2017/05/17(水)戦国時代に兵種別編成はあったのか?

本当にこの文書が兵種別編成を証明するのか?

戦国期に兵種別編成があったという根拠として、豊島宮城文書の「北条家諸奉行定書」(戦北1923)が挙げられるようだが、これがあったから「鉄炮隊とか鑓隊が編成されて戦っていた」と判断はできないと思う。

確かに鑓・弓・鉄炮・小旗・馬上・歩者それぞれに奉行が配置されているのだけど、原文を読むとどうも着到付けを徹底させるために戦闘前に集めていたように見受けられる。後北条氏が出した着到定は装備の種類だけでなく寸法が見栄えにも言及しているため、それを点検するのに苦労しているような様子が窺える史料なのではないか。

一旦確認をして、各自がきちんと軍役通りの動員をかけているか調べようとしたのは判るが、その後どうやって戦ったかは書かれていない。もしかしたら、またそれぞれの主従で固まったかもしれない。

特に、最初に挙げられている小旗奉行は疑問。兵種別という考え方に則ると、小旗隊という謎の集団を想定しなければならない。更に「歩者奉行」と「歩者廿人之奉行」がどう異なるのかも判らない。着到改めであれば、「歩者廿人」という別立ての着到定があり、それに特化した奉行がいたとも考えられるのだが……。

もっと突っ込んで考えると、弓・鑓・鉄炮・馬とも関係のないこの「歩者」だけが一隊にまとめられた理由も不明になる。

要は、この文書自体は戦闘前の規約を取りまとめたもので、戦闘自体をどう行なったかは判らない。この文書で触れている「陣庭之取様肝要候、大方陸奥守陣取之模様ニ可取」という記述から、北条氏照が定めた陣取方法があって、それに準拠して戦ったらしいという手掛かりは得られるが、そこまでが限界だろう。

また、これは仮措置で、どこが仮なのかも不明という点も重視しなければならない。文頭で「但今度之陣一廻之定=ただし、今度の陣だけの規定」と断っているほか、文中でも「先此度者、大方如此定置候」としつつ「如何様帰陣之上、心静遂糾明、重而之出張ニハ、入手而可定置候」と、「とりあえずこの規則でやってみろ。帰ったらちゃんと検討して規則を改善する」と書いている。

戦国遺文後北条氏編1923「北条家諸奉行定書」(豊島宮城文書)

岩付諸奉行(但し今度の陣だけの規定)

小旗奉行:中筑後守・立川藤左衛門尉・潮田内匠助

 出撃の法螺貝を合図があったら常に、小旗を集めるように。押さえる前に文句を言わせずきちんと押さえるように。小旗は規定では120本余りがあるだろうから、点検して不足があればいつでも報告するように。

何時も打立之貝立を傍尓ニ、小旗悉可相集、於押前物いわせす、いかにも入精可押、小旗敷定百廿余本可有之間、改而不足之所をハ、何時も可申上候

鑓奉行:福嶋四郎右衛門尉・豊田周防守・立川式部丞・春日與兵衛

 600本あるだろうから、よくよく点検して、不足があればそのまま披露するように。鑓奉行は大切な役目である。揉み合いになった際、押さえる前だったとならないように、丹念に行なうように。小旗を集めるのと同じく、鑓もいつも集めておくように。

六百余本可有之間、能ゝ相改、不足之所をハ、無用捨可披露候、鑓奉行大事之役ニ候、もミあふ時、押前ニてならさる様ニ、入精可致之候、何時も小旗之集同前、鑓をも可集、

鉄炮奉行:河口四郎左衛門尉・真野平太

 岩付の鉄炮衆が50余挺あるだろうから点検して、毎回の備えで不足があったら書き出しそのまま披露するように。事前に『簡』を作っておくのがよいだろう。準備不足で、錆びたり、引き金などが壊れているものを担いでいる者がいたら、とんでもない曲事である。よくよく丹念に行なうように。

岩付鉄炮衆五十余挺可有之間、相改、毎度之備ニ不足之所をハ書立、無用捨可令披露、兼日簡をこしらゑ尤候、無嗜ニてさび、引金以下損かつきたる一理迄之躰、以之外曲事候、能ゝ可入精者也

弓奉行:尾崎飛弾守・高麗大炊助

 40余張の弓衆があるだろうから、厳密に対処するように。馬上であっても射手衆は一ヶ所に集め押さえておくように、よくよく丹念に行ない、不足があるかを点検し、そのまま披露するように。

四十余張弓衆可有之、能ゝ相改、厳密ニ可仕置、馬上ニ候共、射手衆をハ一所へ集可押候、能ゝ可入精、不足之所をハ相改、無思慮可披露、

歩者奉行:山田弥六郎・川目大学・嶋村若狭守

 250余人の歩者を点検し、毎回一枚に押さえるように。歩者たちに喋らせることなく、よくよく対処するように。

弐百五拾余人之歩者相改、毎度致一枚可押、歩者共物いわせへからす、能ゝ可致仕置

馬上奉行:渋江式部太輔・太田右衛門佐・春日左衛門・宮城四郎兵衛・小田掃部助・細谷刑部左衛門尉

 500余騎の馬上をよくよく点検し、備えの状況がちゃんとするように精を入れることが大切だ。更に馬上を押さえることが第一に重要。500余騎のうち、不足がないかを点検し、そのまま披露するように。

五百余騎之馬上、能ゝ相改、備之模様可然様ニ被入精肝要候、猶馬上之押様専一候、五百余騎之内、不足之者相改、不及思慮、可有披露者也

歩者廿人之奉行:馬場源十郎

 備えの諸奉行、まずこの度は大体このように定めておく。どれも不案内なので、相違のないように。何れにせよ帰陣の上で冷静に検討する。次の出張では、手を入れて定めるだろう。

備之諸奉行、先此度者、大方如此定置候、何も不知案内ニ候間、可有相違候、如何様帰陣之上、心静遂糾明、重而之出張ニハ、入手而可定置候

陣庭奉行:春日左衛門尉・宮城四郎兵衛・細谷刑部左衛門尉・福嶋四郎右衛門尉

 陣庭の取り方が重要だ。大体は陸奥守の陣取りの様子を真似るように。更に『様子』は前々からの通りにすることが重要だ。太田は暮れの内に中間たち20人の移動先に陣取るのがもっともだろうか。それぞれが相談するように。

陣庭之取様肝要候、大方陸奥守陣取之模様ニ可取、猶様子ハ、自前ゝ致来様肝要候、太田暮之内ニハ、中間共廿人之歩先、為陣取尤候歟、各可相談候

篝火奉行:一夜、春日左衛門尉・細谷刑部左衛門尉・立川藤左衛門尉

     一夜、宮城四郎兵衛・福嶋四郎右衛門尉・立川式部丞

 先日申し出たように、陣の前に1ヶ所、後ろに1ヶ所で、大きさは『本』に焚くように、夜の間は消えないように当番の侍を3人ずつ、2ヶ所それぞれにしっかり配置するように。篝木は先日ご指示があったように3,000貫役の衆が2ヶ所を半分ずつ受け持つのがもっともだ。

先日如申出、前ニ一ヶ所、陣之後ニ一ヶ所、大キサハ本ニたくことく、夜一夜不消様ニ、当番之者侍を三人ツゝ、二ヶ所ニ然與可付置、かゝり木ハ、先日被仰出候三千貫役致衆、二ヶ所を半分ツゝ請取、尤候

小荷駄奉行:一番、春日左衛門尉・福嶋四郎右衛門尉・立川式部丞

      二番、宮城四郎兵衛・細谷刑部左衛門尉・中筑後守

 交互に小荷駄を指示するように。具体的には、常に手札を表示しておき、その指示通りにすること。

隔番ニ小荷駄可申付、模様ハ何時も手札ニ可顕之、可為如其、

尺木

ここだけ別項。「尺木は、一騎合まで全員が出動して結ぶように。この点検は太田・細谷・福嶋・宮城が行なうこと」

一、尺木者、一騎合迄悉出合可結、此改、太田右衛門佐・春日左衛門尉・細谷刑部左衛門尉・福嶋四郎右衛門尉・宮城四郎兵衛

2017/04/26(水)三城落ちの文書

駿・遠両国内知行勝間田并桐山・内田・北矢部内被官給恩分等事右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件、
永禄三庚申年六月八日/氏真(花押)/岡部五郎兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編1544「今川氏真判物」(藤枝市郷土博物館所蔵岡部文書)

当知行之内、北矢部并三吉名之事右父玄忠隠居分、先年分渡云々、然者玄忠一世之後者、元信可為計、若弟共彼隠居分付嘱之由、雖企訴訟、既為還付之地之条、競望一切不可許容、并弟両人割分事、元信有子細、近年中絶之刻、雖出判形、年来於東西忠節、剰今度一戦之上、大高・沓掛雖令自落、鳴海一城相踏于堅固、其上以下知相退之条、神妙至也、因茲本領還付之上者、任通法如前之陣番可同心、殊契約為明鏡之間、向後於及異義者、如一札之文言、元信可任進退之意之状如件、
永禄三庚申年九月朔/氏真判/岡部五郎兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編1573「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

其以来依無的便、絶音問候事、本意之外候、抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間、寔武功之至無比類候、二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処、無恙帰府、結局被挙名誉候間、信玄喜悦不過之候、次対氏真別而可入魂之心底ニ候、不被信侫人之讒言様、馳走可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
六月十三日/信玄御書印/岡部五郎兵衛尉殿
戦国遺文今川氏編1547「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書)

2017/04/24(月)史料想-3 引用史料原文と補記

1573(元亀4/天正元)年の、某に対する条目4カ条

一、水窪之替地為如何他人之申事可有之候哉、若菟角之族有之者、可捧目安、以合目安遂■可■仰■■、如何而■儀無之知行を員数ニ立可被仰付候哉、近比■■申事ニ候、被仰出程無之者、御糺明之上何分ニも如先証文可被仰付事。一、取出之儀申上候、神妙候、自元西之体之者ハ境目走廻ニ極儀候、何分成共敵境目見立可被仰付間、抛身命可走廻候、自元知行之事者何分ニも可被充行間、心易可存事。一、何方之境目ニ被指置候共、妻子之安居無之而迷惑可存間、此度黒谷之内多々良分七拾貫文御領所ニ候間、彼地被仰付候、早々彼地へ悉妻子引移、心易可有之事、付、八郎左衛門・喜左衛門妻子之儀をも、彼一所ニ可被指置間、多々良分之内両人妻子置分屋敷を可相渡候、猶此上者一味同心ニ申合、可走廻事。一、先年懸川へ被指遣候時、御褒美銭之未進申上候、当年・来年領年円皆済■可被■出事。已上、
癸酉三月晦日/(虎朱印)江雪斎奉之/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p28「北条家朱印状」(海老原文書)

1569(永禄12)年の、某に対する感状

昨十日円能口敵相動処、最前ニ及仕合、敵五人討捕、殊自身致高名候、誠無比類感悦候、刀一一文字遣之候、弥可走廻候、仍状如件、
永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

1570(元亀元)年の、水窪替地を巡る裁定

水窪去年七月迄者、為御領所間、於土狩一所各ニ被下候間、其並ニ被仰付候、只今之儀者、諸給ニ被下間、任侘言、於水窪十八貫文請取之、於土狩十八貫文請取分、所肥後ニ可渡候、然而葛山衆先方之時上下、更不知候、去又所肥後同心ニ申付ニも無之候、至于時属仕候間、指南之様申付候、但所肥後慮外非法之義有之者、申上、至于其時者、各別ニ可有奉公者也、仍如件、
庚午卯月十日/(虎朱印)石巻奉/渡辺蔵人佐殿
戦国遺文後北条氏編1403「北条家朱印状写」(判物証文写今川二)

「土狩」への言及

  • 戦北1237 永禄12年閏5月4日 北条氏政判物で「土狩郷之内三島宮御神領」を改めて寄進するとする
  • 戦北1597 元亀3年6月6日 北条家朱印状では「土狩百姓中」に堤築造を命じている
  • 戦北1654 天正元年7月9日 北条氏光着到定書では「卅七貫文土狩にて出」とある
  • 戦北1885 天正4年12月29日 北条氏光朱印状では「亥歳土狩御蔵米」とある