2021/05/29(土)天正元年の韮山城攻防戦

北条氏規と韮山合戦

北条氏規の書状を新たに見つけたので解釈・考察を試みる。

天正元年8月、駿河侵攻中の武田晴信に韮山城が攻撃されていた時のもので、岩田弥三という人物に韮山籠城の状況を伝えつつ、銃器の増援を要請している。

原文

急度注進申上候、今日者敵未明ニ当城へ取懸申候、かつ田も不致候、町場・和田島両口へ取寄申候キ、町場を致払候、我々自身懸合申江川はし前より押返申候、■■■山角物主ニ御座候、大藤涯分走廻候、然者和田島ハ伊奈四郎・小山田・武田左馬助此衆物主、両度対和田島致可払由候キ、涯分及坊戦押返、今日者為焼不申候、定而明日者惣手を以、可致候由存候、見合指引可申付候、乍去御心安可被思召候、随者今、午尾、遠山新四郎かせ者、敵へ走入申候、其後信玄はたもとしゆ十八町へ鑓を取候而、段々ニ被帰候間、十八町へてつほうを重堅固申付候、只今申被引退候、惣手之人数入申候、先日も申上候てつほう不足ニ御座候、はなしてハ御座候間、筒ハかり借可被下候、若十八町之■やく何共迷惑奉存候、有様ニ申上候旨、可預御披露候、恐惶謹言、
八月十日/助五郎氏規/岩田弥三殿
鉢形領内に遺された戦国史料集第三集p104「北条氏規書状写」(岩田家系録文書)

解釈

取り急ぎ報告します。今日は敵が未明に当城へ攻撃してきました。苅田もせず、町場・和田島の両口へ攻め寄せました。町場からの『払い』をするため、我々自身が応戦し、江川橋の前から押し返しました。山角が物主で、大藤がとても活躍しました。

そして和田島へは伊奈勝頼・小山田信茂・武田信豊が物主となり、二度にわたって和田島に対して『払い』を試みていたようですが、目一杯防戦して押し返し、今日は焼かせませんでした。

きっと明日は総攻撃をかけてくるだろうと思います。とはいえ、状況に応じた駆け引きを指示しますから、ご安心下さい。そしてこの午の下刻、遠山康英のかせ者が敵方へ逃げ込みました。その後、武田晴信旗本衆が鑓を取り、十八町へ徐々に帰っていきましたから、十八町へ鉄炮を追加配備するよう指示しました。

現状では敵が退いていますが、全ての兵力を入れてくれば、先日も申しましたように鉄炮が不足します。射撃手はいますので、銃身だけをお貸し下さい。十八町への供出といわれてもお困りでしょうが、ありのままを申し上げます。宜しくご披露下さい。

考察

各地名

伊豆の国市が公開している『韮山城「百年の計」』内の「第2章韮山城跡の調査・研究1韮山城跡の研究史(p21~)、2韮山城跡の発掘調査概要(p31~p50)」の6ページ目に詳しい。

稀出語

「致払」が固有語のように使われている。他例がないが、一定領域に対して敵軍を排除する意味合いだと思われる。

「走入」の解釈

引用元の戦国史料集では「突撃」と解釈しているが、他例の「走入」は戦場だと「敵に投降する」ことを指す。後北条は兵数が劣っていたため、「かせ者」(武家の付き人)が逃げ込んだのだろう。武田方がそれを受けて兵を引いたのは、かせ者から情報を得るためだと考えられる。

誰に伝えたものか

結句の「恐惶謹言」が厚礼であること、鉄炮供出を岩田弥三が「披露=具申」するように求めていることから、氏規は弥三を介して上位者に呼びかけたものと思われる。8月13日付の「大石芳綱書状」から、氏康・氏政は小田原、氏邦は鉢形にいることが確実なので、氏照かも知れない。8月21日に泉郷へ禁制を出している宗哲が最も可能性が高そう。同じ韮山城に入っている氏忠にこのような戦況を報告するとも思えないので、宗哲が三島に入っていたか。山角康定書状から、韮山城の軍勢が寄せ集めであることが判る。そう考えると、宗哲の下につけられた岩田弥三は氏邦から貸し出された人材だったかも知れない。

関連文書

1)北条氏政から北条高広に宛てた書状

原文

九日之註進状、今十二未刻、到来、越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候、於要害者、何も相違有間敷候、人衆無調、于今不打向、無念千万候、縦此上敵退散申候共、早ゝ輝虎有御越山、当方之備一途不預御意見者、更御入魂之意趣不可有之、外聞与云、実儀与云、於只今之御手成者、笑止千万候、能ゝ貴辺有御塩味、御馳走尤候、恐々謹言、
八月十二日/氏政(花押)/毛利丹後守殿
小田原市史資料編小田原北条0985「北条氏政書状」(尊経閣所蔵尊経閣文庫古文書纂三)

解釈

9日の報告書が今日12日未刻に到来しました。上杉輝虎への依頼で度々飛脚を出されているそうで、喜ばしいことです。

さて敵は、去年黄瀬川に陣取って、毎日韮山・興国寺へ動いています。韮山は今も外宿を堅固に維持し、要害はどこも相違ありません。兵数が準備できずに今は出撃できず無念千万です。

この上で敵がたとえ退散したとしても、輝虎が早々にご越山し、当方の備えを一途にご意見を預けないなら、さらに昵懇の意趣があってはなりません。外聞といい実儀といい、今のご所作は悔やまれてなりません。よくよくあなたもお考えになり、奔走するのがよいでしょう。

2)上記氏政書状への山角定勝添え状

原文

去九日之御状、十二参着、七日之御状、同前ニ為申聞候、御精ニ被入、切ゝ預御飛脚ニ候、祝着之由被申候、然者信玄至于今日、豆州にら山口日ゝ相動候、此時者、可被打置儀ニ無之候間、為可被遂一戦、人数悉被相集候、物主衆ハ何も懸被付候へ共、人数無調ニ候間、一両日相延、来十八九之間、必乗向可被致一戦候、勝利無疑候、敵ハ八千計ニ候、此方ニも、城ゝニ被籠置候へ共、自当地打立人数七八千可有之候、殊ニ地形可然所ニ候間、信玄可打取儀眼前ニ存候、にら山籠衆氏政舎弟助五郎并ニ六郎、其外清水・大藤・山中・蔵地・大屋三手ニ及楯籠候間、城内之儀者、可御心易候、去九日、町庭口と申所、にら山之城より、一里計外宿ニ候所ニ、山形三郎兵衛・小山田・伊奈四郎為物主、五六手寄来候所ニ、自城内人数を出相戦、敵十余人城内へ討捕候、彼地形一段切所ニ候間、敵手負無際限由申候、委氏照可申達候間、無其儀候、然ニ越御出馬御遅ゝ、不及是非候、急候間、早ゝ及御報候、恐ゝ謹言、
八月十二日/山四康定(花押)/毛丹御報
戦国遺文後北条氏編1435「山角康定書状」(尊経閣文庫所蔵文書)

解釈

去る9日の書状が12日に到着し、7日の書状も同じく伺いました。熱心にも、事あるごとに飛脚を送っていただき、祝着であるとのことです。

そして武田晴信は、今日になって伊豆国韮山に向かって毎日作戦しています。こうなると放置できないので、一戦を遂げるために軍勢を集められています。物主衆が全て駆けつけていますが、兵数が揃わずに一両日延期となり、18か19日に必ず乗り向かって一戦するでしょう。勝利は疑いありません。

敵は8千人ばかり。こちらでも城々に籠城させ、当地より出撃した兵数は7~8千になるでしょう。殊に地形が有利なので、晴信を討ち取るのは眼前だと思います。韮山に籠城しているのは、氏政舎弟の氏規と氏忠、そのほか清水・大藤・山中・倉地・大屋が三手に分かれて立て籠もっていますから、城内についてはご安心下さい。

9日に、町庭口という韮山城より1里ばかりの外宿に、山県昌景・小山田信茂・伊奈勝頼を物主として、5~6手が攻め寄せたところ、城内から兵を出して戦い、敵を十余人城内へ誘い込んで討ち取りました。その地形は一段と切所だったので、敵の負傷者は際限がなかったそうです。

詳しくは氏照がご報告しますので、省略します。しかるに、越後衆の御出馬が遅れられているのは、どうにもなりません。急いでいますから、早々にお知らせ下さい。

3)大石芳綱書状写

原文

今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人韮山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏、払、候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ、擬、見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、滝山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無体御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正体為体ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ韮山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為体ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無体と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中
神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)

解釈

今月10日、小田原へ到着した際に御書状などをお出ししたので、途中から申し上げます。

遠山康光は親子4人で韮山に在城しています。氏邦殿は鉢形におられ、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われたので、氏邦殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角康定・岩本定次の3人が御書状を受け取り翌日お返事なさいました。

互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか、または、氏邦殿に松田などの1人か2人を添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しました。

しかし、伊豆国に信玄が陣を張っていて手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。

そしてまた、御越山により厩橋にご出馬する前提で、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。もし長く証人となるなら、知行を与えようとのお考えもあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿へ見せようと山吉豊守が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得ありませんでした。

余りに理解がなかったので、ならば北条綱成の子を、どちらか1人倉内へ送ればどうか、または松田の子でもいいと申しましたが、これも納得ありませんでした。

ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人でも3人でも御陣下に置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人でも2人でも滝山か鉢形に置けばよいと、建前論で仰せられました。

ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。特に遠山左衛門尉は定まりません。気の毒なことです。

私はここに滞留しても一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われていますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。

信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。

私に帰るようにとご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々にお寄越し下されますように。

また、篠窪治部のことは、氏邦殿へ直接申していますが、一向に応答がありません。遠山康光から振り出された手形2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。

追伸:追加の御用は、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留して用事もありませんので、帰還するようご指示を。最終的には御前のお考えに従います。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。

4)北条宗哲禁制(泉郷=現在の清水町)

原文

禁制、泉郷右、当郷江罷越、作毛刈取事、堅令停止了、若押而於刈取者、即搦捕可申上者也、仍如件、
午八月廿一日/日付に(朱印「静意」)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1440「北条宗哲禁制」(泉郷文書)

解釈

禁制、泉郷右の郷にやってきて、農作物を刈り取ることは堅く停止させる。もし強引に刈り取る者がいれば、すぐに捕縛して申し出るように。

2021/05/26(水)後北条氏の総動員と聚楽行幸

小牧・長久手の後日譚

天正12~13年、徳川家康は娘婿の北条氏直と同盟して、羽柴秀吉に当たる戦略を組んでいた。その状況が一変し、織田信雄の仲介で家康は秀吉に従属することを決断する。そのため、氏直の諒解を得てから上洛している。

天正14年11月15日、京から帰った家康は大急ぎで氏直に書状を送り、秀吉との調整がうまく落着したと伝え、関東に対する秀吉の要求を送った。内容は不明だが、恐らく氏直の上洛・出仕の要件が盛り込まれていたのは確実だろう。この時点で秀吉は関東案件を家康に委託し、今後は家康が提唱する「関東惣無事」に則ることを片倉・多賀谷・白土らに申し送っている。そして、九州に遠征する直前の翌年2月24日、家康に改めて依頼していた。

しかし、なぜか氏直も家康もその準備をした様子が全くないまま、秀吉が九州にかかりきりになっているのを横目に、1年もの間羽根を伸ばしていた。

そのまま時は流れる。天正16年12月12日に氏政は下総森山の仕置を行っていて、来春の再攻撃を予告し準備をしていた(12月5日に氏照が「来春者早々其表へ御出馬有之様ニ可令馳走候」と書いているので、この時点での家中共通認識と言っていいだろう)。

後北条氏の挙国防衛体制発動が突然発動

ところが12月24日になると「京勢催動之由」を真に受けた後北条家中は最高度の軍事緊張の中で右往左往しており、この状況は翌年1月14日まで続く。氏直・氏政だけではなく、氏照・氏忠・氏房も慌ただしく動いているから、かなり本気の対応。

その一方でこの時、家康はのんびりと鷹狩を楽しんでいたし、秀吉は肥後・豊前の一揆討伐を指示しつつ聚楽行幸の準備に忙殺されていた。この落差は何か。

後北条氏の「京勢」言及表現

天正15年
  • 12月24日:京勢至于初春可発向由告来間~万一京勢発向実儀ニ付而者(虎朱印)
  • 12月28日:京勢陣用意之由告来儀(氏政)
  • 12月28日:京勢催動儀、必然之様ニ告来間(氏政)
天正16年
  • 1月7日:京勢催動之由註進間(虎朱印)
  • 1月14日:京勢催動之由注進間(虎朱印2通)

史料を見ると、12月24と28日の記述では、羽柴方の出陣は1月とされている。そして1月7と14日のものは「京勢催動」が報告されている。

武田滅亡時に、情報がないとしてなかなか動けなかった後北条氏は、情報を得た甲信遠征では機敏に対応している。このことから考えると、確実な情報があったから動いたと見ていいだろう。

ではこの報告をしていたのは誰か。

京勢出陣の報告者

交戦中の佐竹・宇都宮や、その背後にいる上杉から流され、氏直は家康に確認。家康は否定したものの氏直は猜疑心から臨戦態勢に入ったとも考えられる。しかし、12月と1月で報告内容が「出陣準備」から「出陣」に切り替わっている。家康すら信用しなくなった氏直は、この情勢変化を誰から聞いたのかという疑問が残る。

あとは、家康が情報源だった可能性が考えられる。この時の家康の行動を家忠日記で見てみると、西三河での鷹狩を終えて12月20日前後に駿府へ帰っている。そのまま駿府で城の普請などを行ない、年が明けて1月29日に「中泉」(磐田)へ鷹狩へ。2月5日に帰還すると、17日に「聚楽行幸参加の上洛は28日」と布告(但しこれは雨天で順延し出発は3月1日)。

箱根を隔てた小田原で後北条分国が最大の臨戦態勢に入ったとは思えない行動だ。秀吉の出仕命令に服さない氏直に対して「羽柴方が出陣した」とブラフをかけたにしては、何とも緊張感に欠ける。

とすると、在京被官を活用した可能性がある。在京していれば、秀吉が聚楽行幸の直前に出陣するという荒唐無稽な情報を流すとも思えないが、京に慣れない小田原の者が行幸準備の慌ただしさを出陣準備と勘違いした可能性は捨てきれない。

この時期に在京した後北条被官は、笠原康明がいる。これは同年2月25日の施薬院全宗書状に名が出てくることからほぼ確実。

消去法になってしまうが、家康への不信感から、別個の情報源として急遽在京した笠原康明の早とちりが後北条の国家総動員を招いたというのが現状の結論になる。

御札殊臘燭一折、御懇情祝着仕候、随而従切流斎尊書并両種拝受候、忝存候、可然様御取成奉憑候、不計御上洛待入候、猶笠越可被申展候条、令省略候、恐惶謹言。尚ゝ、勅作薫物十貝・照布一端令進之候、表祝儀計候、二月廿五日/全宗(花押)/北条美濃守殿御返報戦国遺文後北条氏編4535「施薬院全宗書状」(韮山町・堀江伴一郎氏所蔵文書)天正16年比定

結局何も起きなかったことから氏直は警戒を解いて東部戦線に復帰するものの、家康への不信感は残っただろう。ちなみに、この失点があったからか、笠原康明はその後ぱっとした活躍はしなくなる。天正17年11月に沼田割譲の御礼で上洛したのは石巻康敬だった。

家康・秀吉が遅れて反応

しかしこの後、今度は秀吉・家康側で緊迫した状況になる。

家忠日記を見ると、天正16年4月27日に聚楽行幸を終えた家康が京から帰還すると、その翌日に「小田原江被仰様不相済候由候」とある。更に5月6日「相州と上と被仰様事きれやうニ」とあり、氏直と秀吉が決裂したとある。

聚楽行幸に際して家康が氏直を連れてくると秀吉が考えていて、恐らく家康は秀吉から氏直の不在を咎められたのだろう。2月25日に施薬院全宗が氏規上洛に言及していることから、家康としては「氏規をまず連れてきました」とごまかすつもりだったか(恐らく氏規上洛までは合意が取れていた)。

何れにせよ、不信感から後北条氏は音信を断っていたと思われる。

秀吉の剣幕に押された家康は5月12日に、氏直と氏政に向けて起請文を出し「今月中にせめて氏規の上洛を確約せよ」と迫っている。

何となくだが、怖い上司が長期出張している間、勝手な行動でさぼっていた部下同士のいざこざに見えてしまう。

1年以上にわたって家康と没交渉で状況が読めず、4ヶ月前までは上方との決戦を覚悟して身構えていた氏直からすると、ますます家康への疑心が強まったと思われる。

余談:聚楽行幸の序列

天正16年4月14日に行なわれた聚楽第への行幸には、織田信雄と徳川家康が参加している。3月19日に近江草津に到着した家康に比して、信雄上洛はかなり遅れたようだ(3月20日付で秀吉が「行幸前候間、早々上洛待入候」と信雄に書き送っている)。

もしもだが、聚楽行幸に氏直が参加したとして、彼はどの位置にいられたか。愛知県史にある順列を見てみる。武家で最前列に立つのは信雄。烏丸光基を挟んで家康、更に日野輝資を間に置いて秀長が続く。この後は公家衆が続き、先駆けの最後尾に秀家が納まる。

この後ろに増田や石田といった秀吉近臣がずらりと並んで、秀吉の乗輿が進み、それに扈従して利家を先頭に外様太守が列をなす。越後内乱で参加できなかったが、少将である景勝はこの序列の上位に入るだろう。更に後ろには秀勝・秀康のほか、長谷川秀一・堀秀政・蒲生氏郷らが名を連ね、最後尾が長宗我部元親。氏直が上洛した場合、入れてこの後ろ。むしろ、列にも入れなかった可能性が高い。家康被官の井伊直政ですら後ろから3番目に入っているのに。

奇跡的に氏直が上洛したとして、この扱いに彼が耐えられたかはかなり疑問。

2020/11/12(木)後北条氏の評定衆

前提

手持ちのデータとして集めた虎朱印状は1,010件あり、このうち虎朱印の下に被官・一門の名があるものは56%(563件)存在する。

従来の仮説では、これを「虎朱印を奉じる者=奉者」としてひと括りにしていたが、それらとは異なる独自の特徴を持つ一群が存在する。これを「評定衆」として定義してみる。両者を比較すると以下の差異がある。

評定衆 奉者
表記 名字を書かない 一門・出家以外は名字
肩書 評定衆を名乗る 名乗りなし
花押 原則据える 原則据えない
人数 8人 99人
件数 47 443

虎朱印の下に花押を据えた史料の一覧はこちら

まず登場したのは石巻家貞と狩野泰光。同じ年に、笠原綱信と清水康英が連署として「評定衆」を名乗った文書があるが、文書は写しである点、二人とも名字を名乗っている点、花押がない点から要検討として除外したい。

その後は狩野泰光が一貫して評定衆として登場し、永禄11年2月に評定衆としての活動を停止する。出家して一庵を名乗り、北条氏照の指揮下に異動したようだ。その4ヶ月後に石巻家貞が登場し、こちらもそれをもって活動を停止する。これを評定衆第1世代とする。

第2世代である石巻康保・依田康信・山角康定は、永禄12年~元亀3年の3年間で登場していく。その後、天正7年に康保の活動が停止するものの、康信と康定は後北条氏最末期まで活躍している。

  • 例外1:花押を据えた者としては、「奏者」と名乗った遠山直景のものが最も早い。1525(大永5)年だから、虎朱印の上に「調」朱印を捺されたりという形式模索が行われている頃でもある。ただ、直景の息子の綱景もまた虎朱印下の花押を据えている(34年後の永禄2年)。恐らくこれは、石巻家貞・狩野泰光らの評定衆とは別系統として存在した可能性がある。

  • 例外2:山中康豊は北条氏規の指揮下にあり、海に関する文書で登場する。康豊は永禄9年に1回だけ虎朱印下花押を据えている。「評定衆」の名乗りはないものの、「修理亮康豊」という名乗りは他の評定衆と同じ。この時期に虎朱印と評定衆のシステムで何かの異常が見られたか。

  • 例外3:石巻康敬は「石巻彦六郎」と名乗り、評定衆としては異例な名乗り。但し花押は据えている。この文書は、武田晴信の駿河侵攻に伴って北条氏政が駿東在陣していた際に発せられた軍事的指示。石巻家貞と康保の間にあって、石巻家が評定衆世襲だったすればだが、混乱があったと思われる。

  • 例外4:垪和康忠が天正9年に一度だけ評定衆となっている。これは天正7年に石巻康保が退場したことを受けて、康忠が評定衆に加わったかも知れない。康忠は奉者として最多の48回登場。奉者として突出した活躍が認められて、評定衆に登用されたか。

評定衆をまとめると、以下のように分布している。

氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻家貞 2 0 1555(天文24)年1月21日~1568(永禄11)年6月28日
狩野泰光 7 2 1555(天文24)年3月21日~1568(永禄11)年2月10日
山中康豊 1 0 1566(永禄9)年8月28日 評定衆記載なし
石巻康敬 1 8 1569(永禄12)年5月16日 評定衆記載なし・彦六郎名
石巻康保 11 4 1569(永禄12)年6月10日~1579(天正7)年6月20日
依田康信 10 0 1569(永禄12)年10月27日~1588(天正16)年7月20日 確実な登板は1577(天正5)年2月11日
山角康定 15 5 1572(元亀3)年3月21日~1589(天正17)年6月28日
垪和康忠 1 48 1581(天正9)年10月25日

虎朱印が受給者へと伝達されるルートがどのように区分けされたかを図にまとめると以下のとおり。

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これら評定衆は、石巻・狩野・山角といった根本被官のみで構成されている。一方、奉者は、上は一門の北条氏規・氏照や氏邦から、下は「万阿弥」といった出家や「中将」という出自不明な人物などがごった返しているような状況。

名字は書かないことは、必ず花押を据えて個人特定を念入りにしている点と一見矛盾する。ただ、後北条の一門(氏規・氏照・氏邦ら)が名字を名乗らない(彼らの場合は受領名のみ記載)ことと合わせて考えると、評定衆たちは擬似的に北条一門の立場を持っていたのかも知れない。

後北条家中における、虎朱印奉者(取次・指南)とは異なる階層「評定衆」が存在したことの根拠史料

三例を挙げてみる。それぞれの動きを追ってみると図の通り。

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吉良氏朝の認識

吉良氏朝が山角康定に宛てた書状では、太守(氏政か氏直)への申し立てを康定経由で行おうとしたものの、康定が出陣して不在だったので幸田定治・板部岡融成と交渉した。ところがそれでは不安であり、康定の介入を要望している。

しかし、頼りにならないとした板部岡融成は40回、幸田定治は13回奉者として登場しており、奉者としてのみ見れば、氏朝が頼みに思った山角康定の5回を大きく上回っている(評定衆と奉者を合わせても20回であり、融成の半分でしかない)。

これは、評定衆の康定が奉者である定治・融成よりも上位に存在していたことを証明するものになる。

態申候、其城為在番越山之由、極熱之時分、大儀察入候、仍年来太守江申立存分■■御人数等をも被相竈御手透ニ候間、早々自身遂参府、可申立心底候処、其方其地他行、誠以恐怖千万候、雖然只今之御世間ニ無是非為如何可有之無儀候、従先段其方引付を以幸田相憑候之間、大方彼人相憑、先使者以卒■存分可得御内儀所存候、并近年加懇切候間、江雪斎をも引入可申条、両人江其方無拠在番故、氏朝申所委細有取成可被進之由、両所へ状被遣憑入候、誠其方取持之万之一も有之間敷候得共、余無際限打過儀、外聞実儀共氏朝心底可被察候、此度可取成与者不思候、責而御陣触■迄之儀候、御真実付而者、存分被立置書状待入候、委細者周防蔵人口上申含候、恐々謹言 追而幸大、江雪斎両所へ之書状之案文進置候、月日欠/氏朝(花押)/山角上野介殿

  • 戦国大名北条氏文書の研究p306「吉良氏朝書状」

折り入って申します。その城への在番のため越山とのこと。極熱の時分に大変なこととお察しします。さて、年来太守へ申し立てている存分ですが、■■兵員を籠もらせてお手すきになりましたら、早々に自身が参府を遂げて、申し立てようと考えていたところ、あなたがその地へ行ってしまい、本当に取り乱しています。とはいえ現在のところ世情ではいかんともしがたく、どのようにもならないことです。先段よりあなたが<書き留めたもの ※>を幸田に頼んでいますから、大方はあの人にお願いしています。先の使者が卒爾にもご内意を得ようとしています。そして近年は懇切を加えていますから、江雪斎も引き入れて申請していますから、両人へはあなたがよんどころなく在番しているので、氏朝の申す所を詳しく取り成してくれるとのこと。二人へ書状を送ってお願いしています。本当に、あなたの取り持ちに万が一のこともないとは思いますが、余りにも際限なく時間が経っていること、外聞といい実態といい、氏朝の心底をお察し下さい。この度の取り成せるとは思いません。せめて御陣触が終わるまでのことです。本当のところについて、存分を立て置かれた書状をお待ちしています。委細は周防蔵人の口上に申し含めました。追伸:幸田大蔵丞・板部岡江雪斎の両所への書状の案文をお送りします。

* 「引付」を訴訟案件として使用しているのは30例中で2例。25例は「味方に引き寄せる」の用例で、2例が書き留めておくこととなっている。このことと、文面から考えてこの場合の「引付」は「書き留めておいたもの」と考えてよいと思う。

野田景範の認識

野田景範は、依田康信に直訴を試みている。これは、景範と北条氏政との取次役が氏照であり、その氏照が訴訟を握りつぶしたための対抗策である。その際に康信を頼っているのは、彼が評定衆として奉者(氏照)の上位に存在していたためだろう。

(前欠)小田原へ申上候処ニ、其時之様子書付を以可申越候、可預御裁許之由蒙仰候段、氏照御返答候之間、同十四日ニ相認、滝山へ申届候処ニ、尓今不被御披露候之哉、唯今之紙面者、拙者召仕之者矢ヲ放之由被申候、都筑与申者、拙者披官山中与申者ニ矢ヲ射付申、其侭押懸、両人打留由、拙者召仕之者逃返申事ニ候、如此之仕合失面目候条、則雖可及其意趣候、無二ニ進退奉任候之間、小田原御下知を以可達本意与存知、尓今堪忍令申候、此段々難尽紙面候、此趣幾度歟源三殿迄申達候処、無御披露候事、無是非存知候、此意事宜御裁許可為過分候、以上、 拾月廿七日/野田右馬助景範/依田大膳亮殿

  • 埼玉県史料叢書12_0377「野田景範書状案」(野田家文書)1569(永禄12)年比定

小田原へ申し上げるため、その時の様子を書付にして報告しました。それを預かってご裁許するとの仰せと、氏照がご返答しましたので、同日14日に作成し滝山に届けました。今に至っても披露されていないのでしょうか。現在の紙面は、拙者が召し使っていた者が矢を放ったとのことを申しています。都筑という者が、拙者の被官山中という者に矢を射掛け、そのまま押しかけて両人が死んだとのこと。拙者が召し使っていた者が逃げ帰って申したことです。このような成り行きで面目を失ったので、すぐに意趣返しに及ぼうとしましたが、判断をどうにか保留して、小田原のご命令をもって本意を達しようと考え、今も我慢しています。この状況は紙面での説明が難しいところです。この趣旨を何回か源三殿まで報告したのにご披露されないなら、どうにもならないと思います。この意を宜しくご裁許いただければ幸いです。

落合三河守の訴え

関山隼人と当麻宿の権益を巡って係争した落合三河守は、評定衆に当てて反訴状を提出している。その中で三河守は「山角康定は自分に遺恨があるから、担当から外してほしい」と願い出ている。これは、評定衆が複数人員で構成され、利害関係によっては担当が変更になったことを示す。原告の関山隼人に勝訴を伝えた際の虎朱印状には、康定が奉者として登場している。最終通知で康定が奉者としてのみ登場したのは、この件で彼が評定衆から一旦外れ、奉者としての権限で虎朱印状を取り次いだことになる。

乍恐相書付を以申上候 一、此度当麻問屋之儀ニ付而、拙者非分ニ一月■内を上十五日、関山隼人前より取はなし、下之宿より上之宿江取上申様ニ、御侘言被申上候事、不当ニ奉存候 一、下之宿ニ問屋御座候ニ付而、下宿者いかにもさかり申候、上之宿者町人も退転申、去年之御陣返之刻ニ者、御伝馬上宿ニ相当申候得者、町人退転ニ付而、下之宿より六十疋余備申、御伝馬走廻申候、是ニ付而問屋之処、一月之内上十五日之分を、上宿江可被指上之由申断候処ニ、かんてん不被申候キ 一、上之宿江問屋被上間敷ニ付而者、他之宿なミに、上下之宿 御公用無退転様ニ、替所問屋役ニ指引可被成候由、申断候処ニ、是又かんてん不被申候 右之条ゝ、御かんてんなく候て、御伝馬参候而、上宿ニ余候御伝馬、替所迄越可申候由、町人共申断候ニ付而、如何与分別被申候哉、三月より今日ニ至而、一月之内を上十五日、上之宿江売人指上被申候間、此上者、宿中もさかり可申与存、拙者知行之内過分ニそん物を仕、宿をわりなをし、町人を置付申、 御公方用走廻候処ニ、只今事を取立、御侘言被申上候儀、不審ニ存候、但是者山角殿我等ニ四五ヶ条之御いこん御座候由及承候、以此意趣御取成候歟、此上者可然様ニ御裁許奉仰入候、以上 追而申上候、四五ヶ条之、山角殿背御機嫌候儀共、御尋之上、可申上候、以御検使御尋被成可被下候、以上、七月十六日/落合三河守(花押)/御評定衆、御披露

  • 戦国遺文後北条氏編2971「落合三河守陳状」(関山文書) 1586(天正14)年比定

恐れながら、反訴状として申し上げます。 一、この度の当麻問屋の件。拙者が無法に1ヶ月のうち上旬15日の売上を関山隼人から奪い、下の宿から上の宿へと取り上げた、という言い分で告訴されました。これは不当だと考えています。 一、下の宿に問屋がある件。下宿は盛況で上の宿の町人は退去しています。去年の帰陣される際に御伝馬を上宿に割り当てられましたが、町人が退去していたので、下の宿から60疋余りを用意して御伝馬で活躍しました。これについて問屋として、1ヶ月のうち上旬15日分をよこすように上宿に伝えたところ、承知しませんでした。 一、上の宿へ問屋が上がらないようにした件。他の宿に準じて上下の宿が御公用から逃げ出さないように、『替所』の問屋税に充当するように申し伝えたところ、これもまた承知しませんでした。 右の条項に承知がないまま、御伝馬が来ました。上宿で余っていた御伝馬を『替所』まで持ってくるように町人達に通達したところ、どのような考えでしょうか。3月から今日に至るまで、1ヶ月のうち上旬15日、上の宿へ売人をよこすように言ってきました。この上は、宿中も盛んになるだろうと考えて、拙者知行から自腹で賄い、宿の割り当てを直して、町人を置いて御公用に活躍しました。こうしたところで、今は事を荒立てて訴訟に及んだのは不審なことです。但し、山角殿が私に4~5ヶ条のご遺恨があると聞いています。この意趣によって取りなしを得ようとしているのでしょうか。この上はしかるべきご裁許をお願いします。 追伸:4~5ヵ条のことは、山角殿のご機嫌に逆らうことになりますが、お尋ねがあったので申し上げます。御検使を調査に派遣して下さい。

評定衆の人選

依田康信の正体

一族が後北条氏の根本被官として活躍する山角康定・石巻康保・垪和康忠・狩野泰光とは異なり、依田康信には謎が多い。

永禄10年12月17日の北条氏邦朱印状の奉者「依田大膳守」として登場しつつ、同年同月には野田景範の訴訟案件を受け付けており、元亀3年には垪和康忠と並んで武田家との同盟交渉に当たっている。これは、根本的には氏規被官であった山中康豊と似ているが、康豊と違って康信が長期間にわたって評定衆として活躍しており、少し状況が異なるように思える。

依田康信は天正6年から虎朱印状に登場し、評定衆とある。ただ、永禄12年の野田景範書状では、北条氏照との訴訟を康信宛てで送っており、この頃から評定衆となっていた可能性が高い。

天正13年の虎朱印状で「依田下総守殿・同大膳亮殿」とあり、彼の官途名「大膳亮」を後継者が名乗っている。このことから、康信は狩野泰光の後継者だったのではないか。

天文24年の虎朱印状に「狩野介・同大膳亮・山角四郎左衛門・松田尾張守」が奏者となった相州天十郎宛てのものがある。そして、同年3月21日の天十郎宛てでは虎朱印状の評定衆として「狩野大膳亮」があり、狩野介の後継者が狩野大膳亮泰光だったのが判る。

この狩野内膳亮は、永禄9年10月2日に「評定衆飛騨守泰光」と名乗り、11年2月10日まで活動が見られる。そのあとの永禄12年11月7日の北条氏照朱印状で奉者「狩野一庵」が登場することから、泰光と一庵が同一人物と比定される。そもそも官途「大膳亮」は文明年間から「狩野大膳亮為茂」が見られ、本来は伊豆狩野氏が称したもの。天文~永禄で活躍した狩野介は、駿河吉原城を松田弥次郎と共に守備したり、松山衆の筆頭を務めるなどしてかなり中枢に近い位置にいた被官。

つまり、官途「大膳亮」の評定衆という切り口で見てみると、

  • 狩野介
  • 狩野大膳亮 → 狩野飛騨守泰光 → 狩野一庵(氏照配下)
  • 依田大膳守(氏邦配下)→ 大膳亮康信 → 依田下野守康信
  •                      依田大膳亮

となり、狩野から依田へと名字は変わっているがきっちりと後継者に承継されている様子が判る。

してみると、評定衆は官途名に基づいた承継が前提になっていたのかも知れない。

  • 下野守家:石巻家貞・石巻康保
  • 大膳亮家:狩野泰光・依田康信
  • 上野介家:山角定吉?・山角康定

ただ、山角康定だけは前代の山角定吉の官途名が不明だが、仮名は「四郎左衛門尉」で合致しており、官途の「上野介」も同一だったと思われる(定吉自体が評定衆であった確証はないが、当麻宿訴訟では康定の前々代である定澄から関わっていたという記述があり、康定の評定衆資格は父祖から継承したと理解できる)。

第1世代と第2世代の間の断絶

第1世代を石巻家貞・狩野泰光・山角定吉と考えると、永禄7年に戦死したとされる定吉が最も早く脱落している。これを受けてか、氏規配下の山中康豊が永禄9年に登場しているが、史料では1点しか確認できず定着してはいないように思える。その後永禄11年をもって家貞・泰光も評定衆として終見となる。泰光が出家して氏照配下に転じたのを考えると、偶然残りの二人が隠居したというよりも、何らかの意図的な人事異動を想起させる。

 この直後に武田晴信の駿河侵攻があって慌ただしくなるなか、石巻康敬がイレギュラーな形式で1回登場したあとで、石巻康保・依田康信が登場して第2世代を形成する。

 この第1世代の終了は、瞬間的ではあるが評定衆自体の廃絶の可能性を秘めていたように思える。

 表で区分けしてみる。

第1世代 2人・9件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻家貞 2 0 1555(天文24)年1月21日~1568(永禄11)年6月28日
狩野泰光 7 2 1555(天文24)年3月21日~1568(永禄11)年2月10日
過渡期 2人・2件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
山中康豊 1 0 1566(永禄9)年8月28日 評定衆記載なし
石巻康敬 1 8 1569(永禄12)年5月16日 評定衆記載なし・彦六郎名
第2世代 4人・37件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻康保 11 4 1569(永禄12)年6月10日~1579(天正7)年6月20日
依田康信 10 0 1569(永禄12)年10月27日~1588(天正16)年7月20日 確実な登板は1577(天正5)年2月11日
山角康定 15 5 1572(元亀3)年3月21日~1589(天正17)年6月28日
垪和康忠 1 48 1581(天正9)年10月25日

 廃絶が試みられた契機は、通貨納税から現物納税への切り替えがちょうど永禄9~10年で行なわれていたことに関係すると考えてみた。良貨による通貨納税は永禄元年から後北条氏が積極的に推進していたものだが、徐々に良貨の納税率を下げざるを得ず、永禄8年5月25日には良貨30%での納税を認めざるを得なくなっていた。ただ、この流れに逆らうかのように、この翌年5月15日に先代当主の氏康が自身の朱印状によって「良貨50%とせよ」との指示を出してみたものの、同年閏8月7日には「良貨がなければ物納を認める」と再び後退。これは、郷村の退転という激しい抗議に屈した形になる。

 興味深いのは、永楽通宝を意味する「永楽」の文言が、今川・後北条ともに永禄11年から登場する点。それまでは「精銭」と呼んでいたものが切り替わっている。「精銭」の終見は永禄11年8月10日(北条氏康朱印状)で、「永楽」初見は8月3日(匂坂直興書状)。

「銭」という言葉は北条氏康が永禄元年に「品質の悪い銭を除外せよ」と通達したのが初見。このあと、永禄3年の虎朱印状で、この通貨選別によって選ばれたものを「精銭」としている。ここから考えると、「銭」に着目した氏康の時代は、永楽通宝をもって精銭とする「永楽」表記によって新しい局面に入り、この永楽表記は近世を通じて用いられていく。

 経済政策の煽りで評定衆廃止が検討されたことを考えると、市中に対する司法業務よりも金融財政に主眼が置かれた近世の江戸町奉行を想起させる。

 廃絶を企図したのは一見すると当主氏政のようにも見えるが、氏政は独自構築した岩付衆において「評定衆」を導入している。先行していた玉縄衆・八王子衆・鉢形衆・江戸衆では見られないことから、この第2の評定衆導入は氏政の意向を反映したものと考えていいだろう。であるならば、廃絶は氏康の意向と見てよいだろう。実際、氏政が駿河から帰陣するのに合わせるように評定衆の第2世代が稼働を始める。

2019/09/11(水)上杉輝虎と今川氏真の交渉年次を再比定してみる

1)「尾崎妙忍」という商人

永禄10年の駿河国。茜の売買を巡って一つの訴訟が結審する。

  • 戦国遺文今川氏編2155「三浦元政等連署証文写」(駿河志料巻七十八友野文書)

就茜之儀、尾崎妙忍ニ 御判形雖被下之、無前々筋目、自他国之商人御訴訟之旨言上之処、被聞食分、各に御判形被下之畢、然者為其御礼段子拾段・金襴拾巻・虎皮二枚進上、即令披露候、縦重而加様之新役雖有競望之輩、一切不可有御許容旨、所被 仰出也、仍為向後一筆如件、
永禄十年十一月五日/三左元政花押・金遊芳線・伊左元慶・由内匠頭光綱/友野次郎兵衛とのへ・松木与三左衛門とのへ・他国商人中

今川氏真が茜座の利権を尾崎妙忍という人物に渡したが、他国の商人が提訴したという。この結果として、各々に許諾状が渡される。これを告知したのは三浦・朝比奈・伊東・由比という今川家被官たちで、宛先は松木・友野という馴染みの商人のほかに、他国商人。

これによると、氏真は尾崎妙忍という商人に独占権を与えていたことが判る。この尾崎妙忍とは何者か。

2)京都の「尾崎」

戦国遺文今川氏編の索引を見ると「尾崎」はこの他に1件しか登場していない。それが、在京被官の宗是が言及した「尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候」という部分。

  • 戦国遺文今川氏編2176「宗是書状」(上杉文書)

御上洛以後不申上候、慮外之至候、仍従屋形以書状被申入候、将又、尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候、依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候、就中貴国与相甲和与之御扱之旨、風聞候、於事実者、当国を証人仁被成之様、御馳走候者、祝着可被申候、委細様躰永順ニ申含候間、令省略候、此等之趣、可預御披露候、恐惶謹言、
四月廿四日/宗是(花押)/進上今林寺方丈衣鉢禅師

ここから判るのは、上杉と今川を繋ぐルートが、京を介していたという点。

(越後:輝虎→今林寺住持)→(京都:尾崎→宗是)→(駿河:今川家中)

この、宗是に今林寺住持からの書状を取り次いだ「尾崎」が尾崎妙忍だとすると、越後との外交関係から尾崎を優遇する措置を氏真が講じた可能性が出てくる。それに反発した既存勢力によって覆されたのが永禄10年11月5日だとすれば、外交関係は茜座一件の前にある程度進展していると見るべきだ。

比定し直すと、宗是書状は永禄8年比定に繰り上がる。また、義信室の帰国顛末に触れた今川被官の書状と、年欠で氏政が義信室の受け入れ準備を急いでいる書状の方は永禄9年になる。

もう一点、この文書で注意が必要。文中の「仍従屋形以書状被申入候」の「屋形」を氏真とするか、輝虎とするかで意味がかなり異なってくる。

正規ルートとして要明寺住持が持参した「屋形より書状を申し入れられ候」という状況がまずある。一方で、今林寺住持の私信「尾崎かたへ尊書」がある。少なくとも今林寺書状は宗是宛てなので、彼が「当地において拝見仕り候」の大将には入っている。但し、屋形書状について宗是は見ていないだろう。

というのは、「あの御縁の儀、仰せ調えられるにおいては、もっともに存じ候」という意見を述べているからだ。「彼御縁」であって「此御縁」でないのは、宗是は屋形書状を実際に見ていないため。ただ今林寺書状によって、それが越駿親交提案書であると把握している。

3)比定年はどう動くか

2での検討を反映させて、従来の比定と比較してみる。■は年記載ありの確定史料

従来比定

永禄10年
  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • <諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消(年記載あり)
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」
永禄11年
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」

今回比定

永禄8年
  • 3月12日:今川方が三河を完全に失う
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」
  • <この間の家老書状は逸失?>
  • 5月1日:義信室が大般若を真読
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」
永禄9年
  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • ■4月3日:富士大宮での楽市規定で、諸税や通関を停止するよう通知
  • <越後外交成立を受け尾崎に茜座独占を許可>
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
永禄10年
  • <独占が露見し、諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消

従来比定では宗是書状が最後尾に位置するため、申し入れた「屋形」は氏真に比定されていたが、今回試みている比定では最初の接触に当たるので「屋形」は輝虎になる。上杉家当主からの正規書状と並行して、宗是と面識のある今林寺住持による縁辺の申し込み、という2段仕掛けになっている。

従来比定では最後に来た宗是書状がどこか的外れな印象だったが、今回の比定だと自然に解釈できる。

4)義信室帰国案件との相関性

新比定では、義信室の帰国と同時期に従来型商人(甲斐とも繋がる松木・友野)を抑制して、新興商人の呼び込みをする政策が始まることになる。また、武田への不信感を露骨に表明した今川被官たちの書状もこの時期。

では、義信室の帰国は比定を1年繰り上げて問題ないだろうか。

武田義信の失脚と死がいつかは確実な史料がないため、ここからの逆算はできない。鍵になるのは、義信室が大般若の真読を行ったという武田晴信の書状。

  • 静岡県史資料編8_補遺0240「武田晴信書状」(比毛関氏所蔵文書)

急度染一筆候、和田辺麦毛純■■■、頻而告来候条、来■日■井田■、四日■和田■移陣候、然者人数一向不調候、苻内可被相触候、次駿州江信虎様御越候哉否、節々彼国之模様被聞、註進待入候、随而於于旗屋之祈念之事、無疎略御勤行尤之由、不閣可有催促候、恐々謹言、
追而、新造御祈祷真読大般若之事、駿州江被聞候条、無疎意可被申付候、
五月一日/信玄(花押)/高白斎殿・市川七郎右衛門尉殿

この追伸では「新造がご祈祷で大般若を真読すること、駿河へ聞こえるだろうから粗意のないように」とある。義信室は何を祈るために大般若を真読したのか? 般若経は氏輝死去・氏康危篤で持ち出されている大掛かりな行事。なおかつ、真読となれば相当長い時間がかかる。夫の生死に関わることとしか考えられないところだが、少し深読みしてみる。

この段階で今川から帰国要望は出ていたのだろうか。三浦氏満と朝比奈泰朝連署書状を見てみる。

  • 戦国遺文今川氏編2174「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、
四月十五日/三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝/直江大和守殿・柿崎和泉守殿御宿所

これによれば、彼女の帰国は氏康父子が仲介したという。この仲介に答えて晴信が「氏真の起請文がないのは問題だ」と言い立てている。状況を考えると、その前段で義信室の帰国が拒絶されており、やむを得ず後北条に声をかけたのが想起される。但し、後北条の仲介で初めて起請文と言い出したことから、晴信は当初、別の理由で帰国回避していたのだろう。

上記を合わせて考えると、今川からの帰国要請を回避するために「大般若真読」を持ち出したと考えられる。これだと「駿河にも聞こえるだろうか」という文面とも馴染む。

上記の諸要素をまとめると、永禄8年5月の段階で既に駿甲は緊張関係に突入している。そして、その裏には義信死去を察知した輝虎の素早い工作があったようだ。

但し、この緊張関係から後北条氏は距離を置いていたようで、永禄11年8月に至っても小田原海蔵寺のために武田氏は伝馬を出している( http://www.rek.jp/0134 )。また、北条氏政が義信室を伊豆三島に引き取る際の文書解釈で専門各書に混乱があるので要注意( http://www.rek.jp/096 )。

蛇足

それにしても、義信室の様子は痛ましく思える。夫を奪われた挙げ句、実家に戻さないために長時間の祈祷を強要されているし、やっと戻ったと思ったら追い立てるように実家を焼かれてしまう。義忠室から始まって氏親室・晴信室・氏康室が繋ぎ、三国の娘たちに引き継がれる筈だった閨閥政治が、最も大きな影響力を行使した氏親室の死去を待ちかねたように崩れ去った。そんな中でも、死に至ったのは北条氏政室(晴信娘)と葛山氏元室(氏綱娘)。意外にも、義信室(義元娘)と氏真室(氏康娘)は近世まで生き延びている。

2019/03/31(日)伊達房実生存説について

全滅した岩付籠城衆

1590(天正18)年5月21日に、武蔵岩付城は羽柴方によって攻め落とされる。城主の北条氏房は小田原に籠城していたため、城代の伊達房実が守備していた。

惣構が破られたのは5月19日。その翌日、城内にいた松浦康成が、援軍として入っていた戦闘経験豊富な山本正次に書状を出して戦況を確認している(埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」越前史料所収山本文書)。この文書が残っていることから判るように、正次は岩付から脱出している。

但し生還できたのは正次しか確認できておらず、伊達房実・松浦康成は史料から姿を消す。後に氏房が肥前で死去した際に家臣として細谷三河守の名が出てくるが、細谷は氏房に随従して小田原にいたものと思われる。

岩付の武家被官が全滅したのは、落城後に出された書状からも確認できる。

5月27日、羽柴方被官たちが岩付落城を北条氏直に伝えた書状に、

抜粋

本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後

  • 小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

とある。本丸に敵が入る前に、坊守が出てきて「戦闘可能な者は全員戦死した」と降伏している。この状況は寄手から検使が入って確認しているので確実だろう。

更にこの後、氏政妹と氏房室を保護したことが記述されるが、彼女たちの引き取り手がなく、開戦前に拘禁した石巻康敬を派遣して対応したとある。城代である伊達房実がいれば、身元確認や事後対応を彼と協議したはずなので、やはり戦死したものと思われる。

伊達房実が生き残ったという記述

一方で家臣団辞典では、伊達房実は降伏して助命されたと記載する。これは寛政譜を元にしつつ、下記文書を根拠とする。

岩付太田備中守・伊達与兵衛・野本将監妻子之事、何方ニ来共、有度方ニ居住不可有異儀候、恐ゝ謹言、
七月十四日/御名乗御判/羽柴下総守殿・黒田官兵衛殿

  • 記録御用所本古文書0780「徳川家康書状写」(伊達家文書)1590(天正18)年比定

しかしこの内容は、伊達与兵衛(房実)の妻子が生き残ったことしか示さない。太田・伊達・野本が生存していれば、彼らに宛てて妻子の保証をするはずだ。

よく似た文言の文書は織田信長も出しているが、この場合も山口孫八郎は既に存在しておらず、孫八郎妻子の居住の自由を加藤図書助に保証している。

山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者、有所事、何方にても後家可任存分候、猶両人可申候、恐々謹言、
十月廿日/信長(花押)/加藤図書助殿進之候、

  • 愛知県史資料編10_1942「織田信長書状」(加藤景美氏文書)1554(天文23)年比定

同時代史料を見る限りでは、やはり房実は戦死したと判断せざるを得ない。

生存説構築の動機

ではなぜ房実生存を、子孫と称する大和田村伊達家が主張するのか。この伊達家に、妻子の居住を保証した上掲文書が伝来するから、房実と関わりがあるのは確実である。

寛政譜によると、系図で最初に「房実」とあったものは、実は「房成」だと訂正している。ところが、同時代史料では全て「房実」であり、何らかの意図をもって伝承を改変した痕跡が窺われる。また、房実の子を「房次」とするが、仮名は「庄兵衛」となり、以後代々の仮名でも「与兵衛」よりも「庄兵衛」が強く出されていく。

伊達「与右兵衛」は今川家文書でも確認され、房実が今川被官の由来を持つことの証左ともなっているほどの象徴で、そう容易に変えるものとは考えづらい。とすると、岩付で助命された与兵衛の子は娘で、婿に入った庄兵衛がいたのかも知れない。

史料を追いきれていないところなので、ひとまずこの仮説で止めておこうと思う。

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