2017/06/12(月)後北条奏者を悩ませた「不動院問題」 その2

翻刻・比定が埼玉県史料叢書で大きくアップデートされていた

以前考察した後北条奏者を悩ませた「不動院問題」で、解釈の元に据えた文書の翻刻文・比定が埼玉県史料叢書12で更新されていることに気づいた。この変更によって戦国遺文後北条編とは解釈が異なるため、差異点をいくつか挙げてみる。

新:埼玉県史料叢書12_付144「垪和康忠書状写」(寺院証文一)

貴札披見仕候、仍不動院事、兼日以江雪斎御用等走廻候、手筋相違之所、陸奥殿へ被仰届候つる哉、無御余儀奉存候、我事も去比者御次申来候処、近年相違無心元候、雖然小田原玉瀧坊致様与存過来候、今度上洛ニ付而、当地被罷越路次等之儀、被相頼之間、前ゝも取次申間、其段五日以前披露申候、然処御書中昨十一参着、披見申候処、奉対月輪院江慮外自分ニ身上仕立之由、被露御紙面候、加様之企始承候、兼而存知候ハゝ、其理をも可申候、不存候故如此候、今度一廻之義者披露之上ニ候、重而之事者其身存分通をも致糺明、奥州得御内儀、月輪院御為可然様ニ可申調候、岩付領ニ屋敷以下被遣儀、一円不承届候、其分ニ付てハ拙者可存子細候、不真存候、承届候者可申達候、今度之事、八幡大菩薩御照覧候へ、御飛脚以前披露申候由、可得貴意候、恐ゝ謹言、
七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守)

旧:戦国遺文後北条氏編4200「垪和康忠書状写」(寺院証文一)

貴札披見仕候、仍不動院事、兼日以江雪斎御用等走廻候、手筋相違之所、陸奥殿へ被仰届候つる哉、無御余儀奉存候、我事も去比者御次申来候処、近年相違無心元候、雖然小田原国ゝ新坊致様与存過来候、今度上洛候付而、当地被罷越路次等之儀、被相頼之間前ゝも取次申間、其段五日以前披露申候、然処御書中昨十一参着、披見申候処、奉対月輪院江慮外自分ニ身上仕立之由、被露御紙面候、加様之企始承候、兼而存知候ハゝ、其理をも可申候、不存候故如此候、今度一廻被成者披露之上ニ候、重而之事者其身存分通、近日致糺明、奥州得御内儀候、月輪院御為可然様ニ可申調候、岩付領ニ屋敷以下被遣儀、一円不承届候、其分ニ付てハ拙者可存子細候、不真存候、承届候者可申達候、今度之事、八幡大菩薩御照覧候へ、御飛脚以前披露申候由、可得其意候、恐ゝ謹言、
七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守)

解釈文の変更は、大きなものが2点。前の記事から変更になったところを赤字で表記。

ご書状を拝見しました。さて不動院のこと。先日江雪斎によって御用などで走り廻りました。手筋が相違したところを、陸奥殿へご報告になったのでしょうか。いかんともしがたいことと思います。

私も以前取次をさせていただきましたが、近年相違があって心元なく思っていました。そうはいっても、小田原の玉瀧坊が行っているだろうと過ごしていました。

今度の上洛については、当地からの出発準備などのことでお願いをされ、前に取次をしていましたから、その件は5日以前に披露しました。

そうしたところご書状が昨日11日に到着。拝見したところ、月輪院に対して慮外で身びいきな仕立てであると書かれていました。このような企ては初めて聞きました。兼ねてから知っていたなら、その事情も申していたでしょう。知らずにいたのでこのようになりました。

今度の一連の出来事は報告した上でのことです。重ねて、その者の存分の通りをも調査します。奥州にも内々の諒解を得ます。月輪院のおためになるよう、しかるべく調整します。

岩付領に屋敷以下を与える件は、何も聞いていません。その状況は私が把握できます。本当に知らないのです。聞いていたらお伝えしています。

今度のことは、八幡大菩薩にご照覧いただきたい程です。ご飛脚が以前報告したことは、その意を得るでしょう。

「天神島」という人物の比定

この他に、埼玉県史料叢書ではこの文書の宛所を一色義直としている。下総の天神島にいたという比定。これを補強するものとして、天正18年に一色義直が浅野長政に送った書状で使者が「不動院」と明記されている点を挙げている。

昨日者、不動院を以啓上候、岩付素城ニ被成候、心地好御仕合、不及是非候、定而三日中落居必然与存候、此口各ニ雖仰付者無之候、何分ニも某事令得御下知候、委細八島久右衛門尉方へ申渡候、恐々謹言、
五月廿一日/宮内太輔義直(花押影)/浅野弾正少弼殿御宿所
埼玉県史料叢書12_0922「一色義直書状写」(賜蘆文庫文書十三)

一色義直は、古河公方被官である一色直朝(月庵)の嫡男とされている。

『後北条氏家臣団人名辞典』によると、一色直朝は幸手城主で、天神島城下にも屋敷があった。相模国十二所の月輪院は古河公方足利氏の護持僧の寺院であったが、一色直頼の弟増尊は月輪院僧で以後は月輪院の僧は一色氏から出すことになったという。天正4年5月5日に飛鳥井自庵が古河を訪れた際は、氏照と共に饗応役をつとめた人物。1597(慶長2)年没。

月庵(義直)が月輪院と関わったのは以下の文書を参照。

同名河内守一跡之事并東大輪郷、為院領進置候、速可有御知行候、恐々敬白、
永禄十二年十月廿一日/月庵(花押影)/月輪院
埼玉県史料叢書12_0375「一色直朝寄進状写」(寺院証文一)

暫定の考察

  1. 天神島は一色義直、不動院はその使者でどちらも下総在。
  2. 月輪院・氏照ともに義直に非常に近しい存在。
  3. 天神島の奏者は当初は垪和康忠で後に玉瀧坊となっていた。
  4. 不動院と板部岡融成を巡って何らかの錯誤が存在した可能性が高い。
  5. 岩付屋敷が訴因らしいが被疑者が書かれておらず未詳。
  6. 天正18年には羽柴方にしっかり転向していることから、一色義直は京と繋がりがあったか。

2017/06/10(土)稲河文書の松平清康・清孝

松平清康・清孝が発給したとされる文書のうち、愛知県史資料編10に収められた稲河文書の974号・975号について、翻刻の文章で違和感を覚えた点を整理してみる。どちらの文書も影写本で、愛知県史では「検討の余地がある」としている。

但しこの違和感は私の限られた知識によるもので、他に表現や文例があるようであればご指摘を待つ。

清孝判物について

今度忠節無比類候、如本意候者、若松之郷不入候、并杉山分蔵一つゝ并土蔵之儀ハ、両人江進入候、万一聞候而不相調候者、大畠・そふみ於両郷三拾貫分可進之候、扶持ハ六人扶持ニ可申合候、居敷之儀ハ、寺道より西方を両人江進之候、仍如件、
大永三年八月十二日/次郎三郎清孝(花押)/中根弥五郎殿進之候
愛知県史資料編10_0974「清孝判物」(稲河文書)

奇異に感じる部分

  • 「~郷不入候」という表現は見覚えがない。若松郷を既に中根弥五郎が当知行していたのかも知れないが、その点を書かないのは不自然に感じる。

  • 蔵を与えるというのも例がない。杉山分の蔵を1つずつと、土蔵のこと、としている。また、この評価金額がない一方で「それで調整できなければ」と出した大畠・そふみの両郷で30貫文を拠出すると今度は具体的な数量を示している。ちぐはぐな印象を覚える。

  • 宛所が1名なのに「両人」が何者か書かれていない。

  • 扶持人数を定める文章。後北条氏・今川氏に見られるが、愛知県史資料編10を見ても松平氏関連では出てこない。時代的・地域的に見て不自然。下記の文書に形式が似ているかも知れない。

遠江国久津部郷之事
右、当郷除諸給分、一円令扶助畢、息郷八郎為近習可令在府之由、尤以神妙也、但蔭山与次方・岡部又次郎給分者、於国静謐之上者、以別所可充行于彼両人、其時五拾貫拾人扶持分、重而可令扶助者也、仍如件、
天文八己亥年九月晦日/治部大輔(花押)/松井兵庫助殿
戦国遺文今川氏編0634「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

清康書状について

書状披見候、実子之候ニ其子にハ職候て他人ニ職候事、当劣之沙汰にハ不可出候、雖然別成理も候ハんハしり候ハす候、実子之跡職うハひ取候ハん者ハ可為盗候、謹言、
三月十一日/(花押)/宛所欠(端裏上書:中根弥五郎殿 清康)
愛知県史資料編10_0975「清康書状」(稲河文書)

奇異に感じる部分

  • 「当劣之沙汰」という表現は例がない。

  • 実子に相続させることを無条件に指示している内容も違和感がある。天文23年のものだが、戦国遺文今川氏編1165「今川義元判物」では「其上或実子出来、或自余之聟・親類・縁類等、雖企競望、甚右衛門尉譲状明鏡之上者、一切不可許容」とも書いていて、何が何でも実子相続という訳ではなかった。「実子之跡職うハひ取候ハん者ハ可為盗候」という強い表現も他では見たことがない。当時の西三河でこの規範があった可能性はあるが、愛知県史では見つけられなかった。

  • 跡職について書かれた書状なのに、2回「跡」が脱字しているのも少し変ではある。

花押について

2つの文書の花押は異なり、前者の花押は松平信孝・松平康忠に近しい印象があるが、似ているという程ではないように感じる。後者のそれははっきりと広忠花押に似ているように見える。

出典の稲河文書について

戦国遺文今川氏編にも収録されている。稲河大夫の子である松(千代)が馬淵経次郎の跡を継いだが死去し、その弟の又三郎に相続を認めている。

馬淵経次郎跡職事、稲河大夫子松■■為相続増善寺殿判形明鏡也、雖然就死去、弟又三郎仁領掌畢者、守先例神事祭礼等、不可有怠慢者也、仍如件、
天文六丁酉年六月十三日/義元(花押影)/馬淵又三郎殿
戦国遺文今川氏編0600「今川義元判物写」(稲河文書)

この文書に先行するものが、富士家文書という別出典に入っている。死去した松千代が馬淵経次郎(弥次郎)の跡を継いだというもの。馬淵大夫は駿府浅間社の社家で、稲河大夫は同僚だったか。

馬淵弥次郎跡職之事
右、令沽却本知行遂電法体云々、然上者、改其跡領掌稲川大夫息男松千代丸畢者、恒例祭祀、守先規可令勤仕之状如件、
大永三年十二月十九日/修理大夫(花押)/馬淵松千代殿
戦国遺文今川氏編0373「今川氏親判物」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)

両文書は表現に違和感がない。中根弥五郎宛の文書がどこで稲河文書に入ってきたのかは不明だが、少なくとも1523(大永3)年時点で中根弥五郎と稲河大夫は三河・駿河に分かれて存在しているようだ。三河の中根氏は戦国遺文今川氏編2749号「本証寺門徒連判状」(天文18年4月7日付)で味崎の中根善次郎範久・善三郎範定・善七郎範重が登場するので、中根弥五郎はこの一族かも知れない。

まとめ

翻刻の文を見たのみの感じではあるが、愛知県史が要検討としたのは納得がいくところ。

何れにせよ、この文書を元に松平清康の実在を検証するのは厳しいのではないかと思う。関連論考を読みつつ更に考えてみたい。

2017/06/07(水)後北条奏者を悩ませた「不動院問題」

奏者として、板部岡融成が手筋を違えた事件らしきものがあるのでメモ書き。

まずは原文と解釈を並べてみる。

貴札披見仕候、仍不動院事、兼日以江雪斎御用等走廻候、手筋相違之所、陸奥殿へ被仰届候つる哉、無御余儀奉存候、我ら事も去比者御乍次申来候処、近年相違無心元候、雖然小田原国ゝ新坊致様与存過来候、今度上洛候付而、当地被罷越路次等之儀、被相頼之間前ゝも取次申間、其段五日以前披露申候、然処御書中昨十一参着、披見申候処、奉対月輪院江慮外自分ニ身上仕立之由、被露御紙面候、加様之企始承候、兼而存知候ハゝ、其理をも可申候、不存候故如此候、今度一廻被成者披露之上ニ候、重而之事者其身存分通、近日致糺明、奥州得御内儀候、月輪院御為可然様ニ可申調候、岩付領ニ屋敷以下被遣儀、一円不承届候、其分ニ付てハ拙者可存子細候、不真存候、承届候者可申達候、今度之事、八幡大菩薩御照覧候へ、御飛脚以前披露申候由、可得其意候、恐ゝ謹言、
七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守)
戦国遺文後北条氏編4200「垪和康忠書状写」(寺院証文一)


ご書状を拝見しました。さて不動院のこと。先日江雪斎によって御用などで走り廻りました。手筋が相違したところを、陸奥殿へご報告になったのでしょうか。いかんともしがたいことと思います。

私も以前取次をさせていただきましたが、近年相違があって心元なく思います。そうはいっても、小田原の国々の「新坊(新寺院・辛抱?)」となるように過ごしてきました。

今度の上洛については、当地からの出発準備などのことでお願いをされ、前に取次をしていましたから、その件は5日以前に披露しました。

そうしたところご書状が昨日11日に到着。拝見したところ、月輪院に対して慮外で身びいきな仕立てであると書かれていました。このような企ては初めて聞きました。兼ねてから知っていたなら、その事情も申していたでしょう。知らずにいたのでこのようになりました。

今度の一連の出来事は報告した上でのことです。重ねてのことは、その存分通りに近日調査します。奥州にも内々の諒解を得ます。月輪院のおためになるよう、しかるべく調整します。

岩付領に屋敷以下を与える件は、何も聞いていません。その状況は私が把握できます。本当に知らないのです。聞いていたらお伝えしています。

今度のことは、八幡大菩薩にご照覧いただきたい程です。ご飛脚が以前報告したことは、その意を得るでしょう。


書状の意が取りづらいのだけど、ちょっと整理してみる。

  1. 「天神島」が11日付けの書状を垪和康忠に送っていて、この書状はその返信
  2. 主題は「不動院」の件。この後の課題点も恐らく不動院関連。
  3. 当初は板部岡融成が処理していたが、不満に思った「天神島」が北条氏照に訴えた。
  4. 康忠は以前「天神島」の取次を務めていたが、最近は交流がなかった。
  5. 交流のない状態を康忠は不安に思っていたが、「小田原国ゝ新坊致様」と考えていた。
  6. 上洛準備について依頼され、5日以前に後北条当主へ披露を済ませていた。
  7. 11日の書状が届いて、康忠は初めて事情を知ったとかなりくどく弁明している。
  8. 11日の苦情は「月輪院」への物的損害か名誉棄損、もしくは両方の損害を与えるもの。
  9. 氏照を含めて諸方面の調整は行なうと康忠は説明。
  10. 調査や検討をまず行なうとしながら、康忠は「月輪院」のためになるよう計らうと明言。
  11. 岩付領で屋敷などを与えるとした件は知らなかった、知っていたら止めていたと再度の説明。
  12. 前の飛脚が伝えた内容は問題ないと文末で短く記載。

「天神島」か「不動院」が上洛準備をしていて、融成・康忠がその手伝いをしていた件と、岩付領屋敷を渡す件が入り混じっているようだ。「天神島」は「月輪院」への扱いに問題があると、融成ではなく氏照に訴え出て、更に以前の取次だった垪和康忠にも飛び火したかのようだ。

康忠も困惑を書面にみなぎらせている。「知らずにやったこと」「聞いていたらやっていない」「とにかく調整するから」と繰り返している。ただ、文末にある「御飛脚以前披露申候由」は揉めずに認可されそうで、別件を頼んでいたか、もしくは上洛案件はそもそも紛糾していなかったかだろうと思う。

  • 天神島は相模国三浦郡の島で、そこにある寺の住持。
  • 月輪院は鎌倉・月輪寺住持か、長福寺別当か。
  • 不動院は不明。

実はこの件、不動院をある文書と連携させると一つの構図が見えてくる。

埼玉県史料叢書12の付278「相模国先達衆言上状写」(城明院文書)内で「古川会場不動院ト申山伏」が武蔵北方の年行事を務めたとある。

この謎の文書の宛所は板部岡融成・可直斎長純で、注記に「此両人ハ其時之寺社奉行与承リ候」とある。融成・長純が活躍した時期に「寺社奉行」はないが、修験者の統括者的な立場に2人がいたのだろう。このことで連想されるのが、北条氏照が山岳修験と関りが深いこと。

その側面から改めて考えてみると、以下の仮説を提示できる。

 山伏の不動院が岩付領内で屋敷以下の財産を横領し、
なおかつ上洛しようと画策する。

 どういう経緯か、月輪院の知行から奪うように動いていて、
これに板部岡融成が関わる。

 案件は垪和康忠の処理に入り、この5日以上前に決裁待ちに。

 一方で、この動きを受けた月輪院は天神島を使い、山伏とも
関りのある北条氏照に訴え出る。

 また同時に、以前取次だった縁を使って康忠にも訴えて出る。
それに驚いての反応がこの書状となる。

多分、融成は裏を取らずに不動院の便宜を図ってしまった。上洛・岩付領の譲与などは「既に月輪院の諒解を得ている」とでも騙ったのだろう。反応した月輪院が氏照を頼り、そこから天神島に話が行った可能性もあるが、強い権限を持つ氏照の登場は能吏の康忠をして周章狼狽させるほどのものだった。

もう一歩突っ込んで反転させると、不動院・融成サイドに非はなくて、月輪院・氏照が無理な横槍を入れた可能性もあるといえばある。ただその場合も、この書状から窺えるのは、康忠は事情を知らなかったという点だけなので、他の史料が必要になると思う。

2017/05/20(土)板部岡曲輪とは何か?

よく判らない、六郎宛の文書

小田原市史1176の虎朱印状後北条氏が城の守備規定を書いたもので、日付や年がはっきり判るにも関わらず、宛所の「六郎殿」が北条氏忠を示すのかどうか、その城がどこにあるのかが不明だった。

とはいえ、最近では「大途が帰ってきたら」「暮れの鐘がなったら」という表現から、小田原城を対象にしていて、六郎はやはり氏忠ではないかという論調になってきたっぽい。

文書からもっと情報を引き出してみる。

この文書は「前欠」といって、前の部分が切り取られた状態。だから、失われた部分には恐らく他の曲輪についての言及もあったのだろう。

一方、小曲輪の後に結びの文があるので、小曲輪が「六郎」にとっての最後に書かれた担当箇所だったのははっきり判る。

配置人数からは以下のことも判る。

  • 内村屋敷と隣接し、門で繋がっていた。
  • 「内村」は台所奉行を勤めている人物。
  • 板部岡曲輪は小曲輪の守備範囲だった。
  • 関某が担当する二階門には蔵が併置されていた。
  • 鈴木某が担当する門があった。

担当人数は、蔵のみが6名で、他は全て10名。但し二階門には蔵が併置されいて、そちらの人数と合わせると16名になっている例外的配置。

板部岡曲輪は、名前は「曲輪」ではあるものの普通の門と同じ守備構成で、規模の小さい特殊な曲輪といえる。小曲輪の守備範囲に包摂されることから、以下の様態を想定してみた。

  1. 外縁部で壇状になっているもの 滝山城・大高城の本丸奥の形状
  2. 外側に狭く突き出ているもの 川越城・岩付城の天神曲輪の形状
  3. 曲輪内の中心部に設置 小田原城御前曲輪内の土壇

同時代史料から見た「曲輪」の名称を比較

「板部岡曲輪」というと板部岡融成との所縁が考えられる。そこで、どのような「曲輪」が存在したのか、史料から抜き出して比較してみる。

  • 固有名詞:安藤曲輪・大好寺曲輪・尾崎曲輪・星名曲輪・秩父曲輪
  • 数値・方角:北曲輪・南曲輪・三之曲輪
  • その他:松曲輪・ふしいろ曲輪・本城外曲輪・本堂曲輪・寺曲輪

この中で、具体的に推測できそうな安藤曲輪・大好寺曲輪を深掘りしてみる。

・足柄城の「安藤曲輪」

一、安藤曲輪、彼地見舞之砌之陣所と定、悉陣所を破たいらめて置候、二ケ所之矢倉ニ番衆を被指置、陣屋作を可被為待候、但夜中之番衆ハ、如何程可被入置も尤候事、

 当主が陣中見舞に訪れる際の場所と決められ、曲輪内の設備を壊して整地させている。陣中見舞用に確保されたことから推測すると、小田原方面から城内に入る際に利便性が高かったのかも知れない。安藤良整との関係性は不明だが、築城時に安藤良整が拠点として物資の管理をしていた可能性は高い。その後通常の曲輪になっていたが、当主が陣中見舞することとなり、立地上のメリットから再度改修されたのかも知れない。

・鉢形城の「大好寺曲輪」

大好寺曲輪へもち参、大好寺ニ可渡之候事、

 北条氏邦の奉者を務めた大好寺某がいた場所。領主に不法行為があった際は、郷内で意見を揃えて大好寺曲輪の大好寺に目安を渡せと指示している。

 安藤曲輪・大好寺曲輪に共通しているのは、城外からのアクセスポイントになっている点。足柄城では小田原口に面して「ダイカンヤシキ」と伝わる場所があり、ここが安藤曲輪であった可能性が高いように思う。鉢形城で大好寺曲輪と伝わる場所は、大手口の向かいにあって、郷村への窓口的な位置。

 安藤良整・大好寺某・板部岡融成はともに奉者を務める官僚的被官であることから、城外との物資や人の流れを管理し易い場所に曲輪を与えられたのではないか。

 であれば板部岡曲輪は、物資や人の出入りする小曲輪3つの門を管理するための施設で、小曲輪と仕切られた領域を指していたのかも知れない。もしくは、小曲輪に集められた物資・人は板部岡曲輪を経由して更に城内に入る構造になっていたかも知れない(守備人数からすると、板部岡曲輪自体も通路であった可能性がある)。

小曲輪推定概念図.png


解釈

(前欠)

小曲輪

十人、内村屋敷へ出門

十人、板部岡曲輪

十人、関役所二階門

六人、同所蔵之番

十人、鈴木役所之門

以上

一、門ごとの開け閉めは、朝は六ツの太鼓を打ったあとに、日の出候を見てから開くように。晩景は入会の鐘を押し果たすのを合図に閉じること。この開け閉めの法度に背いたら、この曲輪の物主も重罪とするだろう。但し、よんどころない用があったら、物主一同で相談して、一筆したため日帳につけておき、御帰陣の上でお目にかけるように。隠し立てして脇からみだりに出入りしたのが聞こえたなら、罪科とするだろうこと。

一、毎日の当曲輪の掃除は、厳密にするように。竹木を仮にも切ったりしないこと。

一、病欠は、たとえ代理を出したとしても、また書き立てた人衆が不足したとしても、氏忠に確認して、氏忠の判断次第とすること。

一、夜中はどの持ち場でも、『昨六時』寝ずの番をいたし、土塁回りをするように。但し、裏土居・堀の裏へ上がる際には、芝を踏み崩さないように、芝付けをした外側を回ること。

一、鑓・弓・鉄炮を初めとして各自の武器を、今日23日に全て持ち場に配置しておき、併せて具足・甲などもしっかりと置いておくこと。

一、番衆中の内情で乱れがあれば容赦せず、たとえ主のことでも、糊付けして氏忠に密告するなら褒美を与えるだろう。もし褒美がなければ、帰馬の上で大途へ目安で報告をせよ。望みの通りにご褒美を加えるだろうこと。

一、日中は朝の五ツ太鼓より八ツ太鼓迄の三時、各曲輪から3分の一で休息するように。七ツ太鼓以前には全員が着到の通り曲輪へ集り、夜中にはしっかりと詰めておくべきこと。

以上

右、定所如件、

乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

小田原市史北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)


原文

(前欠)
小曲輪
十人、内村屋敷へ出門
十人、板部岡曲輪
十人、関役所二階門
六人、同所藏之番
十人、鈴木役所之門
以上
一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事
一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事
一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事
一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事
一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事
一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事
一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事
以上
右、定所如件、
乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿
小田原市史北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)


内村氏関連文書

書下。一、六十枚、干鯛。一、五百枚、スルメ。以上。右、自遠州御客来御向、来廿四日四ツ時以前小田原江持来、久保・内村ニ可渡之、御日限相定間、不可有無沙汰者也、仍如件、
辰五月廿二日/(虎朱印)南条奉/網代小代官・百姓中
戦国遺文後北条氏編2170「北条家朱印状写」(伊豆順行記)1580(天正8)年比定

御陣へ之御用如何にも大成鯛を弐拾枚、明日之晩に可致持参候、引上於浜端則うす塩をいたし、舟を以早ゝ可漕来候、公物者、内村前より可請取者也、仍如件。追而、御陣御留守之間、御陰居様御封判也、
酉八月廿三日/(朱印「有効」)/須賀小代官・舟持中
戦国遺文後北条氏編2847「北条氏政朱印状」(清田文書)1585(天正13)年比定

明日台所之掟、取分堅可申付候、一献ゝゝ請取ニ候間、如其可出之、手前致払衆をハ、則可戻候、台所ニ少之間も不可置、彼衆ニ付、無用者可来候間、此印判を為見、手堅可申断候、若妄之儀有之ハ、後日ニ可遂披露者也、仍如件、丁亥卯月六日/(虎朱印)/布施弾正左衛門代・久保但馬守・内村惣左衛門尉
戦国遺文後北条氏編3078「北条家朱印状」(沢辺文書)1587(天正15)年

2017/05/17(水)戦国時代に兵種別編成はあったのか? その2

後北条氏はかなり細かい着到定を出しているが、これをどう確認したのかは気になるところ。ただ、大藤式部丞に出した朱印状では、誰が何人不足したのかを逐一書いている。

一、今度甲州衆越山儀定上、当月中必可被遂対談、然者人数之事、随分ニ壱騎壱人成共可召寄、并鑓・小旗・馬鎧等致寄麗、此時一廉可嗜事
一、本着到、百九十三人也、此度四十四人不足、大藤
本着到、七十四人也、此度三十五人不足、富嶋
本着到、五十四也、此度二十八人不足、大谷
本着到、八十壱人也、此度三十一人不足、多米
本着到、六十人也、此度廿二人不足、荒川
本着到、卅人也、此度七人不足、磯
本着到、廿二人也、此度無不足、山田
本着到不足之処、如何様ニも在郷被官迄駆集、着到之首尾可合事、一備之内ニ、不着甲頭を裏武者、相似雑人、一向見苦候、向後者、馬上・歩者共、皮笠にても可為着事、
右、他国之軍勢参会、誠邂逅之儀候、及心程者、各可尽綺羅事、可為肝要者也、仍如件、
十月十一日/(虎朱印)/大藤式部丞殿・諸足軽
小田原市史小田原北条0504「北条家朱印状」(小田原市立図書館所蔵桐生文書)

ここで、岩付諸奉行がしつこく「兵種ごとに集めてから着到を確認しろ」と規定していたのが思い当たる。着到状は被官ごとに人数や装備が規定されている。単純に考えれば、被官ごとに点検すればよい。しかし、各被官の立場になってみれば「点検時だけ他の被官から人を借りてくればいい」というすり抜けが可能になる。

これを避けるためには、小旗・鑓・弓・鉄炮などの装備ごとに集合させて出欠・装備点検をすればよい。装備を持たない歩者が「一枚に(整列して)確認しろ」とされているのも、この二重カウントを阻止するためだったと考えるべきだろうと思う。