2017/08/19(土)要検討史料の例

「要検討」とは何か?

史料集などで文書の備考に「要検討」「なお検討を要す」とあるものは、シンプルに言うと「これは偽文書の疑いが濃厚」ということ。ただ、その度合いは結構バラバラで、明らかに偽物だけど慎重に言っているものもあれば、記述者によって判断が分かれるぐらい微妙な疑いだったりする。要素としては、私が見たところでは以下のようなものだと思う。

  • 文言が類似の文書と甚だしく異なる(顕彰過多・近世的表現)
  • 発給者の花押が異なる
  • その時に存在しない人物が登場する
  • 同じ伝来で要検討が多数存在

今川義元を装った要検討史料

御宿藤七郎宛の今川義元感状写が2通、山梨県・白根桃源美術館所蔵の御宿文書にある。この文書写には花押が残っているのだが、これが太原崇孚のものに酷似しており、要検討とされる。ただ文言も装飾が激しくて花押形の話がなくても充分要検討となると思う。

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」

これと同じ年月日の弓気多七郎宛の感状写が別の伝来で残されている。こちらも文言の装飾度合いが強く、花押形が残されていないにも関わらず、同系統の要検討文書であることは確実だ。

今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕、城中真先乗入、於本城門際、別而敵苦之条、神妙也、弥可抽忠功之状如件、
十二月廿三日/義元判/弓気多七郎殿
戦国遺文今川氏編0926「今川義元感状写」(三川古文書)

また更に、花押が太原崇孚に酷似している文書が長野県の真田宝物館に所蔵されている。こちらの文言は盛大に装飾した前記3文書とは違って「微妙な違和感」ぐらいな逸脱に過ぎないが、1555(天文24)年に亡くなっている崇孚の花押を1558(永禄元)年付けで用いていることから、要検討と言える。

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中
戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(長野県・真田宝物館所蔵文書)

偽文書作成者の意図

御宿藤七郎・多気弓七郎の文書は、下記の天野安芸守宛の感状と符合する。

去月廿三日上野端城乗取刻、任雪斎異見、井伊次郎同前ニ為後詰之手当相残于安城云々、誠神妙ノ至也、殊忠功肝要候、仍如件、
十二月七日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0922「今川義元感状」(滋賀県長浜市・布施美術館所蔵文書)

このため、偽作者がとりえた手法は2通り考えられる。

  1. 天野文書を元にして一から創作した
  2. 天野文書に類似する原本があり、それを改変した

前者は、花押が異なることから考えづらい。922号の花押を模写しなかったのは、そもそも偽作者が義元の花押を知らなかったことを強く示唆している。

太原崇孚が発給した暫定感状しか存在せず、義元のものがなかったが故に改変したのだろう。前述の922号に「任雪斎異見」とあることから、崇孚が前線で指揮をとっていたことは確定できる。

太原崇孚が前線で感状を暫定発給したのは、天野文書に残されている。

去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候、追感状可有御申候、急候間早々申候、恐々謹言、尚々松井殿其方取分御粉骨之由、自諸手被申候、雖毎度之儀候、御高名之至候、
九月十日/雪斎崇孚(花押)/天野安芸守殿御報
戦国遺文今川氏編0841「太原崇孚書状」(天野文書)

これに対応して出されたのは下記の文書となる

去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓、各粉骨無比類候旨、誠以神妙之至也、殊被官木下藤三・溝口主計助・気多清左衛門突鑓走廻云々、弥可抽軍忠之状如件、
九月廿日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0847「今川義元感状」(天野文書)

では、何故義元の感状がなかったのか。後年になるが、今川家中で合戦時に報告の手違いがあって、訴訟に発展している。

壬戌年七月廿六日崇山中山落城之砌、其方為高名西郷新左衛門子令生捕、則良知披官中谷清左衛門ニ被相渡候処ニ、依取逃之、彼清左衛門于今ニ令山臨候処ニ、其方曲事之由大原肥前守被申候間、今度其子細申分之上被聞分候間、度々忠節奉公申候之 御判形、我等為奏者被下候所明鏡也、為向後候条、我等一筆進候、仍如件、
永禄六癸亥三月一日/関越氏経(花押)/田嶋新左衛門尉殿
戦国遺文今川氏編1897「関口氏経書下」(本光寺常盤歴史資料館所蔵田嶋文書)

田嶋新左衛門尉が合戦で西郷新左衛門の息子を生け捕った際、良知被官の中谷清左衛門に渡したところ逃がされてしまった。中谷は田嶋の過失だと現場指揮官の大原肥前守に報告して問題化したという。

これと同じようなことが御宿・弓気に起きたのではないか。戦後に情報を整理した結果、この2人の戦果は誤認だったと判り、義元の最終認定が得られなかった。何とか崇孚の臨時感状だけを残したところ、何者かが改変した。

そしてその段階で義元と崇孚の花押誤認が発生し、真田宝物館所蔵文書の偽作時に継承されたと。

偽造部分は見抜けるか

御宿・弓気の例では、この時代の感状をいくつか見たことのある人間であれば容易に違和感を受けるだろう。そう考えると、偽作者は商売として偽造はしつつ後世の識者が見れば一発で見抜けるように作成したのではと思うこともある。わざと変な表記にしたり、決定的に矛盾したりするような情報を故意に織り交ぜたような印象がある。

しかし一方で、疑わしき情報は悉く削り取り、精巧に文言を構成した写しの場合に、後世の人間が見抜くことは殆ど不可能だろう。それが存在しているかすら判らずに踊らされているものも実は多いのかも知れない。後世の我々は確証は絶対持てないためだ。

ただ、要検討を更に吟味して精度を高める試みは有効だと思っていた。他の例を増やしていくことで、偽造箇所が浮き彫りになるのではないかと。だがそれも昔日の夢想になりつつある。

結局はデッドエンド

前回検討した北条氏政書状(戦北2347)は、写しではないという認識が通例で、専門家もその正当性に疑問は持っていない。文言がおかしくても、伝来として不明な点が多くても、花押が奇妙でも、文書自体は要検討にはならず、それを元に比定や解釈をいじろうとしている。

それは逆ではないか?

何とも奇妙な光景だ。史料批判で諸要素の徹底的な検討を経なくてよいのだろうか。

勿論、真正の文書でも奇妙な表現が見られる例もあるだろうし、現状で把握している用例が追い付かずに奇妙に見えてしまっているようなパターンも存在するだろう。ただ、この氏政書状のようにおかしな部分が多数存在しているものは、一つ一つをきちんと検証したうえで用いるべきなのではないか。

2017/08/18(金)要検討でも写しでもない北条氏政書状への疑問

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滝川一益宛北条氏政書状写の検討

花押がおかしな北条氏政書状

隠居して大きく花押を変えたはずの氏政が、隠居前のものを用いているとされている文書がある。この文書については30年以上前から指摘があった。

『後北条氏の研究』(佐脇栄智編・吉川弘文館・1983)p124

『発給文書の基礎的研究と背景』「小田原北条氏花押考」(田辺久子・百瀬今朝雄)

原本は戦災により焼失したとのことで、実見することは出来なかったが、東京大学史料編纂所の影写本によってみる限り、書風は当時のものとして疑わしいところは見当たらない。けれども花押は、当時はすでに使用していない一類の最後の型に属するものである。既述の如く遅くとも天正九年十一月には二類の花押が使用されているのに、翌十年六月に至り、再び一類の花押を使ったということになるのである。氏政の花押の変遷は、全体として相当規則正しく行われているので、この時期だけ乱雑であったとは考えられない。

この疑問は継承され、下記でも取り上げられている。

本文書の氏政の花押は、天正四、五年頃のものであり、同十年のものとは全く異なる。但し本文書は、文言・書式などに特に疑点はない。

  • 小田原市史小田原北条2 p392

なおこの書状で注目されるのは、氏政が旧型の花押を据えていることである。氏政は天正九年五月(「寿命院文書」戦二二三五)から八月(「服部玄三氏所蔵文書」戦二三九一)の間に花押形を改判しているので、本来であればこの書状にも新型の花押が据えられるはずである。ここでわざわざ旧型の花押が据えられている理由については明確ではないが、花押形の改判以降、一益との間で連絡を取り合うことがなかったか、新型の花押は一益などの対外関係にはいまだ用いられていなかったか、いずれかであろう。

  • 『戦国北条氏五代』p159

伝来も微妙

この不可思議な文書を改めて考えてみる。原本は写しではないらしいのだが、一度東京大学史料編纂所に持ち込まれ影写された後に戦災で焼失したとのこと。高橋一雄という人物が所持していたのだが、その伝来は残されていない。

内容分析

今十一未刻、自深谷之台一庵書状を指越候、抑京都之様子、自是も申届候キ、実儀候哉、自遠州も注進連続候、一、以早飛脚申届意趣者、此際堅固ニ其地被相拘専一候、当方へ毛頭御疑心有間敷候、千万一妄之模様ニ有之而者、此度之対逆心人、貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、一、右之書状到来、則時ニ申達候、不可過勘弁候、軈以使可申候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/滝川左近将監殿進之候
戦国遺文後北条氏編2347「北条氏政書状」(高橋一雄氏所蔵文書)

まずは差出人と宛所を一旦抽象化して、単純に文面だけに注目。

第1項

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、私たちからもお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

第2項

一、早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

第3項

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

これらを項目ごとに考察。

第1項考察

冒頭は、これを書く契機になった狩野一庵書状が、11日未刻(13~15時前後)に到着したとある。受け取った<差出人>が<宛所>に向けて送ったのは文書日付が6月11日でその日のうちとなっていることから、急いでいたことが判る。一庵書状は、深谷の「台」から来たという。一庵は狩野一庵、深谷は埼玉県深谷市・神奈川県横浜市戸塚区深谷・千葉県いすみ市深谷の3か所に比定候補があるが、埼玉県深谷市は近隣に「上野台」という地名を持っていること、深谷衆は滝川一益に出仕していて関連することから、深谷市の比定で問題はないと思う。一庵は深谷城には入らず、「台」にいたことを強調しているように見える。

続けて「そもそも京都の様子」とある点は、少し唐突。ただ「こちらからも申し届けていました」と、既に<差出人>から情報提供をしたとあるので、共通の話題として成り立っていたことが判る。その上で<差出人>はこの様子を「本当か?」と疑っていること、徳川氏(遠州)から報告が連続して来たことを書いている。この時点で、<差出人>は結論を出していないため、ここで書状が終わっていたら、<宛所>に真偽を尋ねる内容だといえる。

第2項考察

これは前後とつながらない不思議なパラグラフ。<差出人>は、拠点防御に専念することを勧告し、自らを疑わないように指示している。そして次文に行くと一転して疑問形になり「万一疑うなら、逆心した者への鬱憤は晴らせなくなるのでは?」と尻すぼみになっている。「氏政父子」とあるのは、北条氏政・氏直のことで問題ない。「相談されたら、最後まで親身になるから、大・小の事柄を協議しましょう」という提案で締めくくっている。

第3項考察

最後の部分は、「右の書状が来たからすぐ報告した」とある。第1項の直後なら「右之書状」は一庵書状を指すと考えて問題ないのだが、第2項が長々と入っているために意図不明で、第2項自体が一庵書状だったのか、それを要約したものなのか、または無関係な文面なのかが判断しがたい。

そもそも第2項は氏政父子の行動を言明したもので、一庵が緊急時にそこまで明言できるかは疑わしい。<差出人>が「一庵書状の写し・現物を添えた」とも書いておらず、第2項と第3項の連携はほぼないといえる。

第2項は追而書?

第2項は追而書として書き込まれていたもので、これを改変して本文内に収納した可能性もある。その場合の解釈文を作ってみた。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。
追記:早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

但し、これだと一庵書状が何だったのか判らないままだし、追而書が孤立し過ぎているように見える。また、第2項の中には以下の例外的語用が存在する。

  • 逆心人:見かけない言葉。とにかく逆心した人間の具体的な名を書くのが通例。
  • 乍出角:語感からして「差し出がましいことですが」程度の意味になりそうだが、同時代で用例がない。「乍聊爾」「乍卒爾」が近いかも知れないが、そもそも「差し出がましいこと」をわざわざ言う文化がないのかも知れない。

いっそのこと第2項を丸々抜いて考えると、第1項が真偽を確認するための情報共有という趣旨である点、第3項の取りまとめ的表現が非常にうまく呼応する。第2項自体、表現の怪しさ、後からの知見が込められたような饒舌さを考えると、第2項自体が創作され、挿入されたものだという可能性が高いと思う。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

更に厳密に言うなら、第3項も「不可過勘弁」という妙な言い回しを使っている。他例を見ると「不可過御塩味」か「不可有御勘弁」とすべき部分で、違和感がある。

  • 不可過之 8
  • 不可過御塩味事 6
  • 不可過[工夫|狭量|推察|御計量|分別]候 7
  • 不可過両条・不可過十人・不可過勘弁 各1

この点から第3項も一旦排除すべきであり、そうなると、使用語句と語用から考えて第1項のみの身内同士の簡易な覚書だったのではないかと考えられる。具体例として、氏政から氏邦に送られたと思われる覚書、氏直から氏邦に送られた書状がある。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、以上
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:房 截)
小田原市史資料編後北条氏編2240「北条氏政書状」(神奈川県横浜市・県立文化資料館所蔵小幡文書)

糊付之御状披見、得心申候、同者此度討つふし候ニ極候、恐々謹言、
九月八日/氏直(花押)/安房守殿
小田原市史資料編後北条氏編1915「北条氏直書状写」(武蔵古文書一)

身内の覚書だった場合、一庵が氏照配下である点から、氏照が発信者だったと見るのが妥当だろう。宛所は複数の可能性がある。

  • 氏直:当主であり甲信侵攻で氏照・氏邦と素早く動いている
  • 氏政:氏規と共に徳川・織田との折衝を担当している
  • 氏邦:滝川一益にも出仕していて、一益の近況は把握している

ここで論点となるのが、何故一庵が深谷の台にいたのかという点。一益は一貫して義氏・氏直らを無視しているから、一益が指示したとは思えない。そもそも「一庵」と言われて一益が把握できたかすら疑問。

となると、情報収集のため氏照が一庵を動かしたと見るしかない。

そして、氏直・氏政は小田原で情報を把握していた訳だから候補から外れ、氏邦に宛てたと考えるのが最も適切だと思われる。

つまり、上方・遠州からの情報を掴んだ氏照が一庵を移動させ、既に一益に出仕していた深谷で情報を探らせた。それを一益の元にいた氏邦に伝えて、情報共有を計ろうとした。

まとめ

原本が失われた点からして、既に要検討だと思うのだが、この文書は写しではないという認識から長らく要検討指定から外されてきた。語用や文脈の分析から見たように、第1項だけが現存していた断片的な書付がベースになったのだろうと思う。

もう少し突っ込んで考えるなら、作者はまず第2項を足したのだろうと思う。

一体、近世後筆による創作というのは後世から見て判り易いのが前提だと思う。先の第2項は、軍記で描かれる川越夜戦を想定している。家忠日記では「明智」と明記されている謀叛人を「逆心人」とぼやかしているのも特徴的で、同時代での呼称に自信がないため回避したのではないか。一益の下で果敢に戦ったと主張している上野国系の軍記が影響している感もある。

その後に、このままでは書状にならない点から第3項と氏政花押を付け足したのだろう。

参考データ

北条氏政が「氏政父子」と書くだろうか、という疑問

実は、その書状を見て私がまず疑問に思ったのが、隠居した北条氏政が「氏政父子」という表現をするだろうか、という点だった。

天正11年に家康宛てで送った書状でも「氏直大慶、於拙者も忝候」として一歩自分は引いている。

以鈴木申達候処、朝弥太郎被指添、始中終御懇答、殊七月可被入御輿儀、猶以御儀定之旨被顕御状候間、愚拙歓喜何事と可遂之候哉、心腹難尽筆紙候、就中五ケ条蒙仰候、一ゝゝ御返答申述候、然ニ沼田・吾妻急速可渡給由、弥御真実之模様、氏直大慶、於拙者も忝候、委曲使を指添申入候間、具御返答待入候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/徳川殿
戦国遺文後北条氏編2547「北条氏政書状写」(古案敷写)

その他の例を見ても、北条氏政は1580(天正8)年の家督譲渡後は一貫して隠居の立場を前提に動いていて、重大な外交決定では決裁を全て氏直に一任している。これは彼の死に至るまで一貫している。

だから、氏政が滝川一益への書状で「氏政父子」と自ら書いているのには強い違和感を感じてしまう。そもそも、氏政が隠居して花押を改める契機となったのが織田方との新たな交渉のためであったことを考えてみても、こういう書き方はしなかっただろう、としか思えない。

家督継承前

1579(天正7)年比定2月24日付・清水入道宛・氏政名義

  • 「氏直をハ不同心候、当城ニ為立馬申候、為心得申遣候」戦北2055

家督継承

1580(天正8)年8月19日付・截流斎名義

  • 「天正八年庚辰八月十九日、氏直江直ニ相渡者也、仍如件」戦北2187

家督継承後

従金山之一札到来、先段者給候ニ内儀候間、愚意委細申越候キ、何時も河辺之人衆、被引立候者、自元大途事ニ候間、直ニ氏直江被相達可然候、其勘弁肝要候、猶ゝ給候者、内談候得者、其筋目申候、扨又、見当而可被致筋目候者、尤旁ゝ可有御出陣上ハ心易候、恐ゝ謹言、
二月十五日/氏政(花押)/安房守殿
戦国遺文後北条氏編2305「北条氏政書状」(根岸浩太郎氏所蔵文書)1582(天正10)年比定

願書右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、
天正十年三月廿八日/氏政(花押)/三嶋神主殿
戦国遺文後北条氏編2329「北条氏政願文」(三嶋大社所蔵)

所存江雪所へ被申越候、尤ヶ様之儀、意見神妙候、任申遣願書候、国主之儀候間、氏直可遣子細候へ共、輿之一ヶ条肝要ニ候条、氏直者難書子細、依之愚老如此遣之候、又なて物之事ハ、本人之を置物候間、陣中へ早ゝ可被申上候、恐々謹言、
三月廿八日/氏政(花押)/清水上野入道殿
戦国遺文後北条氏編2330「北条氏政書状」(東京都練馬区清水宏之所蔵)1582(天正10)年比定

今度之模様無是非候、然者長新就在府、初中後共様子有様ニ相談、自彼方使被指越候、委細可為演説候、向後之儀者氏政可為証人由候、隠遁之上雖思慮候、相任其儀上者聊別儀有間敷候、勘弁之上早々落着専肝候、恐々謹言、
十二月七日/氏政(花押)/岡部左衛門尉殿
埼玉県史料叢書12_0731「北条氏政書状」(岡部忠勝家文書)1584(天正12)年比定

北条氏政の念押し文書

氏政については、1569(永禄12)年に越相同盟交渉中の上杉家被官に、武田方との戦闘状況を伝えているものがある。見て判るように平明な書き方であって、例の文書に見られる混乱した表記はない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿
戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

里見義頼の情報

天正10年6月に、例の文書とほぼ同時に里見義頼が出した書状では、情報の出どころとして徳川氏が挙げられ、同時に、氏直から出陣催促があったと告げている。一方で、上方・信濃・越後・駿河の状況について何か情報がないかと太田資正・梶原景政に質問している。そして、この情報は佐竹義重もほしがっていると書いており、徳川・後北条以外からの情報が途絶したようにも見える(上野国の滝川一益は話題に上っていないので不明)。

徳川家康注進之由、随而自相府如被申越者、於京都信長御父子生涯之由候、依之氏直早速出陣候間、当方も加勢所望候、一、上口之様子并信・駿之儀如何被聞召候哉、一、越国之模様是又承度候、一、義重以切紙申通候、自其御届頼入候、如兼約此度以使雖可申述候、其筋之様子難測候条、遅退非疎折候、恐々謹言、
六月五日/義頼(花押)/梶・三
埼玉県史料叢書12_0627「里見義頼書状写」(温故知新集)6月15日の可能性を示唆。

徳川家康が報告したとのこと、それに従って小田原からの使者が話していたのは、京都において信長御父子が死んだということです。これによって氏直から、すぐ出陣するから加勢するようにと指示が来ました。一、上方方面の様子と、信濃国・駿河国のことはどのようにお聞きになっていますか? 越後国の状況も伺いたく思います。一、佐竹義重が切紙で申し通してきました。そちらよりのお届けを頼み入ります。兼ねてからの約束通り、この度は使者によって説明するでしょうが、その筋の様子は予測しがたく、遅滞をしても粗略に思ってのことではありません。

2017/06/12(月)北条氏康の「次男」は誰か?

1552(天文21)年3月21日に長男が亡くなると、氏康の次男氏政が繰り上がりで長男となる。

この後、1555(弘治元)年11月~翌年10月の間に、北条氏康の次男が頻出する。「藤菊丸」は古河公方・座間との関係性から見て北条氏照であり、伊豆若子は助五郎の仮名を持つ北条氏規である可能性が高いとされる。

  • 弘治元年11月23日の足利義氏元服式に登場する「北条藤菊丸氏康二男」
  • 弘治2年5月2日座間鈴鹿明神社棟札にある大檀那「北条藤菊丸」
  • 弘治2年10月2日『言継卿記』で駿府にいた伊豆若子「大方の孫相州北条次男也」

これは、古河公方を初めとする関東には氏照が次男、今川義元を初めとする上方には氏規が次男という二枚舌を氏康が用いたことになるのだが、そのようなダブルスタンダードを安易に用いるのだろうか。ここに疑問がある。

氏規が言継に次男と認識された背景には、既に氏照が大石家の養子になっていて繰り上がったのではとも指摘されるが、藤菊丸は一貫して「北条」であり「大石」ではない。藤菊丸はあくまで氏規で、弘治2年5月以降に駿府へ移り、その後を幼名不詳の氏照が継承した可能性は存在する。

氏照は「委細息源三」(氏康)「氏政舎弟北条源三」(輝虎)「委細弟候源三可申候」(氏政)と書かれていて、次男であるという記載はない。これは助五郎氏規も同様である。ただ、氏照が「奥州様」と呼称される一方で氏規は「美濃守殿様」と呼ばれることもあり、格差はありそう(埼玉県史料叢書12_0697「酒井政辰書状写」)。

この点から、氏規は一貫して次男待遇であり、藤菊丸だった可能性もまた同様に高いのではないかと思われる。氏照は氏規より年下だった可能性も検討すべきではないかと思う。

2017/04/28(金)葛山・瀬名は本当に今川に反したのか

葛山氏と瀬名氏は、永禄11年12月13日の武田侵攻時に今川から離脱したされる。それは根拠として以下の文書が使われているのだろう。

武田晴信が荒河治部少輔に由比山助太郎分60貫文を与える


今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候、因茲由比山方ノ内チ、助太郎分六拾貫文之所進之置候、弥可被抽戦功条可為肝要候、恐々謹言、
永禄十二年己巳二月廿四日/信玄/荒河治部少輔殿
戦国遺文今川氏編2283「武田晴信書状写」(香川県さぬき市・甲州古文集)

改めてよく読んでみると、瀬名氏が寝返った証拠は実はない。武田方に忠節した葛山氏元がいて、それに同心した荒河治部少輔が「瀬名谷」に退いたから「瀬名氏が寝返った」としているだけだ。同時代史料において、瀬名尾張守元世は氏真に随伴して掛川で籠城している(2月26日付・戦国遺文今川氏2287「小笠原元詮・瀬名元世連署状」大沢文書)。地名瀬名谷からの連想よりも、こちらを優先すべきだろう。

では葛山氏はどうだったのかを考えてみる。上記文書には下記の類似文書が存在する。

武田晴信が安東織部佑に駿府周辺の知行を与える


一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文。今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十ニ己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿
戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)

この文面で、次の2文が酷似している。

1月11日:「今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候」 2月24日:「今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候」

文面酷似自体はよくあることなので気にはならないが、問題は「葛山備中守殿」である。朝比奈右兵衛大夫にはついていない。葛山氏元が通常の国衆より格上に見られたということかとも思ったが、その割に、「殿」の後の語に敬語がない。「葛山備中守殿被御忠節」だったら違和感はないのだが。

そこで改めて疑惑の目を向けてみる。安東宛のものは1月11日で、乱入から大体1か月くらいの発給となる。とすればこの文書は駿河に乱入する際に、朝比奈右兵衛大夫が武田方として忠節に及んだ状況を説明したものだろう。端的に書かれ過ぎていて断定はしづらいが、描写できなくはない。

安東織部佑が瀬名谷に「用心のため」退いたのは、武田方主力が駿府を目指し、瀬名谷南方を横切った後なのだろう。瀬名谷にいた朝比奈から寝返りが申し出され、安東らが引き返した。これは本当に寝返ったかの確認で、安東は前線から離脱したものの瀬名谷の組み込みを完了した。そう考えると、駿府攻撃に同行こそできなかったが功績は大きい。

朝比奈氏に関連した寺院は現在でも沓谷周辺にあり、そのすぐ北方である瀬名谷に朝比奈右兵衛大夫が居を構えていた可能性は充分ある。

では荒河治部少輔も、安東と同じ行動をとったのかというと、これには強い違和感がある。先に書いた敬語のちぐはぐさもあるし、駿東の葛山氏元が武田に忠節(=寝返り)をし、荒河がそれに同心したからといって、なぜ荒河は瀬名谷まで移動して退かなければならないのだろうか。

朝比奈右兵衛大夫・安東の行動と絡めてみようとしてもうまくいかない。「令同心」とあるからには荒河治部少輔は今川方であったと思われるけれど、その名は戦国遺文今川氏編に出てこず、正体は不明。

単純に考えるなら、安東宛文書を見て荒河宛文書が作られたとした方が自然で判り易い。作成目的は「葛山氏は武田方に寝返った」ことを証明するためだろう。

2017/04/20(木)北条氏政引き籠り事件はあったのか?

上洛を嫌って引き籠もったという説を持っている北条氏政だが、事実はどうだったのかを史料から検討

 「氏政が上洛を渋った」という論拠になったかも知れないのが『氏政引き籠もり事件』の存在。これは北条氏規書状写(11月晦日付け・酒井忠次宛・戦北3548)に書かれている。戦北ではこの状況を開戦直前の天正17年に比定、その前後にある「氏政上洛遅延」と絡めて解釈している。ここから「上洛するのが嫌で開戦した氏政」みたいな評価にも繋がっている可能性があるなと。

 ただこの文書は、下山年表や黒田基樹氏『小田原合戦と北条氏』で天正16年比定としていて、私もこちらの比定が正しいと考えている(11月に入ってすぐに名胡桃事件が発生していてタイミングがおかしい点、引き籠もりの契機となった氏規上洛は天正16年8月で、それが同年11月まで継続したと考えた方が自然な点から)。

 問題の箇所は、氏規が忠次に書いたと思われる書面「御隠居様又御隠居」に対応して、その理由を説明した部分になる。

問題箇所原文

去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候

下山氏

北条氏政は氏規の上洛に反対して屋敷に引き籠もり無言の抵抗をしている

黒田氏

氏規の上洛以後、それに反発して政務の場に出なくなって、一切政務に口出ししないという状態

高村

前に私が上洛した時分から強引にお引き籠もりになり、少しのことであっても、再び変更を言い立ててはならないと仰せになっていました。揺るぎないご様子だと思っています。

 下山氏・黒田氏ともに、フィルタを通して解釈してしまっているように見える。氏政の上洛が遅延したことは事実であり、それと結び付けて「氏規の上洛に反対する氏政」という思い込みから解釈しているのではないか。

 また、恐らく「重而者綺有間敷」と「無是非御模様」の解釈も、それぞれの両義性を無視してしまい、一面的に解釈しているのではないか。

 「綺=いろい」の意味は実例を見ても「異議申し立て・再審議要求」で問題ないと考えられる。下山・黒田各氏の解釈だと「(上洛してほしくない氏政の気持ちには)少しも再度の変更はない」といった感情面に行き過ぎた、括弧書きの多い内容になってしまう上、「綺」をこのような用途には使わないという点に難がある。

 「聊之儀ニも=ほんの少しのことでも」「重而者=かさねて=二度と」「綺有間敷=異議申し立てしてはならない」と言って氏政は引き籠もったのであって、そのまま解釈すればよいと思う。

 ということで、異議申し立てを禁止するからには何かを決定したのだろう。そして、その決定の再審を封印するために隠居の上の隠居を敢行したと言える。

 一方の「無是非=ぜひもない」は実例を見るとA~Dの4パターンが存在する。私が収集した文書データで検索をかけると、この文書を除いて48例が見つかった。

  • A)やむを得ない 19例 不本意な状況で
  • B)明白・明らか 16例 証明する状況で
  • C)手の打ちようがない 7例 状況不明で
  • D)弔辞 6例 「不本意」のバリエーション

 基調となる意味は「論ずるまでもない」でよいのだが、語の範囲が広い。氏政の行動を「無言の抵抗」とまで言う下山氏解釈はA、それよりは中立的な黒田氏解釈はCに該当すると思われる。私は、再審を禁じた氏政の行動を受けての文なのでBではないかと考えている。

 では、氏政が固守しようとした「決定」とは何なのか。

 北条氏規の上洛は天正16年8月のこと。この前の5月21日付けの家康起請文で「進退の保証はするから兄弟衆を上洛させよ。従わないなら家康娘を返してほしい」と言われている時期で、7月23日になっても「濃州上洛依遅延」で家康から催促されている。この混乱を経た氏規上洛で「後北条は羽柴に出仕する」という関係が固められた。氏政籠居はこの従属関係を固定させるためのもので、何者かが「従属か決戦か」の判断を覆し、再論にまで引き戻そうとしていたのだと考えられる。

 この、通説と異なる氏政像は他の文書と矛盾するだろうかと、色々と見ているがこれまでのところ矛盾は見つからず、かえって補強する材料が出てきている。

 たとえば、沼田接収での差配も氏政が氏邦に指示を出しているし、その書状の中でも自身の上洛を「我ゝ一騎上ニ而済候、多人衆不入候」と、少人数での実施として現実的に想定している(小田原市史資料編小田原北条1952・北条氏政書状)。

 では、何故氏政が主戦・独立派として通説に上がってくるのか。

 天正15年と17年の12月、戦闘が近づくと氏政は招集や普請に関する書状を出し始める。これをもって、氏政が独立派であり上洛を忌避したというストーリーが組み立てられたのではないだろうか。

 ところが、史料から見られる像としてはむしろ氏規と連携した従属派に近いと思う。独立派として私が現段階で想定しているのは、伊達家との同盟を過信した氏直・氏照だが、こちらはまだまだ実証にまでは至らない。

 実はこの文書、とても重要なことが書かれているのは確かなのだけど、読めば読むほど解釈が判らなくなる魔魅のような存在で、私の力量では仮説を立てるのも覚束ない難物。このほかにもいくつもの疑問点があるが、上記のように、とりあえず判るところだけを書きぬいてみた。

原文

内ゝ今日者可申上由、奉存候処、一昨廿七日之御書、只今未刻奉拝見候、一、軈而御帰可被成由、被仰下候、此度者懸御目不申候事、折角仕候、二月者御参府ニ可有御座間、其時分懸御目申候て可申上候、一、御隠居様又御隠居之由、被仰下候、去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候、一、一両日以前、妙音院・一鴎参着、口上被聞召届候哉、拙者所へも冨田・津田状を越申由、一昨廿七日之御書、参候シ、自元口上者、是非不承届候、将亦一昨日朝弥・家為御使参候、此口上を家へも自関白殿被仰越候間、可然御返事尤由、比一理にて参由申候シ、朝弥、自妙音院申候とて物語申候分者、此度之儀者、沼田之事ニ参候、御当方御ために可然御模様之由申候シ、定而御談合可有御座候、珍儀御座候者、可被仰下候、一、足利之儀、如何様ニも可被為引付儀、御肝要与奉存候、定而自方ゝ扱之儀、可有御座候、御味方ニさせらるゝ程之儀ニ御座候ハゝ、殿様御手前相違申候ハぬやうニ、兼而被御申上、御尤ニ御座候歟、但何事も入不申御世上ニ御座候、我等式者、遠州之事ニも何ニも取合不申候、年罷寄候間、うまき物を被下度計ニ御座候、返ゝ此度懸御目不申候事、何共ケ共迷惑不及是非奉存候、猶自是可申上旨御披露、恐惶謹言、追而、一種被下候、拝領過分奉存候、併はや殊外之まつこに罷成候、又一種進上仕候、御披露、
十一月晦日/美濃守氏規(花押)/酒井殿
戦国遺文後北条氏編3548「北条氏規書状写」(武州文書十八)