2022/11/01(火)北条氏時・為昌の出自

北条為昌とは何者か

為昌の名の由来

後北条一門の中で際立って異彩を放つ実名を持つのが北条為昌で、直系の中で唯一「氏」の通字を持たない(氏直世代になると「直」の偏諱を持つ者もいるが、彼らと為昌は50年ほどの差があり、両者に相関性はなさそう)。

下山治久氏・黒田基樹氏の説では「大道寺盛昌が烏帽子親で『昌』を受け取った。『為』は冷泉為和からもらった」としている。しかし、通例の偏諱では目上から受け取っているから「冷泉為和から『為』の偏諱をもらった」とだけすればよい。しかし、小田原に数回来ただけの為和から偏諱を受けるのは違和感があるため、この説では河越・鎌倉で領域的に近しい盛昌を最初に持ち出したのだろう。

よくよく考えてみれば、為昌が後北条一門で異例の名乗りであるのと同様に、盛昌もまた大道寺一門では異色の名乗りだ(他は周勝・資親・政繁・直繁・直次・直英で、直昌だけが通字を持っている程度)。

当時の養子関係が史料からでは判りづらいのは、小幡源二郎の出自である程度把握できてきた。氏康子息とされている氏忠・氏光が、氏康の甥(氏尭の息子)と比定されているのも、比較的近年になるまで仮説が立てられていなかった。そう考えれば、明らかにおかしい為昌の命名にもっと疑問をもってしかるべきだろう。

そこで、大道寺盛昌・北条為昌の実名が、今川被官である遠江福島(くしま)氏と近接していることに着目してみた。戦国遺文今川氏編の索引を見ると、福島一門の実名にはよく使われる字がある。

  • 「春」助春・氏春・春興・春久・春能
  • 「昌」助昌・元昌
  • 「盛」盛助・盛広
  • 「助」助春・助昌・盛助
  • 「為」範為 ※「範」は今川氏の通字
  • 「能」範能

このうち、明応から永正年間に活躍した世代が、左衛門尉助春・玄蕃允範能・和泉守範為となる。

「為」を継承していること、範為が宗瑞と親交があったことから、為昌は範為に近い関係だったと推測される。加えて範為は在京した徴証があり、山城国大道寺郷との関連もあるかもしれない。

遠江福島氏の活動状況

盛昌と為昌が遠江福島氏の出自だったとして、いつ小田原に来たのだろうか。その時期を考えてみるため、福島氏の活動状況を確認する。

今川家中で福島氏が登場するのは1501(明応10)年の福島助春が最初で彼が従えていたのが範能。1510(永正7)年から範為が出てくるようになる。その後は登場史料が減って1524~5(大永4~5)年に盛広が見られるだけになるが、1536(天文5)年に発生した花蔵の乱で福島越前守・彦太郎・弥四郎が今川義元に敗軍し一時期姿を消す。

そのまま消えるかと思えた福島氏は1548(天文17)年から再び登場してくるが、その過程で遠江小笠原氏が入り混じって姿を現すようになる。この小笠原氏は、福島氏と同じ遠江国土方周辺を根拠地としているほか、福島十郎左衛門助昌は1569(永禄12)年に小笠原十郎左衛門助昌として改姓している。更に小笠原氏興は、福島右馬助の寄進を1548(天文17)年に岡崎龍巣院に対して保証している。このことから考えると、福島・小笠原は同族的結合があったようだ。花蔵の乱で失脚した福島氏は、一部の者に「小笠原」を名乗らせることで復活を企図したようにも見える。

この小笠原氏は信濃の一族と考えるにしては、余りに福島氏に近接し過ぎている。この中心人物「氏興」が1544(天文13)年から登場したことから、範為の妻が氏綱母の小笠原氏の親類で後北条と血が繋がっていた可能性を考えてみた。かなり証跡の薄い推測にはなるが、為昌が氏興と同じく範為の息男だったとすれば、為昌と氏綱は血縁だったのかもしれない。

母親の名字を名乗ることを願い出た例には、埼玉県史料叢書12_726の「小鷲直吉名字譲状」(福田文書)がある。母の名字である「福田」が途絶えることを憂いた岡左衛門尉が小鷲直吉に願い出て、自らも含む三兄弟が福田を名乗る許可を得ている。

盛昌・為昌の軌跡

遠江福島氏の状況から鑑みると、まず福島盛昌が伊勢宗瑞に従って伊豆・相模に入り「大道寺」を名乗る。今川分国からの移籍は、石巻家貞・関為清・興津加賀守などが見られる。そして、その後に福島為昌が移った。為昌が北条を称したことは確実なので、名字を替えた盛昌とは異なり、彼は氏綱の養子に入ったと考えた方が合理的である(詳細は別記事で説明するが、為昌妻が朝倉氏なのはほぼ確実なので、婚姻による養子ではない)。

そしてこの仮説だと、従来は余りに若年だった為昌の年齢問題が解決する。

通説の為昌は1542(天文11)年5月3日に23歳で死没したとある。逆算すると生年は1520(永正17)年(但し、この死没年は北条家過去帳からとっているようだが、これは供養した日付。もし死没年なら氏時死去が同年10月18日となってしまう)。朱印状での為昌初見は1532(享禄5)年なので通説通りなら僅か13歳、そこから富岡八幡造営の指揮をとりつつ、江戸湾を渡海したり河越へ攻め込んだりと転戦していて、とても若年とは思えない。氏直の代くらいになれば周囲に人材を配置できるから年少でも対応可能だろうが、この頃の後北条家は本当に人材が払底している状態なので、臨機応変に陣頭指揮をとれなければ務まらない。よく考えれば、30代以降の行動と考えるのが妥当だろう。

快元僧都記での呼称を見るとかなり変化していて、途中で氏綱養子となって一門化した様子が窺われる。

1533(天文2)年

  • 閏5月2日 為昌彦九郎殿
  • 6月17日 彦九郎殿
  • 10月28日 彦九郎殿、孫九郎殿、九郎殿、九郎殿

1534(天文3)年

  • 2月17日 九郎殿
  • 3月1日 九郎殿
  • 6月16日 彦九郎殿

1535(天文4)年

  • 3月14日 彦九郎殿
  • 6月10日 氏康・為昌玉縄着城
  • 6月26日 為昌
  • 10月14日 彦九郎為昌
  • 10月17日 彦九郎為昌

1536(天文5)年

  • 8月1日 氏康・為昌
  • 8月28日 北条孫九郎
  • 閏10月9日 為昌
  • 閏10月10日 氏綱、氏康、為昌

1538(天文7)年

  • 2月14日 北条為昌

1539(天文8)年

  • 5月21日 彦九郎殿

1540(天文9)年

  • 11月4日 北条孫九郎殿

1533(天文2)年閏5月で最初に登場した時こそ「彦九郎為昌」と書いているが、以降は単に「彦九郎殿」で、作業が慌ただしくなった10月には「孫九郎殿」と誤記したり、略して「九郎殿」と書いたりしている。様変わりしたのは1535(天文4)年6月に氏康と共に登場した時で、氏康と併記して「為昌」と記し、その後は北条と冠するか実名の為昌を付けるようになっていて、北条一門である扱いとなる(天文8年のみ例外的に「彦九郎殿」と呼ぶ)。「孫九郎」の誤記は最後まで続いていて、この点から孫九郎綱成との混乱を招いているが、綱成が確実な史料で登場するのは1544(天文13)年だから、快元僧都記の孫九郎は為昌と見てよいだろう。

駿河から小田原に赴いた冷泉為和は『為和集』にて1536(天文5)年2月13日に「本城において、彦九郎為昌興行当座」と記した。歌会を主催為昌が主催できたということは、和歌に造詣があってある程度の年齢だったことを示唆する。

彦九郎為昌が福島氏出身であることは、断片的ではあるが同時代史料でも補強できる。1548(天文17)年7月17日に岡部親綱が氏親菩提寺である増善寺への寄進物を列挙している(戦国遺文今川氏編874)。その中に異筆で「一法華経一部、紫表紙折本也、福島九郎置之、椎尾御塔頭 宗久侍者ニ渡之」と書かれている。恐らくは氏親没後に「福島九郎」が法華経を増善寺に納めたことを指しているのだろう。福島九郎はここでしか登場しないので詳細は不明だが、氏親近臣だったことが窺われる。

氏親死没直後に政争があったことは宗長日記に記されているが、これを契機に福島九郎が後北条に移った可能性は高いように思う。氏親死後はその妻である寿桂が家中を仕切る傾向が出てくるが、宗長はこれをよく思っていなかった。そして、幼童抄紙背文書で判明したように、宗長は盛昌と親しい関係にあった。反寿桂派同士ということで福島九郎が宗長に助けを求め、宗長が昵懇である盛昌に紹介したという流れだ(名乗りから見て盛昌もまた福島氏である可能性があり、氏綱への推挙もより強いものになっただろう)。

大道寺家譜・北条家過去帳に引っ張られて、大道寺発専(盛昌父)が宗瑞の従兄弟、為昌が氏康の弟という先入観を持っていたのがこれまで通説だったが、上記のように史料を敷衍するならば、為昌・盛昌は遠江福島氏の出自であるのが確実といえそうだ。

北条新六郎左馬助氏時とは何者か?

氏綱の弟とされる北条氏時は殆ど文書が残されておらず、謎の人物とされている。

新編相模国風土記稿にある二伝寺の記事で、1531(享禄4)年8月18日に氏時没とされる。二伝寺は浄土宗白旗派の鎌倉光明寺の末寺で1505(永正2)年に忍蓮社誉正空が創建という。正空は品川が出自で北条時国の系譜という人物。この創建には村落の福原左衛門忠重も助力したという。

氏時は文書を2通しか発給していないので実像が定かではないが、「氏時」「左馬助氏時」を名乗っている(戦北88・89)。一方で鎌倉円光寺の毘沙門天像の銘では「北条新六郎殿氏時」と記載されている。

  • 戦国遺文後北条氏編0090「毘沙門天立像銘」(鎌倉円光寺所蔵)

    (後頭部内) 檀那 北条新六郎殿氏時 作者上総法眼長■ 享禄二年十月吉日 (胎内背面) 諸願成就 南無光明天王五大力菩薩 皆令満足

「新六郎」の仮名は一門としては異色で、他氏族の出自を窺わせる。

「新六郎」を名乗ったのは、太田康資・松田政晴・勝部政則・吉良氏朝・豊島貞継・藤田信吉・用土某。このうち、氏時が現れる1529(享禄2)年に確実に時代が合うのは太田康資のみ。

「左馬助」を名乗ったのは、桑原某・高橋頼元・手島長朝・比企則員・北条氏規・北条直重・松田(大石)憲秀・松田直秀。同様に氏時と時代が合うのは、松田憲秀・高橋頼元。

ここで着目されるのが松田氏で、同氏の仮名では六郎系で助六郎(康長・直長)、六郎左衛門(康定・康郷・某)がいて、総合的に考えると、氏時は憲秀本人の別称だったか、憲秀の異母兄だった可能性が高そうに見える。更に、為昌の娘が松田盛秀に嫁しているから、為昌とも関与があっただろう。

氏時・為昌登場時の時系列・状況

ここで時系列を整理してみる。氏綱生年は同時代史料である快元僧都記で確認されるので確定。氏康・綱成の成年は後世編著での比定だが、史料的に近い年齢だろうから同年と考えてもよいだろう。為昌が氏綱養子となったとすると、少なくとも氏綱より年少だろうから10歳下と仮定してみよう。氏綱は29歳で氏康を得て、為昌は19歳で綱成を得たという時間軸になる(仮説部分は<>で表示)。

  • 1487(長享元)年 伊勢氏綱が生まれる『快元僧都記』

  • 1495(明応4)年 伊勢宗瑞の伊豆での活動が確認される(戦北1)

  • 1497(明応6)年 <福島九郎為昌が生まれる>

  • 1498(明応7)年 「大道寺」が伊勢宗瑞書状に現われる(戦北4599)

  • 1515(永正12)年 <伊勢氏康・福島綱成が生まれる>(氏綱29歳、為昌19歳)

  • 1522(大永2)年 伊勢氏尭が生まれる『兼見卿記』(氏綱36歳、為昌26歳、氏康・綱成7歳)

  • 1523(大永3)年 伊勢氏綱が北条に改姓する(戦北56・市史61)

  • 1525(大永5)年 白子原合戦で伊勢九郎(櫛間九郎)が戦死<戦死は虚報で福島九郎の援軍参加か?>

  • 1526(大永6)年 今川氏親が死す『宗長日記』(氏綱40歳、為昌30歳、氏康・綱成12歳、氏尭4歳)

  • 1527(大永7)年 <福島九郎が法華経を増善寺に奉納し小田原へ移る>

  • 1529(享禄2)年 北条氏時が登場する(戦北88)(氏綱43歳、為昌33歳、氏康・綱成15歳、氏尭7歳)

  • 1531(享禄4)年 北条氏時が死す

  • 1532(享禄5)年 北条為昌が朱印状を出す(戦北102)(氏綱46歳、為昌36歳、氏康・綱成18歳、氏尭10歳)

  • 1535(天文4)年 北条氏康の妻が嫁す<福島為昌が北条へ養子に入る>

  • 1536(天文5)年 北条氏繁が生まれる(氏綱50歳、為昌40歳、氏康・綱成22歳、氏尭14歳)

  • 1541(天文10)年 北条氏綱が死す『快元僧都記』(氏綱55歳、為昌45歳、氏康・綱成27歳、氏尭19歳)

  • 1542(天文11)年 北条為昌が死す

氏時・為昌がその名乗りから考えて他家からの養子だとする前提で考えると、1529(享禄2)年時点で後北条一門の成人男性は、氏綱・宗哲のみになる。しかも戦況は悪化しており、大永年間からずっと劣勢が続いて江戸・鎌倉は何とか確保しているものの、岩付を失い、相模国の大磯・平塚まで攻め込まれることもあった。

窮余の一策として、松田盛秀の嫡男を養子にし、北条の名字と「氏」の通字を与えて氏時とした。が、わずか3年で急死してしまう。そこで、30歳代半ばで嫡男・次男がいる為昌に白羽の矢が立った。3年ほど様子を見てから、氏綱養子扱いで北条名字を与えたものの、今川からの異物ということで、通字は与えなかった。

こうした例外が可能だろうかという疑問があるものの、新興勢力の後北条氏としては、北条へ改姓して10年ほどという時期で例外措置が挟みやすかったといえる。それよりも、四の五の言っていられないほど一門人数が枯渇していたという要因が大きく作用していただろう。何よりこの措置によって、為昌という成人男性に加えて氏康と同年の嫡男も手に入る。また、1535(天文4)年になって為昌養子入りが確定したのは、嫡男綱成の妻が懐妊したことも契機となるかもしれない。

蛇足

念のため記しておくと、為昌が氏綱の息子で氏康の弟と書いているのは北条家過去帳と鶴岡御造営日記。北条家過去帳は後に北条氏長の手が大幅に入っており、過去帳というよりは玉縄北条家の系図のようになってしまっているし、氏繁次男を無理に挿入するなど操作の形跡がある。綱成の前に存在していた氏時・為昌への情報操作も窺われ、この点では信頼性に瑕疵があるといえる。

『快元僧都記』と『鶴岡御造営日記』は、どちらも天文年間の鶴岡八幡宮修復作業にまつわる内容を記載しているので、同時代史料だとされる。しかし、よく引用される『鶴岡八幡御造営日記』の塀普請割振状には不可解な記載があって不審。

  12間 北条氏康弟、彦九郎殿
南大門6間 北条氏綱弟、幻庵
   6間 北条庶子、左衛大夫
      寄子也、間宮豊前守

北条宗哲を「幻庵」としているが、宗哲が幻庵と呼ばれる最初の例は1558(永禄元)年(戦国遺文今川氏編1236)で、1546(天文15)年の自称では「長綱」(戦国遺文後北条氏編0279)であり、快元僧都記でも一貫して「長綱」と呼んでいる。

また、ここで「左衛大夫」と呼ばれた綱成だが、彼が左衛門大夫と名乗るのは1549(天文18)年以降であり、少なくとも1544(天文13)年までは「孫九郎」を自称していた。

この割振状に出てくる他の名前を見ていると、どうも所領役帳を参考にして工夫して入れ込んでいるような感触もある。

2022/10/30(日)小幡源次郎の出自

新出文書で見つかった小幡源二郎

戦国史研究84号に掲載されていた「上杉憲勝書状」に興味深い記述がある。

  • 戦国史研究84号p15「上杉憲勝書状」(駒澤大学浅倉研究室保管文書)1561(永禄4)年比定

態申届候、先日者預来書、先以本望候、如承候、自奥口罷透之時分、旁以取成殊義昭参会申、于今難忘候、其以来白川一途候哉、是又承度候、当国之事者、向江・河之両城、号葛西・難波田地令再興候、遠山丹波守二男小幡源二郎当方罷移候、是又被相稼候故、過半境押詰候、政虎自越後近日可有帰宅候、其上江戸ニ長陣可有之共申候、如何様豆州迄可被相動候、於向後者節々義昭へ申談度候、梅江斎有御談合被取成尤候、具堤蔵主可被申宣候、将又岩城・上遠野宮内大輔方へ、此飛脚梅江へ相談、有指南可被指越候、恐々謹言、
八月十七日/憲勝(花押)/東月斎へ

  • 解釈

折り入ってご連絡します。先日は書状をいただきまして、まずは本望です。承ったように、奥州口から通過した際には、あれこれ仲介いただき、特に佐竹義昭とお会いしたことは忘れられません。それ以来白川に一途なのでしょうか。これもまた承りたく。当国のことは、江戸・河越の両城に向かって、葛西・難波田という地を再興しました。遠山丹波守の次男である小幡源二郎が当方に移りまして、これもまた活躍しましたから、半分以上の戦線で押し詰めました。政虎が越後国から近く帰宅するでしょう。その上で江戸へ江戸に長陣せよと申しています。どうやってでも伊豆国まで攻め入るでしょう。今後は折々義昭へご報告したく思います。梅江斎にご相談して取り成していただくのがよいでしょう。詳しくは堤蔵主が申し述べるでしょう。また、岩城・上遠野大輔方へこの飛脚を送って、梅江斎に相談と指示を受けられるようにして下さい。

遠山綱景の次男が小幡源二郎であること、源二郎が憲勝側(上杉方)に寝返って江戸・河越攻めで功績を挙げたとある。小幡源次郎は所領役帳に出てきて、673.3貫文を知行している。このうちの208貫文が後北条直轄領である白根から出されており、江戸衆とはいっても直参に近い人物だろうと見ていた。が、書かれた位置はかなり後ろの方で、綱景次男とは想定できなかった。

後北条家中の「小幡・小畑」

源二郎が上杉方へ身を投じる前の状況を列挙してみる。

  • 1540(天文9)年11月20日、山中大炊助とともに「小畑源太郎」が神馬と太刀を進献している。(快元僧都記)

  • 1548(天文17)年10月26日、上杉憲政は小林平四郎へ「小幡尾張守知行之内」上野国秋畑村を与えている。(清瀬市史3_677)

  • 1550(天文19)年11月7日、上杉憲政は「去々年小幡尾張守不忠候砌」と書いている。(清瀬市史3_680)

  • 1552(天文21)年3月14日、後北条氏の虎朱印状が小幡尾張守宛で出されている。これは百姓の還住を命じたもので、対象は「今井之村」となっている。(戦国遺文後北条氏編0409)

  • 1559(永禄2)年、後北条氏所領役帳が編纂される。この中には小幡氏旧領が3地点見られ、既に小幡尾張守が没落していることが判る(旧領の1つに小机に今井村がある)。しかし一方で、江戸衆に「小幡源二郎」と「小幡勘解由左衛門」が存在する。

上記をまとめると、後北条家中には元々「小畑源太郎」という人物がいたが、永禄2年の所領役帳内に名がないことから失職状態だったようだ。また、上杉憲政が退潮していく中で見切りをつけたらしい小幡尾張守が後北条方に寝返った。しかし、こちらも同様に役帳内で小幡氏旧領が見られることから、天文21~永禄元年の間に何らかの理由で尾張守はいなくなったようだ。

その一方で、江戸衆内に源次郎・勘解由左衛門が現われる。

源二郎の所領は相模西郡の大井を本領として、葛西、下平井郷と上総国滝口三ヶ村と分散しているほか、後北条直轄領の相模白根から208貫文を提供されている。これは、源次郎の招待が遠山綱景次男だとすれば納得がいく。

比較して勘解由左衛門は、相模東郡に「大豆津=大豆戸」と「下和田之内」の2箇所に留まっており、尾張守の縁者で余録を与えられたと見られる。

ちなみに、源次郎と勘解由左衛門に挟まれた佐藤図書助は、伊豆国長崎郷100貫文を領しているが、注記に「元小幡蔵人・小島右京亮」とある。

永禄以降の動き

ここで新出文書の比定年である1561(永禄4)年を迎えるのだが、ここからは文書全体を見ていく。

小畑源太郎が小田原籠城戦に参加する。

  • 小田原市史資料編小田原北条0470「北条氏政判物写」(諸氏家蔵文書)

    今度当城楯籠、可走廻之由候、尤神妙候、走廻之処、至于分明者、本意之上、又ゝ望之処一所、可遣者也、仍如件、
    永禄四年三月十日/氏政(花押)/小畑源太郎殿

  • 解釈

    今度当城に立て籠もり、活躍したいと希望したのは尤もで神妙です。活躍状況が判りましたら、作戦成功を待って所望する一所を与えましょう。

小幡源太郎が大豆戸郷を宛行なわれる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0492「北条氏政知行充行状写」(記録御用所本古文書二)

    小机筋大豆戸郷出置之候、可知行者也、仍状如件、
    永禄四年辛酉七月七日/氏政判/小幡源太郎殿

  • 解釈

    小机方面の大豆戸郷を拠出しますので、知行するように。

小畑太郎左衛門が武蔵国生山で戦功を挙げる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0509「北条氏政感状案写」(諸氏家蔵文書)文中の「松山」は「生山」の誤記

    昨廿七日、於武州松山、越国衆追崩、敵一人打捕、忠節候、向後弥至ゝ走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、
    永禄四年十一月廿八日/(氏政花押)/小畑太郎左衛門殿

  • 解釈

    昨日27日、武蔵国生山において越後国衆を追い崩し敵1名を討ち取る忠節を見せました。今後はますます活躍するなら、速やかに恩賞を与えましょう。

小幡太郎左衛門尉が用水関連で虎朱印状を発給される。

  • 小田原市史資料編小田原北条1244「北条家虎朱印状写」(諸氏家蔵文書)

    (前欠)所壱貫余為作用水も、無相違、何事も如先規両郷申合可致之旨、依仰状如件、
    天正五年丁丑卯月十日/日付に(虎朱印)評定衆上野介康定(花押)/小幡太郎左衛門尉殿

  • 解釈

    (前欠)所の1貫文余りを用水作りのため与えます。相違なく、何事も先の規則の通り両郷が申し合わせるようにとの旨、仰せになりました。

これをまとめると、後北条家中に元からいた「おばた=小畑」源太郎は牢人状態だったと思われるが、小田原籠城戦への参加の功績が認められて7月7日に大豆戸郷を与えられる。この際に北条氏政は「小幡」と宛てていることから、同音異字の名字を格上げしていたのが判る。更に、役帳での大豆戸郷は勘解由左衛門の知行だった土地なので、この時点で源次郎・勘解由左衛門は上杉方に寝返っていたものと思われる。

そして、源太郎は永禄4年で史料から消えるが、同時に現れた太郎左衛門尉は天正5年にも出てくるので、源太郎の後継者と思われる。太郎左衛門尉もまた「小畑」として登場して「小幡」に切り替えている。

まとめ

今回判明したことで驚くのは、直轄領から208貫文もの知行を援助され、役負担もある程度免除されていた綱景次男が軽々と寝返ったことである。出自や自身の優遇ぶりよりも、名跡を継いだ小幡家としての立場で動いているように見える。

同じ綱景の息子としては遠山隼人佑がいて、彼は役帳では15貫文の知行しかないが、足利義氏社参では松田憲秀・笠原綱信と並んでいる立場で、綱景後継者として古河公方との繋がりも持っていた。遠山家では立身しようがない源次郎には、小幡家当主として上杉被官に復帰した方が出世できと踏んだのかもしれない。

こうなってくると、寛政譜の記述がいかに事実と乖離していたかが印象深くなる。

大豆戸の小幡氏は、以下のように記される。

小幡太郎光重が後胤なり。今の呈譜に、光重上野国小幡に住せしより家号とし、六郎左衛門久重がとき小畑にあらため、其男伊賀守泰久小幡に復す。泰久はじめ今川家につかへ、後北条氏康につかふ。その男太郎左衛門泰清もまた北条氏政につかふ。正俊はその男なりといふ。

ところが、今川氏の文書で小幡・小畑は現れない。であれば「小畑」は相模か伊豆の土着武家だろうし、尾張守を巡る同時代史料がある以上「小幡」は上野国小幡氏の流れと考えた方がよいだろう。また、小幡太郎左衛門尉は源太郎の息子であり、小幡→小畑→小幡と2回名を変えたのではなく、小畑→小幡で1回変更しただけと見られる。

改めて意を強くするところだが、仮説構築に後世編著を取り入れることは慎重に行なわなければならないだろう。

2022/08/23(火)北条氏規妻の実体

氏規妻は綱成の娘か

通説で「高源院殿」とされていた北条氏規妻の戒名について、過去帳を検討した結果別人のものである可能性が非常に高くなった。そこで、改めて彼女の実体を推測してみる。

寛政譜では北条綱成の娘となっている。これは昨今の通説でも受け入れられており、氏規文書に水軍・三浦半島に言及したものがが見られることから、これらを統括している綱成の保護下にあったと想定、氏規が綱成娘を娶ったことを肯んじている。

まず関係史料から挙げてみよう。

仁科郷の地頭

「北条美濃守御前方」は、伊豆国仁科郷の地頭(領主)として登場する。1589(天正17)年11月の記録で後北条最末期のものではあるが、美濃守氏規の妻が仁科の地頭であったことが判る。

  • 戦国遺文後北条氏編4969「佐波神社棟札銘」(西伊豆町仁科佐波神社所蔵)

    奉修理、三島大明神御宝殿之事。右大旦那本命辰之天長地久子孫繁昌諸願成就、本願須田図書助盛吉(花押)
    当地頭北条美濃守御前方、大工瀬納清左衛門・鍛冶鈴木七郎左衛門、于時天正拾七己丑年霜月吉日

伊豆の仁科郷というと、1561(永禄4)年に北条氏康が「父氏綱は禁裏のご修理の費用に仁科郷を進上した」と書いているように、それなりの収益が見込まれる土地であった。所領役帳での仁科郷は100貫文しか計上されていないものの、実態としては仁科郷を中心にした村落群を「仁科」と呼んでいたようで、1583(天正11)年には清水康英が「仁科十二郷御百姓中」に宛て、三島宮の八朔行事への出資を命じている。

仁科北方の地頭、山本家次

仁科の歴史を遡ると、仁科の北にある田子漁港の近くにある神社の棟札が地頭の存在を記している。

-戦国遺文後北条氏編4657「天満宮棟札銘」(多胡神社所蔵)1560(永禄3)年5月2日

(表)大日本国伊豆州仁科庄大多古郷、地頭山本信州守家■。奉新造栄天満大自在天神、大工新衛門宗■・代官松井与三左衛門。于時永禄三年庚申五月初二日、郷内子々孫■■栄也、及至法界平等利益乎(裏)仁科鍛冶太郎左衛門尉広重
謹、敬白
帯一筋、道祐・麻五十目、九郎左衛門尉・■■■■■■

ここにあるように、1560(永禄3)年の仁科庄内大多古郷地頭は山本家次。彼は三浦郡の出自で水軍を率いており、最初は為昌配下にあり、次いで氏規指揮下に入った人物。前年完成した所領役帳で家次は御家中衆に分類され、その知行とされているのは伊豆国内の田子・一色・梨本とある。どうやら仁科十二郷北部とその東方に所領があったようだ。

所領役帳では渡辺弥八郎が領主

渡辺弥八郎は所領役帳で小田原衆として記載され、知行地として仁科郷の100貫文が記載されている(但し「今者公方領」との注記があり、永禄2年時点では後北条直轄領だった模様)。山本家次領が北方を占めていたことから、弥八郎が領した「仁科」は中心部の限定的な領域だったと思われる。

その弥八郎と同族だと思われる渡辺孫八郎に対して、後北条氏は虎朱印状を発給している。仁科郷からの陣夫1名を北条氏秀(孫二郎)支給に変更するため、代替として富岡・大岡から後藤彦三郎が使っていた陣夫1名を孫八郎に派遣するとした。氏秀は綱成の弟なので、ここでも玉縄家と仁科の繋がりが窺われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0561「北条家虎朱印状」(渡辺文書)1563(永禄6)年

    前ゝ仁科郷より召仕候陣夫壱疋、自当年孫二郎前引ニ被遣候、此替久良岐郡富岡・大岡郷より、前ゝ後藤彦三郎召仕候陣夫壱疋、現夫を以、為仁科之夫替被下由、被仰出候、仍如件、
    癸亥四月廿六日/日付に(虎朱印)南条四郎左衛門奉之/渡辺孫八郎殿

番銭の滞納事件

永禄8年、仁科郷が納税を怠っていた事件が勃発し、そのことで周辺にいた人々の名前が明らかになる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0628「北条家虎朱印状」(三島明神文書)1565(永禄8)年

    子歳番銭未進事。拾三貫六百四十文、仁科
    右、先年以配苻、無未進年ゝ可致皆済段、堅被仰付処、于今無沙汰仕儀、一段曲事被思食候、当月切而可済申、若当月を至于踏越者、以牛馬可引取、百姓共をハ五人も三人も可搦取、并名主草丈をも押立、小田原へ為引可申、此儀聊も無沙汰至于申付者、奉行人可遂成敗、為其改而一人被指加者也
    一、酉戌亥子四年間、此番銭済候様体、此度委可申披事
    一、代物之ほとらい、御本被遣事
    以上、
    乙丑七月八日/日付に(虎朱印)/仁科船持中・奉行中村宗兵衛・同村田新左衛門尉・田蔵地代源波・浮奉行中村又右衛門・山口左馬助

永禄7年の番銭13.64貫文を仁科郷が滞納した件が問題になったのが判る。7月4日の布告で「もし月を跨いで滞納するなら牛馬を差し押さえ百姓を何人でも捕縛して、名主草丈(方丈?)でも小田原へ連行する」と強硬に命じている。納税者の船持中だけでなく、奉行3名に加えて臨時奉行と思われる2名にも納税を命じていて、怠るなら奉行でも成敗するとしている。この滞納は4年も続いていたようで、過去に遡及しての完済も同時に求めていたから、まあそれは厳しく取り立てるだろう。

  • 小田原市史資料編小田原北条0629「北条家虎朱印状写」(三島明神文書)1565(永禄8)年

    仁科郷子歳番銭未進、曲事候、当月ニ切而皆済可申、若至于踏越当月者、百姓をは搦捕、其上地頭ニ可被懸過失候、為其兼日以御印判被仰出者也、仍如件、
    乙丑七月九日/日付に(虎朱印)/左衛門大夫殿

過激な徴税命令を出した翌日、氏政は一門の綱成に徴発を依頼している。月末を過ぎても納付がなければ、百姓を捕縛し、さらに地頭に過失の責務を負わせるとしている。地頭がいたということは、この段階で仁科は直轄領ではなくなっていた。そして地頭が綱成だったのだろう。地頭が綱成とはいえ番銭は後北条当主へ納める仕組みで、その徴税代官が先行したものの難航して綱成にも連帯責任を警告したものと思われる。

この地頭職を、綱成は娘に譲った可能性が高い。

まとめ

上記より、氏規妻と綱成は、伊豆との関係性が見られることが判った。間を繋ぐ氏規は更に伊豆と関係が深いことから、この3人が密接な関係にあったと見てよいと思われる。寛政譜にある「氏規の妻が綱成の娘」という記述と従来の通説を、更に補強する結果となった。

綱成の生年は1515(永正12)年と伝わるので、1545(天文14)年生まれとされる氏規とは30歳違いであり、年齢的に不自然さはない。綱成長男の氏繁が1536(天文5)年生まれなので、その妹とすると氏規と同年齢か少し年上だった可能性はある。

北条氏勝はなぜ小田原開城後に躍進したのか

これは状況証拠であるのだが、氏規の妻が綱成娘とすれば、玉縄北条家が本家滅亡後に徳川家康に特別に取り立てられた理由が判る。軒並み落魄した一門の中で、氏規と氏勝は別格の扱いを受けている(天正19年閏1月に氏勝は自領の岩富で検地を行なっている)。

元々羽柴・徳川と関係を持ち最後まで軍事的に抵抗しえた氏規が高評価を受けて栄達するのは判り易いのだが、さほどの活躍を見せていない氏勝が、徳川家中で一万石を初動で得る理由が判らなかった。これを、氏規夫妻による嘆願が背景にあったとすれば納得がいく。

氏規夫妻と氏勝の関係が窺える史料がある。北条氏勝・直重が連名で伊豆の長楽寺に宛てて判物を発行しているもので、伊豆に関して二人が言及しているのはこの文書だけ。これは、氏規夫妻が政務を開始した甥っこ兄弟に指南をしていたと考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編2535「北条氏勝・直重連署判物」(下田長楽寺文書)

    大浦薬師免田之事、右如前ゝ聊不可有相違、并近辺林之竹木等、仮初にも横合非分不可有之者也、仍状如件、
    天正十一年癸未五月十二日/左衛門大夫氏勝(花押)・新八郎直重(花押)/長楽寺参御同宿中

そもそも玉縄家は、綱成の後の氏繁が1578(天正6)年に死去してから外交・軍事ともに大きな働きはしなくなっていた。氏規の妻がこのことを気にかけていた可能性は高い(本格的な検討は必要だが、氏繁妻のものと比定されている朱印状3通(天正12~14年)も、氏規妻が実家のために発行したのかもしれない)。

1590(天正18)年の小田原合戦を見ても、氏勝は4月21日に無血降伏して玉縄を明け渡しており、扱いとしては鉢形を開城した氏邦と差異はない。

氏勝の降伏表現

  • 豊臣秀吉文書集3037「羽柴秀吉朱印状」(島津文書・東大史写真)4月23日

    (抜粋)「来月朔日鎌倉為見物可被成御出候、彼近所ニ有之玉縄城此方へ相渡、物主北条左衛門大夫走入、命之儀御侘言申候間、相助家康へ被遣候、即右地へ相移、関東之城々悉請取、此方之人数可被入置候」

  • 神奈川県史資料編3下9773「川島重続書状」(伊達文書)5月2日

    (抜粋)「下野国ノ侍皆川山城守走出申候、人数百計召連候、其外北条左衛門大夫命を被助候様ニと申上、無理ニ罷出候、左衛門大夫ハ玉縄と申城ニ籠申候つる」

  • 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月

    (抜粋)「随而廿一日相州玉縄城明渡、城主北条左衛門剃髪成染衣形出仕申候、其後伊豆国下田城清水上野楯籠候、是茂剃首助命、城指上申候」

氏邦の降伏表現

  • 豊臣秀吉文書集3276「羽柴秀吉朱印状」(東京国立博物館)6月28日

    (抜粋)「武州鉢形城北条安房守居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言申上ニ付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林候」

  • 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月

    (抜粋)「其後同国鉢形に氏政舎弟安房守楯籠候処、北国人数并浅弾人数可押寄支度候処、急懇望申、助身命候、前代未聞之比興者之由、敵味方申候」

上記を合わせて考えると、氏規妻が甥の氏勝を引き立てたという理由が成り立たないにしても、氏勝の不自然な躍進は何らかの考察を加えるべきだろう。