2017/10/09(月)氏康が左京大夫から相模守になった時期

氏康と氏政はいつ官途を変えた?

永禄2年12月に隠居した氏康はその後も左京大夫の官途を使い続けている。比定ではない確実な史料で見ると、永禄11年に官途の入れ替えが確認できる。私の調査不足かも知れないが、年が判るものは今のところこれだけ。

  • 永禄11年2月8日の吉田兼右書状案(戦北4445)で「北条相模守」、同日吉田兼右書状案(戦北4446)で「北条左京大夫」。これは日記内に記載で年比定は確実。

年比定の文書でもうちょっと検討。

「左京大夫氏康」

  • 永禄3年8月8日の伊達晴宗宛ての書状(戦北638)
  • 永禄3年9月22日の蘆名修理大夫宛ての書状写(戦北642)

「北条左京大夫」

  • 永禄4年1月20日の足利義輝御内書(戦北4435)

「左京大夫氏康」

  • 永禄4年2月18日の佐々木近江守宛ての書状(戦北1521)
  • 永禄8年3月23日の上杉輝虎宛ての書状(神三下7433「足利義輝御内書」/7435「大館晴光添状」)
  • 永禄12年1月2日の松本石見守・河田伯耆守宛ての書状写(戦北1134)※初信のため旧官途を名乗った?

「相模守」

  • 永禄9年5月晦日の足利義氏書状(戦北4443)

「左京大夫」

  • 永禄9年6月27日の足利義氏書状写(戦北4444)
  • 永禄10年6月27日の足利義氏条書(埼玉県史料叢書12_314)※同書は氏康比定

「左京大夫氏政」

  • 永禄10年8月25日の細川兵部大輔宛ての書状(戦北1033)
  • 永禄11年5月26日の足利義氏宛ての書状(戦北1075)
  • 永禄12年3月26日の細川兵部大輔宛ての書状写(戦北1193/1194)
  • 永禄12年4月23日の伊達輝宗宛ての書状(戦北1199)
  • 永禄12年12月26日の上杉輝虎宛ての書状(戦北1365)

「相模守氏康」

  • 永禄12年3月21日の細川兵部大輔宛ての書状(戦北1185)

「北条左京大夫・北条相模守」

  • 永禄12年11月23日の上杉輝虎覚書写(戦北4459)

もう少し検討。

永禄12年1月2日の書状写を除外すれば、永禄8年3月23日~永禄9年5月29日の間に官途の変更というのが、年比定文書からの検討結果となる。その間にあった出来事のうち、氏康引退に関係しそうなものを列挙してみる。

  1. 永禄8年8月24日の武蔵御嶽出陣が氏康最後の出征となる
  2. 永禄9年3月13日に武田晴信が倉賀野攻囲で氏康・氏政が出陣予定と記述
  3. 永禄9年3月20~25日に上杉方が臼井攻囲に失敗
  4. 永禄9年3月28日に足利義氏が臼井後詰で氏康・氏政が出陣予定だったと記述
  5. 永禄9年5月13日に氏康隠居印「武栄」が現われる

1、3も契機になりそうな感触はあるが、4で出陣予定が語られていることから、5の直前ではないかというのが妥当かと思う。当初は永禄2年の隠居の後で様子を見てと思っていたのが、越後からの侵攻でそれどころではなくなり、臼井城からの撤退で上杉方が関東の中心部から撤退したのを見届けて官途の差し替えをしたのかなと。

2017/10/09(月)「五人扶持」はどんな価値?

秀吉の「扶持」

羽柴秀吉の新出文書で「五人扶持」を支給せよという指示があり、報道記事では「五人扶持は現在の100万円ほどの価値」とあった。ちょっと疑問に思ったので検証。

『豊臣秀吉文書集』をざっと見たところ、簡易な記述で宛行いをしているものが複数あったが、何れも「石」を単位としている。「扶持」による記載は福島正則へ渡す米についてのもの。

  • 豊臣秀吉文書集0193「羽柴秀吉切手」(青木氏蒐集文書・東大史影写)

    ふちかた八木出来事。四人、五十日分、馬之大豆三斗、福島市松 此ほかにまめ壱石とらせ可申候、 天正七年五月十四日/秀吉(花押)/藤右衛門

 ここでは4人分・50日分と明記している。これだけで藤右衛門が諒解して支給できるというのは、ある程度時価によらない「人扶持」基準があったのだろう。と思っていたら、次の文書を見つけた。

  • 豊臣秀吉文書集0583「御次衆扶持方判物」(大阪城天守閣)

    御次様衆扶持方十日分かし候 三百拾人、田中小十郎 三百人、谷兵介 三百人、藤懸三蔵 百八拾人、石川小七郎 六拾人、渡部勘兵衛 百人、高田小五郎 以上、千弐百五拾人 此米、六拾弐石五斗 天正十一年二月六日/秀吉(花押)/宛所欠

御次様衆に対して10日文の貸しとして米を渡すように指示している。1250人で米が62石5斗。

6250升÷10日=625升/日

625÷1250人=0.5升=5合/人

つまり、1日・1人当たりに換算すると5合の米が「扶持」として与えられたことになる。これを福島正則に当てはめると100升=1石となる。

新出文書では「五人扶持」としか書かれていないが、特に明記がなければ1年分となるのが後北条や今川で見られる形なので、とりあえずそう考えてみる。

0.5升×5人×354日=885升=8.85石(1人は1.77石)

そもそも、経済と生産の状況が全く異なる戦国期の「扶持」を現代の価値に置き換えること自体に無理がある(というか破綻している)と思うのだが、強引に計算を続けてみよう。

米の価格は玄米60kgが平成28年度の全国平均で1万4千円程度。これを1俵=4斗と考えると40升だから、1升は350円。885升では309,750円。むしろ100万円にもならない。

貫高での「扶持」

石高を使っていない、今川・後北条での「扶持」を見てみる。一人当たりに換算したもの。

  • 5貫文「其時五拾貫拾人扶持分」戦今634・天文8年
  • 6貫文「乗組四十人、此扶持給弐百四拾貫文」戦北1742・天正3年
  • 5.9貫文「拾人、鉄炮衆(中略)五拾八貫六百七十文」戦北2734・天正12年
  • 5貫文「百貫文、鉄炮衆弐十人之扶持給、但、一人四貫文之給、壱貫之扶持也」戦北3312・天正16

このように、時代を問わず5~6貫文が1人扶持となる。

但し、後北条氏では一騎合は「壱人拾貫文積」(戦北1233)としているから馬上の扶持は10貫文としている。その一方で「歩鉄炮廿人」は100貫文積であって5貫文の原則は守っている。このことは、明智光秀の「馬上は2人分にカウントする」とも合致し、全国的に相場が合っていたという点で興味深い。

ではこの1人扶持は実際にどの程度の財産だったのか。金山在城を指示した後北条氏の朱印状に明細が載っている。このときの1人当たりの扶持は2.4貫文で、臨時に4~6ヶ月分の扶持を支給したものと思われる。

  • 2.4貫文「弐拾四貫文、同心上下廿人扶持銭、於館林麦百六十四俵二斗、大藤長門守・森三河両人前より、可請取之」戦北2882・天正13年

同心上下20人の扶持銭として24貫文が支給されているが、具体的には館林に行って、大藤長門守・森三河守から麦164俵2斗を受け取れとしている。

後北条氏は1俵が3斗5升(戦北3055)となる。俵から升へ換算してみると、

  • 164俵×35升=5,740升

ここに2斗を追加

  • 5,740升+20升=5,760升

1文当たりの麦容量を計算

-5,760升÷2,400文=2.4升

在城期間は具体的に書かれていないが、この文書は3人の被官に全く同一金額が明示されているから、何らかの基準に沿って導き出されたと考えてよいだろう。

年間扶持給での麦容量に換算してみる。

-2.4升×5,000文=12,000升=約343俵 -2.4升×6,000文=14,400升=約411俵

5~6貫文の年間扶持は、麦に換算すると大体343~411俵。これを升に直して1日当たりの分量に変えてみる。

  • 34,300升÷354日=約97升/日
  • 41,100升÷354日=約116升/日

秀吉の例で見た、米5合/日が、関東での麦だと970~1,160合と、200倍にもなってしまう。麦と比較することに無理があるのか……。

兵粮から見た米の価格

気を取り直して、兵粮として米を扱っている場合の価格を探ってみる。

「陣中兵粮ニ詰、野老をほり候てくらい候よし申候、兵粮一升ひた銭にて百文つゝ、是もはや無売買由申候」(戦北3691)は、天正18年に関東に押し寄せた羽柴方が兵粮に窮していると松田康長が評したもの。「米1升が鐚銭100文もしたのが、いよいよそれも売られなくなった」と書いている。誇張表現だろうが、1升100文が法外な価格であるという認識は採用できる。

以下の文書では、22人・2ヶ月分の兵粮が20俵12升=712升となる。

  • 戦国遺文後北条氏編0459「北条家朱印状」(鳥海文書)

    峯上尾崎曲輪下小屋衆廿二人之内、二ヶ月分兵粮廿俵十二升、此内拾俵六升、只今出之候、残而十俵六升、来三月中旬ニ可出之候、当意致堪忍、可走廻候、猶致忠節ニ付而者、始末共ニ給恩重而可相定者也、仍如件、 二月廿七日/(虎朱印)/尾崎曲輪根小屋廿二人衆・吉原玄蕃助

1人・1日に換算する。

  • 712升÷22人÷60日=約5.4合

これは秀吉の場合の扶持と近似する。となると関東の米価が大きく異なった訳ではなく、麦の価格が米の1/200だった可能性が考えられる。

まとめ

間に兵粮という概念が入っているので確証はないが、今川・後北条が5~6貫文とした扶持が、秀吉の1.77石と合致すると想定してみて、米1升の価格を計算してみる。

  • 5,000文÷177升=約28文/升
  • 6,000文÷177升=約34文/升

松田康長は「鐚銭で100文」と書いており、鐚が1/4程度の価値だとすればむしろ安価ではないかと考えられる。ここは難題。ただ、東西で鐚銭・精銭の考え方が異なったという永原慶二氏の指摘もあり、遠征した羽柴方が使ったのが西国で主流の宋銭で、それが康長には鐚と認識された可能性もある。

2017/10/04(水)北条氏康の次男―藤菊丸、賀永、氏規―

北条藤菊丸は誰か

1555(弘治元)年11月23日、古河公方足利義氏の元服式が行なわれた『鎌倉公方御社参記次第』(北区史資料編古代中世2-77)。そこには勿論北条氏康の姿があったが、脇に控えた少年も記録されている。

「北条藤菊丸氏康二男、御腰物御手移ニ被下候」

この場所に他の兄弟は(既に元服・妻帯している後継者の氏政すら)いない。北条氏康の次男として、他の兄弟とは別格で登場する「北条藤菊丸」が誰なのかを検討してみよう。

藤菊丸 = 氏照の検証

藤菊丸について、通説では北条氏照だとされてきたが、以下の矛盾点があり不自然だと思われる。

  1. もう1点の文書で藤菊丸は「北条」を名乗っているが、氏照は「大石源三」として登場し、後に北条に改めている。一貫して北条を名乗る氏規の方が適しているのではないか。
  2. 関東で藤菊丸の活動がなくなると同時に駿府で氏康次男として「伊豆之若子」賀永が活動を始める。
  3. 御相伴衆として名が載っているのは、氏政と氏規のみ。
  4. 天正11年に酒井政辰は氏照を「奥州様」氏規を「美濃守殿様」と繰り返し呼んでおり、家中でも氏規の方が格が上である。

 氏照を藤菊丸に比定する根拠としては、藤菊丸の名がある棟札が座間郷にあり、ここは役帳で大石氏の知行されている点、藤菊丸の初出が足利義氏元服式だったことと、後年氏照が義氏被官を指南した点、主にこの2点からだと思う。しかし、この論拠は充分な比定要件にはならないかも知れない。

岩付太田氏を巡って、源五郎と氏房が同一人物と思われていた理由が、岩付に入ったこと・氏政の息子だったことというお大雑把な共通点からの憶測でしかなく、史料の考察が進んだ昨今では、「氏房は当初より十郎を名乗り、一貫していること」「氏直(国王丸)・源五郎(国増丸)の他に菊王丸がおり、これが氏房に比定できること」から、源五郎と氏房は別人であるという比定に切り替わった。

以上から、座間郷・義氏の関係を氏照が濃厚に持ったとして、それは藤菊丸の後継位置に入っただけということであり、後世の系譜諸記録に幻惑されている可能性がある。

藤菊丸 = 賀永の検証

改めて史料を読んでみる。

後北条氏は、「菊寿丸=宗哲」「菊王丸=氏房」というように、幼名に「菊」を冠することがある。但し「藤菊丸」は「菊」の前に「藤」を戴いている点で特異である。藤原を称している氏族で関東において最も巨大な存在は上杉氏だ。氏康は、藤菊丸を関東管領の後継者にしようと考えていたのではないか。であるなら、義氏元服式に後北条の跡取りを入れず、藤菊丸だけを出席させたのは、公方の梅千代王丸に管領の藤菊丸を配するという構想があったからではないか。

藤菊丸が上杉を継承した場合に、それを「大石」として補助する予定で、源三氏照・左馬助憲秀が控えていたのかも知れない。でなければこの2人が「大石」を称した理由が判らなくなる。

ところが、藤菊丸はそのまま姿を消す。

そしてその年の10月、駿府を訪れた山科言継は北条氏康次男「賀永」という少年と出会う。氏康次男という出自や年齢からこの2人が同一人物であるのはほぼ確実だと思う。

それにしても、氏康はなぜ急に方針転換したのだろうか。

1556(弘治2)年1~4月、氏康は東への外征が顕著で、同じく今川義元も西に進んでいた。義元の息子である氏真は既に氏康の娘婿ではあったが、氏康が織田信秀に書いたように「近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候」という状況もあり、氏康はそちらの関係強化を狙ったのではないか。

その背景には、氏康の身内である晴氏室(芳春院)すら動向が定かではない古河公方周辺に対して「しばらくほとぼりを冷まそう」という狙いもあったかも知れない。ただ何れにせよ「急遽今川に渡す」という背景は史料から直接読み取れないから、ここはもっと論拠がほしいところ。

藤菊丸が消えた後、永禄4年に「大石左馬助」として名が出た憲秀はやがて松田に復するが、氏照は大石名乗りを続け、藤菊丸が治める予定だった座間領も統治する。もしかすると、氏照固有の「如意成就」の朱印も当初は藤菊丸に用意されていたのかも知れない。

賀永 = 氏規の検証

言継卿記で登場する賀永は「ガイエイ」とも呼ばれ、音読みであることが確定している。彼は北条氏康次男と書かれているから、氏規・氏照・氏邦のうちの誰かだろうと判る(氏政は既に元服しているため)。この3人の弘治2~3年の動向は不明だが、年未詳の今川義元書状で「手習いをしないと、小田原の兄弟衆に負けてしまうぞ」という文面が「助五郎」宛てに出されている点、助五郎は氏規の仮名である点から、賀永と助五郎、氏規は同一人物であると断定可能だと思う。

音読み「賀永」という名が何を意味していたかは不明。和歌を詠む際の号か何かを、寿桂が殊更呼んでいたのかも知れない。

藤菊丸 = 賀永 = 氏規と仮定しての年齢確認

氏規が系譜にある1545(天文14)年生まれだと一旦仮定して、藤菊丸、賀永の記録と突き合わせてみる。

  • 11歳 弘治元年11月23日 北条藤菊丸氏康二男(鎌倉公方御社参記次第)
  • 12歳 弘治2年5月2日 大旦那北条藤菊丸(座間鈴鹿明神棟札)
  • 12歳 弘治2年10月2日 大方の孫相州北条次男也(言継卿記)
  • 12歳 弘治2年12月18日 伊豆之若子祝言(言継卿記)
  • 19歳 永禄6年5月 北条助五郎氏規、氏康次男(永禄六年諸役人附)

上記から、同一人物であっても時系列上問題はない。

本来であれば、初出の文書がいつかによって更に裏付けを得たいところだが、氏規の初出発給文書は意外と遅く、1565(永禄8)年1月28日に21歳で朱印状、1577(天正5)年4月17日に33歳で「左馬助氏規」を出していて元服時期の参考にならない。これは駿河にいた時期に後北条分国から切り離されていた可能性を窺わせる。因縁のある松田憲秀も初出はかなり遅いので、当主以外の政権中枢は発給時期が極めて遅い可能性がある。

氏規の息子である氏盛も1589(天正17)年12月に氏直から「氏」を貰って元服したとみられ、家譜の生年1577(天正5)年が正しいとするなら、13歳の年末に元服している。

4兄弟の生年を検討

12~13歳の年末に元服という前提で他の兄弟の生年を検討してみる。

氏政

系譜では天文7年生まれとされるが、同時代史料の『顕如上人貝塚御座所日記』見返しにある年齢から逆算すると天文10年生まれという仮説が妥当だろう。

氏政は天文23年6月以前には元服して「新九郎氏政」となっている(同年12月に婚姻)。

元服が天文22年12月と考えれば、天文10年説では13歳で不自然なところはない。一方で、系譜類の天文7年説では17歳となってしまい、結構遅い印象がある。

氏邦

天文13年という仮説が浅倉直美氏によって出されている。但し氏邦の場合、越後勢乱入の最中に対応を強いられたという経緯があり、ここからの検討も必要だと思う。

永禄4年9月8日~5年10月10日まで「乙千代」名で花押を据える。幼名で花押を据えている珍しい例。元服して仮名を持ちながらも手習いをしていた喜平次・助五郎との比較も必要かも知れない。

1544(天文13)年生まれであれば、1561(永禄4)年では18歳となり元服していないのは奇妙だ。

その後の1564(永禄7)年正月に「氏邦」を名乗り、この年の6月18日には朱印状を発給しているから、1563(永禄6)年12月に元服したと考えると自然だ。氏規・氏盛の例に当てはめると1551~1552(天文20~21)年となる。

もう少し遡るならば、1560(永禄3)年12月に13歳で元服予定だったとすると、1548(天文17)年生まれとなる。

氏照

生年は3説ある。

天文9年(寛政譜)・天文10年(小田原編年録)・天文11年(宗閑寺記録)

ただ、前の2説では氏政より年長になってしまうし、何れも後年の編著でしかない。『北条氏康の子供たち』で黒田基樹氏が、氏政・氏直の生年を記載した同時代史料『顕如上人貝塚御座所日記』を紹介しながら、他の一族の生年と合わなくなると、一旦戻したのもこの点が要因になっている。

とりあえず、専門家ではないので野蛮に切り進んでいくこととする。

初出発給文書から、氏邦と同様の手法で追ってみる。

  • 永禄2年11月10日付けで朱印状「如意成就」奉者:布施・横地
  • 永禄4年3月3日付けで判物「大石源三氏照」

文書の残存状況が不明だから、念のため1558(永禄元)年12月に13歳で元服、その後手習いをしつつ1561(永禄4)年には16歳で自著・花押を据えたと想定してみる。

他の史料とも整合されるし、氏邦の生年比定とも揃えられる。この場合、氏照の生年は1546(天文15)年となる。

まとめ

生年を整理してみよう。氏規も13歳元服だったと統一して考えてみる。

  • 氏政 1541(天文10)年
  • 氏規 1544(天文13)年
  • 氏照 1546(天文15)年
  • 氏邦 1548(天文17)年

この年齢差を見てから、今川義元が助五郎の宛てた有名な書状を読んでみると、「兄弟衆様躰長敷御入」が異なって感じられて面白い。

  • 戦国遺文今川氏編1532「今川義元書状」(喜連川文書)

猶ゝ文御うれしく候、あかり候、いよゝゝ手習あるへく候、二三日のうち爰を立候へく候間、廿日此は参候へく候、かミへも此由御ことつて申候、何事も見参にて可申候、かしく、 文給候、珍敷見まいらせ候、此間小田原にてみなゝゝいつれも見参申候、けなりけに御入候、可御安心候、それのうはさ申候、春ハ御出候ハん由候間、万御たしなミ候へく候、いつれも兄弟衆様躰長敷御入候、見かきられてハさんゝゝの事にてあるへく候、
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:助五郎殿 御返事 義元)

お手紙いただきました。珍しくて見せて回りました。今回は小田原のみなさん全員とお会いしました。お元気そうですから、ご安心下さい。あなたの噂をしました。春にはお出でになるそうですから、何でも頑張っておかないといけません。どの兄弟衆も大人っぽく見えました。見限られてしまっては、散々な目に会うでしょう。
さらにさらに、お手紙嬉しいです。上手になりました。どんどん手習いなさいますように。2~3日のうちにここを立ちますから、20日ころにいらっしゃい。『かみ』にも、このことを伝えてあります。いろいろと会ってお話しましょう。かしこ。