2021/05/29(土)天正元年の韮山城攻防戦

北条氏規と韮山合戦

北条氏規の書状を新たに見つけたので解釈・考察を試みる。

天正元年8月、駿河侵攻中の武田晴信に韮山城が攻撃されていた時のもので、岩田弥三という人物に韮山籠城の状況を伝えつつ、銃器の増援を要請している。

原文

急度注進申上候、今日者敵未明ニ当城へ取懸申候、かつ田も不致候、町場・和田島両口へ取寄申候キ、町場を致払候、我々自身懸合申江川はし前より押返申候、■■■山角物主ニ御座候、大藤涯分走廻候、然者和田島ハ伊奈四郎・小山田・武田左馬助此衆物主、両度対和田島致可払由候キ、涯分及坊戦押返、今日者為焼不申候、定而明日者惣手を以、可致候由存候、見合指引可申付候、乍去御心安可被思召候、随者今、午尾、遠山新四郎かせ者、敵へ走入申候、其後信玄はたもとしゆ十八町へ鑓を取候而、段々ニ被帰候間、十八町へてつほうを重堅固申付候、只今申被引退候、惣手之人数入申候、先日も申上候てつほう不足ニ御座候、はなしてハ御座候間、筒ハかり借可被下候、若十八町之■やく何共迷惑奉存候、有様ニ申上候旨、可預御披露候、恐惶謹言、
八月十日/助五郎氏規/岩田弥三殿
鉢形領内に遺された戦国史料集第三集p104「北条氏規書状写」(岩田家系録文書)

解釈

取り急ぎ報告します。今日は敵が未明に当城へ攻撃してきました。苅田もせず、町場・和田島の両口へ攻め寄せました。町場からの『払い』をするため、我々自身が応戦し、江川橋の前から押し返しました。山角が物主で、大藤がとても活躍しました。

そして和田島へは伊奈勝頼・小山田信茂・武田信豊が物主となり、二度にわたって和田島に対して『払い』を試みていたようですが、目一杯防戦して押し返し、今日は焼かせませんでした。

きっと明日は総攻撃をかけてくるだろうと思います。とはいえ、状況に応じた駆け引きを指示しますから、ご安心下さい。そしてこの午の下刻、遠山康英のかせ者が敵方へ逃げ込みました。その後、武田晴信旗本衆が鑓を取り、十八町へ徐々に帰っていきましたから、十八町へ鉄炮を追加配備するよう指示しました。

現状では敵が退いていますが、全ての兵力を入れてくれば、先日も申しましたように鉄炮が不足します。射撃手はいますので、銃身だけをお貸し下さい。十八町への供出といわれてもお困りでしょうが、ありのままを申し上げます。宜しくご披露下さい。

考察

各地名

伊豆の国市が公開している『韮山城「百年の計」』内の「第2章韮山城跡の調査・研究1韮山城跡の研究史(p21~)、2韮山城跡の発掘調査概要(p31~p50)」の6ページ目に詳しい。

稀出語

「致払」が固有語のように使われている。他例がないが、一定領域に対して敵軍を排除する意味合いだと思われる。

「走入」の解釈

引用元の戦国史料集では「突撃」と解釈しているが、他例の「走入」は戦場だと「敵に投降する」ことを指す。後北条は兵数が劣っていたため、「かせ者」(武家の付き人)が逃げ込んだのだろう。武田方がそれを受けて兵を引いたのは、かせ者から情報を得るためだと考えられる。

誰に伝えたものか

結句の「恐惶謹言」が厚礼であること、鉄炮供出を岩田弥三が「披露=具申」するように求めていることから、氏規は弥三を介して上位者に呼びかけたものと思われる。8月13日付の「大石芳綱書状」から、氏康・氏政は小田原、氏邦は鉢形にいることが確実なので、氏照かも知れない。8月21日に泉郷へ禁制を出している宗哲が最も可能性が高そう。同じ韮山城に入っている氏忠にこのような戦況を報告するとも思えないので、宗哲が三島に入っていたか。山角康定書状から、韮山城の軍勢が寄せ集めであることが判る。そう考えると、宗哲の下につけられた岩田弥三は氏邦から貸し出された人材だったかも知れない。

関連文書

1)北条氏政から北条高広に宛てた書状

原文

九日之註進状、今十二未刻、到来、越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候、於要害者、何も相違有間敷候、人衆無調、于今不打向、無念千万候、縦此上敵退散申候共、早ゝ輝虎有御越山、当方之備一途不預御意見者、更御入魂之意趣不可有之、外聞与云、実儀与云、於只今之御手成者、笑止千万候、能ゝ貴辺有御塩味、御馳走尤候、恐々謹言、
八月十二日/氏政(花押)/毛利丹後守殿
小田原市史資料編小田原北条0985「北条氏政書状」(尊経閣所蔵尊経閣文庫古文書纂三)

解釈

9日の報告書が今日12日未刻に到来しました。上杉輝虎への依頼で度々飛脚を出されているそうで、喜ばしいことです。

さて敵は、去年黄瀬川に陣取って、毎日韮山・興国寺へ動いています。韮山は今も外宿を堅固に維持し、要害はどこも相違ありません。兵数が準備できずに今は出撃できず無念千万です。

この上で敵がたとえ退散したとしても、輝虎が早々にご越山し、当方の備えを一途にご意見を預けないなら、さらに昵懇の意趣があってはなりません。外聞といい実儀といい、今のご所作は悔やまれてなりません。よくよくあなたもお考えになり、奔走するのがよいでしょう。

2)上記氏政書状への山角定勝添え状

原文

去九日之御状、十二参着、七日之御状、同前ニ為申聞候、御精ニ被入、切ゝ預御飛脚ニ候、祝着之由被申候、然者信玄至于今日、豆州にら山口日ゝ相動候、此時者、可被打置儀ニ無之候間、為可被遂一戦、人数悉被相集候、物主衆ハ何も懸被付候へ共、人数無調ニ候間、一両日相延、来十八九之間、必乗向可被致一戦候、勝利無疑候、敵ハ八千計ニ候、此方ニも、城ゝニ被籠置候へ共、自当地打立人数七八千可有之候、殊ニ地形可然所ニ候間、信玄可打取儀眼前ニ存候、にら山籠衆氏政舎弟助五郎并ニ六郎、其外清水・大藤・山中・蔵地・大屋三手ニ及楯籠候間、城内之儀者、可御心易候、去九日、町庭口と申所、にら山之城より、一里計外宿ニ候所ニ、山形三郎兵衛・小山田・伊奈四郎為物主、五六手寄来候所ニ、自城内人数を出相戦、敵十余人城内へ討捕候、彼地形一段切所ニ候間、敵手負無際限由申候、委氏照可申達候間、無其儀候、然ニ越御出馬御遅ゝ、不及是非候、急候間、早ゝ及御報候、恐ゝ謹言、
八月十二日/山四康定(花押)/毛丹御報
戦国遺文後北条氏編1435「山角康定書状」(尊経閣文庫所蔵文書)

解釈

去る9日の書状が12日に到着し、7日の書状も同じく伺いました。熱心にも、事あるごとに飛脚を送っていただき、祝着であるとのことです。

そして武田晴信は、今日になって伊豆国韮山に向かって毎日作戦しています。こうなると放置できないので、一戦を遂げるために軍勢を集められています。物主衆が全て駆けつけていますが、兵数が揃わずに一両日延期となり、18か19日に必ず乗り向かって一戦するでしょう。勝利は疑いありません。

敵は8千人ばかり。こちらでも城々に籠城させ、当地より出撃した兵数は7~8千になるでしょう。殊に地形が有利なので、晴信を討ち取るのは眼前だと思います。韮山に籠城しているのは、氏政舎弟の氏規と氏忠、そのほか清水・大藤・山中・倉地・大屋が三手に分かれて立て籠もっていますから、城内についてはご安心下さい。

9日に、町庭口という韮山城より1里ばかりの外宿に、山県昌景・小山田信茂・伊奈勝頼を物主として、5~6手が攻め寄せたところ、城内から兵を出して戦い、敵を十余人城内へ誘い込んで討ち取りました。その地形は一段と切所だったので、敵の負傷者は際限がなかったそうです。

詳しくは氏照がご報告しますので、省略します。しかるに、越後衆の御出馬が遅れられているのは、どうにもなりません。急いでいますから、早々にお知らせ下さい。

3)大石芳綱書状写

原文

今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人韮山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏、払、候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ、擬、見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、滝山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無体御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正体為体ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ韮山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為体ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無体と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中
神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)

解釈

今月10日、小田原へ到着した際に御書状などをお出ししたので、途中から申し上げます。

遠山康光は親子4人で韮山に在城しています。氏邦殿は鉢形におられ、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われたので、氏邦殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角康定・岩本定次の3人が御書状を受け取り翌日お返事なさいました。

互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか、または、氏邦殿に松田などの1人か2人を添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しました。

しかし、伊豆国に信玄が陣を張っていて手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。

そしてまた、御越山により厩橋にご出馬する前提で、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。もし長く証人となるなら、知行を与えようとのお考えもあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿へ見せようと山吉豊守が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得ありませんでした。

余りに理解がなかったので、ならば北条綱成の子を、どちらか1人倉内へ送ればどうか、または松田の子でもいいと申しましたが、これも納得ありませんでした。

ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人でも3人でも御陣下に置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人でも2人でも滝山か鉢形に置けばよいと、建前論で仰せられました。

ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。特に遠山左衛門尉は定まりません。気の毒なことです。

私はここに滞留しても一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われていますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。

信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。

私に帰るようにとご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々にお寄越し下されますように。

また、篠窪治部のことは、氏邦殿へ直接申していますが、一向に応答がありません。遠山康光から振り出された手形2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。

追伸:追加の御用は、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留して用事もありませんので、帰還するようご指示を。最終的には御前のお考えに従います。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。

4)北条宗哲禁制(泉郷=現在の清水町)

原文

禁制、泉郷右、当郷江罷越、作毛刈取事、堅令停止了、若押而於刈取者、即搦捕可申上者也、仍如件、
午八月廿一日/日付に(朱印「静意」)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1440「北条宗哲禁制」(泉郷文書)

解釈

禁制、泉郷右の郷にやってきて、農作物を刈り取ることは堅く停止させる。もし強引に刈り取る者がいれば、すぐに捕縛して申し出るように。

2019/12/08(日)データ化した史料一覧

1.コーパス

データ化した古文書・古記録。後北条・今川が中心。

現バージョンでは10,633件を収録。月日列は文字セルにするために「★」を先頭につけ、閏月を正月のうしろに付けるためにアンダーバーを付与している。また、年記載があるものはセルを青地に、写しではなく正文のものは文字を太字に、要検討のものは文字色を朱にした。

2.増訂織田信長文書の研究での、信長が貰った贈り物

織田信長の返礼状から、もらった物を列挙。

3.後北条氏所領役帳フルテキスト

後北条氏の被官知行が判る史料。数値は全て原文通りのため、簡単な置換ではアラビア数字には変えられないので留意(10 → 十 もしくは 拾)。

2019/04/10(水)今川方の笠寺籠城はあったのか

要検討文書

「桶狭間」を巡る仮説はあれこれ出ているが、その2年前、既に今川方が笠寺城に籠城し、織田信長から攻撃されていたという前提はいまだに続いている。ところが、この根拠となる文書には疑惑があり、戦国遺文今川氏編でも「要検討」となっている。

要検討史料については下記で一度考察してみたが、なかなか難しい。

要検討史料の例

そこで改めて、永禄元年3月3日に今川義元が笠寺城中に出したとされる文書について、どこがおかしいのかをまとめてみた。

文書A 戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(真田宝物館所蔵文書)

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中

最大の疑問点:花押形

この文書は差出人「義元」の下に太原崇孚の花押形が入っているが、崇孚はこの3年前に亡くなっている。事実だと押し切るならば、義元がこの時だけ崇孚花押を模したものを据えて、その後は花押を戻したということになる。しかし、そうした例はなく、明らかにおかしい。

では、改竄・創作したとして、なぜ作成者は崇孚没年に気づけなかったか。

そこで想起されるのが、差出人の偽造内容が全く同じものがあるという点。それは天文18年の御宿藤七郎宛ての2件。

文書B 戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿

文書C 戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿

この年は崇孚が三河に出兵しているのは確実なため、後世の改竄者が花押は崇孚のまま、箔をつけるために上の名乗りを「義元」に書き換えたという可能性がある。但し、B/C文書には文言にも不審な点があり、改竄は本文にも及んでいたか可能性の方が高い。

このB/C文書を見た者が花押形を勘違いしてA文書を作成したと考えると、死者である崇孚の花押が永禄元年に突如出現した理由が判明する。

伝来が同じであることから、BとCの文書は同じ者が関わったと見てよいと思う。では、B/Cに関わった者がAにもまた関わったのだろうか。私にはどうも、別人の確率が高いように思える。

まず、伝来が別であること。そして、B/C関与者は差出人名乗りの「崇孚」もしくは「雪斎崇孚」を「義元」に変更した自覚があったはずで、崇孚死去後のAにわざわざ用いないだろうということ。

但し、崇孚死去年を知らずに永禄元年文書を作成した可能性もあり、完全に別人とは断言できない。とはいえややこしいので、ここでは別人として推測を進める。

発給目的が判らなくなる宛所

では永禄元年の要検討文書に真正の部分が残されているだろうか。

まず、被官連名+「城衆・城衆中」という宛所が奇妙だ。在城衆宛てにするのは、情報共有・規則告示で、例外的に下田城衆に宛てた開城後の安全保障起請文がある。このように武功を顕彰する内容は例がない。

さらに、武功を顕彰する感状は本来個人宛てで出すもので、連名にするのは親子・兄弟などに限られる。たとえばこの文書だと、浅井・飯尾・三浦・葛山それぞれに出すのが通例だ。

というのは、それぞれの家で文書を保管する際に、正本が各家に必要になる。家が同じ親子・兄弟はまとめても大丈夫だが、ここにある名は別個の家で、少なくとも飯尾・三浦・葛山は大きな譜代衆だから、まとめて出されても困惑するだけだろう。また、各人の被官が手柄をあげた場合でも、主人名義であるにせよ、名を記して感状にする。

本文の検証

もし真正部分があるとすれば、個人宛て感状としての本文に複数の宛所を追記したと考えるしかない。そこで、本文の文言を他例から検証する。

「織弾」

違和感がある。「織弾」は長井秀元書状で出てくるが、これは織田信秀を指している。今川義元は天文18年に信秀を「織備」と呼んでいて、弘治2年の感状では織田信長を「織田上総介」と呼んでいる。

文書D 戦国遺文今川氏編1303「今川義元感状」(東条松平文書)

去三月、織田上総介荒河江相動之処、於野馬原遂一戦、頸一討捕之神妙也、度々粉骨感悦也、猶可励忠節者也、仍如件、弘治弐年九月四日/義元(花押)/松井左近尉殿

「夜込」

恐らく「夜襲・夜討」の意味だろう。使用例は1つあるが、かなり後の年で使用者も北条氏政。弱い違和感を感じるが「夜込」の用例が少なく、特定の状況で使用した可能性もあるので否定するには至らない。

文書E 戦国遺文後北条氏編3415「北条氏政書状写」(浅草文庫本古文書)花押形より天正17年比定

今度牛久夜込之節、岡見甚内被致高名候儀、忠信尤ニ候、乍去以来若武者之儀候得者、勝乗無理之働可有之存候間、無打死様、其方異見指引専一候、替儀於有之者、可被申遣候、恐ゝ謹言、
正月十八日/氏政(花押)/井田因幡殿

「首少々」

決定的に違和感がある。首級を挙げた場合その数は必ず記載する。「少々」のような婉曲表現が使われた例はない。

「堅固ニ可被相守」

これもおかしい。「堅固」に動詞が続く場合は「相拘」「相踏」となる。1点だけ「相守」が来るものがあるが、これがまた白根桃源美術館の御宿文書(こちらも要検討文書)。「堀内要害堅固ニ相守」とある。

文書F 戦国遺文今川氏編2129「武田信玄判物写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

兄元氏不儀之体、不及是非加退治之処ニ、其方以忠義之好不被与悪意之段令感候、仍葛山本領処々[目録別紙有之]、任置候、信貞為名跡之上者、幼少之間軍代被相勤、堀内要害堅固ニ相守、猶以忠勤之覚悟専肝候也、仍如件、
永禄十年三月七日/信玄(花押影)/御宿左衛門次郎殿

もうここまで来れば、真正部分が残されている可能性はほぼないと言ってよい。A文書は何者かによって創作された。この人物は戦国期文書の知識が浅く、白根桃源美術館の御宿文書(B/C/F)を見習ったが、対象文書が偽造もしくは改竄されたものだったため、他文書コーパスから見て違和感が強いものになってしまった。ということだろう。

以上により、永禄元年2~3月に今川方が尾張国笠寺に籠城し、織田信長が攻撃したという証左はなくなったと考えられる。

備考

Aの創作意図は不明だが、要検討によく見られるように、自身か依頼者かの先祖を顕彰したかった。そして、今川義元戦死に直接関わりたくはないものの、戦国期有名ブランドである「桶狭間」に関与はしたかったのかも知れない。

宛所がその意図を示唆するように見える。

  • 浅井小四郎は見当たらない。「小四郎」は北遠天野の当主に見られる仮名。
  • 飯尾豊前守は他史料で存在が確認できる。氏真を裏切ったことで軍記ものに登場。
  • 三浦左京亮は存在するが、三浦左馬助は見当たらない。「左馬助」は新野某・北条氏規が名乗っている。
  • 葛山播磨守は見当たらない。葛山氏元は「備中守」。

上記で見たように、創作者は同時代史料に疎い。飯尾豊前守は軍記で有名なので出したとして、浅井小四郎は「天野小四郎」の間違い、三浦左馬助は「三浦左京亮」の間違いだと考えるのが真相に近いのではないか。

  • 天野小四郎
  • 飯尾豊前守
  • 三浦左京亮

こう並ぶと、今川被官でも有力者が並んだ感がある。

となると、残りの葛山播磨守が懸案となる。備中守と播磨守を間違うかは判断がつかないが、Aが参照した御宿文書の御宿氏は、後世編著で葛山氏の一門と自称している。そこで軍記類を見てみると、同時代史料では一切名が出てこない「葛山備中守」がざくざく出てくる。何れも、御宿勘兵衛の養父として名がある。御宿勘兵衛は大坂の陣で真田信繁と共に籠城し戦死したらしいので、A文書が真田文書となった経緯もうっすら窺える。

2019/03/29(金)野口豊前の武功覚書

戦功覚書の概要

この文書は『岩槻市史古代・中世史料編2』に所収されている「野口豊前戦功覚書写」(文書番号19号・常総遺文所収)。原文をテキスト化して、岩槻市史の注釈を元にして仮名を漢字に比定してみた。

原文

覚、野口豊前(黒印影)

  1. 一、越後てるとら様小山之地へ御取つめ被成時、せんけんつかの北にて夜かけの時、ちん所幕きハにて鑓合申候、つれ合申候物あつきわかさ・東郷ぬいのてうそんし申事
  2. 一、(異筆「永禄」)太田ミのゝ守榎本之城をもち申候時、戸はりのほりおとりこし、中つゝミへ上り、それより木戸へ懸候時■■、鑓合候て、やりておひ申候、つれ合候衆石山越後・あつきわかさそんし申候事
  3. 一、同頃自榎本北戸はりにて、へいに付申候て、はしり廻申候、つれ合候衆亀田ちから・あつきわかさそんし申候事
  4. 一、佐竹殿久下田・ひとつ木のたいと申所へ動御座候時、そないのさきへ物すきの物出合申所ニ、味方おくれニ成申候所ニ、ふミこたへやり合申候、走廻つれ合候衆長田助三郎・厚木わかさそんし申候、その外あまた死申候事
  5. 一、(異筆「天正十一」)九月八日ニうしゆくより谷田部之地へ働候て、うしゆくの衆のけ申候所ニ、我等只壱き跡そないへ乗かけ申候て、岡見五郎右衛門ニ言をかけ申候ニ、てつほう五六丁にて、われらおねらい打申候へ共、はつれ申候、そのてつほうの音おきゝ申候て、跡ニひかへ候味方共皆々乗かけ申候所ニ、てきくつれ三百八十くひおとり申候、此キ我等一人の見当にてかち申候、其日我等もくび三つ取申候、鑓手一ヶ所おひ申候、つれ合候衆飯村新左衛門・ひろせふせんそんし申候事
  6. 一、三川こほりへ結城より動候時、てき出合候、走廻くび一つ取申候、つれ合候衆貫助兵へ・秋本与三兵へそんし申候事
  7. 一、申之年、結城清水はたと申所ニ而、浜野新四郎と申物、切手おひ申候而、くひをとられ申候所お、我等すけ申候てたすけのけさせ申候、つれ合候衆あら井主水・国崎しやうけんそんし申候事
  8. 一、酉之年、同清水はたにて我等鑓はしめ仕候時、つれ合候衆川崎式部・かと井や三郎・あつきわかさそんし申候事
  9. 一、幸島大田と申在所を責申候時、てき出合申候お、やり仕てきおひ入申候、つれ合候衆あつきわかさ・くろすふせん・川崎式部・磯くらそんし申候事
  10. 一、結城かのくほと申所ニ而、小田原衆と出合申候時、我等てつほう壱丁ニ而、つゝミおもちかち申候、つれ合衆たちミの・東郷あわち・卯木しなのそんし申候事
  11. 一、結城高はし一本杉と申所ニ而、小田原衆とやり御座候ニ、秋本与三兵へやりさきお乗りわけ申候時、我等やりを合申候、つれ合候衆秋本与三兵へ・石山越後・あつきわかさそんし申候事
  12. 一、(異筆「天正五ノ七月十日」)下妻わかと申所ニ而、山川衆とつれ合鑓御座候時、古沢越前おや子のくひ山川へ取り申候、其時我等走廻申候、つれ合候衆おひ沼けんは・うすき八右衛門・大黒与右衛門そんし申候事
  13. 一、小山元のつこ橋と申所ニ而、一日の内やり二度合申候、つれ合候衆ひかの蔵人・かすや彦四郎・高徳主計・たかや右京そんし申候事
  14. 一、小山あまかいと申所之東ニ而、小山衆と鑓御座候ニ、我等馬にて乗わけ申候、つれ合候衆飯塚六兵へ・高徳主計存申候事
  15. 一、小山きりとをしと申所ニ而、ひさきと申物人衆引連打出候を、我等馬出出合乗くつし申候、つれ合候衆山内大炒亮・塚原ぬいの助そんし申候事
  16. 一、同夏と正月廿九日ニあひの田申所ニ而、やり合御座候ニ、つれ合候衆卯木しなの・長田四郎兵へ存候事
  17. 一、小山四日市と申所ニ而我等初馬ニ入、てきおおしミたし候て、てきに荒巻弥左衛門と申物のさし物・てつほうなとお取申候、その時そないお罷出候衆、晴朝前をそむき下妻へ牢人仕候、つれ合候衆秋本与三兵へ・高徳主計存候事
  18. 一、結城西面てこじきか前と申所ニ而走廻申候、つれ合候衆高徳主計・あつきわかさ・飯塚六兵へ存候事
  19. 一、小山泉崎と申所ニ而、田中源次郎と申物の手おひ申候時ニ、我等走廻申候、高徳主計・ゑひ原右京・やな二郎左衛門・石上平右衛門・加の民部つれ合ついてかへし申候て、源二郎たすけ申候事
  20. 一、榎本ほんさわの町にして我等走廻候時、河崎尾張と申物鑓手おおい申候お、我等すけのけさせ申候所ニ、てきおしつめ我等やりにて三ヶ所つかれ申候、てきにて見申候衆大戸大学そんし候事
  21. 一、結城より小山ひさきくるわと申所ヲせめ申候時、我等走廻鑓手矢手ニ三ヶ所おい申候、つれ合候衆長田四郎兵へそんし候事
  22. 一、壬生領藤井と申所へ乗こミ御座候時、くひ一つ取申候、つれ合候衆人見伝内そんし候事
  23. 一、結城よりさかいちんの時、おいこ申所へのりこミいたし候、一日ニくひ弐つ取申候、つれ合候衆青沼治部・たてのふんこと申物のそんし申候事
  24. 一、結城より下妻へてたてヲ被成候時、下妻の衆かけ合、味方おくれ申候所ヲ、跡ヲ仕しんらう申候、つれ合候衆卯木しなの・あつきわかさそんし申候事
  25. 一、小山・壬生一味之時、ミふ衆小山へわうきやうの物とめ可申ために、結城よりいつてい村と申所へ、手たて被成候所ニ、壬生衆出合やり仕候、つれ合候衆高徳主計そん候事
  26. 一、古河領さし間茂そりと申所へ、結城より乗こミ御座候ニ、てき出合やり御座候而、味方おくれ申候所ニ、ひらか彦十郎と申仁打死被申候時、我等あと仕候、つれ合候衆卯木しなの・秋本九郎兵へ・東郷淡路そんし候事
  27. 一、(異筆「天正十七」)下妻谷田部の城ニい申候内、しらはさまと申所ニ而、うしゆく衆と出合、やり御座候ニ、味方おくれの所にて、我等走廻てつほう手おい申候、つれ合候衆たかやさこん内衆ひろせふせんそんし候事
  28. 一、(異筆「天正十四」)九月廿四日あたかにて、町さし入のはしお、内よりはしいたお引おとし申所を、我等参■て、はしいたおとりあけさせ、やり下ニ而はしいた二まいかけ申候、つれ合候衆木内源兵へ、又ハたかや大夫使として、ミのへ日向参候て存候事
  29. 一、(異筆「天正八」)下妻谷田部の城を小田原衆取つめ申候時分、岡見五郎右衛門さい取にて、おしよせ申候ニ、味方おくれ候て、はしおふミおとし、皆々ほりそこへおち入申候所ニ、我等子に治部・ゆきへ同与力ニ相沢・北条なとゝ申物、六七人たちこらへ、跡おいたし候、皆々たすけのけさせ申候、つれ合候衆江戸甚内・飯村新左衛門そんし候事
  30. 一、うしゆく東輪寺と申候所ニて、景賀大くら鑓ニてつきおとされ、打たれ申候所ニ、我等わきより馬ヲ入、てきのやりヲけおとし申候て、大くらたすけ申候、我等やりけおとし申物お、小貫ぬいの助と申物、打申候事
  31. 一、(異筆「天正十六」)極月廿八日、東輪寺の城戸はりそへつめ、我等木戸へ取つき申候所ニ、てきわきより罷出候間、そこを少のけ申候ニ、やり下ニ而、飯付ふんこ、馬より落候て、のけかね申候所ヲ、大木治部我等両人馬をかへし申候故、てきおおしとめふんこたすけ申候、同日おくきの堀のきわニ而、てきをそい参候ヲ、大木治部と我等初馬にかへし申候ゆへ、くひ七つ取り申候事
  32. 一、(異筆「天正十六」)谷田部坊地と申所へ、てきふねにて川ヲ取こし申候所ニ、ふねかすなにほとおも見い申物無之ニ付而、我等一キはう地の山へ罷こし申候所へ、てきおり申候ニ、のりくつし候て、おい入候、それヲ見申候て、わきてきやくつりと申所ニ、てきい候もくつれ申候、その時くひ七つ取申候き、此始ニ我等一キにて、おうちの山へおい入申候ニ付而、てきおくれ申候、つれ合候衆そめやふせん・飯付新左衛門、又てきにハ松島ミのそんし申候事
  33. 一、(異筆「天正十五」)あたかと申所ニ而、つゝミお切申候処ニ、あれか衆と出合、やり御座候ニ、味方おくれニ成申候て、たかやしなのと申物、とミた・横島・小松・窪谷・その以上七人うたれ申候時、我等跡お仕り候て、馬おかへしてきのくひ七つ取申候、内我等一つとり申候、たかやよろこひ被申候、我等方■れい状御座候
  34. 一、こか・こうのすと申所へ動之所、てき出合申候お、おしかへし申候所ニ、てき沼へとひこミのけ申候ヲ、我等も則ぬまおおよき候て、沼の内にてくひ一つ取申候、つれ合候衆いハ上ぬいの介そんし候事
  35. 一、佐竹より結城へ働之時、ふしのこしにて、やり仕候、てきにハ斎藤はりま・小窪刑部出合申候、味方つれ合候衆野口けんは・たかや将監厚木若狭存候
  36. 一、結城よりとちきへ動之時、内より出申候所ニ、川島主税・たかや采女我等同前ニ馬をかへし走廻申候、つれ合候太木信濃存候事
  37. 一、結城より鹿沼へ動候時、内より田宿と申所へおし入、内の戸はり迄おしつけ申候、その時走廻申候たかや采女手おおひちんやにてつれ申候、つれ合候衆あつきわかさ存申候事
  38. 一、くじらと申所ヲ、下妻よりせめ申候時、我等おや子白井縫殿之助と申物つれ合走廻申候事 以上三拾八ヶ条也、 慶長八年丑六月廿日/の■ふせん(黒印影)/宛所欠

比定・解釈

  1. 一、越後輝虎様小山之地へお取り詰めなされ時、『せんけんつか』の北にて夜懸けの時、陣所幕際にて鑓合を申し候、つれ合申候は、厚木若狭・東郷縫之丞が存し申し事
  2. 一、(異筆「永禄」)太田美濃守榎本之城を持ち申し候時、戸張の堀を取り越し、中堤へ上り、それより木戸へ懸かり候時にて、鑓合候て、鑓手負ひ申候、つれ合候衆、石山越後・厚木若狭が存し申し候事
  3. 一、同頃、榎本より北戸張にて、塀に付き申し候て、走り廻り申し候、つれ合候衆、亀田主税・厚木若狭存じ申し候事
  4. 一、佐竹殿が久下田・一ツ木の台と申す所へ働き御座候時、備えの先へ物数奇の者出合申所ニ、味方遅れになり申し候所に、踏みこたへ鑓合を申し候、走り廻りのつれ合候衆、長田助三郎・厚木若狭、存じ申し候、そのほか数多死に申し候事
  5. 一、(異筆「天正十一」)九月八日に牛久より谷田部の地へ働き候て、牛久の衆退け申し候所に、我等ただ一騎、後ろ備えへ乗り懸け申し候て、岡見五郎右衛門に言を懸け申し候に、鉄炮五~六丁にて、我等を狙い撃ち申し候へども、外れ申し候、その鉄炮の音を聞き申し候て、後に控え候味方共、皆々乗り懸け申候ところに、敵崩れ三百八十の首を取り申し候、この儀、我等一人の見当にて勝ち申し候、その日我等も首三つ取り申し候、鑓手を一ヶ所負い申し候、つれ合候衆、飯村新左衛門・広瀬豊前、存じ申し候事
  6. 一、寒川郡へ結城より動候時、敵出合い候、走り廻り首一つ取り申し候、つれ合候衆、貫助兵衛・秋本与三兵衛、存じ申候事
  7. 一、申の年、結城『清水はた』と申すところにて、浜野新四郎と申す者、手を切り負い申し候て、首を取られ申し候ところを、我等助け申し候て、助け退けさせ申し候、つれ合候衆、新井主水・国崎将監、存じ申し候事
  8. 一、酉之年、同『清水はた』にて我等鑓始め仕候時、つれ合候衆、川崎式部・門井弥三郎・厚木若狭、存じ申し候事
  9. 一、猿島郡大田と申す在所を攻め申し候時、敵と出合い申し候を、鑓を仕り敵追い入れ申し候、つれ合候衆、厚木若狭・黒須豊前・川崎式部・磯蔵、存じ申し候事
  10. 一、結城鹿窪と申す所にて、小田原衆と出合い申し候時、我等鉄炮一丁にて、堤を持ち勝ち申し候、つれ合衆、館美濃・東郷淡路・卯木信濃、存じ申し候事
  11. 一、結城高橋一本杉と申す所にて、小田原衆と鑓を御座候に、秋本与三兵衛、鑓先を乗り分け申し候時、我等鑓を合わせ申し候、つれ合候衆、秋本与三兵衛・石山越後・厚木若狭、存じ申し候事
  12. 一、(異筆「天正五ノ七月十日」)下妻和歌と申す所にて、山川衆とつれ合い、鑓を御座候時、古沢越前親子の首、山川へ取り申し候、その時我等走り廻り申し候、つれ合候衆、生沼玄蕃・薄木八右衛門・大黒与右衛門、存じ申し候事
  13. 一、小山『元のつこ橋』と申す所にて、一日のうち鑓二度合わせ申し候、つれ合候衆、日向野蔵人・粕谷彦四郎・高徳主計・多賀谷右京、存じ申し候事
  14. 一、小山雨谷と申す所の東にて、小山衆と鑓を御座候に、我等馬にて乗り分け申し候、つれ合候衆、飯塚六兵衛・高徳主計、存じ申し候事
  15. 一、小山切り通しと申す所にて、『ひさき』と申す者、人衆引き連れ打ち出し候を、我等馬出に出合い乗り崩し申し候、つれ合候衆、山内大炒亮・塚原縫殿助、存じ申し候事
  16. 一、同夏と正月廿九日に『あひの田』と申す所にて、鑓合せ御座候に、つれ合候衆、卯木信濃・長田四郎兵衛、存じ候事
  17. 一、小山四日市と申す所にて我等初馬に入れ、敵を押し乱し候て、敵の荒巻弥左衛門と申す者物の指物・鉄炮などを取り申し候、その時備えを罷り出て候衆、晴朝前を背き下妻へ牢人仕り候、つれ合候衆、秋本与三兵衛・高徳主計、存じ候事
  18. 一、結城『西面てこじきか前』と申す所にて走り廻り申し候、つれ合候衆、高徳主計・厚木若狭・飯塚六兵衛、存じ候事
  19. 一、小山泉崎と申す所にて、田中源次郎と申す者の手負い申し候時に、我等走り廻り申候、高徳主計・海老原右京・簗二郎左衛門・石上平右衛門・加野民部、つれ合いついて返し申し候て、源二郎を助け申し候事
  20. 一、榎本ほんさわの町、西手、我等走り廻り候時、河崎尾張と申す者、鑓手を負い申し候を、我等助け退けさせ申し候ところに、敵を押し詰め、我等鑓にて三ヶ所突かれ申し候、敵にて見申し候衆、大戸大学、存じ候事
  21. 一、結城より小山『ひさき』曲輪と申し所を攻め申し候時、我等走り廻り、鑓手・矢手に三ヶ所負い申し候、つれ合候衆、長田四郎兵衛、存じ候事
  22. 一、壬生領藤井と申す所へ乗り込み御座候時、首一つ取り申し候、つれ合候衆、人見伝内、存じ候事
  23. 一、結城より境陣の時、『おいこ』と申す所へ乗り込みいたし候、一日に首二つ取り申し候、つれ合候衆、青沼治部・舘野豊後と申者の存じ申し候事
  24. 一、結城より下妻へ行をなされ候時、下妻の衆懸け合い、味方遅れ申し候ところを、後を仕り、辛労申し候、つれ合候衆、卯木信濃・厚木若狭、存じ申し候事
  25. 一、小山・壬生一味の時、壬生衆、小山へ往行の物留を申すべきために、結城より『いつてい』村と申す所へ、行なされ候ところに、壬生衆に出合い鑓仕り候、つれ合候衆、高徳主計存じ候事
  26. 一、古河領猿島『茂そり』と申す所へ、結城より乗り込み御座候に、敵出合い鑓を御座候て、味方遅れ申し候所に、平賀彦十郎と申す仁、討ち死に申され候時、我等が後に仕り候、つれ合候衆、卯木信濃・秋本九郎兵衛・東郷淡路、存じ候事
  27. 一、(異筆「天正十七」)下妻谷田部の城に居申し候うち、『しらはさま』と申す所にて、牛久衆と出合い、鑓を御座候に、味方遅れの所にて、我等走り廻り鉄炮手を負い申し候、つれ合候衆、多賀谷左近内衆広瀬豊前、存じ候事
  28. 一、(異筆「天正十四」)九月廿四日『あたか』にて、町にさし入る橋を、内より橋板を引き落とし申しところを、我等参りて、橋板を取り上げさせ、鑓下にて橋板二枚かけ申し候、つれ合候衆、木内源兵衛、又多賀谷大夫、使として、美濃部日向参り候て存じ候事
  29. 一、(異筆「天正八」)下妻谷田部の城を小田原衆取り詰め申し候時分、岡見五郎右衛門が采を取って押し寄せ申し候に、味方遅れ候て、橋を踏み落とし、皆々堀底へ落ち入り申し候ところに、我等の子の治部・靱負、同与力の相沢・北条等々の者が、六~七人立ちこらえ、後を致し候、皆々を助け退けさせ申し候、つれ合候衆、江戸甚内・飯村新左衛門存じ候事
  30. 一、牛久東輪寺と申し候所にて、景賀大蔵が鑓で突き落とされ、討たれ申し候ところに、我等が脇より馬を入れ、敵の鑓を蹴落とし申し候ところに、大蔵が助け申し候、我等が鑓を蹴落とし申し者を、小貫縫殿助と申す者、討ち申し候事
  31. 一、(異筆「天正十六」)極月廿八日、東輪寺の城戸張へ添え詰め、我等木戸へ取つき申し候ところに、敵脇より罷り出で候間、そこを少し退け申し候に、鑓下にて、飯付豊後、馬より落ち候て、退きかね申し候ところを、青木治部・我等の両人が馬を返し申し候ゆえ、敵を押し留め豊後を助け申し候、同日小茎の堀の際にて、敵を襲い参り候を、青木治部と我等初馬に返し申し候ゆへ、首七つ取り申し候事
  32. 一、(異筆「天正十六」)谷田部坊地と申し所へ、敵船にて川を取り越し申し候ところに、船数何程をも見ることなきについて、我等一騎、坊地の山へ罷り越し申し候ところへ、敵がおり申し候に、乗り崩し候て、追い入れ候、それを見申し候て、脇手『きやくつり』と申すところに、敵居候も崩れ申し候、その時首七つ取り申し候き、この始に我等一騎にて、『おうち』の山へ追い入れ申し候について、敵遅れ申し候、つれ合候衆、染谷豊前・飯付新左衛門、又敵には松島美濃、存じ申し候事
  33. 一、(異筆「天正十五」)あたかと申す所にて、堤を切り申し候ところに、あれか衆と出合い、鑓を御座候に、味方遅れになり申し候て、多賀谷信濃と申す者、富田・横島・小松・窪谷・園、以上七人討たれ申し候時、我等は後を仕り候て、馬を返し敵の首七つ取り申し候、うち我等一つ取り申し候、多賀谷喜び申され候、我等方へ礼状御座候
  34. 一、古河・鴻巣と申す所へ働きのところ、敵と出合い申し候を、押し返し申し候ところに、敵は沼へと引き込み申し候を、我等もすなわち沼を泳ぎ候て、沼の内にて首一つ取り申し候、つれ合候衆、岩上縫殿介、存じ候事
  35. 一、佐竹より結城へ働きの時『ふしのこし』にて、鑓を仕り候、敵には斎藤播磨・小窪刑部出合い申し候、味方のつれ合候衆、野口玄蕃・多賀谷将監・厚木若狭、存じ候
  36. 一、結城より栃木へ働きの時、内より出で申し候ところに、川島主税・多賀谷采女、我等同前に馬を返し走り廻り申し候、つれ合候、大木信濃、存じ候事
  37. 一、結城より鹿沼へ働き候時、内より田宿と申す所へ押し入り、内の戸張まで押し付け申し候、その時走り廻り申し候多賀谷采女が手を負い、陣屋に連れ申候、つれ合候衆、厚木若狭、存じ申候事
  38. 一、久地羅と申す所を、下妻より攻め申し候時、我等親子、白井縫殿助と申す者つれ合走りり廻申し候事 以上三拾八ヶ条也、

2019/03/07(木)史料集による出典表記の違い

伊勢宗瑞の2文書について、収録した史料集ごとに出典表記を調べてみた。

対象文書

A)巨海越中守宛の伊勢宗瑞書状(全史料集が永正3年に比定)

今度氏親御供申、参州罷越候処、種ゝ御懇切、上意共忝令存候、然而、氏親被得御本意候、至于我等式令満足候、此等之儀可申上候処、遮而御書、誠辱令存候、如斯趣、猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候、恐惶頓首謹言、
閏十一月七日/宗瑞(花押)/巨海越中守殿

※愛10のみが「写し」とし、検討を要すると指摘。

B)伊達蔵人佑宛の伊勢宗瑞書状(全史料集が永正5年に比定)

今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候処、預御合力候、祝着ニ候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可有伝聞候、恐々謹言、
十一月十一日/宗瑞(花押)/謹上伊達蔵人佑殿

※神3下・戦北は「祝着候」が「祝着ニ候」と翻刻。

史料の出典表記

神奈川県史資料編3下(1979年)

6468「宗瑞[伊勢長氏]書状」(徳川義知氏所蔵文書)
6471「宗瑞[伊勢長氏]書状」(美作伊達文書)

戦国遺文後北条氏編(1989年)

17「伊勢宗瑞書状」(徳川義知所蔵文書)
19「伊勢宗瑞書状」(美作伊達文書)

小田原市史資料編小田原北条(1991年)

16「伊勢宗瑞書状」(徳川義知氏所蔵文書)
18「伊勢宗瑞書状(切紙)」(京都府京都市・京都大学文学部所蔵駿河伊達文書)

愛知県史資料編10(2009年)

701「伊勢宗瑞書状写」(徳川美術館所蔵文書)
722「伊勢宗瑞書状」(駿河伊達家文書)

戦国遺文今川氏編(2010年)

187「伊勢盛時書状」(徳川黎明会所蔵文書)
220「伊勢盛時書状」(京都大学総合博物館所蔵駿河伊達文書)

気づいた点

A文書

  1. 1991~2009年の間にA文書が個人蔵から法人蔵になった。
  2. A文書を愛知県史が「写し・要検討」と変更した後、戦今では戻している。
  3. A文書の文言は異例であり、写しであるなら愛知県史の要検討判断は妥当。

B文書

  1. 神3下・戦北で「美作伊達」の文書としている。
  2. その後の小市史以降では「駿河伊達」の文書とされる。
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