2017/05/03(水)古河公方家の名刀「菖蒲丸」伝承は近世の産物?

古河公方足利義氏が、どこかの城に籠もって自分のことを待っている野田弘朝に「菖蒲丸は堅固だろうか、会いたい」と書いている件。

戦国遺文古河公方編では「菖蒲丸」を刀の名前だと比定しているのだけど、これは疑問。普通に考えれば「丸」が付く固有名詞は大体が幼名。

「堅固」という少し特殊な語が続いているが「三山又六殿御堅固候哉、御床敷之由」という用例もあって、人称に対しても「堅固」と「床敷」がセットで用いられることは確認できる。ゆえに、この菖蒲丸は弘朝の子息ではないかと推測できる。

なぜ刀の名が比定されたのかは不明。恐らく寛政譜辺りが出所だと思うのだけど、野田弘朝の一族である景範が、後に徳川に出仕する際に秘蔵の名刀菖蒲丸を献上したという伝承がある。この名刀伝説は、弘朝宛ての義氏感状を元に作られたものではとも思う。

景範は弘朝の弟ともされているが、これもどうだろう。

吉川弘文館の『戦国人名辞典』を見ると、景範の官途である「右馬助」は、先代「右馬助」が使っていたもので、享禄頃活躍した先代は、後に古河公方と対立して改易されている。

弘朝の場合、官途「左衛門大夫」は他に例がなかったが、「成朝」という同通字を持つ人物はいる。

同辞典では以下のように推測しているが、各人の親子関係は不明とするか否定傾向にある。どちらかというと、複数の系統の家が交互に家督を繋いだ可能性が仄見える。

成朝→
……→右馬助持忠→蔵人大夫氏範→
……→右馬助→左衛門大夫弘朝→右馬助景範

上記を考えると、後北条一辺倒だった弘朝死去後に景範が家督を継いだ際、「菖蒲丸」は既に亡くなっていた可能性が高い。景範は上杉寄りの動きもしているが、菖蒲丸を担ごうとはしていない。

また、北条氏康が義氏の関宿入城を阻んだとした「右馬允」は、景範ではないかとも思える。

原文

足利義氏、野田弘朝に、某城の留守を守っている忠節を賞す

其以来者通路不自由故、不申遣候、于今在其地被相待候条、誠以忠信之至、感悦候、菖蒲丸堅固候哉、床敷候、委細安西右京亮被仰含候、謹言、
七月四日/義氏(花押)/野田左衛門大夫殿
埼玉県史料叢書12_0222「足利義氏感状」(野田家文書)

由良成繁、遠山康光に、越後で景虎が家督を継ぐことを祝う

不思儀之便候間、以切紙申候、さてもゝゝ近年於其国之御苦労、不及申次第候、景虎江御家督参候由承及、目出御本望令察候、然者、小田原御一類、何茂無何事御繁昌候、可御心安候、就中愛満殿、氏直へ一段御意能御奉公之間、可為御悦喜候、自新四郎殿去十日計以前ニも、貴所之御左右有御聞度候由、示給候キ、御世上在御一統、以面上連続之義申承度心中迄ニ候、将又、此方無何事候、可御心易候、三山又六殿御堅固候哉、御床敷之由、御伝語頼入候、申述度儀雖千万候、残筆候、恐ゝ謹言、
卯月晦日/信濃守成繁/遠左御宿所
戦国遺文後北条氏編4479「由良成繁書状写」(歴代古案一)

2017/04/28(金)葛山・瀬名は本当に今川に反したのか

葛山氏と瀬名氏は、永禄11年12月13日の武田侵攻時に今川から離脱したされる。それは根拠として以下の文書が使われているのだろう。

武田晴信が荒河治部少輔に由比山助太郎分60貫文を与える


今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候、因茲由比山方ノ内チ、助太郎分六拾貫文之所進之置候、弥可被抽戦功条可為肝要候、恐々謹言、
永禄十二年己巳二月廿四日/信玄/荒河治部少輔殿
戦国遺文今川氏編2283「武田晴信書状写」(香川県さぬき市・甲州古文集)

改めてよく読んでみると、瀬名氏が寝返った証拠は実はない。武田方に忠節した葛山氏元がいて、それに同心した荒河治部少輔が「瀬名谷」に退いたから「瀬名氏が寝返った」としているだけだ。同時代史料において、瀬名尾張守元世は氏真に随伴して掛川で籠城している(2月26日付・戦国遺文今川氏2287「小笠原元詮・瀬名元世連署状」大沢文書)。地名瀬名谷からの連想よりも、こちらを優先すべきだろう。

では葛山氏はどうだったのかを考えてみる。上記文書には下記の類似文書が存在する。

武田晴信が安東織部佑に駿府周辺の知行を与える


一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文。今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十ニ己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿
戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)

この文面で、次の2文が酷似している。

1月11日:「今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候」 2月24日:「今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候」

文面酷似自体はよくあることなので気にはならないが、問題は「葛山備中守殿」である。朝比奈右兵衛大夫にはついていない。葛山氏元が通常の国衆より格上に見られたということかとも思ったが、その割に、「殿」の後の語に敬語がない。「葛山備中守殿被御忠節」だったら違和感はないのだが。

そこで改めて疑惑の目を向けてみる。安東宛のものは1月11日で、乱入から大体1か月くらいの発給となる。とすればこの文書は駿河に乱入する際に、朝比奈右兵衛大夫が武田方として忠節に及んだ状況を説明したものだろう。端的に書かれ過ぎていて断定はしづらいが、描写できなくはない。

安東織部佑が瀬名谷に「用心のため」退いたのは、武田方主力が駿府を目指し、瀬名谷南方を横切った後なのだろう。瀬名谷にいた朝比奈から寝返りが申し出され、安東らが引き返した。これは本当に寝返ったかの確認で、安東は前線から離脱したものの瀬名谷の組み込みを完了した。そう考えると、駿府攻撃に同行こそできなかったが功績は大きい。

朝比奈氏に関連した寺院は現在でも沓谷周辺にあり、そのすぐ北方である瀬名谷に朝比奈右兵衛大夫が居を構えていた可能性は充分ある。

では荒河治部少輔も、安東と同じ行動をとったのかというと、これには強い違和感がある。先に書いた敬語のちぐはぐさもあるし、駿東の葛山氏元が武田に忠節(=寝返り)をし、荒河がそれに同心したからといって、なぜ荒河は瀬名谷まで移動して退かなければならないのだろうか。

朝比奈右兵衛大夫・安東の行動と絡めてみようとしてもうまくいかない。「令同心」とあるからには荒河治部少輔は今川方であったと思われるけれど、その名は戦国遺文今川氏編に出てこず、正体は不明。

単純に考えるなら、安東宛文書を見て荒河宛文書が作られたとした方が自然で判り易い。作成目的は「葛山氏は武田方に寝返った」ことを証明するためだろう。

2017/04/24(月)史料想-2 葛山衆の幻影

 更に突っ込んで、「某」が替地の件で苦情を言われていた『水窪』を戦国遺文後北条氏編の索引で調べてみると、1点だけヒットした。

後北条氏、渡辺蔵人佐に、水窪・土狩での収入を渡す

『水窪』は去年の7月迄は直轄領でしたから、『土狩』の知行地をそれぞに一つ拠出なさり、それに従うようにご指示ありました。現在は諸々を現金給与となりましたので、陳情に応じて、水窪において18貫文、土狩における18貫文の分を『所肥後』から渡すでしょう。さて、『葛山』衆の先方をしていた際の上下については知りません。そしてまた、所肥後の同心になるようなご指示もしていません。時が至れば配属となったら、指南するようにとご指示なさいました。但し、所肥後が考えもなく非法なことをしたなら、報告して下さい。その時にはそれぞれが直接奉公することとなるでしょう。

庚午(元亀元)卯月十日/(虎朱印)石巻奉/渡辺蔵人佐殿
戦国遺文後北条氏編1403「北条家朱印状写」(判物証文写今川二)

土地の比定は判り易いが、人名はここにしか出てこない2名で全く追えない。

  • 土狩……水窪の南方にある土地で、天正期を通じて後北条氏が掌握していた
  • 葛山……葛山城を拠点とした国衆で氏元が当主だった
  • 所肥後……名字が「所」で受領名が「肥後守」だったと思われるが不明
  • 渡辺蔵人佐……駿東郡にいた渡辺氏と関係がありそうだが不明

この文書で判ることは以下の通り。

  1. 1569(永禄12)年7月まで水窪は後北条氏直轄領
  2. 同じく8月以降は直轄領ではなくなった
  3. 渡辺蔵人佐は水窪に知行が36貫文存在していた
  4. 替地として土狩が割り当てられた
  5. 前年上期までの収入として水窪18貫文を支給
  6. 下期の収入として土狩18貫文を支給
  7. どちらも所肥後守から受け取るよう指示
  8. 所肥後守が寄親になった訳ではない
  9. 葛山衆の先方としての序列を後北条氏は知らない
  10. とはいえ所肥後守が寄親の方針は変わらない
  11. 但し所肥後守に非があれば解任し直参とする

判りづらい部分もあるが、渡辺蔵人佐のほかにも、水窪に知行があって葛山氏被官だった者が存在しているという書き方だ。そして、水窪の知行が後北条氏直轄領として接収され、近隣の土狩に替地が用意されていたことが判る。そして、所肥後守の指南に受けることに抗議していたようだ。葛山氏元の被官たちがどういう序列かは知らないと後北条氏は答えつつ、所肥後の指揮下に入る基本方針を何とか伝えている。ただこの辺りの記述は歯切れが悪く、対応を誤ると渡辺らが敵方に移動すると考えて宥めようとしていた感じがする。

某は所肥後守である可能性

ここで最初の文書に戻ってみる。某は水窪の替地で何者かに苦情を言われていた。これを、所肥後守と渡辺蔵人佐に当てはめると、自然な解釈が可能になる。

永禄12年7月まで直轄領だった水窪を宛行なわれたのは所肥後守で、渡辺らは水窪から土狩に替地をさせられた。所の知行高は不明だが、妻子の疎開費用だけで70貫文を支給されている。一方の渡辺は全知行でも36貫文しかない(水窪替地以外の知行があった可能性はあるが、支給方法を詳細に書いた文書に存在が全く書かれていないことから、ちょっと考えづらい)。

そして、某は永禄12年7月11日は某が円能口で活躍を見せたタイミングでもある。褒賞として水窪郷が一円支配として与えられ、旧葛山衆を率いるよう命じられた。しかし渡辺らは納得しなかった。

このようなストーリーが構築できる。その後で所肥後守・渡辺蔵人佐の史料が遺されていないのは、後北条から離脱したのか戦死したのかだろう。

掛川への派遣は何だったのか

ここまで仮説を組み立ててきたが、最後の条文に大きな謎があるのでそれを検討する。

一、先年に懸川へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

「去年」ではないことから1571(元亀2)年以前のことだと判る。そしてその褒美銭を2年に分けて支払うとあるので、少額ではないだろう。軍事的に危険な行為に対して大きな金額を約束したのだと思われる。

後北条氏が掛川に軍事・外交で派遣をしたのは永禄11年12月~5月と見てよいから、その時点での話なのは確実となる。掛川に移る前から氏真に付き添っていた後北条方・伊豆衆の西原善衛門尉のような存在もいることから、いつの時点かはこれ以上細かくは絞れない。

ただ、掛川派兵に駆り出された清水新七郎と大藤政信が後に1,000貫文以上の褒賞を得ていることを考えると、所肥後守も同様に派遣されたと思われる。これは、清水・大藤だけでは今川方と武田方の見分けがつきにくく土地鑑もないことから充分ありうるように思う。

葛山衆から所肥後守が抜擢されて同行、その際に褒美銭を約束されたと考えてもよいのではないか。

そしてこの仮説が成り立つならば、葛山氏被官には、武田方以外に、今川方・後北条方についた者もいたともいえるだろう。

葛山氏元は武田に寝返ったのではなく抑留されたという可能性

葛山氏の被官に関しては、武田従属以降に活躍する御宿氏がいるものの、当主氏元との関係性は明確ではない(もっと言うと、御宿氏関連文書には、信憑性が乏しいものがある)。このことから余り当てにはならない。その他で残されているのは流通系の被官が殆どで、軍事・外交に関して活動していた被官がどのような存在だったかは、空白な領域だ。

今回出てきた所肥後守と、彼に反発する渡辺蔵人佐は、残念ながら戦国遺文今川氏編でも見つけられず、同書後北条氏編でもこれ以上の情報はなかった。しかし、知行高から見て明らかに下位である渡辺蔵人佐らが、所肥後守の指南を受けることに嫌悪感を示し、また水窪領を所肥前守に奪われたと感じていた点は、葛山家中で深刻な対立関係があり、後北条方に移った先でも解消されなかったことを示すように思う。

従来、葛山氏元は1568(永禄11)年の武田南進を受けて今川方から寝返ったとされていた。しかし、その直前に氏元が史料から姿を消すことから考えると、今川方に留まりつつも家中が分裂した挙句に武田に抑留され、晴信の子息が養子という形で葛山を継承した可能性が出てきた。

そもそも武田晴信は今川方から寝返った者(岡部元信や孕石元泰、朝比奈信置ら)を優遇しており、史料から姿を消した葛山氏元は特異な存在だと考えていた。晴信の息子信貞が葛山に養子入りしたというのも妙な話で、当時の駿東は軍事的に緊張していたのに、息子とはいえ戦歴もなく年齢も低い信貞を起用した理由が判らない。

こういった点も、同時代史料の欠落から深く突き詰められなかったところだが、今回の史料検証のような行程を踏むことで、仮説を少しずつ充実させつつ、新出史料を待つことはできるのかも知れない。

2017/04/24(月)史料想-1 宛所の切られた文書

古文書には宛先が切り取られてしまったものがあって、解釈や比定が難しくなることが多い。ただ、周辺の文書を読み込むことである程度の仮説を構築することは可能だと思う。それを実際にどう行なうか、書き出してみた。

以下は、宛所が切られた状態の虎朱印状で、板部岡融成が奏者を務めていることや、癸酉(元亀4年)三月晦日の発行であることは判っている。

後北条氏、某に4つの条目を伝える

一、『水窪』の替地、何のために他人が言い立てることがあるのでしょうか。とやかく言う輩がいたら、目安で報告して下さい。合目安を立ててご糾明して、決着をつけよとの仰せです。どうやれば、知行高のご決定に異議を唱えられるというのでしょうか。最近の曲事です。ご指示に及ぶほどのものでもありません。ご糾明の上、どうあっても先の証文の通りの決定になるでしょう。

一、砦のことを申し出たのは神妙です。もとより、西の方の者は国境で活躍することに極まります。どこであれ敵との境界を見立ててご指示になるでしょう。身命をなげうって活躍して下さい。もとより、知行のことは何があっても拠出しますから、ご安心下さい。

一、どこの国境に配置されても、妻子の安住が保証されなければ困るでしょうから、この度『黒谷』のうち『多々良分』70貫文が直轄領なので与えられました。早々に妻子をその地へ移し、安心していただきますように。付記、『八郎左衛門』・『喜左衛門』の妻子も、その地に置くようにとのことですから、多々良分の中に両人の妻子が住む屋敷をお渡しします。更にこの上は味方として協力することを合意して、活躍していただきますように。

一、先年に『懸川』へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

癸酉(元亀4年)三月晦日/(虎朱印)江雪斎奉之/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p28「北条家朱印状」(海老原文書)元亀4年

この文書は宛所が切り取られていて前後関係が不明瞭なため、まず固有名詞の比定を確認。

  • 水窪……駿東郡の水窪。
  • 黒谷・多々良分……武蔵の秩父に黒谷(くろや)が存在し、下山年表でそこに比定。岩付にも黒屋(くろや)があるが、鉱業の存在を窺わせる「たたら」から、銅山で著名な秩父黒谷の方が有力。
  • 八郎左衛門・喜左衛門……三浦八郎左衛門は実在する。

同じ海老原文書に宛所が切り取られた感状が存在するので、そちらも参照してみる。

北条氏政、某に、永禄12年7月11日の戦功を賞す

昨日の10日に『円能口』に敵が出撃してきたところ、前線で戦って敵を5人討捕ました。特に、ご自身が高名を挙げています。本当に比類のないことだと感銘を受けました。刀を1腰、一文字銘のものを差し上げます。ますますご活躍下さい。

永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

円能口……下山年表では相模丹沢を比定。山北町都夫良野とあり、小山町から酒匂川を下って小田原に侵入するルートだと思われる。但し比定根拠は不明。

上記2文書が同じ宛所である確実な根拠はないが、同時代で近い地域における内容であることから、同人物として仮定は可能ではある。その前提で2文書から宛所の人物が置かれた状況を並べてみる。

  1. 永禄12年に円能口で敵5名を討捕、自分も活躍した
  2. 水窪替地について苦情を言われていた
  3. 砦の普請を自ら申し出ていた
  4. 国境のどこに配備されるか判らなかった
  5. 妻子の居住地が危険だったため70貫文の直轄領が与えられ疎開を指示された
  6. 同じ場所に八郎左衛門・喜左衛門の妻子も移動を命じられた
  7. 八郎左衛門・喜左衛門の妻子が住む屋敷は後北条氏が準備した
  8. 元亀2年以前に掛川に派遣されていた
  9. 掛川派遣時の褒美を与えられていなかった
  10. 上記褒美は発給時の年と翌年の2回で支払われた

 妻子居住で70貫文が支給されていることや、八郎左衛門・喜左衛門といった寄子か被官、親類を引き連れていたこと、また砦普請を名乗り出ていたことから、大身の武家であるといって良いだろう。永禄12年の件では「自分でも活躍」が褒められているから、本来は部下に戦闘を任せられる身代を持っていたのだろう。


……続く

2017/04/23(日)困窮する修験者たち

どういう文書か?

年未詳だが、相模の修験者たちが後北条氏の寺社担当的役職の可直斎長純・板部岡融成に宛てて彼等の置かれている厳しい状況を説明している。

  1. 先達は前から伊勢・熊野の参詣案内役をしていたが、10年前から駿河が通行できず仕事がない。このため百姓をしている。
  2. 武蔵先達は古来から16名いて、北方8名は不動院、南方8名は玉滝坊が取りまとめ、毎年聖護院様に上納をしている。相模については、聖護院様が下向した際に「24名それぞれがお国の役に立つように」との仰せで上納は免除されている。
  3. 早雲寺殿の熊野での宝株丸の一件から、熊野導師をさせていただいているので、山伏をお使いになっている。この例にちなんで、他国への御用の時は山伏を用立てるようになった。その頃も移動代金は支給してもらっていた。また山伏も活躍して、飛脚としてよく働いた。先達衆だけに仰せになってもらえるならば、頭巾・袈裟を上から罰せられることもないだろう。

文書の題に「修験中退転之様体御尋ニ付申上候事=修験者たちが職にいられず散ってしまった様子についてお尋ねになったので申し上げます」とあることから、この時修験者らは伊勢・熊野参詣の案内者としても飛脚としても機能せず、それを後北条氏に質問されたのだろう。

何故後北条氏がそれを気にしたのかというのは、最後の項目で「頭巾袈裟従上申咎之事、無之候=頭巾・袈裟を上から罰せられることもないだろう」に集約されている。修験者らは機能していないにも関わらず山伏の格好で百姓の生活をし、それを咎められたのだろう。そこで後北条氏が質問してきたので「修験者として生活できるならこういう罰も受けなくて済むのです」と回答している。

面白いのは、修験者たちが自らの困窮をさりげなく後北条氏のせいにしたともとれる書き方をしている点。「あなた方が戦争して参詣客がいなくなった」とか「早雲寺殿の頃から協力したのに飛脚を頼まなくなった」とか。

恐らく後北条氏としては「修験者として食っていけないなら山伏の格好はやめて」と言いたかったのだろうけど、修験者はそういう発想を持っていない。「山伏の身なりで百姓するのが変だというなら、山伏の仕事をさせろ」という主張である。中世っぽい。

いつの文書なのか?

では彼等が困窮したのはいつのことだったのだろう。この文書は年月日が一切ない。ただ関連する文書はあって、箱根権現別当で、東寺出身、山伏も監督していた融山が長純に宛てたもので、東寺門徒は「従往古陰陽道并七五三祓等執行不申事=古い昔から陰陽道・七五三祓いなどは執行しない」として、それらは山伏の収益であることを認めている。これを逆に言えば、それだけ修験者たちの権利が侵害されていた日常があったのだともいえる。

※家臣団辞典では、箱根権現別当融山との交信から、長純が東寺金剛王院の僧であったと比定している。

北条氏綱後室の兄である聖護院道増は1552(天文21)年に関東へ来たという記録がある(これは4月10日の鶴岡八幡大鳥居落成に立ち会うためだったかも知れない)。山伏たちがいう免除はこの際に行なわれた可能性がある。とするなら天文21年より後であるのは確実だ。

次に「拾年已前者、駿府不通故」という点について。

「拾年已前」を「天文 or 永禄10年以前」とするか、「今から10年前は」とするかで大きく解釈が変わるが、文面からは判断が難しい

* 今川氏と対立していた頃(天文6~23の約18年間)  
* 武田氏と対立していた頃(永禄12~元亀3の約4年間)
* 可直斎長純の活動期間(弘治3~永禄13/元亀元)  
* 板部岡融成の活動期間(永禄11~)  
* ※融山は永禄6年没  

上記のうち活動期間から推測すると、「退転」文書が作られたのは永禄11~元亀頃、融山から長純への山伏利権保護文書が作られたのはそれ以前という比定が妥当だと思われる。

更に突っ込んで考えると、永禄12年以降は再び不通になっていて、ここぞとばかりに書き立てると思われるから、永禄11年と絞れる。

では「拾年已前」をどう解釈するか。天文年間は置いておくとして「永禄10年以前」なら「去年」と書くはずだ。中10年と考えて弘治3年と考えてみても3年ずれる。

であれば、3年遡って1565(永禄8)年と比定するのが妥当かも知れない。長老融山死去から2年後ということで、対応が長純と融成に任されたという可能性がある。

原文

修験中退転之様体御尋ニ付申上候事
一、相州諸先達中従前々他国江御用ニ走廻リ候意趣者、従古来伊勢・熊野参詣之者令引導処、拾年已前者、駿府不通故、一切先達打捨、只今百姓ヲ致、身命続申候、在々所々之御地頭、如斯之段御存知候、御不審ニ候ハゝ、御尋可被成候
武州先達従古来拾六人ニ御座候、然ル処、武州北方八人、古川会場不動院ト申山伏年行事相持、聖護院様江年々上分進納申候、南方八人年行事玉滝坊相持、是又毎年上分進納申候、然者御国役之事者、相州廿四人之先達斗走廻リ候、先年聖護院様御下向之砌、相州山伏分之事、可相立之由被仰付候、彼者御国役与走廻リ候由申上候ニ付、京都上分之事進納不申候
一、早雲寺殿於熊野山宝株丸船之義御座候時分、熊野導師案内仕候故、山伏ニ被遣候、依此例ニ他国江御用ニ至時者、山伏ニ被 仰付候、其時分も路銭之儀、従 御上様被下、又山伏も走廻リ候、飛脚■能懸御目候、此上先達衆斗被仰付候者、頭巾袈裟従上申咎之事、無之候、此旨御披露ニ可預候、以上、
相州衆分中
  橋本、権現堂・二階堂
  杉田、泉蔵院
  本牧、桜井坊・慶蔵院
  藤沢、毘沙門道
  室田、住光坊
  豊田、定円坊
  沼目、城光坊
  浦郷、慶蔵坊
  堀、城入院
  同所、城光院
  中村、城明院
  同、能引寺
  国府、円蔵坊
  関本、法惣院
  中野、蔵滝坊
  松田、大蔵院
  飯田、仙滝坊
  片瀬、玉蔵院
  一之宮、大福坊
  たゝ■、泉蔵坊
  一之宮、幸蔵坊
  ほとかや、海蔵坊
御申上候
江雪・長純
(注記:此両人ハ其時之寺社奉行与承リ候)
埼玉県史料叢書12_付編278「相模国先達衆言上状写」(城明院文書)


御札令披見候、然者中武蔵真言宗従五ヶ所申上候筋目承り候、惣而東寺門徒之儀、従往古陰陽道并七五三祓等執行不申事、本意候、若於田舎、為渡世、自然此所作仕候輩者、山臥方へ其役相定候事、武上共無紛候、定 御門跡御証文可為分明候、此旨御披露憑入候、恐惶謹言、
七月廿一日/箱根別当融山判/長純廻報
戦国遺文後北条氏編4559「箱根別当融山書状写」(古文書写)

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