2022/03/22(火)今川氏真帰国後の居所

掛川退去後の氏真はどこにいたか

永禄11年12月に本拠地である駿府を武田晴信に追われた今川氏真は、掛川で籠城する。ここで徳川家康に攻囲されるものの、伊豆から海路やってきた後北条方の援軍を得て善戦。やがて北条氏政が家康との停戦交渉に成功し、掛川から出ることとなる。遠江国は徳川分国となり、永禄12年5月、氏真は自身の被官と後北条方援軍を伴って駿河へ入った。

  • 5月18日:氏政は大叔父の北条宗哲への書状で状況を報告

    「氏真御二方各無相違、昨日蒲原迄引取申候」(戦国遺文今川氏編2367)

  • 5月28日:氏政は自身の被官清水新七郎へ、掛川に援軍として駐屯したことを賞しつつ氏真帰国に言及

    「終氏真并御前御帰国候」(戦国遺文後北条氏編1228)

  • 閏5月3日:北条氏康は、氏真被官の岡部大和守に戦況を報告

    「氏真御二方、無相違至于沼津御着候」(戦国遺文今川氏編2382)

  • 閏5翌4日:氏政被官の遠山康光は、上杉輝虎被官の松本景繁に戦況を報告し氏真近況に触れる

    「只今者、三島近所号沼津地被立馬」(戦国遺文後北条氏編1240)

  • 閏5月21日:氏真は輝虎に宛てた書状で近況を報告

    「去十五日駿州号沼津地納馬候、当地氏政陣下三島為近所之間、諸事遂談合」(戦国遺文今川氏編2400)

5月17日に遠江国の掛川から駿河国の蒲原に移る。ここには北条宗哲の息子である北条氏信が在城。翌閏5月3日には更に東へ移動して沼津に入った。黄瀬川を挟んだ三島には氏政の本陣があり、ここに居を据えて駿河国全域の奪還を目指すと上杉輝虎に伝えている。

このように、氏真を擁した後北条方は駿河国から武田方をほぼ撤退させるに至るものの、7月3日には富士大宮城を奪われてしまう。その後晴信の小田原急襲を経て、同年12月6日に蒲原城、12日には薩埵峠も失陥。深沢城・興国寺城は維持していたものの、戦況は悪化しており、氏真は沼津から離れたようだ。

  • 12月18日:氏真は自身の被官興津摂津守の功績を称える

    「就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也」(戦国遺文今川氏編2434)

文面から緊急退避した様子が伺われる。対比先の「当城」は地理的に考えて韮山城だろう。

上記を勘案すると、閏5月3日から氏真は沼津にいて12月18日より前に韮山城へ退去したと考えるのが妥当である。氏真が退避したのは蒲原・薩埵の陥落によって沼津近郊の安全が保証されなくなったためだと思われる。

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氏真が大平にいたとする仮説の信憑性

通説での氏真は沼津から南にある戸倉か大平にいたとされる。戸倉にいたとするのは江戸期の編著史料である『北条記』によるもので、大平とするのは同時代史料の存在が影響している。

北条記による戸倉説は同時代史料の範疇外なので顧慮しないとして、氏真が駿河大平にいたというのは以下の虎朱印状の解釈による。

後北条家、吉原の矢部将監に鈴木某の身元調査を命ず

原文

鈴木令帰往由、入御耳候、彼者親敵へ相移由候条、実否可令糺明間者、可他出由申付処ニ、不審候、若者大平へ如何様ニも申上有仁、被為返候哉、自最前之筋目知候間、申付候、彼者糺明之間、吉原ニ置事無用候、此印判を大平へ致持参、右趣可申上候、猶鈴木父、信玄へ不出仕条、歴然之所申開ニ付而者、不可有別条状如件、
巳潤五月十五日/日付に(虎朱印)石巻奉之/吉原矢部将監殿

戦国遺文後北条氏編1250「北条家虎朱印状」(矢部文書)1569(永禄12)年比定

解釈

鈴木が帰住したと耳にした。彼の父は敵方へ移ったというので、実否を調査している間は追放せよと指示していた。不審なことだ。もしかしたら、大平に巧妙に申告した者がいて帰住したのだろうか。直近の状況を知っているので指示する。彼を調査している間は吉原に置くことは無用である。この印判を大平に持参し、右の趣旨を申し上げよ。なお鈴木の父が信玄へ出仕していないのが明白ならば、帰住に問題はない。

これは吉原の矢部将監に宛てたもので、鈴木某が吉原に帰住したと聞きつけた氏政が発したもの。これより先に、鈴木の父は武田方に寝返ったという情報があり、その真偽を確認するまでは鈴木を吉原から追い出せと指示していた。この時に氏政は「大平は鈴木父の件を知っているのか」と疑問を感じており、経緯を大平と共有するように矢部へ命じている。

この鈴木某は、恐らく鈴木善右衛門尉だろう。開戦最初期の永禄11年12月24日に吉原へ宛てた虎朱印状では宛所の名義が「矢部将監殿・渡辺兵庫助殿・鈴木善右衛門尉殿・石巻代市川殿・山角代鈴木弾右衛門殿」となっているが、1月晦日の虎朱印状では「太田四郎兵衛殿・鈴木弾右衛門尉殿・矢部将監殿」と、後北条家中の江戸衆である太田四郎兵衛、小田原衆山角氏の被官鈴木弾右衛門尉の名が先に挙げられ、今川家中では矢部将監しか残されていない。

この「大平」を地名と解釈し、氏真が大平にいたと読んだのが大平居住説の論拠だろう。しかしこの解釈は無理がある。三島にいた氏政からすれば、吉原の矢部に「大平へ問い合わせろ」というよりも直接大平の氏真に確認した方が早い。その上で鈴木の帰住許可をどうするか矢部に指示するのが合理的だ。

武田家内通を疑っている人物が吉原に入り込んでいるかもしれない時に、氏政が「この印判を大平に持参しろ」と書いているのも妙だ。矢部が吉原から大平移動せねばならず、その間は吉原が手薄になってしまう。氏政は基本的に現場判断に委ねつつ「ちょっと事情を確認して。前に疑いがあったから」と、咄嗟の念押しをしている。仰々しく三島・吉原・大平を言ったり来たりするような内容ではない。

また、虎朱印状は後北条家中で効力を発揮するものであり、当主が被官に対して発するのが前提である。さらに言うと、朱印・黒印といった印判状は薄礼で後北条氏でも外交文書や感状にはほぼ使われない。分国が崩壊したとはいえ駿河太守である氏真に対して、この朱印状を見せろと言うだろうかと疑問に思う。虎朱印状内で「これを代官・抗議者に見せろ」と書いている例はあるが、家中外に向けて掲示させるような例はない(戦国遺文後北条氏編1776・小田原市史資料編小田原北条1391/1572など)。

対武田方戦をともに行なっていた今川家有力被官(富士兵部少輔・岡部和泉守・三浦左京亮)に対しても、氏政は虎朱印状を使わず書状で連絡している。

※一方で、矢部・杉本・秋山・武藤といった駿東の小規模被官には虎朱印状を用いている。これは永禄11年12月の開戦初頭からのもので、戦時制圧した領地は終戦まで実効支配するという枠組みによるものだろうか。この点は検討を要する。

何れにせよ、対等な太守である氏真を自身の朱印状で追求する行動を氏政がとるとは考えづらい。

このように、行動手順・書札礼から考えれば「大平」は人名で、吉原の後北条方拠点にいた責任者だったとする方が齟齬がない。

後北条方では4月15日に大平右衛門尉が確認できる。

  • 4月15日:虎朱印状で大平右衛門尉・江戸刑部少輔・江戸近江守を緊急動員

    「敵動火急之由告来候間、早ゝ人数を集、来廿一日当地迄着陣待入候、普請動無寸隙、御苦労無是非候、雖然、自敵至懸儀無拠候者、塩味専要候、猶御仁体へ、重而可申候」(戦国遺文後北条氏編1408)

この書状は永禄13年に比定されているが、その前年の比定でも矛盾は生じない。また、大平右衛門尉と同じく武蔵吉良家に仕えている高橋郷左衛門尉は永禄12年1月13日にはこの戦線への投入が確認されている。このことから、永禄12年閏5月15日時点で大平右衛門尉が吉原にいる可能性はある。

氏政が大平に直接朱印状を発しなかった理由は不明だが、吉原統括者となって日が浅い大平よりも、元から吉原にいた矢部を動かした方が早いと判断したと考えられる。

この時点で沼津が戦場だったか

もう1点、氏真が狩野川より南にいたと判断された根拠として武田晴信の3通の書状がある。永禄12年比定で「伊豆に攻め込み三島で勝利した」と自身の被官に報じたもの。これがあるため「武田方は三島まで攻め込んでいるため沼津は拠点確保できなかった」という先入観を持つこととなり「氏真が沼津に留まり続けられる筈がない」という予断を招いたものと思われる。

武田晴信、某に駿河国への攻撃状況を伝える

原文

今度向豆州出馬任存分、則当城へ移陣候、仍富士兵部少輔属穴山左衛門大夫、種々懇望之旨候、但分量之外訴訟数多之間、可赦免哉否思案半ニ候、何ニ当表之本意可為五三日之内候条、可心易候、次ニ由比又四郎召寄候之処、存命不定之煩、因茲先方万沢迄返候、猶土屋平八郎可申候、恐々謹言、
七月朔日/信玄御居判/宛所欠

戦国遺文今川氏編2407「武田晴信書状写」(塩山市・菅田天神社文書)1569(永禄12)年比定

解釈

今度伊豆国に出馬して思うがままにし、すぐにこの城へ陣を移しました。富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属したいと様々に懇望しています。ただ、とても訴訟が多いため、赦免するかどうかは思案半ばといったところです。どちらにせよこの方面で目標を達成するのは数日でしょうから、ご安心下さい・次に、由比又四郎を出仕させようとしたところ、生死も危うい病気ということで先方が万沢へ返しました。更に詳しくは土屋平八郎が申します。

武田晴信、玉井石見守に駿河国内の戦況を伝える。

原文

従是可申越之処、態音問祝着候、抑今度向豆州、及不虞之行、三島以下之悉撃砕、剰於于号北条地、当手之先衆与北条助五郎兄弟遂一戦、味方得勝利、小田原宗者五百余人討捕候、則小田原へ雖可進馬候、足柄・箱根両坂切所候之条、駿州富士郡へ移陣候、然者大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内ニ可渡城之旨儀定、此上者早速可令帰国候、猶土屋平八郎可申候、恐ゝ謹言、
七月二日/信玄(花押)/玉井石見守殿

戦国遺文今川氏編2408「武田晴信書状写」1569(永禄12)年比定

解釈

こちらからご連絡しようとしたところ、わざわざご連絡いただき祝着です。今度は伊豆国へ思いがけず作戦を行ない、三島以下全てを撃破。更には北条という地で、こちらの先遣隊が北条助五郎兄弟と一戦を遂げて味方が勝利し、小田原方の主な者500人余りを討ち取りました。、すぐに小田原へ馬を進めようとしましたが、足柄・箱根の両坂は険難なので、駿河国富士郡へ陣を移しました。大宮城主の富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属して今日・明日のうちに城を明け渡すのは確実です。この上ですぐに帰国するでしょう。更に土屋平八郎が申します。

武田晴信、大井左馬允入道に駿河国の戦況を伝える

原文

従三島直ニ向大宮出張、諸虎口取破詰陣候之処、対于穴山左衛門大夫、城主冨士兵部少輔悃望之間、令赦免、城請取、当表悉達本意候、此上城内法置等成下知、三日之内ニ可納馬候、可被存心易候、恐々謹言、
七月三日/日下に(朱印「晴信ヵ」)/大井左馬允入道殿

戦国遺文今川氏編2409「武田晴信書状写」(大井文書)1569(永禄12)年比定

解釈

伊豆国三島からすぐに駿河国富士大宮に出撃し、諸虎口を破って陣を詰めたところ、穴山左衛門大夫に対して、城主の富士兵部少輔が懇願したので赦免して城を受け取りました。この方面は全て望み通りとなりました。この上は城内に法を置いて指示を下して、3日以内に帰陣するでしょう。ご安心下さいますように。

ところが、この段階で武田方が三島に到達した証跡はない。北の御厨口は深沢城があり、西は蒲原・薩埵・富士大宮を抑えている。この直後に武田方が富士大宮を無力化させたのは確かだが、三島から富士大宮に行ったのではなく、右左口か身延を経て甲斐から直接攻撃したのだろう。実際、武田家の禁制は身延から富士大宮に向かう範囲にのみ出されている(静岡県史資料編8_45・46・53・54・55・56・57・58)。

晴信は虚報を発する例がある。たとえば、下記のように「伊豆一国を撃破して先月下旬に帰還し、更に5日には武蔵国御獄城を乗っ取り軍備を整えた」とある。

武田晴信、太田資正に伊豆・武蔵の戦況を伝え協力を求める。

原文

其已後者、通路無合期故、絶音問意外候、仍去月、向豆州覃行、一国悉撃砕任存分、下旬之比帰府、剰云五日、武州御獄之城乗取、則令普請、移矢楯・兵粮、甲信之人数千余輩在城候、然而至関東、早々可致出陣候、弥味方中無異儀様、調略憑入存候、恐々謹言、
六月廿七日/信玄(花押)/太田美濃守殿

静岡県史資料編8_0039「武田晴信書状写」(太田文書)1569(永禄12)年比定

解釈

それ以後は交通阻害で意に反してご無沙汰していました。去る月伊豆国に作戦を行ない一国全てを撃破し思うままにしました。更には5日に武蔵国御獄の城を乗っ取ってすぐに普請し、矢盾・兵粮を移して甲斐国・信濃国の兵員数千人余りを在城させています。そして関東に向かって早々に出陣するでしょう。味方に対しては異議が発生しないように、ますますの調略をお願いします。

ところが実態は異なり、伊豆国襲撃がないどころか、武蔵国御獄城から上野国長根城付近に攻め込まれ小幡三河守が後北条方に寝返っている(埼玉県史料叢書12_0360/戦国遺文後北条氏編1265/1271)。対抗する後北条方が虚報を伝えている可能性もあるが、氏政から由良成繁への援軍依頼や、平沢政実による長根への禁制から見ると他者をより多く巻き込んでいる点や、文書で登場する地名・人名が具体的であることからその可能性はないと見てよいだろう。

こうした晴信の虚報には氏康も翻弄されたようで、氏邦に対して注意を喚起している。

北条氏康、駿河国戦況を伝え、北条氏邦に武蔵国での軍事行動を指示

原文

■三日書状廿八日到来、具令披見候、一、今春向西上州相動、所ゝ放火敵数多討捕之由心地好候、各参陣人数又無分■人数書立令披見候、一、敵重而大瀧筋日尾之山口動候哉、か様之せゝり動ハ五■■七日不経可有之候、各為宗者懸廻ニ付而ハ不残可■兵候、其口ニ者請取之人数を定、切所際ニ指置郷人等をも相集、兼日ニ路次をも切塞、以普請待懸ニ付者、待方ニ可有勝利候、只兼日普請ニ極候、一、信玄ハ向富士城大宮ニ被陣取候、多勢之由申候、大瀧口へ出張者可為虚説候、口ゝにて信玄をかさし物ニ申候、大宮口ハ、歴然之陣取たる虚説有間敷候、一、矢鉄炮用所候由候、無際限召仕候、一疋一腰も不入候、何とて嗜無之候哉、不及是非候、一、御獄仕置先書如申、先当意者なため、小田原へ非可申入儀間、平沢・浄法寺共可致和融由、如何にも身ニ成懇ニ可被申候、猶致様者以使可申候、恐ゝ謹言、
六月廿九日/氏康(花押)/新太郎殿

小田原市史資料編小田原北条0978「北条氏康書状写」(新田文庫文書)1570(永禄13/元亀元)年比定

解釈

23日の書状が28日に到来し、詳しく拝見しました。
一、今春に西上州へ作戦を行ない、あちこち放火して敵を多数討ち取ったとのこと、心地よい思いです。おのおの参陣した兵員数の一覧を拝見しました。
一、敵は重ねて大瀧筋の日尾之山方面に動いているのでしょうか。そのようなつっつきは5~7日を経ずに起きるでしょう。おのおので主だった者を駆け回らせるよう兵を集めておくように。要路には受け持ちの部隊を定めて、要所に配置し村人も集めなさい。その前に道路を塞いでおき、普請して待ち受ければ勝利するでしょう。ひたすら、事前の普請で決まります。
一、信玄は富士城大宮へ陣取りました。多勢とのこと。大瀧口への出撃は虚説でしょう。口々に信玄をかざして言っているのです。大宮口は歴然とした陣取りで虚説ではありません。
一、矢・鉄炮が必要らしいですが、際限なく徴発すれば兵站は不要です。どうして事前の準備がないのでしょう。是非もありません。
一、御獄城の措置は先の書状で伝えた通りです。まず当意の者をなだめ、小田原へ訴えることがないように、平沢・浄法寺を和解させるよう、どうやっても懇切に説得するように。更なる指示は使者が申します。

まとめ

氏真滞在状況の史料精査から見て、彼が永禄12年の閏5月3日から12月17日までは確実に沼津に拠点を据えたと考えられる。

翌永禄13年4月26日に、北条氏康は小田原西方の海蔵寺・久翁寺に宛てて禁制を出し、この保証者に富士常陸守・甘利佐渡守・久保新左衛門を指名している。これは、早川右岸に今川被官が駐屯しており、近隣の寺社を保護する必要があったものと思われる(富士常陸守・甘利佐渡守については、後に武田氏が今川旧臣として記載)。

状況を考えると、永禄12年12月18日以降に氏真は韮山城を出て小田原西方の早川村近辺に転居したのだろう。

2017/04/24(月)史料想-2 葛山衆の幻影

 更に突っ込んで、「某」が替地の件で苦情を言われていた『水窪』を戦国遺文後北条氏編の索引で調べてみると、1点だけヒットした。

後北条氏、渡辺蔵人佐に、水窪・土狩での収入を渡す

『水窪』は去年の7月迄は直轄領でしたから、『土狩』の知行地をそれぞに一つ拠出なさり、それに従うようにご指示ありました。現在は諸々を現金給与となりましたので、陳情に応じて、水窪において18貫文、土狩における18貫文の分を『所肥後』から渡すでしょう。さて、『葛山』衆の先方をしていた際の上下については知りません。そしてまた、所肥後の同心になるようなご指示もしていません。時が至れば配属となったら、指南するようにとご指示なさいました。但し、所肥後が考えもなく非法なことをしたなら、報告して下さい。その時にはそれぞれが直接奉公することとなるでしょう。

庚午(元亀元)卯月十日/(虎朱印)石巻奉/渡辺蔵人佐殿
戦国遺文後北条氏編1403「北条家朱印状写」(判物証文写今川二)

土地の比定は判り易いが、人名はここにしか出てこない2名で全く追えない。

  • 土狩……水窪の南方にある土地で、天正期を通じて後北条氏が掌握していた
  • 葛山……葛山城を拠点とした国衆で氏元が当主だった
  • 所肥後……名字が「所」で受領名が「肥後守」だったと思われるが不明
  • 渡辺蔵人佐……駿東郡にいた渡辺氏と関係がありそうだが不明

この文書で判ることは以下の通り。

  1. 1569(永禄12)年7月まで水窪は後北条氏直轄領
  2. 同じく8月以降は直轄領ではなくなった
  3. 渡辺蔵人佐は水窪に知行が36貫文存在していた
  4. 替地として土狩が割り当てられた
  5. 前年上期までの収入として水窪18貫文を支給
  6. 下期の収入として土狩18貫文を支給
  7. どちらも所肥後守から受け取るよう指示
  8. 所肥後守が寄親になった訳ではない
  9. 葛山衆の先方としての序列を後北条氏は知らない
  10. とはいえ所肥後守が寄親の方針は変わらない
  11. 但し所肥後守に非があれば解任し直参とする

判りづらい部分もあるが、渡辺蔵人佐のほかにも、水窪に知行があって葛山氏被官だった者が存在しているという書き方だ。そして、水窪の知行が後北条氏直轄領として接収され、近隣の土狩に替地が用意されていたことが判る。そして、所肥後守の指南に受けることに抗議していたようだ。葛山氏元の被官たちがどういう序列かは知らないと後北条氏は答えつつ、所肥後の指揮下に入る基本方針を何とか伝えている。ただこの辺りの記述は歯切れが悪く、対応を誤ると渡辺らが敵方に移動すると考えて宥めようとしていた感じがする。

某は所肥後守である可能性

ここで最初の文書に戻ってみる。某は水窪の替地で何者かに苦情を言われていた。これを、所肥後守と渡辺蔵人佐に当てはめると、自然な解釈が可能になる。

永禄12年7月まで直轄領だった水窪を宛行なわれたのは所肥後守で、渡辺らは水窪から土狩に替地をさせられた。所の知行高は不明だが、妻子の疎開費用だけで70貫文を支給されている。一方の渡辺は全知行でも36貫文しかない(水窪替地以外の知行があった可能性はあるが、支給方法を詳細に書いた文書に存在が全く書かれていないことから、ちょっと考えづらい)。

そして、某は永禄12年7月11日は某が円能口で活躍を見せたタイミングでもある。褒賞として水窪郷が一円支配として与えられ、旧葛山衆を率いるよう命じられた。しかし渡辺らは納得しなかった。

このようなストーリーが構築できる。その後で所肥後守・渡辺蔵人佐の史料が遺されていないのは、後北条から離脱したのか戦死したのかだろう。

掛川への派遣は何だったのか

ここまで仮説を組み立ててきたが、最後の条文に大きな謎があるのでそれを検討する。

一、先年に懸川へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

「去年」ではないことから1571(元亀2)年以前のことだと判る。そしてその褒美銭を2年に分けて支払うとあるので、少額ではないだろう。軍事的に危険な行為に対して大きな金額を約束したのだと思われる。

後北条氏が掛川に軍事・外交で派遣をしたのは永禄11年12月~5月と見てよいから、その時点での話なのは確実となる。掛川に移る前から氏真に付き添っていた後北条方・伊豆衆の西原善衛門尉のような存在もいることから、いつの時点かはこれ以上細かくは絞れない。

ただ、掛川派兵に駆り出された清水新七郎と大藤政信が後に1,000貫文以上の褒賞を得ていることを考えると、所肥後守も同様に派遣されたと思われる。これは、清水・大藤だけでは今川方と武田方の見分けがつきにくく土地鑑もないことから充分ありうるように思う。

葛山衆から所肥後守が抜擢されて同行、その際に褒美銭を約束されたと考えてもよいのではないか。

そしてこの仮説が成り立つならば、葛山氏被官には、武田方以外に、今川方・後北条方についた者もいたともいえるだろう。

葛山氏元は武田に寝返ったのではなく抑留されたという可能性

葛山氏の被官に関しては、武田従属以降に活躍する御宿氏がいるものの、当主氏元との関係性は明確ではない(もっと言うと、御宿氏関連文書には、信憑性が乏しいものがある)。このことから余り当てにはならない。その他で残されているのは流通系の被官が殆どで、軍事・外交に関して活動していた被官がどのような存在だったかは、空白な領域だ。

今回出てきた所肥後守と、彼に反発する渡辺蔵人佐は、残念ながら戦国遺文今川氏編でも見つけられず、同書後北条氏編でもこれ以上の情報はなかった。しかし、知行高から見て明らかに下位である渡辺蔵人佐らが、所肥後守の指南を受けることに嫌悪感を示し、また水窪領を所肥前守に奪われたと感じていた点は、葛山家中で深刻な対立関係があり、後北条方に移った先でも解消されなかったことを示すように思う。

従来、葛山氏元は1568(永禄11)年の武田南進を受けて今川方から寝返ったとされていた。しかし、その直前に氏元が史料から姿を消すことから考えると、今川方に留まりつつも家中が分裂した挙句に武田に抑留され、晴信の子息が養子という形で葛山を継承した可能性が出てきた。

そもそも武田晴信は今川方から寝返った者(岡部元信や孕石元泰、朝比奈信置ら)を優遇しており、史料から姿を消した葛山氏元は特異な存在だと考えていた。晴信の息子信貞が葛山に養子入りしたというのも妙な話で、当時の駿東は軍事的に緊張していたのに、息子とはいえ戦歴もなく年齢も低い信貞を起用した理由が判らない。

こういった点も、同時代史料の欠落から深く突き詰められなかったところだが、今回の史料検証のような行程を踏むことで、仮説を少しずつ充実させつつ、新出史料を待つことはできるのかも知れない。

2017/04/24(月)史料想-1 宛所の切られた文書

古文書には宛先が切り取られてしまったものがあって、解釈や比定が難しくなることが多い。ただ、周辺の文書を読み込むことである程度の仮説を構築することは可能だと思う。それを実際にどう行なうか、書き出してみた。

以下は、宛所が切られた状態の虎朱印状で、板部岡融成が奏者を務めていることや、癸酉(元亀4年)三月晦日の発行であることは判っている。

後北条氏、某に4つの条目を伝える

一、『水窪』の替地、何のために他人が言い立てることがあるのでしょうか。とやかく言う輩がいたら、目安で報告して下さい。合目安を立ててご糾明して、決着をつけよとの仰せです。どうやれば、知行高のご決定に異議を唱えられるというのでしょうか。最近の曲事です。ご指示に及ぶほどのものでもありません。ご糾明の上、どうあっても先の証文の通りの決定になるでしょう。

一、砦のことを申し出たのは神妙です。もとより、西の方の者は国境で活躍することに極まります。どこであれ敵との境界を見立ててご指示になるでしょう。身命をなげうって活躍して下さい。もとより、知行のことは何があっても拠出しますから、ご安心下さい。

一、どこの国境に配置されても、妻子の安住が保証されなければ困るでしょうから、この度『黒谷』のうち『多々良分』70貫文が直轄領なので与えられました。早々に妻子をその地へ移し、安心していただきますように。付記、『八郎左衛門』・『喜左衛門』の妻子も、その地に置くようにとのことですから、多々良分の中に両人の妻子が住む屋敷をお渡しします。更にこの上は味方として協力することを合意して、活躍していただきますように。

一、先年に『懸川』へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

癸酉(元亀4年)三月晦日/(虎朱印)江雪斎奉之/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p28「北条家朱印状」(海老原文書)元亀4年

この文書は宛所が切り取られていて前後関係が不明瞭なため、まず固有名詞の比定を確認。

  • 水窪……駿東郡の水窪。
  • 黒谷・多々良分……武蔵の秩父に黒谷(くろや)が存在し、下山年表でそこに比定。岩付にも黒屋(くろや)があるが、鉱業の存在を窺わせる「たたら」から、銅山で著名な秩父黒谷の方が有力。
  • 八郎左衛門・喜左衛門……三浦八郎左衛門は実在する。

同じ海老原文書に宛所が切り取られた感状が存在するので、そちらも参照してみる。

北条氏政、某に、永禄12年7月11日の戦功を賞す

昨日の10日に『円能口』に敵が出撃してきたところ、前線で戦って敵を5人討捕ました。特に、ご自身が高名を挙げています。本当に比類のないことだと感銘を受けました。刀を1腰、一文字銘のものを差し上げます。ますますご活躍下さい。

永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

円能口……下山年表では相模丹沢を比定。山北町都夫良野とあり、小山町から酒匂川を下って小田原に侵入するルートだと思われる。但し比定根拠は不明。

上記2文書が同じ宛所である確実な根拠はないが、同時代で近い地域における内容であることから、同人物として仮定は可能ではある。その前提で2文書から宛所の人物が置かれた状況を並べてみる。

  1. 永禄12年に円能口で敵5名を討捕、自分も活躍した
  2. 水窪替地について苦情を言われていた
  3. 砦の普請を自ら申し出ていた
  4. 国境のどこに配備されるか判らなかった
  5. 妻子の居住地が危険だったため70貫文の直轄領が与えられ疎開を指示された
  6. 同じ場所に八郎左衛門・喜左衛門の妻子も移動を命じられた
  7. 八郎左衛門・喜左衛門の妻子が住む屋敷は後北条氏が準備した
  8. 元亀2年以前に掛川に派遣されていた
  9. 掛川派遣時の褒美を与えられていなかった
  10. 上記褒美は発給時の年と翌年の2回で支払われた

 妻子居住で70貫文が支給されていることや、八郎左衛門・喜左衛門といった寄子か被官、親類を引き連れていたこと、また砦普請を名乗り出ていたことから、大身の武家であるといって良いだろう。永禄12年の件では「自分でも活躍」が褒められているから、本来は部下に戦闘を任せられる身代を持っていたのだろう。


……続く