文今川氏編0600「今川義元判物写」(稲河文書)
この文書に先行するものが、富士家文書という別出典に入っている。死去した松千代が馬淵経次郎(弥次郎)の跡を継いだというもの。馬淵大夫は駿府浅間社の社家で、稲河大夫は同僚だったか。
馬淵弥次郎跡職之事
右、令沽却本知行遂電法体云々、然上者、改其跡領掌稲川大夫息男松千代丸畢者、恒例祭祀、守先規可令勤仕之状如件、
大永三年十二月十九日/修理大夫(花押)/馬淵松千代殿
戦国遺文今川氏編0373「今川氏親判物」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)
両文書は表現に違和感がない。中根弥五郎宛の文書がどこで稲河文書に入ってきたのかは不明だが、少なくとも1523(大永3)年時点で中根弥五郎と稲河大夫は三河・駿河に分かれて存在しているようだ。三河の中根氏は戦国遺文今川氏編2749号「本証寺門徒連判状」(天文18年4月7日付)で味崎の中根善次郎範久・善三郎範定・善七郎範重が登場するので、中根弥五郎はこの一族かも知れない。
まとめ
翻刻の文を見たのみの感じではあるが、愛知県史が要検討としたのは納得がいくところ。
何れにせよ、この文書を元に松平清康の実在を検証するのは厳しいのではないかと思う。関連論考を読みつつ更に考えてみたい。