2018/11/22(木)戦国期の「取出」の使われ方

「取出=とりで」

戦闘用の拠点で城よりも軽微なものを「とりで=砦」と呼称するのが一般的だと思うが、戦国期の史料を見ていくと「砦」の字は使われていない。「取り出す」という動詞と同じ字を書く「取出」が専ら用いられている。

この用法を、手元にある史料から分類してみた。

その用例

「取出」は46例がある。このうち、動詞「取り出す」と考えられるのは多く見積もって6例。厳密に考えると3例しかない。

名詞としての形態を細別すると、他の名詞と結合して使われるのが最も多い。結合する名詞は、固有名詞がやや多い。「取出を~する」という、「取出」単体に動詞が接続したものは、構築と守備が一体となったような文脈で用いられ、城を攻める簡易拠点という色合いが強い。

名詞と連なって1語を成す 23

固有名詞に連結 13

  • 医王山取出割
  • 田原取出城
  • 在于大野取出昼夜相働条
  • 於嶋田取出城
  • 今度大野取出之儀、就申付
  • 市野取出江乗入端城押破時
  • 井口近所取出城所々申付候
  • 至信州堺目、御取出可被仰付旨候
  • 大野之御取出ニおゐて走廻候
  • 然而多賀谷取出之義、以絵図承候
  • 大河取出江相働
  • 今度金屋取出之刻、敵相動
  • 上州沼田之城取出、窪田之城責候時

一般名詞に連結 10

  • 取出普請出来之上
  • 当社中陣取并取出事
  • 殊敵取出江節々被懸被及一戦之段
  • 取出之儀申上候
  • 甲州之是非与覚悟候間、只今取出なと之儀者、一切不覚悟候
  • 去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火
  • 其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候
  • 但只今取出城等、如此中可相拘
  • たゝ居城之取出を丈夫に構
  • 至其表出馬、取出等今二三ヶ所丈夫可申付候

名詞として、動詞に接続する 17

「致」に接続 4

  • 然者向房総取出被致之、春以来彼口被押詰候条、両国本意不可有程候
  • 鱸兵庫助小渡依致取出、為普請合力岩村衆并広瀬右衛門大夫令出陣
  • 今度東條津平仁致取出
  • 今度戸田主水助別心、松平蔵人相動、所々致取出之処、被官人稲垣平右衛門尉馳走之由、喜悦候

「築」に接続 4

  • 向懸川取出之地二ケ所被築
  • 此節懸川近辺ニ弥被築取出之地利
  • 因茲向于懸川数ヶ所築取出之地候故
  • 就之自厩橋向于河西、築取出之由候、然則無二出馬、遂一戦

「仕」に接続 2

  • 当城取懸、城中不成候者取出重而仕、麦を可苅取之由候
  • 今度其方在所役引入、一身以覚悟取出罷仕候間

「出来」に接続 1

  • 向深谷・羽生之取出出来之由肝要候

「成」に接続 6

  • 今度於小牧取出被成候儀、祝着候
  • 向寺部可<成>取出之旨領掌訖(<成>を脱落と見なす。理由は後述)
  • 既以自面兵粮其外過分失墜成取出之条
  • 今度<成>取出為粉骨之条(<成>を脱落と見なす。理由は後述)
  • 今度成取出走廻之間
  • 殊今度之<成>取出(<成>を脱落と見なす。理由は後述)

動詞として扱われた例 6

動詞確定 3

  • 然而為後巻、越前・浅井衆都合三万ニ可及候歟、去月廿八日巳時取出候、当手人数同刻備合、遂一戦両口共切崩、得大利候
  • 仍其面敵取出候処ニ、即時覃一戦
  • 人馬之糞水、毎日城外へ取出

動詞の可能性が高い 3

  • 曲輪も又被為取出
  • 毎日雖動懸儀大切所、更不取出候条、輝虎改陣所
  • 其後宇都名へ取出

今川義元判物写に見る「とりで=取出」の用法

今川義元は、実に5箇所も「取出」が出てくる文書を残している。この例は一見難解なので、解釈手順を書き出してみようと思う。

原文

(A)一、向寺部可取出之旨領掌訖、然者寺部城領半分令扶助間、山林野河共半分内者可令支配之、縦敵味方内雖有買得之地、不可及其沙汰事
一、来年末三月中迄彼城無落居相支、其上以惣人数雖攻落之、(B)既以自面兵粮其外過分失墜成取出之条、寺部分限員数内参ヶ壱可令扶助之、但三月以後茂長能以計策彼城就令落居者、右ニ如相定半分儀不可有相違事
一、広瀬領償之儀一円可申付、但年来伊保梅坪表江令扶助分者可除之、雖然今度寺部逆心之刻、改申付償之事者、一円長能可相計之事
一、鱸日向守并親類被官不可及赦免、伯彼者以忠節知行就令還附者、(C)今度取出為粉骨之条、其褒美之儀者一廉可申付
一、於野田郷令扶助弐百五十貫文之分、雖有参州惣次之引、(D)今度成取出走廻之間、不準間余不可有其引事
右、吉田并田原以来前々走廻、(E)殊今度之取出、以一身覚悟、矢楯兵粮以下迄自面之失墜令奉公之条、甚為忠節之間、相定条々不可有相違、本知新知共自然可有増分之旨有訴人就申出者、為先訴人相改可所務、然者寺部知行案堵之上、相止番手如年来之以自力可在城于岡崎之旨、神妙之至也、此旨永不可在相違之状如件、
弘治四戊午二月廿六日/治部大輔判/匂坂六右衛門尉殿

  • 戦国遺文今川氏編1383「今川義元判物写」(大阪府立中之島図書館所蔵今川一族向坂家譜)

「成」の脱落を推測

原文のままで読むとAは明らかに動詞、CとDも動詞に近いように見える。しかし、この文章での「取出」が、匂坂長能による寺部城攻めの拠点構築で一貫していることから、BとDで使われている「成」が脱落した、もしくは省略されたものと考えた方が文の通りがよい。このことから、下記5例は「成+取出」と解釈した。

  • A:向寺部可<成>取出之旨領掌訖
  • B:既以自面兵粮其外過分失墜成取出之条
  • C:今度<成>取出為粉骨之条
  • D:今度成取出走廻之間
  • E:殊今度之<成>取出

読み下し

太字となっている「取出」記述部分は「成」の脱落を想定せずに強引に読んでいる。どうしても不自然な文面になることが判る。

  1. 一、寺部に向かい取り出すべくの旨領掌しおわんぬ、しかれば寺部城領の半分扶助せしめあいだ、山林・野・河とも半分の内はこれを支配せしむべし、たとえ敵・味方の内に買得の地があるといえども、その沙汰事に及ぶべからず。

  2. 一、来年末、三月中までにかの城落居なくあい支え、その上で惣人数をもってこれを攻め落とすといえども、すでに自面の兵粮・そのほか過分の失墜をもって取出を成すの条、寺部分限の員数のうち参ヶ壱、これを扶助せしむべし、ただし三月以後も長能が計策をもってかの城を落居せしむについては、右にあい定めしごとく半分儀は相違あるべからざること。

  3. 一、広瀬領償いの儀、一円申しつくべし、ただし、年来、伊保・梅坪おもてへ扶助せしむる分はこれを除くべし、しかりといえども、今度、寺部が逆心のきざみ、改めて申しつけし償のことは、一円、長能あい計るべきのこと。

  4. 一、鱸日向守ならびに親類・被官は赦免におよぶべからず、ただしかの者が忠節をもって知行を還附せしむるについては、今度取出、粉骨を為すの条、その褒美の儀は一廉に申しつくべし。

  5. 一、野田郷において扶助せしむる弐百五十貫文の分、参州惣次の引きがあるといえども、今度、取出を成し走り廻りのあいだ、自余に準ぜず、その引きあるべからざること。

  6. 右、吉田ならびに田原以来、前々の走り廻り、ことに今度の取出、一身の覚悟をもって、矢・楯・兵粮以下まで自面の失墜、奉公せしむるの条、はなはだしき忠節をなすのあいだ、あい定めし条々、相違あるべからず、本知・新知とも、自然、増分の旨あるべく、訴人ありての申し出しについては、まず訴人をなしあい改めて所務すべし、しかれば寺部の知行案堵の上、番手をあい止め、年来のごとく自力をもって岡崎に在城すべきの旨、神妙の至りなり、この旨、永く相違あるべからずの状、件のごとし、

2018/10/13(土)羽柴秀吉の宣戦布告状一覧

豊臣秀吉文書集2766「羽柴秀吉条々」(個人蔵『秀吉の宣戦布告状』)

(欠落ヵ)北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上者、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰候之間、家々郎従差越候へと被仰出候処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候ハゝ、即被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上者、右一札相任、即可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此註進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、忘信長公之厚恩、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対 帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆 勅命輩、早不可不加誅罰、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2767「羽柴秀吉条々」(大坂青山短期大学)

条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数被仰出候へハ、御請申付候て被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰候之間、家々郎従差越候へと被仰出候処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候ハゝ、即被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕旨、御請一札進上候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2768「羽柴秀吉条々」(真田家文書)

条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処仁、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様仁申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付之間、家々郎従差越候へと被仰出候処ニ、江雪差上畢、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国者則家康被申付候、上野沼田儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上候歟と被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ在之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条可出仕との一札出候ハゝ、則被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕旨、御請一札進上候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜ハに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名を知らる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処ニ氏直背天道之正理、対 帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆 勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2769「羽柴秀吉条々」(伊達家文書)

条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、即美濃守罷上御礼申上事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候之間、美濃守被成御対面上者、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付間、家々郎従指越候へと被仰出之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾之儀如何と御尋候之処、其意趣者、甲斐・信濃中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上歟与被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野之中、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付之条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、自家康真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候者、即被指遣御上使、沼田可被相渡与被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、■請一札進上之候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上者、右相任一札、即可罷上と被思食之処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野ニ捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而自中比蒙君恩、人に名をしらる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、 天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2770「羽柴秀吉条々」(早稲田大学図書館・毛利家旧蔵文書)

条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、堺目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付候之間、家々郎従差越候へと被仰出候之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国者則家康被申付候、上野沼田儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思召、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城ハ真田可相拘由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地ハ、家康より真田ニ可相渡旨被成御極、北条上洛可仕との一札出候者、則被差遣御上使、沼田可相渡与被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思食候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此註進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治訖、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、 天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2771「羽柴秀吉条々」(言継卿記)

条々
一、北条事、近年蔑公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉之条、不及是非、而去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏之様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付候之間、家之郎従差越候へと被仰出之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処ニ、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国ハ則家康被申付候、上野沼田儀ハ北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田城仁相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地ハ、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出之、則被差遣下御上使、沼田可被相渡旨被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被罷下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右之一札ニ相任、則可罷上と被思食候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕上ハ、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜ハにいね、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治了、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧詐不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/御朱印/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2765「羽柴秀吉条々」(皇室の至宝東山御文庫御物四)要検討

条々
一、氏直事、近年蔑 公儀、不能上洛、於関東任雅意狼藉条、不及是非次第也、然間去年可加御誅伐之処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数申出候き、其旨就申御請令赦免、則叔父美濃守罷上令対面事
一、先年家康被相定条数、家康表裏之様申上之間、美濃守見参之上者、境目等之儀聞合、有様可被仰付之間、家々郎従可上置之由申下之処、江雪上之畢、家康与北条国割領知約諾之趣相尋云々、甲斐・信濃内城々ハ家康手柄次第可被申付之、上野内ハ氏直可為進止之由相定之、即甲信両国ハ家康任存分、上野沼田之儀ハ氏直不及自力、却而家康相違之様申成候、寄事於左右、出仕迷惑之旨言上かと思食、於其儀者沼田城可被渡下、但上野内、真田持来知行三分二沼田城相付之、氏直ニ可被下、三分一ハ真田ニ被仰付之条、其中ニ有之城ハ真田ニ可相拘之由被仰定、右北条ニ被下三分二之替地ハ、家康より真田ニ可被渡之旨相究、北条可上洛之一札出之者、則差下上使、沼田城可渡之旨被仰含、江雪返下事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、因茲津田隼人正・富田左近将監差下、沼田城渡遣事
一、沼田要害請取之旨、右一札ニ相任、即可罷上と思食之処、差上使者、、結句真田相拘那具留見城将計取之条、彼使者不能対面、既雖可覃傷害、助命追下事
一、秀吉若年之時、孤となり信長公の属幕下、砕骨山野、捨身海岸、干戈を枕とし、軍忠を竭し戦功を励す、中ころより別而君恩を蒙り、人ニ名をしらる、仍先年西国征罰之儀被仰付、対大敵争雌雄之刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、聞此注進、敵陣弥相固任存分、不移時日馳上、斬逆徒光秀之頸梟獄門、勿報恩恵、其後柴田修理亮勝頼、忘信長公之厚恩、乱国家叛逆之条、是亦令退治畢、此外諸国叛ハ退之、降ハ脱之、無不属指麾者、就中秀吉不可有一言之表裡、以此故相叶天命に、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之官、関万機政、氏直事背天道之正理、向帝都企奸謀、逆心蓋蒙天罰哉、古諺云、巧詐不如拙誠、所詮普天下逆勅命之輩、不可不加刑罰、来歳必携節旄令進発、可刎氏直之首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

2018/06/06(水)会津へ急ぐ秀吉

1590(天正18)年、7月に至って北条氏直が脱走し勝敗が決したとき、羽柴秀吉は会津への進軍を本格化させる。その前から道路工事などは行なっていたが、やはり冬の到来前に決着をつけたかったのだろう。

態令啓上候、其表如何之被仰付候哉、方々御苦労令推量候、切々以書状共、御見廻可申上処、御普請彼是不得隙故、令迷惑候、随而にら山相渡申付而、昨日にら山の御人数悉此表へ被相越候、然者八王寺之御人数も、此表へ可被参之旨、被仰遣候、筑前殿、越前衆、 中納言様御陣所被遣候、 中納言様ハ御本陣へ可被成御移之旨候、景勝、にら山衆半分、家康御陣所へ被遣、家康ハ江戸へ御越之由候、 上様も十五六日比ニ其元へ 被成御座、其より会津へ可被成御動座之旨、被仰出候、次ニ小田原種々御侘言申上、命御たすけ被成候様ニと上野殿御手前へ申候付而、三松様右之通被仰上候へハ、以外 被成御腹立、三松様を御自国御はらひ被成候、けんにうをも同前ニ被仰出候、其外相替儀無御座候、猶以貴面相催儀、可得尊意候、恐惶謹言。猶切々以書状も不申入、迷惑仕候、其表之儀、無御由断可被仰事、専一候ゝゝ、又大夫さま先度之御手柄之様子、毎度被仰出候、拙子式迄満足此事候、
七月四日/可遊(花押)/宛所欠(上書:浅弾正様参人々御中 一柳右近可遊)

  • 埼玉県史料叢書12_0939「一柳可遊書状」(浅野家文書)

折り入って申し上げます。

その方面はどのようにご指示なさっているのでしょうか。色々な苦労があるかと思います。詳しく書状でお伝えするよりもそちらに回って申したいのですが、ご普請であれこれ暇がありませんので、困っています。

そして韮山が開城して、昨日韮山の部隊が全てこちらに来ました。更に八王子の部隊もここへ来させるようにとおの仰せを出しました。筑前殿、越前衆、中納言様のご陣所へ使いを出して、中納言様はご本陣へお移りになるようにとの仰せです。

景勝と韮山衆の半分は、家康のご陣所へ送られました。家康は江戸へ移動するように、とのことで、上様も15~16日頃にそこへ移ります。そこから会津へご動座なさるとのこと、仰せ出しになりました。

次に、小田原について色々と侘言を申し上げてきて、命をお助けなさいますようにと、上野殿の御前で申したことについて、三松様が右の通りに申し出ましたら、とてもお腹立ちになられ、三松様をご自国からご追放なさいました。『けんにうをも』同前に仰せ出しになられました。

そのほかは特に変わったことはありません。更には直接お会いしてお考えを得たいと思います。

さらに、詳しい書状もいただけておらず、困っています。そちら方面のこと、ご油断なさらぬようにご指示されるのが大切です。又大夫さまは先の合戦でお手柄之様子。いつもご活躍で、私にとっても、満足とはこのことです。