2017/09/28(木)明智光秀の着到定

明智光秀の家中軍法

軍法といいつつ、着到定にもなっているという文書があったのでちょっと整理。

以前書いた記事家忠日記に出てきた着到で、徳川と後北条の着到定を比較したものあるので、更に明智のものと比べてみる。

1石が6人という条件を当てはめると、池田孫左衛門(後北条被官)は56人なので933石取り相当となる。又八家忠(徳川被官)は261人で4,350石取り相当。

鉄炮の数だけで比較すると、池田孫左衛門は4~5(実際には3)、又八家忠は21(実際には15)を装備することになる。色々と条件が異なり過ぎて比較するのは注意が必要だけど、明智被官は鉄炮装備率が高かった可能性がある。

光秀が着到定を発令した動機は佐久間信盛の追放にあって、それは文面の最後に書かれているように見えるのだけど、解釈が難し過ぎて細かいところが読み取れない……。

読めない箇所は『』で括ってみた。

八木書房刊明智光秀108「明智光秀家中軍法」(尊経閣文庫所蔵)同書107号御霊神社文書より一部補訂。

定、条々
一、武者於備場、役者之外諸卒高声并雑談停止事、付懸り口其手賦鯨波以下可応下知事
一、魁之人数相備差図候所、旗本侍着可随下知、但依其所為先手可相斗付者、兼而可申聞事
一、自分之人数其手々々相揃前後可召具事、付鉄炮・鑓・指物・のほり・甲立雑卒ニ至てハ、置所法度のことくたるへき事
一、武者をしの時、馬乗あとにへたゝるニをいてハ、不慮之動有之といふとも、手前当用ニ不可相立、太以無所存之至也、早可没収領知、付、依時儀可加成敗事
一、旗本先手其たんゝゝの備定置上者、足軽懸合之一戦有之といふとも、普可相守下知、若猥之族あらハ不寄仁不肖忽可加成敗事、付、虎口之使眼前雖為手前申聞趣相達可及返答、縦蹈其場雖遂無比類高名、法度をそむくその科更不可相遁事
一、或動或陣替之時、号陣取ぬけかけに遣士卒事、堅令停止訖、至其所見斗可相定事、但兼而より可申付子細あらハ可為仁着事、付陣払禁制事
一、陣夫荷物軽量京都法度之器物三斗、但遼遠之夫役にをいてハ可為弐斗五升、其糧一人付て一日ニ八合宛従領主可下行事
一、軍役人数百石ニ六人多少可准之事
一、百石より百五拾石之内、甲一羽・馬一疋・指物一本・鑓一本事
一、百五拾石より弐百石之内、甲一羽・馬一疋・指物一本・鑓二本事
一、弐百石より参百石之内、甲一羽・馬一疋・指物二本・鑓弐本事
一、三百石より四百石之内、甲一羽・馬一疋・指物三本・鑓参本・のほり一本・鉄炮一挺事
一、四百石より五百石之内、甲一羽・馬一疋・指物四本・鑓四本・のほり一本・鉄炮一挺事
一、五百石より六百石之内、甲二羽・馬二疋・指物五本・鑓五本・のほり一本・鉄炮弐挺事
一、六百石より七百石之内、甲弐羽・馬弐疋・指物六本・鑓六本・のほり一本・鉄炮三挺事
一、七百石より八百石之内、甲三羽・馬三疋・指物七本・鑓七本・のほり一本・鉄炮三挺事
一、八百石より九百石之内、甲四羽・馬四疋・指物八本・鑓八本・のほり一本・鉄炮四挺事
一、千石ニ甲五羽・馬五疋・指物拾本・のほり弐本・鉄炮五挺事、付、馬乗一人之着到可准弐人宛事
右、軍役雖定置、猶至相嗜者寸志も不黙止、併不叶其分際者、相構而可加思慮、然而顕愚案条々雖顧外見、既被召出瓦礫沈淪之輩、剰莫太御人数被預下上者、未糺之法度、且武勇無功之族、且国家之費頗以掠 公務、云袷云拾存其嘲対面々重苦労訖、所詮於出群抜卒粉骨者、速可達 上聞者也、仍家中軍法如件、
天正九年六月二日/日向守光秀(花押)/宛所欠

解釈案

定、条々
一、武者は備場において、役者のほか、諸卒は高声と雑談は禁止する。付則:攻撃起点とその手配、鯨波以下は下知に応じること
一、先駆けを配置して指図しているところは、旗本侍に着いて下知に従うように。但し、その先手となる所によって計るべき者は、事前に確認しておくこと
一、自分の手勢の各員は前後を揃えて随伴させるべきこと。付則:鉄炮・鑓・指物・幟・甲立・雑卒に至っては、置き所を法度の通りにするべきこと
一、『武者押し』の時、馬乗者の後ろに隔たっては、不意に働きがあってもすぐに対応できない。とても思慮の足りないことだ。早々に知行を没収する。付則:時宜によって成敗を加えるべきこと
一、旗本の先手がそれぞれの備を定め置いた上は、足軽『懸合』の一戦があったとしても、全員が下知を守るように。もし守らない者がいれば、誰であろうと粗忽と見なし成敗を加えるべきこと。付則:虎口の使者が眼前で各自に向かって言い立てたとしても、報告してから返答するように、たとえその場に踏み止まり高名に比類がなかったとしても、法度に背くその罪は更に逃れられないこと
一、働きか陣替の時に、陣取と言って抜け駆けをし、士卒を送ることは、堅く禁止している。その場所に行って見るだけに決めておくべきこと。但し、事前に指示された事情があれば『仁着』をなすべきこと。付則:陣払いは禁止ていること
一、陣夫・荷物の計量は京都法度の器物3斗とする。但し遠隔地の夫役では2斗5升とするように。その食料は1人当たり1日に8合で、領主より下行するべき事
一、軍役人数は100石に6人。その前後はこれに準じること
一、100石より150石未満は、甲1羽・馬1疋・指物1本・鑓1のこと
一、150石より200石未満は、甲1羽・馬1疋・指物1本・鑓2本のこと
一、200石より300石未満は、甲1羽・馬1疋・指物2本・鑓2本のこと
一、300石より400石未満は、甲1羽・馬1疋・指物3本・鑓2本・幟1本・鉄炮1挺のこと
一、400石より500石未満は、甲1羽・馬1疋・指物4本・鑓4本・幟1本・鉄炮1挺のこと
一、500石より600石未満は、甲2羽・馬2疋・指物5本・鑓5本・幟1本・鉄炮2挺のこと
一、600石より700石未満は、甲2羽・馬2疋・指物6本・鑓6本・幟1本・鉄炮2挺のこと
一、700石より800石未満は、甲3羽・馬3疋・指物7本・鑓7本・幟1本・鉄炮3挺のこと
一、800石より900石未満は、甲4羽・馬4疋・指物8本・鑓8本・幟1本・鉄炮4挺のこと
一、1,000石には、甲5羽・馬5疋・指物10本・幟2本・鉄炮5挺のこと。付則:馬乗1人の着到は2人分に準じること
右は、軍役を定め置いたものだが、更に嗜みについては少しであっても看過できない。そしてその負担にたえられない者は、調べて考慮するだろう。
そうして愚案の条々は外見を憚るとはいえ、既に召し出された瓦礫沈淪のやから、あまつさえ莫大なご人数を預かった上は、法度を未だに糺さず、かつは武勇の功がないやから、かつは国家の費用を公務と称して盗む。『袷』といい、『拾』といい、その嘲りと思い、皆に苦労を重ねることとなった。

『云袷云拾』が難解。「云A云B」とした場合「AといいBといい」と読んで前提条件を表し、その後に続く文で意味をなす。この場合は、背任横領の部分と、嘲られるという部分の間に入っている。

となると「拾」の意味は「おこぼれに預かる」とか「恵んでもらう」とかの蔑みに繋がると思うのだが「袷」が判らない。ネット上にあった御霊神社文書の写真を見るとはっきりと「袷」と書かれ、誤翻刻ではない。

普通に読めば「あわせ」。強いて言うなら裏地がある衣装である袷から「表裏がある」という意味の隠語・慣用句なのかも知れない。


追記

Twitter上で、「云袷云拾」は「云袷云恰」の誤字で情報をいただいた。

『古文書難語辞典』で確認したところ、以下の項目があった。

とにもかくにも「袷恰」あれこれにつけて。何事につけても、何にしても。かれこれ「左右・故是・袷恰」あれこれ。

このため、解釈文の末尾を以下のように変更する。

そうして愚案の条々は外見を憚るとはいえ、既に召し出された瓦礫沈淪のやからだ、あまつさえ莫大なご人数を預かった上は、法度を未だに糺さず、武勇の功がないやからだとか、国家の費用を公務と称して盗んだなどと、かれこれそのような嘲りと受ける思い、皆に苦労を重ねることとなった。

年未詳の断片

いつのものか不明なものもあって、ここでは2,000石で鉄炮5となっている。前述文書によると1,000石ごとに鉄炮5となるから、それよりも前の段階のものかも知れない。

小者には鉈・鎌を装備させよとしている点が興味深い。

  • 八木書房刊明智光秀170「明智光秀軍役之条々」(国立公文書館所蔵・古文書纂)

軍役之条々
  一、騎馬三人、   一騎ハ馬取二人、鑓一本
   一騎ハ馬取二人
   一騎ハ馬取一人
一、二千石
  一、長柄、八本
  一、持鑓、三本
  一、甲持、一人
  一、持筒、五挺
  一、指物持、一人
  一、持弓、一張
一、長柄乃もの羽織はれんの事
一、小者共ニハなた鎌をさゝすへき事
一、若党ハ腰おけ、小者ハめんつうを可着事、
月日欠/明智日向守光秀(花押影)/宛所欠

2017/09/06(水)今川攻めで徳川が武田を利用した可能性

井伊谷占領時の但し書きに武田が出てくる件

1568(永禄11)年に今川氏真を攻める際、徳川が遠江、武田が駿河という分割協定があったと通説で言われているが、史料を見るとそんな単純な話じゃないように見える。

12月12日の起請文・判物で、徳川家康は井伊谷侵攻に当たり、武田晴信から何を言われようと与えた知行は保証するとしている。

  • 戦国遺文今川氏編2200「徳川家康起請文写」(鈴木重信氏所蔵文書)

    「若自甲州彼知行分如何様の被申様候共、進退ニ引懸、見放間敷候也、其外之儀不及申候」

  • 戦国遺文今川氏編2201「徳川家康判物写」(鈴木重信氏所蔵文書)

    「若従甲州如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也」

これは、今川攻めが武田主導で行なわれていて、三河に隣接する井伊谷ですら家康が保証できるか不透明だったことを示す。

武田晴信の怒り

その後家康は後北条と手を組んで、武田とは敵対する。この裏切りへの怒りを、晴信は織田信長にぶちまける。

  • 戦国遺文今川氏編2371「武田晴信書状」(神田孝平氏所蔵文書)

態令啓候、懸川之地落居、今河氏真駿州河東江被退之由候、抑去年信玄駿州へ出張候処、氏真没落、遠州も悉属当手、懸河一ヶ所相残候キ、経十余日、号信長先勢、家康出陳、如先約、遠州之人質等可請取之旨候間、任于所望候シ、其已後、北条氏政為可救氏真、駿州薩埵山へ出勢、則信玄対陣、因茲向于懸川数ヶ所築取出之地候故、懸河落城候上者、氏真如生害候歟、不然者三尾両国之間へ、可相送之処ニ、小田原衆・岡崎衆於于半途、遂会面、号和与、懸川籠城之者共、無恙駿州へ通候事、存外之次第候、既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候、此所如何、信長御分別候哉、但過去之儀者不及了簡候、せめて此上氏真・氏康父子へ寄敵対之色模様、従信長急度御催促肝要候、委曲可在木下源左衛門尉口上候間、不能具候、恐ゝ謹言
追而、上使瑞林寺、佐々伊豆守越後へ通候、津田掃部助者為談合、一両日已前着府候、
五月廿三日/信玄(花押)/津田国千世殿・夕庵

「遠州も悉属当手」とは、武田主導で今川を攻めたのだから遠江は武田のものという認識。

「号信長先勢、家康出陳、如先約、遠州之人質等可請取之旨候間、任于所望候シ」は面白い。家康は信長の先方衆として出陣したという指摘がまずある。晴信としては信長との共同作戦という座組みがまずあって、その中で家康が一部隊として動いたという認識だ。そして事前の約束として、家康が遠江の人質等を回収することを希望したので任せた、ということになる。

その後、北条氏政が駿河に出てきて晴信が手間取っている間に、家康は後北条と「号和与=和睦と称して」掛川で籠城していた者を逃がしてしまった。これを晴信は

「存外之次第候、既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候」

「思ってもみなかった状況だ。氏真・氏康・氏政への和睦をしないことは、既に家康の起請文で明らかだ」

と糾弾する。これを信長はどう考えるのか、とまで詰め寄った後で一転して、とはいえもう過ぎてしまったことだから、これからはせめて家康に、今川・後北条と敵対するよう指導してくれと依頼している。

家康は、晴信を利用して遠江を奪い、武田が駿河で敗色濃厚と見るや、掛川を確保するために独断で後北条と結んだ。結果が全ての戦国期でも、さすがにあざとい動きでこれは見事。ただ、その反動は後々まで残って、武田が遠江と三河へ執拗に攻撃をかけるようになる。

限られた史料ではあるが、このように理解するとすっきりする。

だけど、近世の価値観では「神君がそのような卑怯な行動はしない」と躍起になったのではないか。通説だと「晴信が先に遠州にちょっかいをかけたので、家康は報復として氏真を助けた」みたいに書かれている。

その以前に家康が今川氏真に逆心した時のことを「あれは仕方がなかった」というストーリーに仕立てた近世編著からしたら、この逆心もあれこれ捻じ曲げた解釈を広めた可能性があるだろう。

人質の安否

家康が今川・後北条と和睦するに当たり、徳川から武田に渡されていた人質はどうなったのだろうか。2月23日に出された山県昌景書状がその時の様子を少し窺わせている。この書状で昌景はごまかしているが、武田方は敗色が濃厚になっていて駿府を一時奪われている。

昌景書状によると、酒井忠次から「人質替=人員変更」に関して武田方に申し出たものの返信がなかったのがまずあったようだ。昌景は担当の3人(上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守)が安部山地下人の反乱に連座して出仕を停止されていたとする。昌景自身はこの人質替の事情を知らなかったと弁明しつつ、「最終的には甲府のご息女はお返しするでしょうから、ご安心下さい」と結んでいる。

とすると、この人質替とは他例でいう人員変更ではなく、当座の人質を返還することを意味するようだ。忠次の娘が無事に帰れたかは判らないが、和睦と掛川開城が5月になったのはこの辺の事情もあったのかも知れない。

  • 戦国遺文今川氏編2280「山県昌景書状」(東京都・酒井家文書)

今廿三日下条志摩守罷帰、如申者、向懸川取出之地二ケ所被築、重而四ケ所可有御普請之旨候、至其儀者、懸川落居必然候、当陣之事、山半帰路以後、弥敵陣之往復被相留候之条、相軍敗北可為近日候、可御心安候、随而上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守人質替、最前之首尾相違、貴殿へ不申理候由、御述懐尤無御余儀候、惣而駿州衆之擬、毎篇自由之体、以此故不慮に三・甲可有御疑心之旨、誠於于其も迷惑に候、此度之様体者、当国安部山之地下人等企謀叛候之間、過半退治、雖然、山中依切所、残党等于深山に楯籠候、彼等降参之訴詔、頼上野介・朝駿候、為其扱被罷越、永々滞留、既敵近陣候之処に、雖地下人等降参之媒介候、経数日駿府徘徊、信玄腹立候キ、三日以前告来候之者、人質替之扱之由候、信玄被申出候者、於于甲州大細事共に不得下知而不構私用候、況是者敵味方相通儀に候之処、不被窺内儀而如此之企無曲候、以外無興、上野介被停止出仕候、小伊豆・朝駿事者、唯今之間屢幕下人に候之間、無是非之旨候、是も信玄腹立被聞及候哉、無出仕之体に候、元来於某人質一切に不存候、御使本田百助方に以誓言申述候、尚就御疑者、公私共に貴方不打抜申之趣、大誓詞可進置候、所詮甲州に候御息女之事返申之旨候之間、可御心易候、委曲之段、本田百助方被罷帰候砌、可申候、恐ゝ謹言、
二月廿三日/山県三郎兵衛尉昌景(花押)/酒井左衛門尉殿御陣所

2017/09/04(月)高天神降伏拒否の意図

城兵が困窮していた高天神城に対して、織田信長が心中を語った朱印状がある。通説や解説文によっては「武田勝頼が後詰に来られないことを知っていて、その評判を落とすために開城を認めなかった」という書かれ方をしていることもあるが、これを読む限り、信長は勝頼の後詰を引き出すことを前提にしている。

  • 増訂織田信長文書の研究913「織田信長朱印状」(水野文書)

    切々注進状、被入情之段、別而祝着候、其付城中一段迷惑之躰、以矢文懇望之間、近々候歟、然者、命を於助者、最前ニ滝坂を相副、只今ハ小山をそへ、高天神共三ヶ所可渡之由、以是慥意心中令推量候、抑三城を請取、遠州内無残所申付、外聞実儀可然候歟、但見及聞候躰ニ、以来小山を始取懸候共、武田四郎分際にてハ、重而も後巻成間敷候哉、以其両城をも可渡と申所毛頭無疑候、其節ハ家康気遣、諸卒可辛労処、歎敷候共、信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候、所詮、号後巻、敵彼境目へ打出候ハゝ、手間不入実否を可付候、然時者、両国を手間不入申付候、自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ、以其響駿州之端々小城拘候事不実候、以来気遣候共、只今苦労候共、両条のつもりハ分別難弁候間、此通家康ニ物語、家中之宿老共にも申聞談合尤候、これハ信長思寄心底を不残申送者也、
    正月廿五日/信長(朱印)/水野宗兵衛とのへ

  • 解釈

    何度も報告をいただき、精を入れていることは祝着です。その包囲で城中が一段と困っている状態なのは、矢文で懇望してきたのですから、近々でしょうか。ですから、助命を願い、以前には滝坂城を添え、今では小山城を添えて、高天神と共に3箇所を渡したいとのこと。これをもって造意・心中を推量しました。そもそも3つの城を受け取れば遠江国は全て領有でき、外聞実儀はよくなるでしょうか。但し、見聞したところでは、あれ以来は小山を初めとして攻撃したところで、武田四郎の分際では再び後巻はできないのではないでしょうか。その両城も添えて渡したいとの言い分は毛頭疑いのないところです。その節は、家康が気遣いをし、諸卒の辛労するというのは遺憾ですが、信長は一両年に駿河・甲斐に出撃するのですから、難所を越えて長途戦うようなことは、外聞からして口惜しいのです。結局は、後巻と称して敵が境目に撃って出てくれれば、手間いらずで片を付けられるでしょう。そうなった時に、両国は手間いらずで領有できます。万が一にも後巻をせず、高天神と同様に小山・滝坂を見捨てるならば、その聞こえで駿河の端々の小城に至るまで保持することはできません。ずっと気遣いしていただいていて、今も苦労をかけていますけれども、両条の考え方は判断が難しいので、この通りに家康に説明して、家中の宿老たちにも聞かせ、話し合うのがよいでしょう。これは信長が思い寄せる心底を残さず申し送ったものです。

包囲している現場の徳川家中では「もう降伏させてよいのではないか」という声が出始めていたのだろう。これに対して信長は遠征したくなかったから、後詰が来るまで降伏させたくなかった。勝頼が出てくれば「手間不入」だと2度も言及している。その一方で、信長はこの朱印状で現場に相当気を遣っていて、辛労・苦労・気遣は丁寧にねぎらっている。この2点が相まって、とにかく後詰まで待てということをあれこれ説明している文面になっているのではないか。

後詰に来たら手間いらずと書いた後に「自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ=万が一、後詰に来ずに高天神などを見捨てたならば」という事態を想定しているが、これは更に出てくるであろう現場の不満「勝頼を引き出すために長陣を続けさせたとして、結局来なかったらどうするんだ」に対応しようとしているように見える。後詰がなかったら武田が駿河を維持はできないとは書いているが、後詰想定ほどにはあれこれ説明していない。

実際、勝頼が後詰に来ないまま高天神が落城した後の10月13日、信長は三河と信濃の境目に「御取出」構築を指示している。結局、「切所を越、長々敷弓矢を可取事」になってしまった。

  • 増訂織田信長文書の研究957「滝川一益書状写」(武家事紀三十五続集古案)

    至信州堺目、御取出可被仰付旨候、就其様子可申渡之間、其元御越弥被示合、御越奉待候、委曲牧伝ニ可申入候、恐々謹言、
    十月十三日/一益在判/奥喜殿御宿所

この文書も、信長の被官が家康の被官に直接指示している辺りが面白い。

2017/08/06(日)10年前の解釈議論をあえて蒸し返してみる

古文書を本格的に読み始めてちょうど10年ということで思い出した。

解釈を始めたばかりの頃、かぎや散人氏と下記の文書の「別可馳走」の解釈を巡って真剣に議論をしたのだった。当時はせいぜい100件以内の守備範囲での議論だったので、今から振り返ると引き出す用例が少なくて心もとない。

用例が増えた現状で再び試みてみようと思う。

今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、
十二月五日/義元(花押)/明眼寺・阿部与五左衛門殿
戦国遺文今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)

原文では、山口左馬助について今川義元が与えた指示が主な内容になっている。といっても、宛所は左馬助ではない。寺と武家が併記されるちょっと奇妙な構成だ。

ここで「山口左馬助別可馳走之由祝着候」をどう捉えるかが重要になってくる。

  1. 「可」は未来に向けて開かれた状態だから「山口左馬助が特別に馳走するだろう」という予定を義元が聞き「祝着」と言っている。

  2. 「可」は誤字で「別可」ではなく「別而」。「山口左馬助が特別に馳走した」という経緯を義元が聞き「祝着」と言っている。

前者なら、妙眼寺・阿部は山口の調略をしていたことになる。後者だと山口は既に調略済みで活動していたことになる。

この後の文章では「でも刈谷の水野とは和睦しちゃうから。味方の中で反対する奴がいないように山左に言っておいて」と義元がしれっと書いている。これはどちらの状況でも説明がつくので、後半の文では決め手にならなない。

かぎや氏は前者のように「馳走するべく」と読むべきで、山口左馬助はこの時点では馳走を期待される存在だったと解釈した。

一方で私は「可」は「而」の誤字で、馳走は既に行なわれていたものの、織田信秀の悃望によって刈谷の赦免が決定してしまい、山口左馬助の努力が無駄になったと解釈した。

改めて考えるに当たって、まずは「別可」は脱字でも誤字でもなく、そのまま「別可」を使用していたかを調べてみると、他例の検索では下記のようにこの組み合わせは使われていなかった。やはり何らかの脱字・誤字を疑った方がよいようだ。

別可 3例
(当該以外は別義→為各別可相除・以分別可被申与之由承候)

脱字・誤記について何パターンか検討する。

1)「而」が脱字していると考えて「別而可馳走」とする仮説

別而可 17例

「別して~べく」の用例は上記のように普通に存在する。しかし一方で、

可馳走 1例(当該のみ)
「可[^、]+馳走」 0

「可馳走=馳走すべく」はこの例でしか見られず、他の語を挟んでも存在は見られなかった。

可有馳走 3例
可令馳走 2例
<以下は1例ずつ>
可被馳走
可致馳走
可在其方馳走
可然様ニ馳走・可然様ニ貴所御馳走

上記の結果を見ると、可と馳走は直接繋がらず「有・令・被・致・在」を間に挟むようだ。

このことから、「可馳走」は成り立たず、更に別の脱字を想定しなければならない。

ちなみに、可と走廻は直接繋がる。

可走廻 130例

そして間に語を挟む例も存在する。

可被走廻 20例
可為走廻 2例
可有御走廻 2例
可然様ニ走廻 1

2)「可」が「而」の誤記か誤翻刻と考えて「別而馳走」とする仮説

「可[^、]+馳走」でGrepすると、「別而」と「馳走」の組み合わせは8例ある。

別而馳走 6例
別而御馳走 1例
別而此節之間御馳走可申候 1例
別令馳走 1例 <後述>

この想定だと、「可」と「而」の取り違えだけで説明可能。

参考:走廻の場合

別而走廻 6例
<以下は全て1例>
別而可被走廻
別ニ抽而被走廻
別而可走廻
別而無油断走廻
別而成下知走廻

3)「可」が「令」の誤記か誤翻刻と考えて「別令馳走」とする仮説

「別令馳走」は以下の文書でしか見られない。

沓掛・高大根・部田村之事右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件、
天文十九十二月朔日/治部大輔(花押)/丹羽隼人佐殿
戦国遺文今川氏編0989「今川義元判物」(里見忠三郎氏所蔵手鑑)

類似で「爰元能ゝ為御分別令啓達候候」というものはあるが、これは「御分別」と「令」の組み合わせなので異なる。「令馳走」は10例あることから、「別而令馳走」だったのが「而」が欠け、「令」が「可」に誤読されたと考えことが可能。

結論:1~3を比較・検討する

  1. 「別(而)可(有)馳走」 2箇所の脱字発生を想定
  2. 「別(可→而)馳走」 1箇所の誤字発生を想定
  3. 「別(而)(令→可)馳走」 1箇所の脱字・1箇所の誤字発生を想定

最もシンプルな修正で済ますのであれば、2の「而を可と誤記か誤読した」という解釈にするのが、最も妥当と考えられる。

最後に改めて

当時の解釈と今の解釈を並べてみた。昔は結構たどたどしかったなあと、感慨深い。

今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、
十二月五日/義元(花押)/明眼寺・阿部与五左衛門殿
戦国遺文今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)

  • 過去の解釈

山口左馬助が、今度際立って活躍したのはとても祝着です。とはいえ、織田備後守が色々と陳情してきた事情もありますので、刈谷は赦免させました。この上は、味方筋の無事・無異議を山口左馬助が申し整えるよう、ご両人からご意見なさいますように。

  • 現在の解釈

今度山口左馬助が特別に奔走したとのこと、祝着です。とはいえ織田備後守が懇望した状況がありますので、刈谷は赦免させていただきます。この上は、味方の中から和平に反対する者が出ないように、山口左馬助へ両人から意見して下さい。

補足:宛所について

  • 明眼寺

安城と岡崎の間にあって松平氏と非常に縁が深いが、刈谷の水野氏から寄進を受けたこともあって、「苅屋令赦免」の仲介役として見てよいと思う。

  • 阿部与五左衛門

史料がこれしかないので不明だが、ちょうど同じ頃に活動していた阿部大蔵の一族かも知れない。大蔵は松平氏被官だけど、もうこの頃は今川被官に近くなっている。ただ大蔵は動いていない。

まとめると、松平でも水野でもない周縁的位置で、ほんの少し松平寄りな特殊な構成といえそうだ。妙眼寺はこれ以外で政治に関わった経歴はないし、与五左衛門はここにしか出てこないから、かなり特殊なメンバー。

2017/07/17(月)寿桂尼は当主の補佐に徹したのか

今川氏親室の「寿桂」は、通説では歴代当主の補佐をしたとなっているが、息子の氏輝については本当にそういう関係だったのか疑問に思っている。

氏親死後は、2年ほど寿桂のみが文書を発給、大永8年になると氏輝が文書発給を開始する。このままで終われば、寿桂は「繋ぎ」としての役割だと言い切れる。ところがこの年の10月以降、寿桂のみの発給体制に戻ってしまう。これは享禄2~4年と続き、その間の氏輝文書は姿を消す。

ただ1点だけ、奇妙な文書がある。享禄3年の1月29日に本門寺に宛てたごく普通の保護制札だが、これだけが何故か氏輝の名前が書かれている。そして「氏輝」とまで書かれていながらその下に花押はなく、袖の部分に寿桂の朱印が押されている。氏輝が病弱だという通説に従うならば、1月に体調が回復した氏輝を当て込んで書面を作成、その後病状が悪化し花押が据えられなくなって、最終的に寿桂が代行したとなる。

しかし、それならば何故最初から寿桂の文面で作らなかったのかという疑問がある。その前年から完全に寿桂発給体制に切り替わっているし、そんなに急ぎの内容でもない。

氏輝が母に排斥されていたとすると……

ここで、寿桂と氏輝が競合関係にあったと仮定してみる。

氏親死後に発給を独占した寿桂を押しのける形で、本来の当主である氏輝が大永8年に一斉発給を開始するのだが、すぐに寿桂が盛り返して再び発給を独占する。

享禄3年の奇妙な文書は、この期間に間違って作られた書面だったか、氏輝派が画策して作られたのかどちらかだと思う。何れにせよその文面を見た寿桂は、花押がないまま、袖に自分の朱印を押した。破棄しなかったのは、どのような書面で稟議されようとも決裁は必ず自分が行なうという意思表示だった。このように考えるとこの奇妙さは解消される。

※袖判が発給者より上位だとすると、氏輝名義だが寿桂が袖判するという条件を提示したが氏輝が拒否したという仮説も成り立つ。ただ、その場合でも文面を改めて発給する可能性があり、余り可能性が高いように思えない。

その後は享禄5年になると氏輝に一気に切り替わる。これは氏輝が急死するまで続くのだが、天文3年だけは少し例外がある。朝比奈泰能が3月12日に、遠江国大山寺に安堵状を出しているのだが、これは最初に氏親が発給した内容の追認で、その前に寿桂、氏輝の順でも出されている。大山寺のこの反応を見ると、今川家の安堵状では信用ができず、掛川の泰能からも一筆出すよう求めたのが妥当なように見える。また、5月25日に寿桂が漢文の朱印状を出しているが、この宛所・内容は富士金山に関わるもので、氏輝はここに食い込めなかったのだと推測できる。

義元の代になると寿桂は暫く発給を止めるが、天文16年に1通だけ安堵状が出される。この後1年空けて、天文18年に再び発給を開始するが、この時は朱印状の袖に義元が花押を据えている。氏輝との競合があったとするならばだが、義元としては寿桂の独自発給を止めるためにこの措置を行なったとも考えられる。

この後は義元袖花押を伴わなくなるので、一旦上下関係を確認した後は放置したのだろうか。この点は更なる推論が必要になるかも知れない。

寿桂が氏輝と競合してまで発給を続けた理由

この動機としては、寿桂が京の出身で文書の扱いに対して素養があったこと、個人の資質として政治をしたがったことが大きいと考えている。但し、だからといって寿桂が大きく政治方針を転換した訳ではない。私が想定しているのは、京から駿府に下った公家衆の利権確保を目的として家中での発言権拡大を目指したのではないか、というもの。歴代今川当主の中でも群を抜いて京贔屓だった氏親の死は、公家衆にとって大きな衝撃だったに違いなく、その収拾役として寿桂が立ったと。

恐らくこの視点から徹底的に史料を当たっていないと思うので、よりフラットなアプローチで再検討してみてもよいかと思う。

氏輝・寿桂 文書推移

 番号は戦国遺文今川氏編 △=寿桂、●=氏輝、◎=両者


1526(大永6)年

 06月23日 氏親死去

△09月26日 寿桂朱印状 大山寺安堵状 419

△12月26日 寿桂朱印状 昌桂寺寄進状 425

△12月28日 寿桂朱印状 朝比奈泰能宛 427

<惣持院所領4貫400文を城地として渡す>


大永7年

△04月07日 寿桂朱印状 心月庵棟別免除 429

<「しひのおの末庵たるうへ、めんきよせしむる所如件」>


大永8年・享禄元年(8月20日改元)

●03月28日 氏輝判物 神主秋鹿左京亮宛安堵状 443

●03月28日 氏輝判物 神主秋鹿宛人足免除 445

●03月28日 氏輝判物 八幡神主宛安堵状 444

●03月28日 氏輝判物 松井八郎宛御厨領家相続安堵 446

●03月28日 氏輝判物 松井八郎宛遠州当知行安堵 447

●03月28日 氏輝判物 匂坂六郎五郎宛遠州当知行安堵 448

●08月07日 氏輝判物写 雅村太郎左衛門尉宛証文再発行 450

●08月13日 氏輝判物 大山寺安堵状 452

●08月13日 氏輝判物写 頭陀寺宛安堵状 453

●09月07日 氏輝判物 久能寺宛安堵状 456

●09月15日 氏輝判物 新長谷寺宛相続安堵状 457

●09月17日 氏輝判物 神主中山将監宛免税 458

△10月18日 寿桂朱印状 大井新衛門尉宛皮役指示 459

<氏親判物(399)を受けてのものだが、この399は印文が「氏親」で違和感がある。この頃は「紹僖」印で、花押の位置に押していた。従ってこの文書も要検討だと考えられる>


享禄2年

△03月19日 寿桂朱印状 大石寺宛免税 461

△12月07日 寿桂朱印状 五とうせんゑもん宛安堵状 465

△12月11日 寿桂朱印状 めうかく寺宛免税 466


享禄3年

◎01月29日 氏輝判物(寿桂朱印状) 本門寺宛保護制札 467

<氏輝の名前の下に花押がなく、袖に「帰」朱印>

△03月18日 寿桂朱印状 新長谷寺宛相続安堵 471

△06月27日 寿桂朱印状 玖延寺宛安堵状 473

△06月30日 寿桂朱印状 極楽寺安堵状 474


享禄4年

△03月23日 寿桂朱印状 酒井惣さゑもん宛植林指示 475

△閏05月01日 寿桂朱印状 華厳院宛保護制札 476(漢文)


享禄5年・天文元年(8月29日改元)

●4月21日 氏輝判物 三浦鶴千代宛安堵状 481

●4月21日 氏輝判物 三浦鶴千代宛安堵状 482

●5月3日 氏輝判物 大石寺宛免税 483

●8月21日 氏輝判物 江尻商人宿 485

●9月3日 氏輝判物 昌桂寺宛保護制札 487

●9月19日 氏輝判物 長善寺宛保護制札 489

●10月4日 氏輝判物 神龍院宛相続安堵 490

●11月27日 氏輝判物 富士宮若宛安堵状 493


天文2年

●2月5日 氏輝判物 法多山宛安堵状 496

●5月14日 氏輝判物 玖延寺宛安堵状 499

●10月19日 氏輝判物 興法寺宛安堵状 504

●12月4日 氏輝判物 大沢宛小船役の提供 505

●12月10日 氏輝判物 満願寺宛安堵状 506

●12月26日 氏輝判物 建穂寺宛安堵状 507


天文3年

●01月17日 氏輝判物 中山宛切符給付 508

●02月21日 氏輝判物 能登権守神領差し戻し 509

●02月27日 氏輝判物 大石寺宛寄進状 510

 03月12日 泰能判物 大山寺宛安堵状 512

△05月25日 寿桂朱印状 大田神五郎宛 515(漢文)

<富士金山への荷物搬送>

●06月05日 氏輝判物 加賀爪宛安堵状 516

●07月03日 氏輝判物 某宛大岡庄商人問屋の権限保障 519

●07月13日 氏輝判物 興津宛安堵状 520

●08月14日 氏輝判物 真珠院宛保護制札 521

●11月07日 氏輝判物 井出宛知行裁許 522

●12月16日 氏輝判物 原川宛安堵状 528


天文4年

●05月16日 氏輝判物 領家宛寄進状 529

●05月30日 氏輝判物 大山寺宛相続安堵状 530

●06月04日 氏輝判物 辻坊宛裁許 531

●07月17日 氏輝判物 某宛免税 532

●08月20日 氏輝判物 孕石宛感状 533

●09月05日 氏輝判物 太田宛感状 534

●10月18日 氏輝判物 匂坂宛中尾生在城指示 536


天文16年

△04月02日 寿桂朱印状 徳願寺宛安堵状 826


天文18年

△10月04日 寿桂朱印状 真珠院宛寄進状 911(半漢文)

<義元が袖花押>

△11月23日 寿桂朱印状 徳願寺宛寄進状 917

<義元が袖花押>

△11月23日 寿桂朱印状 徳願寺宛知行指示 918

<義元が袖花押>


天文19年

△11月17日 寿桂朱印状 円龍寺宛寄進状 981(半漢文)


天文20年

△05月23日 寿桂朱印状 めうかく寺宛寄進状 1011


永禄2年

△06月18日 寿桂朱印状 妙海寺宛免税 1465

△12月23日 寿桂朱印状 岡埜野宛百姓職裁許 1488


永禄6年

△03月28日 寿桂朱印状 妙海寺宛安堵状 1905(半漢文)

△09月11日 寿桂朱印状 峯叟院宛寄進状 1934


永禄7年

△12月18日 寿桂朱印状 徳願寺宛安堵状 2022

△12月吉日 寿桂朱印状 高松社宛寄進状 2023(半漢文)

原文

駿河国富士北山之内本門寺之事
一、棟別并諸役、為不入之地御免許之事
一、本門寺々号証文御領掌之事
一、於彼地、従地頭陣僧・棟別諸役等不有之之事
右条々、如先御判之旨、為不入之地定置者也、仍而状如件、
享禄三庚寅年正月廿九日/氏輝(名の下に花押なく、袖朱印「帰」)/本門寺
戦国遺文今川氏編0467「今川氏輝判物」(富士宮市北山・北山本門寺文書)

駿河国しやうふかやのうちしものやつ庵地、さかゐそうさゑもんはいとくせしめ、あんをたつると云々、林としてうへ木をなすへきよしある間、後年にかのはやしきんへんかこのようなと申、其外見きり竹木めんしをハんぬ、此むねを得、竹ほくを可植者也、仍如件、
享禄四年辛卯年三月廿三日/(朱印「帰」)/酒井惣さゑもん殿
戦国遺文今川氏編0475「寿桂尼朱印状」(酒井文書)

江尻商人宿之事
右、毎月三度市、同上下之商人宿事、并屋敷弐間、可為如前々者也、仍如件、
享禄五八月廿一日/袖に(今川氏輝花押)/宛所欠
戦国遺文今川氏編0485「今川氏輝判物」(静岡市葵区研屋町・寺尾文書)

遠江国敷知郡之内当知行内海小船役之事、無之筋目承之間、就村櫛在城之畢、然者、上置船雖有何地、無相違可被請取之状、仍而如件、
天文二十二月四日/氏輝(花押)/大沢殿
戦国遺文今川氏編0505「今川氏輝判物」(大沢文書)

富士金山江上荷物五駄、毎月六度、甲州境目雖相留、金山之者共為堪忍分不可有相違、若甲州へ於通越有之者、堅所被加成敗、仍如件、
天文三甲午五月廿五日/(袖に朱印「帰」)/大田神五郎殿
戦国遺文今川氏編0515「寿桂尼朱印状写」(国立公文書館所蔵判物証文写附二)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全之祈念、修造勤行等、不可有退転之状如件、
永正十六己卯年正月十一日/修理大夫(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0323「今川氏親判物」(大山寺文書)

とをたうミの国むらくしのうち大山寺りやう田地参町四段ならひにやまはやし等之事。右、国ふにうとして、さうゐなくりやうしやうせしめをハんぬ、新きくハん所として、武運ちやうきう・国家あんせんのきねん、しゆさう勤行等、たいてんあるへからす、そうせん寺殿の御判にまかせて、つきめさういあるへからさるもの也、仍如件、
大永六ひのへいぬ年九月廿六日/袖に朱印「帰」/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0419「寿桂尼朱印状」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入、無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全之祈念、修造勤行等、不可有退転之旨、任永正十六年正月十一日喬山判形、不可有相違之状如件、
大永六戊子年八月十三日/氏輝(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0452「今川氏輝判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入、無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全祈念、修造勤行等、不可有退転、任先御判・当御判之旨、不可有相違者也、仍如件、
天文三年甲午三月十二日/泰能(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0512「朝比奈泰能判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并中六坊、其外山林野原等之事。右、当院主一世之後者、弟子秀尊仁被譲与之旨、令領掌訖、為新祈願所、武運長久・国家安全祈念、并修造勤行等、不可有退転者也、任先判之旨為国不入、諸役等免許不可有相違之状如件、
天文四乙未年五月卅日/氏輝(花押)/大山寺当院主秀源坊
戦国遺文今川氏編0530「今川氏輝判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地。参町四段并中六坊、其外山林野原等之事。右、任臨済寺殿判形旨、当院主一世之後者、弟子秀尊仁被譲与之旨、令領掌畢、修造勤行等、不可有退転者也、任先判旨為国不入、諸役等免許不可有相違之状、仍如件、
十二月十三日/義元(花押)/大山寺秀源法印
戦国遺文今川氏編0581「今川義元判物」(大山寺文書)

遠江国村柿内大山寺領田地之事。参町四段并中六坊、其外山林等之事。右、任先判并先師勝尊法印譲与之旨、永領掌不可有相違、同門沙弥百姓、棟別年来納所無之旨、所任其儀也、然者弥修造勤行不可有怠慢、任先例為国不入、諸役以下免除不可有相違者也、仍如件、
永禄参庚申年二月七日/氏真(花押)/大山寺尊融
戦国遺文今川氏編1495「今川氏真判物」(大山寺文書)

今度甲州衆、就在所鳥波放火、於富士別而就新屋敷取立者、棟別拾弐間分、并天役・諸役等令免除之、弥可抽奉公者也、仍如件、
天文四乙未年七月十七日/氏輝(花押)/宛所欠
戦国遺文今川氏編0532「今川氏輝判物」(六所文書)

去十九日之於万沢口一戦之上、別而成下知走廻之由、甚以神妙也、殊所被抽粉骨、仍如件、
八月廿日/氏輝書判/孕石郷左衛門殿
戦国遺文今川氏編0533「今川氏輝感状写」(土佐国蠧簡集残編七)