2019/03/31(日)伊達房実生存説について

全滅した岩付籠城衆

1590(天正18)年5月21日に、武蔵岩付城は羽柴方によって攻め落とされる。城主の北条氏房は小田原に籠城していたため、城代の伊達房実が守備していた。

惣構が破られたのは5月19日。その翌日、城内にいた松浦康成が、援軍として入っていた戦闘経験豊富な山本正次に書状を出して戦況を確認している(埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」越前史料所収山本文書)。この文書が残っていることから判るように、正次は岩付から脱出している。

但し生還できたのは正次しか確認できておらず、伊達房実・松浦康成は史料から姿を消す。後に氏房が肥前で死去した際に家臣として細谷三河守の名が出てくるが、細谷は氏房に随従して小田原にいたものと思われる。

岩付の武家被官が全滅したのは、落城後に出された書状からも確認できる。

5月27日、羽柴方被官たちが岩付落城を北条氏直に伝えた書状に、

抜粋

本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後

  • 小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

とある。本丸に敵が入る前に、坊守が出てきて「戦闘可能な者は全員戦死した」と降伏している。この状況は寄手から検使が入って確認しているので確実だろう。

更にこの後、氏政妹と氏房室を保護したことが記述されるが、彼女たちの引き取り手がなく、開戦前に拘禁した石巻康敬を派遣して対応したとある。城代である伊達房実がいれば、身元確認や事後対応を彼と協議したはずなので、やはり戦死したものと思われる。

伊達房実が生き残ったという記述

一方で家臣団辞典では、伊達房実は降伏して助命されたと記載する。これは寛政譜を元にしつつ、下記文書を根拠とする。

岩付太田備中守・伊達与兵衛・野本将監妻子之事、何方ニ来共、有度方ニ居住不可有異儀候、恐ゝ謹言、
七月十四日/御名乗御判/羽柴下総守殿・黒田官兵衛殿

  • 記録御用所本古文書0780「徳川家康書状写」(伊達家文書)1590(天正18)年比定

しかしこの内容は、伊達与兵衛(房実)の妻子が生き残ったことしか示さない。太田・伊達・野本が生存していれば、彼らに宛てて妻子の保証をするはずだ。

よく似た文言の文書は織田信長も出しているが、この場合も山口孫八郎は既に存在しておらず、孫八郎妻子の居住の自由を加藤図書助に保証している。

山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者、有所事、何方にても後家可任存分候、猶両人可申候、恐々謹言、
十月廿日/信長(花押)/加藤図書助殿進之候、

  • 愛知県史資料編10_1942「織田信長書状」(加藤景美氏文書)1554(天文23)年比定

同時代史料を見る限りでは、やはり房実は戦死したと判断せざるを得ない。

生存説構築の動機

ではなぜ房実生存を、子孫と称する大和田村伊達家が主張するのか。この伊達家に、妻子の居住を保証した上掲文書が伝来するから、房実と関わりがあるのは確実である。

寛政譜によると、系図で最初に「房実」とあったものは、実は「房成」だと訂正している。ところが、同時代史料では全て「房実」であり、何らかの意図をもって伝承を改変した痕跡が窺われる。また、房実の子を「房次」とするが、仮名は「庄兵衛」となり、以後代々の仮名でも「与兵衛」よりも「庄兵衛」が強く出されていく。

伊達「与右兵衛」は今川家文書でも確認され、房実が今川被官の由来を持つことの証左ともなっているほどの象徴で、そう容易に変えるものとは考えづらい。とすると、岩付で助命された与兵衛の子は娘で、婿に入った庄兵衛がいたのかも知れない。

史料を追いきれていないところなので、ひとまずこの仮説で止めておこうと思う。

2018/01/18(木)解釈が難しい伊勢盛時書状

解釈に疑義のある文書

伊勢盛時が、三河吉良氏被官の巨海越中守に出した書状がある。

今度氏親御供申、参州罷越候処、種ゝ御懇切、上意共忝令存候、然而、氏親被得御本意候、至于我等式令満足候、此等之儀可申上候処、遮而御書、誠辱令存候、如斯趣、猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候、恐惶頓首謹言、
閏十一月七日/宗瑞(花押)/巨海越中守殿

  • 戦国遺文今川氏編0187「伊勢盛時書状」(徳川黎明会所蔵文書)1506(永正3)年比定

この度氏親にお供して三河国にやってきたところ、色々とご親切にしていただき、上意ともどもかたじけなく思っています。そして氏親がご本意を得られました。私めにしましても満足させていただきました。これらのことを申し上げるべきだったところに、かえって御書をいただき、本当にお恥ずかしいことです。このような趣旨で、更に巨海越中守から披露なさるでしょうこと。宜しくご披露をお預けします。

これを指して通説では、三河出兵に巨海越中守が協力した礼を盛時がしているとする。しかし、文中で軍事的な表現はない。特に「種ゝ御懇切」という言い回しは平時に用いられるものだし、「罷越」は進軍ではない。

更に言うと、宛所が巨海越中守なのに、その取次を本人が行なうことになっている点、結句が「恐惶頓首謹言」と厚礼過ぎるのではないかという点が奇妙である。この2年後に盛時が出した書状を以下に挙げるが、こちらは出兵が明確に読み取れるし、結句も「恐々謹言」で通常のものとなっている。

今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候之処、預御合力候、令祝着候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可在伝聞候、恐々謹言、
十一月十一日/宗瑞(花押)/巨海越中守殿

  • 戦国遺文今川氏編0219「伊勢宗瑞書状写」(徳川林政史研究所所蔵古案五冊氏康所収)1508(永正5)年比定

この文書は「合戦」とあるし、「御粉骨」もよく軍事用語で使われる。この文書には疑問点はない。

宛所が実態と異なる事例

これらから、この盛時書状は実は巨海越中守宛ではなく、より高位の人物に宛てたものだろうと想定される。書面の宛所と実際の宛所が異なる例は、北条氏政から遠山康英に宛てたもので例がある。

結句に「恐惶謹言」を用いており、実際の宛所が足利義氏と想定されるもの。

追而、今朝井上儀致失念不申上候、自信州罷帰候哉、尤当陣下へ可被下候、信州へ者、節ゝ申通候、此旨可預御披露候、恐惶謹言、
九月六日/氏政(花押)/遠山新四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編1096「北条氏政書状」(北条文書)1568(永禄11)年比定

急度註進申候、今夜子刻、敵新太郎・大道寺、左の手先、是者寄合衆之番所ニ候、彼三口へ同時ニ致夜懸候、何も味方得勝利、敵敗北、討捕注文為御披見、別紙ニ進上申候、随而本郷越前守、於新太郎手前致討死候、其身十廿之間人衆召連、敵取懸模様見届ニ、山半腹へ落下、其侭敵ニ出合、越度之間、無了簡仕合候、本郷者一人同時ニ致討死候、其外手負にても無之候、此旨可預御披露候、恐惶謹言、
三月十四日/氏政(花押)/遠山新四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編1181「北条氏政書状」(小田原城天守閣所蔵文書)1569(永禄12)年比定

結句が「謹言」で薄礼である本来の形のもの

先日酒井入道ニ薩埵陣之刻、伝馬之御判ニも為無之、恒之御印判に而被下候、一廻物書誤か思、是非不申候、然ニ今度板倉ニ被下御印判も、伝馬を常之御印判ニ而被下候、御印判之事候間、無紛上、無相違候得共、兼日之御定令相違候間、一往其方迄申遣候、不及披露儀候哉、先日酒井ニ被下も、又此度も、其方奉ニ候間、申遣候、始末此御印判ニても、伝馬被仰付候者、其御定を此方へ被仰出模様、御落着可然候歟、伝馬之者も可相紛候哉、用捨候て可披露候、謹言、
五月十九日/氏政(花押)/遠山新四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編1223「北条氏政書状」(長府毛利文書)1569(永禄12)年比定

すなわち、巨海越中守は取次役だから「猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候」という文言が入るのであり、そう考えれば不自然な点はない。

そこで考えられるのが、当時在京していた巨海越中守の主人、吉良義信。この時義信は、足利義澄に追放された足利義稙を復活させる動きをしていた。この2年後に義稙は帰洛するのだが、その際に今川氏親が遠江守護に任じられている。

  • 『戦国時代年表後北条氏編』永正5年より抜粋

6月 今川氏親が足利義稙の入京を祝し、義稙から遠江国守護に任じられる(永正御内書御案文)。
7月13日 足利義稙が今川氏親に、遠江国守護職の任官謝礼としての銭100貫文の贈呈に謝礼する(同前)。

つまり氏親・盛時は、巨海越中守→吉良義信→足利義稙という経路で復帰支援を約束し、引き換えに遠江守護就任の内定をもらった。

当初は堀越公方茶々丸追放の件で義澄と連携した氏親・盛時だが、この時点では義澄を離れ、対立する義稙に派閥を変えていることが知られている。このこととも符合する。

家永氏の解釈

ここまで推測した上でネット上を検索したところ、以下の記述を持つ論文が見つけられた。

-『永正年間の今川氏と西三河の諸勢力について』(松島周一)

<高村注:戦国遺文今川氏編0187「伊勢盛時書状」の全文を掲載>
この難解な史料に正確な解釈を施したのは家永遵嗣氏であり、「今川氏親の三河侵攻が上首尾であったことを、『(前将軍義尹に対しては)私(巨海越中守)から披露いたします』と(吉良義信に対して)申し上げてほしい」との意に受け取ることを示された。

義信を介して義稙に宛てたものという指摘は同感だが、その他の解釈には違和感を感じる。

まず、文章全てを掬い取っていない点に問題があるように思う。盛時は「本来ならこちらからお礼をいうべきところを、わざわざご連絡をいただき恥ずかしい」としているのであって、今川方の軍事的成功を自発的に連絡したという解釈は成り立たない。

次いで、これだと話法が入り組んでいて判りづらい。これは、家永氏が従来の解釈に引きずられてしまった影響だと考えられる。「本意=遠江守護就職」「上意=その内示」と捉えれば自然に解釈できるものを、氏親の三河侵攻が主題として無意識に固着してしまって曲芸的な解釈文になっている。

もう少し踏み込み

三河に氏親・盛時が揃って出向いたということは、義信が下向してきた可能性を示すようにも見える。これは、永正3年とされる今橋攻めの最中の出来事かも知れない。ただ、今橋攻めを取り巻く史料には年表記がなく、これまで永正3年8~9月に今橋城攻略、翌々5年11月に西三河侵入とされてきたものが、永正5年8月~11月に三河侵攻とひとまとめにできる可能性がある。

※永正5年11月に今川方が三河から退却したのは「参川国去月駿河・伊豆衆敗軍事語之」とある『実隆公記』(愛知県史資料編10_0721)で確定できる。

※閏11月が存在するのは永正3年なので、懸案の盛時書状が永正3年なのは動かない。

2017/04/28(金)葛山・瀬名は本当に今川に反したのか

葛山氏と瀬名氏は、永禄11年12月13日の武田侵攻時に今川から離脱したされる。それは根拠として以下の文書が使われているのだろう。

武田晴信が荒河治部少輔に由比山助太郎分60貫文を与える


今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候、因茲由比山方ノ内チ、助太郎分六拾貫文之所進之置候、弥可被抽戦功条可為肝要候、恐々謹言、
永禄十二年己巳二月廿四日/信玄/荒河治部少輔殿
戦国遺文今川氏編2283「武田晴信書状写」(香川県さぬき市・甲州古文集)

改めてよく読んでみると、瀬名氏が寝返った証拠は実はない。武田方に忠節した葛山氏元がいて、それに同心した荒河治部少輔が「瀬名谷」に退いたから「瀬名氏が寝返った」としているだけだ。同時代史料において、瀬名尾張守元世は氏真に随伴して掛川で籠城している(2月26日付・戦国遺文今川氏2287「小笠原元詮・瀬名元世連署状」大沢文書)。地名瀬名谷からの連想よりも、こちらを優先すべきだろう。

では葛山氏はどうだったのかを考えてみる。上記文書には下記の類似文書が存在する。

武田晴信が安東織部佑に駿府周辺の知行を与える


一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文。今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十ニ己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿
戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)

この文面で、次の2文が酷似している。

1月11日:「今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候」 2月24日:「今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候」

文面酷似自体はよくあることなので気にはならないが、問題は「葛山備中守殿」である。朝比奈右兵衛大夫にはついていない。葛山氏元が通常の国衆より格上に見られたということかとも思ったが、その割に、「殿」の後の語に敬語がない。「葛山備中守殿被御忠節」だったら違和感はないのだが。

そこで改めて疑惑の目を向けてみる。安東宛のものは1月11日で、乱入から大体1か月くらいの発給となる。とすればこの文書は駿河に乱入する際に、朝比奈右兵衛大夫が武田方として忠節に及んだ状況を説明したものだろう。端的に書かれ過ぎていて断定はしづらいが、描写できなくはない。

安東織部佑が瀬名谷に「用心のため」退いたのは、武田方主力が駿府を目指し、瀬名谷南方を横切った後なのだろう。瀬名谷にいた朝比奈から寝返りが申し出され、安東らが引き返した。これは本当に寝返ったかの確認で、安東は前線から離脱したものの瀬名谷の組み込みを完了した。そう考えると、駿府攻撃に同行こそできなかったが功績は大きい。

朝比奈氏に関連した寺院は現在でも沓谷周辺にあり、そのすぐ北方である瀬名谷に朝比奈右兵衛大夫が居を構えていた可能性は充分ある。

では荒河治部少輔も、安東と同じ行動をとったのかというと、これには強い違和感がある。先に書いた敬語のちぐはぐさもあるし、駿東の葛山氏元が武田に忠節(=寝返り)をし、荒河がそれに同心したからといって、なぜ荒河は瀬名谷まで移動して退かなければならないのだろうか。

朝比奈右兵衛大夫・安東の行動と絡めてみようとしてもうまくいかない。「令同心」とあるからには荒河治部少輔は今川方であったと思われるけれど、その名は戦国遺文今川氏編に出てこず、正体は不明。

単純に考えるなら、安東宛文書を見て荒河宛文書が作られたとした方が自然で判り易い。作成目的は「葛山氏は武田方に寝返った」ことを証明するためだろう。

2017/04/20(木)北条氏政引き籠り事件はあったのか?

上洛を嫌って引き籠もったという説を持っている北条氏政だが、事実はどうだったのかを史料から検討

 「氏政が上洛を渋った」という論拠になったかも知れないのが『氏政引き籠もり事件』の存在。これは北条氏規書状写(11月晦日付け・酒井忠次宛・戦北3548)に書かれている。戦北ではこの状況を開戦直前の天正17年に比定、その前後にある「氏政上洛遅延」と絡めて解釈している。ここから「上洛するのが嫌で開戦した氏政」みたいな評価にも繋がっている可能性があるなと。

 ただこの文書は、下山年表や黒田基樹氏『小田原合戦と北条氏』で天正16年比定としていて、私もこちらの比定が正しいと考えている(11月に入ってすぐに名胡桃事件が発生していてタイミングがおかしい点、引き籠もりの契機となった氏規上洛は天正16年8月で、それが同年11月まで継続したと考えた方が自然な点から)。

 問題の箇所は、氏規が忠次に書いたと思われる書面「御隠居様又御隠居」に対応して、その理由を説明した部分になる。

問題箇所原文

去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候

下山氏

北条氏政は氏規の上洛に反対して屋敷に引き籠もり無言の抵抗をしている

黒田氏

氏規の上洛以後、それに反発して政務の場に出なくなって、一切政務に口出ししないという状態

高村

前に私が上洛した時分から強引にお引き籠もりになり、少しのことであっても、再び変更を言い立ててはならないと仰せになっていました。揺るぎないご様子だと思っています。

 下山氏・黒田氏ともに、フィルタを通して解釈してしまっているように見える。氏政の上洛が遅延したことは事実であり、それと結び付けて「氏規の上洛に反対する氏政」という思い込みから解釈しているのではないか。

 また、恐らく「重而者綺有間敷」と「無是非御模様」の解釈も、それぞれの両義性を無視してしまい、一面的に解釈しているのではないか。

 「綺=いろい」の意味は実例を見ても「異議申し立て・再審議要求」で問題ないと考えられる。下山・黒田各氏の解釈だと「(上洛してほしくない氏政の気持ちには)少しも再度の変更はない」といった感情面に行き過ぎた、括弧書きの多い内容になってしまう上、「綺」をこのような用途には使わないという点に難がある。

 「聊之儀ニも=ほんの少しのことでも」「重而者=かさねて=二度と」「綺有間敷=異議申し立てしてはならない」と言って氏政は引き籠もったのであって、そのまま解釈すればよいと思う。

 ということで、異議申し立てを禁止するからには何かを決定したのだろう。そして、その決定の再審を封印するために隠居の上の隠居を敢行したと言える。

 一方の「無是非=ぜひもない」は実例を見るとA~Dの4パターンが存在する。私が収集した文書データで検索をかけると、この文書を除いて48例が見つかった。

  • A)やむを得ない 19例 不本意な状況で
  • B)明白・明らか 16例 証明する状況で
  • C)手の打ちようがない 7例 状況不明で
  • D)弔辞 6例 「不本意」のバリエーション

 基調となる意味は「論ずるまでもない」でよいのだが、語の範囲が広い。氏政の行動を「無言の抵抗」とまで言う下山氏解釈はA、それよりは中立的な黒田氏解釈はCに該当すると思われる。私は、再審を禁じた氏政の行動を受けての文なのでBではないかと考えている。

 では、氏政が固守しようとした「決定」とは何なのか。

 北条氏規の上洛は天正16年8月のこと。この前の5月21日付けの家康起請文で「進退の保証はするから兄弟衆を上洛させよ。従わないなら家康娘を返してほしい」と言われている時期で、7月23日になっても「濃州上洛依遅延」で家康から催促されている。この混乱を経た氏規上洛で「後北条は羽柴に出仕する」という関係が固められた。氏政籠居はこの従属関係を固定させるためのもので、何者かが「従属か決戦か」の判断を覆し、再論にまで引き戻そうとしていたのだと考えられる。

 この、通説と異なる氏政像は他の文書と矛盾するだろうかと、色々と見ているがこれまでのところ矛盾は見つからず、かえって補強する材料が出てきている。

 たとえば、沼田接収での差配も氏政が氏邦に指示を出しているし、その書状の中でも自身の上洛を「我ゝ一騎上ニ而済候、多人衆不入候」と、少人数での実施として現実的に想定している(小田原市史資料編小田原北条1952・北条氏政書状)。

 では、何故氏政が主戦・独立派として通説に上がってくるのか。

 天正15年と17年の12月、戦闘が近づくと氏政は招集や普請に関する書状を出し始める。これをもって、氏政が独立派であり上洛を忌避したというストーリーが組み立てられたのではないだろうか。

 ところが、史料から見られる像としてはむしろ氏規と連携した従属派に近いと思う。独立派として私が現段階で想定しているのは、伊達家との同盟を過信した氏直・氏照だが、こちらはまだまだ実証にまでは至らない。

 実はこの文書、とても重要なことが書かれているのは確かなのだけど、読めば読むほど解釈が判らなくなる魔魅のような存在で、私の力量では仮説を立てるのも覚束ない難物。このほかにもいくつもの疑問点があるが、上記のように、とりあえず判るところだけを書きぬいてみた。

原文

内ゝ今日者可申上由、奉存候処、一昨廿七日之御書、只今未刻奉拝見候、一、軈而御帰可被成由、被仰下候、此度者懸御目不申候事、折角仕候、二月者御参府ニ可有御座間、其時分懸御目申候て可申上候、一、御隠居様又御隠居之由、被仰下候、去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候、一、一両日以前、妙音院・一鴎参着、口上被聞召届候哉、拙者所へも冨田・津田状を越申由、一昨廿七日之御書、参候シ、自元口上者、是非不承届候、将亦一昨日朝弥・家為御使参候、此口上を家へも自関白殿被仰越候間、可然御返事尤由、比一理にて参由申候シ、朝弥、自妙音院申候とて物語申候分者、此度之儀者、沼田之事ニ参候、御当方御ために可然御模様之由申候シ、定而御談合可有御座候、珍儀御座候者、可被仰下候、一、足利之儀、如何様ニも可被為引付儀、御肝要与奉存候、定而自方ゝ扱之儀、可有御座候、御味方ニさせらるゝ程之儀ニ御座候ハゝ、殿様御手前相違申候ハぬやうニ、兼而被御申上、御尤ニ御座候歟、但何事も入不申御世上ニ御座候、我等式者、遠州之事ニも何ニも取合不申候、年罷寄候間、うまき物を被下度計ニ御座候、返ゝ此度懸御目不申候事、何共ケ共迷惑不及是非奉存候、猶自是可申上旨御披露、恐惶謹言、追而、一種被下候、拝領過分奉存候、併はや殊外之まつこに罷成候、又一種進上仕候、御披露、
十一月晦日/美濃守氏規(花押)/酒井殿
戦国遺文後北条氏編3548「北条氏規書状写」(武州文書十八)

2017/04/20(木)徳川家康の前室について

いわゆる『築山殿』について、歴史学者磯田道史氏の新聞コラムで史料の誤読があり、伝承の推測ができたので書いてみた。

2015/3/25『読売新聞』「磯田道史の古今おちこち」

「築山殿は新婚時代には瀬名の御前とか「瀬名の御新造」(『言継卿記』)とよばれ、」

とあるが、これは誤りと言っていい。静岡県史資料編を読んでそのカラクリが判ったので記す。

徳川家康前室(俗に言う『築山殿』)の比定について。以下は全て『言継卿記』により、文書番号は静岡県史資料編7のもの。

弘治2年11月23日に

五郎殿女中江ヒイナハリコ以下一包、数十五、金竜丹五貝、送之

との記述がまずある(2429)。これは氏真室の蔵春院殿を指すだろう。この後、11月28日に

瀬名女中へ[号新造、太守之姉、中御門女中妹也]麝香丸、五貝、自老母取次遣之

とある(2423)。今川義元の長姉が中御門信綱室であり、次姉が瀬名女中(新造)という記述だ。言継は直接渡さず母を介している。ヒイナハリコ=雛人形(?)は別記述で中御門の姫御寮にも送っているから、五郎殿女中がまだ若く、瀬名女中は麝香を使う成人女性だったと推測できる。

翌弘治3年1月15日に駿府で火事があって大騒ぎとなる。山科言継は記す。

葛山近所ヨリ火事、片時ニ百余間焼失云々、東漸寺之寮社悉焼云々

そして彼は、大方(寿桂尼)と御黒木(中御門信綱)へは直接見舞いに行き、関口刑部少輔・瀬名御新造・斎藤佐渡守・同弾正へは使者として大沢左衛門大夫を送っている(2491)。

「瀬名御新造」は前出の「瀬名女中」と同一人物と見てよい。さらにこの後の2月2日に「次瀬名女中[大方女、中御門之妹]」とあるから、1月15日の「瀬名御新造」どう考えても、義元次姉である。

では磯田氏は何故勘違いをしているのか。それは静岡県史の当該ページ構成によると考えられる。

同書では1月15日の火事直前の2490号で「松平元康(徳川家康)、駿河国関口氏広の娘と結婚するという」という『家忠日記増補追加』の記述を入れている(注記として『松平記』には弘治2年1月、他に弘治3年5月15日という記述があることも紹介、この真偽は不明)。想像でしかないが、磯田氏は2490号の記述を(後世編著史料であるにも関わらず)絶対視して、更に言継卿記の前後を確認することなく「関口刑部少輔・瀬名御新造」の記述だけに囚われてしまったのだろう。

そもそも、山科言継滞在中の駿府で義元姪の婚儀があったら記述がない筈がない訳で、そこからしておかしい(伊豆若子=氏規の祝言は記載されている)。

さらに穿った考え方をすると、磯田氏と同じ勘違いを、近世御用学者はしたのではないか。そもそも、いくら同門とはいえ、瀬名と関口を混同することは今川家の視点からするとあり得ない。言継卿記でもきちんと使い分けており、「瀬名殿」と呼ばれる存在と「関口刑部少輔」では貫目が違う。

とすれば、家康前室には出自が全く残っておらず、近世の編纂者が必死にこじつけたのではと思えてくる。戦今1455の松平元康定書に「一、万事各令分別事、元康縦雖相紛、達而一烈而可申、其上不承引者、関刑・朝丹へ其理可申事」とあるので、そこから関口刑部少輔を舅としたが実名が判らず、親永・氏広と名づけたような感触がある。そして、その関口刑部少輔が出てくる言継卿記の1月15日項を読んで「関口刑部少輔・瀬名御新造」を父娘にし、同日を婚姻日としたのではないか。だから「関口の娘で瀬名を名乗る」奇妙な存在が生まれたのかと。

「とにかく家康前室の出自を確認したい」と熱望して史料を見れば、磯田氏のようにここに焦点が合ってくるように見える。史料は幅広い視点で注意深く見ることが大事だと、改めて肝に銘じなければならない。

参考:松平氏としては、大給松平の親乗が「和泉守」として登場する。また、引馬の飯尾善四郎が岡崎城番となって赴いている。

1557(弘治3)年 1月8日「松平和泉守来」 1月9日「松平菱食一送之」 1月12日「松平和泉守来、一盃勧了」<1月13日氏真歌会始。出席者に松平の名はなし> 1月14日 「早旦自住持白粥に被呼之間罷向、松平和泉守、同与力両人、隼人、寺僧両三人等相伴也」 3月9日 「着引馬、宿之事宗右衛門申付、当所之飯尾善四郎、三州岡崎之番也、留守云々」

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