2017/04/20(木)岩付落城を巡るあれこれ

1590(天正18)年5月27日。岩付城が陥落したことを、長谷川秀一・池田輝政・細川忠興が北条氏直に報告し、拘置している氏政妹(長林院殿)と氏房室(小少将)の身柄と、討死した将の首級について打診をしている。但し、6月24日段階の小少将書状では「岩付三ノ丸」「はし番にて」と書かれており、1か月近く経っても岩付城内で軟禁されていたことが判る。また、落城の契機について「本丸から坊主が出てきて兵士が全滅したというので接収した」と羽柴被官が言っているのに対して、小少将は「年寄(物頭か?)の才覚で本丸と二の丸を明け渡して三の丸にいる」と書いている。後者だと三の丸の武装解除は行なわれていないような書き方になっている。

何となく、羽柴方による情報操作が窺える。一方で後北条方の反応もよく判らなくて、籠城中の金銭貸し借りは無効とする徳政令を氏房が出している。日付は小少将の降伏勧告の翌日で、反応が鈍い後北条方に業を煮やして、閉じ込めた小少将に書状を書かせた可能性がある。


羽柴氏被官(長谷川・池田・細川)が、北条氏直に岩付陥落を知らせる。

取り急ぎ申します。さて関八州の諸城のこと、攻め殺すべしとのことで、上杉景勝・前田利家・木村重茲・浅野長政・山崎方家・岡本良勝と、徳川家康配下の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉、以上で5万騎が派遣されましたところ、それぞれの城の命は助ける方針だとこれらの衆が申し上げたところ、数に入らないような城は追求すべきではないからと、助命をお認めになりましたので接収しました。ということで残る岩付・鉢形・八王子・忍・津久井の5城については、降参が遅れたことから、対応に乗り出して詳細を調べたところ、武蔵の岩付が5城の中で最も要害堅固だと案内者が申しましたので、では良い城から先に攻めるように仰せ出しになられ、そこで木村重茲・浅野長政・山崎方家・平岩親吉の面々が総勢2万余で持ち場を決めて20日から攻撃し、すぐに町まで乗り崩し悉く首を刎ねました。息をも継がず端城へ攻め入りました。数回反撃があったものの「とても適わない」とのことで本丸より坊主を出してきました。「戦える者はもう全員戦死していて、城の中に残っているのは町人・百姓・女性以外はいませんから、命はお助け下さい」と申しました。助命のために攻撃陣営から検使を出して、命を助けて城を受け取りました。百姓・町人のほかに年寄と子供が2~3人混じっていて、更に氏政妹とその娘(氏房妻)がいました。その対処について上申したところ「名のある武士の妻女なのだから恥辱を与えてはならない」との仰せ出しだったので、端城へ出して、その他の隠れていた者たちと一緒に鹿垣を結い回した中に保護しました。その後で年長者(氏政妹と娘か?)が言うには「命を助けてもらっても生き甲斐がありませんから、せめて小田原に入れていただき、氏房と一緒に腹を切りたい」と言っているのをお聞きになって、義理を弁えている人ですから哀れにお思いになり、そちらの城中へ送るように仰せになりました。ですから、数日中にその者が到着するので必ずこの口から送ります。次に、この親子のことは、不憫に思われて、女のことだからということで、お詫び言を申し上げるために呼ばれました。これについては、幸い石巻康敬が助命されていますから、岩付へ遣わし彼女らを送らせました。とりわけ岩付城で討ち取った首級が今到着しましたので、この口に掛けて置きまますのでご諒解下さい。その中で引き取りたい者がいれば、人を出して望むままにお持ち下さい。そうであれば、互いに射撃をやめて首を掛けたいと思います。ご同意いただけないのであれば、夜間に掛ければよいでしょうか。ご連絡をお待ちします。次に、残された1か所の城のこと。鉢形城は上杉景勝・前田利家の両人が担当して包囲しています。忍・八王子・津久井についても、それぞれで担当を決めて、急いで決着をつけられるかも知れません。

急度令申候、仍八州諸城事、為可被責殺、越後宰相中将、加賀宰相、木村常陸介、浅野弾正少弼、山崎志摩守、岡本下野守、家康内本多中務少輔・鳥居彦右衛門尉・平岩七之助、以上五万余騎被差遣候処ニ、城ゝ命を被助候様ニと、右衆中江申ニ付而、其旨言上仕候へハ、数ならさるものゝ儀ハ、不入事候間、可助由被仰出候付、城ゝ請取候、然者残る岩付・鉢形・八王寺・忍・付井此五ケ所之儀、降参遅ゝ故、為被加御許戮、城の可然、を被成御尋候処ニ、右五ケ所之内にてハ、武蔵国岩付城要害堅固之由、案内者共申上候、然者よき城より先可責崩由被仰出、則木村常陸・浅野弾正・山崎志摩・平岩七之助、此面ゝ都合以二万余、責口分相究、去廿日押懸、即時ニ町まて乗崩、悉刎首、息を不続、端城責入候、数度之戦雖有之、不叶ニ付て、本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後、百姓・町人以下之年寄・子共二三人打交り、并氏政妹、其息女、十郎妻女在之条、如何可仕哉之旨、従彼面得御意候処ニ、名も有者の妻子ニ候間、当座之恥辱を不與様ニ可仕旨、被仰出候ニ付、端城江出し、其外かくれ居候者ともさかし出、一所ニ鹿垣をゆひ廻、追入被作置候、就其後長敷者申様、此上にてハ、命を御助候ても、生甲斐無之候条、迚事ニ小田原へ入、十郎與一所ニ腹を切度と申候を被聞召付、義理を存知たる者ニ候条、哀ニ被思召候、其城中江遣候へと被仰出候間、定而五三日中ニ、彼者可令参着候条、必此口より可送遣候、次おやこの女房衆之儀、不便ニも被思候て、女之儀候条、為差御詫言申上可遣候、於然者、幸石巻下野守最前命を助被遣たるものゝ儀候間、迎ニ被遣候ハゝ、岩付江遣、右女房衆ニ引合、可送候、就中於岩付城討残候首共、只今持来候間、此口ニ可掛置旨、御意候、其内ニ可被取蔵も候ハゝ、人を出し、所望次第可被取入候、さ候ハゝ、互ニ鉄炮を打留候て、程を可掛候、但於無同心者、夜陰ニ可懸置候歟、御報ニ可承候、次相残一ケ所之城之儀、鉢形城ハ、羽柴越後宰相中将・羽柴加賀宰相両人ニ被仰付、被取巻候、忍・八王寺・付井之儀も、手宛ゝゝ何茂被仰付候、急度可為一着歟、恐ゝ謹言、
五月廿七日/羽柴東郷侍従秀一判・羽柴岐阜侍従輝政判・羽柴丹後少将ー―判/北条左京大夫殿御宿所
小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

小少将(北条氏房室ヵ)が某(北条氏房ヵ)に降伏勧告を行なう

一筆送ります。そちらでの日夜のお気遣い、軽くはないだろうと思います。それで、この地のことですが、夥しい数の上方勢がやってきて危うい状況だと思い、どんな辛い目に遭うだろうと考えていたところ、年寄たちの機転で本丸・二の丸も渡して、自分たちは三の丸に押し込められています。とりあえずはご安心下さい。とはいえまだまだ危ないことで(欠落)、あなたは急いで秀吉将軍へお味方なさいますように。そうでなければ、大変な攻撃をされて、その後は重い罪に問われるでしょう。事の習いとはいえ痛ましいことだと思ってしまいます。もしも、哀れにも思っていただき、義理とやらの筋さえ、違えることもなくいらっしゃるならば、良いようにお計らいいただき、こちらの父母妻子などをお助けなさいますように、宜しくお願いします。詳しくは葛原が申しますから、筆を留めます。

一筆参せ候、そこほと日夜の御きつかひ、かろからぬ御事にこそとそんし参せ候、左候得ハ、此地の御事おひたゝしき上勢むかひ来てあやうく見え、いかなるうき目にもあひなんやといふかしく存候処ニ、としより共さいかくにて本丸・二之丸も相渡、みつからなとハ三之丸におしこめられある事候、まつゝゝ御こゝろやすくおほされ候得、されともいまたやすからぬ御事■■■そもしさたいそき秀よし将くんへ御見かたなされ候得、左もあらぬほとならは、ことゝゝしきせめにあわせ候て、其後ハおもきつミにおしつめ侍らんとの事也けれは、ことのならいいたミ入存まいらせ候、もしあハれにもおほされ候て、義理と哉らんのすちさへ、たかふ事なくおハしまさは、よきにはからひ結ふてこゝもとの父母さいしなと御たすけなされよろしく候ハんや、くわしく葛原申上候ハんまゝ筆をとゝめまいらせ候、目出度かしく、
六月廿四日/岩付三ノ丸小少将はし番にて/人ゝ御中
戦国遺文後北条氏編3752「小少将書状写」(秋田藩家蔵文書三十一)

北条氏房、内田兵部に籠城に伴う徳政実施を伝える

今度の籠城について、頼母子講・借金は徳政とすることを申し上げている。もっともで異議はないとのこ仰せ出しである。

今度籠城付而、たのもし并借銭徳政之事申上候、尤無異儀被仰出者也、仍如件、
天正十八年庚寅六月廿五日/(朱印影「心簡剛」)/内田兵部殿
埼玉県史料叢書12_0935「北条氏房朱印状」(屋代典憲氏所蔵古文書写)

2017/04/20(木)次郎直虎出現の背景 井伊谷徳政を巡るゴタゴタ

井伊谷徳政を巡る文書8通を、戦国遺文今川氏編からデータ化。現代語に置き換えたものは、素人が手掛けた暫定のものなので、不明点があればご指摘下さい。

◆永禄10年6月30日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政推進の状況を伝える

彼一儀種々越後殿へ申候、先年御判形のすちめにて候間、御切紙御越候ともくるしからす候へ共、我等共御奉行まへにてさいきよニむすひ候て、御ひらうなきまへニいかゝのよしおほせ候、又二郎殿のまへをなにとかとおほしめし候やうに候間、小但へ申候而、次郎殿御存分しかときゝとゝけ候て、早々被仰付候而尤之由、次郎殿より関越ヘ被仰候様ニ、小但へ可被申候、我等方よりも小但へ其由申候、たとへ次郎殿より御状御越候ハす候共、小但より安助兵まて尤之由被仰候と、御切紙とりこされへく候、二郎殿もそれにて関越へ可申候、小但へ能々談合候へく候、恐々謹言、
六月卅日/匂左直興(花押)/祝田禰宜、「上書:自駿府 匂左近まいる ほう田の禰宜とのへ」
戦国遺文今川氏編2134「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 あの一件を色々と越後殿(関口氏経)へ申しました。先年御判形で決まったことですから、御切紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行のもとで裁許を受けて、御披露する前に何を仰せなのか、また、次郎殿ことを何かとお心がけになるなら、小野但馬守へ申して、次郎殿ご存分を確実に聞き届けて、早々にご指示なさるのがもっともです。次郎殿から関口氏経へお伝えになるよう、小野但馬守へ申されますように。私の方からも小野但馬守へそのことを申します。たとえ次郎殿より関口氏経へご連絡がなかったとしても、小野但馬守より『安助兵』(安西)まで「もっともである」との御切紙をお送りになるように。次郎殿もそれを使って関口氏経へ申し上げますように。小野但馬守へよくよく相談なさいますように。

◆永禄10年10月13日 今川氏真、瀬戸方久に、買い取った土地の保証をする

於遠州井伊谷之内永代買之事。一、居屋敷壱所之事[本銭五貫文也、次郎法師有印判]、坂田入道前[伹是者助六郎買得云々、一、田畠弐段事[本銭四貫文也]、須部彦二郎前、一、都田瀬戸各半名事[本銭参拾貫文也、信濃守有袖判]、袴田対馬入道前、已上、右、何茂永代買得証文明鏡之条、縦彼売主等、以如何様之忠節雖企訴訟、一切不可許容、於子孫永不可有相違、信濃守代々令忠節之旨申之条、向後弥可勤奉公者也、仍如件、
永禄十丁卯年十月十三日/上総介(花押)/瀬戸宝久
戦国遺文今川氏編2150「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 一、住んでいる屋敷1箇所のこと(本銭5貫文。次郎法師の印あり)。坂田入道の前(ただしこれは助六郎が買い取ったという)。一、田畑2段のこと(本銭4貫文)。須部彦次郎の前。一、都田・瀬戸それぞれ半名のこと(本銭30貫文。信濃守の印あり)。袴田対馬入道の前。以上。右は何れも永代で買い取った証文がはっきりしていますから、たとえ売主などがどのような忠節をなして、訴訟を企てたとしても、一切許容しない。子孫に至るまで相違があってはならない。信濃守の代々忠節のことを言ってきたので、今後はますます奉公を勤めるように。

◆永禄10年12月28日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政が認可されるとの状況を伝える

月はくニ候而無御披露候ゆへ、当年相澄候ハす候而、此方ニ而越年候、さりなからかわる儀候ハぬ間、可有御心易候、就中、彼儀も御そうしや少も御隙なく候而、相とゝのわす候、はるハ早々相調可申候間、我等ニまかせられへく候、小但と此方ニ而談合申候、可有御心易候、何も此分御心得候へく候、よくゝゝそなたにて御おんみつニ候へく候、恐々謹言、
十二月廿八日/匂左近直興(花押)/祝田禰宜殿まいる、「上書:自駿府 匂左近 祝田禰宜殿まいる」
戦国遺文今川氏編2160「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 年末でご披露がないので、当年では済まず、こちらで年を越します。とはいえ変わることはありませんので、ご安心くださいますように。とりわけ、あのことは仲介者に少しの隙もなくて調整できませんでした。新春は早々に調整していきますので、私にお任せ下さいますよう。小野但馬守とこちらで打ち合わせました。ご安心下さい。どれもこの調子で行けばご承認いただけるでしょう。くれぐれもあなたは内密になさいますように。

◆永禄11年8月3日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政執行に当たり礼物を出すことを要求する

徳政之事すまし候て、関越より御状井次ヘ一つ、家中衆へ一つ遣之候、先以御心易候、都田のも一つ取候、祝田・都田両郷之事ハ、何も惣次■■へく候、小但へ委細申候間、小但を能々被頼入候て、軈而井次より被仰付候様ニ尤候、此上者誰人も異儀被申間敷候、一ちんせんの事ハ銭主申やう有間敷候、我等主ニなり候て、御城の用意ニてつはうなり共たまくすりなり共、一かたかい候て御城ニ置候ハんよし、此方ニ而関越へも安助へも申定候、殊ニ二三年銭主方なんしう申候而、田畠渡候ハぬ上者、とかく申やう有ましく候由、小但へも申入候、能々小但ニ談合尤候、一御礼物之事、関越へ五貫文、安助へ三貫文ニ約束申候而、我等此方ニ而一筆を仕候、今度便ニ我等かたへ二三人より御礼物の借状可給候、大事の事ニ候間申事候、一都田の衆ハ礼物ハ別ニ可有候、借銭之多少ニよつて可有之候、此由瀬戸衆・都田衆へ内々にて可被申候、十郎兵ニも申候、此年来御百姓衆よりも我等口惜存候つるか本望候、百姓衆ハ我等せいニ入候事ハ■■[さほ]とハ御存有間敷候、一安助其地へ御越之事候間、今度徳政御きも入忝候とて、永楽二十疋の御樽代にて先々御礼申候て尤候、さやうニ候ハねハ百姓ハさのミそセう候ハぬに、我等きも入候なとゝ御そうしやも可被存候、たとへ銭主方此上 御上意へ御そせう申候共、何時も安助頼入候而可申入申候、今度先々御樽代にて出候て尤候、当所務被仕候て、やかて関越・安助御礼物之事ハとゝのい候やうに、かくこかんようにて候、其まへニさへ少ハ調度候、千ニ一つも銭主方 上様へ御訴訟申候共、あいてにハ此上ハ次郎殿にて可有候間、申やう有間敷候、殊ニ我等あいてにてい■■御心易可有候、又我等やとへ代物少の調候て御渡頼入候、すへのかんちやうニたて申へく候、長々在府之事候間、御すいりやう候へく候、や■へ用の事申越候間、まちまへニすこしなり共御わ■し頼入候、やとへも申こし候、返々本望候、恐々謹言、我等かたより岡殿井河へも申候、又其地さうせつのよし候間、とりしつめ候て被仰付候やうに、小但へ可被申候、
八月三日/匂左直興(花押)/禰宜殿参、「上書:自駿府 匂左近 祝田禰宜殿まいる」
戦国遺文今川氏編2181「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 徳政のことを済ませまして、関口氏経からのお手紙を井伊次郎へ1つ、家臣たちへ1つ出しましたので、まずはご安心下さい。都田にも1つ取りました。祝田・都田の両郷のことは、どちらも惣次で行なうように、小野但馬守へ詳細を申しましたので、小野但馬守をよくよく頼み込んで、すぐに井伊次郎より指示を出されるのがもっともなことです。この上は、誰であっても異議を唱えることはなりません。一、陣銭のことは、銭主が介入するのはなりません。私が主となってお城の備えとして鉄砲なり弾薬なりを一通り購入して城内に備蓄すると、関口氏経にも『安西』にも報告しています。特に2~3年は銭主が難渋すると言って来ても、田畑を渡さない上は、何も言わせませぬよう、小野但馬守にも伝えています。よくよく小野但馬守と相談するのがもっともです。一、ご礼物のこと。関口氏経へ5貫文、『安西』へ3貫文の約束で、私がこちらで一筆いたしました。今度の手紙で私の方に2~3人からご礼物の借状をいただくように。大事なことだから申します。一、都田衆の礼物は別にあるように。借銭の多少によって用意するよう。このことは瀬戸衆・都田衆に内々で伝えますように。十郎兵にも伝えて下さい。この年来、御百姓衆よりも私が悔しく思っていたので本望です。百姓衆は私が努力したことはそれほどご存知ないでしょう。一、『安助』がその地へお越しになりますので、「今度の徳政を援助いただいてありがたい」として、永楽20疋の御樽代でまずはお礼を申し上げるのがごもっともです。そのように言わなければ、百姓はそれほど訴訟していないだろうから、私が助力するまでもないと御奏者がお考えになるでしょう。たとえ銭主の方でこの上にも御上意を得ようと御訴訟したとしても、いつでも『安助』を頼んでおけばよいので、今度はまず御樽代を出すのがもっともなのです。この所務を取り回して、すぐに関口氏経・『安助』への御礼物のことが調うように覚悟が肝心です。その前であっても少しは調えたく。千に一つでも、銭主から上様へ御訴訟があったとしても、相手にはこうなったら次郎殿がいるでしょうから、訴状は上がらないでしょう。特に私が相手になりますから、ご安心下さい。また、私の宿所へ物品を少し用意してお渡し下さるようお願いします。細かい勘定に用立てます。長々駿府にいましたので、ご推察下さいますよう。宿所へ用事をご連絡されるかもしれないので、町前に少しでもお渡しいただけるようお願いします。宿所にも伝えてあります。返す返す、本望です。 私から『岡殿井河』へも伝えます。また、その地で不穏な噂があるそうなので、取り静めて報告するように小野但馬守にお伝え下さい。

◆永禄11年8月4日 関口氏経、井伊次郎法師に、徳政の執行を命ず

其谷徳政事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中・都田上下給人衆中、于今徳政沙汰無之候間、本百性只今許詔申候条、任 御判形旨可被申付候、寅年被仰付候処ニ、銭主方令難渋、于今無其沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申入候、恐々謹言、
八月四日/関越氏経(花押)/井次参
戦国遺文今川氏編2183「関口氏経書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中と都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。

◆永禄11年8月4日 関口氏経、井伊氏一門・被官に、徳政の執行を命ず

其谷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中并都田上下給人衆之中、于今徳政沙汰無之間、本百性只今許詔申候条、任 御判形之旨ニ可被申付候、寅年被仰付候処、銭主方令難渋、于今無沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申候、恐々謹言、尚以、各々無沙汰無之様ニ可被申付候、以上、
八月四日/関越氏経/伊井谷親類衆・被官衆中
戦国遺文今川氏編2184「関口氏経書状写」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中ならびに都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。追記:さらにもって、各々が無沙汰にならぬようにご指示下さい。以上。

◆永禄11年9月14日 今川氏真、瀬戸方久に、井伊谷で買い取った土地を保証する

於井伊谷所々買徳地之事。一、上都田只尾半名、一、下都田十郎兵衛半分、永地也、一、赤佐次郎左衛門名五分二、一、九郎右衛門名、一、祝田十郎名、一、同又三郎名三ケ一分、一、右近左近名、一、左近七半分、一、禰宜敷銭地、瀬戸平右衛門名、已上、右、去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職同永地、任証文永不可有相違、然者今度新城取立之条、於根小屋蔵取立商買諸役可令免許者也、仍如件、
永禄十一戊辰年九月十四日/上総介(花押)/瀬戸方久
戦国遺文今川氏編2188「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 井伊谷において買い取った土地のこと。一、上都田の只尾半名。一、下都田の十郎兵衛半分(これは永地である)。一、赤佐次郎左衛門名の五分の二。一、九郎右衛門名。一、祝田十郎名、一、同又三郎名3分の1。一、右近左近名、一左近七の半分。一、禰宜の敷銭地、瀬戸平右衛門名。以上。右は去る丙寅年に谷全体で徳政のことで訴訟があったとはいえ、方久が買い取った分は次郎法師と家老の誓紙、井伊主水佑の一筆で明瞭であるから、今まで買い取った名職・永地は、証文の通りに末永く相違がないように。ということでこの度新城を築造しているので、根小屋・蔵の建設を負担するので商売の税は免除する。

◆永禄11年11月9日 関口氏経・次郎直虎、祝田禰宜・百姓に、徳政の実効を保証する

祝田郷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、銭主方令難渋、于今就無落着、本百性令許詔之条、任先 御判形旨許詔、不可許容者也、仍如件、
永禄十一辰十一月九日/関口氏経(花押)・次郎直虎(花押)/祝田郷禰宜其外百姓等
戦国遺文今川氏編2193「井伊直虎・関口氏経連署状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 祝田郷の徳政のこと。去る寅年に御判形によってご命令になったとはいえ、銭主が抗議して今も落着しない。本百姓が訴訟してきたので、先の御判形のとおりに許容しない。