2017/04/24(月)史料想-2 葛山衆の幻影

 更に突っ込んで、「某」が替地の件で苦情を言われていた『水窪』を戦国遺文後北条氏編の索引で調べてみると、1点だけヒットした。

後北条氏、渡辺蔵人佐に、水窪・土狩での収入を渡す

『水窪』は去年の7月迄は直轄領でしたから、『土狩』の知行地をそれぞに一つ拠出なさり、それに従うようにご指示ありました。現在は諸々を現金給与となりましたので、陳情に応じて、水窪において18貫文、土狩における18貫文の分を『所肥後』から渡すでしょう。さて、『葛山』衆の先方をしていた際の上下については知りません。そしてまた、所肥後の同心になるようなご指示もしていません。時が至れば配属となったら、指南するようにとご指示なさいました。但し、所肥後が考えもなく非法なことをしたなら、報告して下さい。その時にはそれぞれが直接奉公することとなるでしょう。

庚午(元亀元)卯月十日/(虎朱印)石巻奉/渡辺蔵人佐殿
戦国遺文後北条氏編1403「北条家朱印状写」(判物証文写今川二)

土地の比定は判り易いが、人名はここにしか出てこない2名で全く追えない。

  • 土狩……水窪の南方にある土地で、天正期を通じて後北条氏が掌握していた
  • 葛山……葛山城を拠点とした国衆で氏元が当主だった
  • 所肥後……名字が「所」で受領名が「肥後守」だったと思われるが不明
  • 渡辺蔵人佐……駿東郡にいた渡辺氏と関係がありそうだが不明

この文書で判ることは以下の通り。

  1. 1569(永禄12)年7月まで水窪は後北条氏直轄領
  2. 同じく8月以降は直轄領ではなくなった
  3. 渡辺蔵人佐は水窪に知行が36貫文存在していた
  4. 替地として土狩が割り当てられた
  5. 前年上期までの収入として水窪18貫文を支給
  6. 下期の収入として土狩18貫文を支給
  7. どちらも所肥後守から受け取るよう指示
  8. 所肥後守が寄親になった訳ではない
  9. 葛山衆の先方としての序列を後北条氏は知らない
  10. とはいえ所肥後守が寄親の方針は変わらない
  11. 但し所肥後守に非があれば解任し直参とする

判りづらい部分もあるが、渡辺蔵人佐のほかにも、水窪に知行があって葛山氏被官だった者が存在しているという書き方だ。そして、水窪の知行が後北条氏直轄領として接収され、近隣の土狩に替地が用意されていたことが判る。そして、所肥後守の指南に受けることに抗議していたようだ。葛山氏元の被官たちがどういう序列かは知らないと後北条氏は答えつつ、所肥後の指揮下に入る基本方針を何とか伝えている。ただこの辺りの記述は歯切れが悪く、対応を誤ると渡辺らが敵方に移動すると考えて宥めようとしていた感じがする。

某は所肥後守である可能性

ここで最初の文書に戻ってみる。某は水窪の替地で何者かに苦情を言われていた。これを、所肥後守と渡辺蔵人佐に当てはめると、自然な解釈が可能になる。

永禄12年7月まで直轄領だった水窪を宛行なわれたのは所肥後守で、渡辺らは水窪から土狩に替地をさせられた。所の知行高は不明だが、妻子の疎開費用だけで70貫文を支給されている。一方の渡辺は全知行でも36貫文しかない(水窪替地以外の知行があった可能性はあるが、支給方法を詳細に書いた文書に存在が全く書かれていないことから、ちょっと考えづらい)。

そして、某は永禄12年7月11日は某が円能口で活躍を見せたタイミングでもある。褒賞として水窪郷が一円支配として与えられ、旧葛山衆を率いるよう命じられた。しかし渡辺らは納得しなかった。

このようなストーリーが構築できる。その後で所肥後守・渡辺蔵人佐の史料が遺されていないのは、後北条から離脱したのか戦死したのかだろう。

掛川への派遣は何だったのか

ここまで仮説を組み立ててきたが、最後の条文に大きな謎があるのでそれを検討する。

一、先年に懸川へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

「去年」ではないことから1571(元亀2)年以前のことだと判る。そしてその褒美銭を2年に分けて支払うとあるので、少額ではないだろう。軍事的に危険な行為に対して大きな金額を約束したのだと思われる。

後北条氏が掛川に軍事・外交で派遣をしたのは永禄11年12月~5月と見てよいから、その時点での話なのは確実となる。掛川に移る前から氏真に付き添っていた後北条方・伊豆衆の西原善衛門尉のような存在もいることから、いつの時点かはこれ以上細かくは絞れない。

ただ、掛川派兵に駆り出された清水新七郎と大藤政信が後に1,000貫文以上の褒賞を得ていることを考えると、所肥後守も同様に派遣されたと思われる。これは、清水・大藤だけでは今川方と武田方の見分けがつきにくく土地鑑もないことから充分ありうるように思う。

葛山衆から所肥後守が抜擢されて同行、その際に褒美銭を約束されたと考えてもよいのではないか。

そしてこの仮説が成り立つならば、葛山氏被官には、武田方以外に、今川方・後北条方についた者もいたともいえるだろう。

葛山氏元は武田に寝返ったのではなく抑留されたという可能性

葛山氏の被官に関しては、武田従属以降に活躍する御宿氏がいるものの、当主氏元との関係性は明確ではない(もっと言うと、御宿氏関連文書には、信憑性が乏しいものがある)。このことから余り当てにはならない。その他で残されているのは流通系の被官が殆どで、軍事・外交に関して活動していた被官がどのような存在だったかは、空白な領域だ。

今回出てきた所肥後守と、彼に反発する渡辺蔵人佐は、残念ながら戦国遺文今川氏編でも見つけられず、同書後北条氏編でもこれ以上の情報はなかった。しかし、知行高から見て明らかに下位である渡辺蔵人佐らが、所肥後守の指南を受けることに嫌悪感を示し、また水窪領を所肥前守に奪われたと感じていた点は、葛山家中で深刻な対立関係があり、後北条方に移った先でも解消されなかったことを示すように思う。

従来、葛山氏元は1568(永禄11)年の武田南進を受けて今川方から寝返ったとされていた。しかし、その直前に氏元が史料から姿を消すことから考えると、今川方に留まりつつも家中が分裂した挙句に武田に抑留され、晴信の子息が養子という形で葛山を継承した可能性が出てきた。

そもそも武田晴信は今川方から寝返った者(岡部元信や孕石元泰、朝比奈信置ら)を優遇しており、史料から姿を消した葛山氏元は特異な存在だと考えていた。晴信の息子信貞が葛山に養子入りしたというのも妙な話で、当時の駿東は軍事的に緊張していたのに、息子とはいえ戦歴もなく年齢も低い信貞を起用した理由が判らない。

こういった点も、同時代史料の欠落から深く突き詰められなかったところだが、今回の史料検証のような行程を踏むことで、仮説を少しずつ充実させつつ、新出史料を待つことはできるのかも知れない。

2017/04/24(月)史料想-1 宛所の切られた文書

古文書には宛先が切り取られてしまったものがあって、解釈や比定が難しくなることが多い。ただ、周辺の文書を読み込むことである程度の仮説を構築することは可能だと思う。それを実際にどう行なうか、書き出してみた。

以下は、宛所が切られた状態の虎朱印状で、板部岡融成が奏者を務めていることや、癸酉(元亀4年)三月晦日の発行であることは判っている。

後北条氏、某に4つの条目を伝える

一、『水窪』の替地、何のために他人が言い立てることがあるのでしょうか。とやかく言う輩がいたら、目安で報告して下さい。合目安を立ててご糾明して、決着をつけよとの仰せです。どうやれば、知行高のご決定に異議を唱えられるというのでしょうか。最近の曲事です。ご指示に及ぶほどのものでもありません。ご糾明の上、どうあっても先の証文の通りの決定になるでしょう。

一、砦のことを申し出たのは神妙です。もとより、西の方の者は国境で活躍することに極まります。どこであれ敵との境界を見立ててご指示になるでしょう。身命をなげうって活躍して下さい。もとより、知行のことは何があっても拠出しますから、ご安心下さい。

一、どこの国境に配置されても、妻子の安住が保証されなければ困るでしょうから、この度『黒谷』のうち『多々良分』70貫文が直轄領なので与えられました。早々に妻子をその地へ移し、安心していただきますように。付記、『八郎左衛門』・『喜左衛門』の妻子も、その地に置くようにとのことですから、多々良分の中に両人の妻子が住む屋敷をお渡しします。更にこの上は味方として協力することを合意して、活躍していただきますように。

一、先年に『懸川』へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

癸酉(元亀4年)三月晦日/(虎朱印)江雪斎奉之/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p28「北条家朱印状」(海老原文書)元亀4年

この文書は宛所が切り取られていて前後関係が不明瞭なため、まず固有名詞の比定を確認。

  • 水窪……駿東郡の水窪。
  • 黒谷・多々良分……武蔵の秩父に黒谷(くろや)が存在し、下山年表でそこに比定。岩付にも黒屋(くろや)があるが、鉱業の存在を窺わせる「たたら」から、銅山で著名な秩父黒谷の方が有力。
  • 八郎左衛門・喜左衛門……三浦八郎左衛門は実在する。

同じ海老原文書に宛所が切り取られた感状が存在するので、そちらも参照してみる。

北条氏政、某に、永禄12年7月11日の戦功を賞す

昨日の10日に『円能口』に敵が出撃してきたところ、前線で戦って敵を5人討捕ました。特に、ご自身が高名を挙げています。本当に比類のないことだと感銘を受けました。刀を1腰、一文字銘のものを差し上げます。ますますご活躍下さい。

永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

円能口……下山年表では相模丹沢を比定。山北町都夫良野とあり、小山町から酒匂川を下って小田原に侵入するルートだと思われる。但し比定根拠は不明。

上記2文書が同じ宛所である確実な根拠はないが、同時代で近い地域における内容であることから、同人物として仮定は可能ではある。その前提で2文書から宛所の人物が置かれた状況を並べてみる。

  1. 永禄12年に円能口で敵5名を討捕、自分も活躍した
  2. 水窪替地について苦情を言われていた
  3. 砦の普請を自ら申し出ていた
  4. 国境のどこに配備されるか判らなかった
  5. 妻子の居住地が危険だったため70貫文の直轄領が与えられ疎開を指示された
  6. 同じ場所に八郎左衛門・喜左衛門の妻子も移動を命じられた
  7. 八郎左衛門・喜左衛門の妻子が住む屋敷は後北条氏が準備した
  8. 元亀2年以前に掛川に派遣されていた
  9. 掛川派遣時の褒美を与えられていなかった
  10. 上記褒美は発給時の年と翌年の2回で支払われた

 妻子居住で70貫文が支給されていることや、八郎左衛門・喜左衛門といった寄子か被官、親類を引き連れていたこと、また砦普請を名乗り出ていたことから、大身の武家であるといって良いだろう。永禄12年の件では「自分でも活躍」が褒められているから、本来は部下に戦闘を任せられる身代を持っていたのだろう。


……続く

2017/04/23(日)困窮する修験者たち

どういう文書か?

年未詳だが、相模の修験者たちが後北条氏の寺社担当的役職の可直斎長純・板部岡融成に宛てて彼等の置かれている厳しい状況を説明している。

  1. 先達は前から伊勢・熊野の参詣案内役をしていたが、10年前から駿河が通行できず仕事がない。このため百姓をしている。
  2. 武蔵先達は古来から16名いて、北方8名は不動院、南方8名は玉滝坊が取りまとめ、毎年聖護院様に上納をしている。相模については、聖護院様が下向した際に「24名それぞれがお国の役に立つように」との仰せで上納は免除されている。
  3. 早雲寺殿の熊野での宝株丸の一件から、熊野導師をさせていただいているので、山伏をお使いになっている。この例にちなんで、他国への御用の時は山伏を用立てるようになった。その頃も移動代金は支給してもらっていた。また山伏も活躍して、飛脚としてよく働いた。先達衆だけに仰せになってもらえるならば、頭巾・袈裟を上から罰せられることもないだろう。

文書の題に「修験中退転之様体御尋ニ付申上候事=修験者たちが職にいられず散ってしまった様子についてお尋ねになったので申し上げます」とあることから、この時修験者らは伊勢・熊野参詣の案内者としても飛脚としても機能せず、それを後北条氏に質問されたのだろう。

何故後北条氏がそれを気にしたのかというのは、最後の項目で「頭巾袈裟従上申咎之事、無之候=頭巾・袈裟を上から罰せられることもないだろう」に集約されている。修験者らは機能していないにも関わらず山伏の格好で百姓の生活をし、それを咎められたのだろう。そこで後北条氏が質問してきたので「修験者として生活できるならこういう罰も受けなくて済むのです」と回答している。

面白いのは、修験者たちが自らの困窮をさりげなく後北条氏のせいにしたともとれる書き方をしている点。「あなた方が戦争して参詣客がいなくなった」とか「早雲寺殿の頃から協力したのに飛脚を頼まなくなった」とか。

恐らく後北条氏としては「修験者として食っていけないなら山伏の格好はやめて」と言いたかったのだろうけど、修験者はそういう発想を持っていない。「山伏の身なりで百姓するのが変だというなら、山伏の仕事をさせろ」という主張である。中世っぽい。

いつの文書なのか?

では彼等が困窮したのはいつのことだったのだろう。この文書は年月日が一切ない。ただ関連する文書はあって、箱根権現別当で、東寺出身、山伏も監督していた融山が長純に宛てたもので、東寺門徒は「従往古陰陽道并七五三祓等執行不申事=古い昔から陰陽道・七五三祓いなどは執行しない」として、それらは山伏の収益であることを認めている。これを逆に言えば、それだけ修験者たちの権利が侵害されていた日常があったのだともいえる。

※家臣団辞典では、箱根権現別当融山との交信から、長純が東寺金剛王院の僧であったと比定している。

北条氏綱後室の兄である聖護院道増は1552(天文21)年に関東へ来たという記録がある(これは4月10日の鶴岡八幡大鳥居落成に立ち会うためだったかも知れない)。山伏たちがいう免除はこの際に行なわれた可能性がある。とするなら天文21年より後であるのは確実だ。

次に「拾年已前者、駿府不通故」という点について。

「拾年已前」を「天文 or 永禄10年以前」とするか、「今から10年前は」とするかで大きく解釈が変わるが、文面からは判断が難しい

* 今川氏と対立していた頃(天文6~23の約18年間)  
* 武田氏と対立していた頃(永禄12~元亀3の約4年間)
* 可直斎長純の活動期間(弘治3~永禄13/元亀元)  
* 板部岡融成の活動期間(永禄11~)  
* ※融山は永禄6年没  

上記のうち活動期間から推測すると、「退転」文書が作られたのは永禄11~元亀頃、融山から長純への山伏利権保護文書が作られたのはそれ以前という比定が妥当だと思われる。

更に突っ込んで考えると、永禄12年以降は再び不通になっていて、ここぞとばかりに書き立てると思われるから、永禄11年と絞れる。

では「拾年已前」をどう解釈するか。天文年間は置いておくとして「永禄10年以前」なら「去年」と書くはずだ。中10年と考えて弘治3年と考えてみても3年ずれる。

であれば、3年遡って1565(永禄8)年と比定するのが妥当かも知れない。長老融山死去から2年後ということで、対応が長純と融成に任されたという可能性がある。

原文

修験中退転之様体御尋ニ付申上候事
一、相州諸先達中従前々他国江御用ニ走廻リ候意趣者、従古来伊勢・熊野参詣之者令引導処、拾年已前者、駿府不通故、一切先達打捨、只今百姓ヲ致、身命続申候、在々所々之御地頭、如斯之段御存知候、御不審ニ候ハゝ、御尋可被成候
武州先達従古来拾六人ニ御座候、然ル処、武州北方八人、古川会場不動院ト申山伏年行事相持、聖護院様江年々上分進納申候、南方八人年行事玉滝坊相持、是又毎年上分進納申候、然者御国役之事者、相州廿四人之先達斗走廻リ候、先年聖護院様御下向之砌、相州山伏分之事、可相立之由被仰付候、彼者御国役与走廻リ候由申上候ニ付、京都上分之事進納不申候
一、早雲寺殿於熊野山宝株丸船之義御座候時分、熊野導師案内仕候故、山伏ニ被遣候、依此例ニ他国江御用ニ至時者、山伏ニ被 仰付候、其時分も路銭之儀、従 御上様被下、又山伏も走廻リ候、飛脚■能懸御目候、此上先達衆斗被仰付候者、頭巾袈裟従上申咎之事、無之候、此旨御披露ニ可預候、以上、
相州衆分中
  橋本、権現堂・二階堂
  杉田、泉蔵院
  本牧、桜井坊・慶蔵院
  藤沢、毘沙門道
  室田、住光坊
  豊田、定円坊
  沼目、城光坊
  浦郷、慶蔵坊
  堀、城入院
  同所、城光院
  中村、城明院
  同、能引寺
  国府、円蔵坊
  関本、法惣院
  中野、蔵滝坊
  松田、大蔵院
  飯田、仙滝坊
  片瀬、玉蔵院
  一之宮、大福坊
  たゝ■、泉蔵坊
  一之宮、幸蔵坊
  ほとかや、海蔵坊
御申上候
江雪・長純
(注記:此両人ハ其時之寺社奉行与承リ候)
埼玉県史料叢書12_付編278「相模国先達衆言上状写」(城明院文書)


御札令披見候、然者中武蔵真言宗従五ヶ所申上候筋目承り候、惣而東寺門徒之儀、従往古陰陽道并七五三祓等執行不申事、本意候、若於田舎、為渡世、自然此所作仕候輩者、山臥方へ其役相定候事、武上共無紛候、定 御門跡御証文可為分明候、此旨御披露憑入候、恐惶謹言、
七月廿一日/箱根別当融山判/長純廻報
戦国遺文後北条氏編4559「箱根別当融山書状写」(古文書写)

2017/04/21(金)要検討史料 松田政晴の場合

よく出てくる「検討を要す」の文書を、出所から追ってみた。近世にも戦国マニアがいて、色々と活動しているのだなと。

笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。

「今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候」天正八年八月十六日/御判/笠原新六郎殿戦国遺文後北条氏編4490「徳川家康書状写」(紀州藩家中系譜)

「この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎらうため、刀1腰、岩切丸をお贈りします。さらにご連絡を期します」

笠原政晴は松田憲秀の次男で、笠原千松の陣代となり、伊豆徳倉城番に入った後に武田勝頼に与した。武田家滅亡後の所在は不明で、僧になったとも、小田原で処刑されたとも言われている。遺児が紀州家にでも仕官したのかと不思議に思った。

ということで、和歌山県立文書館が刊行した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』を閲覧してみたところ、どうやら明確な繋がりはないようだった。

この書籍は、紀州家の家臣を表で列挙してくれている。まず政晴の本姓である松田家も存在したものの、別の家である可能性が非常に高かったため転記から外した。一方、笠原家には後北条家臣だった家と相関性が見られた。

3530 親 笠原 祖:助左衛門 父:助左衛門 提:助右衛門奥付に[文化十二年亥何月 笠原新六郎]の雛形付箋あり。表紙・後表紙欠。文化元・4

3531 親 笠原新六郎 大御番 祖:助左衛門 父:助左衛門 惣:新一郎 提:新六郎政戴 文化14・5

3523 系 笠原新一郎 大御番 元:助左衛門氏隆→2:助左衛門氏則→3段右衛門景任→4新六政起(隠居静久)→5藤左衛門政晨→6新左衛門正武→7助左衛門正備→8助左衛門政種→9助左衛門政戴(隠居休道) 提:新一郎政勝 天保6・2

※冒頭の数字は資料番号。末尾は提出日。「親」は『親類書』、「系」は系譜書を指す。また、「提」は提出者のこと。

文化・天保というと近世もだいぶ後半だ。まず注目したのは、そのものずばり「笠原新六郎」がいるという点。提出者は新六郎政載で、仮名が同じであって諱の「政~」も同じである。この18年後に出された同家の先祖書きがあり、それによるとこの家の初代と2代目は助左衛門を名乗っているのは同じで、通字は「氏~」。3代目でどちらも該当しない人物が入る(養子?)。4代目からは「政」か「正」を通字に統一している。仮名は新六郎に近しい「新六」の後に、笠原康明と同じ藤左衛門となり、以降はまた助左衛門に戻されている。

この記述には混乱も見られる。新一郎政勝が提出した先祖書きには9代目として前述の政載がいる。政載本人が提出した際には自身を「新六郎」と名乗っていたが、(恐らくその息子であろう)新一郎政勝の先祖書きの政載の仮名は「助左衛門」と変えられている。ここはよく判らない。

他家史料でいうと、松坂城主だった古田家が1615(元和元)年に国替えとなり同城が紀州家預かりとなった際に、大藪新右衛門尉・井村善九郎とともに笠原助左衛門が接収に赴いている。恐らく初代か2代目の助左衛門だろう。推測すると、政載は新六郎と名乗ったが、本来は助左衛門が通例であって、息子の代で戻したということか。

何れにせよ、助左衛門という名は後北条家臣の笠原氏には見えない。近しいところでいうと康明の近親と思われる助八郎はいるものの、史料が限られていて係累は不明。

前掲の徳川家康書状写も文言に奇妙な部分が見られ、もしかしたら政載が作ったものかと思えてくる。

「今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候」

家康の高天神攻めは、わざと時間をかけて「勝頼は後詰しない」ことを立証する長期戦だった。この戦いを目前に控えて家康が喜ぶほどの「契約」とは何か。兵粮支援や援軍ならその旨を明確に書いている例が多いし、ここで「契約」の語を使う意図が掴めない。大名間のやり取りで政晴が取次だったとしても、当主氏直の名が全く出てこない点も不可解だったりする。また、太刀を贈る場合には銘を記すのが通例なのに、わざわざ「岩切丸」という通称を書いている辺りも奇妙だ。

ちなみに『松田家の歴史』というサイトで笠原政晴の墓についての記述がある(44ページ)。

「笠原政尭は笠原隼人佐とも言われ、1626年60才で病没したと言い伝えられている。墓は三島市東本町1丁目の法華寺にある。その墓の表には「笠原院春山宗永居士」と刻し、その裏面に「笠原助之進延宝七年(1679年)霜月六日建」とある」

「助之進」という仮名から、紀州家中の例の笠原家が関連しているようにも見える。

その間の係累がはっきりしない上本来関係のない笠原氏だったのを、歴代の誰かが「笠原新六郎こそ我が祖」と言い出して墓を建立したのではないだろうか。

ひとまず、充分に検討を要する伝承であることを記しておく。

2017/04/20(木)足利義氏の関宿入りを巡る北条氏康のややこしい書状

1555(天文24)年比定の5月24日書状がちょっと面白いので、解釈を色々と考えてみた(戦国遺文後北条氏編581「北条氏康書状」)。逐次書き出してみる。

1558(天文24/永禄元)年比定 5月24日北条氏康 → 瑞雲院周興

追而申候意趣者、先日以氏政彼御侘言申上候、■■納得之御返答、

追ってお伝えする意趣は、先日氏政から陳情申し上げ、(文字欠)ご納得のご返答でした。

文頭から追伸となっていて、これは正規の書状の後に送られた追記だと判る。先日、氏政が周興経由で、恐らく義氏に何か陳情をして受諾されたとある。この陳情と後の内容が関連するかは、現段階では不明。

其御次ニ右馬允両年被為■■■■進退無相違可申調由、 被仰出候、

その次に、右馬允が両年(文字欠)進退は相違なく調整するようにと、仰せになりました。

文字欠が多く解釈が難しいが、「次」が丁寧語の「御次」であること、欠字を伴う「被仰出」があることから、右馬允に義氏から仰せ出しがあって、両年にわたる忠節か何かに免じて「進退」を調整せよとなった事を取り上げている。他者の解釈ではこの「進退」を「右馬允の古河城主の地位」として把握しているようだが、私は疑問を持っているので、この後の解釈ではこの意味も探ってみたい。

時節如何■■、今度之一儀、中務無相違令納得候儀も、

時節はいかが(文字欠)、今度のことは、簗田晴助は相違なく納得されましたが、

これも文字欠で読み取れないが、時節=タイミング、如何=どのようにか、という文の後に中務(晴助)が納得した、と読むのが自然だろう。文の末尾が「も」で、晴助が納得しても状況に問題があることが判る。

先万右馬允極ゝ遺恨候、加様之儀惣ニ散、向後家中をも此度堅固ニ可致所、

前に右馬允が強い遺恨を持ったのです。このようなことを全体に散らしたのです。今後家中で結束を固めるべきところ、

「先万」は他例がなかったので「先般」か「千万」の当て字だと推測した。但し「千万」は文頭に出た例を見たことがないから、「以前に右馬允がとても強い遺恨を持った、それが問題の原因だ」という意味合いに解釈した。その後の「惣ニ散」も「粗忽に取り散らした」か「惣=全体に拡散した」かのどちらかだろう。今後の家中結束に影響があると氏康が案じているから、後者だろうと思う。

自此方徳失を勘立諫候ニ付而合点候、

こちらより得失を考えるように諌めますから、ご諒解下さい。

「此方」は氏康たち後北条方を指す。損得を弁えるように圧力をかけるから、それは諒解しておけということだろう。

然者右馬允改易之事、誓句ニ者不戴候へ共、最前ニ別儀有間敷由申候、

ということで右馬允を改易することは、起請文には書かれていないことですが、以前には異議があってはならないと言っています。

この起請文は氏康・義氏が簗田晴助と交わしたもの。ここに右馬允の改易は書かれていないけれど、既定路線に変更があってはならないということを氏康が強調している。ここは両義性を持っていて、起請文をきっちり守るならば、右馬允の改易は行なうべきではないという見方もできる。氏康の主張はこの時点で説得性がない。

抑彼地入御手之事者、一国を被為取候ニも、不可替候、

そもそもあの地をご入手なさることは、一国をお取りになるのとも替えがたいことです。

これは、先の起請文で晴助から義氏に献上された関宿を指す。結構有名な語句で関宿の要地ぶりを語る際に引用されているが、出てくるのはこの物騒な文面だったりするのは余り知られていない。

当意随御威光、御本意者更不実候、

とりあえずのご威光に従っていては、ご本意は更に実りません。

「当意」は現代語でも使う「当意即妙」と繋がっている。当座とか即興の意味合い。ご威光が何を指すかは不明で、右馬允が何を主張したかによって解釈が異なる。

先の起請文では、関宿を献上した晴助は古河に入ることになっている。このため、古河に先住していた右馬允が騒いだという解釈は既に存在する(進退=古河城主地位説)。だが右馬允が古河住という史料はない。

更に、この文章の前後で氏康は関宿の地が素晴らしいとくどく書いていることを併せて考えると、右馬允は「古河こそが義氏座所として相応しい」と異議を唱えたのではないか。このため、この主張を氏康は「当意のご威光」とし、それでは本意が得られないという主張を氏康は唱えなければならなかった(進退=古河入り主張説)。

どちらとはまだ言い切りがたいものの、右馬允が古河入りを主張したとする方がやや有利に感じる。

無双之名地ニ可被立 御座儀者、御子孫迄之御長久、不及言語候、

無双の名地に御座を立てられたことで、ご子孫までのご長久は申すまでもありません。

関宿への氏康の激しいアピールは続く。関宿絶賛の間に「当座のご威光」を差し挟んでいるのが印象的だ。

此調を存詰上、右馬允つれ進退之是非者、勘ニも不渡候間、

この準備を思い詰めていく上で、右馬允づれが進退の是非は、考えにも入りませんから、

こういった関宿至上の動きを考えていった氏康は、どうやら怒りがこみ上げてきたようで「右馬允ごときが何を邪魔するか」という文になっている。「勘ニも不渡」は結構乱暴な言い方で、右馬允の進退などどうでもいいと断じている。ここで「進退」が出てくる。

右馬允が「進退=身の保証=古河城主の地位」にしがみついているのか、または「進退=命を懸けての懇願」として義氏の古河入りを主張しているのかで判断が異なる。まだどちらともいえない。

無相違可払旨、中書へ申候、

相違なく払うように晴助に申します。

今度は「払」という言葉が出てくる。「払う」ように氏康は晴助に告げているが、詳しくは不明。

其上去春酒井大膳所へ 御台様御計策之御自筆被遣候趣、虚説誑言、右馬允書散候キ、

その上で、去る春に酒井大膳の所へ、御台所様がご計策のご自筆の書状を送ったこと、虚説の戯言です。右馬允が書き散らしたものです。

ここが最も謎な箇所。酒井大膳は戦北・下山年表のどちらを見てもここにしか登場しない。恐らくは上総酒井氏の関係者だと思われるが、詳細は不明。御台所様は氏康の妹である芳春院殿(義氏の母)で、彼女はこの年の春に酒井大膳の所に自筆で計策を送ったという。氏康によるとこれは「虚説誑言」で、右馬允が書き散らしたものと断定されている。

彼過失ニ付而、重而被為払由被仰下候間、

あの過失については、重ねて払うようにと仰せになっていましたので、

ここでいう過失は前文の芳春院自筆計策を、右馬允が言いふらしたことを指すと思う。重ねて「払う」ように仰せになったのは義氏。ここでも「払」が出てくる。払う行為は複数回行なわれており、なおかつそれを見た氏康が「勘当」と受け取るようなものだったと思われる(次の文参照)。だとすれば、「払」は「追放」もしくは「意見却下」のどちらか、もしくは両者が混交した特殊事情かと思われる。

当時彼者ハ、御勘道一理与存候へは、昨日当地へ越候て、進退可申立支度之由候、言語道断横合ニ存候、

あの時のあの者(右馬允)は、ご勘当なさったと思っていました。ですから、昨日になって当地へ行き進退を申し立てるよう支度しているとのことは、言語道断の横槍だと思います。

右馬允を「彼者」と表現している。自筆計策事件単体ですら「御勘道=ご勘当」が当然だと氏康は主張する。そんな状況なのに、つい昨日に「当地」に来て「進退」を申し立てる支度をしていると聞いたという。当地は、氏康がいる場所・宛所の周興がいる場所・文中で焦点になっている場所のどれかだろう。氏康・周興・右馬允の居所が不明だから断定はできないものの、義氏と芳春院殿は葛西、晴助は関宿にいるという推測は前後の文書から成り立つ。申し立てる支度をしているということは、義氏・芳春院殿に直訴する準備を右馬允がしていて、それを聞いた氏康が焦っているのだろう、という仮説が最も確度が高いように見える。であれば当地は葛西だろうと思う。

左候へ共、御内ゝにて令徘徊仁候間、院主■談合申候、

そうですが、内々での徘徊ですから、院主が協議すべきでしょう。

ここで氏康がやや語気を弱める。「御」がついた形なので、公方家の内々での話として、氏康が介入しないか、できないことを示すように見える。院主=宛所の周興が、家中で協議するべきだとする。あれだけ言い立てたのは、氏康が直接排除できない位置に右馬允がいたからだろう。であれば氏康が要求した「払」は追放ほど強い処置でなく、却下というレベルのものだった可能性が高いだろう。

去而一二年も置候て、氏康・中務前申調返可申候、

いなくなって1~2年も置けば、後は氏康・晴助が申し整えて返します。

ここで唐突に氏康が「去而=いなくなって」と書いてきて面食らう。後の文を見ると、いなくなるのは右馬允、返すのはその右馬允の身柄で、氏康・晴助の調整後に返すという流れが最も自然なニュアンスではないかと思う。この文は結論をいきなり書いたもので、具体的な手法はこの後に続く。

致様者、其身ニ今度 御座之地■■候様躰、条ゝ申分、為致納得、自分之様ニ上方物詣ニ可取成候、

するべきことは、右馬允に「今度御座する地を(文字欠・献上か?)することは条文で決定しましたから、あなたは上方へお参りにでも行くように」と説得することです。

「致様者=いたしようとしては」ということで、具体的な行動指示が書かれる。ここでも文字欠があって意図が把握しづらいが、「条ゝ」は晴助との起請文の条文。これを右馬允に納得させるための方策とは何だろうと思って読み進めると、「自分のように=周興自身が旅に行くかのように親身に」上方へ物詣に行くよう、周興が取りなしてほしいとしている。

定而其身も可聞分由存候、

きっと右馬允も聞き分けるだろうと思います。

自信満々に結論を出している。多分、氏康がこの長い書状を書いた目的は「周興が右馬允を説得して西国参詣の旅に出す」という、本人的に絶妙なアイデアを思い付いたからだろう。いてもたってもいられなくなって書き綴った挙句、判りづらい長文になってしまったのかも知れない。

猶以右馬允当時山林之進退にて、此度大事調之際ニ罷出、可成横合候哉、

それより、右馬允はあの時は『山林』の進退、今回も重要な案件の直前に出てきて横合いを言い立てるのはどうでしょうか。

「どうだこの妙案は」として終わればいいのだが、氏康にはまた怒りがぶり返したようで、ここで過去の例が出る。芳春院が自筆で計策した際に、右馬允はその前後で抗議の山林之進退(=ストライキ的な抗議)に及んだようだ。その抗議は氏康の意に添わなかったようで「今回も邪魔をするのか」と苛立っている。

不及申子細候へ共、寸善尺魔纔なる儀を以大事破事、古今先例候間、御断を申届候、

詳しく言うには及びませんが、「寸善尺魔」で、僅かなことを大事だと言い張ることは、昔から例がありますので、あらかじめ言っておきます。

「話すほどのことではないが」としつつ、右馬允の主張に氏康は警戒する。「寸善尺魔」とは本来、良いことは少なく悪いことは多いという語だが、この当時は「針小棒大」の意味でも用いたのか、氏康が取り違えたかのどちらかだろう。古い例を持ち出しているのは、具体的な話をされると都合の悪い情報が周興に入ってしまうと恐れたのか……。

畢竟其身ニ能ゝ被為合点、一廻西国物詣、後ゝ年可被直進退儀可然候、

最終的には右馬允をよくよく納得させ西国を一巡りさせ、後々の年に進退のことは直されるのが然るべきことでしょう。

氏康はようやく、話をまとめにかかる。右馬允本人をよく説得して、ひと廻り西国でお詣りをして、何年かあとに「進退」のことを「直す」のがしかるべきだろうと。「被直」という表現も見かけないもので解釈に迷うが、右馬允は義氏直臣なので「義氏がお直しになるのがよいだろう」という書き方になろうかと思う。「関宿様」として実績を積んだ義氏が右馬允の「古河を本拠に」という「進退=主張」を聞いて直せばよいという発想であれば、この文は自然な流れになる。

御台様へ御披露も御無用ニ候、貴僧以御計如此可有御調法候、

御台所様へご披露することもありません。貴僧のお計らいでこのようにご調整下さい。

ここで奇妙なことが書かれる。御台所には言うなとしている。この緘口令を見ると、酒井大膳に芳春院が送った自筆の計策は、事実かつ氏康にとって都合の悪いもので、それを蒸し返される点を恐れ、妹には事情を言わないように告げ、周興が単独で実行するよう依頼しているのだろう。

自此方者、遠山申付、右馬允ニ委為申聞、可為納得候、

こちらからよりは、遠山に指示し、右馬允に詳しく申し聞かせて納得させましょう。

氏康側からは遠山綱景に指示して、右馬允に直接話して納得させるとしている。