2018/01/17(水)第2次国府台合戦報告書

永禄7年の国府台合戦に関して、北条氏康・氏政が連署して、小田原にいたと思われる留守衆(北条宗哲・松田盛秀・石巻家貞)に戦況報告をした書状写が残されている。

  1. 油断して渡河して崩れた江戸衆を支えたのは氏政旗本であること
  2. 氏康旗本は地形上緒戦の状況を把握できていなかったこと
  3. 氏照・綱成・氏繁・憲秀(または氏規)・氏邦(または氏信)が活躍したこと
  4. 江戸衆の敗兵を再編成して追撃、18時前後に決戦をしたこと
  5. 太田資正は重傷を負って退却したこと
  6. 里見義弘を討ち取ったという報告があるが首級は確認できていないこと

永禄7年の1月8日はグレゴリオ暦で3月1日であり、17時35分に日没。薄明が終わるのが18時過ぎ。月の入りは20時22分で月齢2.5。月明かりは期待できない。こうした暗夜にまでもつれた合戦を指して「夜戦」と誤解されたのかも知れない。軍記ものでは緒戦の勝利に浮かれた里見方が油断した隙を狙って夜戦を仕掛けたとあるが、先勢敗退後に反撃した氏政によって里見方は後退している。更に、後北条方の接近を知って里見方も備を寄せたとあるので、奇襲ではない。

  • 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p17「北条氏政・氏康連署書状写」(大阪狭山市教育委員会所蔵江馬文書)

    八日一戦勝利注進之間、即従仕場遣之、今度■前代未聞之儀候、最前敵退由申来を勝利存、先衆車次々之瀬を取越候、敵者大将里見義広為始安房・上総・岩付勢、鴻台拾五町之内備相手候、此有無不知遠山以下聊爾ニ鴻台上候処ニ、敵一銘押掛候間、於坂半分崩、丹波守父子・富永其外雑兵五十被討候、能時分ニ氏政旗本備寄候間、即押返、敵共討捕候、切所候故、氏康旗本者不知彼是非候、既先勢如此仕様、相続行兼術無了簡候処、跡者召集鍛直、無二一戦例落着、従鴻台三里下へ打廻候、敵も添而備寄候間、及酉刻遂一戦、即伐勝候、正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・荒野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人を為始弐千余人討捕候、太田美濃も深手負下総筋へ逃延候、此衆太田下総・常岡・半屋を為始悉討捕候、雖義広討死候由候、其頸未見来候、椎津・村上両城自落之由申来候、源蔵・左太父子・左馬介乍常兼粉骨候、新太郎事、能時分従川越走着走廻候、此度之軍始中終両旗本を以切留候、此上者向小田喜・左貫可相動之条、先今度者可治馬覚悟候、謹言、
    正月八日/氏政・氏康/幻庵・松田尾張守殿・石堂下野守殿

8日の一戦の勝利を戦場から報告する。

今度は前代未聞のこと。

直前に敵を退けて勝ったと思ったようで、先衆が次々と瀬を越えた。

敵は大将が里見義弘の安房・上総・岩付勢。

国府台15町(約1.6km)の内に相手が備えを置いていた。

この存在を知らずに、遠山以下の者が迂闊に国府台に登った。

敵が一斉に押し寄せたので坂の半ばで崩れた。

遠山丹波守父子(綱景・隼人佑)・富永(康景)その他の雑兵50が討たれた。

良い時機に氏政の旗本備が攻め寄せたので、すぐに押し返し敵を討ち取った。

切所だったので氏康の旗本はこれを知らなかった。

先勢は既にこのようになり、続いての手立ても思いつかずにいたので、追撃のため編成し直した。

無二に一戦して決着をつけるため、国府台より3里(約2km)下へ出撃した。

敵も近づいて備えを寄せたので、酉刻(18時頃)になって一戦を遂げてすぐに切り勝った。

正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・薦野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人をはじめとして、2,000余人を討ち取った。

太田美濃は重傷で下総方面へ逃げ延びた。

この衆は太田下総・恒岡・半屋をはじめとして全て討ち取った。

義弘は討ち死にしたとのことだが、その首級をまだ見ていない。

椎津・村上の両城は自落したとのこと。

源蔵(氏照)・左太父子(綱成・氏繁)・左馬介(憲秀or氏規)がいつもながら粉骨した。

新太郎(氏邦or氏信)はよい時機に川越より走り着いて活躍した。

今度の軍は最初から最後まで両旗本によって切り留めた。

この上は小田喜・佐貫に向かって作戦するだろうから、まず今回は帰陣するつもり。

2017/12/19(火)家康の起請文作戦を真似ようとした氏真

徳川家康=松平元康(以下、元康)スタートアップの成功要因は、既得権力の排除(吉良を最初に攻撃、次いで今川・一向宗を排除)に伴っての大幅な現場へのリソース還元が大きいと考えている。それに加え起請文を相手に出す率も高い。この時代起請文で契約が確定していたような気配はあるが、率先して元康自身が起請文を出すことにインパクトがあったようだ。被官側が起請文を出している例は私も武田・後北条・今川で確認しているが、被官が主家より起請文を貰い、それが濃密に伝来されているのは初期の徳川氏でしか見られないのではないか。

勿論、史料の残存状況にもよる。特に元康は後々将軍になる人物だから、起請文の残存率が高かったというのも妥当な推量だろう。ところが、今川氏真の書状に「元康は起請文によって人心掌握していた」と氏真が理解し、真似ようとしていたと推測できるものがあった。

1例しかないので心細いところだが、ひとまずまとめ。

元康に逆心された氏真は永禄4年夏に、奥平定勝・定能父子に幾通もの文書を送っている。牛久保攻めで露見した元康逆心では西三河衆が離反し、東三河の牧野右馬允、奥三河の菅沼小法師が寝返っていた。氏真からすれば、奥平父子の動向は極めて大きな要因だった。

そういう状況にあった永禄4年6月17日、氏真は奥平定能に栗毛馬一疋を贈与する書状を出している。同日付で父の定勝にも書状を送っているが、こちらには馬の記載はない。当主である定能に氏真が配慮していることが判る。

そこまでは不審なところはないけれど、その翌日付でもう1通定能に書状を送っている。その前日に馬を贈っているにも関わらず、何ということはない、忠節を称える奇妙な文言なのだが、こちらでは文末に「浅間大菩薩・八幡大菩薩不可有等閑候」が加えられている。とってつけたような感じで違和感を禁じえない。

奥平氏が今川方に留まった際には奥平一雲という人物が仲介しており、この一雲が氏真に元康の取り込み作戦の状況を報告し、「え、そうなの? じゃあ起請文ぽい文言を足してみるか」と、慌てて対応しようとしたのではないか、という見方もできる。

史料

  • 戦国遺文今川氏編1707「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

今度松平蔵人逆心之刻、以入道父子覚悟、無別条之段喜悦候、弥境内調略専要候、此旨親類被官人可申聞候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
六月十七日/氏真判/奥平道紋入道殿

  • 戦国遺文今川氏編1708「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

    今度松平蔵人逆心之割、無別条属味方之段喜悦候、仍馬一疋栗毛差遣之候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
    六月十七日/氏真判/奥平監物丞殿

  • 戦国遺文今川氏編1710「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

    就今度松平蔵人逆心、不準自余、無二属味方之間尤神妙也、猶於抽忠節者、 浅間大菩薩・八幡大菩薩不可有等閑候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
    六月十八日/氏真判/奥平監物丞殿

2017/10/22(日)今川義元は大規模な軍事動員をしたのか?

朱印「調」は本当に今川義元の印判か?

有光友学氏・小和田哲男氏の著述を見る限りでは、今川氏が用いた印文「調」の朱印は義元のものとされている。僅か6例しか残されていないこの朱印状だが、以下の理由から義元が大規模な軍勢催促を予定していた証として援用されている

  1. 永禄2年8月に大井掃部丞に宛てた滑革・薫皮を急いで徴発したこと
  2. 永禄3年4月に伝馬手形を発行していること

しかし、これは「今川義元が永禄3年5月に尾張口で戦死したこと」を前提にしてしまっているのではないか。他例をきちんと読むと、これは息子の氏真が発行した確率が圧倒的に高いことが判る。

逐一追ってみる。

1559(永禄2)年

8月8日

  • 戦国遺文今川氏編1470「今川家朱印状」(静岡市葵区駒形通・七条文書)

    於当国滑革弐拾五枚・薫皮弐拾五枚之事右、来年可買分、如相定員数、只今為急用之条、無非分様可申付者也、仍如件、
    永禄弐年八月八日/文頭に(朱印「調」)/大井掃部丞殿

これが最初の文書となる。義元が戦備に要したという考え方も可能だが、後に出てくる駿府浅間社での対応を見ると氏真が代替わりに当たって儀礼を整えるために徴発したという可能性もある。

8月28日

  • 戦国遺文今川氏編1475「今川家朱印状」(山形県鶴岡市・致道博物館所蔵文書)

    為持仏堂立置賢仰院之事。右、陣取諸役可除之、并於有狼藉輩者、注交名可令注進、其上可加下知者也、仍如件、
    永禄弐年八月廿八日/文頭に(朱印「調」)/酒井左衛門尉殿

宛所が酒井左衛門尉忠次である点から、三河での文書が多く残り、この時期三河にいた可能性がある義元発給と見るのが妥当ではある。但し、禁制は寺社が受給して伝来することが多いのに対し、この文書は酒井忠次が宛所だし、彼の家が保持していた。どことなく違和感がある文書ではある。

9月26日

  • 戦国遺文今川氏編1477「今川家朱印状」(静岡県葵区大岩町・臨済寺文書)

    駿河国上原新在家之事。右、任天文廿年之判形、永不可有相違、但甘利藤一郎分依為料所、百姓桜井申様雖有之、既自新在家興行之刻、道下之分者彼在家中切発之上者、至于只今、給主方又者号料所之内、雖及異儀、永可為林際寺支配、雖然道上之儀者、重以公方人可定傍爾者也、仍如件、
    永禄弐年己未九月廿六日/文頭に(朱印「調」)/林際寺(端裏書:林際寺 氏真)

ここでは決定的な文言があり、端裏書で差出人として「氏真」が記載されている。前の2文書と異なって、駿府に位置する今川氏最大の菩提寺臨済寺宛である点から、富士浅間社も駿府浅間社も氏真に切り替わっていたこの段階では氏真が発給したと見るのが妥当だろう。

1560(永禄3)年

3月3日

  • 戦国遺文今川氏編1499「今川家朱印状」(静岡市葵区宮ヶ崎町・静岡浅間神社文書)

    浅間宮三月会装束目録。一、面、四人分。一、宝冠、紺段子後ニ付、四人分。一、光、銅滅黄、四人分。一、七条袈裟、此内三条金裯、切交、一条段子、切交、何モ緒紅、四人分。一、袍、地朽葉、四人分。一、牟志、面段子、裏朽葉、房浅黄、四人分。一、袴、面段子浅黄裏、絹、四人分。一、襪子、四人分。以上。右、前々道具令破損之条、今度改之、所被成新寄附、仍如件、
    永禄参庚申年三月三日/文頭に(朱印「調」)蒲原右衛門尉元賢(花押)/宛所欠

ここでは前々の道具が破損したことを理由に装束を新調し寄附することが伝えられている。1558(弘治4/永禄元)年8月13日には氏真がこの駿府浅間社に対して「駿河国浅間宮御流鏑馬千蔵方郷役之事」を定めている(戦今1416)。この時には朱印の印文は「氏真」となっている。祭礼の復興を代替わりを契機に行なおうとしていた流れで考えると、これも氏真の発給と見てよいだろう。

3月18日

  • 戦国遺文今川氏編1503「今川家朱印状」(某氏書状文書)

    参州当知行古部郷内蓬生分事。右、今度粟生将監依令検地、同蓬生村共可検地云々、蓬生分之事者為各別、自前々為屋敷分之間、所出置判形明鏡也、然間古部郷将監知行分計可改之、雖然蓬生分共雖相改之、為給恩増分之条、可令所務之、但将監於有申子細者、互遂糺明可加下知者也、仍如件、
    永禄参年三月十八日/文頭に(朱印「調」)/小島源一郎殿

三河国内での裁定となり、義元の可能性がある。但し、検地増分に関わる訴訟への言及は、義元の場合永禄2年6月8日のものが終見(戦今1463)であり、この後は氏真が専ら対応している点を考えると何とも判断しがたい。

4月8日

  • 戦国遺文今川氏編1505「今川家伝馬手形」(慶応義塾大学図書館所蔵反町十郎文書)

    伝馬弐疋、無相違可出之者也、仍如件。足代玄蕃ニ被下之、
    永禄参年四月八日/朝比奈丹波守奉之、文頭に(朱印「調」)/駿遠参宿々中

義元は永禄3年3月12日に中間藤次郎宛に判物を出している(戦今1501)。なので水運に関しては管理を手放してはいないが、同年4月24日に氏真が丸子宿に伝馬の定書を出している(戦今1508)。この時の朱印状は角型の「如律令」でそこに疑問は残るが、伝馬関連は氏真が担当したと見るのが妥当だろうと考えられる。

この翌月の5月19日に朝比奈丹波守親徳は尾張口で義元敗死の現場に居合わせるため、どうしても義元発給の印象が強くなったのだろうか。とはいえ1ヶ月以上のタイムラグはあるし、伊勢大湊から祭礼用の何かを取り寄せようとした可能性も高い。

また、足代氏は戦国遺文今川氏編でここしか登場していない。但し、氏真が伊勢に預けた道具の扱いをやり取りした文書伝来で名が出てくる。何れも1573(元亀4/天正元)年比定で時代は隔たっているものの、伊勢大湊に関係した足代氏と氏真の繋がりを窺わせる。

足代文書

  • 戦国遺文今川氏編2542「塙直政書状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    尚以道具之事、氏実被預候ハゝ、随其代物可被召ニ候、内々候之節目候事候、若非分なる儀にて其方ニ候ハゝ、又随其何之道ニも無理ニ可被召置にてハ無之候、有様可被申候、此外不申候。急度申候、仍氏実茶道具当所在之事、必定旨申ニ付て津掃被遣候、有様ニ被申、不被進付てハ、可為曲事由御意ニ候、具掃部可被申候、恐々謹言、
    十月廿五日/塙九郎左衛門尉直政(花押影)/大湊中

  • 戦国遺文今川氏編2543「房兼・教兼連署状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    就関東船上下之儀、従濃州条々被仰越候間、則自是被出使者候、然者氏実当郷廉屋七郎次郎許へ預物之儀被相改候、追可致合意由可被申付候、万一至及異儀者、濃州被仰合、即時ニ可被加御成敗候、委曲尚口上被仰出候由所候也、恐々謹言、
    十月廿九日/房兼(花押影)・教兼(花押影)/大湊中

  • 戦国遺文今川氏編2544「大湊老分衆書状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    角屋七郎次郎許へ御尋物之儀申付候処、彼御預ヶ物之儀、去秋中 氏実様江送申、其上七郎次郎儀も○[此一儀付、]十日以前ニ浜松へ罷下候由、親之七郎左衛門尉申事候、并浜松より御道具下候へ由之書状為御披見懸御目候、塙九郎左衛門尉殿へも御報可申上候へ共、此之趣可預御心得候、以上、
    天正元十一月五日/老分/津田掃部助殿・鳥屋尾石見守殿

まとめ

「調」の内容は氏真を示唆

○永禄2年

  • 8月8日 革納品を命じたもの どちらも可能性あり
  • 8月28日 酒井忠次に賢仰院への禁制を出したもの 義元の可能性が高い
  • 9月26日 臨済寺に裁定での勝利を伝えたもの 氏真の可能性が非常に高い

○永禄3年

  • 3月3日 駿府浅間社の装束寄附 氏真の可能性が非常に高い
  • 3月18日 小島源一郎に検地増分安堵 氏真の可能性が僅かに高い
  • 4月8日 足代玄蕃に伝馬発行 氏真の可能性が高い

2番目にある酒井忠次宛のものだけがどうも奇妙な印象だが、3番目以降は全て氏真を指しており、そこから1番目も氏真発給である可能性が高いといえるだろう。

酒井忠次が禁制をもらった賢仰院が大樹寺内にあったことを重視するなら、もう一つの可能性が浮かんでくる。

朝比奈泰朝である可能性

義元でも氏真でもない?

永禄元年閏6月20日(大樹寺宛・戦今1403)~永禄3年5月2日(佐竹丹波入道宛・戦今1510)の間、発給文書が存在しない朝比奈泰朝が、この間は氏真側近として「調」朱印状を発給していた可能性も若干残されているかも知れない。

泰朝の父である泰能は大樹寺宛の文書も残していることから、忠次宛文書の謎も解明されるほか、同時期に氏真が「如律令」朱印を併用していた事象も説明が可能になる。臨済寺に「氏真から」と書いたのは、この印が泰朝を示すものではないという念押しだったともとれる。

泰朝は後年の永禄11年9月21日に「懸河」という八角形の朱印を発行していた(奥山左近宛・戦今2190)。

  • 戦国遺文2190「朝比奈泰朝ヵ朱印状」(奥山文書)

    犬居可相通兵粮之事。右、毎月五駄充、奥山左近方為湯分差越之間、森口・二俣口雖為何之地、無相違可令勘過者也、仍如件、
    永禄十一年辰九月廿一日/文頭に(朱印「懸河」)/津留奉行中(上書:奥山左近方へ)

ただ、泰朝が老獪だった訳ではなく、永禄元年4月22日に初見史料(戦今1392)が見られるから氏真よりむしろ後発であった点はネックになる。若い氏真と共に試行錯誤していたか。

「調」と「帰」

そもそも今川家当主の印文は名前であることが前提で、属人的意味合いが非常に強い。義元と氏真は「如律令」ではあるものの、印の形がそれぞれ異なる。

  • 今川氏親:未詳○・未詳□・氏親□・紹僖□
  • 今川義元:承芳□・義元(1型□・2型▯縦長)・如律令○
  • 今川氏真:氏真○・如律令□

○は丸印、□は角印。但し義元2型のみは縦長の矩形。

例外となるのは氏親室の寿桂が用いた「帰」の角印で、これは「当主ではない」という意味で一文字の抽象的文字を用いたのだろうと考えられるかも知れない。但し権限は強かったようで、当主氏輝の名が入っていながら無花押の文書に「帰」を押して効力をつけた例がある。

であれば、家督移行期に極めて短時間に登場した「調」も、誰かが代行した可能性があるだろう。矩形の角を切り取った特殊な八角形である点も、並行して押された義元2型印が縦長矩形の特殊形であったこととあいまって、正規の矩形印である氏真の「如律令」を侵害しない意向を示すのかと推測できる。

以下にこの時期の義元・氏真と「調」の発行時系列を挙げる。末尾は戦今の文書番号。

1558(永禄元)年

  • 閏06月02日・朝比奈泰朝判物 ※参考
  • 08月13日・氏真○1416
  • 09月02日・義元2▯1425
  • 12月12日・氏真○1437
  • 12月17日・氏真○1438
  • 12月17日・氏真○1439
  • 12月某日・義元2▯1441
  • 某月19日・義元2▯1442

1559(永禄2)年

  • 03月18日・義元2▯1451
  • 05月20日・如律令□1456
  • 05月23日・義元2▯1458
  • 06月10日・如律令□1464
  • 08月08日・調◇1470
  • 08月28日・調◇1475
  • 09月26日・調◇1477
  • 11月28日・如律令□1482

1560(永禄3)年

  • 02月22日・如律令□1497
  • 03月03日・調◇1499
  • 03月18日・調◇1503
  • 04月08日・調◇1505
  • 04月24日・如律令□1508
  • 05月10日・朝比奈泰朝判物 ※参考
  • 05月13日・如律令□1513

2017/10/15(日)織田になりたかった信康

「織田信康」という概念

信康が、松平なのか徳川なのかというのは専門家が検討しているところだと思うが、信康本人は「織田信康」になりたかったんじゃないかと、ふと思ってみた。後北条でいうと娘婿とはいえ被官だった綱成が、その息子の代に一門格になった例もあるから、それを狙ったんじゃないかと。

織田分国における後継者レースと考えると、天正3年に信忠合力で出張したがった信康の意図が判るような気がする。だがそれは信長に謝絶されてしまう。その辺は下の史料で判る。

-愛知県史資料編11_1114「織田信長黒印状」(野崎達三氏所蔵文書) 1575(天正3)年比定

廿五日折紙今日廿八到来披見候、仍武節落居候段、誠以早速入手候事、感悦無極候、併無由断情を入如此候条珍重候、殊即至岩村出陣事、尤以可然候、旁祝着不斜候、度々如申菅九郎若年之間、万々肝煎専一候、就其松平三郎出張事、於此上者不入事候、被相留候由近比可然候、我々昨日廿七京着候、岩村表事節々注進簡要候、恐々謹言。猶々炎天之時分、方々辛労ニ候、 六月廿八日/信長(黒印)/佐久間右衛門殿

25日の書状、今日28日に来て拝見しました。武節が落居し、本当に素早く入手できたとのこと。感悦極まりありません。そして油断なく精を入れてこのようになったのは、珍重です。特に、すぐに岩村に出陣したことは、もっともで然るべきことです。色々と祝着なのは斜めならざることです。度々伝えているように、菅九郎は若年ですから、全てにわたって肝煎が大切です。それについて松平三郎が出張することは、この上においては要らざることです。お留めになるのが、近頃では然るべきことでしょう。私は昨日27日に京に着きました。岩村表のことは、細かく報告するのが大事です。 なおなお、炎天の時分で皆さんご辛労です。

この年の12月に水野信元が死に追いやられている。信元・家康の認識では、水野・徳川は織田の同盟相手だった。家康は微妙に従属を認めていたものの、信元は、被官になることを明白に拒絶し殺されたのではないか。信元の死に当たって、同じような曖昧な隙間にいた久松俊勝は隠居したとも伝えられ関連が想像される。

信康は焦ったのではないか。信元の死によって事実上の被官化を認めさせられた徳川にあって、信忠はさておき、信孝・信澄・信孝に水を明けられた状況が、信康の反抗を促し、信長娘との不和を招いたか。

若手の競合

信康が競合相手と見なす候補は4人いる。

生年

信忠 1557(弘治3)年

信澄 1558(永禄元)年?

信康 1559(永禄2)年

信雄・信孝 1570(元亀元)年

初陣

信忠 1572(元亀3)年

信康 1573(天正元)年?

信孝 1574(天正2)年

信澄 1575(天正3)年

信雄 1574(天正2)年

この5人の出世レースはかなりシビアだったのかも知れない。信康が「不覚悟」で失脚したのも、信雄が焦って伊賀に攻め込んで敗退したのも、明智光秀が信長を討った際に「信澄が噛んでいる」という噂がしきりに出たのも。

図抜けた存在のはずの信忠ですら、甲信攻めでは拙速で功を求めている。「そろそろ戦乱も終わりそう」という時代の空気が、こういった若手の内部闘争を引き起こしたのかも知れない。。

2017/09/28(木)明智光秀の軍規

明智光秀の書状で、陣中での行動を指示したものがあったので読んでみる。

  • 八木書房刊明智光秀091「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書)

乍些少、初瓜一遣候、賞翫尤候、已上、
城中調略之子細候間、不寄何時、本丸焼崩儀可有之候、さ候とて請取備を破、城へ取付候事、一切可為停止候、人々請取之所相支、手前へ落来候者ハかり首可捕之候、自余之手前へ落候者、脇より取合討捕候事有間敷候、縦城中焼崩候共、三日之中ハ、請取候之可蹈陣取候、其内ニ敵落候者令捨遣可討殺候、さ候ハすハ人数かた付候、味方中之透間と見合、波多野兄弟足之軽者共、五十・三十ニて切勝候儀可有之候、従之彼■可相蹈と申事候、若又々つれ出候ニをいてハ、最前遣書付候人数之手わり、可相励可有覚悟候、猶以、城落居候とて彼山へ上、さしてなき乱妨ニ下々相懸候者、敵可討洩候間、兼々乱妨可為曲事之由、堅可被申触候、万於違背之輩者、不寄仁不背、可為討捨候、於敵ハ生物之類、悉可刎首候、依首褒美之儀可申付候、右之趣、毎日無油断下々可被申聞候、至其期不相残物候、可被得其意候、恐々謹言、
五月六日/光秀(花押)/彦介殿・田中■助殿・小畠助大夫殿

結構長いから敬遠しがちだが、極端に短い文章よりもヒントが多数ある分だけ長文の方が読み易い。途中で「これは判らない」という部分が出てきても、その前後から推測できるので。

年比定は1579(天正7)年。丹波八上城を攻囲した際のものと考えられている。これは城攻めの様子が描かれている点、敵方として「波多野兄弟」が出てくる点から。

冒頭にある追伸(追而書)

最初に書かれているのは、ちょっと変だけど追伸。現代だと本文の後ろに置くが、先頭に配置することもある。

「乍」は返読文字なので、一旦飛ばす。「些少」は現代語と同じで僅かで少ないこと。「些少ながら=僅かではありますが」となる。

じゃあ何が僅かかというと、次の「初瓜一=初物の瓜が1つ」ということで、この時代だと初物は珍重されていたとはいえ、1つは確かに少ない。「遣」は「つかわす」と読んで、送ること。

「賞翫」は今でも「ご賞玩下さい」という風に使うけど、もう殆ど死語かも知れない。味わって楽しむことを指す。

「尤」は「もっとも」で、現代語だと「ごもっとも」で生き残っている言葉。この時代は結構多用していて、「より望ましいこと」という漠然とした意味合いで使われる。相手に指示する時に、ちょっと遠慮して「お願い」っぽくしている感じで「~するのがもっともです」みたいに使われるのをよく見かける。

「已上」は「以上」と同じで、追伸の結びなどに使われる。本文だと「恐々謹言」とか「仍如件」みたいに結句=結びの言葉があって「ああここで終わりなんだな」と判るのだけど、追伸は余白に小さく書かれているので判り辛いから「以上」で締めくくっているのだと思う。

これらを踏まえて追伸をなるべく現代語に近くして読んでみる。

僅かではありますが、初物の瓜を1つ送ります。お召し上がり下さい。以上です。

いよいよ本文の第1文

城中調略之子細候間、不寄何時、本丸焼崩儀可有之候、

「城中」はそのままの意味。この後の繋がりから、どうやら光秀は城を攻めているところだと判る。

「調略」は作戦の具体的な行動を指すように思う。直接的な軍事行動だと「行=てだて」や「働=はたらき」を使うことが多い。調略は敵の一部を寝返らせたり偽情報を流したりも含まれるような、もっと幅が広い感じ。

「子細」は事情・詳細・状況とかを指す。

「候間」は「~なので」となって繋いでいる。

「不寄何時」は「不」「寄」の2文字が連続して返読になっている。返読文字は前の語の後ろにつくから、まず「不」が「寄」に乗る。ところが「寄」も返読だから「何時」に乗る。そうして最終的に、何時→寄→不の順で読むことになる。

何で返読が入っているかというと「乍」と同じで漢文の文法を踏まえていて、目的語は後に来るようになっていから。ただ、必ずしもこの漢文ルールが適用されている訳ではないのが悩ましいところ。上記の文だと「不寄」だけでは意味をなさないので判断できるけど、微妙な書き方のものもあって、ここを読むときはひやひやする。

これを受けて一文を読むと、

「なんどきと寄せず=いつ何時とも言わず」が現代語に近い感じかと思う。

次がちょっとややこしい。

「本丸焼崩」は「漢文ルールではない→現代語から見たら目的語なのに返読しない」という実例になっていて「本丸を焼き崩す」なら「焼崩本丸」となる筈がそうなっていない。

実はこれ「本丸の焼き崩し」と読んで、後に続く「儀=~のこと」と組み合わせ「本丸の焼き崩しのこと」と読んでいたのだろうと思う。今の日本人だと「本丸を焼き崩すこと」と読んだ方が自然に感じられてついついそっちに寄ってしまうので、要注意だったりする。

「可有之」は物凄くよく出てくる言葉で「可有之=これあるべく=これがあるだろう」となる。

ここの「之」は「本丸焼崩儀」を指す。こういう構造は、英語でいう関係代名詞(that)のような使い道というと判り易いだろうか。

「<本丸焼崩>儀

   ↓

可有<之>候」

という構造。現代語からすると

「可有<本丸焼崩>候」

とシンプルにした方が理解できるのだと思うが、こういう言い回しになっているので致し方ない。

まとめてみると、

「城中で調略しているので、いつ本丸が焼き崩れてもおかしくないでしょう」

となる。

第2文 油断するなという釘差し

さ候とて請取備を破、城へ取付候事、一切可為停止候、

「さ候=左候=然候」は「しかり=そう」の略語。「とて」は現代語だと「~したとて」という形で残っている言葉。「そうだとして」という意味になる。「もうじき本丸が焼き崩れる」という朗報を書いた後で、光秀は水を差してきた。

「請取=うけとり」は、受領することを指す場合が多いが、合戦時には「受け持ち・担当」を示す。後ろに「備=そなえ」とあるので、「担当の備え=受け持ち区域」的なものを指すと思われる。

「を破」は、本来だと目的語の前に持ってくる「破」を、漢文文法から口語文法に移して後ろに持ってきた状態。なので「を」がついている。このように、同じ書状の中でも文法が変わることがある。

「城へ取付候事」は送り仮名を補えばほぼ現代でも通じる。「城へ取り付き候こと」で、城壁に接近して攻撃すること。

その次の「一切」と「停止」の間に挟まっているのは「可為=たるべく」となり、「可」「為」が返読。この可は命令を意味する。「一切停止となすべし」は、強い禁止命令となる。

つまり、戦況が有利だからといって、持ち場を放棄して城壁に攻めかかるのは一切禁止ですよ、という文章になる。

第3文 あるべき手本を示して作戦を指示し、禁止事項を付け足す

ではどうすればいいのかということを明確にしたのが以下になる。この部分は少し長いけどひとまとまり。

人々請取之所相支、

「人々=全ての兵員」が「請取之所=担当場所」を「相支=あい支え」という文で、これは比較的容易に読めるだろう。

手前へ落来候者ハかり首可捕之候、

「手前=てまえ=身の回り・近く」に「落来候者=落ちて来た者」が主部で、これに「ハかり=ばかり=~だけ」がくっついている。

「首可捕之」は「~儀可有之」と同じ構造で、「首=之」を捕るべし、「首を捕れ」という意味になる。

「皆で担当場所を支えて、近くに来た敵の首だけ取るように」ということで、前の文と呼応していて、こうすればよいという点を最初に指摘している。

続いて書かれるのは「これは禁止」部分。

自余之手前へ落候者、脇より取合討捕候事有間敷候、

「自余」は「他」という意味で、他の備えの近くに落ちた者がいて、それを脇から「取合」をして討ち取ることは「有間敷=あるまじく=あってはならない」としている。「取合」はとても広い範囲で使われる、語義が曖昧な言葉だけど、ここでは「奪い合って」ぐらいの意でよいと思う。

第4文 ここも同じく手本を示してから禁止事項を挙げている

縦城中焼崩候共、三日之中ハ、請取候之可蹈陣取候、

「縦=たとえ」は「仮令」とも書く。後ろにある「共=~とも」と組み合わさって「たとえ~であっても」という仮定での否定を表わす。最初にあった「城中焼崩」があっても、「三日之中ハ=3日間は」、「持ち場を離れるな」としている。最後の部分がややこしいので、読み方を書いてみる。

「請取」 →これは持ち場を示すから「陣取」にかかる文

之     →同じ字だが「~の」で「これ」ではない、文の間を何となく繋いでいる

「可蹈陣取」→「蹈=踏」は居続けることで、その場所を守る意味合いもある

読み下すと「請け取り候の陣取りを踏むべく候」となる。最後が返読連発になって混乱するかも知れないが、「之」でパーツを切り離して考えると読み易い。

其内ニ敵落候者令捨遣可討殺候、

「其内ニ=そのうちに」「敵落候者=敵で落ちて来た者」

ここが難解だが「令捨遣」は「捨てて遣わせしめ」だと意味がとれないから、「捨て遣り=すてやり=捨て鉢」という意味なのだろうと推測できる。「可討殺」はまた命令で「討ち殺せ」ということ。

攻めている側があれこれ動かずにいれば、逃げ場を失って自棄になった兵が来るだろうから、存分に討ち果たせ、ぐらいの意味。

さ候ハすハ人数かた付候、味方中之透間と見合、波多野兄弟足之軽者共、五十・三十ニて切勝候儀可有之候、

ここからが禁止事項。城内が焼け崩れても3日間は包囲を解くなといった光秀の意図が説明される。

「さ候ハすハ=そうでなければ」「人数=にんずう=武装した集団を指す」が「かた付候=撤収」した際に「味方中之透間と見合=味方の中(間)の透間(すきま)を見合(見計らって)」とある。これは、撤収時の混乱や隙を待っていて、味方の薄い所を狙われるという推測。

波多野兄弟は城主で、彼らが率いる「足之軽者共=足軽たちかも知れないが、ここでは足弱(女性・子供・老人)以外の成人男子を指すと思う」が来るとしている。次の「五十・三十ニて」は50・30が並ぶと現代だと意味不明で30~50人と受け取るかも知れないが、「五三日」というと「数日」「五三人」だと「数人」「五三年」は「数年」という慣用句になっていて、100人足らずの数十人という表現になる。

「切勝候儀可有之候」の文の構造は前に紹介したものと同じになるので省略。「切勝」は切り付けるような接近戦で敵を押すことを指す。

つまり、焼け崩れて3日見張っていれば敵の反撃はないだろうが、落城したと早とちりして撤収を始めると、その隙をあらかじめ待っていた決死の突撃を受けるのだという理由を挙げている。

従之彼■可相蹈と申事候、若又々つれ出候ニをいてハ、最前遣書付候人数之手わり、可相励可有覚悟候、

「従」は名詞の先頭について「~より」を示すから「従之=これにより」となる。■は不可読文字だが、恐らく「備」だろう。前述した決死隊が出てくるから、あの備えを守れと言っているのだと、くどく念を押している。このくどさはこの時代だとよくある。

「若」は、文頭にあれば大体のものは「もし~」と読んでいいと思う。「又々つれ出候」がよく判らないが、結びが「覚悟を持って励め」なので、何だか話が落城処理後に行ってしまっているようだ。

〇段階をおって読み下しにしてみる

「最前遣書付候人数之手わり」  ↓「最前に書付を遣わし候人数の手わり」  ↓「以前に覚書で送った動員数の『手わり』」  →※「手わり」は判らないが「手賦=準備」なのかも知れない。

第5文 民衆への影響と最後の念押し

猶以、城落居候とて彼山へ上、さしてなき乱妨ニ下々相懸候者、敵可討洩候間、兼々乱妨可為曲事之由、堅可被申触候、

「猶以=なおもって」は、更に重ねて説明を加えること。「城落居候とて=城が落居(落城)したからといって」ということで話は落城後の処理に移っている。こういういつの間にかな話題転換は、当事者同士だと意外と気にならず多用される。「彼山へ上」でいう「あの山」がどこかは不明だ。落城で手が空いた者が真っ先に向かうと考えると、波多野方の百姓たちが隠れている山だろうか。

「さしてなき乱妨ニ下々相懸候者」の「さしてなき」がちょっと読み取れない。「無指儀=さしたる儀なく」というのは「大したこともなく」という意味なので、「さしてなき=大したこともない=無用の」という風に発展させると、「する必要もない乱暴を下々にするならば」となるだろう。

「いわれのない暴力を下々に振るう」というこが招く結果が続けて書かれている。「敵可討洩候間」だから「敵を討ち漏らしてしまうだろうから」となる。光秀としてはこれを心配していて、無駄な乱暴をするなという禁止令に繋がっていく。

「兼々=かねがね」の「乱妨=乱暴」が「可為=たるべく」「曲事=くせごと=いけないこと」だと書いているが、それに「之由=~の由」という伝聞表現を入れているから、乱暴を前々から忌避しているのは信長だろうと推測される。続く文の「堅=かたく」「可被=らるべく・『被』は敬語として使われる例が圧倒的に多い」「申触=もうしふれ=布告」という部分からも信長の意であると考えられる。

万於違背之輩者、不寄仁不背、可為討捨候、

信長まで持ち出して強く禁止した結びもまた強い言葉。

「万=よろず=どれでも・何であれ」

「於=おいて・返読」

「違背之輩=違反した者」

「不寄仁不背=背かざる仁に寄せず=裏切らない=忠義者であろうと」

「可為=なすべく・返読」

「討ち捨て=その場で殺して事後処理もしない」

まとめると、どのような形であれ、どのような忠義者であれ、違反者は討ち捨てにする。ということになる。

最後の部分で矛盾が……

於敵ハ生物之類、悉可刎首候、依首褒美之儀可申付候、

「敵においては、生物のたぐいであれば、ことごとく首をはねるべし。首により褒美の儀申し付くべく候」

すなわち、敵でさえあれば生き物の首は全て刎ねろという指示。馬や犬、鶏などといった動物も殺せと。そして、その首をたくさん持ってくれば、それに応じて褒美を与えようという。

ここでおかしなことに気づく。文書の前半ではあれだけ、規律を守れとか持ち場を離れるなと繰り返していたのが「首をありったけ持ってこい、褒美はそれ次第だ!」みたいな無秩序推奨の実力主義に変わってしまっている。

恐らくこれは、文脈が変わったことによるものだろう。民衆への略奪を禁じた後だから「敵だったら何でも首をとっていいぞ。その首によって褒美をやろう」と告げている。光秀がこれを書いている時に最優先で考えていたのは略奪の禁止で、そのためには罰則というムチだけでなく、褒美というアメを使った。。

このように、書いている光秀側としては、攻囲中の秩序維持と落城後の実力評価で切り分けていたのだろうけど、命令を受けた側の国衆たちからすると、混乱しか感じられなかったように思われる。

国衆からすれば、知行という長期資産を入手したかっただろう。そのためには首を取って感状を得たい。ところが、規則で雁字搦めになっていて自由競争の要素が激減。じゃあ集団のためにルールを守って粛々とやるか、と思って読み進めた挙句、「褒美は首の数次第」と言われた訳だ。

右之趣、毎日無油断下々可被申聞候、至其期不相残物候、可被得其意候、恐々謹言、

「右のおもむき、毎日油断なく下々に申し聞かせらるべく候、その期に至りて、あい残らざるものに候、その意を得られるべく候」

読み下すと大まかに意図が掴めると思うが、「あい残らざるもの」というのが意図不明。前後から推測するならば「残念なことなく」ぐらいの意味に感じられる。