2019/03/29(金)野口豊前の武功覚書

戦功覚書の概要

この文書は『岩槻市史古代・中世史料編2』に所収されている「野口豊前戦功覚書写」(文書番号19号・常総遺文所収)。原文をテキスト化して、岩槻市史の注釈を元にして仮名を漢字に比定してみた。

原文

覚、野口豊前(黒印影)

  1. 一、越後てるとら様小山之地へ御取つめ被成時、せんけんつかの北にて夜かけの時、ちん所幕きハにて鑓合申候、つれ合申候物あつきわかさ・東郷ぬいのてうそんし申事
  2. 一、(異筆「永禄」)太田ミのゝ守榎本之城をもち申候時、戸はりのほりおとりこし、中つゝミへ上り、それより木戸へ懸候時■■、鑓合候て、やりておひ申候、つれ合候衆石山越後・あつきわかさそんし申候事
  3. 一、同頃自榎本北戸はりにて、へいに付申候て、はしり廻申候、つれ合候衆亀田ちから・あつきわかさそんし申候事
  4. 一、佐竹殿久下田・ひとつ木のたいと申所へ動御座候時、そないのさきへ物すきの物出合申所ニ、味方おくれニ成申候所ニ、ふミこたへやり合申候、走廻つれ合候衆長田助三郎・厚木わかさそんし申候、その外あまた死申候事
  5. 一、(異筆「天正十一」)九月八日ニうしゆくより谷田部之地へ働候て、うしゆくの衆のけ申候所ニ、我等只壱き跡そないへ乗かけ申候て、岡見五郎右衛門ニ言をかけ申候ニ、てつほう五六丁にて、われらおねらい打申候へ共、はつれ申候、そのてつほうの音おきゝ申候て、跡ニひかへ候味方共皆々乗かけ申候所ニ、てきくつれ三百八十くひおとり申候、此キ我等一人の見当にてかち申候、其日我等もくび三つ取申候、鑓手一ヶ所おひ申候、つれ合候衆飯村新左衛門・ひろせふせんそんし申候事
  6. 一、三川こほりへ結城より動候時、てき出合候、走廻くび一つ取申候、つれ合候衆貫助兵へ・秋本与三兵へそんし申候事
  7. 一、申之年、結城清水はたと申所ニ而、浜野新四郎と申物、切手おひ申候而、くひをとられ申候所お、我等すけ申候てたすけのけさせ申候、つれ合候衆あら井主水・国崎しやうけんそんし申候事
  8. 一、酉之年、同清水はたにて我等鑓はしめ仕候時、つれ合候衆川崎式部・かと井や三郎・あつきわかさそんし申候事
  9. 一、幸島大田と申在所を責申候時、てき出合申候お、やり仕てきおひ入申候、つれ合候衆あつきわかさ・くろすふせん・川崎式部・磯くらそんし申候事
  10. 一、結城かのくほと申所ニ而、小田原衆と出合申候時、我等てつほう壱丁ニ而、つゝミおもちかち申候、つれ合衆たちミの・東郷あわち・卯木しなのそんし申候事
  11. 一、結城高はし一本杉と申所ニ而、小田原衆とやり御座候ニ、秋本与三兵へやりさきお乗りわけ申候時、我等やりを合申候、つれ合候衆秋本与三兵へ・石山越後・あつきわかさそんし申候事
  12. 一、(異筆「天正五ノ七月十日」)下妻わかと申所ニ而、山川衆とつれ合鑓御座候時、古沢越前おや子のくひ山川へ取り申候、其時我等走廻申候、つれ合候衆おひ沼けんは・うすき八右衛門・大黒与右衛門そんし申候事
  13. 一、小山元のつこ橋と申所ニ而、一日の内やり二度合申候、つれ合候衆ひかの蔵人・かすや彦四郎・高徳主計・たかや右京そんし申候事
  14. 一、小山あまかいと申所之東ニ而、小山衆と鑓御座候ニ、我等馬にて乗わけ申候、つれ合候衆飯塚六兵へ・高徳主計存申候事
  15. 一、小山きりとをしと申所ニ而、ひさきと申物人衆引連打出候を、我等馬出出合乗くつし申候、つれ合候衆山内大炒亮・塚原ぬいの助そんし申候事
  16. 一、同夏と正月廿九日ニあひの田申所ニ而、やり合御座候ニ、つれ合候衆卯木しなの・長田四郎兵へ存候事
  17. 一、小山四日市と申所ニ而我等初馬ニ入、てきおおしミたし候て、てきに荒巻弥左衛門と申物のさし物・てつほうなとお取申候、その時そないお罷出候衆、晴朝前をそむき下妻へ牢人仕候、つれ合候衆秋本与三兵へ・高徳主計存候事
  18. 一、結城西面てこじきか前と申所ニ而走廻申候、つれ合候衆高徳主計・あつきわかさ・飯塚六兵へ存候事
  19. 一、小山泉崎と申所ニ而、田中源次郎と申物の手おひ申候時ニ、我等走廻申候、高徳主計・ゑひ原右京・やな二郎左衛門・石上平右衛門・加の民部つれ合ついてかへし申候て、源二郎たすけ申候事
  20. 一、榎本ほんさわの町にして我等走廻候時、河崎尾張と申物鑓手おおい申候お、我等すけのけさせ申候所ニ、てきおしつめ我等やりにて三ヶ所つかれ申候、てきにて見申候衆大戸大学そんし候事
  21. 一、結城より小山ひさきくるわと申所ヲせめ申候時、我等走廻鑓手矢手ニ三ヶ所おい申候、つれ合候衆長田四郎兵へそんし候事
  22. 一、壬生領藤井と申所へ乗こミ御座候時、くひ一つ取申候、つれ合候衆人見伝内そんし候事
  23. 一、結城よりさかいちんの時、おいこ申所へのりこミいたし候、一日ニくひ弐つ取申候、つれ合候衆青沼治部・たてのふんこと申物のそんし申候事
  24. 一、結城より下妻へてたてヲ被成候時、下妻の衆かけ合、味方おくれ申候所ヲ、跡ヲ仕しんらう申候、つれ合候衆卯木しなの・あつきわかさそんし申候事
  25. 一、小山・壬生一味之時、ミふ衆小山へわうきやうの物とめ可申ために、結城よりいつてい村と申所へ、手たて被成候所ニ、壬生衆出合やり仕候、つれ合候衆高徳主計そん候事
  26. 一、古河領さし間茂そりと申所へ、結城より乗こミ御座候ニ、てき出合やり御座候而、味方おくれ申候所ニ、ひらか彦十郎と申仁打死被申候時、我等あと仕候、つれ合候衆卯木しなの・秋本九郎兵へ・東郷淡路そんし候事
  27. 一、(異筆「天正十七」)下妻谷田部の城ニい申候内、しらはさまと申所ニ而、うしゆく衆と出合、やり御座候ニ、味方おくれの所にて、我等走廻てつほう手おい申候、つれ合候衆たかやさこん内衆ひろせふせんそんし候事
  28. 一、(異筆「天正十四」)九月廿四日あたかにて、町さし入のはしお、内よりはしいたお引おとし申所を、我等参■て、はしいたおとりあけさせ、やり下ニ而はしいた二まいかけ申候、つれ合候衆木内源兵へ、又ハたかや大夫使として、ミのへ日向参候て存候事
  29. 一、(異筆「天正八」)下妻谷田部の城を小田原衆取つめ申候時分、岡見五郎右衛門さい取にて、おしよせ申候ニ、味方おくれ候て、はしおふミおとし、皆々ほりそこへおち入申候所ニ、我等子に治部・ゆきへ同与力ニ相沢・北条なとゝ申物、六七人たちこらへ、跡おいたし候、皆々たすけのけさせ申候、つれ合候衆江戸甚内・飯村新左衛門そんし候事
  30. 一、うしゆく東輪寺と申候所ニて、景賀大くら鑓ニてつきおとされ、打たれ申候所ニ、我等わきより馬ヲ入、てきのやりヲけおとし申候て、大くらたすけ申候、我等やりけおとし申物お、小貫ぬいの助と申物、打申候事
  31. 一、(異筆「天正十六」)極月廿八日、東輪寺の城戸はりそへつめ、我等木戸へ取つき申候所ニ、てきわきより罷出候間、そこを少のけ申候ニ、やり下ニ而、飯付ふんこ、馬より落候て、のけかね申候所ヲ、大木治部我等両人馬をかへし申候故、てきおおしとめふんこたすけ申候、同日おくきの堀のきわニ而、てきをそい参候ヲ、大木治部と我等初馬にかへし申候ゆへ、くひ七つ取り申候事
  32. 一、(異筆「天正十六」)谷田部坊地と申所へ、てきふねにて川ヲ取こし申候所ニ、ふねかすなにほとおも見い申物無之ニ付而、我等一キはう地の山へ罷こし申候所へ、てきおり申候ニ、のりくつし候て、おい入候、それヲ見申候て、わきてきやくつりと申所ニ、てきい候もくつれ申候、その時くひ七つ取申候き、此始ニ我等一キにて、おうちの山へおい入申候ニ付而、てきおくれ申候、つれ合候衆そめやふせん・飯付新左衛門、又てきにハ松島ミのそんし申候事
  33. 一、(異筆「天正十五」)あたかと申所ニ而、つゝミお切申候処ニ、あれか衆と出合、やり御座候ニ、味方おくれニ成申候て、たかやしなのと申物、とミた・横島・小松・窪谷・その以上七人うたれ申候時、我等跡お仕り候て、馬おかへしてきのくひ七つ取申候、内我等一つとり申候、たかやよろこひ被申候、我等方■れい状御座候
  34. 一、こか・こうのすと申所へ動之所、てき出合申候お、おしかへし申候所ニ、てき沼へとひこミのけ申候ヲ、我等も則ぬまおおよき候て、沼の内にてくひ一つ取申候、つれ合候衆いハ上ぬいの介そんし候事
  35. 一、佐竹より結城へ働之時、ふしのこしにて、やり仕候、てきにハ斎藤はりま・小窪刑部出合申候、味方つれ合候衆野口けんは・たかや将監厚木若狭存候
  36. 一、結城よりとちきへ動之時、内より出申候所ニ、川島主税・たかや采女我等同前ニ馬をかへし走廻申候、つれ合候太木信濃存候事
  37. 一、結城より鹿沼へ動候時、内より田宿と申所へおし入、内の戸はり迄おしつけ申候、その時走廻申候たかや采女手おおひちんやにてつれ申候、つれ合候衆あつきわかさ存申候事
  38. 一、くじらと申所ヲ、下妻よりせめ申候時、我等おや子白井縫殿之助と申物つれ合走廻申候事
    以上三拾八ヶ条也、
    慶長八年丑六月廿日/の■ふせん(黒印影)/宛所欠

比定・解釈

  1. 一、越後輝虎様小山之地へお取り詰めなされ時、『せんけんつか』の北にて夜懸けの時、陣所幕際にて鑓合を申し候、つれ合申候は、厚木若狭・東郷縫之丞が存し申し事
  2. 一、(異筆「永禄」)太田美濃守榎本之城を持ち申し候時、戸張の堀を取り越し、中堤へ上り、それより木戸へ懸かり候時にて、鑓合候て、鑓手負ひ申候、つれ合候衆、石山越後・厚木若狭が存し申し候事
  3. 一、同頃、榎本より北戸張にて、塀に付き申し候て、走り廻り申し候、つれ合候衆、亀田主税・厚木若狭存じ申し候事
  4. 一、佐竹殿が久下田・一ツ木の台と申す所へ働き御座候時、備えの先へ物数奇の者出合申所ニ、味方遅れになり申し候所に、踏みこたへ鑓合を申し候、走り廻りのつれ合候衆、長田助三郎・厚木若狭、存じ申し候、そのほか数多死に申し候事
  5. 一、(異筆「天正十一」)九月八日に牛久より谷田部の地へ働き候て、牛久の衆退け申し候所に、我等ただ一騎、後ろ備えへ乗り懸け申し候て、岡見五郎右衛門に言を懸け申し候に、鉄炮五~六丁にて、我等を狙い撃ち申し候へども、外れ申し候、その鉄炮の音を聞き申し候て、後に控え候味方共、皆々乗り懸け申候ところに、敵崩れ三百八十の首を取り申し候、この儀、我等一人の見当にて勝ち申し候、その日我等も首三つ取り申し候、鑓手を一ヶ所負い申し候、つれ合候衆、飯村新左衛門・広瀬豊前、存じ申し候事
  6. 一、寒川郡へ結城より動候時、敵出合い候、走り廻り首一つ取り申し候、つれ合候衆、貫助兵衛・秋本与三兵衛、存じ申候事
  7. 一、申の年、結城『清水はた』と申すところにて、浜野新四郎と申す者、手を切り負い申し候て、首を取られ申し候ところを、我等助け申し候て、助け退けさせ申し候、つれ合候衆、新井主水・国崎将監、存じ申し候事
  8. 一、酉之年、同『清水はた』にて我等鑓始め仕候時、つれ合候衆、川崎式部・門井弥三郎・厚木若狭、存じ申し候事
  9. 一、猿島郡大田と申す在所を攻め申し候時、敵と出合い申し候を、鑓を仕り敵追い入れ申し候、つれ合候衆、厚木若狭・黒須豊前・川崎式部・磯蔵、存じ申し候事
  10. 一、結城鹿窪と申す所にて、小田原衆と出合い申し候時、我等鉄炮一丁にて、堤を持ち勝ち申し候、つれ合衆、館美濃・東郷淡路・卯木信濃、存じ申し候事
  11. 一、結城高橋一本杉と申す所にて、小田原衆と鑓を御座候に、秋本与三兵衛、鑓先を乗り分け申し候時、我等鑓を合わせ申し候、つれ合候衆、秋本与三兵衛・石山越後・厚木若狭、存じ申し候事
  12. 一、(異筆「天正五ノ七月十日」)下妻和歌と申す所にて、山川衆とつれ合い、鑓を御座候時、古沢越前親子の首、山川へ取り申し候、その時我等走り廻り申し候、つれ合候衆、生沼玄蕃・薄木八右衛門・大黒与右衛門、存じ申し候事
  13. 一、小山『元のつこ橋』と申す所にて、一日のうち鑓二度合わせ申し候、つれ合候衆、日向野蔵人・粕谷彦四郎・高徳主計・多賀谷右京、存じ申し候事
  14. 一、小山雨谷と申す所の東にて、小山衆と鑓を御座候に、我等馬にて乗り分け申し候、つれ合候衆、飯塚六兵衛・高徳主計、存じ申し候事
  15. 一、小山切り通しと申す所にて、『ひさき』と申す者、人衆引き連れ打ち出し候を、我等馬出に出合い乗り崩し申し候、つれ合候衆、山内大炒亮・塚原縫殿助、存じ申し候事
  16. 一、同夏と正月廿九日に『あひの田』と申す所にて、鑓合せ御座候に、つれ合候衆、卯木信濃・長田四郎兵衛、存じ候事
  17. 一、小山四日市と申す所にて我等初馬に入れ、敵を押し乱し候て、敵の荒巻弥左衛門と申す者物の指物・鉄炮などを取り申し候、その時備えを罷り出て候衆、晴朝前を背き下妻へ牢人仕り候、つれ合候衆、秋本与三兵衛・高徳主計、存じ候事
  18. 一、結城『西面てこじきか前』と申す所にて走り廻り申し候、つれ合候衆、高徳主計・厚木若狭・飯塚六兵衛、存じ候事
  19. 一、小山泉崎と申す所にて、田中源次郎と申す者の手負い申し候時に、我等走り廻り申候、高徳主計・海老原右京・簗二郎左衛門・石上平右衛門・加野民部、つれ合いついて返し申し候て、源二郎を助け申し候事
  20. 一、榎本ほんさわの町、西手、我等走り廻り候時、河崎尾張と申す者、鑓手を負い申し候を、我等助け退けさせ申し候ところに、敵を押し詰め、我等鑓にて三ヶ所突かれ申し候、敵にて見申し候衆、大戸大学、存じ候事
  21. 一、結城より小山『ひさき』曲輪と申し所を攻め申し候時、我等走り廻り、鑓手・矢手に三ヶ所負い申し候、つれ合候衆、長田四郎兵衛、存じ候事
  22. 一、壬生領藤井と申す所へ乗り込み御座候時、首一つ取り申し候、つれ合候衆、人見伝内、存じ候事
  23. 一、結城より境陣の時、『おいこ』と申す所へ乗り込みいたし候、一日に首二つ取り申し候、つれ合候衆、青沼治部・舘野豊後と申者の存じ申し候事
  24. 一、結城より下妻へ行をなされ候時、下妻の衆懸け合い、味方遅れ申し候ところを、後を仕り、辛労申し候、つれ合候衆、卯木信濃・厚木若狭、存じ申し候事
  25. 一、小山・壬生一味の時、壬生衆、小山へ往行の物留を申すべきために、結城より『いつてい』村と申す所へ、行なされ候ところに、壬生衆に出合い鑓仕り候、つれ合候衆、高徳主計存じ候事
  26. 一、古河領猿島『茂そり』と申す所へ、結城より乗り込み御座候に、敵出合い鑓を御座候て、味方遅れ申し候所に、平賀彦十郎と申す仁、討ち死に申され候時、我等が後に仕り候、つれ合候衆、卯木信濃・秋本九郎兵衛・東郷淡路、存じ候事
  27. 一、(異筆「天正十七」)下妻谷田部の城に居申し候うち、『しらはさま』と申す所にて、牛久衆と出合い、鑓を御座候に、味方遅れの所にて、我等走り廻り鉄炮手を負い申し候、つれ合候衆、多賀谷左近内衆広瀬豊前、存じ候事
  28. 一、(異筆「天正十四」)九月廿四日『あたか』にて、町にさし入る橋を、内より橋板を引き落とし申しところを、我等参りて、橋板を取り上げさせ、鑓下にて橋板二枚かけ申し候、つれ合候衆、木内源兵衛、又多賀谷大夫、使として、美濃部日向参り候て存じ候事
  29. 一、(異筆「天正八」)下妻谷田部の城を小田原衆取り詰め申し候時分、岡見五郎右衛門が采を取って押し寄せ申し候に、味方遅れ候て、橋を踏み落とし、皆々堀底へ落ち入り申し候ところに、我等の子の治部・靱負、同与力の相沢・北条等々の者が、六~七人立ちこらえ、後を致し候、皆々を助け退けさせ申し候、つれ合候衆、江戸甚内・飯村新左衛門存じ候事
  30. 一、牛久東輪寺と申し候所にて、景賀大蔵が鑓で突き落とされ、討たれ申し候ところに、我等が脇より馬を入れ、敵の鑓を蹴落とし申し候ところに、大蔵が助け申し候、我等が鑓を蹴落とし申し者を、小貫縫殿助と申す者、討ち申し候事
  31. 一、(異筆「天正十六」)極月廿八日、東輪寺の城戸張へ添え詰め、我等木戸へ取つき申し候ところに、敵脇より罷り出で候間、そこを少し退け申し候に、鑓下にて、飯付豊後、馬より落ち候て、退きかね申し候ところを、青木治部・我等の両人が馬を返し申し候ゆえ、敵を押し留め豊後を助け申し候、同日小茎の堀の際にて、敵を襲い参り候を、青木治部と我等初馬に返し申し候ゆへ、首七つ取り申し候事
  32. 一、(異筆「天正十六」)谷田部坊地と申し所へ、敵船にて川を取り越し申し候ところに、船数何程をも見ることなきについて、我等一騎、坊地の山へ罷り越し申し候ところへ、敵がおり申し候に、乗り崩し候て、追い入れ候、それを見申し候て、脇手『きやくつり』と申すところに、敵居候も崩れ申し候、その時首七つ取り申し候き、この始に我等一騎にて、『おうち』の山へ追い入れ申し候について、敵遅れ申し候、つれ合候衆、染谷豊前・飯付新左衛門、又敵には松島美濃、存じ申し候事
  33. 一、(異筆「天正十五」)あたかと申す所にて、堤を切り申し候ところに、あれか衆と出合い、鑓を御座候に、味方遅れになり申し候て、多賀谷信濃と申す者、富田・横島・小松・窪谷・園、以上七人討たれ申し候時、我等は後を仕り候て、馬を返し敵の首七つ取り申し候、うち我等一つ取り申し候、多賀谷喜び申され候、我等方へ礼状御座候
  34. 一、古河・鴻巣と申す所へ働きのところ、敵と出合い申し候を、押し返し申し候ところに、敵は沼へと引き込み申し候を、我等もすなわち沼を泳ぎ候て、沼の内にて首一つ取り申し候、つれ合候衆、岩上縫殿介、存じ候事
  35. 一、佐竹より結城へ働きの時『ふしのこし』にて、鑓を仕り候、敵には斎藤播磨・小窪刑部出合い申し候、味方のつれ合候衆、野口玄蕃・多賀谷将監・厚木若狭、存じ候
  36. 一、結城より栃木へ働きの時、内より出で申し候ところに、川島主税・多賀谷采女、我等同前に馬を返し走り廻り申し候、つれ合候、大木信濃、存じ候事
  37. 一、結城より鹿沼へ働き候時、内より田宿と申す所へ押し入り、内の戸張まで押し付け申し候、その時走り廻り申し候多賀谷采女が手を負い、陣屋に連れ申候、つれ合候衆、厚木若狭、存じ申候事
  38. 一、久地羅と申す所を、下妻より攻め申し候時、我等親子、白井縫殿助と申す者つれ合走りり廻申し候事
    以上三拾八ヶ条也、

2019/03/07(木)史料集による出典表記の違い

伊勢宗瑞の2文書について、収録した史料集ごとに出典表記を調べてみた。

対象文書

A)巨海越中守宛の伊勢宗瑞書状(全史料集が永正3年に比定)

今度氏親御供申、参州罷越候処、種ゝ御懇切、上意共忝令存候、然而、氏親被得御本意候、至于我等式令満足候、此等之儀可申上候処、遮而御書、誠辱令存候、如斯趣、猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候、恐惶頓首謹言、
閏十一月七日/宗瑞(花押)/巨海越中守殿

※愛10のみが「写し」とし、検討を要すると指摘。

B)伊達蔵人佑宛の伊勢宗瑞書状(全史料集が永正5年に比定)

今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候処、預御合力候、祝着ニ候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可有伝聞候、恐々謹言、
十一月十一日/宗瑞(花押)/謹上伊達蔵人佑殿

※神3下・戦北は「祝着候」が「祝着ニ候」と翻刻。

史料の出典表記

神奈川県史資料編3下(1979年)

6468「宗瑞[伊勢長氏]書状」(徳川義知氏所蔵文書)

6471「宗瑞[伊勢長氏]書状」(美作伊達文書)

戦国遺文後北条氏編(1989年)

17「伊勢宗瑞書状」(徳川義知所蔵文書)

19「伊勢宗瑞書状」(美作伊達文書)

小田原市史資料編小田原北条(1991年)

16「伊勢宗瑞書状」(徳川義知氏所蔵文書)

18「伊勢宗瑞書状(切紙)」(京都府京都市・京都大学文学部所蔵駿河伊達文書)

愛知県史資料編10(2009年)

701「伊勢宗瑞書状写」(徳川美術館所蔵文書)

722「伊勢宗瑞書状」(駿河伊達家文書)

戦国遺文今川氏編(2010年)

187「伊勢盛時書状」(徳川黎明会所蔵文書)

220「伊勢盛時書状」(京都大学総合博物館所蔵駿河伊達文書)

気づいた点

A文書

  1. 1991~2009年の間にA文書が個人蔵から法人蔵になった。
  2. A文書を愛知県史が「写し・要検討」と変更した後、戦今では戻している。
  3. A文書の文言は異例であり、写しであるなら愛知県史の要検討判断は妥当。

B文書

  1. 神3下・戦北で「美作伊達」の文書としている。
  2. その後の小市史以降では「駿河伊達」の文書とされる。