2018/03/21(水)論文内で史料開示が限定的であるケース

奇妙な論文

Twitterのフォロワからご教示いただいた論文で、驚くようなことがあったので記録しておく。PDFでWeb公開されているもの。

-『北条・徳川間外交の意思伝達構造』(国文学研究資料館紀要11号・2015・丸島和洋) http://doi.org/10.24619/00001469

この中で後北条家中における「取次」が説明されているが、この記述に疑問があったので史料を改めて調べてみた。

まず論文中にある文章を引用する。括弧書きは註の番号。

〔今川氏(駿河)〕一門として北条宗哲(幻庵)・氏信父子(22)および北条網成(23)が関与している。相模中郡郡代大藤政信(24)も交渉に参加している。大藤氏は諸足軽衆の統率者であり、援軍として派遣されているためである。

論文著者が挙げた史料を確認する。

註22)「走湯山什物」(「戦北」4426)、「孕石家文書」(「戦北」1246)。

史料A

来翰祝着候、殊鮭給候、賞翫申候、随而当陣之儀、其以後就被成吉良殿逆心、近日西条へ動之儀申付、彼庄内悉放火、二百余討捕候、可御安心候、就中東口無別状候哉、承度候、猶期来信候、恐々謹言、
閏十月四日/義元(花押)/幻庵御房

  • 戦国遺文後北条氏編4466「今川義元書状写」(国立公文書館所蔵走湯山什物)1555(天文24/弘治元)年

史料B

近日者不申承候、夫馬之儀申付候キ、然者其地模様如何、興津之様子承度候、雖不及申候、敵動ニ付而者、夜中成共御左右待入候、仍両種壱荷進之候、可有御賞翫候、猶使者者口上ニ申付候、恐ゝ謹言、
壬五月十三日/新三郎氏信(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1246「北条氏信書状」(孕石文書)1569(永禄12)年比定

註23)「三浦家文書」(「戦北」1220)。

史料C

御直札被下候、謹而奉拝見候、仍武田信玄被除候付而、早速御迎雖可被進置候、信玄無相違被除候付而、敵之動之様子見合、其上御迎可被進置段ニ付而、只今迄被致延引候、内ゝ拙者事申請候而、此度候間、御迎ニ可馳参覚悟候処ニ、信玄自身相州筋へ被罷出候付而、余人者共ハ、何も若輩故、拙者罷越、味方之地之備可申付段、今日未明ニ被申付候間、無是非、此度ハ不致参陣候、誠以無念至極候、雖然信玄相州筋へ之動之間、早速此間ニ引取可申段付而、御迎被進置候、就中松平事、是又御計策故、無別条、其御請候、既ニ手堅証人共進置段、被仰越候、是又珍重候、猶巨細者、御厨伯耆口上ニ申上候、以此旨可預御披露候、恐惶謹言、
五月十一日/北条左衛門大夫綱成(花押)/進上三浦左京亮殿

  • 戦国遺文後北条氏編1220「北条綱成書状写」(三浦文書)1569(永禄12)年比定

註24)「岡部家文書」(「戦北」1243)。

史料D

親父可有死去分候歟、さてゝゝ曲時分、笑止千万候、其地弥苦労候、雖然無了簡意趣候、常式ニ者、可相替間、一夜帰ニ被打越有仕置、さて薩埵へ可被相移候、返ゝ簡要候時分、一夜も其方帰路落力候、返ゝ只一日之逗留にて可有帰路候、猶大藤駿州衆被相談候様ニ、可被申合候、恐ゝ謹言、
閏五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1243「北条氏政書状」(岡部文書)1569(永禄12)年比定

論文の説明と史料は合っているかを確認

後北条家内で今川氏の取次として名を挙げているのは、まず北条宗哲、その息子の北条氏信。2代目当主である北条氏綱の娘婿、北条綱成。長く被官となっている大藤家の大藤政信。

北条宗哲

彼は今川義元から書状を受け取っている史料Aから見て、可能性はあるといえる。史料Aで義元は戦況報告をしており、宗哲を経由して当主氏康に情報が伝わることを期待したと想定できるからだ。但し、文書が1通しか伝わっておらず確言は難しい。

北条綱成

史料Cは永禄12年で、武田晴信が駿河、徳川家康が遠江へ侵攻し今川家が壊滅寸前だった状況で出されている。懸川城に追い込まれた今川氏真は家康と和睦して退去する段取りができており、氏真を後北条家が引き取るため、綱成が出向く予定だったらしい。ところが晴信が相模に攻め込む風評があったため綱成は行けなくなってしまう。その状況を釈明したのが史料Cとなる。

綱成が書状を送ったのは今川家の被官、三浦元政であって被官同士の交信となる。文頭で「御直札被下候、謹而奉拝見候」とあるから、元政から綱成に直接問い合わせがあったと思われる。互いの当主への言及がないため取次であるとは確言できない。但し、宗哲のケースと同様可能性はある。

北条氏信

ここから状況がよく判らなくなる。

史料Bは、氏信が岡部和泉守に宛てたもので、先の綱成書状の翌月。氏真は既に後北条方と合流しており、駿河東端で文書も発給している状況。

この時に氏信は薩埵に着陣して武田方と対峙している。岡部和泉守は今川家被官だが、この時は完全に後北条家の指示に服しており、興津から薩埵へ陣を移した直後に、味方の氏信が状況確認をしたのが史料Cになる。

これを、後北条家取次の氏信が、今川家取次の和泉守と交信したと考えるのは無理がある。和泉守はこの半年前の段階で後北条一門である氏規の朱印状で、奉者を務めている。

史料E

制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十八日/(朱印「真実」)岡部和泉守奉之/須津之内八幡別当多聞坊并宿中

  • 戦国遺文後北条氏編1124「北条氏規制札」(多聞坊文書)

宛所の駿河須津多聞坊は現在の富士市にあり、文中にある「加勢衆」は、今川方に留まった富士氏を支援するための後北条方の軍勢だろう。一旦は父である岡部大和守と共に懸川城に入ったらしい和泉守は、相当早い段階で後北条家に駆け込んで、氏規と共に援軍を出していたことが判る。

つまり、実態として和泉守は後北条被官として行動している訳であり、氏信は後北条方の味方として状況確認をしているだけだろう。氏信は和泉守が近い陣地にいたから交信したのであって、取次として行動してはいない。そして、氏信が今川家と関わっている文書はこれしか存在しない。

大藤政信

史料Dが掲示されているが、これは氏信で論拠とされた文書と同一日付のもので北条氏政から大藤政信に宛てたもの。和泉守の父である大和守が死去したことを受けて、北条氏政は一時帰宅は止むを得ないとしつつなるべく早く現場復帰することを依頼している。そして、現場での調整を「大藤駿州衆」とするように指示している。

同日付けで氏政から和泉守に宛てた書状がある。

史料F

其地如何、無心元候、如風聞者、駿河衆自兼日承人衆不足之由候、為如何模様候哉、一段気遣千万候、有様ニ可承候、猶如兼日申届、各一味ニ被相談簡要候、恐ゝ謹言、
壬五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1244「北条氏政書状」(岡部文書)

状況を尋ねて「心もとない」と書いているから、大和守死去に関連した史料Dより前に出されて、その後で訃報を聞いた氏政が追いかけて発給したのだろう。この文書で氏政は駿河衆が人数不足であることを気にしていて、状況を気遣っている。「更に兼ねてお伝えしたように、おのおのが親密に相談するのが大切だ」とも書いていて、これは史料Dで「更に大藤・駿州衆にご相談するように、申し合わせるように」と書いていることと同義であると判断してよい。

このように、氏信の時と同じく、この場合の大藤政信も和泉守と同陣だったから名が出ただけであり、私から見ると取次の機能は全く関係がない。

2018/02/02(金)国立公文書館サイトでの奇妙な解説

専門機関による史料紹介が変だったりする

国立公文書館のサイトに「創立40周年記念貴重資料展1 歴史と物語」があるが、その中の「35.北条家裁許印判状」の解説がおかしい。

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/35.html

紹介されているのは尾崎大膳娘の家督相続を承認する虎印判状。

翻刻

就捧尾崎常陸守目安、宮城四郎兵衛以相目安、遂糺明了、然而尾崎大膳討死ニ付而、彼一跡娘時宗ニ、先段落着了、猶以其分候、然上者、於自今以後、弥不可有相違、扨又時宗母去年令死去由候間、夫之事者、身類中并寄親令相談、公儀可走廻者を可妻事肝要候、依仰状如件、
元亀三年壬申六月廿一日/(虎朱印)評定衆勘解由左衛門尉康保(花押)/宮城四郎兵衛尉殿

  • 戦国遺文後北条氏編1598「北条家裁許朱印状」(内閣文庫所蔵豊島宮城文書)

解釈

尾崎常陸守が上程した目安について。宮城四郎兵衛の相目安をもって調査した。さて、尾崎大膳の討ち死にについて、あの跡目を娘の時宗に継がせることは先に落着し、変更はない。しかる上は、今後は更なる相違がないようにせよ。そしてまた、時宗の母が死去したとのことなので、夫のことは親類・寄親と相談し、公儀のため活躍できる者と娶わせるのが大切である。

文書の内容について

この文書は、時系列に添わないと理解しづらい。

  1. 尾崎大膳討ち死に
  2. 娘の時宗が跡目相続
  3. 時宗の母が死去
  4. 大膳家の本家っぽい尾崎常陸守が提訴
  5. 大膳家の寄親っぽい宮城四郎兵衛が反訴
  6. 後北条氏が裁定し、時宗相続の正当性を保証
  7. 時宗の婿選定は親類(常陸守?)・寄親(四郎兵衛?)が協議せよと指示

常陸守の提訴内容は不明だが、四郎兵衛が反訴し跡目安堵の虎朱印を与えられていることから、大膳家を接収したいという訴えだったと思われる。その契機は時宗母の死去だろう。「母が死んだのだから時宗の将来の夫は親類・寄親が決めるように」という文言が付加されているのは、大膳家に成人がいなくなり時宗の結婚相手の是非を判断できなくなったからで、その対処方法が後北条氏によって開示されたのだろう。

解説文のどこがおかしいか

「母方の一族である宮城四郎兵衛」

四郎兵衛は寄親ではないか? のちの1577(天正5)年に岩付諸奉行を定めた文書に弓奉行として「尾崎飛騨守」が登場する。これが時宗の夫かと思われる。家臣団辞典を見ても大膳は四郎兵衛の同心とされている。

「大名家にとって必要な存在であれば、女性による相続も認められていた点」

今川での井出千代寿相続承認にも見られるように、戦国期でも女性への資産の相続は認められていた。しかし、軍役を負担できない女性や幼児への相続は、軍役代行者の設定が前提となる。軍役は被官契約の根本事項なので、この代行者が立てられない場合は改易となったはず。尾崎一族でいうと、大膳家が常陸守家に吸収される流れ。

そもそも「大名家によって必要」かどうかは被官の相続自体に影響しない。女性相続では前述のように軍役で特例対応となるため、上位権力の承認を求める傾向があり、なおかつ承認書類の保存も積極的に行なわれたということだろう。

「実際、戦国時代には女性当主が活躍した大名家も複数存在します」

どこの家だろう? 小規模領主でもそれが証明されればあれこれ仮説の改修が巻き起こると思うのだけど……。

尾崎大膳家と同じ状況だった賀藤源左衛門尉家

両親を亡くした時宗への相続承認がなされたのは1572(元亀3)年だが、文書を読むとこれは時宗の母の死を契機としたものであり、父である大膳が戦死したのは更に遡るものと思われる。宮城四郎兵衛が岩付衆であることを考えると、1567(永禄10)年9月の三船台合戦で太田氏資と共に大膳が死んだと考えると、その相続が念入りに保証されたのが判り易くなる。

太田氏資と共に戦死した賀藤源左衛門尉は、大膳と同じく娘「福」しかいなかった。この福への相続保証もまた残されている。

翻刻

今度上総行之砌、於殿太田源五郎越度刻、其方伯父賀藤源左衛門尉見届討死候、誠忠節不浅候、於氏政感悦候、然間一跡福可相続、然共只今為幼少間、福成人之上、相当之者妻一跡可相続条、其間者、源次郎可有手代者也、仍如件、
永禄十年丁卯九月十日/氏政(花押)/賀藤源左衛門尉息女福・賀藤源二郎殿

  • 小田原市史小田原北条0692「北条氏政判物写」(武州文書十五)

解釈

今度上総での作戦で、殿軍において太田源五郎が落命した際に、あなたの伯父賀藤源左衛門尉が討ち死にした。本当に忠節は浅からざることである。氏政は感悦している。そういうことなので、跡目は福が相続するように。とはいえ現在は幼少であるから、福が成人した上で適切な者と娶わせて跡目を相続すべきなので、その間は、源次郎が手代となるように。

福と時宗で同じ言葉が用いられているのも興味深い。

  • 福:相当之者妻一跡可相続条

  • 時宗:公儀可走廻者を可妻事肝要候

「妻」を名詞と考えると、両者は女性だから「妻」をもらうのはおかしい。ゆえに、これは動詞なのではないかと思う。

戦国期の「妻」という言葉は、現代語と変わらず女性配偶者を意味する。しかしここで用いられているような動詞用法では「めあわす=婚姻する」ことを指した。だから、女性が婿をとる使われていたと思われる。つまり、以下のように読むのではないか。

  • 福:相当の者、一跡をめあわせ相続すべく条

  • 時宗:公儀に走り廻らすべき者をめあわすべきこと肝要候

2018/01/28(日)北条氏政が、弟の氏規に番編成を指導したのはいつか?

比定年が異なる文書

番の編成を、北条氏規に代わって兄の氏政が代行したという書状が残されている。この文書の年比定については、小田原市史と戦国遺文で1年異なっている。

原文

一、河尻・鈴木今十日罷立候、一、韮山之番帳進之候、一、長浜之番帳進之候、能ゝ御覧届、長浜ニ可被置候、其方之早船八艘之内七艘、三番ニ積候、番帳ニ委細見得候、一、韮山外張之先之城ニ候間、悉皆其方遣念、可有下知候、為其其方之舟衆三番ニ置候、一、長南之儀ニ付而之書状、態進迄者無之故、此者ニ進之候、日付相違可申候、一、東表動前候間、如何様ニも早速普請出来候様ニ可被成候、恐々謹言、
三月十日/氏政(花押)/美濃守殿

  • 小田原市史小田原北条2042/戦国遺文後北条氏編3430「北条氏政書状」(宮内直氏所蔵文書)

解釈

  1. 河尻と鈴木が今日10日に出発します。
  2. 韮山の番帳を送ります。
  3. 長浜の番帳を送ります。よくよくご覧になって、長浜に置かれますように。そちらの早船8艘のうち7艘を、3つの番に編成しました。番帳で委細が見られるでしょう。
  4. 韮山の外張の先にある城ですから、しっかりと念を入れて指示を下されますように。そのためにそちらの舟衆を3番に置きました。
  5. 長南のことについての書状は、わざわざお渡しするまでもなかったので、この者に渡しました。日付が違っているようです。
  6. 東方面の作戦直前なので、どのようにしてでも早く普請が完成するようにして下さい。

この文書について「東表動前候間」を重視したと思われる戦国遺文・下山年表は天正17年と比定。対して小田原市史は天正17年に「東表動」があったとは考えにくく、であれば韮山・長浜の軍事通達がある点から天正18年と比定すべきではないかとする。

どちらの比定も難点あり

天正18年の場合、眼前に羽柴方が進駐してきて散発的に戦闘も発生しているような状況で、「東表動前」だから普請を急げとは言わないように思う。氏政の意識は西に集中していたのは、他の文書を見ても判る。

しかし、天正17年3月というのもおかしい。この時点で後北条氏は足利表の平定に注力していて氏直が出馬した形跡はない。

それよりは、氏直が確実に常陸に出馬した天正16年に遡った方が信憑性が高いのではないか。

廿三日之一翰、今廿八日未刻到来、仍府中・江戸再乱、双方随身之面々書付之趣、何も見届候、当時西表無事、如此之砌、一行之儀、催促無余儀候、当表普請成就、定急度氏直可為出馬候、其方本意不可有疑候、弥手前之仕置専一候、猶此方之儀、争可為油断候哉、委細陸奥守可為演説候、恐々謹言、
二月廿八日/氏政在判/岡見治部大輔殿

  • 埼玉県史料叢書12_0848「北条氏政書状写」(先祖旧記) 1588(天正16)年

爰元帰陣休息、雖不可有程、向常陸へ氏直ニ令出陣候条、着到無不足有出陣、別而被相稼、可為肝要候、恐ゝ謹言、
三月廿五日/氏政/押田与一郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編3297「北条氏政書状写」(押田家文書中)

押田蔵人事、以書付被申越候、旧規之様子者、当時不及糺明儀ニ候、畢竟邦胤時菟角無裁許、被打置候儀迄、只今鑿穿信事思慮半候、近年不成様可被取成候ハゝ、殊一手之内之事ニ候間、聊も構別心無之候、雖味過間敷候、猶同名与云、旧規之筋目与云、何とそ被取成候ハゝ、異儀有間敷と校量候、恐ゝ謹言、
閏五月廿日/氏政判/押田与一郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編3326「北条氏政書状写」(内閣文庫本古文書集十五)

氏直出馬の面倒をあれこれ見ていたのが氏政で、この辺の状況を見ても天正16年の方が自然に感じられる。