2017/04/20(木)足利義氏の関宿入りを巡る北条氏康のややこしい書状

1555(天文24)年比定の5月24日書状がちょっと面白いので、解釈を色々と考えてみた(戦国遺文後北条氏編581「北条氏康書状」)。逐次書き出してみる。

1558(天文24/永禄元)年比定 5月24日北条氏康 → 瑞雲院周興

追而申候意趣者、先日以氏政彼御侘言申上候、■■納得之御返答、

追ってお伝えする意趣は、先日氏政から陳情申し上げ、(文字欠)ご納得のご返答でした。

文頭から追伸となっていて、これは正規の書状の後に送られた追記だと判る。先日、氏政が周興経由で、恐らく義氏に何か陳情をして受諾されたとある。この陳情と後の内容が関連するかは、現段階では不明。

其御次ニ右馬允両年被為■■■■進退無相違可申調由、 被仰出候、

その次に、右馬允が両年(文字欠)進退は相違なく調整するようにと、仰せになりました。

文字欠が多く解釈が難しいが、「次」が丁寧語の「御次」であること、欠字を伴う「被仰出」があることから、右馬允に義氏から仰せ出しがあって、両年にわたる忠節か何かに免じて「進退」を調整せよとなった事を取り上げている。他者の解釈ではこの「進退」を「右馬允の古河城主の地位」として把握しているようだが、私は疑問を持っているので、この後の解釈ではこの意味も探ってみたい。

時節如何■■、今度之一儀、中務無相違令納得候儀も、

時節はいかが(文字欠)、今度のことは、簗田晴助は相違なく納得されましたが、

これも文字欠で読み取れないが、時節=タイミング、如何=どのようにか、という文の後に中務(晴助)が納得した、と読むのが自然だろう。文の末尾が「も」で、晴助が納得しても状況に問題があることが判る。

先万右馬允極ゝ遺恨候、加様之儀惣ニ散、向後家中をも此度堅固ニ可致所、

前に右馬允が強い遺恨を持ったのです。このようなことを全体に散らしたのです。今後家中で結束を固めるべきところ、

「先万」は他例がなかったので「先般」か「千万」の当て字だと推測した。但し「千万」は文頭に出た例を見たことがないから、「以前に右馬允がとても強い遺恨を持った、それが問題の原因だ」という意味合いに解釈した。その後の「惣ニ散」も「粗忽に取り散らした」か「惣=全体に拡散した」かのどちらかだろう。今後の家中結束に影響があると氏康が案じているから、後者だろうと思う。

自此方徳失を勘立諫候ニ付而合点候、

こちらより得失を考えるように諌めますから、ご諒解下さい。

「此方」は氏康たち後北条方を指す。損得を弁えるように圧力をかけるから、それは諒解しておけということだろう。

然者右馬允改易之事、誓句ニ者不戴候へ共、最前ニ別儀有間敷由申候、

ということで右馬允を改易することは、起請文には書かれていないことですが、以前には異議があってはならないと言っています。

この起請文は氏康・義氏が簗田晴助と交わしたもの。ここに右馬允の改易は書かれていないけれど、既定路線に変更があってはならないということを氏康が強調している。ここは両義性を持っていて、起請文をきっちり守るならば、右馬允の改易は行なうべきではないという見方もできる。氏康の主張はこの時点で説得性がない。

抑彼地入御手之事者、一国を被為取候ニも、不可替候、

そもそもあの地をご入手なさることは、一国をお取りになるのとも替えがたいことです。

これは、先の起請文で晴助から義氏に献上された関宿を指す。結構有名な語句で関宿の要地ぶりを語る際に引用されているが、出てくるのはこの物騒な文面だったりするのは余り知られていない。

当意随御威光、御本意者更不実候、

とりあえずのご威光に従っていては、ご本意は更に実りません。

「当意」は現代語でも使う「当意即妙」と繋がっている。当座とか即興の意味合い。ご威光が何を指すかは不明で、右馬允が何を主張したかによって解釈が異なる。

先の起請文では、関宿を献上した晴助は古河に入ることになっている。このため、古河に先住していた右馬允が騒いだという解釈は既に存在する(進退=古河城主地位説)。だが右馬允が古河住という史料はない。

更に、この文章の前後で氏康は関宿の地が素晴らしいとくどく書いていることを併せて考えると、右馬允は「古河こそが義氏座所として相応しい」と異議を唱えたのではないか。このため、この主張を氏康は「当意のご威光」とし、それでは本意が得られないという主張を氏康は唱えなければならなかった(進退=古河入り主張説)。

どちらとはまだ言い切りがたいものの、右馬允が古河入りを主張したとする方がやや有利に感じる。

無双之名地ニ可被立 御座儀者、御子孫迄之御長久、不及言語候、

無双の名地に御座を立てられたことで、ご子孫までのご長久は申すまでもありません。

関宿への氏康の激しいアピールは続く。関宿絶賛の間に「当座のご威光」を差し挟んでいるのが印象的だ。

此調を存詰上、右馬允つれ進退之是非者、勘ニも不渡候間、

この準備を思い詰めていく上で、右馬允づれが進退の是非は、考えにも入りませんから、

こういった関宿至上の動きを考えていった氏康は、どうやら怒りがこみ上げてきたようで「右馬允ごときが何を邪魔するか」という文になっている。「勘ニも不渡」は結構乱暴な言い方で、右馬允の進退などどうでもいいと断じている。ここで「進退」が出てくる。

右馬允が「進退=身の保証=古河城主の地位」にしがみついているのか、または「進退=命を懸けての懇願」として義氏の古河入りを主張しているのかで判断が異なる。まだどちらともいえない。

無相違可払旨、中書へ申候、

相違なく払うように晴助に申します。

今度は「払」という言葉が出てくる。「払う」ように氏康は晴助に告げているが、詳しくは不明。

其上去春酒井大膳所へ 御台様御計策之御自筆被遣候趣、虚説誑言、右馬允書散候キ、

その上で、去る春に酒井大膳の所へ、御台所様がご計策のご自筆の書状を送ったこと、虚説の戯言です。右馬允が書き散らしたものです。

ここが最も謎な箇所。酒井大膳は戦北・下山年表のどちらを見てもここにしか登場しない。恐らくは上総酒井氏の関係者だと思われるが、詳細は不明。御台所様は氏康の妹である芳春院殿(義氏の母)で、彼女はこの年の春に酒井大膳の所に自筆で計策を送ったという。氏康によるとこれは「虚説誑言」で、右馬允が書き散らしたものと断定されている。

彼過失ニ付而、重而被為払由被仰下候間、

あの過失については、重ねて払うようにと仰せになっていましたので、

ここでいう過失は前文の芳春院自筆計策を、右馬允が言いふらしたことを指すと思う。重ねて「払う」ように仰せになったのは義氏。ここでも「払」が出てくる。払う行為は複数回行なわれており、なおかつそれを見た氏康が「勘当」と受け取るようなものだったと思われる(次の文参照)。だとすれば、「払」は「追放」もしくは「意見却下」のどちらか、もしくは両者が混交した特殊事情かと思われる。

当時彼者ハ、御勘道一理与存候へは、昨日当地へ越候て、進退可申立支度之由候、言語道断横合ニ存候、

あの時のあの者(右馬允)は、ご勘当なさったと思っていました。ですから、昨日になって当地へ行き進退を申し立てるよう支度しているとのことは、言語道断の横槍だと思います。

右馬允を「彼者」と表現している。自筆計策事件単体ですら「御勘道=ご勘当」が当然だと氏康は主張する。そんな状況なのに、つい昨日に「当地」に来て「進退」を申し立てる支度をしていると聞いたという。当地は、氏康がいる場所・宛所の周興がいる場所・文中で焦点になっている場所のどれかだろう。氏康・周興・右馬允の居所が不明だから断定はできないものの、義氏と芳春院殿は葛西、晴助は関宿にいるという推測は前後の文書から成り立つ。申し立てる支度をしているということは、義氏・芳春院殿に直訴する準備を右馬允がしていて、それを聞いた氏康が焦っているのだろう、という仮説が最も確度が高いように見える。であれば当地は葛西だろうと思う。

左候へ共、御内ゝにて令徘徊仁候間、院主■談合申候、

そうですが、内々での徘徊ですから、院主が協議すべきでしょう。

ここで氏康がやや語気を弱める。「御」がついた形なので、公方家の内々での話として、氏康が介入しないか、できないことを示すように見える。院主=宛所の周興が、家中で協議するべきだとする。あれだけ言い立てたのは、氏康が直接排除できない位置に右馬允がいたからだろう。であれば氏康が要求した「払」は追放ほど強い処置でなく、却下というレベルのものだった可能性が高いだろう。

去而一二年も置候て、氏康・中務前申調返可申候、

いなくなって1~2年も置けば、後は氏康・晴助が申し整えて返します。

ここで唐突に氏康が「去而=いなくなって」と書いてきて面食らう。後の文を見ると、いなくなるのは右馬允、返すのはその右馬允の身柄で、氏康・晴助の調整後に返すという流れが最も自然なニュアンスではないかと思う。この文は結論をいきなり書いたもので、具体的な手法はこの後に続く。

致様者、其身ニ今度 御座之地■■候様躰、条ゝ申分、為致納得、自分之様ニ上方物詣ニ可取成候、

するべきことは、右馬允に「今度御座する地を(文字欠・献上か?)することは条文で決定しましたから、あなたは上方へお参りにでも行くように」と説得することです。

「致様者=いたしようとしては」ということで、具体的な行動指示が書かれる。ここでも文字欠があって意図が把握しづらいが、「条ゝ」は晴助との起請文の条文。これを右馬允に納得させるための方策とは何だろうと思って読み進めると、「自分のように=周興自身が旅に行くかのように親身に」上方へ物詣に行くよう、周興が取りなしてほしいとしている。

定而其身も可聞分由存候、

きっと右馬允も聞き分けるだろうと思います。

自信満々に結論を出している。多分、氏康がこの長い書状を書いた目的は「周興が右馬允を説得して西国参詣の旅に出す」という、本人的に絶妙なアイデアを思い付いたからだろう。いてもたってもいられなくなって書き綴った挙句、判りづらい長文になってしまったのかも知れない。

猶以右馬允当時山林之進退にて、此度大事調之際ニ罷出、可成横合候哉、

それより、右馬允はあの時は『山林』の進退、今回も重要な案件の直前に出てきて横合いを言い立てるのはどうでしょうか。

「どうだこの妙案は」として終わればいいのだが、氏康にはまた怒りがぶり返したようで、ここで過去の例が出る。芳春院が自筆で計策した際に、右馬允はその前後で抗議の山林之進退(=ストライキ的な抗議)に及んだようだ。その抗議は氏康の意に添わなかったようで「今回も邪魔をするのか」と苛立っている。

不及申子細候へ共、寸善尺魔纔なる儀を以大事破事、古今先例候間、御断を申届候、

詳しく言うには及びませんが、「寸善尺魔」で、僅かなことを大事だと言い張ることは、昔から例がありますので、あらかじめ言っておきます。

「話すほどのことではないが」としつつ、右馬允の主張に氏康は警戒する。「寸善尺魔」とは本来、良いことは少なく悪いことは多いという語だが、この当時は「針小棒大」の意味でも用いたのか、氏康が取り違えたかのどちらかだろう。古い例を持ち出しているのは、具体的な話をされると都合の悪い情報が周興に入ってしまうと恐れたのか……。

畢竟其身ニ能ゝ被為合点、一廻西国物詣、後ゝ年可被直進退儀可然候、

最終的には右馬允をよくよく納得させ西国を一巡りさせ、後々の年に進退のことは直されるのが然るべきことでしょう。

氏康はようやく、話をまとめにかかる。右馬允本人をよく説得して、ひと廻り西国でお詣りをして、何年かあとに「進退」のことを「直す」のがしかるべきだろうと。「被直」という表現も見かけないもので解釈に迷うが、右馬允は義氏直臣なので「義氏がお直しになるのがよいだろう」という書き方になろうかと思う。「関宿様」として実績を積んだ義氏が右馬允の「古河を本拠に」という「進退=主張」を聞いて直せばよいという発想であれば、この文は自然な流れになる。

御台様へ御披露も御無用ニ候、貴僧以御計如此可有御調法候、

御台所様へご披露することもありません。貴僧のお計らいでこのようにご調整下さい。

ここで奇妙なことが書かれる。御台所には言うなとしている。この緘口令を見ると、酒井大膳に芳春院が送った自筆の計策は、事実かつ氏康にとって都合の悪いもので、それを蒸し返される点を恐れ、妹には事情を言わないように告げ、周興が単独で実行するよう依頼しているのだろう。

自此方者、遠山申付、右馬允ニ委為申聞、可為納得候、

こちらからよりは、遠山に指示し、右馬允に詳しく申し聞かせて納得させましょう。

氏康側からは遠山綱景に指示して、右馬允に直接話して納得させるとしている。

2017/04/20(木)北条氏康の愚痴

箱根神社別当の融山に宛てて、色々と事情を述べた書状。永禄4年比定で、上杉大反攻を受けてのものだと思われる。


 先日は親しいお手紙を再三披見し、本望に思います。一、年来、国家のご祈念をお願いしていたところ、この度北方の敵が出撃して国中が山野のようになり、面目を失ったとのこと。更に分別に及びません。去る春に景虎の威勢を恐れ、正木を初めとする関東の武将が残らず攻囲してきたのですが、武蔵と相模の城のうち、江戸や河越など七八箇所は無事であり、結局は度々勝利を得て凶徒は程なく敗北しました。あちこちで移動する敵の侍やその手下を討ち取ること1000余人。これはひとえにご祈念の力でしょうか。一時的な騒擾は苦しいものではありません。畢竟この上は信心を極めるよう励みましょうか。広い天の下で王土でない場所はなく、ご修理に奔走するべきとのこと、その見解はもっともです。伊豆国の仁科郷が禁裏の預所となり先年に勧修寺殿が勅使として下向した際、氏綱が三年分を進納しました。その後は遠距離もあって中断していました。あの由緒のように仁科郷を進上するようにとのこと、覚悟しています。一、万民を哀れみ、百姓に礼を尽くすべく、ご意見はその意を得るようにします。去る年に分国中の諸郷へ徳政を発布し、妻子や下人の売り証文を捨て、年を遡って解明しました。ことごとく返還しています。当年は諸一揆の人々に徳政を行ない、とりわけ公方銭の本利4000貫文を諸人のために破棄、蔵本を押収して現金を番所に集め、昨今は諸一揆の人々に配布しています。家のことは、慈悲心と深い信仰の順路を専らとして考えを突き詰めており、国中の聞こえとして、民百姓の上までも非分なく裁断するために十年来目安箱を置き、諸人の訴えを聞き届け、道理を探求しておりますこと、一点でも毛頭でも心中に差別の心がきざしたことはありません。一代の内で大過なく時宜を得て身を退くは聖人の教かと思い、去年に息子の氏政へ位を譲渡しました。隠遁とはなりましたが、大敵が蜂起し、氏政は若輩なので了簡を得ず、(私が)国家の意見をなしました。ところが氏康は善根がない。と、あなたの意見はこのようでした。恐れながら相違があります。たとえ善根があったとしても、心が邪悪で諸寺・諸社の領地を傾けるような国主であれば、どのような大社の修理を何度したところで神は非礼として受けないでしょう。たとえ経論聖教に向かず、常に不信心であったとしても、心中に実があればそのまま天道にかなうものではありませんか。氏康においては、あるいは貧しい『出家沙門』を憐愍し、あるいは伽藍が廃れているところを嘆かわしく思い、先の午歳に鎌倉へ行った際、諸寺・諸山へ田畠の寄附を斡旋しました。そのほか国中の神社・仏閣へ多少の領地を寄進こそすれ、一歩の地でも押領するなら一代の不覚と考えています。何の驕りでしょうか。天道に背くのでしょうか。天運が尽きなければ一戦して勝利は疑いありません。そして和するものではないでしょうか。一、諸寺・諸社において、この度本意のご祈念を行なうのがもっともです。伊豆・相模・武蔵の内で、どの神社にどのような祈念を指示すべきでしょうか。霊地によるものではありません。ただ行人によるものですから、分別して下さい。委細は『遊立』でなく送って下さい。同時に、供物の見積もりなどもお願いします。一、不動護摩供、一、大聖金剛法、一、観音経三百三十巻、以上を、どの神社でどのような人に指示すればよいでしょうか。一、大嶺採燈護摩のこと。京都のどなたにお願いすべきか、その供物の数量など、どのようにすべきでしょうか、またどのような段取りで行なえばよいでしょうか。一、聖天供のこと。お受け取りいただければ『別儀』はありません。一、鶴岡への宿願のこと。願書はあるべきでしょうか。願力はどのようにし、何ヶ条にすべきでしょう。一、伊勢・熊野において、どのような段取りがよいでしょう。右は、いずれも詳しく報告をいただきたく。ご同意を得て取り急ぎ指示します。一、関宿様のご返事は、飛脚によくよく指示し、里見義尭のご警固を深くする旨、申されました。心から成就してほしいという念願です。近日に途中まで参上し、この成果を直接うかがえればと思います。

先日者、御懇札再三披見本望候、一、年来国家御祈念頼入候之処、此度北狄出張、国中山野之躰、被失面目之由、更不及分別候、去春恐景虎威勢、為始正木、八州之弓取不残雖寄来候、武相城之内、江戸・河越七八ヶ所之地、無相違、結句度ゝ戦得勝利、凶徒無程破北候、於所ゝ往覆之敵侍凡下討取事千余人、是偏御祈念之力哉、一旦之忩劇不苦候、畢竟此上励信心極候歟、普天之下無不王土上、御修理可走廻由、尤任御見候、然者豆州仁科之郷禁裏就御預所、先年勧修寺殿為勅使御下向之時、氏綱三ヶ年進納、其後遠境故中絶候、任彼御由緒、仁科之郷可致進上之由、覚悟仕候、一、万民哀憐、百姓可尽礼、御意見令得其意候、去年分国中諸郷へ下徳政、妻子下人券捨、為年経迄遂糾明、悉取帰遣候、当年者諸一揆相之徳政、就中公方銭本利四千貫文、為諸人捨之、蔵本押置、現銭番所集、昨今諸一揆相ニ致配当候、家之事、慈悲心深信仰専順路存詰候間、国中之聞立邪民百姓之上迄、無非分為可致沙汰、十年已来置目安箱、諸人之訴お聞届、探求道理候事、一点毛頭心中ニ會乎偏頗無之候間、一代之内、無横合時身退者、聖人之教與存、去年息氏政譲渡位、隠遁之進退候得共、大敵蜂起、氏政若輩之間、無了簡、国家之成意見候、然ニ氏康無善根間、如此與候、此貴意、乍恐御相違候、縦善根有之共、心中之邪ニ而、諸寺諸社領令没倒様なる国主ニ付而者、如何様之大社之御修理、何度致之候共、神者不可受非礼、縦不向経論聖教、常ニ不信之様ニ候共、心中之実、即可叶天道候歟、於氏康、或不足之出家沙門お憐愍、或伽藍零廃之所歎ヶ敷間、先年午歳、鎌倉在馬之砌、諸寺・諸山周寄附田畠候キ、其外国中之神社・仏閣へ少充之料所お雖寄進仕候、一歩地茂押領之事者、一代不覚候、何之驕ニ歟、可背天道候哉、天運不尽者、一戦勝利無疑候、併人者不可如和ニ歟、一、於諸寺・諸社、此度本意之御祈念尤ニ候、然■豆相武之内、何之地如何様之祈念を可申付候哉、不可依霊地候、唯行人ニ可有之候間、有御分別、委細非遊立候而可給候、并供物員数等可預御計事、一、不動護摩供、一、大聖金剛法、一、観音経三百三十巻、以上何之地ニ而、如何様之人ニ可申付候、一、大嶺採燈護摩之事、於京都何之方可憑入候、供物等員数之事、如何程可入候、如何様之行ニ候、一、聖天供之事、御請取之上、無別儀候、一、鶴岡宿願之事、可有願書歟、願力如何様之儀、可為何ヶ条候、一、於伊勢・熊野、如何様之行可然候、右、何茂委可注給候、得御意急度可申付候、一、関宿様御返事、飛脚能ゝ可申付候、義尭御警固深旨、被申候、哀ゝ成就候得かしの念願候、近日半途へ罷出、此首尾可承届候、恐ゝ敬白、
五月廿八日/氏康/金剛王院御同宿中
戦国遺文後北条氏編0702「北条氏康書状写」(安房妙本寺文書)

2017/04/20(木)北条氏康条書で前と後が欠けているもの

越相同盟を巡る交渉で、氏康が出した条書のうちで欠落があるものを並べてみた。2については氏康の脳卒中と絡めて元亀比定しているが疑問は残る。

1)戦国遺文後北条氏編1211「北条氏康条書」(庄司哲子氏所蔵伊佐早文書)※1569(永禄12)年4月頃に比定されている

<<解釈>>

条目

遠路で口上を届けるのが難しいので、思慮を捨てて糊づけの書状で申し入れます。お考えを糊づけでご返答いただければ本望です。

一、先年は亡父の氏綱が上意に応えて進発し、総州の国府台において一戦を遂げました。まぐれ当たりに、小弓公方の父子3人を討ち捕りました。この勲功で、管領職を仰せ付けられる御内書両通を頂戴しました。この筋目は申し開きはできますが、既に氏政の実子を御名跡としてお決めいただいたとのこと、このようなご昵懇をいただいたからには、申し上げることはありません。

一、河内(利根川右岸)において、年来氏政に従い指示に忠実に従って活躍した者が何人かいます。今になって氏政の手元から離れるというのは外聞が『折角』となります。それぞの所領をこちらの配属にしていただけるならば、かたじけなく、またご芳志といえるでしょう。但し、ご納得いただけないのでしたら、どうしようもないでしょうか。とりわけて今回松本石見守が遠山康光・垪和氏続に対し「去る申年(永禄3年)に越後方へ馳せ参じた者だ」と6か所の書立を示しました。今越相で同盟するのですから、申年の是非は入れなくてよいのではないでしょうか。既に全てをお任せした上ですが、あの6か所は武蔵の中にあります。伊豆・相模も加えて3か国は、代を限らず戦功で与えたものなので、お聞き届けいただければ本望です。

一、公方様の御座を移すことについて。藤氏様のご進退のことは、松本石見守に申しました。遠国で伝わらなかったのでしょうか。去る寅年(永禄9年)ご他界なさいました。義氏様へ晴氏様よりのご相続は事実です。既に越相のご和融の上は、義氏様の御筋目は紛れもないことですから、そのようになるでしょうか。慎重にご検討下さい。

右の条々合意の上は、一日も早く信州へご出張なされませ。氏政自身は甲州へ乱入するでしょう。この度は信玄敗北の時です。鉾を醒ますことなく、信甲のご退治下さい。念願はこのほかありません。もしもし、この上遅々とするならば(後欠)

<<原文>>

条目

遠路口上難届存ニ付而、捨思慮、以糊付申入候、御存分、糊付之御返答、可為本望事

一、先年亡父氏綱応 上意令進発、於総州国苻台、遂一戦、稀世 御父子三人討捕申候、依勲功官領職被仰付、 御内書両通頂戴候、此筋目雖可申披所存候、既氏政実子御名跡可被定置由候、如此御入魂之上者、申処無之候、任置貴意事

一、於河内、年来随氏政下知無二走廻輩、数ヶ所候、只今可離氏政手前事、外聞令折角候、彼所ゝ此方へ於被付者、忝可為芳志候、但、御納得有之間敷付而者、不及是非歟、就中今度松石対遠山左衛門尉・垪和六ヶ所被書立、先年申歳越苻御陣下へ馳参由候、只今越相和融一味之間、申歳之是非不入歟、既悉皆任御作意上者、彼六ヶ所者、武州之内ニ候、於豆相三ヶ国者、不限代戦功相拘候条、被聞召分、可為本望事

一、公方様 御座移之儀ニ付而、 藤氏様御進退之儀、松石被申候、遠国無其聞歟、去寅歳御他界ニ候、 義氏様へ自 晴氏様御相続無其隠候、既越相御和融之上者、 義氏様御筋目無紛候条、可然歟、不可過御塩味事

右条ゝ申合上者、一日も急速、至信州御出張、氏政自身甲州へ可乱入候、此度信玄敗北之砌、不被醒鉾、信甲御退治念願之外、無他候、若ゝ此上御遅ゝ付者(後欠)

2)戦国遺文1475後北条氏編「北条氏康書状」(上杉文書)※1573(元亀4)年4月15日に比定されている(高村私見では永禄12年比定も可能性あり)

<<解釈>>

(前欠)一、ご加勢はあるべきでしょう。当家は全員が輝虎のご威光によって、素早く本意を達するだろうと、和睦以来思っていたところ、日を追って弓矢で『折角』となりましたので、ますます氏政の手元を見限っています。国中のどの措置も手に余っています。必ず必ず7月上旬にはご出馬あって、当家をお引き立て下さい。

一、相模と甲斐が和睦したと、言った人がいたのでしょうか。これによって起請文をいただきました。かたじけなく、また困惑しています。ご越山の名分を争っていることから、虚言を受けることとなり、このように言われるのでしょうか。讒言する者のやることは昔から変わりません。よくよくご調査されるに限ります。氏康父子に私曲がないこと、伊勢右衛門佐によって申し届けました。きっとお聞き届けになるでしょう。

一、国境の防御拠点の措置のこと。仰せをいただき、本当にご懇切なこと、本望で満足しています。紙には書けない程です。そもそも、信玄と氏政が血縁となって以来、こちらの方では国境の内と外という意識がなかったところ、信玄が裏切って近年放置できずに伊豆・相模の国境警備を堅固にしていました。ふいに駿河を攻撃したので、義によって甲斐と交戦することになりました。それ以来急に処置したので、数か所の街道は普請ができていません。今では苦労しています。更なる油断ではありません。

一、諸人が力づけられることは、お考えの通りです。とにもかくにも、貴国以外はどこも頼れません。氏政をご後見いただけるなら、来る7月に極まります。ここに至ってお見捨てになれば、こちらの侍どもは氏政を見捨てること、歴然ではないでしょうか。

一、諸証人のこと、ご越山されるならばすぐにお渡ししますこと、先にも申しました。更なる異議はありません。氏政のこと、少しのお疑いがあってはなりません。一度国分けを取り決めた上は、甲斐・信濃に侵攻するお覚悟があるのですから、一人の諸証人でも手元で惜しみはしません。

一、来る秋に信玄が出撃する際には、即座に後詰をいただくとのこと、本当にかたじけないことです。西上州にでも、信濃にでも、一心に行軍なさることをお願いすること、先に伊勢右衛門佐が申していました。敵の行動が火急のこと告げています。早速のご出動に極まります。こちらよりご報告していては手遅れになります。同時に敵の行軍状況を逐一ご連絡します。

<<原文>>

(前欠)一、御加勢者、可有之儀ニ候、当家之大小者、輝虎以御威光、頓速ニ可達本意由、一和以来存候処、遂日弓箭折角ニ成候条、弥氏政手前を見限、何共国中之仕置、致余候、必ゝ来秋者、七月上旬ニ有御出馬、当家被引立可給事

一、相甲遂一和由、申人候哉、依之、御誓詞給候、且忝、且迷惑候、争御越山御大儀ニ付而、虚言を蒙仰様ニ可存候哉、讒者之所行、古今之習候、能ゝ御糺明ニ極候、氏康父子無私曲処、以伊勢右衛門佐、申届候キ、定可被聞召届事

一、境目之要害仕置等之儀、蒙仰候、誠以御懇意之段、本望満足、難尽紙面候、抑信玄・氏政結骨肉以来、当方之事者、無内外存処、信玄表裏、近年不打置、豆相境目普請仕置被致堅固、不慮ニ駿州を打候間、任儀理、相甲令鉾楯以来、俄及仕置故、数ヶ所之口ゝ普請以下無成就、于今令苦労候、更油断ニ者無之事

一、諸人ニ可付力之由、尤得其意候、菟ニも角ニも、貴国之頼より外、大小無之候条、氏政於可被御覧続者、来七月ニ極候、此処於有御見除者、当方之侍共、氏政可見捨事、可為歴然候歟之事

一、諸証人之事、於御越山者、則相渡可由、先段も申候、猶以無異儀候、氏政手前之儀、少も御疑心有間敷候、一度国分申定、甲信可撃覚悟ニ候上者、諸証人之拘惜、一切無之候、仮令可被召寄模様可有之候、沼田へ御越山ニ付而者、一人も不可残置事

一、至于来秋、信玄出張ニ付而者、則刻可有後詰由、誠忝存候、西上州へ成共、信国へ成共、一途御行頼入由、以伊右申候キ、敵動火急之由申唱候、早速御出勢ニ相極候、自是注進申よりしてハ可為遅ゝ候、併敵動之模様をハ、節ゝ可申入候、恐ゝ謹言、

卯月十五日/氏康(壷朱印「機」)/山内殿

2017/04/20(木)次郎直虎出現の背景 井伊谷徳政を巡るゴタゴタ

井伊谷徳政を巡る文書8通を、戦国遺文今川氏編からデータ化。現代語に置き換えたものは、素人が手掛けた暫定のものなので、不明点があればご指摘下さい。

◆永禄10年6月30日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政推進の状況を伝える

彼一儀種々越後殿へ申候、先年御判形のすちめにて候間、御切紙御越候ともくるしからす候へ共、我等共御奉行まへにてさいきよニむすひ候て、御ひらうなきまへニいかゝのよしおほせ候、又二郎殿のまへをなにとかとおほしめし候やうに候間、小但へ申候而、次郎殿御存分しかときゝとゝけ候て、早々被仰付候而尤之由、次郎殿より関越ヘ被仰候様ニ、小但へ可被申候、我等方よりも小但へ其由申候、たとへ次郎殿より御状御越候ハす候共、小但より安助兵まて尤之由被仰候と、御切紙とりこされへく候、二郎殿もそれにて関越へ可申候、小但へ能々談合候へく候、恐々謹言、
六月卅日/匂左直興(花押)/祝田禰宜、「上書:自駿府 匂左近まいる ほう田の禰宜とのへ」
戦国遺文今川氏編2134「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 あの一件を色々と越後殿(関口氏経)へ申しました。先年御判形で決まったことですから、御切紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行のもとで裁許を受けて、御披露する前に何を仰せなのか、また、次郎殿ことを何かとお心がけになるなら、小野但馬守へ申して、次郎殿ご存分を確実に聞き届けて、早々にご指示なさるのがもっともです。次郎殿から関口氏経へお伝えになるよう、小野但馬守へ申されますように。私の方からも小野但馬守へそのことを申します。たとえ次郎殿より関口氏経へご連絡がなかったとしても、小野但馬守より『安助兵』(安西)まで「もっともである」との御切紙をお送りになるように。次郎殿もそれを使って関口氏経へ申し上げますように。小野但馬守へよくよく相談なさいますように。

◆永禄10年10月13日 今川氏真、瀬戸方久に、買い取った土地の保証をする

於遠州井伊谷之内永代買之事。一、居屋敷壱所之事[本銭五貫文也、次郎法師有印判]、坂田入道前[伹是者助六郎買得云々、一、田畠弐段事[本銭四貫文也]、須部彦二郎前、一、都田瀬戸各半名事[本銭参拾貫文也、信濃守有袖判]、袴田対馬入道前、已上、右、何茂永代買得証文明鏡之条、縦彼売主等、以如何様之忠節雖企訴訟、一切不可許容、於子孫永不可有相違、信濃守代々令忠節之旨申之条、向後弥可勤奉公者也、仍如件、
永禄十丁卯年十月十三日/上総介(花押)/瀬戸宝久
戦国遺文今川氏編2150「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 一、住んでいる屋敷1箇所のこと(本銭5貫文。次郎法師の印あり)。坂田入道の前(ただしこれは助六郎が買い取ったという)。一、田畑2段のこと(本銭4貫文)。須部彦次郎の前。一、都田・瀬戸それぞれ半名のこと(本銭30貫文。信濃守の印あり)。袴田対馬入道の前。以上。右は何れも永代で買い取った証文がはっきりしていますから、たとえ売主などがどのような忠節をなして、訴訟を企てたとしても、一切許容しない。子孫に至るまで相違があってはならない。信濃守の代々忠節のことを言ってきたので、今後はますます奉公を勤めるように。

◆永禄10年12月28日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政が認可されるとの状況を伝える

月はくニ候而無御披露候ゆへ、当年相澄候ハす候而、此方ニ而越年候、さりなからかわる儀候ハぬ間、可有御心易候、就中、彼儀も御そうしや少も御隙なく候而、相とゝのわす候、はるハ早々相調可申候間、我等ニまかせられへく候、小但と此方ニ而談合申候、可有御心易候、何も此分御心得候へく候、よくゝゝそなたにて御おんみつニ候へく候、恐々謹言、
十二月廿八日/匂左近直興(花押)/祝田禰宜殿まいる、「上書:自駿府 匂左近 祝田禰宜殿まいる」
戦国遺文今川氏編2160「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 年末でご披露がないので、当年では済まず、こちらで年を越します。とはいえ変わることはありませんので、ご安心くださいますように。とりわけ、あのことは仲介者に少しの隙もなくて調整できませんでした。新春は早々に調整していきますので、私にお任せ下さいますよう。小野但馬守とこちらで打ち合わせました。ご安心下さい。どれもこの調子で行けばご承認いただけるでしょう。くれぐれもあなたは内密になさいますように。

◆永禄11年8月3日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政執行に当たり礼物を出すことを要求する

徳政之事すまし候て、関越より御状井次ヘ一つ、家中衆へ一つ遣之候、先以御心易候、都田のも一つ取候、祝田・都田両郷之事ハ、何も惣次■■へく候、小但へ委細申候間、小但を能々被頼入候て、軈而井次より被仰付候様ニ尤候、此上者誰人も異儀被申間敷候、一ちんせんの事ハ銭主申やう有間敷候、我等主ニなり候て、御城の用意ニてつはうなり共たまくすりなり共、一かたかい候て御城ニ置候ハんよし、此方ニ而関越へも安助へも申定候、殊ニ二三年銭主方なんしう申候而、田畠渡候ハぬ上者、とかく申やう有ましく候由、小但へも申入候、能々小但ニ談合尤候、一御礼物之事、関越へ五貫文、安助へ三貫文ニ約束申候而、我等此方ニ而一筆を仕候、今度便ニ我等かたへ二三人より御礼物の借状可給候、大事の事ニ候間申事候、一都田の衆ハ礼物ハ別ニ可有候、借銭之多少ニよつて可有之候、此由瀬戸衆・都田衆へ内々にて可被申候、十郎兵ニも申候、此年来御百姓衆よりも我等口惜存候つるか本望候、百姓衆ハ我等せいニ入候事ハ■■[さほ]とハ御存有間敷候、一安助其地へ御越之事候間、今度徳政御きも入忝候とて、永楽二十疋の御樽代にて先々御礼申候て尤候、さやうニ候ハねハ百姓ハさのミそセう候ハぬに、我等きも入候なとゝ御そうしやも可被存候、たとへ銭主方此上 御上意へ御そせう申候共、何時も安助頼入候而可申入申候、今度先々御樽代にて出候て尤候、当所務被仕候て、やかて関越・安助御礼物之事ハとゝのい候やうに、かくこかんようにて候、其まへニさへ少ハ調度候、千ニ一つも銭主方 上様へ御訴訟申候共、あいてにハ此上ハ次郎殿にて可有候間、申やう有間敷候、殊ニ我等あいてにてい■■御心易可有候、又我等やとへ代物少の調候て御渡頼入候、すへのかんちやうニたて申へく候、長々在府之事候間、御すいりやう候へく候、や■へ用の事申越候間、まちまへニすこしなり共御わ■し頼入候、やとへも申こし候、返々本望候、恐々謹言、我等かたより岡殿井河へも申候、又其地さうせつのよし候間、とりしつめ候て被仰付候やうに、小但へ可被申候、
八月三日/匂左直興(花押)/禰宜殿参、「上書:自駿府 匂左近 祝田禰宜殿まいる」
戦国遺文今川氏編2181「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 徳政のことを済ませまして、関口氏経からのお手紙を井伊次郎へ1つ、家臣たちへ1つ出しましたので、まずはご安心下さい。都田にも1つ取りました。祝田・都田の両郷のことは、どちらも惣次で行なうように、小野但馬守へ詳細を申しましたので、小野但馬守をよくよく頼み込んで、すぐに井伊次郎より指示を出されるのがもっともなことです。この上は、誰であっても異議を唱えることはなりません。一、陣銭のことは、銭主が介入するのはなりません。私が主となってお城の備えとして鉄砲なり弾薬なりを一通り購入して城内に備蓄すると、関口氏経にも『安西』にも報告しています。特に2~3年は銭主が難渋すると言って来ても、田畑を渡さない上は、何も言わせませぬよう、小野但馬守にも伝えています。よくよく小野但馬守と相談するのがもっともです。一、ご礼物のこと。関口氏経へ5貫文、『安西』へ3貫文の約束で、私がこちらで一筆いたしました。今度の手紙で私の方に2~3人からご礼物の借状をいただくように。大事なことだから申します。一、都田衆の礼物は別にあるように。借銭の多少によって用意するよう。このことは瀬戸衆・都田衆に内々で伝えますように。十郎兵にも伝えて下さい。この年来、御百姓衆よりも私が悔しく思っていたので本望です。百姓衆は私が努力したことはそれほどご存知ないでしょう。一、『安助』がその地へお越しになりますので、「今度の徳政を援助いただいてありがたい」として、永楽20疋の御樽代でまずはお礼を申し上げるのがごもっともです。そのように言わなければ、百姓はそれほど訴訟していないだろうから、私が助力するまでもないと御奏者がお考えになるでしょう。たとえ銭主の方でこの上にも御上意を得ようと御訴訟したとしても、いつでも『安助』を頼んでおけばよいので、今度はまず御樽代を出すのがもっともなのです。この所務を取り回して、すぐに関口氏経・『安助』への御礼物のことが調うように覚悟が肝心です。その前であっても少しは調えたく。千に一つでも、銭主から上様へ御訴訟があったとしても、相手にはこうなったら次郎殿がいるでしょうから、訴状は上がらないでしょう。特に私が相手になりますから、ご安心下さい。また、私の宿所へ物品を少し用意してお渡し下さるようお願いします。細かい勘定に用立てます。長々駿府にいましたので、ご推察下さいますよう。宿所へ用事をご連絡されるかもしれないので、町前に少しでもお渡しいただけるようお願いします。宿所にも伝えてあります。返す返す、本望です。 私から『岡殿井河』へも伝えます。また、その地で不穏な噂があるそうなので、取り静めて報告するように小野但馬守にお伝え下さい。

◆永禄11年8月4日 関口氏経、井伊次郎法師に、徳政の執行を命ず

其谷徳政事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中・都田上下給人衆中、于今徳政沙汰無之候間、本百性只今許詔申候条、任 御判形旨可被申付候、寅年被仰付候処ニ、銭主方令難渋、于今無其沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申入候、恐々謹言、
八月四日/関越氏経(花押)/井次参
戦国遺文今川氏編2183「関口氏経書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中と都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。

◆永禄11年8月4日 関口氏経、井伊氏一門・被官に、徳政の執行を命ず

其谷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中并都田上下給人衆之中、于今徳政沙汰無之間、本百性只今許詔申候条、任 御判形之旨ニ可被申付候、寅年被仰付候処、銭主方令難渋、于今無沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申候、恐々謹言、尚以、各々無沙汰無之様ニ可被申付候、以上、
八月四日/関越氏経/伊井谷親類衆・被官衆中
戦国遺文今川氏編2184「関口氏経書状写」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中ならびに都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。追記:さらにもって、各々が無沙汰にならぬようにご指示下さい。以上。

◆永禄11年9月14日 今川氏真、瀬戸方久に、井伊谷で買い取った土地を保証する

於井伊谷所々買徳地之事。一、上都田只尾半名、一、下都田十郎兵衛半分、永地也、一、赤佐次郎左衛門名五分二、一、九郎右衛門名、一、祝田十郎名、一、同又三郎名三ケ一分、一、右近左近名、一、左近七半分、一、禰宜敷銭地、瀬戸平右衛門名、已上、右、去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職同永地、任証文永不可有相違、然者今度新城取立之条、於根小屋蔵取立商買諸役可令免許者也、仍如件、
永禄十一戊辰年九月十四日/上総介(花押)/瀬戸方久
戦国遺文今川氏編2188「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 井伊谷において買い取った土地のこと。一、上都田の只尾半名。一、下都田の十郎兵衛半分(これは永地である)。一、赤佐次郎左衛門名の五分の二。一、九郎右衛門名。一、祝田十郎名、一、同又三郎名3分の1。一、右近左近名、一左近七の半分。一、禰宜の敷銭地、瀬戸平右衛門名。以上。右は去る丙寅年に谷全体で徳政のことで訴訟があったとはいえ、方久が買い取った分は次郎法師と家老の誓紙、井伊主水佑の一筆で明瞭であるから、今まで買い取った名職・永地は、証文の通りに末永く相違がないように。ということでこの度新城を築造しているので、根小屋・蔵の建設を負担するので商売の税は免除する。

◆永禄11年11月9日 関口氏経・次郎直虎、祝田禰宜・百姓に、徳政の実効を保証する

祝田郷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、銭主方令難渋、于今就無落着、本百性令許詔之条、任先 御判形旨許詔、不可許容者也、仍如件、
永禄十一辰十一月九日/関口氏経(花押)・次郎直虎(花押)/祝田郷禰宜其外百姓等
戦国遺文今川氏編2193「井伊直虎・関口氏経連署状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 祝田郷の徳政のこと。去る寅年に御判形によってご命令になったとはいえ、銭主が抗議して今も落着しない。本百姓が訴訟してきたので、先の御判形のとおりに許容しない。

2017/04/20(木)北条氏直が「沼田は落とした」と書いてしまった件

原豊前守は実名が胤長で、千葉邦胤の後見役。反後北条もいた千葉宗家で親後北条として指示に従っていたらしい。その胤長へ氏直が送った書状がまた勢い余っている(天正13年比定・戦北2855)。

原胤長はどうやら援軍要請を氏直に出したようなのだが「それどころじゃない」的な文面であれこれ書いている。沼田を攻め落として越後国境まで平定し終わったみたいに書いているが、実際には沼田城は落とせていない。誇大報告は戦国大名がよく出すけど、ちょっと盛り過ぎじゃないかなあ。

書面之趣一ゝ得心候、然者其地為仕置、疾雖可令出勢候

書状の趣旨は一つ一つ諒解した。だからそちらへの措置のため、早く出勢するべきだが、

遠州衆於信州真田与対陣、沼田表へ之手合頻ニ所望候間、令出馬

徳川が信濃で真田と対陣し、沼田方面へ援護攻撃するよう頻りに要望するので出馬した。

森下城不移時日責落、楯籠候敵数百人切掛

森下城は時間もかけずに攻め落として守備していた数百人を切り殺し、

其上向沼田城押詰陣取、越国境奥境迄、在ゝ所ゝ不残一宇、沼田庄打散、明隙候

その上で沼田城に向かって陣取り、越後国境の奥までの村は一軒残らず、沼田庄は打ち壊して手が空いた。

此上遠州衆へ立使候条、依彼返答、直ニ其表へ可令出馬候

この上で徳川へ使者を出したから、その返答によっては直接信濃へ出馬するだろう。

其半之仕置、何分ニも堅固ニ可被申付候

そちらの半手(?)の措置はどれも堅固に指示するように。

万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者

万が一心もとないということで部隊要請があるならば、

出馬以前為加勢、一手も二手も可遣候

出馬する前に加勢として一手も二手も派遣する。

存分重而以糊付可被申越候、恐ゝ謹言

存分は重ねて糊付けの書状で送る。

猶以不及申候へ共、畢竟其方稼ニ相極候

更に、言うまでもないことだが、全てはあなたの活躍で決まることだ。

原文

書面之趣一ゝ得心候、然者其地為仕置、疾雖可令出勢候、遠州衆於信州真田与対陣、沼田表へ之手合頻ニ所望候間、令出馬、森下城不移時日責落、楯籠候敵数百人切掛、其上向沼田城押詰陣取、越国境奥境迄、在ゝ所ゝ不残一宇、沼田庄打散、明隙候、此上遠州衆へ立使候条、依彼返答、直ニ其表へ可令出馬候、其半之仕置、何分ニも堅固ニ可被申付候、万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者、出馬以前為加勢、一手も二手も可遣候、存分重而以糊付可被申越候、恐ゝ謹言、猶以不及申候へ共、畢竟其方稼ニ相極候、
九月八日/氏直(花押)/原豊前守殿
戦国遺文後北条氏編2855「北条氏直書状」(東京国立博物館所蔵文書)