2017/09/04(月)高天神降伏拒否の意図

城兵が困窮していた高天神城に対して、織田信長が心中を語った朱印状がある。通説や解説文によっては「武田勝頼が後詰に来られないことを知っていて、その評判を落とすために開城を認めなかった」という書かれ方をしていることもあるが、これを読む限り、信長は勝頼の後詰を引き出すことを前提にしている。

  • 増訂織田信長文書の研究913「織田信長朱印状」(水野文書)

    切々注進状、被入情之段、別而祝着候、其付城中一段迷惑之躰、以矢文懇望之間、近々候歟、然者、命を於助者、最前ニ滝坂を相副、只今ハ小山をそへ、高天神共三ヶ所可渡之由、以是慥意心中令推量候、抑三城を請取、遠州内無残所申付、外聞実儀可然候歟、但見及聞候躰ニ、以来小山を始取懸候共、武田四郎分際にてハ、重而も後巻成間敷候哉、以其両城をも可渡と申所毛頭無疑候、其節ハ家康気遣、諸卒可辛労処、歎敷候共、信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候、所詮、号後巻、敵彼境目へ打出候ハゝ、手間不入実否を可付候、然時者、両国を手間不入申付候、自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ、以其響駿州之端々小城拘候事不実候、以来気遣候共、只今苦労候共、両条のつもりハ分別難弁候間、此通家康ニ物語、家中之宿老共にも申聞談合尤候、これハ信長思寄心底を不残申送者也、
    正月廿五日/信長(朱印)/水野宗兵衛とのへ

  • 解釈

    何度も報告をいただき、精を入れていることは祝着です。その包囲で城中が一段と困っている状態なのは、矢文で懇望してきたのですから、近々でしょうか。ですから、助命を願い、以前には滝坂城を添え、今では小山城を添えて、高天神と共に3箇所を渡したいとのこと。これをもって造意・心中を推量しました。そもそも3つの城を受け取れば遠江国は全て領有でき、外聞実儀はよくなるでしょうか。但し、見聞したところでは、あれ以来は小山を初めとして攻撃したところで、武田四郎の分際では再び後巻はできないのではないでしょうか。その両城も添えて渡したいとの言い分は毛頭疑いのないところです。その節は、家康が気遣いをし、諸卒の辛労するというのは遺憾ですが、信長は一両年に駿河・甲斐に出撃するのですから、難所を越えて長途戦うようなことは、外聞からして口惜しいのです。結局は、後巻と称して敵が境目に撃って出てくれれば、手間いらずで片を付けられるでしょう。そうなった時に、両国は手間いらずで領有できます。万が一にも後巻をせず、高天神と同様に小山・滝坂を見捨てるならば、その聞こえで駿河の端々の小城に至るまで保持することはできません。ずっと気遣いしていただいていて、今も苦労をかけていますけれども、両条の考え方は判断が難しいので、この通りに家康に説明して、家中の宿老たちにも聞かせ、話し合うのがよいでしょう。これは信長が思い寄せる心底を残さず申し送ったものです。

包囲している現場の徳川家中では「もう降伏させてよいのではないか」という声が出始めていたのだろう。これに対して信長は遠征したくなかったから、後詰が来るまで降伏させたくなかった。勝頼が出てくれば「手間不入」だと2度も言及している。その一方で、信長はこの朱印状で現場に相当気を遣っていて、辛労・苦労・気遣は丁寧にねぎらっている。この2点が相まって、とにかく後詰まで待てということをあれこれ説明している文面になっているのではないか。

後詰に来たら手間いらずと書いた後に「自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ=万が一、後詰に来ずに高天神などを見捨てたならば」という事態を想定しているが、これは更に出てくるであろう現場の不満「勝頼を引き出すために長陣を続けさせたとして、結局来なかったらどうするんだ」に対応しようとしているように見える。後詰がなかったら武田が駿河を維持はできないとは書いているが、後詰想定ほどにはあれこれ説明していない。

実際、勝頼が後詰に来ないまま高天神が落城した後の10月13日、信長は三河と信濃の境目に「御取出」構築を指示している。結局、「切所を越、長々敷弓矢を可取事」になってしまった。

  • 増訂織田信長文書の研究957「滝川一益書状写」(武家事紀三十五続集古案)

    至信州堺目、御取出可被仰付旨候、就其様子可申渡之間、其元御越弥被示合、御越奉待候、委曲牧伝ニ可申入候、恐々謹言、
    十月十三日/一益在判/奥喜殿御宿所

この文書も、信長の被官が家康の被官に直接指示している辺りが面白い。

2017/08/06(日)10年前の解釈議論をあえて蒸し返してみる

古文書を本格的に読み始めてちょうど10年ということで思い出した。

解釈を始めたばかりの頃、かぎや散人氏と下記の文書の「別可馳走」の解釈を巡って真剣に議論をしたのだった。当時はせいぜい100件以内の守備範囲での議論だったので、今から振り返ると引き出す用例が少なくて心もとない。

用例が増えた現状で再び試みてみようと思う。

今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、
十二月五日/義元(花押)/明眼寺・阿部与五左衛門殿
戦国遺文今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)

原文では、山口左馬助について今川義元が与えた指示が主な内容になっている。といっても、宛所は左馬助ではない。寺と武家が併記されるちょっと奇妙な構成だ。

ここで「山口左馬助別可馳走之由祝着候」をどう捉えるかが重要になってくる。

  1. 「可」は未来に向けて開かれた状態だから「山口左馬助が特別に馳走するだろう」という予定を義元が聞き「祝着」と言っている。

  2. 「可」は誤字で「別可」ではなく「別而」。「山口左馬助が特別に馳走した」という経緯を義元が聞き「祝着」と言っている。

前者なら、妙眼寺・阿部は山口の調略をしていたことになる。後者だと山口は既に調略済みで活動していたことになる。

この後の文章では「でも刈谷の水野とは和睦しちゃうから。味方の中で反対する奴がいないように山左に言っておいて」と義元がしれっと書いている。これはどちらの状況でも説明がつくので、後半の文では決め手にならなない。

かぎや氏は前者のように「馳走するべく」と読むべきで、山口左馬助はこの時点では馳走を期待される存在だったと解釈した。

一方で私は「可」は「而」の誤字で、馳走は既に行なわれていたものの、織田信秀の悃望によって刈谷の赦免が決定してしまい、山口左馬助の努力が無駄になったと解釈した。

改めて考えるに当たって、まずは「別可」は脱字でも誤字でもなく、そのまま「別可」を使用していたかを調べてみると、他例の検索では下記のようにこの組み合わせは使われていなかった。やはり何らかの脱字・誤字を疑った方がよいようだ。

別可 3例
(当該以外は別義→為各別可相除・以分別可被申与之由承候)

脱字・誤記について何パターンか検討する。

1)「而」が脱字していると考えて「別而可馳走」とする仮説

別而可 17例

「別して~べく」の用例は上記のように普通に存在する。しかし一方で、

可馳走 1例(当該のみ)
「可[^、]+馳走」 0

「可馳走=馳走すべく」はこの例でしか見られず、他の語を挟んでも存在は見られなかった。

可有馳走 3例
可令馳走 2例
<以下は1例ずつ>
可被馳走
可致馳走
可在其方馳走
可然様ニ馳走・可然様ニ貴所御馳走

上記の結果を見ると、可と馳走は直接繋がらず「有・令・被・致・在」を間に挟むようだ。

このことから、「可馳走」は成り立たず、更に別の脱字を想定しなければならない。

ちなみに、可と走廻は直接繋がる。

可走廻 130例

そして間に語を挟む例も存在する。

可被走廻 20例
可為走廻 2例
可有御走廻 2例
可然様ニ走廻 1

2)「可」が「而」の誤記か誤翻刻と考えて「別而馳走」とする仮説

「可[^、]+馳走」でGrepすると、「別而」と「馳走」の組み合わせは8例ある。

別而馳走 6例
別而御馳走 1例
別而此節之間御馳走可申候 1例
別令馳走 1例 <後述>

この想定だと、「可」と「而」の取り違えだけで説明可能。

参考:走廻の場合

別而走廻 6例
<以下は全て1例>
別而可被走廻
別ニ抽而被走廻
別而可走廻
別而無油断走廻
別而成下知走廻

3)「可」が「令」の誤記か誤翻刻と考えて「別令馳走」とする仮説

「別令馳走」は以下の文書でしか見られない。

沓掛・高大根・部田村之事右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件、
天文十九十二月朔日/治部大輔(花押)/丹羽隼人佐殿
戦国遺文今川氏編0989「今川義元判物」(里見忠三郎氏所蔵手鑑)

類似で「爰元能ゝ為御分別令啓達候候」というものはあるが、これは「御分別」と「令」の組み合わせなので異なる。「令馳走」は10例あることから、「別而令馳走」だったのが「而」が欠け、「令」が「可」に誤読されたと考えことが可能。

結論:1~3を比較・検討する

  1. 「別(而)可(有)馳走」 2箇所の脱字発生を想定
  2. 「別(可→而)馳走」 1箇所の誤字発生を想定
  3. 「別(而)(令→可)馳走」 1箇所の脱字・1箇所の誤字発生を想定

最もシンプルな修正で済ますのであれば、2の「而を可と誤記か誤読した」という解釈にするのが、最も妥当と考えられる。

最後に改めて

当時の解釈と今の解釈を並べてみた。昔は結構たどたどしかったなあと、感慨深い。

今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、
十二月五日/義元(花押)/明眼寺・阿部与五左衛門殿
戦国遺文今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)

  • 過去の解釈

山口左馬助が、今度際立って活躍したのはとても祝着です。とはいえ、織田備後守が色々と陳情してきた事情もありますので、刈谷は赦免させました。この上は、味方筋の無事・無異議を山口左馬助が申し整えるよう、ご両人からご意見なさいますように。

  • 現在の解釈

今度山口左馬助が特別に奔走したとのこと、祝着です。とはいえ織田備後守が懇望した状況がありますので、刈谷は赦免させていただきます。この上は、味方の中から和平に反対する者が出ないように、山口左馬助へ両人から意見して下さい。

補足:宛所について

  • 明眼寺

安城と岡崎の間にあって松平氏と非常に縁が深いが、刈谷の水野氏から寄進を受けたこともあって、「苅屋令赦免」の仲介役として見てよいと思う。

  • 阿部与五左衛門

史料がこれしかないので不明だが、ちょうど同じ頃に活動していた阿部大蔵の一族かも知れない。大蔵は松平氏被官だけど、もうこの頃は今川被官に近くなっている。ただ大蔵は動いていない。

まとめると、松平でも水野でもない周縁的位置で、ほんの少し松平寄りな特殊な構成といえそうだ。妙眼寺はこれ以外で政治に関わった経歴はないし、与五左衛門はここにしか出てこないから、かなり特殊なメンバー。

2017/07/17(月)寿桂尼は当主の補佐に徹したのか

今川氏親室の「寿桂」は、通説では歴代当主の補佐をしたとなっているが、息子の氏輝については本当にそういう関係だったのか疑問に思っている。

氏親死後は、2年ほど寿桂のみが文書を発給、大永8年になると氏輝が文書発給を開始する。このままで終われば、寿桂は「繋ぎ」としての役割だと言い切れる。ところがこの年の10月以降、寿桂のみの発給体制に戻ってしまう。これは享禄2~4年と続き、その間の氏輝文書は姿を消す。

ただ1点だけ、奇妙な文書がある。享禄3年の1月29日に本門寺に宛てたごく普通の保護制札だが、これだけが何故か氏輝の名前が書かれている。そして「氏輝」とまで書かれていながらその下に花押はなく、袖の部分に寿桂の朱印が押されている。氏輝が病弱だという通説に従うならば、1月に体調が回復した氏輝を当て込んで書面を作成、その後病状が悪化し花押が据えられなくなって、最終的に寿桂が代行したとなる。

しかし、それならば何故最初から寿桂の文面で作らなかったのかという疑問がある。その前年から完全に寿桂発給体制に切り替わっているし、そんなに急ぎの内容でもない。

氏輝が母に排斥されていたとすると……

ここで、寿桂と氏輝が競合関係にあったと仮定してみる。

氏親死後に発給を独占した寿桂を押しのける形で、本来の当主である氏輝が大永8年に一斉発給を開始するのだが、すぐに寿桂が盛り返して再び発給を独占する。

享禄3年の奇妙な文書は、この期間に間違って作られた書面だったか、氏輝派が画策して作られたのかどちらかだと思う。何れにせよその文面を見た寿桂は、花押がないまま、袖に自分の朱印を押した。破棄しなかったのは、どのような書面で稟議されようとも決裁は必ず自分が行なうという意思表示だった。このように考えるとこの奇妙さは解消される。

※袖判が発給者より上位だとすると、氏輝名義だが寿桂が袖判するという条件を提示したが氏輝が拒否したという仮説も成り立つ。ただ、その場合でも文面を改めて発給する可能性があり、余り可能性が高いように思えない。

その後は享禄5年になると氏輝に一気に切り替わる。これは氏輝が急死するまで続くのだが、天文3年だけは少し例外がある。朝比奈泰能が3月12日に、遠江国大山寺に安堵状を出しているのだが、これは最初に氏親が発給した内容の追認で、その前に寿桂、氏輝の順でも出されている。大山寺のこの反応を見ると、今川家の安堵状では信用ができず、掛川の泰能からも一筆出すよう求めたのが妥当なように見える。また、5月25日に寿桂が漢文の朱印状を出しているが、この宛所・内容は富士金山に関わるもので、氏輝はここに食い込めなかったのだと推測できる。

義元の代になると寿桂は暫く発給を止めるが、天文16年に1通だけ安堵状が出される。この後1年空けて、天文18年に再び発給を開始するが、この時は朱印状の袖に義元が花押を据えている。氏輝との競合があったとするならばだが、義元としては寿桂の独自発給を止めるためにこの措置を行なったとも考えられる。

この後は義元袖花押を伴わなくなるので、一旦上下関係を確認した後は放置したのだろうか。この点は更なる推論が必要になるかも知れない。

寿桂が氏輝と競合してまで発給を続けた理由

この動機としては、寿桂が京の出身で文書の扱いに対して素養があったこと、個人の資質として政治をしたがったことが大きいと考えている。但し、だからといって寿桂が大きく政治方針を転換した訳ではない。私が想定しているのは、京から駿府に下った公家衆の利権確保を目的として家中での発言権拡大を目指したのではないか、というもの。歴代今川当主の中でも群を抜いて京贔屓だった氏親の死は、公家衆にとって大きな衝撃だったに違いなく、その収拾役として寿桂が立ったと。

恐らくこの視点から徹底的に史料を当たっていないと思うので、よりフラットなアプローチで再検討してみてもよいかと思う。

氏輝・寿桂 文書推移

 番号は戦国遺文今川氏編 △=寿桂、●=氏輝、◎=両者


1526(大永6)年

 06月23日 氏親死去

△09月26日 寿桂朱印状 大山寺安堵状 419

△12月26日 寿桂朱印状 昌桂寺寄進状 425

△12月28日 寿桂朱印状 朝比奈泰能宛 427

<惣持院所領4貫400文を城地として渡す>


大永7年

△04月07日 寿桂朱印状 心月庵棟別免除 429

<「しひのおの末庵たるうへ、めんきよせしむる所如件」>


大永8年・享禄元年(8月20日改元)

●03月28日 氏輝判物 神主秋鹿左京亮宛安堵状 443

●03月28日 氏輝判物 神主秋鹿宛人足免除 445

●03月28日 氏輝判物 八幡神主宛安堵状 444

●03月28日 氏輝判物 松井八郎宛御厨領家相続安堵 446

●03月28日 氏輝判物 松井八郎宛遠州当知行安堵 447

●03月28日 氏輝判物 匂坂六郎五郎宛遠州当知行安堵 448

●08月07日 氏輝判物写 雅村太郎左衛門尉宛証文再発行 450

●08月13日 氏輝判物 大山寺安堵状 452

●08月13日 氏輝判物写 頭陀寺宛安堵状 453

●09月07日 氏輝判物 久能寺宛安堵状 456

●09月15日 氏輝判物 新長谷寺宛相続安堵状 457

●09月17日 氏輝判物 神主中山将監宛免税 458

△10月18日 寿桂朱印状 大井新衛門尉宛皮役指示 459

<氏親判物(399)を受けてのものだが、この399は印文が「氏親」で違和感がある。この頃は「紹僖」印で、花押の位置に押していた。従ってこの文書も要検討だと考えられる>


享禄2年

△03月19日 寿桂朱印状 大石寺宛免税 461

△12月07日 寿桂朱印状 五とうせんゑもん宛安堵状 465

△12月11日 寿桂朱印状 めうかく寺宛免税 466


享禄3年

◎01月29日 氏輝判物(寿桂朱印状) 本門寺宛保護制札 467

<氏輝の名前の下に花押がなく、袖に「帰」朱印>

△03月18日 寿桂朱印状 新長谷寺宛相続安堵 471

△06月27日 寿桂朱印状 玖延寺宛安堵状 473

△06月30日 寿桂朱印状 極楽寺安堵状 474


享禄4年

△03月23日 寿桂朱印状 酒井惣さゑもん宛植林指示 475

△閏05月01日 寿桂朱印状 華厳院宛保護制札 476(漢文)


享禄5年・天文元年(8月29日改元)

●4月21日 氏輝判物 三浦鶴千代宛安堵状 481

●4月21日 氏輝判物 三浦鶴千代宛安堵状 482

●5月3日 氏輝判物 大石寺宛免税 483

●8月21日 氏輝判物 江尻商人宿 485

●9月3日 氏輝判物 昌桂寺宛保護制札 487

●9月19日 氏輝判物 長善寺宛保護制札 489

●10月4日 氏輝判物 神龍院宛相続安堵 490

●11月27日 氏輝判物 富士宮若宛安堵状 493


天文2年

●2月5日 氏輝判物 法多山宛安堵状 496

●5月14日 氏輝判物 玖延寺宛安堵状 499

●10月19日 氏輝判物 興法寺宛安堵状 504

●12月4日 氏輝判物 大沢宛小船役の提供 505

●12月10日 氏輝判物 満願寺宛安堵状 506

●12月26日 氏輝判物 建穂寺宛安堵状 507


天文3年

●01月17日 氏輝判物 中山宛切符給付 508

●02月21日 氏輝判物 能登権守神領差し戻し 509

●02月27日 氏輝判物 大石寺宛寄進状 510

 03月12日 泰能判物 大山寺宛安堵状 512

△05月25日 寿桂朱印状 大田神五郎宛 515(漢文)

<富士金山への荷物搬送>

●06月05日 氏輝判物 加賀爪宛安堵状 516

●07月03日 氏輝判物 某宛大岡庄商人問屋の権限保障 519

●07月13日 氏輝判物 興津宛安堵状 520

●08月14日 氏輝判物 真珠院宛保護制札 521

●11月07日 氏輝判物 井出宛知行裁許 522

●12月16日 氏輝判物 原川宛安堵状 528


天文4年

●05月16日 氏輝判物 領家宛寄進状 529

●05月30日 氏輝判物 大山寺宛相続安堵状 530

●06月04日 氏輝判物 辻坊宛裁許 531

●07月17日 氏輝判物 某宛免税 532

●08月20日 氏輝判物 孕石宛感状 533

●09月05日 氏輝判物 太田宛感状 534

●10月18日 氏輝判物 匂坂宛中尾生在城指示 536


天文16年

△04月02日 寿桂朱印状 徳願寺宛安堵状 826


天文18年

△10月04日 寿桂朱印状 真珠院宛寄進状 911(半漢文)

<義元が袖花押>

△11月23日 寿桂朱印状 徳願寺宛寄進状 917

<義元が袖花押>

△11月23日 寿桂朱印状 徳願寺宛知行指示 918

<義元が袖花押>


天文19年

△11月17日 寿桂朱印状 円龍寺宛寄進状 981(半漢文)


天文20年

△05月23日 寿桂朱印状 めうかく寺宛寄進状 1011


永禄2年

△06月18日 寿桂朱印状 妙海寺宛免税 1465

△12月23日 寿桂朱印状 岡埜野宛百姓職裁許 1488


永禄6年

△03月28日 寿桂朱印状 妙海寺宛安堵状 1905(半漢文)

△09月11日 寿桂朱印状 峯叟院宛寄進状 1934


永禄7年

△12月18日 寿桂朱印状 徳願寺宛安堵状 2022

△12月吉日 寿桂朱印状 高松社宛寄進状 2023(半漢文)

原文

駿河国富士北山之内本門寺之事
一、棟別并諸役、為不入之地御免許之事
一、本門寺々号証文御領掌之事
一、於彼地、従地頭陣僧・棟別諸役等不有之之事
右条々、如先御判之旨、為不入之地定置者也、仍而状如件、
享禄三庚寅年正月廿九日/氏輝(名の下に花押なく、袖朱印「帰」)/本門寺
戦国遺文今川氏編0467「今川氏輝判物」(富士宮市北山・北山本門寺文書)

駿河国しやうふかやのうちしものやつ庵地、さかゐそうさゑもんはいとくせしめ、あんをたつると云々、林としてうへ木をなすへきよしある間、後年にかのはやしきんへんかこのようなと申、其外見きり竹木めんしをハんぬ、此むねを得、竹ほくを可植者也、仍如件、
享禄四年辛卯年三月廿三日/(朱印「帰」)/酒井惣さゑもん殿
戦国遺文今川氏編0475「寿桂尼朱印状」(酒井文書)

江尻商人宿之事
右、毎月三度市、同上下之商人宿事、并屋敷弐間、可為如前々者也、仍如件、
享禄五八月廿一日/袖に(今川氏輝花押)/宛所欠
戦国遺文今川氏編0485「今川氏輝判物」(静岡市葵区研屋町・寺尾文書)

遠江国敷知郡之内当知行内海小船役之事、無之筋目承之間、就村櫛在城之畢、然者、上置船雖有何地、無相違可被請取之状、仍而如件、
天文二十二月四日/氏輝(花押)/大沢殿
戦国遺文今川氏編0505「今川氏輝判物」(大沢文書)

富士金山江上荷物五駄、毎月六度、甲州境目雖相留、金山之者共為堪忍分不可有相違、若甲州へ於通越有之者、堅所被加成敗、仍如件、
天文三甲午五月廿五日/(袖に朱印「帰」)/大田神五郎殿
戦国遺文今川氏編0515「寿桂尼朱印状写」(国立公文書館所蔵判物証文写附二)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全之祈念、修造勤行等、不可有退転之状如件、
永正十六己卯年正月十一日/修理大夫(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0323「今川氏親判物」(大山寺文書)

とをたうミの国むらくしのうち大山寺りやう田地参町四段ならひにやまはやし等之事。右、国ふにうとして、さうゐなくりやうしやうせしめをハんぬ、新きくハん所として、武運ちやうきう・国家あんせんのきねん、しゆさう勤行等、たいてんあるへからす、そうせん寺殿の御判にまかせて、つきめさういあるへからさるもの也、仍如件、
大永六ひのへいぬ年九月廿六日/袖に朱印「帰」/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0419「寿桂尼朱印状」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入、無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全之祈念、修造勤行等、不可有退転之旨、任永正十六年正月十一日喬山判形、不可有相違之状如件、
大永六戊子年八月十三日/氏輝(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0452「今川氏輝判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入、無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全祈念、修造勤行等、不可有退転、任先御判・当御判之旨、不可有相違者也、仍如件、
天文三年甲午三月十二日/泰能(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0512「朝比奈泰能判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并中六坊、其外山林野原等之事。右、当院主一世之後者、弟子秀尊仁被譲与之旨、令領掌訖、為新祈願所、武運長久・国家安全祈念、并修造勤行等、不可有退転者也、任先判之旨為国不入、諸役等免許不可有相違之状如件、
天文四乙未年五月卅日/氏輝(花押)/大山寺当院主秀源坊
戦国遺文今川氏編0530「今川氏輝判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地。参町四段并中六坊、其外山林野原等之事。右、任臨済寺殿判形旨、当院主一世之後者、弟子秀尊仁被譲与之旨、令領掌畢、修造勤行等、不可有退転者也、任先判旨為国不入、諸役等免許不可有相違之状、仍如件、
十二月十三日/義元(花押)/大山寺秀源法印
戦国遺文今川氏編0581「今川義元判物」(大山寺文書)

遠江国村柿内大山寺領田地之事。参町四段并中六坊、其外山林等之事。右、任先判并先師勝尊法印譲与之旨、永領掌不可有相違、同門沙弥百姓、棟別年来納所無之旨、所任其儀也、然者弥修造勤行不可有怠慢、任先例為国不入、諸役以下免除不可有相違者也、仍如件、
永禄参庚申年二月七日/氏真(花押)/大山寺尊融
戦国遺文今川氏編1495「今川氏真判物」(大山寺文書)

今度甲州衆、就在所鳥波放火、於富士別而就新屋敷取立者、棟別拾弐間分、并天役・諸役等令免除之、弥可抽奉公者也、仍如件、
天文四乙未年七月十七日/氏輝(花押)/宛所欠
戦国遺文今川氏編0532「今川氏輝判物」(六所文書)

去十九日之於万沢口一戦之上、別而成下知走廻之由、甚以神妙也、殊所被抽粉骨、仍如件、
八月廿日/氏輝書判/孕石郷左衛門殿
戦国遺文今川氏編0533「今川氏輝感状写」(土佐国蠧簡集残編七)