2017/05/20(土)板部岡曲輪とは何か?

よく判らない、六郎宛の文書

小田原市史1176の虎朱印状後北条氏が城の守備規定を書いたもので、日付や年がはっきり判るにも関わらず、宛所の「六郎殿」が北条氏忠を示すのかどうか、その城がどこにあるのかが不明だった。

とはいえ、最近では「大途が帰ってきたら」「暮れの鐘がなったら」という表現から、小田原城を対象にしていて、六郎はやはり氏忠ではないかという論調になってきたっぽい。

文書からもっと情報を引き出してみる。

この文書は「前欠」といって、前の部分が切り取られた状態。だから、失われた部分には恐らく他の曲輪についての言及もあったのだろう。

一方、小曲輪の後に結びの文があるので、小曲輪が「六郎」にとっての最後に書かれた担当箇所だったのははっきり判る。

配置人数からは以下のことも判る。

  • 内村屋敷と隣接し、門で繋がっていた。
  • 「内村」は台所奉行を勤めている人物。
  • 板部岡曲輪は小曲輪の守備範囲だった。
  • 関某が担当する二階門には蔵が併置されていた。
  • 鈴木某が担当する門があった。

担当人数は、蔵のみが6名で、他は全て10名。但し二階門には蔵が併置されいて、そちらの人数と合わせると16名になっている例外的配置。

板部岡曲輪は、名前は「曲輪」ではあるものの普通の門と同じ守備構成で、規模の小さい特殊な曲輪といえる。小曲輪の守備範囲に包摂されることから、以下の様態を想定してみた。

  1. 外縁部で壇状になっているもの 滝山城・大高城の本丸奥の形状
  2. 外側に狭く突き出ているもの 川越城・岩付城の天神曲輪の形状
  3. 曲輪内の中心部に設置 小田原城御前曲輪内の土壇

同時代史料から見た「曲輪」の名称を比較

「板部岡曲輪」というと板部岡融成との所縁が考えられる。そこで、どのような「曲輪」が存在したのか、史料から抜き出して比較してみる。

  • 固有名詞:安藤曲輪・大好寺曲輪・尾崎曲輪・星名曲輪・秩父曲輪
  • 数値・方角:北曲輪・南曲輪・三之曲輪
  • その他:松曲輪・ふしいろ曲輪・本城外曲輪・本堂曲輪・寺曲輪

この中で、具体的に推測できそうな安藤曲輪・大好寺曲輪を深掘りしてみる。

・足柄城の「安藤曲輪」

一、安藤曲輪、彼地見舞之砌之陣所と定、悉陣所を破たいらめて置候、二ケ所之矢倉ニ番衆を被指置、陣屋作を可被為待候、但夜中之番衆ハ、如何程可被入置も尤候事、

 当主が陣中見舞に訪れる際の場所と決められ、曲輪内の設備を壊して整地させている。陣中見舞用に確保されたことから推測すると、小田原方面から城内に入る際に利便性が高かったのかも知れない。安藤良整との関係性は不明だが、築城時に安藤良整が拠点として物資の管理をしていた可能性は高い。その後通常の曲輪になっていたが、当主が陣中見舞することとなり、立地上のメリットから再度改修されたのかも知れない。

・鉢形城の「大好寺曲輪」

大好寺曲輪へもち参、大好寺ニ可渡之候事、

 北条氏邦の奉者を務めた大好寺某がいた場所。領主に不法行為があった際は、郷内で意見を揃えて大好寺曲輪の大好寺に目安を渡せと指示している。

 安藤曲輪・大好寺曲輪に共通しているのは、城外からのアクセスポイントになっている点。足柄城では小田原口に面して「ダイカンヤシキ」と伝わる場所があり、ここが安藤曲輪であった可能性が高いように思う。鉢形城で大好寺曲輪と伝わる場所は、大手口の向かいにあって、郷村への窓口的な位置。

 安藤良整・大好寺某・板部岡融成はともに奉者を務める官僚的被官であることから、城外との物資や人の流れを管理し易い場所に曲輪を与えられたのではないか。

 であれば板部岡曲輪は、物資や人の出入りする小曲輪3つの門を管理するための施設で、小曲輪と仕切られた領域を指していたのかも知れない。もしくは、小曲輪に集められた物資・人は板部岡曲輪を経由して更に城内に入る構造になっていたかも知れない(守備人数からすると、板部岡曲輪自体も通路であった可能性がある)。

小曲輪推定概念図.png


解釈

(前欠)

小曲輪

十人、内村屋敷へ出門

十人、板部岡曲輪

十人、関役所二階門

六人、同所蔵之番

十人、鈴木役所之門

以上

一、門ごとの開け閉めは、朝は六ツの太鼓を打ったあとに、日の出候を見てから開くように。晩景は入会の鐘を押し果たすのを合図に閉じること。この開け閉めの法度に背いたら、この曲輪の物主も重罪とするだろう。但し、よんどころない用があったら、物主一同で相談して、一筆したため日帳につけておき、御帰陣の上でお目にかけるように。隠し立てして脇からみだりに出入りしたのが聞こえたなら、罪科とするだろうこと。

一、毎日の当曲輪の掃除は、厳密にするように。竹木を仮にも切ったりしないこと。

一、病欠は、たとえ代理を出したとしても、また書き立てた人衆が不足したとしても、氏忠に確認して、氏忠の判断次第とすること。

一、夜中はどの持ち場でも、『昨六時』寝ずの番をいたし、土塁回りをするように。但し、裏土居・堀の裏へ上がる際には、芝を踏み崩さないように、芝付けをした外側を回ること。

一、鑓・弓・鉄炮を初めとして各自の武器を、今日23日に全て持ち場に配置しておき、併せて具足・甲などもしっかりと置いておくこと。

一、番衆中の内情で乱れがあれば容赦せず、たとえ主のことでも、糊付けして氏忠に密告するなら褒美を与えるだろう。もし褒美がなければ、帰馬の上で大途へ目安で報告をせよ。望みの通りにご褒美を加えるだろうこと。

一、日中は朝の五ツ太鼓より八ツ太鼓迄の三時、各曲輪から3分の一で休息するように。七ツ太鼓以前には全員が着到の通り曲輪へ集り、夜中にはしっかりと詰めておくべきこと。

以上

右、定所如件、

乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

小田原市史北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)


原文

(前欠)
小曲輪
十人、内村屋敷へ出門
十人、板部岡曲輪
十人、関役所二階門
六人、同所藏之番
十人、鈴木役所之門
以上
一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事
一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事
一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事
一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事
一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事
一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事
一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事
以上
右、定所如件、
乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿
小田原市史北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)


内村氏関連文書

書下。一、六十枚、干鯛。一、五百枚、スルメ。以上。右、自遠州御客来御向、来廿四日四ツ時以前小田原江持来、久保・内村ニ可渡之、御日限相定間、不可有無沙汰者也、仍如件、
辰五月廿二日/(虎朱印)南条奉/網代小代官・百姓中
戦国遺文後北条氏編2170「北条家朱印状写」(伊豆順行記)1580(天正8)年比定

御陣へ之御用如何にも大成鯛を弐拾枚、明日之晩に可致持参候、引上於浜端則うす塩をいたし、舟を以早ゝ可漕来候、公物者、内村前より可請取者也、仍如件。追而、御陣御留守之間、御陰居様御封判也、
酉八月廿三日/(朱印「有効」)/須賀小代官・舟持中
戦国遺文後北条氏編2847「北条氏政朱印状」(清田文書)1585(天正13)年比定

明日台所之掟、取分堅可申付候、一献ゝゝ請取ニ候間、如其可出之、手前致払衆をハ、則可戻候、台所ニ少之間も不可置、彼衆ニ付、無用者可来候間、此印判を為見、手堅可申断候、若妄之儀有之ハ、後日ニ可遂披露者也、仍如件、丁亥卯月六日/(虎朱印)/布施弾正左衛門代・久保但馬守・内村惣左衛門尉
戦国遺文後北条氏編3078「北条家朱印状」(沢辺文書)1587(天正15)年

2017/05/17(水)戦国時代に兵種別編成はあったのか? その2

後北条氏はかなり細かい着到定を出しているが、これをどう確認したのかは気になるところ。ただ、大藤式部丞に出した朱印状では、誰が何人不足したのかを逐一書いている。

一、今度甲州衆越山儀定上、当月中必可被遂対談、然者人数之事、随分ニ壱騎壱人成共可召寄、并鑓・小旗・馬鎧等致寄麗、此時一廉可嗜事
一、本着到、百九十三人也、此度四十四人不足、大藤
本着到、七十四人也、此度三十五人不足、富嶋
本着到、五十四也、此度二十八人不足、大谷
本着到、八十壱人也、此度三十一人不足、多米
本着到、六十人也、此度廿二人不足、荒川
本着到、卅人也、此度七人不足、磯
本着到、廿二人也、此度無不足、山田
本着到不足之処、如何様ニも在郷被官迄駆集、着到之首尾可合事、一備之内ニ、不着甲頭を裏武者、相似雑人、一向見苦候、向後者、馬上・歩者共、皮笠にても可為着事、
右、他国之軍勢参会、誠邂逅之儀候、及心程者、各可尽綺羅事、可為肝要者也、仍如件、
十月十一日/(虎朱印)/大藤式部丞殿・諸足軽
小田原市史小田原北条0504「北条家朱印状」(小田原市立図書館所蔵桐生文書)

ここで、岩付諸奉行がしつこく「兵種ごとに集めてから着到を確認しろ」と規定していたのが思い当たる。着到状は被官ごとに人数や装備が規定されている。単純に考えれば、被官ごとに点検すればよい。しかし、各被官の立場になってみれば「点検時だけ他の被官から人を借りてくればいい」というすり抜けが可能になる。

これを避けるためには、小旗・鑓・弓・鉄炮などの装備ごとに集合させて出欠・装備点検をすればよい。装備を持たない歩者が「一枚に(整列して)確認しろ」とされているのも、この二重カウントを阻止するためだったと考えるべきだろうと思う。

2017/05/17(水)戦国時代に兵種別編成はあったのか?

本当にこの文書が兵種別編成を証明するのか?

戦国期に兵種別編成があったという根拠として、豊島宮城文書の「北条家諸奉行定書」(戦北1923)が挙げられるようだが、これがあったから「鉄炮隊とか鑓隊が編成されて戦っていた」と判断はできないと思う。

確かに鑓・弓・鉄炮・小旗・馬上・歩者それぞれに奉行が配置されているのだけど、原文を読むとどうも着到付けを徹底させるために戦闘前に集めていたように見受けられる。後北条氏が出した着到定は装備の種類だけでなく寸法が見栄えにも言及しているため、それを点検するのに苦労しているような様子が窺える史料なのではないか。

一旦確認をして、各自がきちんと軍役通りの動員をかけているか調べようとしたのは判るが、その後どうやって戦ったかは書かれていない。もしかしたら、またそれぞれの主従で固まったかもしれない。

特に、最初に挙げられている小旗奉行は疑問。兵種別という考え方に則ると、小旗隊という謎の集団を想定しなければならない。更に「歩者奉行」と「歩者廿人之奉行」がどう異なるのかも判らない。着到改めであれば、「歩者廿人」という別立ての着到定があり、それに特化した奉行がいたとも考えられるのだが……。

もっと突っ込んで考えると、弓・鑓・鉄炮・馬とも関係のないこの「歩者」だけが一隊にまとめられた理由も不明になる。

要は、この文書自体は戦闘前の規約を取りまとめたもので、戦闘自体をどう行なったかは判らない。この文書で触れている「陣庭之取様肝要候、大方陸奥守陣取之模様ニ可取」という記述から、北条氏照が定めた陣取方法があって、それに準拠して戦ったらしいという手掛かりは得られるが、そこまでが限界だろう。

また、これは仮措置で、どこが仮なのかも不明という点も重視しなければならない。文頭で「但今度之陣一廻之定=ただし、今度の陣だけの規定」と断っているほか、文中でも「先此度者、大方如此定置候」としつつ「如何様帰陣之上、心静遂糾明、重而之出張ニハ、入手而可定置候」と、「とりあえずこの規則でやってみろ。帰ったらちゃんと検討して規則を改善する」と書いている。

戦国遺文後北条氏編1923「北条家諸奉行定書」(豊島宮城文書)

岩付諸奉行(但し今度の陣だけの規定)

小旗奉行:中筑後守・立川藤左衛門尉・潮田内匠助

 出撃の法螺貝を合図があったら常に、小旗を集めるように。押さえる前に文句を言わせずきちんと押さえるように。小旗は規定では120本余りがあるだろうから、点検して不足があればいつでも報告するように。

何時も打立之貝立を傍尓ニ、小旗悉可相集、於押前物いわせす、いかにも入精可押、小旗敷定百廿余本可有之間、改而不足之所をハ、何時も可申上候

鑓奉行:福嶋四郎右衛門尉・豊田周防守・立川式部丞・春日與兵衛

 600本あるだろうから、よくよく点検して、不足があればそのまま披露するように。鑓奉行は大切な役目である。揉み合いになった際、押さえる前だったとならないように、丹念に行なうように。小旗を集めるのと同じく、鑓もいつも集めておくように。

六百余本可有之間、能ゝ相改、不足之所をハ、無用捨可披露候、鑓奉行大事之役ニ候、もミあふ時、押前ニてならさる様ニ、入精可致之候、何時も小旗之集同前、鑓をも可集、

鉄炮奉行:河口四郎左衛門尉・真野平太

 岩付の鉄炮衆が50余挺あるだろうから点検して、毎回の備えで不足があったら書き出しそのまま披露するように。事前に『簡』を作っておくのがよいだろう。準備不足で、錆びたり、引き金などが壊れているものを担いでいる者がいたら、とんでもない曲事である。よくよく丹念に行なうように。

岩付鉄炮衆五十余挺可有之間、相改、毎度之備ニ不足之所をハ書立、無用捨可令披露、兼日簡をこしらゑ尤候、無嗜ニてさび、引金以下損かつきたる一理迄之躰、以之外曲事候、能ゝ可入精者也

弓奉行:尾崎飛弾守・高麗大炊助

 40余張の弓衆があるだろうから、厳密に対処するように。馬上であっても射手衆は一ヶ所に集め押さえておくように、よくよく丹念に行ない、不足があるかを点検し、そのまま披露するように。

四十余張弓衆可有之、能ゝ相改、厳密ニ可仕置、馬上ニ候共、射手衆をハ一所へ集可押候、能ゝ可入精、不足之所をハ相改、無思慮可披露、

歩者奉行:山田弥六郎・川目大学・嶋村若狭守

 250余人の歩者を点検し、毎回一枚に押さえるように。歩者たちに喋らせることなく、よくよく対処するように。

弐百五拾余人之歩者相改、毎度致一枚可押、歩者共物いわせへからす、能ゝ可致仕置

馬上奉行:渋江式部太輔・太田右衛門佐・春日左衛門・宮城四郎兵衛・小田掃部助・細谷刑部左衛門尉

 500余騎の馬上をよくよく点検し、備えの状況がちゃんとするように精を入れることが大切だ。更に馬上を押さえることが第一に重要。500余騎のうち、不足がないかを点検し、そのまま披露するように。

五百余騎之馬上、能ゝ相改、備之模様可然様ニ被入精肝要候、猶馬上之押様専一候、五百余騎之内、不足之者相改、不及思慮、可有披露者也

歩者廿人之奉行:馬場源十郎

 備えの諸奉行、まずこの度は大体このように定めておく。どれも不案内なので、相違のないように。何れにせよ帰陣の上で冷静に検討する。次の出張では、手を入れて定めるだろう。

備之諸奉行、先此度者、大方如此定置候、何も不知案内ニ候間、可有相違候、如何様帰陣之上、心静遂糾明、重而之出張ニハ、入手而可定置候

陣庭奉行:春日左衛門尉・宮城四郎兵衛・細谷刑部左衛門尉・福嶋四郎右衛門尉

 陣庭の取り方が重要だ。大体は陸奥守の陣取りの様子を真似るように。更に『様子』は前々からの通りにすることが重要だ。太田は暮れの内に中間たち20人の移動先に陣取るのがもっともだろうか。それぞれが相談するように。

陣庭之取様肝要候、大方陸奥守陣取之模様ニ可取、猶様子ハ、自前ゝ致来様肝要候、太田暮之内ニハ、中間共廿人之歩先、為陣取尤候歟、各可相談候

篝火奉行:一夜、春日左衛門尉・細谷刑部左衛門尉・立川藤左衛門尉

     一夜、宮城四郎兵衛・福嶋四郎右衛門尉・立川式部丞

 先日申し出たように、陣の前に1ヶ所、後ろに1ヶ所で、大きさは『本』に焚くように、夜の間は消えないように当番の侍を3人ずつ、2ヶ所それぞれにしっかり配置するように。篝木は先日ご指示があったように3,000貫役の衆が2ヶ所を半分ずつ受け持つのがもっともだ。

先日如申出、前ニ一ヶ所、陣之後ニ一ヶ所、大キサハ本ニたくことく、夜一夜不消様ニ、当番之者侍を三人ツゝ、二ヶ所ニ然與可付置、かゝり木ハ、先日被仰出候三千貫役致衆、二ヶ所を半分ツゝ請取、尤候

小荷駄奉行:一番、春日左衛門尉・福嶋四郎右衛門尉・立川式部丞

      二番、宮城四郎兵衛・細谷刑部左衛門尉・中筑後守

 交互に小荷駄を指示するように。具体的には、常に手札を表示しておき、その指示通りにすること。

隔番ニ小荷駄可申付、模様ハ何時も手札ニ可顕之、可為如其、

尺木

ここだけ別項。「尺木は、一騎合まで全員が出動して結ぶように。この点検は太田・細谷・福嶋・宮城が行なうこと」

一、尺木者、一騎合迄悉出合可結、此改、太田右衛門佐・春日左衛門尉・細谷刑部左衛門尉・福嶋四郎右衛門尉・宮城四郎兵衛

2017/05/16(火)後北条氏が今川領を組み込む文書を解釈してみる

どんな文書?

1569(永禄12)年12月28日に出された虎朱印状を読んでみる。既に北条氏政の息子国王丸が今川氏真の養子となり、駿河の領有権を得てはいるのだが、在地の抵抗を考慮した書き方をしているようだ、というのが事前知識。

逐語で解釈

岡宮浅間領并朝比奈左馬允拘分、

「岡宮浅間」とは、文書の伝来した沼津市岡宮の岡宮浅間神社のことで、この神社の領地を指す。「并=ならびに」は並列を示すので、「朝比奈左馬允」が「拘=抱える=保持する」領地に関しての記載であることが、まず提示される。知行についての文書では、このように最初に知行概要を書き出すことが多い。

駿・甲弓矢之間者、

駿河=今川氏真、甲斐=武田晴信が「弓矢=戦争」となっていることが書かれる。「間」は「期間」を指す場合と、「~なので」という場合がある。この場合は、前者だと「駿甲が弓矢の期間中は」となり、後者では「駿甲が弓矢なので」となるが、どちらともいえないので一旦保留。最後の「者」は「~は」の当て字で、現代語と同じ。

興国寺城領ニ相定畢、

「興国寺城の領地に決まった」とあるのは、この城の支配下に決まったということ。「畢」は「おわんぬ」で過去完了。もう既に決まったことだと強調している。

駿州衆催促候共、

駿河の国衆が、物や税を「催促=取り立て」をすることに続けて「共」とあるが、これは「~すれども」という、後ろに向けての逆接を示している。

一切不可致許要、

「一切・べからず・致す・許容」で現代語に並び替えると「一切・許容・致す・べからず」となる。「許要」は誤字。

急度興国寺へ可相納候、

「急度=きっと=取り急ぎ」「興国寺へ納めるべく候」とあるので、明確には書いていないが興国寺城への納税を指示している。

此上若難渋之百姓有之者、

「このうえ・もし・難渋の百姓・ある・これ・は」の最後の部分だけ並び替えをして「難渋の百姓、これあらば」という表現。「いないだろうけどもしいたら~」という感じの文。

可被処罪科旨被仰出者也、

「べく・られ・処す・罪科」「旨」「られ・仰せ出し・ものなり」

「罪科に・処せ・らる・べく」「旨」「仰せ出・され」「ものなり」

「旨」や「事」などは名詞化を促すので、ここで一旦言葉がまとまることが多い。「処」は「~のところ」と読めば名詞化促し系だが、この「処」は「処す」という動詞で「処罰=罰を処す」という意味なので違う語。

ここまで読むと、元々今川分国だった知行を強制的に後北条氏が支配することが窺えてくる。なので「駿・甲弓矢之間者」は「少なくとも武田と交戦している期間中は」が近い印象はある。ただ決定的とはいえないので類例を検索してみると、「之間者」は幼少の者が家督を継ぐまでの期間を指す例が複数見つかる。なので、これをとりあえず採用する。

解釈全文

岡宮浅間神社領・朝比奈左馬允の知行分。駿河・甲斐が交戦中は、興国寺領に決まっている。駿河国衆が催促したとしても、一切許容してはならない。取り急ぎ興国寺へ納付するように。この上でもし難色を示す百姓がいたとしたら、罪に処す旨を仰せ出されています。

原文

岡宮浅間領并朝比奈左馬允拘分、駿・甲弓矢之間者、興国寺城領ニ相定畢、駿州衆催促候共、一切不可致許要、急度興国寺へ可相納候、此上若難渋之百姓有之者、可被処罪科旨被仰出者也、仍如件、
巳十二月廿八日/(虎朱印)江雪奉之/岡宮神主・百姓中
戦国遺文今川氏編2430「北条家朱印状」(沼津市岡宮・岡宮浅間神社文書)

2017/05/09(火)「とにかく一刻も早く帰還せよ!」命令

北条氏文書写に、不気味な文書が遺されている。

「用事がなければ人衆は、夜中であっても早く帰して下さい。返す返すも人衆を在所へ帰して下さい。以上。(追記:返す返すも帰して下さい。返す返すも帰して下さい)」

宛所はなく、差出人も氏政とされているものの、埼玉県史料叢書12では氏邦かと推測している。これは、同じ10月20日付けで氏邦が岡谷隼人に部隊の一部を帰すように命じた文書があったからだと思う。

しかし、謎の文書と氏邦文書には差異があって安直に氏邦とは考え難いようにも思う。

  1. 氏政は「用事がなかったら」と条件は挙げているが細かくは書いていない
  2. 「夜中も」とあって、夜間であっても一刻も早く帰るよう指示している
  3. 本文で2回、追記で2回繰り返して強迫するかのように「帰せ」と書いている

  1. 氏邦は「馬廻衆30名を城の番にして、残りを戻せ」としている
  2. 氏邦が指示した戻り先は「陣場」であって「在所」ではない
  3. 氏邦は「明日」と指示している

上記から考えると、月日は同じであっても、氏邦はごく常識的な指示。氏政が出したと思われている謎の文書はけたたましく叫んでいるような筆致で、むしろ関連があるとは思えない。

では氏政と思われる人物がこのヒステリックな書状を送ったのはいつのことだろうか。兵力を移動させるのではなく、とにかく武装を解除して各部隊を在所に帰還させることが目的で、それは結構特殊だと思う。

思い当たるのは、1569(永禄12)年。

越相同盟の交渉過程で北条氏照は関宿城攻めからなかなか手を引かなかった。「とにかく一刻も早く帰還してくれ」という文面は適している。

5月7日に氏照は柿崎景家・山吉豊守に「同盟成立が起請文で成されれば山王砦を破却して撤退する」と伝えている。そして閏5月5日に簗田晴助は父子が直江景綱・山吉豊守に「昨日山王砦が破却された」と書いている。この撤退劇では、氏康・氏政とは異なり氏照が独断で関宿に留まっていることが考察されていることから、5月20日にこの催促状が出されたとする考え方もできるだろう。

但し、「五」と「十」の誤写は考えづらい。とすれば、「七」の誤写ではないか。

同年7月17日に氏照は輝虎に宛てて「御不審之由」を聞いたと弁明しているが、既に関宿攻囲を解いたこの段階でも輝虎は氏照を警戒し、氏照の動向に気を配っていた。7月20日以前に氏照が何らかの動きをして輝虎から苦情が入り、氏政が慌てて撤退を呼びかけたという考えも可能だと思う。

  • 原文

北条氏政(?)が某に部隊の早急な帰還を命じる

 返々人衆かへり候へく候、返々人衆かへすへく候、
用所なくハ人衆、夜中も早々かへり候へく候、返々人衆さいしよへかへすへく候、
 以上
十月廿日/氏政書判在/宛所欠
埼玉県史料叢書12_付214「北条氏邦ヵ書状写」(北条氏文書写)

北条氏邦が岡谷隼人に、馬廻衆30名以外の帰還を命じる

其方召連候人衆之内、馬廻衆卅召連、其地実城之外張番申付、然与可有之候、残人衆ニ者明日陣場へ可相返候、何分ニも対馬守■■有談合、可被走廻候、以上、
十月廿日/氏邦(花押)/岡谷隼人佐殿
戦国遺文後北条氏編3998「北条氏邦書状」(岡谷文書)

OK キャンセル 確認 その他